2017年9月30日土曜日

 今日も鬼貫編の『俳諧大悟物狂』から、猫ネタで、鬼貫独吟百韻の四十四句目、

   よはよはと老母の寝ぬ夜思ひ出
 いつまで猫の死を隠すべき     鬼貫

 これはわかりやすい。老母の飼っていた猫が死んだのだけど、ショックを受けないようにと隠しているが、時々思い出したように「たまや、たまはどこにいるの」とか言ったりする。
 次の四十五句目は、

   いつまで猫の死を隠すべき
 北裏の萱草ふとく夭姚(ゆぼやか)に 鬼貫

になる。埋めた猫を肥やしにして萱草(かやくさ)がそこだけ良く育っているというのは、いかにも作りっぽいし、展開に乏しい。
 こういう素直な心付けは、鬼貫の得意とするところだったのだろう。

2017年9月29日金曜日

 この頃時々仕事で富士市のほうへ行くが、今日も雲の上に僅かに富士の山頂が見えた。まだ冠雪はしていない、黒々とした富士山だ。
 上島鬼貫というと、やはり、

 にょっぽりと秋の空なる不尽(ふじ)の山 鬼貫

だろうか。この句は貞享二年の句で、この一年前には芭蕉が『野ざらし紀行』

の旅で、

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き   芭蕉

の句を詠んでいる。
 芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』には雲の切れ間に見える富士が描かれているから、完全に富士が見えない面白さというよりは、時折チラッと顔を出すチラリズムの富士山が面白いという意味だったか。
 以前筆者の唯一の著書『野ざらし紀行─異界への旅─』には、霧でまったく見えないからかえって無限の富士山の想像を掻き立てられる、弦のない琵琶を抱いていた陶淵明のような逆説と解釈したが、その後実際に東海道を歩いたりして富士山を見ているうちに、その解釈は観念的過ぎるなと思った。
 芭蕉には、

   箱根の関越て
 眼にかかる時や殊更さつき富士   芭蕉

の句もある。元禄七年、最後の旅の時の句だ。
 芭蕉の富士の美学の基本は、雲や霧に遮られながら思いがけなく富士が見えるという所にあったのだろう。富士には雲霧が必要だった。
 芭蕉の俳文、『士峯の賛』でも芭蕉はこう言っている。山梨の芭蕉dbから失礼するが、

 「崑崙は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峰地を抜きて蒼天を支へ、日月のために雲門を開くかと。向かふところ皆表にして、美景千変す。詩人も句を尽くさず、才子・文人も言を絶ち、画工も筆捨てて走る。若し藐姑射の山の神人有りて、其の詩を能くせんや、其の絵をよくせん歟。
 雲霧の暫時百景を尽しけり」

 この「雲霧の」の句は岩波文庫の『芭蕉俳句集』では存疑の部のところにある。芭蕉が甲斐に滞在した天和三年の作という説も挙げている。
 ただ、芭蕉は貞享二年、『野ざらし紀行』の帰りにも甲斐に寄っているから、「霧しぐれ」の句の原案だった可能性もある。
 これに対し、鬼貫の句は素直だ。秋晴れの空に聳え立つ富士の姿をそのまま詠んでいる。
 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)に収められている鬼貫編元禄三年の『俳諧大悟物狂』にはこうある。

 「富士の形は画(ゑがけ)るにいささかかはる事なし。されども腰を帯たる雲の、今見しにはやかはり、そのけしきもまたまたおなじからずして、新なる不二をみる事其数暫時にいくばくぞや。あし高山はをのれひとり立なば幷びなからん。外山の、国に名あるはあれど古今景色のかはらぬこそあれ。
 にょっぽりと秋の空なる不尽の山」

 芭蕉の『士峯の賛』に比べると難解な漢語もなく、ほぼ和文で書かれていて読みやすい。言っていることは似ている。ただ、芭蕉は雲霧に変化するほうに重点を置き、鬼貫は「かはらぬ」ことに重点を置く。そこで雲霧に見えない富士ではなく、はっきりと見える富士の本体を描いたのだろう。流行の芭蕉、不易の鬼貫と言ってもいいのではないか。
 『俳諧大悟物狂』の文章はさらにこう続く。

   「夕ぐれにまた
 馬はゆけど今朝の不二みる秋路哉
 峰は八葉にひらきて不生不滅の雪を頂き、吹ぬ嵐の松の声裾野になかぬむしの音、鸞動鸞動是今たしかに聞ヶ、我レ石を撫でて生れぬ先の父ぞこひしき。」

 ここでも富士山の隠されぬ全景、不生不滅の雪にその永遠の変らぬものを見ている。
 発句の秋之部のところには、昨日の「いとど」の句の次に、

 不二の山にちいさうもなき月し哉  鬼貫

の発句がある。
 冬之部には、

 不二の雪我レ津の国の者なるが   鬼貫

の句もある。今や富士山には世界中の人が登りに来る。不二に国境はないというところか。摂津の国の者でも伊賀の国も者でも、富士山はやっぱり素晴らしい。
 ところで、芭蕉というと昔からホモ説があり、芭蕉さんはホモなんじゃないかな? なんて言われてるんですけども、それはあくまでも噂で‥‥。

2017年9月28日木曜日

 今日は元禄三年刊の鬼貫編『大悟物狂』から。

   おなじ夜ねられぬほどにここかしこをめぐりて
 いとど鳴キ猫の竃にねぶる哉     鬼貫

 「いとど」はカマドウマのことで、

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉  芭蕉

の句は元禄三年の吟。
 鬼貫の句の方は、前書きにあるように秋の夜長を眠れなくてあちこちうろうろ歩いていると、カマドウマが鳴いていて、カマドには猫が眠っていた、というもの。カマドウマは実際には鳴かないらしいが、秋の夜のありがちな風景だ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「竃馬 いとど、こほろぎ二名一物。この部「蟋蟀」の条に註す。」

とあり、カマドウマはコオロギのことだとしている。コオロギなら確かに鳴く。その「蟋蟀」の条には、

 「蟋蟀(きりぎりす)[大和本草]本草四十一巻、竃馬の附録にのす。一名蟋蟀(しっしゅつ)、又蛬(きゃう)といふ。立秋の後、夜鳴く。イナゴに似て黒し。翼あり。角あり。頭は切たる如く尖りなし。俗につづりさせとなくといふ。西土の方言クロツヅといふ。古歌にきりぎりすとよめるは是也。秋の末までなく故に、古歌に霜夜によめり。〇今俗にいふきりぎりすは莎雞(はたおり)也。」

とある。『大和本草』の記述によると、コオロギのことと思われる。ツヅレサセコオロギというのもいる。

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣片敷きひとりかも寝む
      後京極摂政前太政大臣(藤原良経)『新古今集』

のキリギリスはコオロギだというわけだ。鬼貫の句もこの歌に寄るものか。
 一方、『増補 俳諧歳時記栞草』のコオロギの所にはこうある。

 「竃馬(こほろぎ) [酉陽雑俎]竃馬(さうば)、状(かたち)、促織(きりぎりす)の如し。俗にいふ、竃に馬あれば食に足の兆。[大和本草]蟋蟀(きりぎりす)に似てひげ・足ながく、せい高く、頭尾さがりてするど也。竃のあたりに穴居す。筑紫の方言にヰヒゴ。」

 これはカマドウマの特徴に一致する。つまり、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。ならばカマドウマ→キリギリスになるのかというとそうではなく、カマドウマ=コオロギになる。
 この句は古歌を証歌に取りながら、「猫」を俳言として、いとどは鳴き、カマドウマならぬ猫は竃に眠ると洒落てみた句で、一見蕉風のあるあるネタのようでいながら実は談林の古風によるものだ。
 前書きの「おなじ夜」というのは、この前の句、

   貞享よつの秋長月十七日の夜更行ままに
   庭のけしき人はしらず
 今の心是こそ秋の秋の月    鬼貫

とおなじ夜の句という意味だ。そういうわけで、「いとど鳴キ」の句は貞享四年の吟で、芭蕉の「海士の屋は」の句よりも先。

2017年9月26日火曜日

 今日はやや暑さが戻った感じがする。
 さて、『あめ子』の表六句の続き。次は之道の第三。

   空いそぎする秋の船衆
 後戸の月の有間に飯喰て     之道

 秋なのでここで月を出すのは必然と言えよう。いくら定座だからといって五句目まで秋を引っ張る必要はない。
 船衆の急ぐ様子をまだ真っ暗なうちに朝食をとる風景で表した。笑いは取りに行ってないけど、いかにもありそうなことを付ける所に蕉門らしさが感じられる。
 四句目。

   後戸の月の有間に飯喰て
 膝へ飛しは青蛙(あまがえる)なり 鬼貫

 青蛙で季節を夏に転じる。道路に面してない後戸の向こうは田んぼだったりする。そんなところで飯を食っていると雨蛙が飛んでくる。ありそうなことで、これも蕉門的な展開だ。
 五句目。

   膝へ飛しは青蛙なり
 羊蹄(やうてい)のあたりや風の吹ぬらん 鬼貫

 羊蹄はギシギシのこと。ウィキペディアによれば、

 「タデ科の多年草。やや湿った道ばたや水辺、湿地、田のあぜなどに生え、日本全国に分布する。生薬名は、羊蹄(ヨウテイ)。

 ギシギシの花は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏の四月のところにあり、夏の季語だった。
 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注では生薬のこととし、羊蹄を塗った膝の辺りに蛙が、とするが、それだと無季になるので、次の句に「丹波太郎(入道雲)」が出てくるのおかしい。
 ここではギシギシの花の咲き茂る辺りに風が吹いたので、そこに留まっていた蛙がびっくりして膝に飛び乗ってきたとした方がいい。それも「風の吹ぬらん」とぼやかして、多分風が吹いたからだろうくらいに留めている所は、さすがに鬼貫さんだ。連句が解ってらっしゃる。
 表六句なので次はもうあっという間に挙句になる。

   羊蹄のあたりや風の吹ぬらん
 丹波太良が聳(そびく)昼時 之道

 ギシギシの辺りからか、涼しい風が吹いてきたと思ったら、入道雲が高く聳え立っている。これは一雨来るな、というところで一巻は終わる。
 鬼貫参加だが、之道の捌きが冴えているのか、立派に蕉門の一巻に仕上がっている。

2017年9月25日月曜日

 昨日は巾着田の彼岸花を見に行った。元から有名であるだけでなく、今年は天覧の花となったことで、西武線の快速急行は通勤電車並みのラッシュだった。
 彼岸花の方は満開で、やや終わった花も混じっていた。他にも芙蓉、コスモス、蕎麦の花が咲いていた。山慈菇今日は生きてる人ばかり。
 花見の後は飯能のCARVAAN CAMP(カールヴァーン・キャンプ)で入間川の渓谷を見ながらビールを飲んだ。気分はリア充。

