2020年12月30日水曜日

  今日は霜月十六夜の満月。新暦では今年も明日で終わり。
 来年がいい年になるかどうかはわからないが、とにかく生きていかなくちゃね。生きていればそのうちいいことあるよ。ホントそんな感じの年の暮れだね。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、昌房、探志、臥高、其外膳所衆、風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192)

 昌房は『猿蓑』にもわずかに入集があり、浪化編『有磯海』にも、

 あさがほや宵のかやりの焼ほこり  昌房
 新田に水風呂ふるるあられ哉    同

の句がある。
 後に惟然編『二葉集』(元禄十五年刊)の、

 そんならば花に蛙の笑ひ顔     智月

を発句とする興行の七句目には、

   くわつと薄もみゆるしんなり
 参詣もなければ秋の水もまた    昌房

の句も見られる。
 探志は探子ともいう。

 さび鮎や川を寝て来て海の汐    探志

の句が『猿蓑』にある。「さび鮎」は落ち鮎のことで、産卵前になると腹部が赤くなる。産卵期になると鮎は河口域へ下るので、川に寝て海の汐にもさらされることになる。
 『有磯海』にも、

 番の火を便にねるや鹿のなり    探志

の句がある。
 臥高も『有磯海』に、

   正秀が方へまかりけるに、物一ッ
   謂ほどもなく、枕引よせて共にね
   にけり。ややふくるまま、おどろ
   き立かへるとて
 宵の間をぐつとねてとるよ寒哉   臥高
   かへし
 あんどんをけしてひつ込よ寒哉   正秀

の句がある。何しに行ったんだろう。
 他にも、

 蔦の葉や貝がらひらふ岩の間    臥高
 ふるふると昼になりたる時雨かな  同
 川こえて身ぶるひすごし雪の鹿   同
 日の縁にあがる大根や一むしろ   同

などの句が『有磯海』に見られる。
 許六の評は、句風が定まらないということか。

 「一、伊賀連衆ハ、師の故郷ゆへに手筋ハよし。しかれ共一人切て出テ、上洛するほどの大将の器なし。たとへバ天鼓の鼓のごとし。
 近年諸集に出る伊賀の俳諧を見るに、打ツ人に応じて鳴る。支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。南都の者のうつ時ハ、道場太鼓にハおとれり。翁在世の時ハ、天鼓出て直に打がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192~193)

 伊賀というと『三冊子』を書いた土芳はよく知られているが、それ以外はというとそんなに目立った人はいない。
 元禄七年七月二十八日に

 あれあれて末は海行野分哉     猿雖

を発句とする興行を行った猿雖(えんすい)も伊賀の人で、この巻では配力(はいりき)、望翠(ぼうすい)、雪芝(せっし)、卓袋(たくたい)、木白(ぼくはく)などの伊賀の連衆が参加している。
 元禄八年刊の支考編『笈日記』は伊賀郡から始まるが、ここに、

 山桜世はむづかしき接穂かな    猿雖
 戸を明るあたりやくはつとむめの花 望翠
 鶯に底のぬけたるこころ哉     土芳
 顔見せよ鶯くぐる垣の隙      卓袋
 山吹に頭あけたり柿頭巾      配力
 手間いれて落る木の葉や森の中   雪芝

といった句が見られ、猿雖・支考・土芳・万乎・卓袋による五吟歌仙が収められている。許六は天鼓に喩えるが、このあたりが「支考が打時ハ、大方王伯がうてるがごとし。」になるのか。
 謡曲の『天鼓』は中国を舞台としたもので、いわば打つ人を選ぶ鼓で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「少年楽人の天鼓は天から授かった鼓を帝に献上するのを拒み、呂水に沈められ殺される。その後、鼓は鳴らなくなるが、天鼓の父が打つと妙音を発する。帝が哀れを感じて追善の管弦講を催すと、天鼓の亡霊が現れ、鼓を打ち楽を奏する。」

とある。王伯は天鼓の父で、妙音を発しはするが天鼓には及ばない。支考は王伯、芭蕉は天鼓というわけで、膳所の三人と同様句風が定まらず、指導者次第ということなのだろう。

 「一、乙州 器も大方也。第一ハ師の恩に寄て、乙州といふ名ハ出たり。おりふし血脈の筋をいへるといへ共、かれ是を弁じて出すにあらず。有事も無事も、かれ慥ニハしるまじ。
 たとへバ舟にのれる人、舟中ニ前後もしらず寝たり。于時順風出て着船するがごとし。
 翁追善に木節両吟の俳諧、自慢の俳諧あり。路通が行状記に出たり。其巻ニ云、発句・脇、師の噂也。又奥に、師の噂の句二ツあり。かやうニ一巻の中に幾所に出してモ、くるしからぬ格式ありや、しらず。たまたま一句などハ、其恩をわすれぬ便ともいふべし。度々の事にてうるさく侍る也。
 発句にめだちたる事あるハ、一番奥までも、遠輪廻とてせぬ事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.193~195)

 去来は「器すぐれてよし」、丈草は「器よし」だったから、乙州の「器も大方也」はそれよりは落ちるということか。
 智月尼の弟だが、嫡子にしたことで乙州からすれば智月は姉であり母でもあるということになる。
 許六から見ると師の血脈を受け継いだような句を詠むこともあったのだろう。ただ血脈を説くことはなかったし、血脈のことをはっきりわかっているわけではなかったとしている。
 船に喩えれば、ただ船の上で寝ているだけで、于時(ときに)順風が吹くことがあれば、うまく岸に着くことができるといった程度だという。

 「一、智月 一筋見えたり。乙州より遙にすぐれり。しかれ共、仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり。これハ女の風雅なればなり。
 かれが風雅の美をいはば、生涯の句、ひたすら智月といへる尼の句にして女の形をよくあらハせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.195~196)

 「一筋見えたり」というのは、多分他の男性作者とは異なる筋を持っているということだろう。「乙州より遙にすぐれり」は器のことだろうか。丈草クラスと見ていいのだろう。
 「仕習の朝より終焉の暁までの俳諧に、五色の内只一色を染出せり」は出家前は家庭に出家後は寺に縛られ身動きが取れなかったからで、奉公や興業や旅などとも無縁だったからであろう。これは当時の女性としてはかなり宿命的なものだった。
 家に縛り付けられた女性の風雅として、一つの体を確立したという点では画期的だったということで、許六としてはこれが最大限の評価だったのだろう。
 なお、この「同門評判」で智月は唯一の女性で、羽紅や園女には言及していない。

 見やるさえ旅人さむし石部山    智月

は自分が旅人になることがなく、あくまで見送る立場からの句。

 やまつゝじ海に見よとや夕日影   智月

 これも山躑躅に見ることのない海を想像する体になっている。

 待春や氷にまじるちりあくた    智月
 鶯に手もと休めむながしもと    同

は家事をする者の視点。

 やまざくらちるや小川の水車    智月

も花見に遠く流れ来る花を見る。

 しら雪の若菜こやして消にけり   智月

 これも自らを子を産み育て次世代につなぐ肥しとみなす。これらは女として生まれた苦悩で、現世の苦しみを逃れ去ろうとする男の風雅に同調してはいない。「ひたすら智月といへる尼の句」は漂泊も遁世も成仏もない閉塞された世界の句を貫いたという意味だろう。

2020年12月29日火曜日

  今日は霜月の十五夜で空には鱗雲が出ていて、赤っぽい月暈が掛かっていた。
 『俳諧問答』の方は、あとは「同門評判」を残すのみなので、年を越すことにはなるけど読んでいこうと思う。

同門評判

 岩波文庫の『俳諧問答』には「同門評判」が専宗寺本と天明板本の二つがあって上下に分けてあって、こういう組み方をしているとカントのアンチノミーを思い出す。とりあえずここでは専宗寺本の方を読んでいくことにする。

 「一、予同門人の中に、対面する人もあり、せざるもあり。一句俳諧の上にて、其人の作意ヲ論じて、奥ニ記ス。猶隠蜜の沙汰也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188)

 蕉門の人たちもたくさんいてあちこちに散らばっているから、許六さんも会ったことのある人もいればない人もいる。会ったことのない人でも作品からその作意を論じている。
 「隠蜜(密)の沙汰」といっても忍者ではなく、内緒話のこと。本来同門のことなど公にすべきことではないということで、去来に内緒話として送ったものだった。まあ、元禄コソコソ噂話というところか。公刊されたのは天明五年(一七八五年)のことだった。

 「一、第一、先生の風雅を論ぜば、其器すぐれてよし。花実をいはば、花ハ三つにして、実ハ七つ也。
 天性正しく生れつき給ふに寄て、難じていはば、とりはやし少欠たり。故ニ不易の句ハ多けれ共、流行の句ハ少し。
 たとへバ衣冠装束のただ敷人、遊女町にたてるがごとし。殿上のまじハりにおいてハ、一の人とも称すべし。遊女町のとりはやし、少欠たり。
 師説の月雪を経給ふゆえ、天晴中華門人の第一とハ称す。
 水海の水まさりけり五月雨
 凩の地にも落さぬ時雨哉
 ほととぎす鳴や雲雀の十文字
などいへる一代の秀逸、いくらもあり。師の句たりといふ共上に立がたし。一人もうらやむものハなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.188~190)

 まあ、要するに真面目で堅物という印象が強いのだろう。芭蕉からはアドリブが利かないことでだいぶ三十棒もらったようだ。
 句の作り方も「興を催し景をさぐる」というのが基本にあったようで、題を決めたらその本意本情にあった景を探すというのが去来さんの必勝パターンで、許六がここに挙げた三句も、「五月雨」という題に「湖の水まさりけり」という景、「時雨」という題に「凩の地にも落とさぬ」という景、「ほととぎす」という題に「雲雀の十文字」という景を添えている。

 岩鼻やここにもひとり月の客    去来

の句も「月」という題から、岩鼻に一人誰かが月を見ているという景を想像して詠んだようだ。芭蕉は自分が岩鼻に上って月を見ている句にしなさいと言ったという話が『去来抄』に記されている。そこは嘘でもいいというのが芭蕉さんの考え方だ。

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

 これも花見というテーマからのひねり出した句であろう。当時の「花見あるある」としては見事にはまったし、反権力の庶民感情もあいまって名句となっている。

 猪のねに行かたや明の月      去来

 この句も夜興引(よごひき:冬の夜の山中での猟)に有明の景を付けて、自分では新味のつもりでいたが、芭蕉さんに「ただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし」と、要するに月並みだと評されてしまった。
 また、許六が「とりはやし少欠たり」と言うように、景を探る所で終わって、それを面白く盛り上げる言葉に欠けている。いわば落ちがない。

 湖の水まさりけり五月雨      去来

にしても、許六からすれば五月雨で水かさが増しているだけでは物足りず、そこで何か面白いネタはないかというところだったのだろう。

 「一、丈草 器よし。花実共ニ大方相応せり。いとまある身なれバ、発句も多し。少利の過たる方也。
 春たけハ持のこさぬや面白ミ
といへる句などむづかし。
 釈氏の風雅たるに寄て、一筋に身をなげうちたる処見えず。たとへバ乗興ニして来、興尽して帰るといへるがごとし。
 此僧の句、慥ニ善悪共ニ一筋見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.190~191)

 「器よし」は才能があるということか。去来の「器すぐれてよし」に比べるとやや落ちるというところだろう。
 去来は花が少なかったのに対し、丈草は花も実もそこそこある。
 「いとまある」というのは遁世してためで、じっくり句を作る暇があるため発句も多い。今の俳句は即興で一度に十句連作とか普通だが、昔は一句一句時間をかけて作っていた。「少利」は「少(すこし)理」であろう。
 たとえば『嵯峨日記』の、

   途中吟
 杜宇啼や榎も梅櫻         丈草

の句はホトトギスに榎を取り合わせているが、「榎も梅桜」という囃しはホトトギスの声が風情があるから、榎も梅桜のように華やぐというもので、こういうのは確かに理屈だ。ただ、この時代に「理」があるのは決して句の疵ではなく、句の面白みの一つとされていた。

 水底を見て来た貌の小鴨哉     丈草

は『猿蓑』の句だが、鴨は水中に首を突っ込んで餌をとるため、水底を見てきたか、となる。

 我事と泥鰌のにげし根芹哉     丈草

も同じく『猿蓑』の句で、芹と採っているとドジョウが自分を獲りに来たと思って逃げ出すというもの。芹は根が旨いということで、葉だけ摘むのではなく根ごと引っこ抜くから、ドジョウがびっくりする。それを「我事とにげし」というところに面白さがある。
 ただ、こういう句ばかりではなく、

 うづくまる薬缶の下のさむさ哉   丈草

の句は芭蕉が病床にあって詠んだ句で、芭蕉も「丈草出来きたり」と言ったという。
 ひょっとしたら丈草の作意は火鉢に載せた薬を煎じるための薬缶の湯気が上へ登ってゆくため、その脇でうずくまっている自分にとっては寒いという「理」だったのかもしれない。ただ「さむさ」に病状を心配そうに見守る不安な情がうまく乗っかったため、芭蕉の感銘する所となった。

 あら猫のかけ出す軒や冬の月    丈草

 「あら猫」は荒々しい猫という意味だろう。腹をすかして餌を探しに出たか、冬の月の照らす中、軒端から荒々しく走り出す。理に走った感じはない。近代の、

 猫も野の獣ぞ枯野ひた走る     誓子

の句とちょっと似ている。
 丈草は仏道の傍らの余興でやっているような感じで、俳諧一筋に専念していないから、良い句もあれば悪い句もあるというのが、許六の印象だったのだろう。
 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)によると、

 「丈草は犬山藩士、内藤林右衛門と称し幼名は林之助、三歳にして母を失う。二十七歳のとき、蒲柳の故をもって異母弟に家督を譲って離藩。出家してかねて親交の医師中村春庵(史邦)をたよって京に出る。詩文をよくし、在藩のころ玉堂和尚について参禅。」

とのことで、詩文については『嵯峨日記』に、

   題落柿舎      丈艸
 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居
 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

 よく見れば峨峯には鳥や魚がいて
 荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ
 枝の先には今は赤い龍の卵はなく
 青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ

   尋小督墳      丈艸
 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風
 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て、
 一輪の秋の月に田舎の村の風
 昔僅かに得た琴の音を探す
 一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに

の詩がある。

 「一、正秀 風雅前に記ス。是逸物也。故ニ雑句のミ多して、血脈の沙汰少し。事故の善悪わかれず。他句も猶しるまじ。別して當歳旦三ッ物、吐龍などくミたる俳諧、三歳の童子も笑草とすることうるさし。其上歳旦ノ句三ッ出たり。一ッの外ハせぬ事と、師説にきき置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.191~192)

 「前に記す」とあるのは、「俳諧自賛の論」の中で、

 「世上雑俳の上を論ずるにあらず。雑俳の事ハ究たる事なけれバ、評にかかハらず。
 惣別予が論ずる所ハ、門人骨折の上の噂也。此正秀血脈を継がぬ故ニ、かやうの珍敷一言をいふと見えたり。
 かれが俳諧を見るに、専ラひさご・さるミのの場所にすハり、翁と三年の春秋をへだてて、師説をきかず、血脈を継がず、底をぬかぬ故に、炭俵・別座敷に底を入られたり。全ク動かぬしるし也。
 しかりといへ共、かれが俳諧を見るに、底ハぬかずといへ共、逸物也。又々門人の一人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107)
 「定家卿の論ニ云ク、家隆ハ歌よみ、我ハ歌作り、寂蓮ハ逸物也といへり。
 此人逸物と云もの也。師の眼前において句をいひ出す時ハ、師の眼有て撰出し、これハよし、是ハ五文字すハらず、此句ハ用にたたずなどいひて撰出して後、世間に出るゆへに、人々正秀ハよき俳諧と眼を付るといへ共、師遷化の後ハ、猿の木に離れたるごとくニして、自己の眼を以て善悪の差別を撰出す事をしらず。
 ただ我口より出るハ皆よき句と心得ていひ出すゆへに、当歳旦三ツ物の如き句出る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.107~108)

と書いていることを指しているのだろう。
 『ひさご』『猿蓑』の風を出なかったことで、それ以降の世代となった許六にとっては面白くなかったのだろう。それは去来に対しても同じでこの書のきっかけもそこにあったと思われる。
 許六のいう血脈が二面性を持っていたのは前に書いたが、文字通りの意味での師匠から弟子へと継承される血脈ではなく、もう一つの方の意味は、基本的には芭蕉の「軽み」の風で確立された革新性で、それゆえ古典回帰的な趣向には厳しく、かといってただ目新しい題材を詠めばいいというものでもなく、むしろ「底をぬかぬ」という言葉に代表される手法上の革新を重視したと思われる。取り合わせと取り囃しの論が許六の一つの到達点だったのだろう。
 「逸物」の「逸」は「それる」「はぐれる」という意味があり、人と違う並外れた者を意味するが、その一方で道を外れる、放逸という意味もある。
 許六からすると、師の血脈を継がずに勝手気ままに句を作っていて、師に正しく句を選んでもらわなければどこへいくかわからない、という印象を持ってたのだろう。
 吐龍は土龍という俳諧師がいて正秀と同座していたのだが、どういうひとなのかよくわからない。一般名詞だと土龍はモグラのことだが。
 『芭蕉と近江の人々』(梅原與惣次著、一九八八、サンブライト出版)には、

 「初め和歌を竹内惟庸卿に学び、貞享年間、大津の医尚白について俳諧をはじめ、元禄初年から芭蕉に直参し、同三年、翁の湖南来遊を迎えて熱心の師事する。」

とある。
 『猿蓑』の、

 鑓持の猶振たつるしぐれ哉     正秀

は正秀の最大のヒット作であろう。
 浪化編『有磯海』には、

 ねこ鳥の山田にうつるあられかな  正秀

の句があるが、この場合の「ねこ鳥」は梟のことだろうか。
 正秀は後に惟然が編纂する『二葉集』(元禄十五年刊)にも参加し、

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀
    おもふことふたつのけたるそのあとは
       花のみやこもいなかなりけり
 初雪をどろにこねたる都かな    同

