今日は小田原フラワーガーデンの梅を見に行った。
早咲きの梅もまだ残り、遅咲きの梅の開き始める、時期としては申し分なく、それだけに平日とはいえ大勢の人が来ていた。
赤白ピンク、一重八重はもとより、源平咲きの梅、花びらの細い梅、五芒星のような梅などいろいろな花が咲いていた。蝋梅もまだ咲いていた。
河津桜も三分咲きで、遠くの松田の河津桜もピンク色になってきた。
遠くには丹沢の山も見える。二ノ塔三ノ塔のハート形ももちろんのこと。
あれあげようバレンタインの三ノ塔
それでは「雑談集」の続き。
「貞享乙丑年九月十四日の暁の夢に鶴岡へまうで侍ると覚えて、その身ひら包首にかけ、菅笠手に持ちて段かづらの下道ならびの松を見あげ行くまま、沖のかたしきりに時雨来てはやく拝殿に走りつきたれば、社人立ちさわぎて蔀さしおろすと、その蔀はむさう屏風といふものを畳みたるやうに有りけるか、はらはらとさしおろすその陰によりて、雨しのぎたるさまを社人見とがめて、とく出でよとせめながら、時にとりてのけしき一句つかふまつらばゆるし侍らめとつぶやく。」(雑談集)
貞享乙丑は貞享二年(一六八五年)で、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅から帰ったあとになる。九月十四日といえば十三夜の翌日で、十四日から十五日朝にかけての夢ということになる。
夢に鎌倉の鶴岡八幡宮に行き、菅笠を手に持って若宮大路の段葛(だんかずら)を行くのだが、「下道ならびの松を見あげて」というのは、一段高い中央の段葛の道ではなく、その脇の道から、当時は桜ではなく松並木だった段葛を見あげる、ということか。
後ろの海の方から時雨の雲が迫っていて、急いで拝殿に辿り着くと、神社の人達が大急ぎで蔀(しとみ)を閉めていて、その蔀は無双屏風を畳んだようだったという。どういうものなのかわからないが、蔀戸は通常上に跳ね上げて開けるもので、一枚の板のようになっているが、それが左右に折り畳み式になっているということか。
多分その跳ね上がった状態の蔀戸の下で雨宿りをしたのだろう。閉めるからそこをどけということだろう。一句詠むから見逃して、ここだけは閉めずにいてくれ、ということで一句詠む。
「あはれ爰にてこそとゆめそぞろに面白く海みやらるる松の葉の末に由井の浜風吹きわたり波と空とのわかるるやうにおもひまして、
松原のすきまを見する時雨かな
と申し出でたれば、社人しはめる顔にて吟じ返し、当意よろしく神もさこそは、とうなづきぬともおぼえて、夢さめたり。」(雑談集)
鶴岡八幡宮の拝殿は長い石段を登った所にあるので、登れば海が見える。時雨に沈む海の景色は、かつての日本人の愛した景色でもあった。大正の頃の北原白秋作詞の唱歌「城ヶ島の雨」のような「利休鼠の雨」であろう。
上には近くの松の木の枝があり、見降ろせば海辺の松林の向こうに海と空が見える。上下の松に挟まれた雨にけぶって曖昧模糊となった水平線は、水墨画の瀟湘八景なども彷彿させる。最近の日本人の忘れてしまった美学であろう。
この景色を其角は夢の中で、
松原のすきまを見する時雨かな
と即興で詠む。
やまと歌の言の葉の道は鬼神を感応させ、猛き武士(もののふ)も慰めるもので、その効果あったのか、急な雨でピリピリしてた社人の心も和ませ、神もお許しになると雨宿りが認められた所で目が覚める。
「明れば十五日の朝深川の八幡宮に詣で侍る。次て芭蕉庵をとひて、ありし夢に申し侍りと語りければ、現にはかかる口きよき姿は及ぶまじきをと申されたり。魂の遊ぶ所まことに虚霊不昧なる事を知る。」(雑談集)
目が覚めれば十五日の朝で、深川の富岡八幡宮に詣でる。一句ものにしたことへの感謝のお礼参りであろう。
この頃其角は日本橋のてりふり町に住んでいたと思われる。(『元禄の奇才 宝井其角』田中善信、二〇〇〇、新典社)わざわざ深川まで行ったのだから、深川の第二次芭蕉庵にも寄っていこうと思ったのだろう。
そこで芭蕉に夢の話をし、その発句を披露したのだろう。そしたら芭蕉は、起きてたらいろいろ句を上手く作ろうだとか、却って雑念が入って、こんな素直な奇麗な句は浮かばなかっただろう、と言う。
「虚霊不昧」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「虚霊不昧」の意味・読み・例文・類語」に、
「〘名〙 (「大学章句」の「明徳者、人之所レ得二乎天一、而虚霊不昧、以具二衆理一、而応二万事一者也」から) 天から享(う)ける明徳の精神は清浄霊妙で、邪欲に昧(くら)まされることなく、それ自体は空であるが万物に対し鏡のように照応するの意。天性の徳のすぐれて明らかなることをいう。
※惺窩文集(1627頃)二・小蓬壺記「虚霊不レ昧、衆理万事顧二諟明命一、通天之犀也、夜明之犀也」
とある。句を案じる時の巧者の弊の戒めともいえよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