 さて、大阪談林の俳諧をここのところ集中的に読んできたので、ここら辺で大阪談林と芭蕉との接点を探ってみよう。
 鬼貫は天和の頃に伊丹流の長発句で一世を風靡したが、貞享に入るとちょうど芭蕉が蕉風確立に向い、破調から脱却していったように、鬼貫も常の発句の体に戻っていった。
 その後鬼貫は医者になるために大阪で暮らすこととなった。この頃大阪の蕉門を荷っていた之道との交流を持つことにもなったようだ。同時に鬼貫は大阪談林の人たちとの交流も多く、それは鬼貫編の『大悟物狂』(元禄三年刊)に、才麿、来山、西鶴などが名を連ねていることでも明らかだろう。
 同じ元禄三年、之道は『あめ子』を編纂する。「あめ子」とは琵琶湖に棲み、そこに注ぐ川に遡上するビワマスの河川残留型で、古くからこの地方では「江鮭子(あめご)」と呼ばれてきた。サクラマスの河川残留型も「アマゴ」あるいは「アメゴ」と呼ばれるので紛らわしい。
 その『あめ子』に鬼貫の発句による両吟表六句が掲載されている。

   中の秋十日あまり、之道、
   芭蕉翁をたづねて行日、
   後のなつかしきを
 橋よりも戻る心を瀬田の奥    鬼貫

 瀬田の橋は琵琶湖にかかる橋で、芭蕉も貞亨五年に、

 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋  芭蕉

の句を詠んでいる。中世には連歌師の宗長が、

 武士のやばせの舟は速くとも
     急がば回れ瀬田の唐橋
                宗長法師

と詠み、「急がば回れ」という諺の元となっている。
 鬼貫の発句は、之道が瀬田の橋を渡って無名庵の芭蕉の元へ向う、そのはなむけの句であろう。こういう送別の発句には必ずしも季語を入れる必要はない。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出る際の杉風の発句にも、

 何となう柴吹く風も哀れなり   杉風

というのがある。
 鬼貫の句も、季語はないが前書きに「中の秋十日あまり」とあるから、季節が秋なのははっきりしている。杉風の句も「野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉」の句を受けたものだから、季節が秋であることははっきりしている。
 鬼貫の発句は「てには」がわかりにくいが、「瀬田の奥(へ行くのは)橋よりも戻る心(によるもの)を」であろう。橋があるから行くのではない、師である芭蕉の元に戻る心があるからいくのでしょう、という意味だろう。
 これに対し之道はこう答える。

   橋よりも戻る心を瀬田の奥
 空いそぎする秋の船衆      之道

 これは宗長法師の「急がば回れ」の歌によるもので、やばせの舟は無駄に急いでますが、私はゆっくり行ってくることにします、という意味だろう。そして、わざわざ回り道してゆっくり行くという所に、鬼貫さんとしばし別れるのは辛いことです、という気持ちが込められている。

2017年9月23日土曜日

 西太子堂のcat's meow booksで『猫の古典文学誌』(田中貴子、2014、講談社学術文庫)を買った。
 あとがきに「また、膨大であろうはずの江戸俳諧や連句、絵草子の中の猫も多くは取り上げることが出来なかった。」とある。まあ、立派な学者さんとは住む世界が違うが、私も俳諧、連句に関しては頑張ろうと思う。
 とにかく今は俳諧をたくさん読みたいなと思う。そういうわけで「蓮の実に」の巻の続き。今回で最後。

二裏
 三十一句目

   月を妬める後の母親
 追(おひ)訴訟身の程しらぬ秋の蝉 西鶴

 江戸時代は訴訟社会で、土地の境界線争いや共有地のの入会権、水利争いなど、民事訴訟が絶えなかった。当時は裁判が無料だったということもあるらしい。弁護士に相当する公事師というのはいたらしいが、読み書きの出来る百姓は、自分で訴状を書いたりもしてたようだ。

   秋の田をからせぬ公事の長びきて
 さいさいながら文字問にくる   芭蕉(『阿羅野』「雁がねも」の巻)

という句もあったが、ところどころ字がわからなくなると、お寺の坊さんなどに聞きに行ったりもしたのだろう。芭蕉さんのところにも来たのかもしれない。
 当時は再審制はなかったので、不服があると別件で追い訴訟をしたのだろう。後の母親が何を妬んでどんな訴訟を起したのかは知らないが、勝てる当てのない裁判でいたずらに騒ぎ続けるのは、秋になってもまだ鳴いている蝉のようだ、と揶揄する。

 三十二句目

   追訴訟身の程しらぬ秋の蝉
 堂こぼたれて山のさびしき    賀子

 訴訟というとこの時代には神社と仏閣との境界争いが多発したようだ。芭蕉の仏道の方での師匠だった鹿島根本寺の仏頂和尚も、寺領五十石を七年に渡る裁判の末に取り戻したという。
 この句の場合はお寺の方が負けたのか、寺領を失ったお寺は寂れてゆく。

 三十三句目

   堂こぼたれて山のさびしき
 谷川や岩にとどまる笠の骨    賀子

 今日だと台風の後なんかは道端にビニール傘の白骨がいたるところに散らばっているが、江戸時代の編み笠には骨がないので、唐傘のことだろう。もう挙句も近いので、ありがちな風景を軽く添えて遣り句する。

 三十四句目

   谷川や岩にとどまる笠の骨
 手枕をして山椒魚寝る      賀子

 魚扁に帝の字のフォントが見つからないので「山椒魚」と表記しておく。
 確かに山椒魚には手があるが、手枕はちょっと無理ではないかと思う。

 三十五句目

   手枕をして山椒魚寝る
 神農の代々(よよ)におしへの花の露 西鶴

 神農は三皇五帝の一人で、医療と農耕の神様でもある。湯島聖堂に寛永十七年の神農の像があるが、頭に小さな角がある。亜人(デミ・ヒューマン)の一種と思われる。
 山椒魚は精力剤にされてきたが、神農のありがたい教えは世に広まり、人々は健康に暮らしている。「花の露」は比喩だが、平和でみんなが元気に暮らす村、山椒魚が川にすむ村の実景としてもいい。

 挙句

   神農の代々におしへの花の露
 桉葉(たらやう)にかく春の初文字 西鶴

 タラヨウは多羅葉とも書く。モチノキ科モチノキ属の常緑高木。葉の裏面を傷つけると字が書けるという。
 前句の「花の露」が比喩なので、最後は正月の句にして目出度く治める。

2017年9月21日木曜日

 今日は秋晴れでちょっと暑い。
 それでは「蓮の実に」の巻の続き。

 二十五句目

   今の身請は袖のむら雨
 物毎に堪忍始末の恋止メて    賀子

 ネットを見ていたら、西鶴の貞享五年の『日本永代蔵』の引用で「始末大明神のご託宣にまかせ、金銀をたむべし。これ二親のほかに命の親なり」というのを見つけた。「始末」というのは「算用」「才覚」と並んで商いの三法と言われていたらしい。
 天和の頃は好色もので一世を風靡した西鶴が、一転して商いの道で「始末」の肝要を解き「恋止メて」になったと思うと、楽屋落ちの句になる。
 句自体は物事に堪忍や始末が必要だと、真面目に商売の道に励むことにして、遊女の身請けの話も涙を呑んで止めにした、といったところだろう。

 二十六句目

   物毎に堪忍始末の恋止メて
 弘誓(ぐぜい)の舟に乗からはみな 西鶴

 「弘誓」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」によれば、「菩薩が自ら悟りをひらき、あらゆる衆生を救って彼岸に渡そうとする広大な誓願」だそうだ。
 本来仏教は自分さえ救われればいいというものではなく、むしろ自らを犠牲にしてでも衆生を救うということに重点が置かれていて、だからこそお坊さんは尊敬されてきた。厳しい修行もそのためのものだった。
 菩薩の悟りに導かれ、みなその弘誓の船に乗り込むには、物毎を堪忍始末し、恋の煩悩も断ち切る。

 二十七句目

   弘誓の舟に乗からはみな
 白銀(しろかね)の金(こがね)の鯛も醜(なまぐさ)し 西鶴

 舟だから魚、それも鯛ということになる。仏道に入るなら殺生を戒め、鯛などという生臭いものも食うべきではない。金の鯛でも銀の鯛でも生臭いというのは、お金への執着もまた鯛同様生臭いということか。

 二十八句目

   白銀の金の鯛も醜し
 碪(きぬた)にさむる夢の本意なし 賀子

 夢の中で金銀の鯛の舞でも見たのだろうか。竜宮城の夢も玉手箱ならぬ砧の音で不意に目覚め、がっかりする。
 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』では、

 千たび打つ砧の音に夢さめて
     もの思ふ袖の露ぞくだくる
               式子内親王(新古今和歌集)

を踏まえているという。本歌というほど元歌に寄り添わない換骨奪胎は、大阪談林の好む所か。

 二十九句目

   碪にさむる夢の本意なし
 忍び道夜るの芭蕉におどされて   賀子

 俳諧師としての芭蕉は仮の姿で夜には忍びの者となって‥‥、なんて句ではない。でもちょっとは狙っているかも。
 秋の夜の月に浮かれて女の下に通おうとすると、芭蕉の大きな葉っぱは秋風に大きく揺れて音を立て、砧もまた寂しげに聞こえ、何となく白けてしまったという方の意味か。
 月の定座だが月夜を匂わせるだけで月は出なかった。

 三十句目

   忍び道夜るの芭蕉におどされて
 月を妬める後の母親        西鶴

 しょうがないからここで月を出すしかない。
 「後の母親」は実の母親ではなく父の後妻ということか。娘に通ってくる男を妬む。それでわざわざ芭蕉を植えたか。

2017年9月20日水曜日

 「蓮の実に」の巻は二の懐紙に入る。

二表
 十九句目

   海棠眠る唐人の留守
 紅(くれなゐ)のチンタ流るる春の水 西鶴

 チンタはvinho tinto(ポルトガル語)、vino tinto(スペイン語)のtintoで本来は染まったという意味。女性形だとtintaになる。英語のtintと語源は同じ。
 唐人が出てきたところで、これは曲水の宴か。中国の酒ではなくぶどう酒を入れた杯が流れてくる。

 二十句目

   紅のチンタ流るる春の水
 小鼓出来て時服下され      賀子

 曲水の宴だが、詩を詠むのではなく鼓を打って、その功績で時服を賜る。
 本来時服は律令で定められた季節ごとの衣装代の支給だったが、江戸時代には将軍家が大名や旗本に褒美として下賜するようになった。

 二十一句目

   小鼓出来て時服下され
 今日までは見て登リたる雪の富士 賀子

 豚もおだてりゃ木に登ると言うが、ここでは下賜の喜びを富士山にも登る気分に喩える。

 二十二句目

   今日までは見て登リたる雪の富士
 扇面逆心さいご近づく      西鶴

 江戸時代の刑罰には扇腹(おうぎばら)というのがあり、切腹より重く斬罪よりは軽い。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「江戸時代、武士の刑罰の一。切腹と斬罪(ざんざい)の中間の重さのもので、罰を受ける者が、短刀の代わりに三方(さんぼう)に載せた扇を取って礼をするのを合図に介錯人が刀でその首を切る。扇子腹(せんすばら)。」