の句がある。

2020年12月28日月曜日

  今年もいろいろと俳諧と連歌を読んできた。
 今まで読んだ俳諧・連歌の一覧。☆印は鈴呂屋書庫にupした分。

二〇一六年
 ☆十一月十七日から十二月七日まで「ゑびす講」の巻
 ☆十二月十二日から十二月二十六日まで「むめがかに」の巻
二〇一七年
 ☆一月八日から一月十五日まで「雪の松」の巻。
 ☆一月十八日から一月二十六日まで「空豆の花」の巻(再読)。
 ☆一月三十日から二月十六日まで「梅若菜」の巻。
 ☆四月十二日から五月十六日まで「木のもとに」の巻(三種)。
 ☆五月十七日から五月二十五日まで「牡丹散て」の巻。
 ☆六月十六日から六月二十六日まで「紫陽花や」の巻。
 ☆七月八日から七月十一日まで「此さきは」の巻。
 ☆七月十五日から八月三日まで「柳小折」の巻。
 ☆八月三十一日から九月七日まで「立出て」の巻。
 ☆九月十二日から九月二十三日まで「蓮の実に」の巻。
 ☆十月二十三日から十月三十日まで「猿蓑に」の巻。
 ☆十一月九日から十一月十四日まで「この道や」の巻。
 ☆十二月四日から十二月十四日まで「冬木だち」の巻。
 ☆十二月十七日から十二月三十一日まで「詩あきんど」の巻
二〇一八年
 ☆一月十五日から二月十二日まで「日の春を」の巻
 ☆三月二日から三月九日まで「水仙は」の巻
 ☆三月十九日から四月二日まで「うたてやな」の巻
 ☆四月八日から五月三日まで「宗祇独吟何人百韻」
 ☆五月四日から五月二十四日まで「花で候」の巻
 ☆七月九日から七月二十日まで「破風口に」の巻
 ☆八月一日から八月九日まで「秋ちかき」の巻
 ☆八月十九日から八月二十二日まで「文月や」の巻
 ☆九月二十三日から九月三十日まで「一泊り」の巻
 ☆十月二日から十月十日まで「牛部屋に」の巻
 ☆十一月十四日から十二月八日まで「野は雪に」の巻
 ☆十二月十八日から十二月二十七日まで「霜月や」の巻
二〇一九年
 ☆一月二十日から一月二十七日まで「洗足に」の巻
 ☆二月十日から二月二十八日まで「此梅に」の巻
 ☆三月十六日から三月二十一日まで「鰒の非」の巻
 ☆四月十三日から四月二十六日まで「八九間」の巻(二種)
 ☆五月十二日から五月十六日まで「杜若」の巻
 ☆六月十七日から六月三十日まで「いと凉しき」の巻
 ☆七月三日から七月七日まで「温海山や」の巻
 ☆七月八日から七月十五日まで「忘るなよ」の巻
 ☆八月十二日から八月二十九日まで「哥いづれ」の巻
 ☆九月六日から九月十五日まで「実や月」の巻
 ☆九月十八日から九月二十三日まで「名月や」の巻
 ☆九月二十九日から十月十二日まで「松風に」の巻
 ☆十月十三日から十月二十日まで「あれあれて」の巻
 ☆十一月二十日から十一月二十六日まで「鳶の羽も」の巻
 ☆十一月二十八日から十二月四日まで「凩の」の巻
 ☆十二月十日から十二月十八日まで「枇杷五吟」
二〇二〇年
 ☆一月七日から一月十二日まで「海くれて」の巻
 ☆一月十三日から一月十九日まで「半日は」の巻
 ☆一月二十六日から二月十三日まで「守武独吟俳諧百韻」
 ☆二月二十五日から三月十四日まで「口まねや」の巻
 ☆三月十八日から三月二十日まで「水音や」の巻
 ☆三月二十四日から四月九日まで「兼載独吟俳諧百韻」
 ☆四月十日から四月十六日まで「五人ぶち」の巻
 ☆四月十七日から四月二十二日まで「傘に」の巻
 ☆四月二十三日から四月二十九日まで「鐵砲の」の巻
 ☆四月三十日から五月六日まで「かくれ家や」の巻
  五月七日から五月二十四日まで「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」
  五月二十五日から六月十二日まで「応仁二年冬心敬等何人百韻」
  六月十三日から六月二十八日まで「寛正七年心敬等何人百韻」
  六月二十九日から七月十九日まで「早苗舟」の巻
 ☆七月二十一日から七月二十九日まで「有難や」の巻
 ☆七月三十日から八月五日まで「めづらしや」の巻
  八月十七日から八月十九日まで「富貴艸」の巻
  八月二十三日から八月二十五日まで「残暑暫」の巻。
  八月二十八日から九月五日まで「しほらしき」の巻
  九月六日から九月十三日まで「ぬれて行や」の巻
  九月十四日から九月二十一日まで「あなむざんやな」の巻
  九月三十日から十月七日まで「月見する」の巻
  十月八日から十月十四日まで「安々と」の巻
  十月二十一日から十月二十六日まで「はやう咲」の巻
  十一月一日から十一月四日まで「雁がねも」の巻
  十一月五日から十一月八日まで「青くても」の巻
  十一月九日から十一月十二日まで「十三夜」の巻
  十一月十三日から十一月十四日まで「秋の夜を」の巻
  十一月十五日から十一月十九日まで「旅人と」の巻
  十一月二十日から十一月二十一日まで「江戸桜」の巻
  十二月十五日から十二月十八日まで「京までは」の巻
  十二月二十日から十二月二十三日まで「翁草」の巻
  十二月二十四日から十二月二十七日まで「星崎の」の巻

2020年12月27日日曜日

  「星崎の」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   薄はまねく荊袖引
 朝霧につらきは鴻の嘴ならす   重辰

 コウノトリはウィキペディアに、

 「成鳥になると鳴かなくなる。代わりに『クラッタリング』と呼ばれる行為が見受けられる。嘴を叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、威嚇、求愛、挨拶、満足、なわばり宣言等の意味がある。」

とある。
 前句を夜の通いではなく霧の中の田舎道とし、ススキやイバラはともかく、コウノトリのクラッタリングは恐ろし気でどきっとする。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は遊郭の比喩とする。そうなると「鴻の嘴」は朝帰りの夫への女房の罵倒ということか。
 三十二句目。

   朝霧につらきは鴻の嘴ならす
 あかがねがはらなめらかにして  自笑

 「あかがねがはら」は銅瓦のことで、お城などによく用いられる。緑青を吹いて緑色に見える。
 銅瓦は滑るのでコウノトリも降りることができず嘴を鳴らす。前句の「つらき」をコウノトリの辛きとする。
 三十三句目。

   あかがねがはらなめらかにして
 氏人の庄薗多キ花ざかり     菐言

 「庄薗」は「荘園」に同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 奈良・平安時代から室町時代に至るまでみられた私有地の称。八世紀に班田制が有名無実化し、公家・社寺による大規模な開墾地が私有地として認められたのをはじめとし、後に口分田・国衙領も併せられた。荘地。荘領。しょう。そう。そうえん。しょうおん。
  ※東南院文書‐天平宝字三年(759)一一月一四日・越中国東大寺荘惣券「越中国諸郡庄園惣券第一」

とある。
 前句の銅瓦の建物を大きな神社とし、氏人たちはそれぞれ荘園を持ち、多額の寄付を受けて今が花盛りとばかりに栄えている。
 ちなみに藤原氏の氏神の春日大社の屋根は檜皮葺で銅瓦ではない。ほかの氏族だろう。
 三十四句目。

   氏人の庄薗多キ花ざかり
 駕籠幾むれの春とどまらず    如風

 花盛りの神社には花見の人が押し寄せ、たくさんの駕籠を仕立てた一団が何組もやってきて留まることを知らない。
 三十五句目。

   駕籠幾むれの春とどまらず
 田を返すあたりに山の名を問て  安信

 前句の駕籠を背負い篭を背負ったお遍路さんのこととした。熊野から吉野へ向かう春の「順の峰入り」であろう。そこら辺の農夫に山へ行く道を聞いてゆく、農村の風景にする。
 挙句。

   田を返すあたりに山の名を問て
 かすみの外に鐘をかぞふる    執筆

 霞の向こうから聞こえてくる鐘の音に、何というお寺なのか、山号を尋ねる。

2020年12月26日土曜日

  今日の東京の新規感染者数は949人。それでも街はいつもの通りにイルミネーションが灯り年末商戦で賑わい、テレビはグルメスポットをよいしょしている。
 夏の第二波がたいしたことなく収まったということで、夏に確立されたウイズ・コロナの新しい生活様式のまま修正されることなく今も続いている。
 だからといって国や自治体に何ができるかというと、同じく夏頃に主に野党の側の主張から自粛と補償はセットという考え方が定着し、補償金を出せる範囲内でしか自粛を要請できないが、既に第一波と第二波でかなりの予算を使ってしまっている。結局医療従事者に感謝の手紙を書こうくらいのことしか言えない状態になっている。
 この手詰まりの原因となっているのは、憲法二十九条第三項の解釈に他ならない。

 第29条 財産権は、これを侵してはならない。
   2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
   3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

 この場合の財産権の対象となる私有財産は、一般的には不動産や動産で、土地の収容や物品の徴用を念頭に置いたものだが、これを拡大解釈して自粛と補償はセットだと主張している。
 営業の自由は通常は憲法二十二条の、

 第22条 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
   2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

によって保障された職業選択の自由によるとされているが、学者によっては営業の自由は財産権を前提とするもので、憲法二十九条第三項の対象だとしている。
 野党はロックダウンの可能性そのものを否定しているわけではない。ロックダウンは憲法二十五条第二項、

 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
   2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

の「公衆衛生の向上及び増進」に含まれるとしている。ただ、ロックダウンは可能だが補償の義務を伴うということで、政府や自治体のコロナ対策を手詰まりにしてしまっている。
 もちろん、日本国憲法は緊急事態における例外というのは規定していない。だから日本でロックダウンが行われるとしたら、野党側が憲法二十九条第三項の解釈に関して何らかの妥協案を示すか、野党の同意なく政府の側の憲法解釈で強行するか、そのどちらかになる。
 ただ、年明けでこのことが議論されるかどうかはわからない。野党はスキャンダルの追及を優先させる可能性が高いし、コロナの蔓延は政府批判の格好の材料になり、政局の為にはむしろ政府のコロナ対策が失敗することを望んでいるからだ。ただ、政局より人命が大事という世論が圧倒的になれば、野党も動くかもしれない。
 それでは「星崎の」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   山も霞むとまではつづけし
 辛螺がらの油ながるる薄氷    如風

 「辛螺(にし)」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「外套(がいとう)腔から出す粘液が辛い味をもっている巻貝類の意であるが,辛くない巻貝にもあてられている。テングニシ,アカニシなどがあるが,ナガニシ,イボニシはとくに辛い。【波部 忠重】」

とある。
 「辛螺がらの油」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「田螺の殻に燈油を入れて燈火を点す。その燈油がこぼれて薄氷に流れて行く山辺の家の景。山辺の庵住の体。」

とある。貝殻を灯明皿の代わりにするということか。
 単に田螺の粘液のことを「油」と言い、田螺の這った跡が文字のように見えるということなのかもしれない。よくわからない。
 二十句目。

   辛螺がらの油ながるる薄氷
 角ある眉に化粧する霜      芭蕉

 田螺にはカタツムリのような角がある。そこに霜が降りかかり、化粧したみたいになる。前句の「薄氷」から冬の景とする。
 二十一句目。

   角ある眉に化粧する霜
 待宵の文を喰さく帳の内     菐言

 前句を鬼女に取り成す。嫉妬に狂い恋文を口で引き裂く。
 二十二句目。

   待宵の文を喰さく帳の内
 寝られぬ夢に枕あつかひ     如風

 手紙の冒頭を文句を案じては破り捨て、ということか。「枕」は頭に敷くということで、ある言葉を言い出すそのきっかけとする言葉を枕言葉という。『枕草子』も会話のきっかけにでも、ということでその名があるのだろう。
 二十三句目。

   寝られぬ夢に枕あつかひ
 罪なくて配所にうたひ慰まん   安信

 元ネタは源顕基(中納言顕基)の「あはれ罪無くして、配所の月を見ばや」という言葉で、鴨長明『発心集』、吉田兼好『徒然草』、作者不詳『撰集抄』などに記されている。
 RADWIMPSの『揶揄』という曲の中に「無実の罪を喜んで犯すの」というフレーズがあるが、要するにこの馬鹿々々しい世の中で罪が有るの無いのなんてどうでもいいことで、無実の罪をなすりつけられたなら、それはそれで配所で月を見る楽しみが増えるだけだ、とそういうことではないかと思う。
 二十四句目。

   罪なくて配所にうたひ慰まん
 庶子にゆづりし家のつり物    知足

 庶子は正室ではない女性から生まれた子。「つり物」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (━する) 路上などで出会った見知らぬ者をさそって情を交わすこと。
  ※評判記・色道大鏡(1678)二五「釣者(ツリモノ)といふは、物見物参りの道路にて、近付ならぬ女を引ゆく事也」
  ② 路傍で客をさそって売春する女。
  ※俳諧・鷹筑波(1638)二「つきだされたる寝屋の釣(ツリ)もの 後夜時に鐘楼の坊主目は覚て」
  ③ だまして金などをまきあげる相手。えもの。
  ※浄瑠璃・奥州安達原(1762)四「結構な釣者がかかったと思ひの外、あちこちへ釣られてのけた」
  ④ (釣物) つるすようにしたもの。また、つってあるもの。簾など。特に歌舞伎の大道具の一つで、天井につっておいて、必要なときに綱をゆるめておろして背景などに用いるもの。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※歌舞伎・浮世柄比翼稲妻(鞘当)(1823)大切「大柱、吊(ツ)り物(モノ)にて水口を見せ」

とある。
 「家に釣ってある物」ではなく「つり物の庶子にゆづりし家の、罪無くて配所に」の倒置であろう。遊女か行きずりの女との間にできた子に家督を譲り、本妻の子である自分は無実の罪で配所に、ということか。
 二十五句目。

   庶子にゆづりし家のつり物
 式日の日はかたぶきてこころせく 如風

 「式日(しきじつ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 特定の行事あるいは職務に当てられた定日。しきにち。
  ※小右記‐寛弘二年(1005)四月一八日「今日式日也。湏レ令レ申二廻諸卿一」
  ※随筆・守貞漫稿(1837‐53)二四「朔日・十五日・二十八日、是を三日と云ひ、さんじつと訓じ式日とも云。〈略〉幕府にては諸大名旗本御家人に至る迄総登城也」
  ② 儀式のある日。祝日。祭日。大祭日。
  ※俳諧・千鳥掛(1712)上「庶子にゆづりし家のつり物〈知足〉 式日の日はかたぶきてこころせく〈如風〉」
  ※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉三「特別の客来若は式日を除くの外」
  ③ 江戸時代、幕府評定所での定式寄合の一種で、裁判・評議を行なう日。立合(たちあい)に対するもの。宝暦元年(一七五一)以後は二日、一一日、二一日と決められ、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行と、目付各一人が出席し、裁判・評議を行ない、うち一日には老中一人が大目付とともに列座した。→式日寄合。
  ※禁令考‐後集・第一・巻二・享保四年(1719)一二月「式日立合之御目付出座之儀に付御書付」

とある。②の式日は主に五節句(人日、上巳、端午、七夕、重陽)を言う。③は幕府の重要事項の裁判なのでこの場合は関係なさそうだ。庶子に家督を譲ったものの、要領を得ず、節句の儀式がスムーズでないことへの焦りか。
 二十六句目。

   式日の日はかたぶきてこころせく
 あさくさ米の出る川口      重辰

 「あさくさ米(こめ)」は「浅草御蔵(あさくさおくら)」の米のことであろう。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸幕府が天領郷村から収納する年貢米や買上げ米を出納,保管する倉庫を御蔵または御米蔵といい,元和6 (1620) 年,江戸浅草橋の近くに設置された御米蔵を浅草御蔵という。収納米の多くは旗本,御家人などの幕臣の給米 (切米 ) にあてられ,出納に要する費用は,浅草御蔵前入用として天領郷村に課せられた。ほかに大坂,京都の御蔵が有名。」

とある。
 前句の「式日」を①の意味で武士の給料の支給日(年に三回、二月・五月・十月にあったという)のこととして、米が支給されるのを今か今かと待っているという意味か。
 浅草橋は隅田川と神田川の合流する辺りにある。舟で運び出されたのであろう。
 二十七句目。

   あさくさ米の出る川口
 欄干に頤ならぶ夕涼       芭蕉

 これは米の支給日とは関係なく、支給口のある辺りという場所を表すもので、すぐ近くに両国橋がある。夏になると夕涼みの人で賑わった。
 頤(おとがい)はあごのことだが、欄干から川の方へ身を乗り出していると頤を突き出すような姿勢になる。特に舟か河原の方から見上げると顎ばかりが目立つ形になる。なかなか面白い描写だ。
 二十八句目。

   欄干に頤ならぶ夕涼
 笠持テあふつ蛍火の影      自笑

 「あふつ」は煽って払い除けること。昔は蛍も別に珍しいものではなく、蠅のように笠で打ち払うほどわらわらといたのだろう。
 二十九句目。

   笠持テあふつ蛍火の影
 初月に外里の嫁の新通ひ     知足

 初月は最初に見える月、二日月、三日月などをいう。「外里」は「とさと」と読む。人里離れたところをいう。
 古代は男が女の元に通う通い婚だったが、江戸時代には「嫁迎え婚」が一般的になる。ただ、田舎の方では通い婚も残っていた。
 これは「外里の嫁の(もとへの)新通ひ」で男が通うのだと思う。初月だと月はすぐに沈んであたりは闇、群れ飛ぶ蛍をかき分けての通いとなる。
 三十句目。

   初月に外里の嫁の新通ひ
 薄はまねく荊袖引        芭蕉

 遊郭だと張見世の遊女に手招きされたり、客引きに袖を引っ張られたりするが、田舎ではススキが手招きし、イバラが袖を引っ張る。

2020年12月25日金曜日

  首都圏を中心にコロナの新規感染者も増えているし、死者も先月二千人を越えたと思ったらあっという間に三千人を越えてしまった。この調子だとオリンピックの頃には一万人に達するかも。
 まあ、別に政治家に言われるまでもなく正月は家に籠って最高の寝正月にしよう。
 それでは「星崎の」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   岡のこなたの野辺青き風
 一里の雲母ながるる川上に    重辰

 雲母は「きらら」と読む。珪酸塩鉱物のグループ名で花崗岩(御影石)にも石英・長石とともに黒雲母が含まれている。雲母は比重が軽いので川だと水流によって巻き上げられて流れてゆく。
 流れてきた雲母は川底に沈むとキラキラ光り、砂金と見まごうこともある。
 八句目。

   一里の雲母ながるる川上に
 祠さだめて門ぞはびこる     菐言

 雲母は唐紙にもちいられるので、この門は紙漉きの集団かもしれない。
 九句目。

   祠さだめて門ぞはびこる
 市に出てしばし心を師走かな   知足

 前句の門を仏門としたか。神社の隣に本地としてお寺ができるのは別に珍しくもない。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によると、貞享三年の、

 市に入てしばし心を師走哉    素堂

の句を踏まえているというが、ほとんどまんまではないか。
 なお、元禄二年冬に芭蕉は、

 何に此師走の市にゆくからす   芭蕉

の句を詠んでいる。からすは黒い衣を着た僧侶を表すもので、本来市場に無縁な人の市に行って心を師走にするという趣向は、ここに極まることになる。
 十句目。

   市に出てしばし心を師走かな
 牛にれかみて寒さわするる    安信

 「にれかむ」は齝という字を当てるもので、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘他マ四〙 (「にれがむ」とも) 牛・鹿・羊などが、かんで呑んだものを、再び口中に吐きだしてかむ。反芻(はんすう)する。にれをかむ。にげがむ。ねりかむ。〔韻字集(1104‐10)〕
  ※俳諧・千鳥掛(1712)上「市に出てしばし心を師走かな〈知足〉 牛にれかみて寒さわするる〈安信〉」
  〘他マ四〙 (「ねりがむ」とも) 牛、羊などが、かんで飲み込んだ物を再び口に出して食う。反芻(はんすう)する。にれかむ。
  ※温故知新書(1484)「ネリカム」
  ※俳諧・幽蘭集(1799)「ちからもちするたはら一俵〈芭蕉〉 放されてねりがむ牛の夕すずみ〈友五〉」

とある。反芻すること。市に行くと荷を運ぶ牛が休まずに口をもぐもぐさせ、牛も心が師走なのかな、となる。
 十一句目。

   牛にれかみて寒さわするる
 籾臼の音聞ながら我いびき    如風

 籾臼は籾摺りに用いる碾き臼で、杵で搗く臼ではない。臼が回転するときのガラガラいう音が鼾に似ているということもあるのだろう。
 牛がモーーと鳴けばそれもまた鼾に似てたりする。臼、鼾、牛の鳴き声が混ざり合って、冬の農村は賑やかなことだ。
 鼾といえば芭蕉が杜国と旅をして鼾に悩まされ、「万菊いびきの図」を描くのはこの翌年の春のこと。
 十二句目。

   籾臼の音聞ながら我いびき
 月をほしたる螺の酒       芭蕉

 螺は法螺貝。法螺貝に酒を汲んで月を飲み干すだなんて、それ自体が法螺だ。まあ、籾臼の傍で鼾かいて寝ている人の夢ということだろう。
 十三句目。

   月をほしたる螺の酒
 高紐に甲をかけて秋の風     自笑

 高紐(たかひも)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 鎧(よろい)の後胴の先端と前胴の上部をつなぐ懸け渡しの紐。後胴の肩上(わたがみ)につけた紐には懸鞐(かけこはぜ)をつけ、前胴の胸板につけた紐には責鞐(せめこはぜ)をつけるのを普通とする。近世は、相引の緒ともいう。
  ※吾妻鏡‐寿永三年(1184)正月一七日「即召二御前一覧二彼甲一、結二付一封状於高紐一」
  ※平家(13C前)一一「甲をば脱ぎたかひもに懸け、判官の前に畏る」
  ② 当世具足の引合(ひきあわせ)の緒。」

とある。脱いだ兜の緒を高紐に引っ掛けて肩の下にぶら下げるということか。鎧を着た武者が軍の時に吹く法螺貝に酒を入れて豪快に飲み干す様子とした。
 十四句目。

   高紐に甲をかけて秋の風
 渡り初する宇治の橋守      如風

 宇治の橋守は宇治橋の番人で、宇治橋は大化二年(六四六年)に初めて架けられたという伝承がある。初代の橋守はさぞかし甲冑姿でさっそうと渡ったのだろうなとは思いながらも、そこは俳諧で、秋の初めで暑かったから兜を脱いで肩にかけ、秋風に涼みながら渡った、とこれはあくまでも想像。
 十五句目。

