2024年2月15日木曜日

  バレンタインは日本ではチョコレートの日として定着しているが、最初は女が男に告白する時にあげるもので、ただ女性からの愛の告白は稀で、実際に貰えない人が多い所から、実態は伴わなくても形だけチョコレートをあげるようになっていった。
 チョコレートが欲しい人は事前に知り合いの女に片っ端から根回しして、結構無理にチョコレートを持ってくるようにさせてたし、その一方で貰えない大半の男に対して一様にチョコレートを配って歩き、これが義理チョコと呼ばれるようになった。
 義理チョコは平成の頃まで多くの職場で行われていたし、バブルの頃はそれなりに華やかだったが、平成末になると急速に廃れ、友チョコや自分チョコが流行るようになった。
 友チョコと言っても男がチョコレートを交換する習慣がないので、女同士のということになるが、そこに最近は男の妄想が入って、百合イラストにチョコレートを組み込んだものがXのTLに多く流れている。これは百合チョコと言っていいものか。
 そういうわけでバレンタインはそのうち百合の日になるのではないか。
 戦後、欧米を中心に性の解放ということが言われて、自由恋愛が西洋の進んだ自由な男女の在り方だというのが世界的に喧伝されたが、八十年代くらいを境にして、西洋社会は性の自由に関してもジェンダーの自由に関しても大きく後退してゆくことになった。
 まあ、多分自由恋愛は男と女の騙し騙されの難しい駆け引きとなって、結局愛憎入り混じったどろどろとした地獄に落ちて行くことが多かったのだろう。七十年代くらいのポップスの歌詞は、そういうどろどろした世界を描いて、死にたくなるような苦しみを唄った暗い歌が多かった。
 八十年代には、男が女にモーションかけたり口説いたりする行為がセクシャルハラスメントとみなされるようになり、またこの頃にアメリカでは未成年のヌードが禁止された。
 そして、強姦が暴力によってではなく不同意によって定義し直され、性的同意の有無の証明が事実上困難であり、また強姦は夫婦間であっても認められるということで、現実の性行為に関しては誰しも委縮し、草食にならざるをえなくなった。
 同性愛に関しても、ゲイの開放は八十年代までで、特にアメリカではトランスジェンダーの観念が拡大解釈され、かつてのお転婆で男勝りの少女はトランスジェンダー認定され、いわば女性というジェンダーを剝奪されて、ホルモン投与や胸部の切除手術などを受けるようになっていった。それでいて男性になれるわけではない。あくまでトランスジェンダーという不安定な地位に留まっている。
 女性的な男性もまたトランスジェンダーに分類されるが、こちらの方も拡大解釈され、男性器を持ったままのトランスジェンダーが、本来男性から保護されるべき場所への出入りを要求したり、スポーツに女性として参加することを要求したり、ごく一部とはいえレズだと称して強姦事件をも起こしている。
 女性としてのジェンダーを奪われて孤立し、自殺に追い込まれることの多い女性トランスジェンダーに対して、傍若無人にふるま男性トランスジェンダーは、結局西洋社会が男尊女卑から脱却できなかった証拠ではないかと思う。結局ペニスを持つ者が優位に立っている。
 幸いこの流れの流入を今の所日本は喰い止めている。トランスジェンダーは自認ではなく、医者の証明を必要として、十分な管理下にある。
 多くの人はアメリカ式のやり方を正しいと思ってないし、それが日本に流入することは大きな危機感を抱いている。この問題で日本の岩盤保守層に亀裂が入り、岸田内閣の支持率を大きく低下させる原因になった。
 生まれながらの身体的性別と心のジェンダーは別物だし、一致する必要もない。心のジェンダーは多様かつ連続的なもので、どこからがトランスジェンダーだなんて境界線を弾くことはできない。それは虹の七色が連続したグラデーションで、切れ目がないのと一緒だ。
 そもそも日本では虹は七色だが、国によって六色だったり五色だったりする。色の区切りはあくまで任意のもので絶対的なものではない。
 それと同様LGBTのLとGは生まれながらの染色体上の性別で区別されているし、BはLとシス、Gとシスとに跨るもので、境界線はない。Tは日本では医学的診断を必要とするもので、染色体上の性別とジェンダーが著しく逆転するケースに限定されている。今のアメリカが典型的な男のシスと典型的な女のシス以外をトランスジェンダーで全部くくった上で、ありのままのジェンダーを受け入れず、無理やり肉体を男か女かどちらかに魔改造しようとしている。
 日本ではシスであってもある程度のトランスジェンダー的傾向を内包するものとして、幅広く固有の性癖が承認されている。バイに関しても肉体を改造する必要はない。性転換手術は極めて限られた人のものとされている。
 今の日本人は西洋をもはや手本とは考えてないし、西洋崇拝の時代をとっくに脱却している。
 性的には確かに七十年代のようなどろどろとした世界はなく、結婚は恋愛結婚から婚活結婚へと変わりつつある。これはかつての見合い結婚を家から切り離した核家族社会に適応させるものだ。そういう意味でバレンタインも恋愛や結婚から切り離され、主に女性を中心としてチョコレート祭へと姿を変え、男性は百合女性の夢を見る日になりつつある。
 セックスやジェンダーの困難な問題の解決には、様々な方法が試され、試行錯誤してゆくことを必要としている。そのためには各国、各民族が多種多様な考えでそれぞれ解決を模索してゆく「並列処理」の方が間違いなく効率が良い。

 それでは「雑談集」の続き。

 「荷兮集あら野に辞世とあり。

 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉   守武

 彼集のあやまりか。神職の辞世として何ぞ此境をにらむべきや。只嗚呼と歎美してうちおどろきたる落花か。」(雑談集)