とある。
 富士は扇をひっくり返した姿なので、逆になった扇子に逆心の罪の者の最期が近づくとする。俳諧では「切腹」だとか「腹を切る」といった直接的な表現を嫌う。

 二十三句目

   扇面逆心さいご近づく
 状箱を焼捨がたし行蛍      西鶴

 「行蛍」は『伊勢物語』に出典のある言葉で、短い物語だ。

 「昔、男ありけり。人の娘のかしづく、いかでこの男にもの言はむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、もの病みになりて死ぬべき時に、かくこそ思ひしかと言ひけるを、親聞きつけて泣く泣く告げたりければ、惑ひ来たりけれど、死にければつれづれと籠りをりけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに宵は遊びをりて、夜ふけてやや涼しき風吹きけり。蛍たかく飛び上がる。この男、見ふせりて、

 ゆく蛍雲のうへまで往ぬべくは
     秋風吹くと雁に告げこせ

 暮れがたき夏のひぐらしながむればそのこととなくものぞ悲しき。」

 逆心の男の最期の近づいた時、状箱の恋文を焼き捨てようと思ったものの焼くことができず、さりとてこのまま残せば死後に女の元に伝わってしまい、ああ行く蛍、となってしまう、と悩む。

 二十四句目

   状箱を焼捨がたし行蛍
 今の身請は袖のむら雨      賀子

 前句の焼き捨てがたい手紙を遊女のものとし、不本意な身請けに泣く遊女の心を付ける。
 身請けされるから始末しなくてはいけないのだが、思いは断ちがたく行く蛍となって飛んで行く。そんな悲しさに袖は涙の村雨に濡れる。
 恋句の展開の場合男と女を入れ替えるのは基本。
 こういう本人の切ない恋心を詠む、中世連歌に近い恋句の読み方は、蕉門ではほとんど見られない。浮世の恋を第三者的に斜に構えて笑いに転じて詠むことが多い。

2017年9月19日火曜日

 台風の後は暑さが戻ってきたが、それでも真夏ほどではない。
 それでは「蓮の実に」の巻。

 十三句目

   借ス人もなき大年の宿
 京の伯父田舎の甥も輿かきて   賀子

 前句を大晦日は誰に宿を貸すでもないと取り成し、その理由をみんな輿を担ぎに行っているからだとする。
 大晦日は神道では大祓い、仏教では除夜でみんなはきれいに祓い清め、歳神様(正月様)を迎えるために夜通し起きていた。

 十四句目

   京の伯父田舎の甥も輿かきて
 官女の具足すすむ萩原      西鶴

 具足というと今では甲冑の意味で使われることがほとんどだが、古語辞典を見ると、伴いを連れること、家来、部下、調度品などいろいろな意味が出てくる。
 官女というと雛人形の三人官女を連想する人も多いかもしれないが、雛人形に三人官女を飾るのは江戸後期以降。
 平安時代だと、官女は宮中の雑用係で、今で言えばお掃除おばさんみたいな感覚か。貴族の側仕えの女房たちよりも身分が低い。
 ただ、元禄時代に「官女の具足」が何を意味していたのかはよくわからない。高貴な女性なら立派な街道を行くだろうから萩原ということもなさそうだし、あるいは都落ちした官女の行列か。

 十五句目

   官女の具足すすむ萩原
 房枕秋の寝覚の物狂ひ      西鶴

 「房枕」はくくり枕のことか。細長い袋にそば殻、籾殻などを詰めるのだが、その両端をくくる部分に房をつけたものは豪華な感じがする。語感的には「草枕」に通じるので、萩原でも草枕ならぬ房枕で、明け方には失恋の寂しさから狂ったように萩原をさ迷い歩く。具足は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』では「性具」との説明がなされている。
 本当に官女が具足(鎧兜)を身につければ、それも物狂いかもしれないが、それだとどちらかというと、延宝のころの蕉門のシュールギャグになる。

 十六句目

   房枕秋の寝覚の物狂ひ
 血を忌給ふ御社(みやしろ)の月 賀子

 秋が二句続いたので、ここらで月を出すのが順当だろう。月に狂気は洋の東西を問わない。
 かつての「穢れ」の概念は未知の病原体への闇雲な恐怖から来たといってもいい。だから今日的に言えば病気に感染する恐れのあるものを忌む。血もそうだし死体や動物も動物関係のお仕事の人も忌むべき対象になる。月経の経血もその一つ。
 神社は一般に血を忌むが、最後に「月」と放り込むことによって、前句の寝覚めの物狂いが「月のもの」によることになる。

 十七句目

   血を忌給ふ御社の月
 猪に折られながらに花咲て    賀子

 血を忌む御社は動物も忌むのだが、特定の動物はむしろ神使として大事にされる。
 この場合の猪は神使ではなくそこいらから迷い込んできた猪だろう。ただ、血を忌むので退治することはできない。猪に好き放題に暴れまわられて桜の枝も折られてしまったのだろう。それでも負けじと桜は咲く。

 十八句目

   猪に折られながらに花咲て
 海棠眠る唐人の留守       西鶴

 「海棠眠る」は「海棠の眠り未だ足らず」という楊貴妃の逸話から来ているらしい。ネットで調べたが出典はこれのようだ。

 「上皇登沈香亭、召太真妃子、妃子時卯酔未醒、命力士従侍児、扶掖而至、上皇笑曰、豈是妃子酔、直是海棠睡未足耳〈楊太真外伝〉」[佩文韻府]

 ただ、ここでは本説とか俤とかではなく、猪に折られた田舎の花に、唐の楊貴妃を対比させたもので、対句のように作る「向かへ付け(相対付け)」ではなく、唐人が留守だから猪に折られるという、意味(心)の上で辻褄を合わせる「違え付け」になる。

2017年9月17日日曜日

 今日は台風が朝には南九州に上陸し、今頃は若狭湾の方に抜ける頃か。関東でも一日中雨が降った。
 それでは、なかなか進まないけど「蓮の実に」の巻の続き。

 十句目

   豊国の奥は小蝶の羽の弱シ
 当座の嵐手負つれのく      西鶴

 前句の「小蝶の羽の弱シ」を怪我人の比喩として、嵐のせいとした。「豊国」は単なる舞台になり、捨てている。重い展開が続いた所での展開を図るために遣り句と見ていいだろう。

 十一句目

   当座の嵐手負つれのく
 酒ゆへに常の魂闇と成(なり)  西鶴

 当座を宴会だとか興行とかの場にして、酒が過ぎて狼藉を働いたのだろう。蕉門でも猿蓑の風でより軽くてリアルな展開が求められて板敷きだけに、ここでも庶民のリアルな場面へ展開したい所だろう。

 十二句目

   酒ゆへに常の魂闇と成
 借ス人もなき大年の宿      賀子

 酒に溺れて転落した身には、大晦日だというのに借金の返済を迫られるどころか、金すら借りられないで一人大晦日を宿で過ごす。
 笑いに持っていくというよりは、酒に溺れるとこうなるよという教訓めいた展開は、やはり蕉門とは違う。

2017年9月15日金曜日

 想像してごらん。世界は一つになんかならないことを。いろんな人がいて様々な文化があってたくさんの国があって、それぞれ張り合ったりしながら、世界はより楽しく刺激的なものになるということを。夢かもしれないけど、みんながそう思えば簡単なこと。
 いくら核ミサイルを振り回したところで、この世界を一つにするなんて所詮無理なんだよ。アメリカだってできやしないんだから、まして‥‥。
 今日でこの鈴呂屋俳話はちょうど一年。花火を上げて祝ってくれたのなら歓迎するが。

 では「蓮の実に」の巻の続き。初裏に入る。

 七句目

   白鷴人をおぢぬ粧ひ
 山桜限リの身とて二百戒      西鶴

 二百五十戒というのは『四分律』に基づく仏教の戒律で、僧の守るべき戒律をいう。ここで「二百戒」というのは、五七五の枠に収めるために省略した言い回しかと思われる。二百五十戒は男性の僧に対する戒律なので、山桜に諸行無常を感じ、出家して戒律を受け入れる決意をした人は男性ということになる。尼僧は三百四十八戒。ちなみに東南アジアの上座部仏教では二百二十七戒だという。
 山桜は散って人は人生の儚さを感じても白鷴は平然としている。そこで発心したのだろう。

 八句目

   山桜限リの身とて二百戒
 昔にかはる寄生(やどりぎ)の梅 賀子

 本歌は、

   世をのがれて東山に侍る頃、
   白川の花ざかりに人さそひければ、
   まかり帰りけるに、昔おもひ出でて
 ちるを見て帰る心や桜花
     むかしにかはるしるしなるらむ 
                  西行法師『山家集』

 出家前は満開の桜だけを楽しんでたが、今は桜の花の散る心をしみじみと味わうことができる。それは出家したせいなのだろう。
 心境の変化というよりは、俗人だった頃は花見といってもあくまで宴席での人付き合いの方が主で、そこで才能をアピールすることしか考えてなかったが、出家後に花見に誘われ桜の散る姿を見て、無常迅速を思うといたたまれなくなっておいとまして帰ってきたのだろう。
 賀子の句はこの「昔にかはる」出家した我が身を、梅に寄生するヤドリギに喩えたのだろう。僧は自分で食物を作ったり狩ったりしない。人から施し物を受け、いわば寄生して生きている。

 九句目

   昔にかはる寄生の梅
 豊国の奥は小蝶の羽の弱シ    賀子

 徳川の時代では豊臣秀吉(とよとみのひでよし)は悪人だが、関西人にしてみれば判官びいきの部分もあったのだろう。
 とはいえ豊臣秀吉を祀った豊国神社が再興したのは明治になってからのことで、それまではずっと荒れ果てたままだった。
 そこでは昔は見事な花を咲かせていた梅の木もヤドリギが生え、蝶は秀吉の魂の変化したものか、その羽の音も弱々しい。もちろん実際には聞こえるはずもない音だが、霊魂の音を心で聞くといったところか。秀吉は豊臣の姓を賜る前は「羽柴秀吉」だった。

2017年9月13日水曜日

 「蓮の実に」の巻の続き。

 四句目

   名月の朝日に影の替り来て
 まだ夢ながら碁石撰分(えりわく) 賀子

 一見唐突に囲碁が出てくるようだが、前句の名月と朝日を碁石の黒石と白石に見立てての展開。月は金屏風などでは銀で塗るため、それが黒ずんで見える。
 名月が沈み朝日が昇る頃、徹夜で打っていた碁の勝負も黒が優勢だったが次第に白の優勢に変わり、眠気も差してきて夢ともうつつともつかずに次ぎの手を案じる。「撰分(えりわく)」は碁笥をまさぐる仕草のことか。

 五句目

   まだ夢ながら碁石撰分
 船寄て延しにあがる磯の浜     賀子

 これも囲碁用語による縁語での展開で、「寄せ」は中盤にほぼ確定した地合いの隙間を細かく詰めていって、一目でも多く取ろうというせめぎあい。「延び」は自分の石をの横にさらに石を打って長くすることをいう。「浜」は取った相手の石のこと。「上げ浜」とも言うから「上がる‥浜」で縁語になる。
 碁を案じていると夢の中では船が出てきて、寄せの勝負で自分の石を伸ばし、地合いを確定させればその中の石は上げ浜となる。

