2017年12月31日日曜日

 二〇一七年ももう終わり。世界はそんなに悪い方向には行ってないと思う。来年もきっとそんなに悪くないことを願う。
 そして、なんとか「詩あきんど」の巻も終わった。
 では、

 三十三句目。

   みちのくの夷しらぬ石臼
 武士(もののふ)の鎧の丸寝まくらかす 芭蕉

 「石臼」を捨てて、「みちのくの夷」に古代のいくさを付ける。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注では坂上田村麻呂の蝦夷征伐の場面とするが、蝦夷が枕を貸してくれるのだから衣川の戦いあたりを考えてもいいのではないかと思う。
 ここでいう蝦夷はアイヌではなく、みちのく地方の先住民族。縄文系の民族と思われる。

 三十四句目。

   武士の鎧の丸寝まくらかす
 八声の駒の雪を告つつ      其角

 「八声の駒」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「明けがたにたびたび鳴く鶏を『八声の鳥』というに基づく造語」だという。
 八声の鳥は『夫木和歌抄』に、

 新玉の千年の春の初とて
    八声の鳥も千代祝ふなり
              藤原家隆

の用例がある。
 鎧を着たままう仮眠を取っていると、馬がいなないて雪が降りだしたのを告げる。

 三十五句目。

   八声の駒の雪を告つつ
 詩あきんど花を貪ル酒債哉    其角

 前句の雪を花の散る様としたか。春に転じる。
 発句の「年」を「花」に変えただけの句で、主題を反復する。輪廻を嫌う連歌・俳諧の中では、こうしたリフレインは珍しい。

 挙句。

   詩あきんど花を貪ル酒債哉
 春-湖日暮て駕興吟(きょうにぎんをのする) 芭蕉

 前句が発句のリフレインなので、同じように脇を少し変えて応じる。
 春の湖に日は暮れて、その興を吟に乗せる。花見で借金をこしらえても気にせず、風流(俳諧)の道に明け暮れる。この『虚栗』が売れれば借金が返せるといったところか。
 古典趣味の絵空事が多いという点では、蕪村の『ももすもも』の体はこのころの蕉風に倣う所が大きかったのかもしれない。ただ、芭蕉のほうはこのあとよりリアルな俳諧へと向ってゆくことになる。

 では良いお年を。

2017年12月30日土曜日

 今日は大山街道を鷺沼から青葉台まで歩いた。いい運動になった。
 それでは「詩あきんど」の巻の続き。

 二十九句目。

   うづみ火消て指の灯
 下司后朝をねたみ月を閉     其角

 「下司」は本来は中世の荘園や公領で実務を行う下級職人のことだという。上司(うえつかさ)に対しての下司(したづかさ)だった。それが下種、下衆と書く(げす)へと派生したのか、それとも別のものだったのが混同されたのかはよくわからない。
 ゲスといえばゲスの極み乙女というバンドのボーカル、川谷絵音のベッキーとの不倫報道で、「ゲス不倫」という言葉がしばらく流行した。
 身分の低い女性を后(きさき)に迎えたせいか、朝のきぬきぬの時に、さすがに鶏をキツネに食わすぞとは言わないまでも、戸を閉ざして月を見せないようにして男を引きとめようとする。月明かりがあるとまだ暗いうちに帰ってしまうからだ。火鉢の埋み火も消えて爪の垢を燃やす。
 貞門の松江重頼選の『毛吹草』の諺の部に「爪に火をともす」というのがあるという。今日でもケチの極みを意味する慣用句として用いられている。本当に爪の垢で火が灯るのかどうかはよくわからない。昔は手をあまり洗わなかったから、あちこち掻き毟ったりすると体の油分が爪に溜まったりしたのかもしれない。

 三十句目。

   下司后朝をねたみ月を閉
 西瓜を綾に包ムあやにく     其角

 西瓜はアフリカの乾燥地帯が原産で、室町時代には日本に入ってきたという。中国語のシークワが日本語のスイカとなったという。日本では昔から庶民の食べ物で、上流の人は食べなかった。
 子供の頃読んだ漫画でも主人公の庶民の少年がお金持ちの坊ちゃんを家に呼んでスイカをふるまうが、坊ちゃんは家じゃメロンを食べるとスイカを馬鹿にする場面があった。
 スイカの入れ物というと、昔から紐を編んだスイカ網が用いられている。ここではそんな身分の低い人の食い物であるスイカがあるのを隠すために、入子菱模様の綾布で覆っていたのだろう。模様はスイカ網を髣髴させる。
 スイカがばれないように月を閉じ、綾布をかける。そんなにスイカって恥ずかしかったのか。ものが綾布だけに「あやにく(あや、憎しの略)」。
 形容詞の活用語尾を略して語幹だけで「こわっ」「はやっ」「ちかっ」という言い方は平安時代からあった。源氏物語では光源氏が「あなかま!」という場面がある。「あな、かしまし」の略だが、「かしまっ」が更に略されて「かまっ」になってしまったのだろう。

 二裏、三十一句目。

   西瓜を綾に包ムあやにく
 哀いかに宮城野のぼた吹凋(ふきしほ)るらん 芭蕉

 本歌は、

 あはれいかに草葉の露のこぼるらむ
    秋風立ちぬ宮城野の原
                西行法師(新古今集)

 宮城野は萩の名所で、

 宮城野のもとあらの小萩露を重み
     風を待つごと君をこそ待て
                よみ人しらず(古今集)

 白露は置きにけらしな宮城野の
    もとあらの小萩末たわむまで
                祝部允仲(新古今和歌集)

の歌がある。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると「ぼた」は萩の俚称だという。それだと、「お萩」のことを「ぼたもち」と言うのも、一般的には「牡丹餅」と表記されているが、この俚称に起源があったのかもしれない。
 西行法師のように颯爽と宮城野の萩の歌を詠んで見せたが、つい萩のことを「ぼた」と言ってしまい、身分がばれるというネタだろう。それをスイカを綾で隠すようなものだ、あやにく」とつなげる。

