「俳諧問答」の続き。
「一、等類のがれの事。師説、
都をば霞と共にたちしかど
秋風ぞふくしら川の関 能因
都をば青葉とともに出しかど
紅葉ちりしく白河の関 頼政
此二首、心・詞少もかハらね共、定家の卿の判に云、頼政が歌ハ、能因が歌を本歌として、心・詞少モかハらね共、是等類にあらず也。頼政が歌ハ、色をよみたる哥也。これ産所の各別なる事を、先達よくきき分ケ給ふ故也。ありがたき判也。かやうの先達ありて社(コソ)、俳諧も面白し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.176~177)
この二首の類似は有名で、『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147の所でも述べたが、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められている。
こういう時間の経過による展開は俳諧でも、「かくれ家や」の巻十七句目の、
笠の端をする芦のうら枯
梅に出て初瀬や芳野は花の時 芭蕉
「めづらしや」の巻三十一句目の、
温泉かぞふる陸奥の秋風
初雁の比よりおもふ氷様 露丸
といった句に見られる。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。
「ある時予が句、
朝顔のうらを見せけり風の秋
と云せしニ、おりふし丈草へかたりけれバ、此句、翁の『おもて見せけり』の葛の句、作例たるべしといはれけり。
予つくづくとおもふに、此句少もくるしからじ。翁の句ハ、葛のうらと云古歌の詞を返し、初て『葛のおもて』とハいはれたり。是おのづから制也。葛のうらと云事、終ニ哥・俳諧制ハなし。
予が句ハ、葛のうらに対して、新ミをいひたる句也。古人、葛より外ハうらを見ぬといひけれ共、葛よりハ鼻の先に朝顔のありける事をしらぬと、嘲りたる句也。曾て翁の句ニ類する事なし。能因・頼政の哥ハ、意・詞もかハらね共、等類に落ずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.177~178)
朝顔のうらを見せけり風の秋 許六
くずの葉の面見せけり今朝の露 芭蕉
この二句についての類似は『去来抄』同門評にも記されている。
「蕣の裏を見せけり秋の風
一説曰、此句先師の葛葉の面みせけりと等類也。許六曰く、等類にあらず。みせけりとは詞のむすび迄なり。趣向かはれり。去来曰、等類とは謂がたし。同竈の句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤の山の鶯は己なきてや春をしるらんと云に、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.45)
言葉の続き具合は似ているが、これは最初の発想が全く違うため、同竈(同巣ともいう)とは言い難い。
許六の句は古歌に「葛の裏葉」は詠まれているが、朝顔の葉の裏返るのは詠まれてないから、そこに新味があるというものだ。許六の時代の朝顔は今と同じ朝顔だが、古代の朝顔は桔梗か槿で、今の朝顔ではなかったと言われているから、実際には古人の鼻の先には朝顔はなかった。
芭蕉の句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時に詠んだ句だと言われている。「面(おもて)見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。裏を見せるはずの葛の葉が表を見せたというところに新味があるという許六の評は間違ってはいない。
「清瀧や波に塵なき夏の月
白菊のめに立てて見る塵もなし
右両句、塵なきと云事、後にむづかしとて、『波にちり込青松葉』とハ案じかえられたりときこゆ。
退て案じ見るに、此塵、志の趣ける所同じさま也。故ニ案じかえられたるとハ見えたり。西行上人も、『清瀧川の水のしら波』とハつよくよみ給ふ也。『波にちり込む青松葉』とすずしく師のいひ給ふつよみ、西行の哥におとれりとハ見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178)
「清瀧や」の句の改案は支考の『前後日記』に見られるもので、そこにはこうある。
「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて
大井川浪に塵なし夏の月
と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて
清滝や浪にちり込青松葉 翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)
芭蕉のあの「夢は枯野を」の句よりも後であるため、結果的にはこれが芭蕉の最後の句となった。
「清瀧や波に塵なき夏の月」の塵は清瀧の水の美しさを詠んだものなのに対し、「白菊のめに立てて見る塵もなし」の白菊はこの興行の主人である園女の比喩だという違いはあるが、どちらも褒めて言う言葉には違いない。
結局芭蕉は月に照らされて塵なき波、という褒め方をやめて、あえて「波にちり込青松葉」という塵を出しながらも青松葉も美しいというふうに改作した。夜から昼の景に転じているし、発想を完全に変えている。
西行の「清瀧川の水のしら波」は、
降りつみし高嶺のみ雪とけにけり
清滝川の水のしら波
西行法師(新古今集)
の歌で、この下句に青松葉を取り合わせて夏の発句にしたといってもいいかもしれない。
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