 六句目

   船寄て延しにあがる磯の浜
 白鷴人をおぢぬ粧ひ        西鶴

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)のテキストでは「鳥」の上に「幹」の乗っかった文字で記されていたが、フォントが見つからなかったので註釈の所にあった「鷴」の字にした。
 「白鷴」は雉の一種で、中国南西部に生息する。
 この句は李白の「秋浦歌」による本説付けではないかと思う。「秋浦歌」は十七首からなり、一般に知られているのは其十五の「白髪三千丈」だが、其十六に「白鷴」の登場する歌がある。

 秋浦田舎翁 采魚水中宿
 妻子張白鷴 結罝映深竹

 秋の浦の田舎の老人、
 魚を獲って船で暮らす。
 妻子は白鷴に網を張り、
 結んだ罠は深い竹薮に映る。

 漁夫が船を寄せて磯の浜で伸びをすると、そこには白鷴が人を恐れることもなく佇んでいる。多分竹薮に張った罠が目立ちすぎたのだろう。そこにはかかってなかった。

2017年9月12日火曜日

 せっかくだからもう少し大阪談林的な世界を見ておこうと思う。
 昨日も賀子撰『蓮実』(元禄四年刊)を見ておこう。

 賀子についてはあまりよくわかっていないようだ。父は斎藤玄真という医師で禾刀(かとう)という俳号で、西鶴に俳諧を学んでいたという。賀子と西鶴との結びつきもそこにあったのだろう。
 『蓮実』の序文は難解な出典とかもなく、なかなかわかりやすい。

 「花は散もの、月は入ものにして、是を世のさまとす。貴賎僧俗われに着する故に、吾とくるしむ獅獅身中の虫なり。かしこき人はまずしきをたのしみ、富て礼をなせとこそ教けれど、それまではいふにたらず、ねがふもむつかし。右指左指造次顛沛、東西に走り、南北に起臥し、心のおもむくにまかする事、蓮の実のごとし。」

 花はいつかは散り、月はいつかは沈むのは当たり前のことで、それに執着するのは獅子に寄生する虫のようなもの。そのあとは『論語』の引用で、賢い人は貧しさを楽しみ、豊かになったら礼をなせとはいうものの、なかなかその境地にはなれないし、なろうとも思わない。「むつかし」は面倒くさいというような意味か。
 「右指左指造次顛沛」は右に行ったり左に行ったり急に何か起こったりいきなりひっくり返ったり、ということで、『論語』にはそういう時でも仁を忘れずにというのだが、それはねがうもむつかし、か。東西に走り南北に起臥し心の赴くままに任せ、蓮の実のようにはじけようじゃないか、と。『論語』を引用しながらも、そんなことは気にせずかまわず自由に生きようじゃないかという宣言と見ていいだろう。
 この辺の奔放さこそが大阪談林の根底にあるのではないかと思う。蕉門のような古典風雅の古人の理想を求めるのではなく、泣いたり笑ったりわからなかったり迷ったり、それが人間じゃないか、その基本にあるのは「かまわぬ」ということ、つまり自由ではないかと思う。
 そういうわけで、最初の歌仙の賀子の発句に繋がる。

 蓮の実におもへばおなじ我身哉    賀子

 蓮の実は晩秋になるとあの蜂巣の穴の中にあった実がぽんと飛び出すらしいが、まだ見たことはない。『去来抄』「先師評」に、

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲花にかき出す橡のかたぶきて   はせを

の句がある。
 序文を踏まえるなら、賀子の発句は、その蓮の実を思えば、自分もまた特に何の理由もなく衝動に任せて行動することがよくあり、それに似ているな、というような意味だろう。
 西鶴はこの発句にこう和す。

   蓮の実におもへばおなじ我身哉
 世にある蔵も露の入物        西鶴

 この世に蔵を立てたところであの世には持ってゆけない、蔵の中身もまたその場限りの儚い露のようなものじゃありませんか、ならば自由に生きるのが一番です。
 第三は両吟の常として西鶴が詠む。

   世にある蔵も露の入物
 名月の朝日に影の替り来て      西鶴

 前句の「露」は比喩だったが、ここでは蔵に降りる本物の露として、名月がやがて沈み朝日が差すころには、月の光に輝いていた露も消えてゆく、とする。もちろん、この句全体も人生の儚さの比喩ととることはできる。
 夜の世界に遊び楽しみ、ひと時の夢の世界に酔いしれていても、やがて朝が来て現実の世界に引き戻されてゆく。それでもあの露の輝きにこそ人生の真実がある。それは永遠の理想と言ってもいい。人類の永遠の理想、それは「かまわぬ」つまりフリーダム。

2017年9月11日月曜日

 今日都内で彼岸花が咲いているのを見つけた。今年も彼岸花の季節となった。
 去年は彼岸花の句として、

 弁柄の毒々しさよ曼珠沙華   許六
 赤々と残る暑さや死人ばな   孟遠

の二句を紹介した。
 今日は大阪談林の賀子の撰による『蓮実』から、

 蓮の実を袖に疑ふ霰哉    西鶴

を発句とした歌仙の二十七句目、

   さす形リ悪き穢多が大小
 折ル人もなき片野べも山慈菇(しびとぐさ) 万海

を見てみよう。
 穢多は通常十手や六尺棒を用いて犯罪者を生け捕りにするのが仕事だったが、特別な場合には帯刀することもあったという。
 前句は、

   遷宮の七日内陣鳴止ず
 さす形リ悪き穢多が大小   賀子

で、内陣は御神体を祀るところ、そこが七日間何か物音がしているというのだが、これだけでは何のことかわからない。
 この場合の遷宮は出雲大社の遷宮で寛文七年(一六六七)の寛文造営だったのかもしれない。出雲大社の神在月の七日間は全国から八百万の神が集まって会議を開くため、この時期は出雲参りで大勢の人が押し寄せた。急遽警備のために穢多が集められたりしたのだろうか。
 「さす形(な)リ悪き」というのは大小の刀を差した姿が武士のようにさまになってないという程度の意味だろう。
 さて、それでは「折ル人もなき片野べも山慈菇」だが、「野辺」は古くは埋葬地を意味していた。片野辺は小さな埋葬地という意味だろうか。穢多から野辺の連想はその意味では自然で、付き物と言ってもいいだろう。そこには死人花とも死人草とも呼ばれる彼岸花が咲いている。
 彼岸花は最近ではリコリスという洒落た名前で呼ばれたりするが、長く死人花と呼ばれてきた歴史は今でも残っている。竜騎士07さんの『彼岸花の咲く夜に』をはじめとして、今でも不吉なおどろおどろしいイメージで描かれることが多い。

2017年9月10日日曜日

 才麿の『椎の葉』の紀行文の須磨のところに、松茸の句がある。

 「すま寺といふは、道ほそくつきて、尾花くず花のたよりに添て、はるかに行に、寺門斜也。取つたへたる宝物の、むかしをさまざま乞出て見けるに、弁慶が筆とて「此花江南所無也」の制札アリ。年号は寿永三年二月二日。

 松茸に制札はなし寺の入リ」

 須磨寺は上野山福祥寺といい、仁和二年(八八六)の創建。源平合戦にまつわる多数の宝物がある。
 ここには『源氏物語』の源氏の君が植えたという「若木の桜」があったという。あれは物語で虚構だが、後に誰かが植えて源氏物語の聖地にしたのだろう。須磨巻にこうある。

 「すまには、年かへりて、日ながくつれづれなるに、うゑし若木の桜ほのかにさきそめて、そらの気色うららかなるに、よろづのことおぼし出でられて、うちなき給ふをりおほかり。」
 (須磨では年もあらたまり、日も長くなる中だらだらと時を過ごしていると、植えた若木の桜が少しづづ咲き始め、いい天気の日が続き、都でのいろいろなことを思い出しては涙がこぼれることもしばしばです。)

 この桜の木に弁慶の筆と伝えられている制札があったという。そこにはこうある。

 「須磨寺桜
 此花江南所無也。一枝於折盗之輩者、任天永紅葉之例、伐一枝者可剪一指。
 寿永三年二月日」

 枝を一本折ったら指を一本切り落とせと、目には目を歯には歯をどころではない厳しいことが書いてある。
 そんな厳しい制札はあっても、松茸を取ってはいけないという制札は無い。

 松茸に制札はなし寺の入リ    才麿

 前に、

   稗に穂蓼に庭の埒なき
 松茸に小僧もたねば守られず   鳳仭

という句を紹介したが、当時の松茸の所有権はどうだったのか、正確な所を知りたいものだ。
 もし松茸に制札があったら、何をもって償うのかとなると、‥‥シモネタになるのでやめておく。多分才麿もそれを考えていたと思う。

2017年9月9日土曜日

 九月九日は重陽で菊の節句だが、新暦では菊の花にはまだ早い。

 草の戸や日暮れてくれし菊の酒   芭蕉

の句は元禄四年膳所木曾塚の無名庵での句で、「九月九日、乙州が一樽を携へ来たりけるに」という前書きがある。

   草の戸や日暮れてくれし菊の酒
 蜘手に載する水桶の月       乙州

の脇がある。「蜘手(くもで)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」によれば、「(木材を)四方八方に打ちつけたり、縄で結わえつけたりすること。」だという。
 元禄七年最後の年の重陽にも、

 菊の香や奈良には古き仏達     芭蕉
 菊の香や奈良は幾代の男ぶり    同
   くらがり峠にて
 菊の香にくらがり登る節句かな   同
   九日、南都をたちける心を
 菊に出て奈良と難波は宵月夜    同

