2020年12月11日金曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、世上に新敷物と、今めかしき物と、取つがへ侍る。
 新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。晋子が衣がへに、

 越後やにきぬさく音や衣がへ

と云句あり。勿論句作り等ハよくとりはやしたりといへ共、此句晋氏などせぬ句也。
 かやうの今めかしき物を取出して発句にする事、以の外の至り也。興に乗じていひ捨の巻などニハさもあるべし。
 晋氏ハ江戸の宗匠、芭門の高弟也。末々の弟子、此句を見て、あたらしきと云ハかやうの事とあやまり、證句ニセん事うたがひあるべからず。当歳旦ニも、二朱判・五まわりましなど云事見えたろ。此まどひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.183~184)

 ゲーム業界にも「流行に乗るな、流行を作れ」という言葉があるらしい。開発に時間のかかるゲーム業界では、下手に流行に乗っかると、発売の頃には既に流行遅れになっていることが往々にしてあるからだという。
 とは言っても新しいものを作り出すのは難しい。それに比べれば誰かが作った新しいものに便乗する方が楽だ。『鬼滅の刃』という新しい作品を生み出すのは大変なことだが、それに乗っかって何でも鬼滅が入っていればいいとばかりに安易なグッツを売り出したり、「全集中」なんて言葉を口にするのはたやすい。
 流行の句といっても、流行を作る句と流行に乗っかる句は違う。許六の言う「新敷ものハ、成程昔より有来て、人々の見残し取残したる物也。」というのは流行を作る句であり、

 越後やにきぬさく音や衣がへ   其角

の句は新味とは言っても流行に乗っかっただけの句だというわけだ。
 「店前(たなさき)売り」と「現銀(金)掛値なし」のシステムで開いた江戸の「三井越後屋呉服店」は大人気となり、このやり方は今の日本のほとんどの商店に受け継がれている。日本では商品を値切らずに正札通りに買うのが普通だが、世界的には珍しいのかもしれない。ただ、現金にこだわった日本のシステムは、ネット決済では世界に後れを取ってしまった。
 もっとも、江戸本町の越後屋呉服店は延宝元年の創業だから、其角がこの句を詠んだ元禄九年ではそれほど新しものでもなく、すでに定着しているものだったのではないかと思う。越後屋はその後明治に三越百貨店になり今でも残っているから、むしろ越後屋がそろそろ不易となる、そのタイミングで其角はこの句を詠んだのかもしれない。
 ただ、大衆芸術の発展というのは、無から新味を生み出すだけではなく、誰かが作り出した流行にさらに新味を加えることで発展してゆく。一人の人間の生み出せる新味は、どんなに才能があっても限られている。また他人の生み出した新味も受け継ぐ人がいなければ廃れる。だから、一流のクリエーターであっても流行に乗ることを恥じる必要はない。大事なのは流行に乗っても必ずそこに何か新味を付け加えて発展させることだからだ
 吾峠呼世晴さんの『鬼滅の刃』にしても先行する様々な作品からモチーフを借りているだろうし、特に主要なテーマとなっている永遠の命を廻るコノハナサクヤヒメ神話的なテーマは、冨樫義博さんの『幽☆遊☆白書』の戸愚呂弟と幻海師範の物語を引き継いでいるのではないかと思う。この種のことは「俳諧自賛之論」の「48、等類」の所で書いているので、ご参照を。
 許六は逆にその潔癖さゆえに人の見つけた新味に乗っかることを良しとしなかったために、芭蕉の作り出した新味を発展させることができなかったのではないかと思う。

 「平句ハ興に乗じて予もある時せし、
 海手より夜ハほんのりと明かかり
   越後や見する松阪の馬子
と云句也。江戸の越後や。京の越後や、おかしからず。松阪の越後やこそ、俳諧とハ申物也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.184~185)

 越後屋は発句道具ではなく平句道具だということか。ただ、同じ越後屋でも江戸、京、松阪では随分違いがある。
 三井広報委員会のホームページによると、京都の越後屋は、

 「江戸時代、京を根城に江戸に出店して商いをする「江戸えど店持たなもち京きょう商人あきんど」は、商人の理想であった。松阪で力を蓄え、江戸への出店を準備していた三井高利は、52歳にしてそれを実行に移す。以来、京都は商品仕入れや江戸に指令を発する三井の本拠地となっていった。高利は、延宝元年(1673)、江戸本町に越後屋呉服店を開くと同時に、京都に呉服物の仕入れ店を開業した。当時、高級な絹織物はほとんどが西陣の製品であり、京都はその西陣織や小間物の仕入れに便利なばかりか、長崎経由で輸入されてくる唐の生地、反物などもいったんすべて京都に運ばれ、売買が盛んだったからである。仕入れがうまくいくかどうかは経営を左右し、呉服店として飛躍していくためにはどうしても京都に拠点をおく必要があった。」

と販売の中心が江戸だったのに対し、仕入れの中心として京都にも店を構えていた。
 これに対し、松阪は越後屋の発祥の地であり、三井広報委員会のホームページには、

 「高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から5代目・三井越後守高安の時代に天下統一を目指す織田信長が、上洛のため近江に攻め入り、六角氏の諸城を次々攻め落とし、六角氏は滅ぼされた。
 主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、その後、三井一族は津、松阪などを流浪し、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とし、高安はその地で没したとされている。
  …中略…
 その後、高安の子・三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始める。この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。これが後に高利の「越後屋」の屋号の起源であり、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生する。」

とある。
 許六が詠んだのはこの元の越後屋の方で江戸で流行する越後屋ではない。それでもこの松阪越後屋の句で、自分は流行遅れではない、越後屋を詠めないのではなく詠まなかったんだというアピールがしたかったか。

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