   渡り初する宇治の橋守
 庵造る西行谷のあはれとへ    知足

 西行谷は伊勢にあり、芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ   芭蕉

の句を詠んでいる。
 ここでは宇治の橋守を伊勢の宇治橋のこととして西行谷を付ける。
 宇治橋は伊勢神宮参道の五十鈴川に架かる橋で五十鈴川は伊勢神宮のすぐ南で東から来る島路川が合流するが、この島路川を遡っていった今の伊勢市宇治館町になる。この伊勢市もかつては宇治山田市という名前だった。
 十六句目。

   庵造る西行谷のあはれとへ
 啄木鳥たたく杉の古枝      安信

 伊勢神宮だから千歳の杉もある。今は神宮杉と呼ばれている。西行谷の庵では啄木鳥の杉を叩く音も聞こえてくる。
 このあと『奥の細道』の旅の雲岩寺で詠む、

 木啄も庵は破らず夏木立     芭蕉

にも影響を与えたかもしれない。
 十七句目。

   啄木鳥たたく杉の古枝
 咲花に昼食の時を忘れけり    重辰

 当時は一日二食の所が多かった。『伊達衣』には、
 
  二時の食喰間も惜き花見哉   杜覚

という句がある。
 一方で『奥の細道』の旅で月山に登った時は弥陀か原高原で「中食」を食べていて、湯殿山へ行った帰りも月山で「昼食」を食べている。
 おそらく道中が長いときには腹が減るので三食食べたのだろう。ここでも山の奥深く分け入り、思いもかけず山桜の見事なのに出会い、昼食を忘れるということだろう。
 十八句目。

   咲花に昼食の時を忘れけり
 山も霞むとまではつづけし    知足

 花の雲という言葉もあるが、山桜は霞や雲に喩えられる。ただ、かなり使い古された比喩なため、咲く花に山も霞むだけではいかにも誰でも思いつく句にしかならない。許六のいう「取り囃し」が欲しいところだが、案じているうちに昼食を食うのを忘れてしまった。

2020年12月24日木曜日

 はぴほりー。
 クリスマスはもとは北欧の冬至祭りで、あとからキリストの生誕に結び付けられたというから、日本で言うと天の岩戸神話のような太陽の復活の儀式なのか。新嘗祭も旧暦だと時期的に冬至の前後になる。
 さて、俳諧の方だが、貞享四年十一月五日に菐言亭で「京までは」の巻の興行を行った芭蕉は、翌日六日にも如意寺如風亭で同じメンバーによる興行を行い、その翌日七日にも安信亭で同じメンバーで歌仙興行を行う。
 発句は『笈の小文』にも収録された、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥    芭蕉

 古代だと鳴海は海に面し、対岸に松巨島があってその南端が星崎だった。やがて寒冷化とともに水位が下がり、鳴海と松巨島は陸地でつながり、間を天白川が流れるだけになった。江戸時代の東海道は海を渡ることなく台地となった松巨島を通り宮宿へと向かうことになる。星崎の辺りは浜辺で塩作りが行われていたという。
 七日で半月、夜半近くになると月も沈み闇となる。冬の寒々とした夜に鳴く千鳥の声は、あたかもこの闇を見よと言っているように聞こえる。
 今では満天の星を多くの人が美しいと感じるが、かつては満天の星は別に珍しいものでもなく、むしろ月のない夜の闇に恐怖を感じていた。星空の美しさを広く世界に広めたのはアルベール・カミュだったのかもしれない。
 安信亭での興行なので、脇は安信が付ける。

   星崎の闇を見よとや啼千鳥
 船調ふる蜑の埋火        安信

 「埋火(うづみび)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 灰の中にうめた炭火。いけ火。いけずみ。うずみ。《季・冬》
  ※落窪(10C後)二「うづみ火のいきてうれしと思ふにはわがふところに抱きてぞぬる」

とある。表に出ない心の中の恋の炎にも喩えられる。
 ここでは漁に出る海士に殺生の罪と闇との連想が働くが、その一方でそれでも生きてゆかなくてはという命の炎が感じられる。
 第三。

   船調ふる蜑の埋火
 築山のなだれに梅を植かけて   自笑

 「なだれ」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「《動詞「なだる」の連用形から》
  1 (雪崩)山の斜面に積もった大量の雪が、急激にくずれ落ちる現象。表層雪崩・全層雪崩に分けられる。《季 春》「夜半さめて―をさそふ風聞けり/秋桜子」
  2 斜めにかたむくこと。傾斜。
  「これから近道を杉山の間の処から―を通って」〈円朝・真景累ヶ淵〉
  3 押しくずれること。くずれ落ちること。
  4 (頽れ)陶器で、釉(うわぐすり)が溶けて上方から流れ下がったもの。やきなだれ。」

とある。この場合は2の意味であろう。築山の斜面に梅を植えるのだが、築山は庭園に限らず人工的な山のことを言う。この場合は堤防のことではないか。
 四句目。

   築山のなだれに梅を植かけて
 あそぶ子猫の春に逢つつ     知足

 梅を植えた築山で子猫が遊んでいる。
 五句目。

   あそぶ子猫の春に逢つつ
 鷽の声夜を待月のほのか也    菐言

 鷽(うそ)はウィキペディアに、

 「ウソ(鷽、学名:Pyrrhula pyrrhula Linnaeus, 1758)は、スズメ目アトリ科ウソ属に分類される鳥類の一種。和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、ヒーホーと口笛のような鳴き声を発することから名付けられた。その細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあった。」

とある。「春宵一刻値千金」の詩句も思い浮かぶ春の宵の景色になる。
 六句目。

   鷽の声夜を待月のほのか也
 岡のこなたの野辺青き風     如風

 野辺を吹く風は若草の匂いで青く感じられる。晩秋から初夏の風になる。

2020年12月23日水曜日

 今日も木星と土星が見えた。土星がやや右側に離れ、乱視でも見やすくなった。
 この前情報の真偽を保留しながら考える方法について、量子ビットの比喩で書いたが、あれは誰でも普通にやっていることだと思う。
 文章を翻訳するときも、最初の単語に辞書でいくつか異なる訳語があると、次の単語やその次の単語を見て、その中で整合する意味の通る組み合わせを選んでいっていると思う。
 句を解読するときも同じで、どの意味かを保留しながら全体を読んで、最終的に整合する意味を選択する。付け句の場合は前句と合わせて意味が通るかどうかが大事だし、それでよくわからないときは後句も参考にする。最初の単語で一つの意味を選んでしまうと身動きが取れなくなる。
 自然科学の場合は仮説検証の繰り返しで、ある程度確実にわかっていることがあるので、それを前提にしてそこから積み重ねてゆくこともできるが、人文科学はえてして形而上学的独断に頼ることが多いので、最初の前提が不確実ならそこにいくら壮大な体系を築いても砂上の楼閣になる。
 芭蕉研究も、正岡子規が自身の発明である写生説を芭蕉に仮託し、あたかも芭蕉が古池の句で写生説を確立したかのように言ったのをそのまま無批判に受け継いる。近代の芭蕉研究は写生説に合致しない句ををどう説明するかという言い訳の体系だといってもいい。
 人間の知っていることに絶対はない。絶対でなくても人は考えて生きていかなくてはならない。だから誰でも真偽を保留しながら思考するのは普通のことで、そうやってわからないまま生きてゆくのが人生というものだ。
 大事なのは自分で情報に整合性を持たせるということで、それである程度確信が持てるなら真偽が確定しなくてもネットで発信してっていいと思う。何でもかんでも白黒はっきりしろと言って、独断であれは偽情報だから発信するななんてことは、それこそ言論の自由をそこなうもので危険なやり方だ。
 誰の意見だって絶対ではない。絶対に正しいものしか発信できないなら、すべての人間は沈黙するしかない。政府や党の最高指導者の言うことが絶対正しくてそれ以外は黙っていろというのは、即ち独裁政治である。
 それでは、今日も不確定な情報に基づきながら「翁草」の巻を読み進めることにする。今日は挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   部屋にやしなふ籠の松虫
 匂へとぞ鉢に植たる菊かりて   芭蕉

 籠の松虫に鉢植えの菊。どちらも狭いところに閉じ込められている。
 三十二句目。

   匂へとぞ鉢に植たる菊かりて
 母のいのちをちかふ初霜     重辰

 九月九日重陽の日に飲む菊酒は不老長寿の仙薬とも言われる。
 実際はそれほどでないにせよ、ウィキペディアによると、

 「菊花を用いて、焼酎中に浸し、数日を経て煎沸し、甕中に収め貯え、氷糖を入れ数日にし成る。肥後侯之を四方に錢る 倶に謂ふ目を明にし頭病を癒し 風及婦人の血風を法ると」

とあり、母の長寿のために悪いものではなさそうだ。
 前句の「菊かりて」はここでは「菊刈りて」になる。

 心あてに折らばや折らむ初霜の
     置き惑わせる白菊の花
             凡河内躬恒(古今集)

も菊酒のために折ったのだと思うが、菊に初霜の付け合いはこの歌による。
 三十三句目。

   母のいのちをちかふ初霜
 羊啼その暁のあさあらし     自笑

 羊は古代には飼われていた記録があるが、江戸時代前期だと実際の羊はほとんど見ることがなかったのではないかと思う。
 羊は漢詩にもあまり登場しないようで、この羊に何か出典があるのか、よくわからない。『詩経』の無名詩「敕勒歌」に「風吹草低見牛羊」という内蒙古の平原の風景を詠んだ詩句があるが、何かそういう異国情緒を狙ったのか。
 ギシギシを意味する羊蹄は字が似ていなくもない。之道編『あめ子』に、

   膝へ飛しは青蛙なり
 羊蹄(やうてい)のあたりや風の吹ぬらん 鬼貫

の句があったが、漢方薬になるとはいっても皮膚病・腫物の薬なので母の命とはあまり関係なさそうだ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は「羊を殺していけにえとする」とあるが、ヘブライ人じゃあるまいし、日本にそんな習慣があったとは思えない。
 三十四句目。

   羊啼その暁のあさあらし
 外山の花の又夢に咲       知足

 「外山(とやま)」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「人里に近い山。
  出典古今集 神遊びのうた
  「深山(みやま)には霰(あられ)降るらしとやまなるまさきの葛(かづら)色づきにけり」
  [訳] 人里から遠く離れた山にはあられが降っているらしい。もう、人里近くの山にあるまさきの葛が、きれいに色づいてしまったよ。[反対語] 奥山(おくやま)・深山(みやま)。」

とある。
 朝の嵐に桜も散ってしまったが、朝寝する夢の中ではまだ咲いている。
 言わずと知れた孟浩然の『春暁』の「夜来風雨声 花落知多少」の心だ。
 三十五句目。

   外山の花の又夢に咲
 日はながく雨のひらたに笘葺て  安信

 「ひらた」は平田舟で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「舟べりを低く舟底を平たくつくった丈長の川舟。上代から近世まで貨客の輸送に用いた。時代・地域により種類が多い。」

とある。
 「苫(とま)」もコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろ。和船や家屋を覆って雨露をしのぐのに用いる。」

とある。苫を葺いた小屋を備えたものもあった。江戸時代の河川の水運で活躍した。
 物流の滞ることなく、経済が繁栄し、外山に花も咲けば夢のような世界だ。
 挙句。

   日はながく雨のひらたに笘葺て
 雁のなごりをまねくおのおの   菐言

 帰って行く雁に名残惜しくて、戻っておいでとみんなで手招きしている。春よ行かないで、ということで一巻は目出度く終了する。

2020年12月22日火曜日

  今日の夕方もよく晴れて、木星と土星が見えた。昨日とあんまり変わらない感じがする。
 一六二三年(元和九年)の時は太陽に近くて肉眼では見えなかったのではないかといわれていて、肉眼で見れたのは一二二六年(嘉禄二年)以来だという。一二二六年というと承久の変の五年後だから、後鳥羽院さんは隠岐の島で見てたのだろうか。
 それでは「翁草」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   痩たる馬の春につながる
 米かりに草の戸出る朝がすみ   芭蕉

 謡曲『鉢木』のあの「いざ鎌倉」の落ちぶれた武士であろう。謡曲では冬で秋に収穫した粟を食っていたが、それも底をつきたか、春には米を借りに行く。
 二十句目。

   米かりに草の戸出る朝がすみ
 山のわらびをつつむ藁づと    安信

 山の蕨を摘んで藁に包んで持って行き、米と交換する。
 二十一句目。

   山のわらびをつつむ藁づと
 我恋は岸を隔つるひとつ松    如風

 農夫の恋で、相手は川の向こう岸の一本松の辺りに住んでいる。蕨を手土産にせっせと通う。
 二十二句目。

   我恋は岸を隔つるひとつ松
 うき名をせむるさざ波の音    自笑

 川を隔てた恋だけに、世間はさざ波のようにざわざわと浮名を立てる。
 二十三句目。

   うき名をせむるさざ波の音
 けふのみと北の櫓の添ぶしに   知足

 城の櫓であろう。「添臥(そいふし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① そばに寄りそって寝ること。そいね。そえぶし。
  ※源氏(1001‐14頃)紅葉賀「殿の内の人々も、あやしと思ひけれど、いとかう世づかぬ御そひふしならむとは思はざりけり」
  ※浮世草子・男色大鑑(1687)三「かりなる横陳(ソヒフシ)して細(こまか)に次第はかたらず」
  ② 東宮、また皇子などの元服の夜、公卿などの少女を傍に添寝させたこと。また、その少女。
  ※源氏(1001‐14頃)桐壺「さらば、この折の後見なかめるを、そひふしにもと催させ給ひければ、さおぼしたり」
  ※栄花(1028‐92頃)様々のよろこび「おほとのの御むすめ、〈略〉、内侍のかみになし奉り給ひて、やがて御そひぶしにとおぼし掟てさせ給ひて」

とある。お城の櫓での密会なら、武士と小性の男色であろう。
 二十四句目。

   けふのみと北の櫓の添ぶしに
 琵琶にあはれを楚の歌のさま   菐言

 四面楚歌という言葉があるように籠城の場面であろう。明日には落城かという夜、なぐさめに琵琶を弾いて歌っても四面楚歌の故事を思わせるだけで悲しい。
 二十五句目。

   琵琶にあはれを楚の歌のさま
 色白き有髪の僧の衣着て     芭蕉

 琵琶法師であろう。有髪の者もいたのか。
 二十六句目。

   色白き有髪の僧の衣着て
 畳に似たる岩たたみあげ     重辰

 「畳み上げる」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[動ガ下一][文]たたみあ・ぐ[ガ下二]
  1 すべてをたたんでしまう。たたみ終える。「全員の布団を―・げる」
  2 積み重ねる。積み上げる。
  「赤い煉瓦(れんが)と白い石帯とで―・げられた柱」〈風葉・青春〉
  3 たたむようにして、まくりあげる。
  「草摺(くさずり)を―・げて、ふた刀刺すところを」〈謡・実盛〉」

とあり、ここでは2の意味であろう。前句を「有髪の僧の色白き衣着て」と取成し、山伏のこととしたか。
 二十七句目。

   畳に似たる岩たたみあげ
 柱引御代のはじめのうねび山   菐言

 「御代のはじめ」というのは神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が畝傍山の麓に皇居(畝傍橿原宮)を作り、初代天皇として即位したことを言うのであろう。今の樫原神宮は明治二十三年に創建されたもので、芭蕉の時代にはなかったから、当時の様子はよくわからない。石舞台古墳のようなイメージで岩を積み上げた宮殿をイメージしたか。
 二十八句目。

   柱引御代のはじめのうねび山
 ささらにけづる伊勢の浜竹    芭蕉

 「伊勢の浜竹」はよくわからない。「難波の葦は伊勢の浜荻」をもとにして作った造語で、都では別の竹の名称があるということか。ささらは掃除をするわけではないだろう。楽器のささらで、即位を祝ってささらの舞を奉納したということか。田楽や神楽などの古い芸能にはささらが用いられる。
 二十九句目。

   ささらにけづる伊勢の浜竹
 貝のから色どる月の影清く    重辰

 伊勢の浜の風景をイメージしたのだろう。
 後に『奥の細道』の旅に出た時、敦賀の色の浜で、

 衣着て小貝拾はん種の月     芭蕉

という句を詠むが、これは、

 潮染むるますほの小貝ひろふとて
     色の浜とはいふにやあらむ
              西行法師

の歌に由来するが、月夜の貝殻の趣向はこの重辰の句に着想を得てたのかもしれない。
 三十句目。

   貝のから色どる月の影清く
 部屋にやしなふ籠の松虫     安信

 虫籠の歴史は古く、平安時代からあったらしい。中には螺鈿細工を施した豪華なものもあったのだろう。ただ、いくら豪華な籠でも所詮は囚われの身。

2020年12月21日月曜日

  今日は木星と土星の一番接近する日だという。397年ぶりの接近だというからこれを見れたのはかなりラッキーなことなのだろう。ハレー彗星は一生に一度はめぐり合うが、これはたまたまその時に生まれ合わせなくてはならない。
 397年ぶりというからには、前回は一六二三年(元和九年)だから、芭蕉も見てないし渋川春海も見ていない。日本の南蛮天文学の祖といわれる林吉左衛門(生年不詳、一六四六年没)なら見たかもしれない。
 今日の夕方は雲一つない良い天気で、暗くなると西の空に二つの星が見えた。乱視なので目を凝らさないとよくわからないが、確かに大きな木星のすぐ右上に小さな星が見えた。
 それでは「翁草」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   かしこの薄爰の筿庭
 岡野辺にこころを外の家立て   菐言

 薄に埋もれた庭を隠者の住まいとするのは、まあお約束の展開。
 八句目。

   岡野辺にこころを外の家立て
 妾がなつけしひよこ鳴なり    安信

 「妾」は「せふ」と読むがめかけのこと。岡野辺の家を妾が隠れ住む場所とする。
 九句目。

   妾がなつけしひよこ鳴なり
 木綿機はてむ泪にぬらしける   如風

 妾は織姫のように機を織り、滅多にやってこない男に涙を添える。
 十句目。

   木綿機はてむ泪にぬらしける
 とはん仏の其日ちかづく     知足

 泪を亡き夫へのものとする展開もお約束というか。命日も近い。
 十一句目。

   とはん仏の其日ちかづく
 白雲をわけて故郷の山しろし   自笑

 前句の仏を故郷のご先祖様とする。はるばる山を越えて帰省する。
 十二句目。

   白雲をわけて故郷の山しろし
 はなてる鶴の鳴かへる見ゆ    芭蕉

 白雲を分けて飛んで行く放たれた鶴とする。
 十三句目。

   はなてる鶴の鳴かへる見ゆ
 霜覆ひ蘇鉄に冬の季をこめて   安信

 ソテツは南方系の植物で霜に弱いから冬は藁で巻いて覆う。冬の庭園の光景だろう。ツルに見合うような景物の少ない冬にあっては、藁で覆ったソテツも冬の風物とすべし。
 十四句目。

   霜覆ひ蘇鉄に冬の季をこめて
 煤けし額の軒をもる月      重辰

 お寺の扁額のことであろう。霜覆いをしたソテツをお寺の庭とした。寒さで落葉焚きなどをして、額も煤けている。そんな寂しげなお寺を月が守っている。
 十五句目。

   煤けし額の軒をもる月
 秋やむかし三ッにわけたる客とかや 知足

 客の上中下があるというのは、以前「洗足に」の巻の発句の所で触れたが、宗鑑が庵の入口に掛けていた狂歌、

 上は来ず中は日がへり下はとまり
     二日とまりは下下の下の客
               宗鑑

から来ている。

 下々の下の客といはれん花の宿  越人

の句が元禄二年刊の『阿羅野』にある。
 前句の「額」を宗鑑の庵の額として、あれから月日も流れ幾つ秋の来たことかとする。
 十六句目。

   秋やむかし三ッにわけたる客とかや
 いろいろ置る夕ぐれの露     如風

 露も俳諧ではさまざまな草花に置くだけでなく、比喩としていろいろな意味に用いられる。ここでは秋の風ぐれの悲しさに落ちる泪のことか。
 十七句目。

   いろいろ置る夕ぐれの露
 散レとこそ蓑着てゆする花の蔭  安信

 これは花の蔭で花を散らそうとしているかに見せて、下句につながると露を散らそうとしていたという落ちになる仕掛けになっている。
 桜の木を揺すって花を散らそうなどというのは、言うまでもなく無風流なこと。だが、散らしているのは露で桜の花に露が散って夕日にキラキラと光ればこの上もなく風流になる。
 十八句目。