 三十二句目。

   哀いかに宮城野のぼた吹凋(しほ)るらん
 みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角

 「夷(えぞ)」が第三の「夷(えびす)」と被っているのは気になる。やや遠輪廻気味の句だ。
 石臼は製粉作業に用いる回転式の臼のことで、東北の方ではあまりなじみがなかったのだろう。仙台名物で伊達政宗が発明したという伝承のある「ずんだ餅」も太刀で豆を刻んだという。
 石臼のおかげで日本では古くから団子が作られていたが、石臼の普及してないみちのくでは昔ながらのぼた餅やずんだ餅が主流だったということか。

2017年12月28日木曜日

 「詩あきんど」の巻の続き。

 二十三句目。

   黒鯛くろしおとく女が乳
 枯藻髪栄螺の角を巻折らん    其角

 「枯藻髪(かれもがみ)」というのは造語か。要するに脱色した髪の毛のこと。
 前句の黒鯛を乳首の色ではなく本物の黒鯛とし、「おとく女が乳」を海女さんのことと取り成す。始終海に潜っている彼女は塩と紫外線で髪の毛が痛み、脱色して茶髪になる。
 サーファーの髪が脱色するのも同じ理由だし、髪を染められないJCやJKは、昔はビールで髪を洗うといいなんていわれたこともあったが、塩で髪を洗うという方法は今でも行われているようだ。ただ、髪を傷めるだけでお勧めはできない。
 塩水で塗れてべたべたした髪の毛は栄螺(さざえ)の角に巻きついて折ってしまうのではないか、とややおどろおどろしく描く。

 二十四句目。

   枯藻髪栄螺の角を巻折らん
 魔-神を使トス荒海の崎     芭蕉

 ひところのギャルメイクが「山姥」と言われたが、発想は昔からあまり変わらない。茶髪の海女さんから海の妖怪のようなものを想像し、魔神をも使役する。今でいえば召喚魔法か。

 二十五句目。

   魔-神を使トス荒海の崎
 鉄(くろがね)の弓取猛き世に出よ 其角

 これは百合若大臣ネタか。ウィキペディアによれば、

 「百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

だという。
 魔人を召喚する恐ろしい魔導師を倒すには、勇者様が必要だ。武器は弓。それも攻撃力の高い鉄弓のスキルを持つ勇者様がそれにふさわしい。

 二十六句目。

   鉄の弓取猛き世に出よ
 虎懐に妊るあかつき      芭蕉

 摩耶夫人は六本の黄金の牙を持つ白いゾウが右わき腹に入る夢を見てお釈迦様を御懐妊したという。
 百合若大臣のような勇者誕生には、母親が虎が懐に入る夢を見たという逸話があってもいいではないか、というところか。

 二十七句目。

   虎懐に妊るあかつき
 山寒く四-睡の床をふくあらし  其角

 伝統絵画の画題に「四睡図」というのがある。豊干禅師、寒山、拾得、虎が一緒に寝ている様子を描くもので、悟ったもの、死を恐れぬものには虎が近くにいても恐がることないため共存できるというもの。
 「山寒く」は「寒山」の名を隠しているし、前句の「虎懐に妊る」は夢ではなく本当に虎が懐で眠っているという意味に取り成される。

 二十八句目。

   山寒く四-睡の床をふくあらし
 うづみ火消て指の灯(ともしび) 芭蕉

 「指の灯」は『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「掌(たなごころ)に油を入れ、指に燈心をつかねて火をともす仏教の苦行。」とある。
 芭蕉と同時代に了翁道覚という僧がいて、明から来た隠元和尚にも仕えた。
 ウィキペディアによれば、

 「寛文2年(1662年)にはついに「愛欲の源」であり学道の妨げであるとしてカミソリで自らの男根を断った(羅切)。梵網経の持戒を保ち、日課として十万八千仏の礼拝行を100日間続けた時のことであった。同年、その苦しみのため高泉性敦禅師にともなわれて有馬温泉(兵庫県神戸市)で療養している。摂津の勝尾寺では、左手の小指を砕き燃灯する燃指行を行い、観音菩薩に祈願している。
 翌寛文3年(1663年)には長谷寺(奈良県桜井市)、伊勢神宮(三重県伊勢市)、多賀大社(滋賀県多賀町)にも祈願している。さらに同年、了翁は京都清水寺に参籠中、「指灯」の難行を行った。それは、左手の指を砕いて油布で覆い、それを堂の格子に結びつけて火をつけ、右手には線香を持って般若心経21巻を読誦するという荒行であった。このとき了翁34歳、左手はこの荒行によって焼き切られてしまった。」

と、実際に「指の灯」を実践している。
 寛文11年(1671年)には上野寛永寺に勧学寮を建立し、この歌仙が巻かれた頃も寛永寺にいた。ウィキペディアによれば、

 「天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。」

 芭蕉も当然この了翁の事は知っていただろう。びーちくろいくのシモネタもあればこういう偉い坊さんの話も交える。この何でもありの感じが、まだ談林の延長にあった天和期の蕉風だったのだろう。
 『野ざらし紀行』の伊勢のところで「僧に似て塵有」と自嘲して言うのも、同時代のこういうお坊さんにはとても及ばないという気持ちがあったのではないかと思う。

2017年12月27日水曜日

 霜月も十日となり、空には半月が浮かんでいる。
 では「詩あきんど」の巻の続き。今年中には終わらないかもしれない。

 二表、十九句目。

   鰥々として寝ぬ夜ねぬ月
 婿入の近づくままに初砧       其角

 月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。

 二十句目。

   婿入の近づくままに初砧
 たたかひやんで葛うらみなし    芭蕉

 前句の砧にオリジナルの李白の「子夜呉歌」を思い浮かべて、出征した婚約者が帰ってくる場面とする。
 葛の葉は秋風にふかれて葉がめくれ上がって葉の裏側を見せることから、「恨み」とかけて用いられる。ここは「戦い止んで恨みなし」でもいいところだが、秋の季語を入れなくてはいけないので、「恨み」に掛けて強引に「葛」を放り込んだ感じがする。

 二十一句目。

   たたかひやんで葛うらみなし
 嘲リニ黄-金ハ鋳小紫       其角

 「あざけりに、おうごんはこむらさきをいる」と読む。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、宋の鄭獬の嘲范蠡(はんれいをあざける)という詩が出典だという。まだ訳してない。

