2017年9月28日木曜日

 今日は元禄三年刊の鬼貫編『大悟物狂』から。

   おなじ夜ねられぬほどにここかしこをめぐりて
 いとど鳴キ猫の竃にねぶる哉     鬼貫

 「いとど」はカマドウマのことで、

 海士の屋は小海老にまじるいとど哉  芭蕉

の句は元禄三年の吟。
 鬼貫の句の方は、前書きにあるように秋の夜長を眠れなくてあちこちうろうろ歩いていると、カマドウマが鳴いていて、カマドには猫が眠っていた、というもの。カマドウマは実際には鳴かないらしいが、秋の夜のありがちな風景だ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「竃馬 いとど、こほろぎ二名一物。この部「蟋蟀」の条に註す。」

とあり、カマドウマはコオロギのことだとしている。コオロギなら確かに鳴く。その「蟋蟀」の条には、

 「蟋蟀(きりぎりす)[大和本草]本草四十一巻、竃馬の附録にのす。一名蟋蟀(しっしゅつ)、又蛬(きゃう)といふ。立秋の後、夜鳴く。イナゴに似て黒し。翼あり。角あり。頭は切たる如く尖りなし。俗につづりさせとなくといふ。西土の方言クロツヅといふ。古歌にきりぎりすとよめるは是也。秋の末までなく故に、古歌に霜夜によめり。〇今俗にいふきりぎりすは莎雞(はたおり)也。」

とある。『大和本草』の記述によると、コオロギのことと思われる。ツヅレサセコオロギというのもいる。

 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣片敷きひとりかも寝む
      後京極摂政前太政大臣(藤原良経)『新古今集』

のキリギリスはコオロギだというわけだ。鬼貫の句もこの歌に寄るものか。
 一方、『増補 俳諧歳時記栞草』のコオロギの所にはこうある。

 「竃馬(こほろぎ) [酉陽雑俎]竃馬(さうば)、状(かたち)、促織(きりぎりす)の如し。俗にいふ、竃に馬あれば食に足の兆。[大和本草]蟋蟀(きりぎりす)に似てひげ・足ながく、せい高く、頭尾さがりてするど也。竃のあたりに穴居す。筑紫の方言にヰヒゴ。」

 これはカマドウマの特徴に一致する。つまり、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。ならばカマドウマ→キリギリスになるのかというとそうではなく、カマドウマ=コオロギになる。
 この句は古歌を証歌に取りながら、「猫」を俳言として、いとどは鳴き、カマドウマならぬ猫は竃に眠ると洒落てみた句で、一見蕉風のあるあるネタのようでいながら実は談林の古風によるものだ。
 前書きの「おなじ夜」というのは、この前の句、

   貞享よつの秋長月十七日の夜更行ままに
   庭のけしき人はしらず
 今の心是こそ秋の秋の月    鬼貫

とおなじ夜の句という意味だ。そういうわけで、「いとど鳴キ」の句は貞享四年の吟で、芭蕉の「海士の屋は」の句よりも先。

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