   散レとこそ蓑着てゆする花の蔭
 痩たる馬の春につながる     重辰

 蓑を着ていたのは桜の木に繋がれた痩せ馬だった。馬も背中に藁で作られた蓑を着ることがある。

2020年12月20日日曜日

  さて、今年もあとわずか。一年の始まりはゴーンさんだったが、それがずいぶん昔の話というか、すっかり忘れられているといってもいい。それほど今年一年はコロナコロナに明け暮れて、まだ終わりは見えない。
 世界に混乱が起きると、これを機会に一気に変えようという人々、そうはさせるかと何とか元に戻そうとする人が激しくぶつかり合う。
 ネット社会は一気に加速したのはいいが、情報にかつてないほどの混乱が生じている。何がファクトか何がフェイクか、何も今決めることではない。ファクトチェックをする人たちも決して中立ではないし、ファクトチェックにさらにファクトチェックが必要となると、それにもさらにファクトチェックが必要になり、きりがない。
 こういう時は白か黒かを性急に決着付けるのではなく、真偽不明のまま保留し、どっちもあるなと思い、両方の可能性を常に頭に入れておく柔軟さが必要だ。
 Aが真実かどうかよくわからないなら、真実だった場合はこう、嘘だった場合はこう、BもよくわからないならAが真でBが真なら、Aが真でBが嘘なら、Aが嘘でBが真ならば、Aが嘘でBが嘘ならば、とあらゆる場合を想定しておく。これにCやDが加わって来れば選択肢はかなり増えてしまうが、時間がたつにつれ真実は真実に嘘は嘘に、自然に整理されてゆく。無数の変異を生み出し、自然に淘汰されて真実だけが残る。これは一種の思考のダーウィニズムだ。
 総じて世界にはわからないことが多すぎる。それを一方だけを信じてわかったふりをするのはやめよう。量子コンピュータのように、常に右スピンと左スピンを同時に思考することが大事だ。真でもありかつ偽でもある重ね合わせ思考をしないと、今の状況には対応できない。
 地球温暖化問題も今年一年でかなり加速し、ガソリン車の時代の終わりが具体的に示されるようになった。ただ、原発復活の圧力だけは注意しなくてはならない。
 来年もまだ混乱は続くだろう。夏を乗り切ったコロナはさらに夏に強く進化するかもしれない。これに対しワクチンがどの程度効果を発揮するのか。それにコロナ対策でどこの国も派手に金をばらまいたから、それが収束期に入るとどうなるのか。来年はわからないことだらけだ。頭を量子ビットにして乗り切ろう。
 さて、俳諧の方だが、貞享四年十一月五日に菐言亭で「京までは」の巻の興行を行った芭蕉は、翌日六日にも如意寺如風亭で同じメンバーによる興行を行う。
 発句は、

   はせをの翁を知足亭に訪ひ侍りて
 めづらしや落葉のころの翁草   如風

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には「如風が知足亭に芭蕉を訪ねた時の発句『めづらしや』の句を立句として、如意寺で興行したか」とある。これは芭蕉の提案かもしれない。如意寺如風亭での興行であれば芭蕉が発句で如風が脇となるところだが、知足亭での如風の発句を無駄にしないための配慮だろう。この前書きがあれば知足亭で興行されたと思うから、如風もゲストになる。
 句意は明瞭で、芭蕉は翁とみんなから呼ばれて親しまれているから、「翁草」は当然芭蕉のことで、こんな落葉の頃に珍しや、となる。
 翁草(オキナグサ)はウィキペディアに「白く長い綿毛がある果実の集まった姿を老人の頭にたとえ、翁草(オキナグサ)という。 ネコグサという異称もある。」とある。晩春から初夏にかけて咲く。
 なお「めづらしや」の巻は羽黒山での「めづらしや山をいで羽の初茄子 芭蕉」を発句とする巻に用いたので、ここでは「翁草」の巻と呼称する。
 脇。

   めづらしや落葉のころの翁草
 衛士の薪と手折冬梅       芭蕉

 翁草だと思ったのは衛士が焚き木にしようとして折った寒梅のことでしょう、と受ける。世間から見捨てられた世捨て人ですよ、といったところか。
 衛士というと、

 みかきもり衛士の焼火の夜はもえ
     昼は消つつ物をこそおもへ
             大中臣能宣(詞花集)

の歌が『小倉百人一首』でも有名だ。「衛士」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「古代,律令の兵制において,諸国の軍団から選ばれて1年 (のち3年) 交代で上京し,衛門府,衛士府に配属され,宮門の警衛にあたった者。」

とある。
 第三。

   衛士の薪と手折冬梅
 御車のしばらくとまる雪かきて  安信

 「衛士」が出たところで王朝時代に転じ、皇族などの雪の日の牛車での外出の場面とするとする。
 四句目。

   御車のしばらくとまる雪かきて
 銭を袂にうつす夕月       重辰

 銭は雪かきの駄賃だろう。京では御所の牛車が通ると、こうやって小銭を稼ぐ人がいたのだろうか。アメリカ映画に出てくる車の窓拭きみたいだが。
 五句目。

   銭を袂にうつす夕月
 矢申の声ほそながき荻の風    自笑

 「矢申(やまうし)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「矢の中り外れを告げる声」とある。いわゆる「矢場(やば)」の光景だろうか。ダーツのように賭けをしてたのだろう。負けて賭け銭は相手の懐に収まり、矢申しの声だけが荻の風のように寒々と響く。
 六句目。

   矢申の声ほそながき荻の風
 かしこの薄爰の筿庭       知足

 「筿」は「篠」と同じだがここでは「ささ」と読むようだ。
 没落した武家の庭で、笹の植えてあった庭も薄に埋もれ、それでも弓矢の練習は怠らない。

2020年12月18日金曜日

  おとといの朝、車に霜が降りていた。初霜だった。昨日は降りてなかったが今日はまた降りていた。
 道路はやはり渋滞し、人も多いし、自転車がやたら飛ばしてゆくのが困る。自転車に乗っている人はマスクもしてなかったりする。
 年末がずっとこの調子だと正月明けが恐ろしいことになりそうな。
 マスク会食なんていっても、食べる時にマスクを外す以上、そんなに感染防止の効果はないと思う。一番良いのはふなっしーのイリュージョンではないか。着ぐるみ会食ならまだましなのでは。
 それでは「京までは」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   老かむうばがころも打音
 ふすぶりし榾の煙のしらけたる  重辰

 「ふすぶる」は「くすぶる」と同じ。「榾(ほだ)」は焚き木のこと。水分の多い生木を燃やしたりすると湯気で白い煙が上がる。
 年老いて薪割りも思うようにできず生木を燃やしたのだろう。白い煙の中の老婆は白髪とも相まって浦島太郎のようでもある。
 三十二句目。

   ふすぶりし榾の煙のしらけたる
 陳のかり屋に碁を作る程     安信

 「碁を作る」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「碁の勝負の目数をかぞえる為に、盤面を整理すること」とある。いわゆる整地のことのようだ。『源氏物語』の軒端荻のように整地でズルをする人もいる。
 勝負がついて見物してた人たちも離れて行き、陣屋で暖を取るために焚いた火の煙で白くなる「しらける」に、興が覚めるの「しらける」が重なる。
 「しらける」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「①白くなる。色があせる。
  出典万葉集 一七四〇
  「黒かりし髪もしらけぬ」
  [訳] 黒かった髪も白くなってしまった。
  ②気分がそがれる。興がさめる。しらける。
  出典冥途飛脚 浄瑠・近松
  「恋に浮き世を投げ首の酒もしらけて醒(さ)めにけり」
  [訳] 恋に浮かれてこの世を捨てるほど思案に余って酒の酔いも気分がそがれてさめてしまった。
  ③間が悪くなる。気まずくなる。
  出典十訓抄 八
  「しらけて、実方(さねかた)は立ちにけり」
  [訳] 気まずくなって、実方は立ってしまった。」

とある。
 三十三句目。

   陳のかり屋に碁を作る程
 山更によこおりふせる雨の脚   如風

 「横伏(よこおりふす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘自サ四〙 横に広がって伏す。横たわる。
  ※古今(905‐914)東歌・一〇九七「かひがねをさやにも見しかけけれなくよこほりふせるさやのなか山〈かひうた〉」

とある。
 古今集の用例は、小夜の中山越えの道が峯と峯との間の鞍部を越える道ではなく、なだらかな稜線を行く道なので「よこほりふせる」としたのだろう。「かひがね」とあるのは小夜の中山から南アルプス南部の山々が見えることから、特に甲斐駒を指すのではなく南アルプス全体を「かひがね」と呼んでいたと思われる。
 横おり伏せる山を越えてゆく行軍だったのだろう。長々と続く稜線の道に雨の脚も強く、陣の仮屋で雨の止むのを待つ間に碁の一局も終了する。
 三十四句目。

   山更によこおりふせる雨の脚
 気をたすけなんほととぎす鳴ケ  知足

 延々と続く尾根道に雨となると気が滅入るもので、元気づけるためにもホトトギスでも鳴いてくれ、と付ける。
 三十五句目。

   気をたすけなんほととぎす鳴ケ
 花盛文をあつむる窓閉て     菐言

 花盛りなのに窓を閉じて文を集めるのは気の滅入ることだ。窓を開けると風で文が飛んだりするからだろう。俳諧の選集を作る編者だろうか。せめてホトトギスでも鳴いてくれれば。
 最後の花の定座は亭主である菐言が付ける。
 挙句。

   花盛文をあつむる窓閉て
 御燈かかぐる神垣の梅      執筆

 前句の「花盛り」を初春の梅の花とし、神社の御燈を掲げる神主さんが窓を閉じて文を集めていたとする。菅原道真の面影であろう。

2020年12月17日木曜日

  今日は三日月で、近くに接近している木星と土星も見えた。月の明るさで土星がやや見えにくい。
 コロナの感染者が寒さとともに再び増加に転じている。東京は八百人超、神奈川は三百人超。まあ忘年会っていやいや参加している人の方が多いから、この際今年限りで廃止してもいいのでは。
 ただ相変わらず街に人が多い。年末だし正月準備もあるのか。静かな大晦日、質素な正月というのもたまにはいいのではないか。芭蕉の時代に戻ったみたいで。
 それでは「京までは」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   こがるる猫の子を捨て行
 うき年を取てはたちも漸過ぬ   知足

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には「縁遠い娘」とある。二十歳過ぎて憂き年を取るというのは、そういうことなのだろう。
 まあ、こうした人は家の雑用を押し付けられがちで、猫の子を捨てに行かされたりしたのだろう。
 二十句目。

   うき年を取てはたちも漸過ぬ
 父のいくさを起ふしの夢     芭蕉

 前句を戦死した父の喪に服しているので「うき年を取て」とする。
 二十一句目。

   父のいくさを起ふしの夢
 松陰にすこし草ある波の声    自笑

 「松陰(まつかげ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 松の木がおおっている所。松の木の下陰。
  ※万葉(8C後)二〇・四四六四「ほととぎすかけつつ君が麻都可気(マツカゲ)にひも解き放(さ)くる月近づきぬ」
  ② 水面などに映って見える松の木の姿。
  ※玉葉(1312)賀・一〇五〇「松陰の映れる宿の池なれば水の緑も千世や澄むべき〈源俊頼〉」
  ③ 松の木が日光などをさえぎって、地上などにできる影。
  ※俳諧・文政句帖‐五年(1822)一一月「松影も氷りついたり壁の月」

とある。この場合は②の意味か。

 松影のいはゐの水をむすひあけて
     夏なきとしと思ひけるかな
               恵慶法師(拾遺集)

のように、涼しさを詠む言葉で、「玉葉集」の源俊頼の歌では常緑に澄んだ水で賀歌にしている。ここでは墓所のイメージか。
 二十二句目。

   松陰にすこし草ある波の声
 翅をふるふ鳰ひとつがひ     菐言

 「翅」は「つばさ」と読む。夏の繁殖期の鳰(カイツブリ)であろう。
 「575筆まかせ」というサイトから鳰の句を拾ってみると、

 うき出る身をはつ秋のかいつぶり 井上士朗
 かげろふに打ひらきたる鳰の海  壺中
 さびしさを我とおもはん秋の鳰  智月尼
 さみだれや植田の中のかいつぶり 泥足
 はつゆきや払ひもあえずかいつぶり 許六
 ほとゝぎすなかでさへよきに鳰の海 高桑闌更
 ほとゝぎす鳰の月夜や待まうけ   支考
 みじか夜の鳰の巣に寝て世を経ばや 鈴木道彦
 やゝのびて冬の行方やよかいつぶり 鬼貫
 ゆられ~終には鳰も巣立けり   高桑闌更
 一夜来て泣友にせん鳰の床    風国
 内川や鳰のうき巣に鳴蛙     其角
 十六夜に落る潮なし鳰のうみ   三宅嘯山
 千早振卯木や鳰の水かゞ見    露川
 名月や磯辺~の鳰の声      諷竹
 夏海や碁盤の石のかいつぶり   野坡
 夕ぐれや露にけぶれる鳰の海   樗良
 夕暾や此ごろ鳰の冬気色     許六

のように他の季語と組み合わせて詠まれていて、冬の季語として確立されてなかったと思われる。ただ、江戸後期の曲亭馬琴編『増補俳諧歳時記栞草』では冬の季語になっている。
 二十三句目。

   翅をふるふ鳰ひとつがひ
 しづかなる亀は朝日を戴きて   安信

 亀に朝日と目出度い言葉が続き、それに鳰のつがいと、結婚式を寿ぐような賀歌の体になっている。
 二十四句目。

   しづかなる亀は朝日を戴きて
 三度ほしたる勅のかはらけ    自笑

 「三度ほしたる」は三回飲み干すことで、「式三献(しきさんけん)」のことと思われる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「しきさんごん」とも) 酒宴の作法の一つで、最も儀礼的なもの。饗宴で献饌ごとに酒を勧めて乾杯することを三度繰り返す作法。三献。
  ※上井覚兼日記‐天正三年(1575)一二月九日「式三献参候、御手長申候」
  [語誌]中世以降、特に盛大な祝宴などでは「三献」では終わらず、献数を重ねることが多くなり、最初の「三献」を儀礼的なものとして、特に「式三献」というようになったものと思われる。」

とある。今でも結婚式の三々九度にその名残がある。ここでは「勅のかはらけ」で宮廷儀式とした。
 二十五句目。

   三度ほしたる勅のかはらけ
 山守が車にけづる木をになひ   芭蕉

 「山守(やまもり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 山林を見まわって番をすること。また、それを職とする人。
  ※万葉(8C後)三・四〇一「山守(やまもり)のありける知らにその山に標(しめ)結(ゆ)ひ立てて結(ゆひ)の恥しつ」
  ② 特に、江戸時代、諸藩の御林監守人。
  ※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)九月六日「金沢城山守之事〈略〉如右之被仰付由」

とある。王朝時代のこととして、山守が牛車に用いる木を献上し、式三献のもてなしを受ける。晴れの儀式などに用いる唐廂車(からびさしのくるま)の車輪に用いる木だろう。割れたりしてはいけないので、厳選された木材を用いたに違いない。
 二十六句目。

   山守が車にけづる木をになひ
 燧ならして岩をうちかく     知足

 燧(ひうち)は火打ち道具のことで、火打石と火打ち金がセットになっている。ここでは火打ち金で辺りの岩を打って火を得たということか。山守のやりそうなことなのだろう。
 二十七句目。

   燧ならして岩をうちかく
 瀧津瀬に行ふ法の朝嵐      如風

 修験の滝行が朝の嵐の中で行われ、魔除けのために切り火を切る。
 二十八句目。

   瀧津瀬に行ふ法の朝嵐
 狐かくるる蔦のくさむら     自笑

 山奥の景なので狐を登場させる。
 二十九句目。

   狐かくるる蔦のくさむら
 殿やれて月はむかしの影ながら  菐言

 これは在原業平の有名な、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
              在原業平(古今集、伊勢物語)

であろう。ただ狐が登場することで、立派な屋敷の美女に会って酒を酌み交わし御馳走を食べていて、気づいたら荒れ果てた廃墟だったというよくあるストーリーも思い浮かぶ。
 三十句目。

   殿やれて月はむかしの影ながら
 老かむうばがころも打音     芭蕉

 月に衣打つといえばもちろん李白の「子夜呉歌」。戦争に行った主人は結局帰ることなく、屋敷もいつしか荒れ果て、老いた姥が帰りを待って今も衣を打っている。

2020年12月16日水曜日

  北陸では大雪で、近年正月前に雪が積もることが多いような気がする。昔は確か正月前に雪が積もったら何とか豪雪と名前の付くような豪雪になる、普通は正月前には積らないと聞いた気がする。これも温暖化のせいだろうか。
 高校生の頃、石川県小松の方にあった尾小屋鉄道という珍しいナローゲージの鉄道があって、それが廃線になるというので冬休みに見に行ったことがある。
 北陸出身の友人から、正月前は雪は降らないと言われたのに反してその年は大雪に見舞われ、おそらく自分が乗ったのが終点尾小屋駅行きの最終になってしまったのではないかと思う。
 帰りは結局雪道を歩いて新小松に向かうと、途中で親切な人に車に乗せてもらえて、何とか無事に帰れた。尾小屋鉄道の方は結局春の廃線まで倉谷口─尾小屋間は復旧しなかった。この年の豪雪は「昭和52年豪雪」という名前がついている。
 それでは「京までは」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   僕はおくれて牛いそぐ也
 ふたつみつ反哺の鴉鳴つるる   重辰

 「反哺(はんぽ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 烏のひなが成長してから、親烏に食物をくわえ与えて養育の恩に報いること。転じて、恩返しをすること。
  ※性霊集‐八(1079)為弟子僧真境設亡考七々斎願文「林烏猶知反哺」 〔蔡邕‐為陳留県上孝子状〕」

とある。この「林烏猶知反哺(林の鴉もなお反哺を知る)」から「烏に反哺の孝あり」という諺が生じている。
 親孝行な烏に対し、牧童の恩に報いず先に行ってしまう牛を対比する。まあ、普通に風景として、牛に置いていかれた牧童に鴉がかあかあと鳴いて日が暮れてゆく場面を想像すればいいか。
 八句目。

   ふたつみつ反哺の鴉鳴つるる
 明日の命飯けぶりたつ      安信

 前句を鴉が塒に帰ってゆく夕暮れの景とし、人もまた明日の糧にと米を炊く。芭蕉の時代は「二時の食」で、一日二食の所が多かった。朝と夕に飯を食う。
 九句目。

   明日の命飯けぶりたつ
 わたり舟夜も明がたに山みえて  自笑

 前句を朝飯のこととする。夜も明ける頃に飯を炊く煙があちこちに見える。
 十句目。

   わたり舟夜も明がたに山みえて
 鐘いくところにしかひがしか   芭蕉

 明け方に鐘が鳴るが、それは西か東か、というわけだが、この年の春に詠んだ、

 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉

とややかぶっている。隅田川の渡し船に上野か浅草の鐘の音が聞こえてくる情景を、どことも知れぬ山に近い渡し場に変えたというところか。
 十一句目。

   鐘いくところにしかひがしか
 其すがた別の後も人わらひ    知足

 知足もすぐに芭蕉の「鐘は上野か浅草か」を思い起こしたのだろう。舞台を吉原だろう。遊女との後朝の別れも隣の部屋では笑い声が聞こえる。
 十二句目。

   其すがた別の後も人わらひ
 なみだをそへて鄙の腰折     菐言

 「腰折(こしおれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘自ラ下二〙 歌や文などがつたないさまになる。腰離る。
  ※紫式部日記(1010頃か)寛弘五年一〇月十余日「空の気色もうち騒ぎてなんとて、こしをれたる事や書きまぜたりけん」

とある。腰折れ歌、腰折れ文という言葉もある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[補注]「玉葉」や「無名抄」では、和歌の第三句を「腰句(ようく)」「こしの句」といっており、第三句から第四句へのつづき方の悪いという「腰折れ」の解釈を導いたと思われる。」

とあり、これが元の語義であろう。この言葉は今でも「話の腰を折る」という言い回しに名残がある。
 前句の「人わらひ」を後朝に去っていった男の残した和歌が腰折れだったので、控えていた女房達が笑ったとする。
 十三句目。

   なみだをそへて鄙の腰折
 髪けづる熊の油の名もつらく   芭蕉

 熊の油はマタギの人たちが古くから用いていたという。ただ、髪に使ったりはしないだろう。どんな田舎者かというギャグ。『伊勢物語』第十四段の「くたかけ」女のイメージか。
 十四句目。