   嘲范蠡       鄭獬
 千重越甲夜成圍 宴罷君王醉不知
 若論破吳功第一 黄金只合鑄西施

 范蠡は春秋時代、越王勾践に仕え、呉の夫差を打ち破り会稽の恥をそそいだという。そのときの伝説の一つがウィキペディアに載っている。

 「范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。」

 「嘲范蠡」はこれを揶揄するものだ。越王は范蠡の黄金の像を作ったが、本当に作るべきだったのは西施の像だろう、というもの。
 これに対し小紫はコトバンクのデジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説によれば、

 「?-? 江戸時代前期の遊女。
江戸吉原(よしわら)三浦屋の抱え。延宝7年(1679)愛人の平井権八(ごんぱち)が辻斬りなどの罪で死罪となったあとをおい,墓前で自害した。この話は幡随院(ばんずいいん)長兵衛と関連づけられ,「驪山(めぐろ)比翼塚」などの浄瑠璃(じょうるり),歌舞伎の素材となった。」

とある。三年前のまだ記憶に新しい事件を題材にした時事ネタといえよう。
 平井権八は遊女小紫に入れ込んで、貢ぐお金欲しさに辻斬りをやった。そのことで、黄金の力で小紫を射止めると洒落て、結局平井権八は死罪になり、小紫が自害したことで戦いは終わり、そのことを嘲る、とする。

 二十二句目。

   嘲リニ黄-金ハ鋳小紫
 黒鯛くろしおとく女(め)が乳  芭蕉

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「おとく」はお多福のことだという。
 ネタとしては、いわゆる業界で言う「びーちくろいく」の類で、シモネタといっていいだろう。黒鯛は「ちぬ」ともいう。
 黄金の小紫に黒鯛のお多福を対比させ、対句的に作る相対付けの句。

2017年12月26日火曜日

 今年も残りわずか。この時期になると思い出すのがジョージ・ハリスンのDing Dong, Ding Dongという曲。多分これを聞いたときは中学生だったか。簡単な英語なのですぐに覚えられた。
 時代遅れなものや捏造されたものは早いこと追い出して、新しいものと真実を迎え入れよう。ネトウヨもパヨクもさようならーーー。容赦なく前へ進もう。一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくするものでありますように。
 さて、「詩あきんど」の巻の続き。

 十四句目。

   ほととぎす怨の霊と啼かへり
 うき世に泥(なづ)む寒食の痩   其角

 「寒食」はコトバンクの世界大百科事典第2版の解説によれば、

 「中国において,火の使用を禁じたため,あらかじめ用意した冷たい物を食べる風習。〈かんじき〉とも読む。冬至後105日目を寒食節と呼び,前後2日もしくは3日間,寒食した。この寒食禁火の風習は古来,介子推(かいしすい)の伝説(晋の文公の功臣。その焼死をいたんで,一日,火の使用を禁じた)と結びつけられるが,起源は,(1)古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く),(2)火災防止(暴風雨の多い季節がら)などが考えられている。」

だそうだ。冬至から百五日というと、新暦だと四月の初め頃で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも旧暦三月のところにある。春の季語。
 時期的にはまだホトトギスには早いが、多分本当は寒食で痩せたのではなく、元々貧しくて痩せているだけで、それが寒食の季節になると「寒食で痩せたんだ」と言い訳できて浮世に泥むという意味だろう。

 十五句目。

   うき世に泥む寒食の痩
 沓は花貧重し笠はさん俵     芭蕉

 春に転じたところで花を出すのは必然。前句の寒食の痩せを寒食のせいでなく貧しさのせいとして、その姿を付ける。
 「沓は花」は靴を履いているわけではなく、裸足に散った桜の花びらがくっついているさまが沓みたいに見えるということ。笠は米俵の両端の蓋の部分で「桟俵(さんだわら)」という。ウィキペディアの「俵」のところには、

 「俵は円柱状の側面に当たる菰(こも)と、桟俵(さんだわら)をそれぞれ藁で編み、最後にこれらをつなぎ合わせて作る。
 桟俵とは米俵の底と蓋になる円い部分。別名さんだらぼうし、さんだらぼっち。炭俵では無い場合が多い。」

とある。

 十六句目。

   沓は花貧重し笠はさん俵
 芭蕉あるじの蝶丁(たたく)見よ 其角

 これも楽屋落ち。「芭蕉あるじ」は言わずと知れた芭蕉庵の主だが、この歌仙興行の直後にその芭蕉庵は焼失する。蝶を叩いたりしたからバチがあたったか。
 「蝶」と「丁」は同音で、蝶番(ちょうつがい)を丁番と書いたりもする。同語反復で「蝶丁」を出したところで、あえて遊びで「丁」を「たたく」と訓じてみたのだろう。「丁々発止」という言葉から「たたく」という訓を導き出したか。

 十七句目。

   芭蕉あるじの蝶丁見よ
 腐レたる俳諧犬もくらはずや   芭蕉

 前句の「蝶丁」を丁々発止の激論と取り成したか。そこから論敵を激しく非難する言葉を導き出す。相手は貞門か大阪談林か。芭蕉の発言というよりは、逆に芭蕉がそう罵られたと自虐的に取る方がいいだろう。

 十八句目。

   腐レたる俳諧犬もくらはずや
 鰥々(ほちほち)として寝ぬ夜ねぬ月 其角

 「鰥(かん)」は男やもめのことだが、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によると、『書言字考節用集』に「鰥々(ほちほち)、不寝之義」とあるらしい。「ほつほつ」だと忙しいという意味と今日の「ぼちぼち」という意味がある。
 犬も食わないような腐れた俳諧でも、やってる人たちはそれなりに楽しんでいて、ほつほつと夜を徹して俳諧に興じる。それを思うと、「くらはずや」の「や」はこの場合反語で、犬も食わないような腐った俳諧だろうか、そんなことはない、と読んだ方がいいだろう。

2017年12月25日月曜日

 今年のクリスマスは連休で、二十三日には二子玉川に買い物に出たが、たまたまGOING UNDER GROUNDの無料のライブがあった。開始前には公開リハもあった。得した気分だ。
 二十四日は家から王禅寺を経て柿生までの散歩コースを歩いた。柿生の菓子工房 la plaquemineでケーキを買って帰った。
 そういうわけでなかなか「詩あきんど」の巻が進まないが、とりあえず一句進む。