などの句がある。
 菊の酒は不老不死の仙薬とされていた。凡河内躬恒の「こころあてに」の歌も、菊の酒を作ろうとしたものか。

 それではこやん源氏「明石」の続き。今のところここまでしか書いてないので、とりあえずここで終わり。

 須磨はひどく寂れたところで漁師の家もほとんどなかったが、ここは人が多くてうざいと思っては見ても、季節折々の風情にあふれ、何かにつけて気が紛れます。
 主人の入道は、日々の修行やお勤めの時はいかにも悟りきったようなのですが、ただ例の娘一人が悩みの種のようで、とにかく見ていて痛いくらいで、時折愚痴をこぼすのでした。
 源氏も内心、なかなかの美人だと聞いていた人だけに、こんな風に思いもかけず廻り合えたことは何かの縁ではないかと思ってはみるものの、そうはいっても隠棲の身なので、仏道の修行のこと以外は考えまい、ただでさえ都に残してきた人から話が違うと言われると思うと気が引けて、無関心を装ってました。
 ただ、話を聞けば聞くほど、性格といい容姿といい並々ならないのを感じとると、興味無きにしも非ずです。
 入道の方も遠慮があってか、娘に会いに行くことはほとんどなく、大分離れたところの下屋にいるようです。
 本当は朝から晩まで傍にいたいといつも思っているようで、何としても良い縁談を見つけたいと神仏に祈るばかりです。
 入道は六十くらいになるとはいえなかなかの美形を維持していて、修行のせいで痩せ細って人間的にも上品に振舞おうとしているのか、偏屈で常軌を逸したところはあるが、故事などにも詳しく、根は純粋で人情に精通している部分もあるので、昔のことなどをいろいろ聞いたりする分には少しばかり退屈も紛れます。
 最近は公私共に忙しくてなかなかじっくり聞くこともできなかった昔あった出来事なども、少しづつ聞き出すことができました。
 こういう場所や人に廻り合えなかったならほんと退屈だったな、と思うような面白い話も混じってました。
 そうはいっても、これだけ親しくしていながらも源氏の君のあまりにも完璧で近寄りがたい美貌に圧倒されて萎縮してしまい、自分の思っていることを率直に切り出すことができないのを、情けないやら悔しいやらと母君にこぼしては溜息ばかりです。
 本人も、どこを見回しても目の保養になるような人にめぐり合えないようなこんなところに、まったくこんな人もいるんだと思ってはみるものの、自分の身分を考えれば遥か彼方の人のように思うのでした。
 親があれこれと画策しているのを知ってはいるものの、「所詮不釣合いね」と思っては、今まで以上に悲しくなるのでした。

 旧暦の四月になりました。
 衣更えの装束や御帳に用いる裏地のない絹など、なかなかのセンスのものが用意されてました。
 万事至れり尽くせりのおもてなしも、参内するわけでもないのだから無駄でどうでもいいようなことのように思えるものの、性格的にどこまでもプライドの高い高貴な生まれの人だけに、目をつぶることにしました。
 京からも次々と慰問の手紙やら贈り物やらがたくさん届いて、ほとんどきりがないくらいです。
 長閑な夕月夜に海の上が霞むことなく見えわたるのを見るにつけ、住み慣れた我が家の池の水を思い出し、言いようもないくらい恋しくなるものの、その気持ちのやり場もなく、ただ目の前に見えているのは淡路島でした。
 「淡路にてあはと遥かに‥‥」と凡河内躬恒の歌を口にすると、

 ♪Aha!と見る淡路の島が悲しいよ
     現実だけを見せる夜の月

 長いこと手も触れなかった七弦琴を袋から取り出して空しく掻き鳴らす姿に、見ている人も少なからず互いを哀れみ悲しく思うのでした。
 「広陵散」という竹林七賢の稽康ゆかりの曲を渾身の力を込めて弾いてみせると、あの高台の家でも松風や波の音と合わさり、察しの良い若い娘さんなら、その気持ちは痛いほど伝わったことでしょう。
 都の音楽など何も知らないそこらかしこの歯の抜けた老人たちも浮かれ出てきて、浜で風に吹かれて風邪を引いたくらいでした。
 入道も居ても立ってもいられず、供養の行を放り投げて急遽駆けつけました。
 「まったく、捨てたはずの俗世も今さらながらに思い出してしまったよ。
 死んだ後に行きたいと思っている極楽浄土とやらも、きっとこんな感じなんだな。」
と涙を流しながら聞き惚れていました。
 源氏の君も内心、四季折々の管弦の宴やあの人この人の筝や笛、あるいは俗謡を唄う様子などそのつど何かとみんなから賞賛されたときのことや、御門をはじめとして大切にされ尊敬を集めたことなど、いろいろな人のことや自分自身のやってきたことも思い出して、夢見るような気持ちで掻き鳴らす琴の音も心にぞくっとするほど染みてきます。
 年老いた人は涙が止まらずに岡の麓の家に琵琶や筝を取りにいかせ、入道はさながら琵琶法師のように目も開けられず、珍しい面白い曲を一つ二つ弾いてみせました。
 筝が届けられると源氏の君が少し弾いただけで、何をやってもすごいんだと思い知らされました。
 まったく、たいしたことのない人が弾く音だって、時と場合によっては上手く聞こえるものなのに、遥か遠くまで遮るものなく見渡せる海の眺めに、なまじっかな春秋の桜や紅葉の盛りよりもただそこはかとなく茂る草木の陰が渋く彩り、クイナの戸を叩くような声は「誰が門を閉ざしたんだ」と哀れに思えます。
 入道が二つとないような音色の出る琴や筝を大変懐かしそうに弾き鳴らしてるのが気になったか、
 「これはまた、女のなついて離れないような感情にまかせてに弾いているようで面白いなあ。」
と大雑把な感想を言うと、入道は苦笑いしながら、
 「楽器ほど女のようになついて離れ難いものはどこにありましょうか。
 私めは、醍醐天皇より伝わる弾き方の三代目の継承者で、このとおり何の才能もなくこの世を捨てて忘れた身なのですが、胸の塞がるような思いが込み上げて来たときに楽器を掻き鳴らしていた所、何だか知らないがまねして弾く者がいて、自然とあの先大王の弾き方に通じるものがありまして。
 山伏の思い違いで松風と聞き誤ったのかもしれませんが、どうでしょう、これもこっそり聞かせてあげたいものでして。」
と言うとそのまま急に身を震わして涙が流れ落ちているような様子でした。

2017年9月8日金曜日

 『源氏物語』の明石巻もまず須磨の雷雨からはじまるし、

   雨のとをれば桐油まくる竹輿
 淋しさを酒で忘れんすまのうら   海牛

の句も見たところで、『椎の葉』の才麿の紀行文の須磨のところを見てみようと思う。

 「みなと川をわたり、兵庫の津を出て、タタビ山・蛸釣やま、此あたりおなじやうなる奇峰、いくらも並びて、青帳錦屏の粧ひをなせり。須磨へもはやわづかになりて、鉄拐がみね・鐘かけ松、まぢかうみゆる。ききしよりはけはしく、古松いくへにもかさなりて、すがた猶すさまじ。須磨の人家は今もまばらに、松のはしら・竹あめる垣・板のひさしは山颪にやぶれ。関もるかげもなく、汐やくわざも見えず、邂逅つりたるる泉郎の子の、まどをの衣肌寒くこそ着なしたれ。

 あら古や露に千鳥をすまの躰」

 兵庫の津は今の神戸港の母体で、湊川は今は長田区の辺りを流れているが、かつては兵庫の津の方に流れていたという。ほぼ今のルートになったのは明治43年だという。旧湊川は兵庫の津の西側を流れていたので、「みなと川をわたり、兵庫の津を出て」というのは、湊川を渡ることで兵庫の津を出てという意味だろう。
 タタビ山は現在の再度山(ふたたびさん)、蛸釣やまは「高取山」と思われる。ウィキペディアの「高取山 (兵庫県)」を見ると、

 古名は「神撫山(かんなでやま)」という。現在は高取山と呼ばれているが、長田区の民話においては山全体が水没した際に大きな松に絡んだタコを捕獲したということから「タコ取り山」と名づけられたという説がある。

とある。このあたりの山は急峻で岩場も多く、西は須磨の鉄拐山へと連なる。鉄拐は仙人の名で、蝦蟇(がま)使いとして中世の絵画に描かれている。鉄拐山の中腹には弁慶が安養寺から持ち去った鐘をかけたと言われる鐘掛松がある。
 須磨の辺りは家もまばらで、藻塩焼く海人の姿は見られなかった。このあたりは貞享五年(一六八八)にこの地を訪れた芭蕉の『笈の小文』にも、「東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。『藻塩(もしほ)たれつつ』など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざするなども見えず。」とある。
 ただ、芭蕉が見たのはカラスを脅す今の海人の姿だったが、才麿が見たのは「まどをの衣(麻衣)」を着た海人の姿で、そこに古代を偲ぶことができた。「まどをの衣」は、

 須磨のあまのまどほの衣夜や寒き
     浦風ながら月もたまらず
                藤原家隆『新勅撰集』

の歌に詠まれている。
 さて、そこで才麿の一句。

 あら古や露に千鳥をすまの躰    才麿

 「あら古や」は「あら、経るや」、あらあら随分昔のことになってしまったものだ、という意味だろう。
 千鳥は、百人一首でも知られている、

 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に
     幾夜ねざめぬ須磨の関守
                源兼昌『金葉集』

にも登場する。しかし、今はそこに関もなく、ただ露に千鳥だけが須磨の体となる。連歌の式目『応安新式』には、須磨 明石(可為水辺‥‥)とあり、「浮木、舟、流、浪、水、氷、水鳥類、蝦、千鳥‥‥(已上如此類用也)」とある。これでいくと「露に千鳥」は須磨という体に対して「用」ということになる。ただ、ここでは露に千鳥があることで須磨が体をなす、という意味であろう。
 才麿の紀行文の須磨の場面はまだ続く。
 それではこの辺で、こやん源氏「明石」の続きを。

 胸がきゅんとなってかえって気持ちを落ち着けることができず、現実の悲しいこともすっかり忘れて、夢とはいえ何一つまともな受け答えができなかったもやもやが残るだけに、もう一度逢えないかと何とか寝ようと努力するのだけど、ますます目が冴えてしまったまま夜も明けてしまいました。
 いかにも小さそうな船が近くの渚に接岸し、二、三人ほど源氏の君の宿泊しているところにやってきました。
 「はて、どちら様で?」
と尋ねると、
 「明石の浦より先の播磨の守で今は出家したばかりの身の上の者が、こうして船を仕立てて参った。
 源の少納言がおられるならこちらへ来て取り次いでくれ。」
と言いました。
 源少納言良清は驚いて、
 「あの入道は播磨の国にいた頃交流のあった人で、長く懇意にさせていただいてたっすが、個人的に少々感情的な問題があって長いこと疎遠になってて、こんな海の方から人目を忍んで一体なんなんすかねえ。」
と首をひねります。
 源氏の君は夢のことなど思い当たることもあるので、
 「早く会ってこいよ。」
と言うと、船の方に行って対応しました。
 あれほど風が吹いて波も高かったのに、一体いつ船を出したんだと何とも不可解です。
 「以前三月最初の巳の日の夢に見たことのないような身なりの人お告げがあって、何とも信じがたいことだったのだが、
 『13日に新たな兆候を見せる。
 船を用意して必ず雨風が止んだらこの浦に接岸せよ。』
と何度もお告げがあって、試しに船を用意して待っていると、雨も風も激しく雷もゴロゴロ鳴りだしたので、中国の皇帝にも夢を信じて国を救ったというような話がたくさんあるのを引用するまでもなく、この神罰の日を逃さず、このことをお話したくて船を出すと、不思議なことに弱い風がそこだけ吹いてこの浦にたどり着いたのだから、これぞまさに神の導きに違いない。
 そちらにももしや心当たりがあるのではと思ってな。
 突然でいかにも失礼なことではあるが、このことを伝えてくれ。」
と言いました。
 良清は源氏の君に耳打ちします。
 源氏の君は思い返すと、夢にもうつつにもいろいろ穏やかならぬ神のお告げのようなことがあったのをあれこれ結びつけて、
 「世間で逃げ出したというような話になっていろいろ後の人に非難を受けることを心配するあまり、本当に神様が助けてくれているのかもしれないのを拒むなら、そっちの方がもっと人の物笑いの種になる。
 実際の人の心ですら怖いのだから、まして神ともなれば‥‥。
 これまでのどうしようもない状況を考えても、ここは自分より年長で、それに地位もあって、自分よりも時流に乗って輝いている人には、それにうまく取り入って気に入られるようにしない手はない。
 長いものには巻かれろと昔の賢者も言っていることだ。
 実際、こんな生きた心地もしないような、この世にそうそう起こるはずのないようなことばかり見せ付けられ、それで後の評判を恐れて逃げたのでは武勇伝にはならない。
 夢の中で父である御門にも諭されたとあれば、もうこれは疑いようがない‥‥。」
 そう思ってこう答えました。
 「見知らぬ土地で滅多にないような災厄をこれでもかと見てきたけど、都の方から見舞ってくれる人もいない。
 ただ行方も知れぬ月日の光ばかりを故郷の友と眺めていたところ、何とも嬉しい迎えの釣り船ではないか。
 そちらの浜辺に静かに隠れてすごせるような場所があるなら‥‥。」
 それを聞くとこの上なく喜んで姿勢を正してこう言いました。
 「とにかく夜が明けてしまう前に舟に乗りなさい。」
 そういうわけで例の親しい四、五人を引き連れて乗り込みました。
 するとさっき言われたようにそこだけ風が吹いて、飛ぶように明石に到着しました。
 普通にこっそり舟を出したとしてもすぐ着いてしまうような距離とはいえ、それでもまるで意思を持っているかのような不思議な風でした。


