2020年12月9日水曜日

  そういえばトランプさんは結局ケネディ大統領暗殺の機密文書を公開しなかったんだっけ。あれって2021年10月に再び検討するって話があったような。
 まあ、あれが謎のままなら今回の選挙の真実もきっと永遠の謎なんだろうな。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「此時鳥の句出ける時、予も吾妻の方ニ居合て、其おりの文通に、
 ほととぎす声横たふや水の上
 一声の江に横たふや時鳥
 右両句、沾徳が判に寄て、水の上に究侍ると云色紙送られたり。今にあり。
 予其返事に、徳ト云者一生真ンの俳諧なし。かれが判、おぼつかなし。予ハ只、『江に横たふ』の方、勝れりと返事せし也。
 案ずるに、『水の上』の句、幽玄にハきこえ侍れ共、『水の上』入ぬ詞なり。『声横たふや水の上』と、一言も残さずいひつめて、しかも『水の上』といろへたる事を、沾徳ハよろこべり。これ俗のよろこぶ所也。
 『江に横たふや』といふ處ニ、いろいろの心をふくめた事をしらず。
 中々俗の耳にハ落がたし。師名人たるに寄て、一人の意に決し給ハず、人にいはせて論をきハめ給ふ人也。予などにもいはせて極め給ふ事、度々有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.179~180)

 芭蕉もよく二句を弟子に見せて選ばせたりしたようだ。

 人聲や此道かへる秋のくれ
 此道や行人なしに龝の暮

この二句を支考に選ばせた話は各務支考の『笈日記』に記されている。
 許六もそれに倣って、

 ほととぎす声横たふや水の上
 一声の江に横たふや時鳥

の二句を沾徳に選ばせたのだろうか。
 沾徳は「声横たふや水の上」の方を選んだが、許六としては不満なようだ。
 この二句の一番の違いは「一声」のあるなしだが、沾徳はこれを不要としたのかもしれない。ホトトギスは一声を聞くのを本意としていたからだ。それに「一声」の方の句は和歌の上句のようで、何か下句が欲しくなる。切れ字があるにもかかわらず、十分に切れてない。
 倒置を解消すれば、この両句は、

 水の上にほととぎす声横たふや
 時鳥の一声の江に横たふや

となる。前者は「水の上に」が強調されていて、後者は「時鳥の一声」が強調されている。この句の見所が「水の上」にあるのか、それとも「一声」にあるのか、となると「水の上」ではないかと思う。

 「外々の門人、さもあるべし。しかれ共外の句ハ、判者の沙汰なし。此句にかぎりて、沾徳が判を乞ふと、旁々へひろめ給ふ。是子細のなき事ハあるまじ。
 沾徳が判に究めたると云事を、後代迠いはむ為と、かくハしるし給ふと見えたり。
 両句の甲乙、いづれ共わきがたかるけれ共、すき・不数奇を論ずる時ハ、予ハ『江に横たふ』の方すぐれたりとおぼえ侍る。いひつめずして、心のあらハれ侍る事をこのめる故也。此事奥ニくハしく記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.180~181)

 この句の見所が「水の上」であれ「江に」であれ、水辺のホトトギスである以上、あとはそれを中心に据えるか、脇に置いて匂わすかの違いにすぎない。「いひつめずして、心のあらハれ侍る」は水辺のホトトギスの興に関しては許六の言う通りであろう。
 ただ、「時鳥の一声」の「一声」は言わなくてもいい言葉で、そこでは言い詰めているとも取れる。かといって「一声」を省くと字足らずになって発句にならない。難しいところだ。

 「哥にも、
 日も暮ぬ人もかへりぬ山里は
   峯のあらしの音斗して   基俊朝臣
 日くるれば逢人もなし正木ちる
   峯のあらしの音ばかりして 俊頼朝臣
 此両首、いくばくの相違もなく、まして下句ハおなじ言葉也。
 人々俊頼の哥を勝れりといへ共、定家の卿の判ニ云ク、俊頼の哥ハ、『正木ちる』といふ處いろへにし、俗のよろこぶ所也。是いらぬ詞也。新古今時代の費とのたまひ、基俊の哥勝れたりとハ極るといへり。
 両句の上を見るに、『水の上』といへる詞、『正木ちる』といふにかよひ侍るとおもへバ、『江に横たふ』の方をすき侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.181)

 基俊の歌は岩波文庫の『俳諧問答』横澤三郎注に、「『後拾遺集』にある歌であるが、作者は源頼実になっている」とある。俊頼の歌は『新古今集』だという。
 確かに似ているというかほとんど同じだが、源頼実の歌は人のいなくなった山里の景なのに対し、源俊頼の歌の方は正木の散る峰の風景に主眼が置かれ、人がいないということは背景に退くことになる。
 正木(まさき)はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」の「柾木」の所に「『まさきのかづら』に同じ。」とあり、「まさきのかづら」は同じくweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「常緑のつる性植物の名。「ていかかづら」とも「つるまさき」ともいわれる。ほかの木にからみついて長々とのびるので、「長し」の序詞(じよことば)となる。古くは、つるをさいて鬘(かずら)とし、神事に用いられた。まさき。[季語] 秋。」

とある。

 深山には霰降るらしとやまなる
     まさきの葛色づきにけり
            よみ人知らず(古今集)
 移りゆく雲にあらしのこゑすなり
     散るか正木の葛城の山
            飛鳥井雅経(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 確かに定家の卿の言う通り、日も暮れて人もいない峰で「正木ちる」は何の脈絡もなく唐突に登場する感じがする。その一方ではこの夕暮れの峯に色づいた正木葛の色を添えることにもなる。
 許六は「水の上」がこれに類するというが、「江に」「水の上に」は同じことで別の景物が登場しているわけではない。

 葦茂き江に横たふや時鳥

なら「正木ちる」に近いとも言えよう。

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