 十三句目。

   鼾名にたつと云題を責けり
 ほととぎす怨の霊と啼かへり   芭蕉

 ウィキペディアにホトトギスの伝説が載っている。それによると、

 「長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。= 帰りたい)と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」

だそうだ。ホトトギスが杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥と表記される理由はこれでよくわかる。
 ところで、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には別の伝説が記されている。

 「ほととぎすに『郭公』の字を当てるのは、戦いに敗れて死んだ郭の国の王の怨霊がほととぎすになったという、中国伝説に基づく。よって一名怨鳥ともいう。」

 ただ、ホトトギスを郭公と表記するのは、カッコウと混同されたからだとも言う。
 「啼かへり」というのは繰り返し啼くことで、古来和歌ではホトトギスは一声を聞くために夜を徹するものとされていて、その一声が貴重だということから「鳴かぬなら‥‥ほととぎす」なんて言われるようにもなっている。
 渡り鳥なので渡ってきた最初の一声を聞くのが重要だったのだろう。渡ってきてしまうと後は始終鳴いていて別にありがたいものではない。
 ホトトギスは怨鳥とも言うから我こそは「怨みの霊」だとしきりに鳴いては、「鼾名にたつ」という題で歌を詠むように責め立てる。何だかよくわからない付けだが、こういうシュールさも天和調の一つの特徴なのだろう。
 『俳諧次韻』の「鷺の足」の巻五十五句目に、

   しばらく風の松におかしき
 夢に来て鼾を語る郭公       其角

の句があり、これはホトトギスの声が待てずに鼾をかいて寝てしまうと、夢の中に郭公が出てきて、「あれまあ、こんなに鼾かいて寝ちゃって」などと言ったのだろう。外で鳴いている郭公の声が夢の中でアレンジされてそんな言葉になったのか。この句を思い出しての楽屋落ちだったのかもしれない。其角に「鼾の句を詠め」とホトトギスが繰り返し啼いたのかもしれない。

2017年12月21日木曜日

 昨日今日と夕暮れの空に三日月が見えた。正確には昨日のが十一月三日の三日月、今日のは四日の月。
 暮れも押し迫ってクリスマスも近いが、世間では今年はクリスマス感がないとの声もあるようだ。ハローウィンで盛り上がりすぎたせいか、ハローウィン疲れがあるのかもしれない。
 それはともかく「詩あきんど」の巻の続き。
 八句目。

   恥しらぬ僧を笑ふか草薄
 しぐれ山崎傘(からかさ)を舞  其角

 京都の山崎にはかつて遊女がいたという。前句の破戒僧を遊郭通いの僧として、当時医者や僧侶の間で用いられていた唐傘を登場させる。
 唐傘の舞というと助六が思い浮かぶが、これはもう少し後の十七世紀に入ってからになる。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注や『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)は若衆歌舞伎の『業平躍歌』を引用している。

 「面白の山崎通ひや、行くも山崎戻るも山崎、心のとまるも山崎、山崎の上臈と寝た夜は、数珠袈裟袋は上臈に取らるる、衣は亭主に取らるる、傘は茶屋に忘るる、扇子は路地に落いた」

 ここには唐傘を舞うという発想はない。若衆歌舞伎にそのような舞いがあったのかどうかはよくわからない。ある意味で其角は四十年後の助六を先取りしていたのかもしれない。というか助六の誕生に其角の句の影響があった可能性もある。
 若衆歌舞伎というのは出雲の阿国の歌舞伎踊りに起源があり、風紀を乱すという理由で寛永六年(一六二九年)に女歌舞伎が禁止されたため若衆になったという。やがて若衆だけでなく大人の男が演じる野郎歌舞伎が生じ、今に通じる江戸の歌舞伎が確立されていった。

 九句目。

   しぐれ山崎傘を舞
 笹竹のどてらを藍に染なして   芭蕉

 ウィキペディアには、「丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒用の日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。」とある。そして、「丹前の原型は吉原の有名な遊女だった勝山の衣裳にあるという。」とある。さらに、「勝山ゆかりの丹前風呂では湯女たちが勝山にあやかってよく似た衣服を身につけていたが、そこに通い詰めた旗本奴たちがそれによく似たものを着て風流を競ったので、『丹前』が巡り廻って衣服の一種の名となったという。」とある。
 遊女勝山は一六五〇年代に人気を博した吉原の遊女で、この歌仙の巻かれる三十年くらい前のことになる。
 さらにウィキペディアには「侠客を歌舞伎の舞台でよく勤めた役者が多門庄左衛門であり、彼は当時流行していたこの丹前姿で六方を踏んで悠々と花道を出入りしたことから、絶大な人気を得た。」とある。多門庄左衛門(初代)が寛文以降の人であることから、この句は多門庄左衛門のイメージで詠まれたと言っても良いのではないかと思う。

 十句目。

   笹竹のどてらを藍に染なして
 狩場の雲に若殿を恋(こふ)   其角

 これはホモネタ。どてらを着た奴(やっこ)さんが狩場に行く若殿に見果てぬ恋をする。

 十一句目。

   狩場の雲に若殿を恋
 一の姫里の庄家に養はれ     芭蕉

 雲に思いをはせるかなわぬ恋を、ここではノーマルに姫君の句とする。本来は立派な姫君でありながら故あって庄屋に養われているというのが、かなわぬ恋の理由とされる。

 十二句目。

   一の姫里の庄家に養はれ
 鼾名にたつと云題を責けり    其角

 芭蕉が『万菊丸鼾の図』を描くのはこれより大分後だが、鼾というのはそれ以前にも題になることはあったのだろう。庄屋の家での何の会のお題だかわからないが、姫君にはふさわしくない題をわざと面白がって押し付けたりしたのだろう。『源氏物語』「手習」の大尼君のもとに身を隠した浮舟の本説が隠されているのかもしれない。