 この浜辺のあたりはまったくの別天地といったところです。
 人が多いのだけは難点ですが。
 入道の所領は海に面したところから山の向こう側まで広がり、四季折々の興を咲かすと思われる苫屋に、お勤めをして死後の成仏に思いをはせるにふさわしい山水に面したところに荘厳なお堂を立てて修行に励み、現世での生活は領内で取れる秋の田の稔りを頼みとし、長い老後に備えて立ち並ぶ米蔵はあたかも一つの町のようで、どこを見てもどれを取っても目を見張るようなものがここに集められてます。
 ここ最近の高潮を恐れて、娘などは高台の家に引っ越させていたので、この浜辺の館に誰にも気兼ねせずに気ままに暮らしいるようです。
 船を降りて牛車に乗り換える頃には陽もようやく昇り、源氏の君のお姿をほのかに拝むことができると、すっかり歳も忘れて若返ったような気分で破顔一笑し、住吉の神に真っ先に取りすがるようにお祈りし感謝を捧げました。
 太陽も月も手に入れたような気になって、せっせと源氏のご機嫌をとろうとするのも理由あってのことです。
 自然の景色はもちろんのこと、造営された庭の趣向もまた、立ち木、庭石、植え込みなどの見事さといい、言葉にできないくらいすばらしい入り江の水といい、絵に描こうにも才能のない絵師ではとても書くことはできないでしょうね。
 ここ何か月かの住まいに比べれば、明らかに格段の差があり、すっかりお気に入りです。
 部屋の調度などもあり得ないくらいのもので、中の様子は都の大臣クラスの家にもなんら遜色ありません。
 まばゆいばかりのその華やかさは、むしろそれ以上と言ってもいいでしょう。
 少しは気持ちも落ち着いた頃、京に手紙を書きました。
 あの雨の中をやってきた二条院の使いも、今は「とんでもない所に来てしまってこんな恐ろしい目にあって」と泣き崩れたままあの須磨にま置き去りにされてたのですが、呼び寄せて不相応なほどの報酬を与えて発たせました。
 いつも一緒にいた祈祷師たちの主だったところには、今回あったことを詳しく書いて託したのでしょう。
 入道となった中宮には、不思議なことがあってあの世から生還したことなどを書きました。
 二条院への手紙はというと、書こうにも胸がいっぱいになり何も書くことができません。
 書こうとしては手を止めて涙をぬぐっている様子なども、それでも別格です。

 「これでもかこれでもかと悲惨な目の限りを体験しつくした状態なので、俗世とさよならしてこのまま消えてしまいたいような思いに駆られるけど、鏡に映るならそれを見てと言ったあの時の君の姿を忘れた夜はなく、こんなにもいてもたってもいられなくて、ここでのいろいろあった悲しいことも吹っ飛んで、

 こんなにも思いは遥か見も知らぬ
     浦からさらに遠い浦へと

 悪夢の中をもがくばかりで醒めることもできず、しょうもない愚痴ばっかりになってしまったな。」

と実際とりとめもないことを書き連ねるいるにしても、周りの者からすればついつい覗き込んでみたくなるもので、結構いろいろ気を使ってるんだなとあらためて感心するのでした。
 ほかの人もそれぞれの実家に、いかにも心細いことを書いて送ったのでしょうね。
 少しも止むことのなかった空模様も嘘のように晴れ渡り、漁に出る漁師たちもどこか誇らしげです。

2017年9月7日木曜日

 さて、「立出て」の巻もいよいよ最後六句を残すのみ。一気に行ってみよう。

二裏
 三十一句目

   そのしはぶきのうそと真を
 とりどりに骨牌(かるた)をかくす膝の下 才麿

 この場合のカルタは百人一首やいろはカルタではなく、賭博に用いられるカルタだろう。こっそりと膝の下に札を隠しておいて、見つかると「こはいかさまにござるか」とか言われたのだろう。咳払いも仲間同士の合図だろう。
 カルタは戦国時代に南蛮からカードが伝わり、ポルトガル語のcartaがそのまま日本語になった。「トランプ」は明治に再び西洋からカードが入ってきた時に、切り札の意味のtrumpが誤ってカードの名称として広まったと言われている。
 カルタは江戸時代には日本独自にいろいろな発展をした。天正カルタが改良され、17世紀後半にウンスンカルタが流行したというから、才麿の時代のカルタはウンスンカルタだったかもしれない。ただ、ウィキペディアにはウンスンカルタができたのが元禄の終わりから宝永の初め頃(18世紀初頭)とあり、だとすれば天正カルタだったかもしれない。
 天正カルタが禁制をのがれるために数字を表記しなくなり絵を描くようになったのが花札だといわれている。これも芭蕉や才麿の時代よりもかなり後になる。

 三十二句目

   とりどりに骨牌をかくす膝の下
 とまりをかゆる春雨の船      尚列

 春雨で川が増水して船も泊める場所を変える。そんな船の船頭たちの楽しみは賭けカルタで、船が出せない日には船頭たちが集まって隠れて遊んでたのだろう。

 三十三句目

   とまりをかゆる春雨の船
 土産(いへづと)に白魚買て干せける 海牛

 そんな船乗りたちも家へ帰ればいい親父で、土産に白魚を買ってきては「干して食えや」なんて言っている。あるあるだけど笑いに持っていかずに人情で「ええ話」に持ってゆく。これぞ大阪談林。

 三十四句目

   土産に白魚買て干せける
 わらやもおなじ雛の置よう      千山

 蝉丸の歌に、

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮もわら屋もはてしなければ
                 蝉丸『新古今集』

とあるが、宮廷に雛飾りがあるように、庶民の家でも庶民なりの雛人形が飾られている、というふうに換骨奪胎する。

 三十五句目

   わらやもおなじ雛の置よう
 咲花に菁(あおな)かけたも風情也  占立

 春の句が三句続いたが、花の定座なのでもう一句春の句になる。春秋は五句まで許される。
 畑の隅に桜の木があって、その下に青菜が干してある光景は、昔の農村ではありがちな景色だったのだろう。

 挙句

   咲花に菁かけたも風情也
 天女(つばめ)のめぐり空のゆたけき 執筆

 挙句は古式にのっとって執筆(筆記係)が務める。
 せっかく四句春が続いたのだから、ここは天女(つばめ)を出して五つ春を続けて目出度く締める。広い大空を「かまわず」飛びまわるツバメの姿は、まさに江戸庶民のあらまし、自由、フリーダムだ。

で、おまけとしてこやん源氏「明石」の続きでも。

 こんな田舎では、今のこの状況を理解できて、過去の事例やこれからどうなるかをすばやく判断して、これはこうであれはこうなんだと即答してくれるような人はいません。
 得体の知れない猟師たちが偉い人がここにいるから何かわかるのかと集まってきて、わけのわからないいことをあーだこーだと騒ぎ立てるのも何とも困ったものですが、追い払うわけにもいきません。
 「この風がもうちぃと吹きよったなら、高潮で全部持っていかれたろうな。
 神頼みゆうのも馬鹿にはできんな。」
という声が聞こえてくるものの、それにしてはあまりにも頼りなく馬鹿です。

 「海に住む神の助けがなかったら
     渦巻く潮に流されてたな」

 強がってはみても、丸一日吹き荒れていた風の騒ぎにすっかり疲労困憊で、意に反して急に睡魔に襲われるのでした。
 申し訳程度の居間なのでただそこいらの物に寄りかかってうとうとしていると、亡き院が生きていた頃のそのままの姿で目の前に立っていて、
 「何でこんなとんでもないところに留まっているんだ。」
と言って手をつかんで引き寄せます。
 そして、
 「住吉の神がお導きになるのだから、早く船に乗ってこの海岸から離れるんだ。」
と言うのです。
 なんだか嬉しくなって、
 「あなたのその畏れ多い御姿とお別れして以来、いろいろ悲しいことばかりたくさんあったので、今はこの浜辺で身分を捨てて隠れ住むつもりで‥‥」
と申し上げると、
 「それはいけない。
 これはちょっとした天罰だ。
 われは在位の頃、悪気はなかったのだが結果的に罪なことをしてしまい、その罪を生きている間に償いきれなくてこの世のことにかまっている暇もなかったんだが、あまりにも悲しみに沈んでいるお前のことを見ていると我慢できなくて、海に入り渚に上りえらく苦労をしたもんだが、せっかくこの世に舞い戻ったのだから、ついでに内裏に行っていろいろ言いたいことがあるんでこれから京都へ急がねば‥‥」
と言って去っていきました。
 もっと一緒にいたいのに思うととにかく悲しく、
 「お供します。」
と言って涙をぼろぼろ流しながら見上げると、そこには誰もいず、月の顔だけが煌々として、夢見ていたとも思えずまだ院の気配がそこにあるような気がして、空の雲が悲しそうにたなびいてました。
 今となっては夢にも見ることがなく、逢いたいと思ってもかなえられなかったそのお姿をほのかにではあるがはっきりと見ることができただけに、その面影を思い浮かべては、「俺がこんな悲しみのどん底にいて死にそうになっているのを助けようと、空のかなたから駆けつけてくれたのだと思うとすっかり感激して、それもこれもこの一連の事件があればこそだと、去って行った後のこの月夜が限りなく心強く嬉しく感じられるのでした。