   髪けづる熊の油の名もつらく
 身に瘡出て秋は寝苦し      如風

 「瘡(かさ)」は腫物のこと。手荒れや腫物に熊の油を用いるのは正しい使い方。
 十五句目。

   身に瘡出て秋は寝苦し
 釣簾の外にたばこのたたむ月の前 安信

 「釣簾(こす)」は御簾のこと。「外」は「と」と読む。
 たばこと塩の博物館のホームページによると、江戸時代の刻み煙草を作るには以下の工程があったという。

 「1 解包 産地から届いた葉たばこの荷をほどく。
  2 砂掃き 葉たばこに付いている土砂やちりを小ぼうきで一枚ずつ掃き落とす。
  3 除骨 葉たばこの真中に通っている太い葉脈(中骨)を取り除く。
  4 葉組み いろいろな種類の葉を組み合わせながら重ねる。(ブレンド)
  5 巻き葉 葉組みした積み葉を刻みやすく折りたたんで巻く。
  6 押え 「責め台」で巻き葉を押えてくせをつける。
  7 細刻み 巻き葉を切り台にのせ、押え板で押えながら刻む。
  8 計量 注文に応じて適当な分量に計る。」

 煙草を畳むというのは5の工程であろう。江戸時代のタバコ屋は女房が葉を畳み旦那がそれを刻むといった家内工業だったという。腫物の痛む体で眠れぬまま夜も月の前で作業をする、その辛さが伝わってくる。
 十六句目。

   釣簾の外にたばこのたたむ月の前
 楊枝すまふのちからあらそひ   知足

 「楊枝すまふ(相撲)」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「楊枝を二つ組合わせて、台を叩いて震動させ、倒れた方向によって勝負をきめる遊び。」

とある。今の紙相撲に似ている。
 前句の「たばこのたたむ」を煙草を片付けるの意味に取り成したか。
 十七句目。

   楊枝すまふのちからあらそひ
 小袖して花の風をもいとふべし  重辰

 楊枝相撲は風が吹くと簡単に倒れてしまうから小袖で風を遮ってやる。花の定座なので、「花の風」とする。
 十八句目。

   小袖して花の風をもいとふべし
 こがるる猫の子を捨て行     安信

 昔は捨て猫は普通で、川に流したりした。とはいえやはり可哀そうになり小袖で風を防いでやる。
 猿を聞く人は捨て猫の声をどう思うのだろうか。

2020年12月15日火曜日

 今日は霜月の朔日。晴れたが寒かった。夕暮れの空には二つ並んだ明るい星があったが、木星と土星だという。
 黒百合と影の「へその緒」は名曲だと思う。生誕の取引を感じさせるよな。
 さて、『俳諧問答』の方はまた一休みで、霜月の俳諧を読んでいこうと思う。今回は「京までは」の巻。
 貞享四年十月十一日の其角亭での「旅人と」の巻、そのあとの「江戸桜」の巻の興行の後、十月二十五日芭蕉は『笈の小文』の旅に出て、東海道を上る。そして十一月四日、尾張鳴海の知足亭に到着する。
 知足亭はかつて『野ざらし紀行』の旅のときにも訪れている。貞享二年の四月四日で、

 杜若われに発句のおもひあり   芭蕉

の句を発句とし、

   杜若われに発句のおもひあり
 麦穂なみよるうるほひの末    知足

と知足が脇を付けている。この後四月十日には芭蕉は江戸への帰りの途に就く。
 あれから二年半、ふたたび知足亭を訪れた芭蕉は、十一月五日には同じ鳴海の菐言亭で興行を行う。発句は、

 京まではまだなかぞらや雪の雲  芭蕉

 「なかぞら」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①空の中ほど。中天。
  出典伊勢物語 二一
  「なかぞらに立ちゐる雲のあともなく」
  [訳] 空の中ほどに現れて漂う雲があとかたもなく(消えてしまうように)。
  ②中途。旅の途中。
  出典後拾遺集 雑六
  「道遠みなかぞらにてや帰らまし」
  [訳] (あの世への)道のりが遠いので、旅の途中から帰ってしまおうかしら。」

とある。この場合は京までの旅の途中という②の意味と、空の中ほどに雪の雲があるという①の意味とをうまく両義的に用いている。
 『笈の小文』本文には、

 「飛鳥井雅章(あすかいまさあき)公の此宿にとまらせ給ひて、『都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて』と詠じ給ひけるを、自らかかせたまへて、たまはりけるよしをかたるに」

とある。飛鳥井雅章はウィキペディアに、

 「飛鳥井 雅章(あすかい まさあき、1611年(慶長16年)~1679年(延宝7年))は、江戸時代前期の公卿・歌人。権大納言・飛鳥井雅庸の四男。官位は従一位・権大納言。飛鳥井家16代当主。」

とある。延宝の時代まで生きた人で、まだ記憶に新しかった。和歌の方は最初の五文字が抜けているが「うちひさす」だという。飛鳥井雅章が泊まった時は日が差していたようだが、芭蕉が来た時には雪雲だった。
 脇は亭主の菐言が付ける。

   京まではまだなかぞらや雪の雲
 千鳥しばらく此海の月      菐言

 菐言は寺島氏だというが、あとはよくわからない。鳴海に千鳥というと、

   最勝四天王院の障子に、
   なるみの浦かきたるところ
 浦人の日もゆふぐれになるみがた
     かへる袖より千鳥なくなり
              源通光(新古今集)

の歌にも詠まれている。ここでは芭蕉さんを千鳥に喩え、しばらくこの海の月を見ていってください、と受ける。
 第三。

   千鳥しばらく此海の月
 小蛤ふめどたまらず袖ひぢて   知足

 蛤と踏むというのはコトバンクの「蛤にじる」の項の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「潮干狩の時、足で探るなどして蛤を取ることをいう。蛤を踏む。
 ※浮世草子・好色盛衰記(1688)二「汐ならむ川ばたに蛤(ハマグリ)にぢりて」

とある。足で探りながら蛤を取っていたが、我慢できずに手も使い袖を濡らしてしまう。前句はその背景となる。
 四句目。

   小蛤ふめどたまらず袖ひぢて
 酒気さむればうらなしの風    如風

 「うらなし」の「うら」は心のことで、心なくということ。裏がない、隠し事がないといういみもあるが、この場合は心なくであろう。
 袖まで濡らして取ってきた小蛤を肴に酒を飲んだが、心ない風に酔いもさめてしまった。
 五句目。

   酒気さむればうらなしの風
 引捨し琵琶の嚢を打はらひ    安信

 興に乗って琵琶を弾こうと琵琶の嚢を引き捨てたが、それを拾って埃を打ち払う。酔いがさめてしまい、興も失せたからだ。
 六句目。

   引捨し琵琶の嚢を打はらひ
 僕はおくれて牛いそぐ也     自笑

 下僕が琵琶の嚢を打ち払っている間に、牛は先に行ってしまった。

2020年12月14日月曜日

 今日は神無月の晦日。
 前に少し述べた「生存の取引」についてやや詳しく。

 「生存の取引」という考え方はまだ学生だった頃、一年留年したがそろそろ就職しなくてはという頃思いついたものだったと思う。
 基本にあるのはハイデッガーの実存哲学で、現存在の本来性が何で頽落という形で失われるのか、まだなんでそれを「死への存在」によって取り戻すことができるのか、それがあまりに大雑把な議論しか行われてなかったからだ。
 本来性と非本来性を転倒させた和辻倫理学についても同じだった。「人間存在(人と人との間の存在:人-間-存在)」がどのようにして否定され「個人」が生じるのか、「個人」がどのように否定され「人間存在」になるのか、最初から図式として提示されているだけで、具体的なものがなかった。
 基本的に人間はたった一人の「個人」として生まれてくるが、生まれた瞬間から社会の中に取り込まれる。すくなくとも誰かに育てられなければ生きてゆくことはできない。そこで最初から人は人間関係の中で生きてゆかなくてはならなくなる。「個人」はまずは泣き叫んで一方的に要求し、親や何らかの親代わりの者、医者、それらを取り巻く社会がそれを認めたところですべてが始まる。不幸にして産み落とされてすぐに殺されたり遺棄されたりする赤ちゃんもいる。その最初の関門を突破してから人生というものが始まる。
 最初はそれを「生誕の取引」と呼んでいた。「生存」という言葉は現存在の別訳だし、しばしば実存(existenz)の訳語としても用いられる。「生存競争」も英語ではthe struggle for existenceという。
 生誕は個人の側からすれば突如この世界に投げ出されることであるのに対し、社会の側からすればこの世界に共に暮らす仲間が一人増えることであると同時に、生存競争のライバルが一人生まれることでもある。
 このとき個人は社会の側から生きてゆくことを許された瞬間から、社会への所属を、つまり生存競争の敵ではなく仲間になることを要求される。生まれた時から始まる様々な躾けや教育を通じて、そしてそれができなかった時に受ける様々な罰によって、社会の側からの要求は絶えることはない。これに対し個人もまた自分の欲求を主張し続け、わがままを言い駄々をこねる。この過程のすべてが個人との社会との取引であり、それによって個人は社会の中で自分の居場所を確保してゆく。
 この取引は社会契約ではない。誰だってそんな契約書にサインした覚えなどない。社会全般に対してではなく、具体的に自分の周囲にいる人間に対し欲求をぶちまけ、押し通したり妥協したりあきらめたりを繰り返しながら、その都度取引を繰り返してゆく。生存の取引は社会一般に対してなされることはなく、あくまで個々の周囲の人との間のものだし、生存の取引は一定の期間互いを拘束するものではなく、その都度なされ、更新されてゆく。社会契約はあくまで抽象的な概念で、人は実際には生存の取引の繰り返しの中で生きている。
 これを思いついた後しばらく忘れていたが、結局社会に出てトラックの運転手になり、その傍ら暇つぶしのいろいろな本を読んでゆく中で、ニホンザルの研究の本にはまった。それをきっかけに人類の進化の過程に興味を持ち、わかったのは人間の生存競争が個と個の順位争いから多数派工作の勝負に変わったということだった。この考え方は様々な人間の利他行動とその裏腹の残虐さを説明するのに便利だった。仲間を作ることは生存競争を有利にすることであり、仲間でないものを排除することも生存競争を有利にするからだ。
 人は生まれ落ちた時からこの「仲間を作り、仲間でないものを排除する」という社会の中で、仲間になるための取引を繰り返していたんだ。排除に関してはミシェル・フーコーの哲学がぴったりとあてはまった。
 生存の取引は排除されないためにどこかの集団の所属しなければならないところから、集団に帰属するために自分の一部を切り捨てる。自分を捨てて集団に同化することで安全を得られる代わりに、自分の持って生まれた何かを我慢しなくてはならない。
 こうして捨ててきたものは心の中から消えるとことはなく、どこかで本来の自分に戻ろうとする。本来の自分に戻ろうとする声は心の底に風のように吹いている。
 ハイデッガーは集団への同化を頽落と呼び、それによって失われることなく心の底に吹く風を「死への存在」を契機とする「可能性の声なき声」と捉えた。
 和辻は個人を人間存在の否定とし、この否定には人間存在の発展の可能性をもたらすものとし、とくに芸術に人間存在の否定の役割を与えた。これは伝統的に風流の道が社会生活の中で抑えている感情の表現の役割を担っていたことを受け継ぐものだったし、その一方で西洋の個の哲学のこの役割を担うものとした。これに対し、人間存在の側からの個人の否定は社会秩序のための排除で、この二つの「否定」は人間存在そのものに内在するもので「空」と呼ばれ、天皇と結びつけられていた。これも天皇のもとに芸能が保護されてきた歴史を踏まえている。
 戦前戦中の和辻はこの両者のバランスを取ろうとしたが、戦後は日本の伝統文化を破壊する方に重点が置かれた。
 戦後の西洋哲学は基本的にはナチズムとスターリニズムの残虐な現実の前に、西洋哲学の根底が厳しい批判にさらされ、長い形而上学の伝統を乗り越えようとしていた時代で、「哲学の終わり」というところから「ポストモダン」が強く意識されていた。ナチズムもスターリニズムも激情に駆られて闇雲に人を殺したのではなく、理性の名において「汝なすべき」の定言命令によってあくまでも冷静に行われた犯罪だった。
 カミュの『異邦人』のムルソーは一時の激情で人を殺したが、それに対する死刑の執行はあくまでも冷静な手続きの中で行われ、その二つが対比された。あの悲惨な戦争も激情で人を殺すようなものではなかった。冷静に計画され作戦は実行された。それが膨大な数の屍の山を築いた。そして戦後しばらくたって明かされた共産圏での飢餓と粛清の嵐もまた激情によるものではなく理性によるものだった。共産圏は生存競争を止揚することができず、密告・讒言のゲームに変えただけだった。
 自分の哲学がそういう徹底した理性の幻想、形而上学の支配の危険の告発の中で形成されたのは間違いなかった。だから今の人権派の人たちがマルクス・ガブリエルを持ち上げて古い形而上学を復活させようとしていることには納得できない。差別を「ヘイト」と呼んでいるが、差別は個々の人間の一時の憎しみから生じるものではない。差別もまた社会を維持しようとする理性から生じている。生存競争は人間においては排除の競争であり、それは一時の憎しみによってではなく、禁止・狂気・非合理のすべてが動員される。この「非合理」の中には理性の名に於いた排除が含まれる。
 我々が暮らす社会は抽象的な理念としての「社会」ではない。具体的に生活の中でかかわる周囲の人たちに他ならない。周囲の人たちはみんな一人一人顔形が違うように考え方も違う。常識といっても人それぞれに常識がある。
 言葉の意味は無数の会話の中で用例を積み重ねることで生じるもので、会話に先だった超越的な概念が存在するわけではない。そのため形而上学が普遍的であったためしはない。ただ哲学者の数だけ哲学があっただけだ。それが真の多様性だ。
 人権思想といってもそういう「一つの思想」があるのではなく、人権を人それぞれ様々に解釈する無数の人権思想があるにすぎない。ただ、人権派が集まれば、自ずと彼らの間で排除の原理が働き、何らかの共通認識は生まれるが、それすら排除されたものは排除されたもので独自にセクトを立ち上げ、分裂を繰り返す。
 社会契約はこうした無数の生存の取引を繰り返す人間の社会にあって、それをよりよく制御するための諸仮説だと思っている。つまり、法制度を作り、それでうまく治まったなら残り、不満が爆発したものは消え去る。何度もさまざまな法制度が考案されては自然淘汰を繰り返し、生き残ったシステムが暫定的に最良のものとなる。それだけのものではないかと思う。何が真の人権かを決めるのは哲学者ではない。民衆だ。
 民主主義はこの自然選択の繰り返しを円滑に行える勝れたシステムだと思っている。独裁政治は「一つの思想」が支配し、それに従わないものを厳しく排除し、そこに密告と讒言のゲームが生じる。その結果システムは固定され、進歩を止めてしまう。
 芸術も同じで、多くの人に親しまれ残ってゆくもの優れた芸術であり、つまらないものは淘汰されてゆく。過去の良い芸術を学び、それを発展させるものが新たな流行を作り出し、芸術は時代が変わっても手を変え品を変え生き残ってゆく。
 不易は作品ではない。よく流行する作品を生み出し続ける人の心の中にある。美学や評論はただそれを後から分析するだけのもので、美学や評論から次のすぐれた作品が生まれることはない。ただ自然選択だけが芸術を進化させてゆく。その道筋も一つではなく、むしろ多様な社会の多様な人間に合わせて適応放散してゆくのが正常な姿だ。
 人の世を作ったのは唯一絶対の超越的理性ではない。無数の人間がそれぞれに生きようとして繰り返す生存の取引が人の世を作っている。かの夏目漱石も『草枕』のなかで書いている。

 「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」

 生存の取引による自然の秩序を否定して独裁政治を敷けば、必ず「人でなしの国」になる。二十世紀の多くの社会主義国家がそれを証明した。

2020年12月13日日曜日

  「俳諧問答」の続き。「自得発明弁」の終わりまで。

 「一、古歌のことばかりて句にしたる事あり。しかれ共嘗て其うたを下心にふまえて、仕たるにハあらず。自然ニ此詞ある故に、切入たる斗也。下心ありて取合たるなどきかれむハ、迷惑成事也べし。
 予が句ニ、
 初雪や拂ひもあへずかいつぶり
 此句、『拂ひもあへず霜や置らん』の心、少もなし。只『拂ひもあへず』也。
 初雪に鳰鳥、よきとり合物也。中の七字明て置がたし。一句成就の為、仮に入たる詞つづき也。此詞ならで用るものなし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185~186)

 「拂ひもあへず霜や置らん」の古歌は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 夜を寒みね覚めてきけば鴛ぞ鳴く
     はらひもあへず霜やおくらむ
             よみ人知らず(後撰集)

だという。
 カイツブリは鳰(にお)とも言う。琵琶湖は鳰の海といわれていて、冬にもなると彦根の辺りも雪が降り、初雪を羽ばたいて払おうとする鳰鳥に一興を得て詠んだのだろう。
 ただ、「払いもあへず」はオシドリと霜との取り合わせて古歌に詠まれているから、当然ながらこの歌のオシドリと霜をカイツブリと雪に変えただけではないか、という声もあったようだ。いわゆる同竈の句というわけだが、許六はあくまで影響はなかったと否定している。

 「又、
 鮮烏賊や世ハ白妙に衣がへ
と云句、ゑどにてセし也。
 衣がへといへば、着たり・ぬひだりの上にて果しを、衣の上ならであるべしと案じたる也。此ごろ、京も田舎も、鮮烏賊にて世ハふきたるがごとし。只衣がへにとり合て、『世ハ白妙』ハかりに入たる詞也。此句も此詞の外になし。天のかぐ山とききなさむハ、迷惑也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 「鮮烏賊」は「なまいか」で、千葉の鮮魚街道を「なまかいどう」と読むのと同じ。世間が衣更えで白い服を着ているの生イカに喩えたもの。これはわかる。

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
     衣干すてふ天の香具山
             持統天皇(新古今集)

とは何の関係もない。

 「何人の句やらに、
 立雲の南に白し衣がへ
と云ハ、全体『天のかぐ山』也。眼の屆ざる人、とり違へきき違へて、似する事是非なし。晋子が流ハ、いつとても下心なき事ハセず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.186)

 句は風国編『初蝉』の素覧の句。尾張蕉門で晋子(其角)流ではない。
 句の意味も南の空に夏らしい積雲が現れ、空も白く衣更えしている、という句で天の香具山の歌の趣向とは異なる。強いていえば、白い雲の峯を白妙の香具山に見立てたとも言えなくもないが。

 「高取の城の寒さやよしの山
といふも、『ふる里寒し』の下心也。ふる里よりハ、めの前の高取寒しといへる事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 これは其角の句。高取城は奈良の壺阪寺の東の方にある。この辺りも吉野の一部になるのか。元禄三年秋の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする芭蕉・尚白の両吟の巻の二十九句目に、

   随分ほそき小の三日月
 たかとりの城にのぼれば一里半   芭蕉

という句もある。奈良の高取藩の藩庁である高取城は日本三大山城の一つで、ウィキペディアによれば、

 「城は、高取町市街から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートルの高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と歌われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
 曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。」

 あまりに広大な城なので天守閣にたどり着く頃には日も暮れてしまうというわけだ。この城のことはそれこそ当時の噂になっていて、誰もが知っていたのだろう。
 吉野に寒さというと、

 みよし野の山の秋風さ夜ふけて
     ふるさと寒く衣うつなり
            参議雅経(新古今集)

の歌が確かにある。まあ、それを踏まえて高取城という今のもので取り囃したとも言える。
 芭蕉も『野ざらし紀行』の旅の時に吉野で詠んだ、

 砧打ちて我にきかせよ坊が妻    芭蕉

の句も同じ歌を踏まえているし、こういう下心が悪いということはないと思う。ただ、古典の出典に密着しすぎるのを「軽み」の頃から嫌う傾向にあり、許六はその世代だから気になるのだろう。

 「晋子が此ごろの秀逸ハ、
 鶯の身をさかさまに初音哉
 此句、近年のうぐひすの秀逸也。外にあるべきともおもはず。師の句、『餅に糞する』とこなし給ふ後に、終ニこれほどにあたらしミをはしらせたる句ハなし。此句より能句ハ、如何程もあるべし、此後も出ヅべし。これほど新しき句ハなし。一筋にさかれむハ、作者も本意なかるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.187)

 其角のこの句は元禄九年刊風国編『初蝉』に収録されている。許六が最近見た中で目に留まったのだろう。

 同じくが『去来抄』だと、

 「角が句ハ春煖の乱鶯也。幼鶯に身を逆にする曲なし。初の字心得がたし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.33~34)