2017年12月19日火曜日

 「詩あきんど」の巻の続き。
 四句目。

   干鈍き夷に関をゆるすらん
 三線○人の鬼を泣しむ       其角

 三線はここでは「さんせん」と読む。沖縄では「さんしん」という。
 ウィキペディアによれば、三線は福建省で誕生した三弦が十五世紀の琉球で改良され、十六世紀に日本に伝わったという。「しゃみせん」は「さんせん」の訛ったもの。
 芭蕉の時代には主に関西で義太夫や上方歌舞伎などで用いられていた。江戸時代中期になると爆発的に流行し、日本を代表する楽器になる。
 前句の「干鈍き夷」を琉球の人に取り成したか。三線の音色に思わず鬼のような関守も涙し、関所の通行を許す。この場合「干鈍き」は平和的なという意味に取るべきであろう。
 古今集の仮名序にも「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」とある。詩歌連俳や音楽には非暴力にして世界を動かす力がある。それは風流の理想でもある。

 五句目。

   三線○人の鬼を泣しむ
 月は袖こほろぎ睡る膝のうへに   其角

 「こほろぎ」は九月二十八日の鈴呂屋俳話で、「つまり、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。ならばカマドウマ→キリギリスになるのかというとそうではなく、カマドウマ=コオロギになる。」と述べたとおり、カマドウマのこと。
 前句の「泣しむ」を受けて、月は袖を濡らし、カマドウマは膝の上に眠る、つまりカマドウマがじっとしてられるように体は微動だにしない状態ですすり泣く情景を付ける。

 六句目。

   月は袖こほろぎ睡る膝のうへに
 鴫(しぎ)の羽しばる夜深き也   芭蕉

 「鴫の羽しばる」とは一体何のことかと謎かけるような句だ。古今集、恋五の

 暁のしぎの羽がきももはがき
     君が来ぬ夜は我ぞ数かく
                よみ人知らず

を踏まえたもので、鴫の羽がきは眠りを妨げ、儚い夢を破るものとされてきた。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、『古今集正義』に「嘴を泥土に突きこみて物する音、よもすがらぎしぎしと聞ふる物なりと云り。さらばもし、これを羽かく音とききて、古へ羽がきといへりしにはあらずや」とあり、その音がうるさいので鴫の羽を縛るのだという。
 まあ、実際に羽を縛るなんてことはありそうにもない。こういうむしろシュールとでもいえる展開は、『俳諧次韻』で確立された、談林調から脱した最初の蕉風の姿といえよう。

 初裏、七句目。

   鴫の羽しばる夜深き也
 恥しらぬ僧を笑ふか草薄     芭蕉

 前句の「鴫の羽しばる」を食用に捕らえた鴫を動けないように縛っておくこととする。殺生の罪を恥とも思わない破戒僧を、薄が笑ってこっちへ来いと招いている。招かれる先には当然地獄があるに違いない。

2017年12月17日日曜日

 今年一年、たくさん俳諧を読んだので、経験値をつんで少しはレベルアップしたかな。あまり実感はないが。一応振り返っておくと、

 一月八日から一月十五日まで「雪の松」の巻。
 一月十八日から一月二十六日まで「空豆の花」の巻(再読)。
 一月三十日から二月十六日まで「梅若菜」の巻。
 四月十二日から五月十六日まで「木のもとに」の巻(三種)。
 五月十七日から五月二十五日まで「牡丹散て」の巻。
 六月十六日から六月二十六日まで「紫陽花や」の巻。
 七月八日から七月十一日まで「此さきは」の巻。
 七月十五日から八月三日まで「柳小折」の巻。
 八月三十一日から九月七日まで「立出て」の巻。
 九月十二日から九月二十三日まで「蓮の実に」の巻。
 十月二十三日から十月三十日まで「猿蓑に」の巻。
 十一月九日から十一月十四日まで「この道や」の巻。
 十二月四日から十二月十四日まで「冬木だち」の巻。

 この外にも途中までのものとか、表六句とかがあった。
 さて、新暦では今年も残す所あと二週間。ラストを飾るのはやはりこれがいいか。「詩あきんど」の巻。
 『虚栗』に収められたこの一巻は、『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』(一九七四、小学館)にも註釈と解説が載っているし、『芭蕉の俳諧』(暉峻康隆、一九八一、中公新書)にも解説がある。
 この歌仙は芭蕉と其角の両吟で、天和二年の師走、芭蕉が八百屋お七の大火で焼け出される直前と思われる。
 発句。

   酒債尋常住処有
   人生七十古来稀
 詩あきんど年を貪ル酒債哉    其角

 前書きの漢詩は杜甫の「曲江詩」

   曲江      杜甫
 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
  酒債尋常行處有 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合おう

からの引用だ。「古稀」という言葉の語源と言われている。
 後半は比喩で陰謀術策をめぐらしている同僚や、周りに無関心な上司のことだろう。そして、どうせみんな最後は年老いて死んでくだけじゃないか、と語りかける。
 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、そう言いながら「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
 其角の発句は俳諧師という職業をやや自虐的にそう語っている。「年を貪ル」は今年一年を貪ってきたという意味で、歳暮の句となる。
 それに対し、芭蕉はこう答える。

 脇。

   詩あきんど年を貪ル酒債哉
 冬-湖日暮て駕馬鯉(うまにこひのする) 芭蕉

 「冬-湖」は前書きを受けて曲江のことであろう。一年を酒飲んで過ごした前句の詩あきんどは、曲江の湖の畔で釣りをして過ごし、鯉を馬に乗せて帰ると和す。
 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
 まあ其角さんの場合、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのかもしれない。

 第三。

   冬-湖日暮て駕馬鯉
 干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん 芭蕉

 関守は日がな湖で釣りに明け暮れているから、いかにも弱そうな異民族でもやすやすと通り抜けてしまうにちがいない。
 まあ、本格的に攻めてきたならともかく、多少の異民族の国境を越えて出稼ぎに来るくらい良いではないか、ということか。中国は昔から国境に「万里の長城」という壁を築いてきたが。

2017年12月15日金曜日

 蕪村の俳諧を読み終えたところで、タイミングよく今朝の新聞に蕪村の新たな句八句発見のニュースが載っていた。
 ネットで捜したが、結局全部同じソースなのか、八句全部はわからずどれも同じ二句だけが記されていた。
 なんでも、付き合ってる芸者二人の名前を合わせて作られた「雛糸」という名義で記されていて、わざと下手に作ったらしい。「糸」の方は聞いたことがある。
 ロリだった蕪村は若い芸者に入れ込む癖があって、安永九年、おん年六十五歳の時、小糸という芸者にのめりこんでいたのを弟子に咎められて別れたときに詠んだ句が、