 元禄二年刊荷兮編『阿羅野』に確かにこの句があるが、言われてみればその通りだ。これに関しては江戸後期の『俳家奇人談』(竹内玄玄一著、文化十三年刊)にも、

 「世に、
 散る花を南無阿弥陀仏と夕べ哉(江戸亀屋源太郎所持守武自筆の短尺に、菩提山にてといふ前書して、この句あり)
の句を辞世なりと為すものは、非なること晋子すでに弁ぜり、天文十八年八月卆す。辞世の歌、

 越しかたもまた行末も神路山
     峰の松風峰の松風

 発句、

 朝顔に今日は見ゆらんわが世かな」(『俳家奇人談・続俳家奇人談』岩波文庫)

とある。
 守武がこの句を詠んだのは間違いではないが、辞世の句ではなく、かつて朝熊山の梺にあった菩提山神宮寺に詣でた時の句だったのであろう。たまたま桜の散る季節だったということであれば、この句もその時の興で詠んだ句ということで納得がいく。
 芭蕉も『笈の小文』の旅でここを訪れ、

 此山のかなしさ告げよ野老堀    芭蕉

の句を詠んでいる。コトバンクの「日本歴史地名大系 「菩提山神宮寺跡」の解説」には、

 「[現在地名]伊勢市中村町 菩提山
五十鈴川が朝熊あさま山の山塊にぶつかり、北に方向を変える個所、丸山まるやま古墳群のすぐ下の標高八―一六メートルの個所である。尾根筋を径一〇〇メートル四方に加工したと思われる緩やかな傾斜地で、現在各所に土壇・土塁・石垣がみられる。「五鈴遺響」に記される寺伝によれば、天平一六年(七四四)聖武天皇の勅願により僧行基が創建し、その後、文治元年(一一八五)良仁が再建、中興開山と称された。弘長二年(一二六二)火災にあい、堂宇をことごとく焼失、宝暦一〇年(一七六〇)に朝熊ヶ岳明王院の尊隆により再建されたとある。「伊勢名勝志」によればもと内宮の神域内にあって太神宮寺と称され、その後、この地に移され菩提山神宮寺と改称、明治二年(一八六九)に廃寺となったという。」

とある。

 「先年上京の挨拶に、   季吟

 目をしやれよ花しほれたる庭など

 なんどいふ読み癖を通音の句なり。」(雑談集)

 其角は貞享五年に上方へ行っているが、これもその時のことだろう。この頃はまだ季吟も京にいた。将軍家の歌学方として江戸に移るのは翌元禄二年のことだ。(貞享五年は九月三十日に改元し、元禄元年となる。)
 この句の下五「庭など」は字足らずに見えるが、「にわなんど」と読んで五音になる。
 通音はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典 「通音」の意味・読み・例文・類語」に、

 「② 平安時代の韻学で、ナとダ、マとバのように類似した音で、清と濁とが相通じて用いられる関係にある音のこと。
  ※悉曇要集記奥文(11C後‐12C前)「通音者濁、濁。〈略〉通二声一、通二声一、通二声一、通二声一。互相通随レ便呼レ之也」
  ③ =つういん(通韻)③
  ※悉曇秘釈字記(1090)「アイウエヲ通音」
  ④ =つういん(通韻)④
  ※随筆・胆大小心録(1808)一四七「垣つ幡と万葉に見ゆるは、波と多と通音にて、ハタ薄・花すすきの類ひの証訓なり」
  ⑤ =つういん(通音)②
  ※滑稽本・大千世界楽屋探(1817)上「勇士をさして武者(むしゃ)といふ。其武者の言語応待を、武者言(ことば)といふ。むと もと通音(ツウオン)、且 しやの反(かへし) さ也。武者言(むしゃことば)を もさ言と呼来る」
  [補注]ふりがなのない例は「つういん」と読んでいた可能性もある。」

とあり、(通韻)②③④は、

 「② 悉曇(しったん)学で、同じ母音を持つ文字間の関係。
  ※悉曇蔵(880)二「右迦等三十三字承二上阿等一。是通韻也」
  ③ 平安時代以降の韻学で、五十音図の同じ段の文字に共通する音。大体現在の母音に当たり、アイウエオを指したが、ヤ行・ワ行の音は別と考えていた。通音。
  ※反音作法(1093)「初のアイウエオの五字者は、是諸字の通韻也」
  ④ 江戸時代以前の国語学の学説で、五十音図中の同じ段の文字が相通じて変化することを説明する語。「けむり」を「けぶり」、「あたり」を「わたり」というようなことをさす。通音。
  ※滑稽本・風来六部集(1780)放屁論後編「えびすはへびすの間違にて、あいうえを、はひふへほの通韵(ツウイン)より誤り来れり」

とある。
 この場合は④の意味で、今日の言語学で言う「交替」のことだが、其角のこの文脈は「など」を「なんど」と読んだりする「ん」の有無の交替は「念仏(ねんぶつ、ねぶつ)」「陰陽師(おんみょうじ、おみょうじ)」など、数多く見られる。また古くは「ん」の字は省略して表記されることが多かった。

 「五十匂百匂とわかるる事北野梵灯より始む。」(雑談集)

 匂は勻の字形を変えたもので、ここでは韵のことであろう。連歌の五十句連ねるものを五十韻(韵)と言い、百句連ねるものを百韻(韵)と言う。
 古い時代の連歌は百韻が標準で、あとの形式はその簡略化されたもので、あとからできたものであろう。中世の連歌のほとんどは百韻の形を取っている。
 つまり、五十韻ができたのは梵灯庵主(朝山師綱)が北野連歌会所にいた頃に定めたものということで、真偽のほどはよくわからない。

0 件のコメント:

コメントを投稿