となり、実際にはありえないとする。
 思うに昔はウグイスとメジロが混同されていて、メジロの緑色を鶯色と言い、この色をした餅を鶯餅なんて言ってたりしたから、メジロが頻繁に身をさかさまにするのを見て、許六さんも「あるある」と思ったのかもしれない。

2020年12月12日土曜日

  一日の新規感染者数が三千人を越えた。北海道は一時期減り始めていたが再び上昇たのは寒さが厳しくなったせいか。東京・大阪は高止まり。知事がそれなりに動いた結果だろう。それに引き替え神奈川県の黒岩知事は何もしない。
 トランプさん、もう無理だからJFK暗殺の真相ばらしちゃったら。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「初雪やいつ大仏の柱たて    翁
 これ大仏建立ハ、今めかしきやうなれ共、此ふるき事万里の相違あり。初雪に扨々よき取合物、初の字のつよミ、名人の骨髄也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.185)

 この句は芭蕉が『奥の細道』の旅の後、いったん伊賀に帰省し、そのあと路通とともに奈良へ行ったときの句で、元禄三年正月十七日付の万菊丸宛書簡に、

   南都
 雪悲しいつ大仏の瓦ふき

の句があり、こちらが初案と思われる。
 奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページによると、永禄十年(一五六七年)の三好・松永の兵火で多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほどに溶け崩けてしまったが、その後少しづつ復旧作業が進められていったという。江戸時代に入ると、

 「貞享元年(1684)公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートしました。これは江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う、「出開帳」(でがいちょう)の方式を用いたキャンペーンでした。この方法は、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつかみ、多額の喜捨を集めて大仏修理の費用をまかなうことができました。その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所として龍松院が建てられています。
 大仏修理の計画が具体化していくにつれ、奈良の町では大仏講という組織が編成され、勧進帳が作成されるなど、大仏復興への気運が地元でも盛り上がりました。そして貞享3年(1686)には大仏の修理が始まり、そのわずか5年後の元禄4年(1691)には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。このとき、奈良は空前の賑わいをみせたといわれています。」(奈良女子大学大学院人間文化研究科のホームページ「東大寺の歴史」3、江戸時代の東大寺)

とあり、芭蕉が訪れた元禄二年冬には大仏本体は修理の真っ最中で、大仏殿はまだ手付かずだったようだ。
 大仏修復の真っ最中の句で、その意味では流行の題材の句だが、大仏の有難さそのものは古くからある題材で、大仏殿の荒れたるを悲しむ心情を雪に託している。
 大仏というと、貞享五年春、『笈の小文』の旅の途中の伊勢護峰山新大仏寺で、

 丈六にかげろふ高し石の上    芭蕉

の句を詠んでいる。荒れ果てたといえば、貞享元年『野ざらし紀行』の旅で熱田神宮を訪れた時、

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉  芭蕉

の句を詠み、その惨状を訴え、やがて修復が行われ、貞享四年冬、『笈の小文』の旅で再び訪れた時には、

 磨なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

と蘇った熱田神宮を喜んでいる。
 こうした句は決して「滅びの美学」だとかいうものではなく、あくまで滅んでいくことを嘆き悲しみ、滅ばぬことを願い、保存や再興を訴えるものだった。

 初雪やいつ大仏の柱立て     芭蕉

の句も、大仏だけでなく大仏殿も早く再建されることを願っての句だった。
 熱田神宮の再興も、大仏殿の再建も、その時代、その時点での社会全体への問題提起であり、流行の句にはその時代その時代の問題提起の意味もある。問題が解決してしまえばもはや時代遅れかもしれないが、その魂は不易だ。
 『野ざらし紀行』の、

 猿を聞人捨子に秋の風いかに   芭蕉

も捨て子という当時の深刻な社会問題に、何らかの解決を訴える句だったと思う。大分遅くはなったが百年近く後の明和四年(一七六七年)にようやく「間引き禁止令」が出され、日本に孤児院が誕生するには明治になるのを待たねばならなかった。
 東大寺大仏殿の完成はそこまで遅くはなかったが、宝永五年(一七〇八年)のことだった。
 俳諧風流の心は和歌の心と同じ、力を入れずして天地を動かす(非暴力で社会を変革する)ことだった。

2020年12月11日金曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、世上に新敷物と、今めかしき物と、取つがへ侍る。
 新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。晋子が衣がへに、

 越後やにきぬさく音や衣がへ

と云句あり。勿論句作り等ハよくとりはやしたりといへ共、此句晋氏などせぬ句也。
 かやうの今めかしき物を取出して発句にする事、以の外の至り也。興に乗じていひ捨の巻などニハさもあるべし。
 晋氏ハ江戸の宗匠、芭門の高弟也。末々の弟子、此句を見て、あたらしきと云ハかやうの事とあやまり、證句ニセん事うたがひあるべからず。当歳旦ニも、二朱判・五まわりましなど云事見えたろ。此まどひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183~184)

 ゲーム業界にも「流行に乗るな、流行を作れ」という言葉があるらしい。開発に時間のかかるゲーム業界では、下手に流行に乗っかると、発売の頃には既に流行遅れになっていることが往々にしてあるからだという。
 とは言っても新しいものを作り出すのは難しい。それに比べれば誰かが作った新しいものに便乗する方が楽だ。『鬼滅の刃』という新しい作品を生み出すのは大変なことだが、それに乗っかって何でも鬼滅が入っていればいいとばかりに安易なグッツを売り出したり、「全集中」なんて言葉を口にするのはたやすい。
 流行の句といっても、流行を作る句と流行に乗っかる句は違う。許六の言う「新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。」というのは流行を作る句であり、

 越後やにきぬさく音や衣がへ   其角

の句は新味とは言っても流行に乗っかっただけの句だというわけだ。
 「店前(たなさき)売り」と「現銀(金)掛値なし」のシステムで開いた江戸の「三井越後屋呉服店」は大人気となり、このやり方は今の日本のほとんどの商店に受け継がれている。日本では商品を値切らずに正札通りに買うのが普通だが、世界的には珍しいのかもしれない。ただ、現金にこだわった日本のシステムは、ネット決済では世界に後れを取ってしまった。
 もっとも、江戸本町の越後屋呉服店は延宝元年の創業だから、其角がこの句を詠んだ元禄九年ではそれほど新しものでもなく、すでに定着しているものだったのではないかと思う。越後屋はその後明治に三越百貨店になり今でも残っているから、むしろ越後屋がそろそろ不易となる、そのタイミングで其角はこの句を詠んだのかもしれない。
 ただ、大衆芸術の発展というのは、無から新味を生み出すだけではなく、誰かが作り出した流行にさらに新味を加えることで発展してゆく。一人の人間の生み出せる新味は、どんなに才能があっても限られている。また他人の生み出した新味も受け継ぐ人がいなければ廃れる。だから、一流のクリエーターであっても流行に乗ることを恥じる必要はない。大事なのは流行に乗っても必ずそこに何か新味を付け加えて発展させることだからだ
 吾峠呼世晴さんの『鬼滅の刃』にしても先行する様々な作品からモチーフを借りているだろうし、特に主要なテーマとなっている永遠の命を廻るコノハナサクヤヒメ神話的なテーマは、冨樫義博さんの『幽☆遊☆白書』の戸愚呂弟と幻海師範の物語を引き継いでいるのではないかと思う。この種のことは「俳諧自賛之論」の「48、等類」の所で書いているので、ご参照を。
 許六は逆にその潔癖さゆえに人の見つけた新味に乗っかることを良しとしなかったために、芭蕉の作り出した新味を発展させることができなかったのではないかと思う。

 「平句ハ興に乗じて予もある時せし、
 海手より夜ハほんのりと明かかり
   越後や見する松阪の馬子
と云句也。江戸の越後や。京の越後や、おかしからず。松阪の越後やこそ、俳諧とハ申物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.184~185)

 越後屋は発句道具ではなく平句道具だということか。ただ、同じ越後屋でも江戸、京、松阪では随分違いがある。
 三井広報委員会のホームページによると、京都の越後屋は、

 「江戸時代、京を根城に江戸に出店して商いをする「江戸えど店持たなもち京きょう商人あきんど」は、商人の理想であった。松阪で力を蓄え、江戸への出店を準備していた三井高利は、52歳にしてそれを実行に移す。以来、京都は商品仕入れや江戸に指令を発する三井の本拠地となっていった。高利は、延宝元年(1673)、江戸本町に越後屋呉服店を開くと同時に、京都に呉服物の仕入れ店を開業した。当時、高級な絹織物はほとんどが西陣の製品であり、京都はその西陣織や小間物の仕入れに便利なばかりか、長崎経由で輸入されてくる唐の生地、反物などもいったんすべて京都に運ばれ、売買が盛んだったからである。仕入れがうまくいくかどうかは経営を左右し、呉服店として飛躍していくためにはどうしても京都に拠点をおく必要があった。」

と販売の中心が江戸だったのに対し、仕入れの中心として京都にも店を構えていた。
 これに対し、松阪は越後屋の発祥の地であり、三井広報委員会のホームページには、

 「高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から5代目・三井越後守高安の時代に天下統一を目指す織田信長が、上洛のため近江に攻め入り、六角氏の諸城を次々攻め落とし、六角氏は滅ぼされた。
 主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、その後、三井一族は津、松阪などを流浪し、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とし、高安はその地で没したとされている。
  …中略…
 その後、高安の子・三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始める。この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。これが後に高利の「越後屋」の屋号の起源であり、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生する。」

とある。
 許六が詠んだのはこの元の越後屋の方で江戸で流行する越後屋ではない。それでもこの松阪越後屋の句で、自分は流行遅れではない、越後屋を詠めないのではなく詠まなかったんだというアピールがしたかったか。

2020年12月10日木曜日

  午前中は小雨が降った。だんだん寒くなってくる。
 何となくこの二三日、車が減っているような気がする。ただ、その分コロナが強くなれば効果は相殺される。やはり年末は静かに過ごした方が良い。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、右両句時鳥の事。予察し見るに、『江に横たふ』の方、先へ出たるべし。
 『江に横たふや時鳥』と吟じ見るに、『ほととぎす』と云下の五もじニて、つかへてはねかへりたるやうにおぼゆ。是にて案じかえられたる成べし。
 時に、『ほととぎす江に横たふや』と、さだめて参るべし。是にてハ、五文字七文字の間に、声といふ事なき故に、「声横たふや」とハ直りたると見えたり。『水の上』ハ、後のいろへむすび也。
 両句の甲乙、自己ニも分がたき故に、人々ニ判を乞ハれたるなるべし。句のよきハ、『江に横たふ』の方、慥にすぐれたれ共、下五文字の所にてよろしからぬ故に、『水の上』の方へ極め給ふと見えたり。
 惣別にてはなしに、ほととぎすの、かきつばたのト云詞を下五もじにをく時、上五もじ・中七もじの間にて、てにはのまハらざる時ハ、当てはねかへりたる様成もの也。
 『一声の江に横たふやほととぎす』と吟じ見るに、一句幽玄になびらかならず。是、『一声の江に横たふや』と云所までに、てにはまハらぬ故に、下のほととぎす、ぎよつとしたるやう也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.182~183)

 前にも述べたように、「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。
 「はねかへりたる」の「はねる」は飛ぶという意味とともに、中途で終わるという意味がある。撥音を「はねる」と言うのは、「らむ」の最後の「う」の母音が欠落して最後まで発音せずに「らん」で終わってしまうからであろう。「首をはねる」というときの「はねる」も、近代の麻雀用語の「頭はね」も、この途中で切るというところから来ている。許六の言う「つかへてはねかへりたる」も途中で途切れてしまったような中途半端な感じを言う。この感覚は正しい。
 そこで「ほととぎす江に横たふや」と直すと、今度は「声」が入らなくなるため、「ほととぎす声横たふや」とすると「江」が抜けてしまうので、最後に「水の上」と色を添えることになる。
 許六が沾徳に判を求めたのは、自分でもどちらが良いか甲乙つけ難かったからで、最初から「江に横たふや」の方が良いと思ってたなら判など求めなかっただろう。趣向としては「江」の方が良く、言葉の続き具合は「水の上」の方が良い。そこでジレンマに陥ってしまった。許六がこれを書いたのは、後の読者に良い解決策を求めてのことだろう。

 「又、
 野を横に馬引むけよほととぎす
 木がくれて茶つミもきくや時鳥
と云句ハ、上五もじ・中七もじにて、おもふままにまハる故に、下の『ほととぎす』連続したる也。此論、予が発明也。よくよく御吟味給ハるべし。微細成所よくきき侍る事、御褒美にあづかりたし。
 随分おぼしめしのままに、御句なさるべし。予かたのごとくきき侍るべきなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183)

 同じように下五が「ほととぎす」で終わっていても、芭蕉のこの二句はきちんと切れていて、撥ねた感じがしない。
 この二句の倒置を解消すると、

 野を横にほととぎす(の方)に馬引むけよ
 茶摘みも木がくれて時鳥をきくや

で、文章としても趣向としても完結している。

 時鳥の一声の江に横たふや

はホトトギスの声が江に横たわって、それで何なんだ、という感覚が残る。
 ここで足りないのは許六の言う「取り囃し」ではなかったかと思う。
 芭蕉の句は「野」と「時鳥」の取り合わせに、「馬を横に引き剝けよ」という強力な「取り囃し」がある。「茶摘み」に「時鳥」の取り合わせにも、「木がくれて聞くや」という強力な「取り囃し」がある。許六の句は「ほととぎす」と「江」だけで終わっている。その差ではないかと思う。
 取り合わせだけだと、その二つの取り合わせの必然性が分からない。そこに取り囃しが必要とされる。
 ロートレアモンの「解剖台のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」もミシンと蝙蝠傘の取り合わせに「解剖台の出会い」という取り囃しがあるから成り立つ。
 野に時鳥、だから何なんだ?決まってるじゃないか馬を引き向けろということだ。
 茶摘みに時鳥、だから何なんだ?それは時鳥の声が木隠れに茶摘みの人たちにも届いているということだ。
 ならば江に時鳥、だから何なんだ?その答えをみんな知りたいんだ。
 ある意味でこれは「謎かけ」に近いのかもしれない。

 野と掛けて時鳥と解く、その心は?馬を引き向けます。
 茶摘みと掛けて時鳥と解く、その心は?木隠れにに伝わります。
 江と掛けて時鳥と解く、その心は?

 ならば、もう一つの、

 ほととぎす声横たふや水の上

は何で完結して聞こえるのか。時鳥の声が横たう、というのが謎かけになって、どこに横たわるのだろうかと思わせて、「水の上」で落ちになるからだ。つまり、

 時鳥と掛けて声横たうと解く、その心は?水の上だったからです。

となる。

2020年12月9日水曜日

  そういえばトランプさんは結局ケネディ大統領暗殺の機密文書を公開しなかったんだっけ。あれって2021年10月に再び検討するって話があったような。
 まあ、あれが謎のままなら今回の選挙の真実もきっと永遠の謎なんだろうな。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「此時鳥の句出ける時、予も吾妻の方ニ居合て、其おりの文通に、
 ほととぎす声横たふや水の上
 一声の江に横たふや時鳥
 右両句、沾徳が判に寄て、水の上に究侍ると云色紙送られたり。今にあり。
 予其返事に、徳ト云者一生真ンの俳諧なし。かれが判、おぼつかなし。予ハ只、『江に横たふ』の方、勝れりと返事せし也。
 案ずるに、『水の上』の句、幽玄にハきこえ侍れ共、『水の上』入ぬ詞なり。『声横たふや水の上』と、一言も残さずいひつめて、しかも『水の上』といろへたる事を、沾徳ハよろこべり。これ俗のよろこぶ所也。
 『江に横たふや』といふ處ニ、いろいろの心をふくめた事をしらず。
 中々俗の耳にハ落がたし。師名人たるに寄て、一人の意に決し給ハず、人にいはせて論をきハめ給ふ人也。予などにもいはせて極め給ふ事、度々有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.179~180)

 芭蕉もよく二句を弟子に見せて選ばせたりしたようだ。

 人聲や此道かへる秋のくれ
 此道や行人なしに龝の暮

この二句を支考に選ばせた話は各務支考の『笈日記』に記されている。
 許六もそれに倣って、

 ほととぎす声横たふや水の上
 一声の江に横たふや時鳥

の二句を沾徳に選ばせたのだろうか。
 沾徳は「声横たふや水の上」の方を選んだが、許六としては不満なようだ。
 この二句の一番の違いは「一声」のあるなしだが、沾徳はこれを不要としたのかもしれない。ホトトギスは一声を聞くのを本意としていたからだ。それに「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。
 倒置を解消すれば、この両句は、

 水の上にほととぎす声横たふや
 時鳥の一声の江に横たふや

となる。前者は「水の上に」が強調されていて、後者は「時鳥の一声」が強調されている。この句の見所が「水の上」にあるのか、それとも「一声」にあるのか、となると「水の上」ではないかと思う。

 「外々の門人、さもあるべし。しかれ共外の句ハ、判者の沙汰なし。此句にかぎりて、沾徳が判を乞ふと、旁々へひろめ給ふ。是子細のなき事ハあるまじ。
 沾徳が判に究めたると云事を、後代迠いはむ為と、かくハしるし給ふと見えたり。
 両句の甲乙、いづれ共わきがたかるけれ共、すき・不数奇を論ずる時ハ、予ハ『江に横たふ』の方すぐれたりとおぼえ侍る。いひつめずして、心のあらハれ侍る事をこのめる故也。此事奥ニくハしく記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.180~181)

 この句の見所が「水の上」であれ「江に」であれ、水辺のホトトギスである以上、あとはそれを中心に据えるか、脇に置いて匂わすかの違いにすぎない。「いひつめずして、心のあらハれ侍る」は水辺のホトトギスの興に関しては許六の言う通りであろう。
 ただ、「時鳥の一声」の「一声」は言わなくてもいい言葉で、そこでは言い詰めているとも取れる。かといって「一声」を省くと字足らずになって発句にならない。難しいところだ。

 「哥にも、
 日も暮ぬ人もかへりぬ山里は
   峯のあらしの音斗して   基俊朝臣
 日くるれば逢人もなし正木ちる
   峯のあらしの音ばかりして 俊頼朝臣
 此両首、いくばくの相違もなく、まして下句ハおなじ言葉也。
 人々俊頼の哥を勝れりといへ共、定家の卿の判ニ云ク、俊頼の哥ハ、『正木ちる』といふ處いろへにし、俗のよろこぶ所也。是いらぬ詞也。新古今時代の費とのたまひ、基俊の哥勝れたりとハ極るといへり。
 両句の上を見るに、『水の上』といへる詞、『正木ちる』といふにかよひ侍るとおもへバ、『江に横たふ』の方をすき侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.181)

 基俊の歌は岩波文庫の『俳諧問答』横澤三郎注に、「『後拾遺集』にある歌であるが、作者は源頼実になっている」とある。俊頼の歌は『新古今集』だという。
 確かに似ているというかほとんど同じだが、源頼実の歌は人のいなくなった山里の景なのに対し、源俊頼の歌の方は正木の散る峰の風景に主眼が置かれ、人がいないということは背景に退くことになる。
 正木(まさき)はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」の「柾木」の所に「『まさきのかづら』に同じ。」とあり、「まさきのかづら」は同じくweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「常緑のつる性植物の名。「ていかかづら」とも「つるまさき」ともいわれる。ほかの木にからみついて長々とのびるので、「長し」の序詞(じよことば)となる。古くは、つるをさいて鬘(かずら)とし、神事に用いられた。まさき。[季語] 秋。」

とある。

 深山には霰降るらしとやまなる
     まさきの葛色づきにけり
            よみ人知らず(古今集)
 移りゆく雲にあらしのこゑすなり
     散るか正木の葛城の山
            飛鳥井雅経(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 確かに定家の卿の言う通り、日も暮れて人もいない峰で「正木ちる」は何の脈絡もなく唐突に登場する感じがする。その一方ではこの夕暮れの峯に色づいた正木葛の色を添えることにもなる。
 許六は「水の上」がこれに類するというが、「江に」「水の上に」は同じことで別の景物が登場しているわけではない。

 葦茂き江に横たふや時鳥

なら「正木ちる」に近いとも言えよう。

2020年12月8日火曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「あら海や佐渡に横たふ天の川  翁
 時鳥声横たふや水の上      同
 両句、『横たふ』も、『塵なき』に似たりといへ共、愚案ずるに、『あら海』の『横たふ』ハ、佐渡・越後さしむかひたる事をいはむ噂也。橋をかけべしなどの俗語も、おもひ出られ侍る。
 『ほととぎす』の『声横たふ』ハ、専『水光接天、白露横江』のちから也。是似たる詞にして、出所大きに相違せり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178~179)