2017年9月6日水曜日

 こやん源氏の明石巻は途中までは描いている。ここで少し公開しておこう。

 なお雨風やまず、雷も静まらないまま日々が過ぎて行きました。
 全く憂鬱なことばかり重なります。
 これまでもこれから先も悲しいことばかりだと思うと、希望を持とうにもなかなか難しいものです。
 「どうしたらいいものか。
 こんな状態だからといっても、都に帰った所でまだ世間が許してくれたわけではないし、ますます物笑いの種になるだけだし、だったらもっと山奥に籠って誰にも知られることのないところに行ってしまおうかと思っても、波風にまでも追い立てられてと嫌な伝説になって後世にまで面白おかしく語り継がれるのではないか」
と思うとどうにも身動きが取れません。
 夢にもただいつもおなじ光景が繰返し現れ、すっかり取り憑かれてしまってます。
 雲が切れることなく何日も過ぎて行くと、京都からの便りもますます滞るようになり、このまま世間では死んだことにされてしまうのだろうかと不安に思っても、首を外に出すことすらできないような悪天候に、わざわざやってくる人もいません。
 そんな中、二条院からの使者がやけにみすぼらしい姿でびしょ濡れでやってきました。
 道ですれ違えば人なのかどうかもわからないような状態です。
 本来なら真っ先に追い払って然るべき下賎の者でも、親族に会えたかのように喜んでいることが我ながら恥ずかしく、つくづく落ちぶれたもんだと身にしみて思うのでした。
 その手紙には、

 「いつになっても降り止むことのない今日この頃のお天気に、ますます心まで閉ざされたうわの空で、何も手に付かないまま過ごす日々です。

 海べりの風はどうなの想像を
     しては何度も袖は濡れます」

と悲しい気持が切々と綴られてます。
 ますます涙の水位が上がったのでしょうか、目の前が真っ暗です。
 「都でもこの雨や風は、とにかく不吉な前兆だということで仁王会なども行なわれていると聞いています。
 宮中に出入りする上達部なども外出すらままならず、政治の方も滞ってるようです。」
というようなことを話すのですが、どうにも頭が悪そうで要領を得ず、それでも都の方のことを思えばいろいろ知りたいこともあるので、自分の前に連れて来させて尋ねました。
 「ただこんな雨が止むことなく降り続けて、風も時折吹くような状態がもう随分と長く続き、前例のないことなのでみんなびっくりしているのです。
 もっとも、地の底までも貫くような雹が降ったり雷が止まないなんてことはありません。」
など、こちらがあまりにひどい状況なのに驚いて怖気づいて顔面蒼白なのを見ると、ますます不安になります。
 「このまま世界は破滅するのか」と思っているうちにも、そのまた次の明け方から風がひどく吹き荒れ、高潮が押し寄せ、波は音を荒げて岩も山も飲み込んでしまうかのようです。
 雷が光っては鳴り響くさまはこれ以上言いようがないくらいで、「落ちて来るぞ」と思った瞬間は誰も彼もが理性を失っています。
 「わわわわわっ、こんなひどい目にあって、一体俺は前世でどんな罪を犯したってゆうんだーーーーっ。」
 「父さん母さんにも逢えなければ最愛の妻の顔をも見ることなく、ここで朽ち果てるのか。」
と嘆くばかりです。
 源氏の君は何とか冷静さを保ち、
 「何も悪いことやってないのにこんな辺鄙な海辺で死んでたまるか」
とあくまで強気ですが、周りがあまりにも騒ぎ立てるので、いろいろな神へのお供え物を並べ、
 「住吉の神よ、どうかこの辺りを静め、守ってくれ。
 本当に御仏の我が国に現れたる神ならば助けてくれ。」
と幾多の衆生救済の大願を求めました。
 みんな自分の命のことはともかくとして、これだけの大人物が異常な事態にあってこの地に沈んでいることに大層心を痛め、発心し、ちょっとでも信心のあるものなら我が身に代えてもこのお方を救ってくださいとどよめきが起こり、声を合わせて神仏に祈りを捧げました。
 「帝王の深き宮に育って、幾多の風流を楽しみ得意になっていたところはあったのもの、この日本の津々浦々に至るまで民を深く愛し、埋もれていた人材も発掘してきたんだ。
 今何の罪あってここで邪悪な波風に溺れるというのか。
 天地の道理を明らかにせよ。
 罪もないのに罪人となり、官位を剥奪され、家を離れ都を追われ、明けても暮れても安らぐことなく嘆いているというのに、こんなひどい仕打ちで死んでしまうというのは前世の報いによるのか現世での犯罪によるものなのか、神仏よこの世にいるのであればこの災厄を鎮めてくれ。」
と住吉社の方角に向って、様々な願い事をし、また海の中の竜王や八百万の神に願い事をすると、雷はますます大きな音を立て、居間寝室へと続く廊下に落ちました。
 炎を上げて燃え上がり、廊下は焼け落ちました。
 理性も感情も失い、ただみんな呆然とするばかりです。
 後ろの方にある大炊殿のような所にみんなを移し、身分の高いものも低いものの一緒になって、とにかく大声で泣き騒ぐ声は雷にも劣りません。
 空は墨を磨ったような状態で日も暮れました。
 やっとのことで風もおさまり雨脚も緩むと星の光が見えてきて、このすっかり変わり果てた居間にいつまでも居させるのも何とも申し訳なくて、寝殿に戻らせようとすると、焼け残った方も目を背けたくなるような状態で、そこらかしこ右往左往する人の足音がごろごろ鳴り響き、御簾なども皆風で散乱してました。
 ここで夜を明かすしかないかと何とか辿り着いて、源氏の君はお経を唱えながらあれこれ考えるのですが、どうにも落ち着けません
 月の光も差し込み、柴の戸を押し開けて辺りを見回すと、波がすぐそばまで押し寄せた跡もなまなましく、その余波なのか今でも波は荒々しく寄せては返すのでした。

 さて、「立出て」の巻の続き。

 二十五句目

   禄とらねども秋は来にけり
 笠着せてかかしにやとふ古俵    占立

 案山子は昔は「僧都」とも呼ばれた。僧都は仏教界を統制する僧官だが、ここでは古俵に笠を着せた方の僧都で、禄をもらっているわけではない。禄がなくても秋は来ている。

 二十六句目

   笠着せてかかしにやとふ古俵
 むかし捨たる姥を泣ク月      才麿

 案山子が立っているのは田んぼだということで、千枚田から姥捨山の田毎の月ということになる。本説付け。
 田毎の月は本来は初夏の水を張ってまだ田植えをしてない田んぼに月で明るくなった空が映ることをいうが、『大和物語』の姥捨山伝説では田毎の月とは関係なく、姥を捨てたけど月を見ていて悲しくなって、

 わが心なぐさめかねつ更級や
    姨捨山に照る月をみて

と歌を詠んで姥を迎えに行ったことになっている。貞享五(一六八八)年の、

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉

の句も有名だ。

 二十七句目

   むかし捨たる姥を泣ク月
 此一(ひ)ト間折には風の吹のこり 尚列

 本説付けは逃げるのが難しいという欠点があり、そこで蕉門では出典がはっきりわかるような本説から、曖昧な俤付けへと変化していく。
 ここでも「捨たる姥」が前句にある以上、姥捨伝説からは逃れ難い。ただ舞台を姥捨山から小さな部屋へと変える。このことで、部屋の中で姥捨ての物語を聞いて涙する場面になる。

 二十八句目

   此一ト間折には風の吹のこり
 恋なればこそ爰に来られる     海牛

 そこだけ世間の風から隔絶された部屋では、男女が睦み合うことになる。

 二十九句目

   恋なればこそ爰に来られる
 物竅(むな)シ雪にうたるる袖の尺(たけ) 千山

 雪の中をじっと待ち続けている女の姿だろうか。今でも演歌ではありがちだ。

 三十句目

   物竅シ雪にうたるる袖の尺
 そのしはぶきのうそと真を     占立

 「しはぶき」は会いに来たという合図の咳払いだろう。前句の雪に打たれていたのはここでは会いに来た男の姿になる。だが、雪の中わざわざ合いに来てくれたといって喜んでいては相手の思う壺。そこは男と女騙し騙され‥‥ってやっぱり演歌だ。

2017年9月5日火曜日

 新聞に角田光代さんの『源氏物語』のことが載っていた。源氏物語もいろいろ新しい訳も出てきているので、こやん源氏の方はもう書かなくてもいいだろうな。俳諧に専念したほうがいいのだろう。

二表
 十九句目

   海辺のどかに並ぶ魚舟
 あかあかと霞の間の塔一つ     千山

 これは瀟湘八景図のようだ。漁村夕照だろうか。
 「あかあかと」という言葉は『奥の細道』の、

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風 芭蕉の用例があり、この場合は沈む陽の赤いさまをあらわすもので、芭蕉自筆の『入日に萩の自画賛』に萩と重なる赤い夕日が描かれていて、それに「あかあかと」の句が添えられている。千山の句も春の夕暮れの情景と見ていいだろう。霞の中の塔という趣向も中国の絵画を髣髴させる。

 二十句目

   あかあかと霞の間の塔一つ
 麻の中出て気の広う成       占立

 麻は麻布や麻紐に用いるため、かつては日本のいたるところで栽培されていた。高さが2.5メートルにもなるため、1.5メートルくらいだった江戸時代の男性から見るとかなりの圧迫感を感じただろう。麻畑を出て視界が開け遠くに塔が見えたりするとほっとする。
 『去来抄』に、

 つかみ逢ふ子どものたけや麦畠   去来

の句に対し、凡兆が「是の麦畠は麻ばたけともふらん。」と言ったとあるが、麻の長けとなると巨人族の子供か。
 江戸時代までの日本では麻も栽培されていたし、芥子も様々な園芸品種が存在した。それでもそれを麻薬として利用する文化はなかった。
 伊勢神宮の大麻配布はかつては麻で作られた大幣で清められた御札の配布で、麻薬の大麻を連想させるためよくネタにされる。

 二十一句目

   麻の中出て気の広う成
 霍乱を吹だまされし青嵐      才麿

 「霍乱(かくらん)」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によると、

 「古くから知られていた,中国医学の病名の一つで,嘔吐と下痢を起こし,腹痛や煩悶なども伴う病気の総称である。暑い時に冷たい飲食物をとりすぎるなど,冷熱の調和を乱すことによって起こると考えられていた。乾霍乱,熱霍乱,寒霍乱など種々の病名が記載されている。病状からみてコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる。現在の中国語では霍乱とはコレラのことである。【赤堀 昭】
[日本]
 日本では一般に日射病などの暑気あたりの諸病をさすが,古くは中国と同様激しい腹痛,下痢,嘔吐を伴う急性胃腸炎のことをいった。」

だそうだ。
 「青嵐(あおあらし)」もコトバンクのデジタル大辞泉の解説に、

 「初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。せいらん。《季 夏》『―定まる時や苗の色/嵐雪』

とある。
 夏の厚さが原因となる病気も麻畑で青葉を揺する涼しい風に吹かれていると、何となく治まったような気にさせられる。

 二十二句目

   霍乱を吹だまされし青嵐
 雨のとをれば桐油(とゆ)まくる竹輿(かご) 尚列

 桐油は中国原産のアブラギリ(トウダイグサ科)の実から採れる油で、有毒な成分が含まれているため、食用にはできず、主に燃料用に用いられていたが、油紙を作るのにも用いられていた。
 「けふばかり」の巻の第三に、

