この頃時々仕事で富士市のほうへ行くが、今日も雲の上に僅かに富士の山頂が見えた。まだ冠雪はしていない、黒々とした富士山だ。
上島鬼貫というと、やはり、
にょっぽりと秋の空なる不尽(ふじ)の山 鬼貫
だろうか。この句は貞享二年の句で、この一年前には芭蕉が『野ざらし紀行』
の旅で、
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 芭蕉
の句を詠んでいる。
芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』には雲の切れ間に見える富士が描かれているから、完全に富士が見えない面白さというよりは、時折チラッと顔を出すチラリズムの富士山が面白いという意味だったか。
以前筆者の唯一の著書『野ざらし紀行─異界への旅─』には、霧でまったく見えないからかえって無限の富士山の想像を掻き立てられる、弦のない琵琶を抱いていた陶淵明のような逆説と解釈したが、その後実際に東海道を歩いたりして富士山を見ているうちに、その解釈は観念的過ぎるなと思った。
芭蕉には、
箱根の関越て
眼にかかる時や殊更さつき富士 芭蕉
の句もある。元禄七年、最後の旅の時の句だ。
芭蕉の富士の美学の基本は、雲や霧に遮られながら思いがけなく富士が見えるという所にあったのだろう。富士には雲霧が必要だった。
芭蕉の俳文、『士峯の賛』でも芭蕉はこう言っている。山梨の芭蕉dbから失礼するが、
「崑崙は遠く聞き、蓬莱・方丈は仙の地なり。まのあたりに士峰地を抜きて蒼天を支へ、日月のために雲門を開くかと。向かふところ皆表にして、美景千変す。詩人も句を尽くさず、才子・文人も言を絶ち、画工も筆捨てて走る。若し藐姑射の山の神人有りて、其の詩を能くせんや、其の絵をよくせん歟。
雲霧の暫時百景を尽しけり」
この「雲霧の」の句は岩波文庫の『芭蕉俳句集』では存疑の部のところにある。芭蕉が甲斐に滞在した天和三年の作という説も挙げている。
ただ、芭蕉は貞享二年、『野ざらし紀行』の帰りにも甲斐に寄っているから、「霧しぐれ」の句の原案だった可能性もある。
これに対し、鬼貫の句は素直だ。秋晴れの空に聳え立つ富士の姿をそのまま詠んでいる。
『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)に収められている鬼貫編元禄三年の『俳諧大悟物狂』にはこうある。
「富士の形は画(ゑがけ)るにいささかかはる事なし。されども腰を帯たる雲の、今見しにはやかはり、そのけしきもまたまたおなじからずして、新なる不二をみる事其数暫時にいくばくぞや。あし高山はをのれひとり立なば幷びなからん。外山の、国に名あるはあれど古今景色のかはらぬこそあれ。
にょっぽりと秋の空なる不尽の山」
芭蕉の『士峯の賛』に比べると難解な漢語もなく、ほぼ和文で書かれていて読みやすい。言っていることは似ている。ただ、芭蕉は雲霧に変化するほうに重点を置き、鬼貫は「かはらぬ」ことに重点を置く。そこで雲霧に見えない富士ではなく、はっきりと見える富士の本体を描いたのだろう。流行の芭蕉、不易の鬼貫と言ってもいいのではないか。
『俳諧大悟物狂』の文章はさらにこう続く。
「夕ぐれにまた
馬はゆけど今朝の不二みる秋路哉
峰は八葉にひらきて不生不滅の雪を頂き、吹ぬ嵐の松の声裾野になかぬむしの音、鸞動鸞動是今たしかに聞ヶ、我レ石を撫でて生れぬ先の父ぞこひしき。」
ここでも富士山の隠されぬ全景、不生不滅の雪にその永遠の変らぬものを見ている。
発句の秋之部のところには、昨日の「いとど」の句の次に、
不二の山にちいさうもなき月し哉 鬼貫
の発句がある。
冬之部には、
不二の雪我レ津の国の者なるが 鬼貫
の句もある。今や富士山には世界中の人が登りに来る。不二に国境はないというところか。摂津の国の者でも伊賀の国も者でも、富士山はやっぱり素晴らしい。
ところで、芭蕉というと昔からホモ説があり、芭蕉さんはホモなんじゃないかな? なんて言われてるんですけども、それはあくまでも噂で‥‥。
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