 芭蕉の「荒海や」の句は、本当に天の川が空に横たわっているのではなく(実際七夕の頃の天の川は佐渡の方にはかからない)、佐渡・越後差し向かいにあり、その間に横たわっている荒海が織姫・彦星の仲を冷酷に引き裂いている天の川のようだという比喩の句だ。「佐渡・越後さしむかひたる事をいはむ噂也」と許六が言っているように、佐渡が流刑の地で荒海がその前に横たわっていることは当時の多くの人の共通認識で、いわゆる「噂」だった。
 許六編の『風俗文選』所収の芭蕉の俳文『銀河ノ序』にも、

 「彼佐渡がしまは。海の面十八里。滄波を隔て。東西三十五里に。よこおりふしたり。みねの嶮難谷の隈々まで。さすがに手にとるばかり。あざやかに見わたさる。むべ此島は。こがねおほく出て。あまねく世の宝となれば。限りなき目出度島にて侍るを。大罪朝敵のたぐひ。遠流せらるるによりて。ただおそろしき名の聞えあるも。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、岩波文庫、一九二八、p.103)

とある。
 「橋をかけべし」の俗語はよくわからないが、佐渡に橋を架けるのは天の川にカササギの橋を渡すようなものか。
 「時鳥」の句の「水光接天、白露横江」は蘇東坡の『赤壁賦』で、「白露横江、水光接天」が正しい。水辺の景色の美しさに、ホトトギスの声も横たうや、というもので、まったく発想が違う。

2020年12月7日月曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、等類のがれの事。師説、
 都をば霞と共にたちしかど
   秋風ぞふくしら川の関    能因
 都をば青葉とともに出しかど
   紅葉ちりしく白河の関    頼政
 此二首、心・詞少もかハらね共、定家の卿の判に云、頼政が歌ハ、能因が歌を本歌として、心・詞少モかハらね共、是等類にあらず也。頼政が歌ハ、色をよみたる哥也。これ産所の各別なる事を、先達よくきき分ケ給ふ故也。ありがたき判也。かやうの先達ありて社(コソ)、俳諧も面白し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.176~177)

 この二首の類似は有名で、『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147の所でも述べたが、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められている。
 こういう時間の経過による展開は俳諧でも、「かくれ家や」の巻十七句目の、

   笠の端をする芦のうら枯
 梅に出て初瀬や芳野は花の時   芭蕉

「めづらしや」の巻三十一句目の、

   温泉かぞふる陸奥の秋風
 初雁の比よりおもふ氷様     露丸

といった句に見られる。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。

 「ある時予が句、
 朝顔のうらを見せけり風の秋
と云せしニ、おりふし丈草へかたりけれバ、此句、翁の『おもて見せけり』の葛の句、作例たるべしといはれけり。
 予つくづくとおもふに、此句少もくるしからじ。翁の句ハ、葛のうらと云古歌の詞を返し、初て『葛のおもて』とハいはれたり。是おのづから制也。葛のうらと云事、終ニ哥・俳諧制ハなし。
 予が句ハ、葛のうらに対して、新ミをいひたる句也。古人、葛より外ハうらを見ぬといひけれ共、葛よりハ鼻の先に朝顔のありける事をしらぬと、嘲りたる句也。曾て翁の句ニ類する事なし。能因・頼政の哥ハ、意・詞もかハらね共、等類に落ずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.177~178)

 朝顔のうらを見せけり風の秋    許六
 くずの葉の面見せけり今朝の露  芭蕉

 この二句についての類似は『去来抄』同門評にも記されている。

 「蕣の裏を見せけり秋の風
 一説曰、此句先師の葛葉の面みせけりと等類也。許六曰く、等類にあらず。みせけりとは詞のむすび迄なり。趣向かはれり。去来曰、等類とは謂がたし。同竈の句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤の山の鶯は己なきてや春をしるらんと云に、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.45)

 言葉の続き具合は似ているが、これは最初の発想が全く違うため、同竈(同巣ともいう)とは言い難い。
 許六の句は古歌に「葛の裏葉」は詠まれているが、朝顔の葉の裏返るのは詠まれてないから、そこに新味があるというものだ。許六の時代の朝顔は今と同じ朝顔だが、古代の朝顔は桔梗か槿で、今の朝顔ではなかったと言われているから、実際には古人の鼻の先には朝顔はなかった。
 芭蕉の句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時に詠んだ句だと言われている。「面(おもて)見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。裏を見せるはずの葛の葉が表を見せたというところに新味があるという許六の評は間違ってはいない。

 「清瀧や波に塵なき夏の月
 白菊のめに立てて見る塵もなし
 右両句、塵なきと云事、後にむづかしとて、『波にちり込青松葉』とハ案じかえられたりときこゆ。
 退て案じ見るに、此塵、志の趣ける所同じさま也。故ニ案じかえられたるとハ見えたり。西行上人も、『清瀧川の水のしら波』とハつよくよみ給ふ也。『波にちり込む青松葉』とすずしく師のいひ給ふつよみ、西行の哥におとれりとハ見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178)

 「清瀧や」の句の改案は支考の『前後日記』に見られるもので、そこにはこうある。

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 芭蕉のあの「夢は枯野を」の句よりも後であるため、結果的にはこれが芭蕉の最後の句となった。
 「清瀧や波に塵なき夏の月」の塵は清瀧の水の美しさを詠んだものなのに対し、「白菊のめに立てて見る塵もなし」の白菊はこの興行の主人である園女の比喩だという違いはあるが、どちらも褒めて言う言葉には違いない。
 結局芭蕉は月に照らされて塵なき波、という褒め方をやめて、あえて「波にちり込青松葉」という塵を出しながらも青松葉も美しいというふうに改作した。夜から昼の景に転じているし、発想を完全に変えている。
 西行の「清瀧川の水のしら波」は、

 降りつみし高嶺のみ雪とけにけり
     清滝川の水のしら波
             西行法師(新古今集)

の歌で、この下句に青松葉を取り合わせて夏の発句にしたといってもいいかもしれない。

2020年12月6日日曜日

  コロナの新規感染者数は頭打ちで、全国だと一日二千五百人程度で安定してきた。実効再生産数も1.06と1に近い。このまま高止まりの均衡に至るのか、それともこれからさらに寒くなることで再び増加が始まるのか、予断を許さない。その一方で死者の数は一日四十人のレベルで増えている。
 国際医療福祉大学大学院の高橋泰教授の説のようなのを信じる人が政府や自治体の中にもいるのだろうか。マスコミがこうした説を報道しているのだから、マス護美の中にも信者がいて、旅行や外食を煽って感染を広げることがコロナを収束させると信じちゃっているのかもしれない。
 この説の基本にあるのは、感染しなくてもウィルスを体内に吸引し、免疫細胞と接触しさえすればその段階で免疫が獲得できるため、感染してなくてもウィルスが広範囲に拡散していれば集団免疫が獲得できるという考え方で、ワクチンも基本的には感染させずに抗原との接触だけで免疫を作ることになる。
 この吸引しただけの状態を「暴露」というようだ。日常的な言い回しと全く違う用法なので注意する必要がある。
 夏の間でウィルスの密度が低く、感染しにくい状態で吸引する者が多く、クラスターが出ても発症率が低ければ二次感染する確率は低く、放置しておいても拡大もせず収束もしない状態で安定することになる。この状態だと寒い時期に比べて重症化率、致死率が減少する。
 問題は夏の間に広範囲な暴露が起きて集団免疫の獲得に至ったかどうかだが、抗体検査は誤差が多く、類似するウィルスの抗体に反応する場合があるので、データは信用できない。今年の初夏に世界中で抗体検査が行われたが、あまりにも高い数値が出たばかりか、去年献血された血液からも抗体が見つかったりして(最近報道されたイタリアの研究もこれだが)、結局抗体検査はあてにならない、ということになっていった。
 京都大学の方の研究ではすでに集団免疫ができたから十一月には収束するなんて予想をしてたが、結果は見ての通り十一月に感染が再拡大した。
 なぜ予測が外れたかというと、考えられるのはコロナに暴露した人の数はPCR検査に引っかかった人の数よりそれほど多くなく、実際に本命の新型コロナの抗体はほとんど獲得されてなかったからであろう。
 そして、冬になって密度の濃くなったウィルスに暴露すると、高橋さんの例えで言う「巡査」程度の免疫では対応できなくなり、「軍隊」の出動になるが、コロナウィルスはこの軍隊にも感染し、免疫系を異常化させるため、あっというまにサイトカイン・ストーム(免疫システムの暴走)や血栓の形成を引き起こし重症化してしまう。
 実際欧米であれほど多くの感染者や死者を出していながら(夏には欧米のコロナの弱体化も伝えられていた)、この冬再び同じことが繰り返されている。日本よりはるかに早く集団免疫ができているはずの欧米で、日本以上に感染者も多く死者も多いのはどう説明するのだろうか。
 だから、GoToを広げて早くたくさんの人に暴露させて集団免疫を作ろうなんてのはとんでもなく無謀なことで、菅政権が騙されてないことを祈る。

 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、不易流行の事。翁ノ句に、
 青柳の泥にしだるる汐干哉
と云句したり。予つくづくと見て、此句景曲第一也。
 しかれ共新古の事いぶかしくて、数篇吟じ返し、大きに驚き、初て此風の血脈を得たり。是正風体たるべし。
 津の国の難波の春はゆめなれや
   あしの枯葉にかぜわたるなり 西行
 風そよぐ奈良の小川の夕ぐれは
   御祓ぞ夏のしるし也けり   家隆
 青柳の泥にしだるる汐干哉
と此次ニ書ても、少もおとらず。句作り幷細ミ・魂魄の入やう・趣向の取廻し、毛頭かはる事なし。
 此句の後、愚句、
 峯入の笠とられたる野分かな
 かげろふの中から上る雲雀哉
専青柳の汐干より発明せし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.173~174)

 青柳の泥にしだるる汐干哉    芭蕉

の句は元禄七年三月の句で、『炭俵』には「柳」ではなく「上巳」の所に収録されている。
 上巳は三月三日の桃の節句のことで、ウィキペディアには、「『上巳』は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。」とある。ひな祭りの日である一方で、潮干狩りの日でもあった。
 柳の枝が干潟の泥の方に垂れている様と、貝を掘ろうとして腰を曲げている人の姿との類似に着目した句であろう。
 ただ、その類似の笑いの要素を取り除いても、一つの海辺の景として成立している。ここに許六は流行と不易との一致を見たのであろう。西行や家隆の和歌と並べたのはそのためではないかと思う。

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

の句は支考撰『笈日記』(元禄八年刊)では「笠もとらるる」になっている。芭蕉の「鶯の笠落したる椿かな」とのかぶりが気になったか。
 「峯入(みねいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》
  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

とある。この場合は「逆の峰入り」になる。台風の季節で、熊野の山の中で笠を吹き飛ばされることもあるだろう。
 芭蕉が『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

とあるが、順の峯入りは春の句となる。

 かげろふの中から上る雲雀哉   許六

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注には「『校本』かげろうをたよりに上る」とある。「中から上る」だと単なる景色の句だが、「たよりに上る」だと、陽炎の上昇気流と雲雀の上昇との共鳴が見られる。
 この二句は景色の良さを不易として、そこに何かしらの新味を加えるという点では、「青柳の泥にしだるる」に倣ったといえよう。

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。
 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、
 人声の沖には何を呼やらん    桃隣
 鼠は舟をきしる暁        翁
 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。
 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、
 須磨の鼠の舟きしる音
と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。
 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。
 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。

   人声の沖には何を呼やらん
 鼠は舟をきしる暁

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。
 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

   人声の沖には何を呼やらん
 須磨の鼠の舟きしる音

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。
 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。
 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

2020年12月5日土曜日

  今日は一日小雨だった。
 あと、ナイキのあのCMだが、コマーシャルなんだから作り物にきまってるだろっ。そこは突っ込みどころではない。作り物としての出来がどうかが問題なだけだ。
 もちろん文学の議論も同じで、みんな作り物に決まってるんだよ。ただ作り物として良く出来ているかどうかが問題なだけだ。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第三年忌、在所にていとなむ。我友共とつぶやく。ことし師の三年忌の追善、世間の俳諧大方見えたり。塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる、などいふ事にて果べし。
 追善の発句、仕様あるべし。専追善をやめて、懐旧の句ノ上にて仕て取るべし。三年つづきて同じ追善にてもあるまじ。是下手の心也。師の心に叶ひよろこび給ふまじ。かならずあやまるまじといひて、
 月雪に淋しがられし紙子哉
ト云句して、予が集三年忌の俳諧の巻頭にハ仕たり。
 加賀の北枝が『喪の名残』を見るに、木曽塚へ集る句共出たり。果して、松が長し・塚が苔むし・そとばの文字が見えぬ、など云句にて終れり。我党ハひそかにいひあてたりとて笑ひたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.171)

 北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)は「私の旅日記~お気に入り写真館~」というサイト(写楽の志賀大七のアバターのあるページは、芭蕉関係で検索していると必ず目にする)に抜粋があるが、少なくともそこには「塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる」の文字はなかった。

 赤はるやむなしき苔を初時雨   文鳥
 朝霜や茶湯をこほす苔の上    秋之坊

の句はあるが、「塚」とは言っていない。
 芭蕉の追悼だと、時雨と木枯らしは定番だが、こういう言葉がないと誰の追悼なのかがわかりにくくなる。

 月雪に淋しがられし紙子哉    許六

の句は『韻塞』の「坤(許六選)」に「亡師三回忌 報恩」と前書きした歌仙の発句で、脇は、

   月雪に淋しがられし紙子哉
 小春の壁の草青みたり      李由

 「苔むし」はアウトだが、「草青みたり」はセーフなのだろう。

 「一、予当流入門の比、五月雨の句すべしとて、
 湖の水も増るや五月雨
と云句したり。つくづくとおもふニ、此句あまりすぐにして味すくなしとて、案じかえてよからぬ句に仕たり。
 其後あら野出たり。先生の句に、
 湖の水まさりけり五月雨
と云句見侍りて、予が心、夜の明たる心地して、初て俳諧の心ンを得たり。是先生の恩なりとおぼえて、今に此事わすれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.172~173)

 許六はウィキペディアに、

 「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

とあり、芭蕉に初めて対面したのは元禄五年だった。
 『阿羅野』が出たのが元禄二年三月、芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だったから、貞享五年夏に既に尚白との交流があったということか。
 だとすると、尚白経由で去来に漏れた可能性も無きにしも非ずで、「是先生の恩なり」が本心なのか鎌掛けた皮肉なのかはよくわからない。
 まあ、許六が「水も増るや」と疑っているのに対し、去来の「水まさりけり」の方が力強く丈高いので、その差は重要だが。この時芭蕉の直接会うことができていたら、その辺は直してくれたかもしれない。

2020年12月4日金曜日

  今日は『鬼滅の刃』最終巻の発売日で、朝の新聞には大きな広告も入っていた。十五人のキャラを五つの新聞社で三人ずつ分け合うのだが、どういう過程で選ばれたのか知りたいものだ。朝日はさすがに力関係からか善逸と禰豆子と美味しいところを押さえている。産経は猪と不死川兄弟で暑苦しい。うちに来た新聞はいきなり煉獄さんで、その他も甘露寺・伊黒のカップルで、なかなか良いところを押さえている。
 さて、ようやく最後まで読んだが、最後はやはり花の定座で目出度く終わっていた。こういうところでも伝統というのは生きているんだなと思った。そして基本はやはりコノハナサクヤヒメ神話だった。この「永遠の命なんて欲しくない」というテーマの反復、クリスチャンの人はどう思っているのだろうか。
 最近は『呪術廻戦』押しの記事をよく見るが、『鬼滅の刃』に続けということなのか。ただ、何か最初の設定の所で赤城大空の『出会ってひと突きで絶頂除霊!』が思い浮かんでしまって、下ネタのない絶頂除霊って感じがする。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第二年の追善ニ、深川芭蕉庵にてのべたり。予自画の像をかかせたる故に、其前書して、
 鬢の霜無言の時の姿かな    許六
とせし也。無言の時といへるハ西行の事也。うば・かか、又ハ名もなき者の追善のごとく、『焼香すれバ袖がぬるる』の、『涙が氷る』の、『霜に香を継かゆる』の『生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる』の『芭蕉が枯たる』の、などといへる事のミにて、一天下果てたり。誰一人秀たる句も見えず。扨々はかなき志にて、あハれ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 「無言の時」の句は『韻塞』の「乾(李由選)」に、

   亡師一周忌に手づから画像を写し
   て、野坡に贈て、深川の什物に寄附
   す。
 鬢の霜無言の時のすがたかな    許六

とある。
 「什物」は秘宝のことで、元禄三年の芭蕉・尚白両吟の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする俳諧の三十一句目に、

   さても鳴たるほととぎすかな
 西行の無言の時の夕間暮      芭蕉

の句がある。
 とはいえこの句は、ホトトギスは夜通し待ってようやく明け方に聞くのを本意とするので、夕方から鳴いてても歌にならないというだけのもの。それを亡くなって無言になった姿に取り成すのも何か違う気がする。 許六さんは新味を出さねばということにとらわれすぎて、追悼句の基本が追悼する心であるのを忘れているのではないか。「焼香すれバ袖がぬるる」、「涙が氷る」、「霜に香を継かゆる」、「生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる」、「芭蕉が枯たる」という言葉は確かに月並みではあるが心はある。

 「なき人の裾をつかめば納豆哉   嵐雪
 師の追善に、かやうのたはけを尽す嵐雪が俳諧も、世におこなハれて口すぎとする世上、面白からぬ事也。晋子ハかやうの所をはづさぬやつめ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 この嵐雪の句は桃隣の『舞都遲登理』を読んだ時にも触れたが、嵐雪の『玄峰集』に

   元禄乙亥十月十二日一周忌
 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

とある。
 夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)、というものだ。元禄八年の句で、一年もたつとまあそれなりにみんな余裕も出てきたのだろう。亡き師芭蕉の夢枕も笑いに転じようとする。
 「口すぎ」は生計のことで、俳諧師も食っていかなくてはならないのは確かだ。ただ、亡き師をネタにして笑いを取るのは、別に金のためということでもなかろう。いつまでも悲しい句ばかり詠んでもいられないし、一年の喪が明けたなら、悲しみを乗り越えて明日に向かって生きてゆかなくてはならない。そんな喪明けの宣言ともいえる句であろう。

2020年12月3日木曜日

  ナイキのTwitterCMは一応見てみたが、何か日本の普通の子どもでもみんな同じこと思っているんではないかという感じのもので、全部純血の日本人を使って同じCMを作っても違和感ないと思った。
 明治以降の日本の教育が均質な労働者を作るためのもので、戦前から日本の若者は自己肯定感が希薄で、自殺率が高かった。今もそれは少しも変わっていない。「メンヘラ」だとか「死にたがり」なんて言葉がはやるのもそのためだ。
 このCMを見て、逆に本物の黒人ハーフや在日の人たちの間から、「俺たちの置かれている状況はこんな生っちょろいもんじゃない、ざけんなっ」という声はなかったのだろうか。そっちの方が気になる。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、追善・移徒(ワタマシ)・餞別など仕やう、かれこれ七ッ八ッも此類あるべし。是亡師の詞、あらましきき置侍る也。幽玄第一・たけ高き句すべしと。されバ不易と云ハ此所の事也。
 先追善の事、色々あるべし。親・兄弟・したしき者、あるひハ師友・芸の名人・僧・知識・隠士等、かぞへがたし。
 翁卒シ給ふ時、一天下しるもしらぬも追善したり。天下無双の俳諧名人の追善に、常式下手成事斗いひて、霊魂の手向と成るべしや。草葉の陰にて、にがにが敷顔をして居られ侍らん。
 かやうの所まで気を付る作者もなし。気が付ても動かず。是非もなき次第也。
 予、師遷化の時の追悼にハ、只かるみを詮にして、
 一度の医者よろこびやかへり花
とせし処に、晋子が『医者物とハむ』とハ加筆せし也。晋子ハ『宇治の橋守物とハむ』の力と見えたり。
 予が句、『医者よろこび』と云ハ、通俗の言葉也。よう成顔を見する共いへり。師の追善に、よろこびなどいへる事ハ、不審あるべき事也。述懐の歌に、『むせぶもうれしわすれがたミに』といへるを後鳥羽の院御感有しと云力あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.169~170)