 妹が垣根三味線草の花咲きぬ   蕪村

だったという。芸者の弾く三味線だけに「糸」が切れたという落ちになる。一見源氏物語の花散里や蓬生のような高雅な雰囲気をかもしながらも、実は芸者と切れた時の句だという、高雅な言葉で俗情を詠むのが蕪村の持ち味でもあった。卑俗な言葉で高雅な情を詠んだ芭蕉と真逆といえよう。
 その蕪村の今回発見された句というのは、まず一つは、

 ゆふがほの葉に埋もれて家二軒  雛糸

だそうだ。
 夕顔は蔓性だから、壁一面が夕顔の葉で覆われていたのだろう。夕顔は源氏物語にも登場する下町のうらぶれた民家に咲くもので、その俤と見ればそれほど悪い句ではない。花を詠まなくても葉の茂りは十分夏を感じさせる。ただ引っかかるのは「家二軒」というフレーズだろう。
 「家二軒」といえば、

 五月雨や大河を前に家二軒    蕪村

の句はたいてい教科書に載っているし、受験勉強の時に蕪村の代表作として覚えさせられたのではないかと思う。
 この句は安永六年の句らしく、今回発見された句は発見者の玉城さんによれば最晩年の句らしいから、このフレーズは使いまわしと見ていいだろう。
 芭蕉は死ぬ間際に白菊の「塵もなし」が清滝の「浪にちりなき」と被っていることを気にして、わざわざ作り直したことを思えば、「家二軒」の被りはそれだけで駄目な句の見本とするにふさわしかったのだろう。
 それに、家一軒なら夕顔の隠れ住んでた家かなとなるが、家二軒だと一体何なんだということになる。要するに意味がない。あえて自分の代表作をミスマッチネタに使ったと見ていいだろう。
 もう一句は、

 朝風や毛虫流るるよし野川    雛糸

だ。
 「毛虫」は一応夏の季語で、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にも載っている。
 吉野川は四国にもあるが、花で有名な吉野山の方を流れている紀の川も吉野川と呼ばれている。どちらも中央構造線を流れている。この場合は紀の川の方だろう。

 見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の
     絶ゆることなくまた還り見む
                柿本人麻呂

の歌でも知られている。
 そういう花の名所で名高い吉野川を流れる散った花びらを詠むのではなく、毛虫を詠んだところに俳諧があると言えなくもないが、ただよほど注意して見ないと毛虫が流れているかどうかなんて誰も気づかないだろうし、要するにこの句はあるあるネタになってない。
 赤塚不二男の漫画なら、桜の花の下に「ケムンパスでやーんす」なんて出てきそうだが、この句の場合「何で毛虫が」で終わってしまう。これもまたナンセンスギャグにしかならない。
 この二句、わざと下手に詠むにしてもあくまでも計算された失敗で、ちゃんと笑えるようにできているところはさすが蕪村だ。あとの六句も早く見てみたいものだ。

2017年12月14日木曜日

 さあ、「冬木だち」の巻、二裏に入り、一気に挙句までいってみよう。

 三十一句目。

   月の夜ごろの遠きいなづま
 仰ぎ見て人なき車冷まじき    蕪村

 また古代ネタに戻る。国学の影響で古代が過度に美化されていたことも一因かもしれない。
 車というと伝統的には源氏物語の車争いなどがネタにされがちだが、そういうどろどろしたものとは別に、人の乗っていない車を景物として扱う。まあ、近代的に言えば「純粋芸術」ということだが。

 三十二句目。

   仰ぎ見て人なき車冷まじき
 相図の礫今やうつらし      几董

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には「恋人をひそかに盗み出そうとする緊迫した情景」としている。そうだとすると穏やかでないし、あまり風流とは言えないが、江戸後期にはそういうのを美化する風潮があったのだろう。
 儒教文化が浸透して女性の処女性が重視されるようになると、それだけ男としては性交の機会が減るわけだから、処女崇拝とレイプは表裏一体をなしているのかもしれない。
 『源氏物語』の解釈も本居宣長によって、それまでの『湖月抄』の解釈とは随分違うものとなった。近代の解釈は基本的に本居宣長の解釈を引き継いでいるため、レイプされた女がその時の快感が忘れられずにレイプした男に恋をするなんて話を安易に信じる。
 女とはそういうものだという観念が、戦時中まで引き継がれてきた。南京事件をはじめとして、戦地でのモラルが崩壊し、その対策として従軍慰安婦が動員された。慰安婦は表向きは娼婦だが、その多くは債務奴隷として売られてきた女性だったというし、一部には強制連行されたケースもあった。そのことは反省すべきであろう。
 『源氏物語』ではっきり処女だったと確認できるのは若紫だけで、あとはよくわからない。昔は処女性にそんなに関心はなかった。

 三十三句目。

   相図の礫今やうつらし
 添ぶしにあすらが眠うかがひつ  蕪村

 「あすら」は阿修羅のことで、まあここでは悪役ということなのだろう。残虐な阿修羅の元から女を助け出すヒーロー物として展開したと見ればいいのか。

 三十四句目。

   添ぶしにあすらが眠うかがひつ
 甕(もたひ)の花のひらひらとちる 几董

 阿修羅が眠っている脇では甕に生けた花がひらひらと散っている。春の長閑な情景に転じる。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
                 紀友則

の歌にもあるように、花は散るべき時が来れば風のあるなしに関わらず散り始める。

 三十五句目。

   甕の花のひらひらとちる
 根継する屋かげの壁の下萌に    几董

 「根継ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、

 
 1 (根接ぎ)接ぎ木の一。根を台木として接ぎ木すること。また、弱っている木に強い木の根を添え接ぎし、樹勢を取り戻させること。
 2 (根継ぎ)木造建築で、柱や土台などの腐った部分を取り除き、新しい材料で継ぎ足すこと。
 3 跡を継ぐこと。また、その人。跡継ぎ。

とある。とはいえ「根継ぎ」で検索すると、表示されるのはほとんどが2の意味のものだ。1や3の意味は今日では廃れている。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注も2の意味に取っている。ただ、工事の振動で花が散ったんではあまり面白くない。『炭俵』の「梅が香に」の巻の第三に、

