2017年9月10日日曜日

 才麿の『椎の葉』の紀行文の須磨のところに、松茸の句がある。

 「すま寺といふは、道ほそくつきて、尾花くず花のたよりに添て、はるかに行に、寺門斜也。取つたへたる宝物の、むかしをさまざま乞出て見けるに、弁慶が筆とて「此花江南所無也」の制札アリ。年号は寿永三年二月二日。

 松茸に制札はなし寺の入リ」

 須磨寺は上野山福祥寺といい、仁和二年(八八六)の創建。源平合戦にまつわる多数の宝物がある。
 ここには『源氏物語』の源氏の君が植えたという「若木の桜」があったという。あれは物語で虚構だが、後に誰かが植えて源氏物語の聖地にしたのだろう。須磨巻にこうある。

 「すまには、年かへりて、日ながくつれづれなるに、うゑし若木の桜ほのかにさきそめて、そらの気色うららかなるに、よろづのことおぼし出でられて、うちなき給ふをりおほかり。」
 (須磨では年もあらたまり、日も長くなる中だらだらと時を過ごしていると、植えた若木の桜が少しづづ咲き始め、いい天気の日が続き、都でのいろいろなことを思い出しては涙がこぼれることもしばしばです。)

 この桜の木に弁慶の筆と伝えられている制札があったという。そこにはこうある。

 「須磨寺桜
 此花江南所無也。一枝於折盗之輩者、任天永紅葉之例、伐一枝者可剪一指。
 寿永三年二月日」

 枝を一本折ったら指を一本切り落とせと、目には目を歯には歯をどころではない厳しいことが書いてある。
 そんな厳しい制札はあっても、松茸を取ってはいけないという制札は無い。

 松茸に制札はなし寺の入リ    才麿

 前に、

   稗に穂蓼に庭の埒なき
 松茸に小僧もたねば守られず   鳳仭

という句を紹介したが、当時の松茸の所有権はどうだったのか、正確な所を知りたいものだ。
 もし松茸に制札があったら、何をもって償うのかとなると、‥‥シモネタになるのでやめておく。多分才麿もそれを考えていたと思う。

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