 移徒(ワタマシ)は転居のこと。
 「幽玄」は今日では中世などの芸術の特有の美学のように用いられることも多いが、もともとの意味は裏に隠されているということ。
 確かに能などは動きを抑制することで、表現しようとして表現できない中に、見る人があれを表現しようとしているとあれこれ想像し、それが直接表現するよりも効果を上げる。

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

の「塚も動け」は暗に死者が蘇ってくれ、墓の中から出てきてくれということなのだが、それをあからさまに言うと、何やらゾンビが出てきそうでグロテスクになる。また「我泣声は秋の風」も秋風のように悲しく、「風の音にぞおどろかれぬる」の歌もあるように、死者が驚くような声を上げているという含みもある。つまり、

 塚から出でよ我が泣く声に驚いて

ということなのだが、それをあからさまに言ったらそれこそギャグにしかならない。
 あふれる感情を押し隠しながら、それでも隠し切れないというのがこの場合の「幽玄」になる。

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

の離別の句は『去来抄』「先師評」で、芭蕉に「此句悪しきといふにはあらず。巧者にてただ謂まぎらされたる也。」と評されたとあるが、手を放つまでの間に朧月が落ちてしまったというところから、如何に長く別れを惜しんでいたかを言いたいのだろうが、そのように読者の句の意味を頭で考えさせてしまうところで、情がダイレクトに伝わらなくなってしまう。
 直接的に言うなら

 朧月落ちても未だ手を握り

ということなのだが、
 『炭俵』には、

    洛よりの文のはしに
 朧月一足づつもわかれかな   去来

の句があり、先の句の改案とされている。「一足づつも」の方が「未だ手を握り」よりもより遠回しで、幽玄の句に仕上がっている。
 「たけ高き」というのは文字通りだと背が高いということで、要するに立派な、見栄えがする、強い調子で表現されている、というニュアンスを持つ。
 『去来抄』「先師評」に、

 赤人の名ハつかれたりはつ霞  史邦

の句を芭蕉が「中の七字能おかれたり。ほ句長高く意味すくなからず」と評したとある。
 中七の「名ハつかれたり」は「よくぞ名付けてもんだ」という意味で、正月の初日が霞に山辺が赤く染まるのを見て、山部赤人とはよく言ったもんだ、お目出度い名前だというわけだ。
 これが、

 赤人の名にも似たるか初霞

では何か弱々しい。「名ハつかれたり」と言い切ってこそ「たけ高き」となる。「塚も動け」の句も、力強く命ずるところで「たけ高」になる。
 芭蕉が亡くなった時も、多くの人が追善の句を詠んでいる。
 其角撰の『枯尾花』には、門人たちの追善の句が並べられている。

 忘れ得ぬ空も十夜の泪かな   去来
 啼うちの狂気をさませ濱衛   李由
 無跡や鼠も寒きともぢから   木節
 つゐに行宗祇も寸白夜の霜   乙州
 いふ事も涙に成や塚の霜    昌房
 暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈草
 一たびの医師ものとはん帰花  許六

 その他にもたくさんある。
 さて、この中の許六の句だが、元は、

 一度の医者よろこびやかへり花 許六

だったのを、其角が「医者ものとはん」と修正したという。まあ普通に考えて、みんな悲しんでいるときに「よろこびや」はないだろうと思う。喪失の悲しみよりも帰り花の情を優先させたという感じがする。
 許六は、

 思ひ出づる折りたく柴の夕煙
     むせぶもうれし忘れ形見に
              後鳥羽院(新古今集)

に寄ったようだ。
 この場合は哀傷歌とはいっても、死からある程度の時間が経過しているのではないかと思われる。いわば折りたく柴の煙に故人のことを懐かしむ余裕が生まれた時だから「むせぶもうれし」と言えたのではないか。
 許六の句の「ひとたび」は「いまひとたび」のことで「もう一度」という意味。「一度の医者」は生き返るかもしれないからもう一度とあらためて亡骸に接する医者のことだろう。つまり臨終からそれほど時間が経過していない。その状況で帰り花を見て「よろこびや」は無理があると思う。帰り花が咲いたのでもしかしたら生き返るかもしれないと思い、医者が今ひとたび塚を尋ねるという意味での「ものとはん」なら納得がいく。

 年経たる宇治の橋守こと問はん
     幾代になりぬ水の水上 
              藤原清輔(新古今集)

の歌とはあまり関係ないように思える。
 許六にとって医者が一人称ではないというところも問題だと思う。追悼は自分の気持ちを述べるもので、第三者の「医者」を登場させたあたりで何か違う感じがする。そのあたりから其角は首をひねって、何だこれはと思ったのではないか。

2020年12月2日水曜日

 今日は午後から雨が降った。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第三の事。
 三月は関の足軽置かえて  此句、出替と五文字あらバ、くさるべし
 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て
 ゆり若のきびすの跡も雪きえて
 芋種の角ぐむ比の朧月
など、専新ミをはしらせたり。ことしの第三ニ、
 柳の風に梅にほふなり
 かずの子の水あたたかにぬるミ来て
と云第三ハ、三ツ物の第三故に出したり。脇に初春の詞なし。かずのこ、初春の物なれ共、かずのこの水のぬるむハ三月也。わるくさく成て、やや春ふかく意味を弥生にかよはせたり。
 其上句作り、『かずのこを漬たる水のぬるミ来て』などするハ、世間十人が十人也。漬と云字をぬきて、『かずの子の水あたたかにぬるミ来て』といへるにて、幽玄にハ成侍れ共、世間此味をしらず。同じ事とおもひ侍る社、口おしけれ。しかし見る人あれバ、其人ハのがす事ニあらず。自由をする也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.168~169)

 歳旦三つ物の第三は、発句の心と違えるため晩春に転換することが多い。

 三月は関の足軽置かえて

 出替(でがわ)りの句だが、三月という季語があるので、重複を避けて「置かえて」としている。
 出替りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「半季奉公および年切奉公の雇人が交替あるいは契約を更改する日をいう。この切替えの期日は地方によって異なるが,半季奉公の場合2月2日と8月2日を当てるところが多い。ただし京坂の商家では元禄(1688‐1704)以前からすでに3月と9月の両5日であった。2月,8月の江戸でも1668年(寛文8)幕府の命により3月,9月に改められたが,以後も出稼人の農事のつごうを考慮したためか2月,8月も長く並存して行われた。」

とある。許六の時代は全国的に三月と九月だった。

 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て

 「差合(さしあう)」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「[1] 〘自ハ四〙
  ① 出会う。行きあう。でくわす。
  ※落窪(10C後)一「あまた火ともさせて、小路ぎりに辻にさしあひぬ」
  ② 映り合う。光などを受けて、それに応じて輝く。
  ※源氏(1001‐14頃)若菜上「山際よりさし出づる日の、花やかなるにさしあひ、目も輝く心ちする御さまの」
  ③ さしさわりがある。不都合がある。さしつかえる。
  ※源氏(1001‐14頃)葵「大宮の御かたざまに、もてはなるまじきなど、かたがたに、さしあひたれば」
  ④ 「さしあい(差合)④」の状況である。
  ※浮世草子・傾城禁短気(1711)五「さしあふをしらぬ顔であげ屋に来り」
  ⑤ 破損する。こわれる。
  ※醍醐寺新要録(1620)「所二打折一之桁の端も指合ては子木を作入云々」
  ⑥ 隣り合う。境を接する。近接する。また、向きあう。対峙する。
  ※今昔(1120頃か)三一「陸奥の国の奥に有夷の地に差合たるにや有らむ」
  ⑦ 重なり合う。集中する。
  ※源氏(1001‐14頃)真木柱「かたがたのおとどたち、この大将の御いきほひさへさしあひ」
  [2] 〘他ハ四〙
  ① (酒などを)互いにつぎあう。さしつさされつする。
  ※今昔(1120頃か)一九「世に不似ず美き酒にて有ければ、三人指合て」
  ② 互いに言いあう。また、非難しあう。
  ※太平記(14C後)二七「喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し」
  ③ 相撲で、互いに手を、相手の脇腹と腕の間に入れる。
  ※相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉四十八手の裏表「四つとは互に腕を差合(サシア)って、敵の褌(まはし)を引いて組んだ形を言ひ」

とある。脇が分からないので意味は決定できない。四句目を付ける時にもいろいろな取成しが可能で便利な言葉だ。

 ゆり若のきびすの跡も雪きえて

 「ゆり若」は百合若大臣でウィキペディアには、

 「百合若大臣(ゆりわかだいじん)は、百合若という名の武者にまつわる復讐譚。これを題材にした幸若舞、それを読み物として流布させた版本(「舞の本」)、人形を使った説経操り、浄瑠璃(室町後期〜江戸時代)などがあり、日本各地、特に大分県や壱岐に伝説として伝わる。
 百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

とある。確か筒井康隆の『乱調文学大辞典』にはユリシーズの盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあって、ユリシーズの項目には百合若大臣の盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあったような。坪内逍遥の頃から『オデュッセイア』との類似が話題になっていたようだ。(ユリシーズはオデュッセイアのラテン語名ウリュッセウスの英語読み。)
 戦に勝った将が冷遇されるのはよくあることで、昔から似たような物語はどこにでもあったのだろう。ただ「ユリ」の一致でネタにしやすかったのだろう。現代だとアネコユサギの『盾の勇者の成り上がり』もオデュッセイアのバリエーションではないか。
 句の方は苦難の旅をした百合若の足跡も雪解けともに消えてゆくというものだ。正月の宇佐八幡宮の弓始で本懐を遂げるので、脇は弓始の句だったか。

 芋種の角ぐむ比の朧月

 「角ぐむ」は角が生えるように芽が出るという意味。仲秋の名月は里芋の収穫の頃で芋名月と呼ばれるが、晩春の朧月の頃はその芋の芽が出る頃になる。発句にしてもよさそうなネタだが、種芋の芽は第三道具という判断か。

   柳の風に梅にほふなり
 かずの子の水あたたかにぬるミ来て

 これは普通に晩春に転換するのではなく、あえて「かずのこ」を出すことで正月からの時間の経過を出したかったのだろう。今はかずのこは正月くらいしか食べないが、昔は塩水に漬けて保存して三月くらいまで食べたのだろう。弥生の梅もそろそろ終わりという頃に柳も芽吹き始め、数の子を漬けていた水もぬるくなり、早く食べないといけなくなる。「かずのこを漬たる水のぬるミ来て」だと「水ぬるむ」が漬け汁だけに限定されてしまう。漬け汁だけでなく、井戸の水も小川の水も苗代の水もおしなべてぬるむ頃という広がりを持たせるには、「かずの子の水あたたかにぬるミ来て」の方がいい。

2020年12月1日火曜日

  今日も十七夜の月が見えた。昨日の半影月食の月と何が違うのか、やはりわからなかった。
 まあ、それでもやはり月はいいね。時差はあっても世界中の人があの月を見ていると思うと、月は世界をつないでいるんだと思う。あの月は北朝鮮の上にもウイグルの上にも出ているんだろうな。
 月は国際宇宙ステーション(ISS)でも見えていて野口さんのアップした写真が話題にはなっていたが、宇宙は何か怖そうだな。壁一枚向こうは果てしなく続く死の世界で、結局人生というのは広大な死の宇宙の中の小さな宇宙船のようなものなんだろうな。時間的にも何百億という長い死の時間の中のほんの数十年。奇跡の島。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、脇の仕やうの事。
 座頭の袖にかかる門松
 俵かさねて中戻りする
 女子六尺長閑成けり
 二日の朝ハ年玉の酒
などいへる脇は、師再生すといふ共、かハる事ハあるまじとおもひ侍れ共、一人分て褒美する人さへなし。
 俵重ぬると云季ハ、はなひ草ニも見えず。是正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。
 『きぞ始』といふ発句の脇に、『俵重て中戻りする』と云事、天下三べんさがねたり共、此脇より外ニハあるまじとおもふ也。俵重ぬる事、おかしき季とて、発句道具にてハなし。脇・第三の道具也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.167~168)

 「俵かさねて」を脇とする「『きぞ始』といふ発句」は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 「『篇突』に出てゐる歳旦三ツ物の発句で、句形は『きぞ始裏を探らす大夫殿』。作者は程己。」

とある。つまりこの脇は

   きぞ始裏を探らす大夫殿
 俵重て中戻りする

となる。
 きぞ始(はじめ)は前にも、

  「一、去々年、愚歳旦ニ
 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始
ト云句せしに、大津尚白が句に、
 干鮭に衣かえけりゑぞの人
と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)

の時に出てきたが、「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》
 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

とある。
 「大夫(太夫)」はいろいろな人に用いられるが、「大夫殿」だとコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 御師(おし)の通称。また、御師のいとなむ宿のこともいう。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)四「供二三人召つれ。太夫殿(タユフトノ)の案内者に任せ山田を出し時」
  ② 三河万歳の大夫。転じて、主役。
  ※狂歌・徳和歌後万載集(1785)一二「まんざいはわれらが家の太夫殿はらづつみうつとく和歌の集」

を意味するようだ。
 この場合は歳旦なので②の方か。

 犢鼻褌(ふんどし)を腮(あご)にはさむや着そ始 汶村
 つまさきを引出す糸やきそ始   孟遠

といった句が『彦根正風体』にあるように、この句も着慣れないものを着る上、三河万歳の大夫殿が来たので急いで、どっちが表でどっちが裏かわからなくなるということなのだろう。
 これに対して脇は、転んで途中で引き返した、というものだ。ドタバタした感じがまた正月の目出度さでもある。
 「俵重(たわらがさね)」は正月に「転ぶ」「臥す」という言葉を縁起が悪いとして嫌いことから生じた言い換えの言葉で、許六によれば「正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。」という言葉になる。
 立圃の『増補はなひ草』では季語として扱われていないが、正月しか言わない言葉なので歳旦の言葉としている。発句には用いにくいが、脇や第三に使うにはちょうど良い。

 座頭の袖にかかる門松

の句は、眼が見えないから袖が門松に引っかかったということか。

 女子六尺長閑成けり

の「女子六尺」は女六尺・女陸尺(おんなろくしゃく)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 昔、貴人に仕えて、その女乗物を奥から玄関までの間かついだ女中。⇔男六尺。
  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)一「物静に長郎下まで御駕籠を女六尺かき込て」

とある。

 二日の朝ハ年玉の酒

 お年玉が子供に現金を渡す行事になったのは戦後のことだともいう。「駒沢女子大学/駒沢女子短期大学」のサイトの「お年玉の謎」(下川雅弘)によると、「室町時代に書かれた日記などの史料には、新年に贈り物の刀や銭などを持参してお世話になった人を訪問し、お返しとして扇や酒などが振る舞われるといった記事が、数多く残されています。」という。
 芭蕉の時代でもお年玉は基本的には年賀の挨拶の時の贈り物のことだったと思われる。元日にもらった酒を二日の朝に飲むのは「あるある」だったのだろう。「年玉」の発句をあまり見ないのは、脇道具ということか。

2020年11月30日月曜日

  今日の満月は半影月食だというが、見てもよくわからなかった。所々薄い雲もかかり、月が何となく暗く見えても月食のせいなのか雲のせいなのかよくわからない。
 そういえば今年は富士山に雪が少ない。山梨側でも少ししか白くなっていない。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、歳旦三ツ物の事。予此三ツ物ニおいてハ、よく工夫して、年々引付ニ出し侍れ共、誰一人秀たると云人もなし。
 師の手伝し給ひたる三ツ物を見て、慥ニ決定し、年々花やかに仕出したれ共、見るものなけれバ、其分にて反古とハ成ぬ。口おしし。
 此三ツ物俳諧を、常式の俳諧とおもひ給ハバ、大きニあやまり也。三句にて百韻・千句の代をするなれバ、容易なる句を出して、見らるるものにあらず。故ニ第三、名所など結びたる事も、此格式と見えたり。
 予三ツ物をする事、天晴天下ニ肩を双べきものあるべしともおもハず。誰々がするも同じ事とおもひ給ふ人ハ、三ツ物の仕やう見えぬとしれたり。
 されバ大綴を見るに、三ツ物仕様しりたる人、一人もなし。一人もなしとハいはれまじなど云人もあらん。しかれ共、一句か二句ハたまたまあれ共、全篇血脈をする人ハ希也。
 脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.165~166)

 歳旦三ツ物というと、

 左義長や代々の三物焼てみん   尚白

の句があるように、ほとんどは左義長(どんど焼き)で焼かれてしまったのだろう。毎年たくさんの俳諧師が歳旦三ツ物を大量に刷って配った割には、ほとんど現存しない。
 「師の手伝し給ひたる三ツ物」は李由・許六編『宇陀法師』(元禄十五年刊)にある、次のものであろう。『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)に収録されている。

 梅が香や通り過れば弓の音
   土とる鍬に雲雀囀る
 陽炎に野飼の牛の杭ぬけて    翁

 この中村注によれば『一葉集』『袖珍抄』には発句を毛紈、脇を許六としているという。ネット上の『許六画芭蕉書三つ物』(麻生磯次)によると、発句は許六、脇は洒堂だという。
 発句は梅が香に弓始(ゆみはじめ)で正月の目出度い景色としている。弓始はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 脇は正月の風景をそのまま受け継いて初春の季語を入れるのではなく、あえて晩春とも取れるような「雲雀囀る」と展開する。
 「脇・第三猶大事也。皆初春の季を入たる迠ニて、常の俳諧に少もかハらず。あまつさへ、初春の発句に、初春の第三するやからも、まれまれ見えたり。脇・第三又一風あり。常式の句見らるる物にあらず。」
とあるように、初春の句を三句連ねるのではなく、初春から晩春への季移りが大事なようだ。そのために、脇は第三で晩春に展開しやすいように配慮することが大事なのだろう。
 第三は雲雀囀る農村風景に陽炎と野飼いの牛を付けるが、この取り合わせだけでなく「杭ぬけて」と放牧場の杭が抜けて牛が逃げ出すところに一ネタ入れている。
 三つ物は普通の俳諧の発句・脇・第三とはちがい、第三が同時に挙句になると思った方がいいのだろう。芭蕉は見事に最後に落ちをつけている。
 歳旦発句は目出度く、脇は第三の落ちを引き出すために、晩春への転換の伏線を敷きながら穏やかに流し、第三はここで終わらせるという意思を以て落ちをつける。これが三つ物の仕様と言っていいのだろう。第三を名所で締める場合もあるという。

 「一、当時歳旦の発句、歳旦にてなき句大分あり。師云、歳旦と云ハ、元日明けたる時の事也。多ク歳旦の句にてなしといへり。『正月三日口を閉、題四日』と前書して、
 大津絵の筆のはじめや何仏
と云句出たり。此前書にて、後代歳旦の格式ニセよと云心ありて書ると、慥ニ決定し侍ぬ。
 引付帳の内ニ、七種・子の日、あるいハ元日・二日・三日など云題を出して句あり。是大キ成あやまり也。師説なき故也。子細ハ元日明たる時の事と云にてしれたり。遠国の歳旦など入るるも、はばかるべき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.166~167)

 歳旦は本来は元日明けた時のこと、つまり一月一日の朝のことだが、実際にはかなり幅広く正月の句のことを歳旦と呼んでいる。先の「梅が香や通り過れば弓の音」の句も弓初めの句ならば正月七日の句になる。実際に一月一日の朝だけを歳旦にしたのでは、歳旦帳の発句は初日の出しか詠めなくなってしまう。
 そこで芭蕉さんも元旦の吟でなくても題をつけることで歳旦の各式にせよ、と言ったのだろう。

   正月三日口を閉、題四日
 大津絵の筆のはじめは何仏    芭蕉

の句は元禄四年の句で、仏画を主に書いていた大津絵の絵師は、四日の筆始めに何を書くのだろうか、という句で、前書きを付けることで歳旦と同格にした。
 「引付帳」の引付(ひきつけ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「④ 俳諧師などが自分の歳旦帳の末に友人・門人などの句を付録として掲載したこと。また、その句。
  ※俳諧・延宝六年三物揃(1678)「俳諧惣本寺引付 歳旦」

とある。筆始めや弓初めは良いとしても、七種・子の日はさすがに歳旦とはし難く、逆に三が日にわざわざ元日・二日・三日などという題をつける必要もない。これは暗黙の裡に歳旦が元旦に限定されずとも三が日のものと定まっていたからだろう。四日以降のものは題をつけた方がいいということと、七種・子の日は正月三が日とはまた別の行事として認識されていたということだろう。
 今でも「元旦」という言葉に関しては、年賀状で正月の午前中に届かないものについては使用しない方がいいということが言われている。「旦」は朝日を意味するから、歳旦と同様元旦も一月一日の朝を意味する。ただ、年末の早い時期に書いているのに「元旦」と書くのもなんか変な気もするが。