   処々に雉子の啼たつ
 家普請を春のてすきにとり付て   野坡

の句があるように、春は家の修理などを始める季節だったと考える方がいいだろう。

 挙句。

   根継する屋かげの壁の下萌に
 巣つくる蜂の子をいのり呼     蕪村

 家を修理するのも子孫繁栄のためで、蜂が巣を作るのも子孫繁栄を祈ってのこと。最後を人情で絞めるあたりは大阪談林の匂いがする。

2017年12月12日火曜日

 今年の漢字は「北」だというがあの国以外は何も思い浮かばない。まだ「雨」の方が良かったのでは。
 まあどうでもいいことだし、とりあえず「冬木だち」の巻の続き。

 二十七句目。

   三ツに畳んで投ふるさむしろ
 西国の手形うけ取小日のくれ    几董

 筵を片付けるのを日暮れの閉店とする。遠方からの手形の処理も、店じまいした後に行われるのであろう。以前何かのテレビ番組で銀行が営業を終えた後、女子行員の「だいてください」の声が飛び交う様子があったが、「代手(代金取立て手形)」の処理の場面。

 二十八句目

   西国の手形うけ取小日のくれ
 貧しき葬の足ばやに行       蕪村

 前句の「西国の手形」を捨てて「小日のくれ」で付ける。「西国の手形うけ取」は単なる「小日のくれ」の形容というか枕詞のように処理される。
 貧しい葬式は夜になってまで飲み食いしたりしないから日が暮れる頃になると足早に終わらせようとする。

 二十九句目。

   貧しき葬の足ばやに行
 片側は野川流るる秋の風      几董

 遠まわしな言い方だが、要するに河原者の住むあたり。

 三十句目。

   片側は野川流るる秋の風
 月の夜ごろの遠きいなづま     蕪村

 「いなづま」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」

 「常也」と言うが、実際には見たことがない。夕立でイナズマが走るのはわかるが、晴れた夜のイナズマは、昔は多かったのだろうか。
 ネットで調べてゆくと、「幕電」という言葉に行き当たった。コトバンクの「世界大百科事典」の引用には、

 「背の低い冬の雷雲では,上部の正電荷と地表との間で放電を起こす落雷もしばしば発生する。雲放電の場合は厚い雲にさえぎられて放電路を直視できない場合が多く,夜間では雲全体が明るく輝くのが見られ,これを幕電という。落雷の場合は雲底下に現れる放電路を直視することができる。」

とある。
 句の方は、前句を単に背景として月夜の稲妻を付ける。

2017年12月11日月曜日

 昨日は丸の内のイルミネーションを見に行った。シャンパンゴールドのLEDの並木道、フラワーアーティストのニコライ・バーグマンのツリー、KITTEの白いクリスマスツリーなどいろいろあった。
 冬の夕暮れは秋にも増して寂しいので、せめては人工のイルミネーションで一年の終わりを盛り上げてくれるのはありがたいことだ。LEDの発明も役に立っている。
 それでは「冬木だち」の巻の続き。

 二十三句目。

   歳暮の飛脚物とらせやる
 保昌が任もなかばや過ぬらむ   几董

 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には藤原保昌のこととしている。ただ、俳諧だし、伝承に基づく本説付けでないなら、かならずしも藤原保昌のこととする必要はない。漠然と古代の受領くらいに理解すればいいのだろう。
 飛脚はウィキペディアによれば、

 「当初は専ら公用であった。律令制の時代には唐から導入された駅制が設けられていた。京を中心に街道に駅(うまや)が設けられ、使者が駅に備えられた駅馬を乗り継いだ。重大な通信には「飛駅(ひえき)」と呼ばれる至急便が用いられた。「飛駅」には「駅鈴」が授けられた。律令制の崩壊に伴い駅制も廃れてしまったが、鎌倉時代には鎌倉飛脚・六波羅飛脚(ろくはらひきゃく)などが整備された。」

というのが飛脚の起源のようだ。
 最近になって言われるようになったことだが、古代の街道は幅12メートルの舗装道路で、ほぼ一直線に作られ、曲がるときもゆるくカーブするのではなく角度をつけて曲がる。おそらく祇園祭の山車や岸和田のだんじりのようなステアリングのない四輪者を走らせることを前提に設計されたのであろう。
 駅はだいたい四里ごとに設けられ、そこに馬が置かれていた。
 『更級日記』の行徳の太日川を渡る場面に、「つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。」とあるから、当時の貴族は舗装された駅路を牛車で旅することができたのであろう。
 飛脚というと江戸時代の飛脚を連想するが、古代にも駅路を馬で乗り継いで手紙を配達する使者がいて、鎌倉時代には「飛脚」という言葉も登場したようだ。
 「任もなかば」とあるが、ウィキペディアによれば国司の任期は「6年(のちに4年)」だそうだ。

 二十四句目。

   保昌が任もなかばや過ぬらむ
 いばら花白し山吹の後      蕪村

 どうやら「イバラ」という植物はないようで、とげのある低木を一般にそう呼ぶのだそうだ。ここではノイバラのことだろう。五月から六月(新暦)に白い花が咲く。確かに山吹より後だ。

 二十五句目。

   いばら花白し山吹の後
 むら雨の垣穂とび越スあまがへる 几董

 山吹に蛙は付き物だが、ノイバラの季節ならアマガエルということになる。

 二十六句目。

   むら雨の垣穂とび越スあまがへる
 三ツに畳んで投(は)ふるさむしろ 蕪村

 急に雨が降りだしたから、昼寝用に敷いていた筵を三つに畳んで放り投げる。

2017年12月9日土曜日

 昨夜は雨が降ったが、富士山では雪だったようだ。今朝見たら真っ白な富士山に戻っていた。
 最近仕事が変わったせいで待機時間がなくなり、なかなかキンドルが読めなかった。久しぶりに電源を入れようとすると、これがうんともすんとも言わない。家に帰って充電したが、やはりスイッチが入らない。ネットで調べて、長押しすると再起動するというからやってみたが、電池の中にびっくりマークが入った画面が表示されただけだった。
 またいろいろ調べ、USBケーブルを黒い純正のものに替え、しばらく放置したら、確かに直った。やはりネットの情報は頼りになる。
 それでは、「冬木だち」の巻の続き。二表に入る。