   野は仕付たる麦のあら土
 油実を売む小粒の吟味して     酒堂

の句もある。
 ここでいう竹輿は簡素な山駕籠のことで、町駕籠のような簾はなくて乗っている姿が外から丸見えで、雨を凌ぐには桐油を塗った油紙が用いられていたのだろう。
 通り雨が通り過ぎたので桐油紙を捲り上げると、霍乱も忘れるような青嵐が吹いてくる。

 二十三句目

   雨のとをれば桐油まくる竹輿
 淋しさを酒で忘れんすまのうら   海牛

 『源氏物語』の「須磨」では光源氏らは未曾有の風雨や雷に遭うが、江戸時代に光源氏がいたら駕籠で旅をして須磨にやってきて、雨が上がったら灘の酒で一杯やったことだろう。本説でも俤でもなく、換骨奪胎の句。
 「淋しさを酒で忘れん」というフレーズは今の演歌でもありそうなもので、大阪談林の俳諧は蕪村を経て浪花節に受け継がれ、今の演歌の情緒に受け継がれているのかもしれない。

 二十四句目

   淋しさを酒で忘れんすまのうら
 禄とらねども秋は来にけり     千山

 牢人の句とし、今年もまた仕官の決まらないまま、秋が来ても禄をもらえず、家族の者とも離れ、一人酒でも飲んで気を紛らわす。

2017年9月4日月曜日

 今日も涼しかった。青マツムシがリーリー鳴いている。
 それでは「立出て」の巻の続き。

 十五句目

   角力の徳は月もかまはず
 鼻紙に扇そへをく露のうへ    占立

 角力に扇、月に露と四つ出に付いている物付けの句。
 相撲の行司は元禄期に今のような軍配を使うようになったが、それ以前は普通の扇か唐団扇を使っていたともいう。軍配も軍配扇で扇の一種ではある。
 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注には、「露の降りた草の上に敷いた鼻紙に扇を乗せて相撲の勧進元が挨拶している。」としている。
 露の降りた草の上に扇を置くのなら、それこそ、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて      芭蕉

ではないが、草相撲を取るために、持っていた扇子を汚れないように鼻紙を敷いて、その上に置いただけかもしれない。
 鼻紙は古紙を再生した「落とし紙」から、高級な「花紙」までいろいろあったようだ。

 十六句目

   鼻紙に扇そへをく露のうへ
 大工の箱をなをす朝寒      才麿

 露が降りるのだから朝は寒い。扇の箱は小さいので大工さんが直すのは大工道具を入れる箱ではないかと思う。一日の仕事の前に箱が壊れているのに気づき、手にした扇を横において修理を始める。

 十七句目

   大工の箱をなをす朝寒
 髪結はぬ花の主の形(なり)見られ 尚列

 元禄の頃はまだ公園が整備されてなく、花見は寺社で行われた。桜の木を育て、手入れしている花守は、そのお寺の童子だったのだろう。
 大工が箱をなおしていると朝早いので普段は人前に姿を現さない大童子姿の花守が見えた。秋の句から花の定座への展開。

 花守や白きかしらをつき合わせ   去来

の句も、わらわ髪のまま年取った大童子だったのだろうか。少なくとも剃髪した僧ではなかった。

 十八句目

   髪結はぬ花の主の形見られ
 海辺のどかに並ぶ魚舟       海牛

 これは向え付け。中世連歌では相対付けという。花の山に海辺と相反するものを付け、対句のように作る。
 山では髪結わぬ花守の姿があって、海辺にはのどかに漁船が並んでいる。

2017年9月3日日曜日

 原爆突きつけられてもー、水爆突きつけられてもー、なんて歌が昔あったか。
 「立出て」の巻の続き。

 九句目

   世を住かへて憂名はがさん
 涼しさや閼伽井に近き芝つづき    千山

 閼伽井はウィキペディアによれば「閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。」で、「閼伽を汲むための井戸を『閼伽井』、その上屋を『閼伽井屋』、『閼伽井堂』と称される。」とある。『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注には「また寺院や墓地の井戸」ともある。
 これが墓地の井戸だとすれば、前句の「世を住かへて」はこの世からあの世へ住み替えての意味になり、閼伽井に近い芝生の上にある新居はさぞかし涼しいことだろう。生前はいろいろあったけど、という所か。

 十句目

   涼しさや閼伽井に近き芝つづき
 目印つけてもどる沢潟(おもだか)  占立

 オモダカは湿地に生える植物で、矢印型の葉と白い小さな花は紋章にも用いられている。花は新暦の六、七月から咲き始めるので夏の季語になる。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「慈姑」という字を当てている。

 「慈姑[和漢三才図会]その苗を、俗におもだかと云。其根を白くわゐと名づく。単葉の小白花をひらく。〇慈珍曰、慈姑、一名燕尾草と云。葉、燕の尾の如く、前尖りて、後に岐あり、云々。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.323~325)

 湿地に咲くオモダカは涼しげで、目印をつけておくというのは月の夜にでも見に来るつもりか。

 十一句目

   目印つけてもどる沢潟
 蜘のひの立挙動(たちふるまひ)ぞくれにける 才麿

 「蜘(くも)のひ」は謎だが、ウィキペディアには「岡山県倉敷市玉島八島で、クモの仕業といわれる『蜘蛛の火』がある。島地の稲荷社の森の上に現れる赤い火の玉で、生き物または流星のように山々や森の上を飛び回っては消えるという。」とある。宝暦四(一七五四)年刊の『西播怪談実記』の「佐用春草庵是休異火を見し事」は半世紀後だが、元禄期にもこういう言い伝えが既にあったとすれば、才麿が地元で聞いた話を登場させたのかもしれない。
 夕暮れに蜘蛛の火を見たので、その場所に印をつけてもどってきたということか。
 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注は「『蜘のひ』は『蜘の囲』。」とし、「一日中せっせと巣を張っている」とする。「囲」の通常の仮名表記は「ゐ」だが、「ひ」と混同された可能性もある。
 だとすると、蜘蛛の巣を張る蜘蛛の様子を見ていたらいつの間に時が経って日も暮れていた、ということになる。何の目印なのかはわからない。

 十二句目

   蜘のひの立挙動ぞくれにける
 歩行(あるき)にくさの行水の下駄 尚列

 「行水」は夏の季語だが『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。また、行水の

句は、

 行水も日まぜになりぬむしのこゑ 来山
 行水の捨て所なき虫の声     鬼貫

など、秋に詠むこともある。「575筆まか勢」というサイトで行水の句を見たが「行水(ゆくみず)」の句がかなりの数混じっていた。
 「行水の下駄」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注に「行水用の下駄」とあるが、どのような下駄なのかはよくわからない。
 江戸時代の浮世絵の行水を画像検索すると、確かに盥の横にいる人物は下駄を履いているが普通の下駄に見える。
 前句が「蜘蛛の火」だとしたら、腰を抜かしたか。「蜘蛛の囲」だとしたら、せっかくの蜘蛛の巣を壊さないように歩くから歩きにくいということか。
 「蜘のひ」「歩行にくさ」の二句ははっきりいってよくわからない。当時の人ならわかったのだろう。まだまだ研究が必要だ。

 十三句目

   歩行にくさの行水の下駄
 物とがめそこで笑にしたりつる  海牛

 悪いことをしたら叱り付けるのは当然だが、相手をとことん追い詰めたりせず、適当な所で笑って許すことも必要だ。
 浮世絵にもあったが、子供を行水させる母親の姿だろうか。

 十四句目

   物とがめそこで笑にしたりつる
 角力(すまふ)の徳は月もかまはず 千山

 昔は相撲は秋の神事だった。ただ、それとは関係なく草相撲もあったし、大道芸としての辻相撲もあった。貞享元年(一六八四)に寺社奉行のもとで勧進相撲の興行が許可されたのが、今に続く大相撲の始まりとされている。
 「かまはぬ」というのは江戸時代の模様に鎌と輪と「ぬ」の文字を書いたものがあるように江戸時代の人に大事にされた言葉だ。好きにすればいい、何の制約も課さないという、今でいう自由、フリーダムを意味してたといっていいと思う。
 相撲の良い所はお月様だって何お咎めなしで、ガチの喧嘩や戦争ではなく、ゲームで誰も死んだり傷ついたりすることなしに勝敗を決するというのは、今のスポーツの理想でもある。
 ただ理想はそうだが、実際は勝負の判定を巡って喧嘩になったりと、それも今のスポーツと同じか。蕉門の「馬かりて」の巻の四句目に、

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり  北枝

とあるのは、やはり勝負を巡っていさかいが起きることも多かったのだろう。

2017年9月1日金曜日

 音楽は自分のスタイルで好きなように楽しむのが一番なのだけど、コンサートとなると会場の都合やいろいろな周囲への気遣いは欠かせなくなる。アンコールで時間が押しているとなれば、メンバー紹介でソロ演奏をやれと言われても自ずと短く切り上げるというのが常識だ。
 ただ、なまじ才能があり、人一倍表現欲求が強いと、ついついそれを忘れて自分の世界に浸りこんでしまうものなのだろう。世界のヒノテルもなかなかそこまでは教えられなかったか。
 それはともかくとして、「立出て」の巻の続き。

 五句目

   夜習仕まふ時に成けり
 又こそは凝水(げすい)こぼして帰るらん 占立

 「凝水」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注によれば、「下水、建水。茶の湯で茶碗を洗った水、またはそれを入れる器。」とあり、「夜習いを終えて又下水をその辺りにこぼして帰っていったのではあるまいか。前句の『夜習』を稽古事とした。」とある。多分この解釈でいいのだろう。今のところ他のは思いつかない。
 ウィキペディアでは「建水」で出てくる。

 六句目

   又こそは凝水こぼして帰るらん
 跣(はだし)になるるそだちきたなし   才麿

 この場合「凝水」は茶の湯のそれではなく、普通の下水だろう。

初裏
 七句目

   跣になるるそだちきたなし
 傾城に身のありたけを打明し      尚列

 傾城は吉原の遊女でその頂点に立つのは花魁。ただ財をなし、地位を成すだけでなく、それとともに風流の心も持ち合わせなくては、花魁と会うことはできない。
 この男もそこまでは辿り着けないような冴えない男なのだろう。遊郭に来てまで、実は貧しい生まれでなどと身の上話をする。夢を売る遊郭で現実に引き戻すような話は、相当に野暮なのではないかと思う。
 今でいえば出会い系の店で出会った女子高生に説教垂れるような輩か。元文科省の官僚のような。

 八句目

   傾城に身のありたけを打明し
 世を住かへて憂名(うきな)はがさん 海牛

 前句を傾城の遊女にではなく、傾城に入れ込んだ身のありたけを打ち明けしとして、世を離れ出家して浮き名を晴らそうということか。