 十九句目。

   頭痛をしのぶ遅き日の影
 鄙人の妻(め)にとられ行旅の春 几董

 王侯貴族や戦国大名などは政略的に他所の国に嫁に出されたりする。『漢書』匈奴伝下の王明君が有名で、この句もその俤だという。確かにそりゃ頭痛の痛い話だ。痛みで眉を顰めているとみんな真似しそうだが、それは王明君ではなく西施で、痛んでたのは頭ではなく胸の方だ。
 几董さんのひょうきんな一面が出て、調子が出てきたようだ。

 二十句目。

   鄙人の妻にとられ行旅の春
 水に残りし酒屋一けん      蕪村

 ネットにあった『明治以前日本水害史年表』(高木勇夫)によると、安永四年には「鴨川水溢(四月)、宇治川洪水(五月)、鴨川洪水(六月)」とある。また『泰平年表』によると、安永二年にも「淀・伏見洪水」とある。酒どころの伏見もしばしば洪水に見舞われたようだ。
 この句はどこの酒屋かわからないが、水害で一時的に資金繰りが苦しくなると、田舎の豪商に娘を嫁にやる代わりに資金援助をなんてこともいかにもありそうなことだ。蕪村も調子が出てきたか。

 二十一句目。

   水に残りし酒屋一けん
 荒神の棚に夜明の鶏啼て     几董

 洪水をのがれた酒屋を三宝荒神の御利益とする。三宝荒神は牛頭天王の眷属とされていて、家庭では竃神として台所に祀られている。

 二十二句目。

   荒神の棚に夜明の鶏啼て
 歳暮の飛脚物とらせやる     蕪村

 飛脚は手紙や贈り物だけでなく現金も運んだ。歳暮の飛脚というのは、当時は年末決算だったため、その支払いのお金を運んだりもしていたのだろう。
 年も暮れ、正月の初日が昇る前にようやく支払いのお金が届いたか。こんな遅くまで走り回っていた飛脚に褒美を取らせる。

2017年12月8日金曜日

 今年はやはり暖かいのか、富士山の雪が大分解けていて雪は中腹くらいまであるものの、黒い地肌が覗いて段だら模様になっている。
 さすがに紅葉は色あせ始めて冬木立になりはじめている。
 そういうわけで「冬木だち」の巻の続き。

 十五句目。

   出船つれなや追風吹秋
 月落て気比の山もと露暗き    蕪村

 気比は敦賀の気比松原(けひのまつばら)のある所で、気比神宮もある。気比の浜は白砂青松で知られている。芭蕉も『奥の細道』の旅で、気比神宮に参拝している。

 「けいの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷(しけ)るがごとし。」(奥の細道)

 そしてここで、

 月清し遊行のもてる砂の上    芭蕉

の句を詠む。
 月があれば夜露が月にきらきらと輝き、気比の浜の白砂とあいまって幻想的な風景になるが、残念ながらまだ満月に遠い月はすぐに沈んでしまい露も闇に閉ざされる。「船出」と「月の入り」のイメージを重ねている。「出船追風」の無情に「つきの沈んだ闇」を付けるのは、響き付けと言ってもいいかもしれない。
 『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注には、「順徳院・日野資朝をはじめ佐渡への流人は多くここから送られた」とある。「出船」と「気比」が付け合いだとすれば、古典的な「物付け」ということになる。

 十六句目。

   月落て気比の山もと露暗き
 鹿の来て臥す我草の戸に     几董

 「山もと」に草庵は相変わらずベタな展開だ。鹿といえば、

 わが庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
                喜撰法師

か。

 十七句目。

   鹿の来て臥す我草の戸に
 文机(ふづくゑ)の花打払ふ維摩経 蕪村

 侘び人を僧ということにして釈教に展開するが、花の散る草庵は吉野の西行法師の俤か。

 十八句目。

   文机の花打払ふ維摩経
 頭痛をしのぶ遅き日の影     几董

 まあ、維摩経なんて読むと頭は痛くなるわな。なかなかひょうきんな展開で、こういう句があるとほっとする。いやいや修行させられている坊主の姿が浮かんでくる。筆を鼻の下に挟んでたりして。

2017年12月7日木曜日

 左翼のことで最近「パヨク」と言う言葉がよく用いられるが、これを「パーな左翼」のことだと誤解している人がいる。確かにそういうニュアンスで使われたりもするが、語源的には正しくない。
 「パヨク」は正確には2015年に起きたぱよぱよちーん事件から来たもので、この事件についてはぐぐれば詳しい説明が出てくるから省くとして、つまりは久保田直己氏のメールに使われた謎の言葉「ぱよぱよちーん」がネット上での流行語となり、やがて「ぱよぱよちーん」と「左翼」とが結び付けられて「パヨク」という言葉ができた。それ以前には「ブサヨ」という言葉があったが、今では死語になっている。
 鈴呂屋書庫(http://suzuroyasyoko.jimdo.com/)の日記の方にも書いたが、国家主義も社会主義も既に時代遅れなもので、これからは急進的資本主義と多元主義が軸になって世界は動いてゆくのではないかと思う。
 AIとロボットの発達によって、次第に労働者そのものが不要なものとなり、やがては皆が資本家になり労働から解放される素晴らしい時代が来るのではないかと期待している。
 いずれにせよかつての社会主義者が思い描いたような牧歌的な世界とはまた違った、日々ベーシックインカムで遊んで暮らしながら、AIでは思いつかないような面白い発想を競い、それを即ロボットで生産販売し世界に広め一攫千金を目指す、そんな起業家の時代が来るのではないかと思う。

 それはともかくとして「冬木だち」の巻の続き。
 十一句目。

   弭たしむのとの浦人
 女狐の深き恨みを見返りて     蕪村

 「女狐」というと今や世界的に知られるようになったアイドルグループ、ベビーメタルに「メギツネ」(作詞:MK-METAL・NORiMETAL)という曲があるが、そこではキツネとメギツネは区別されている。
 古代より乙女の純粋な夢は様々な現実の中で汚され犯され、恨みの歴史を重ねてきた。メギツネはそんな幾千年の歴史を背負って、涙も見せずに今に息づいている。
 能登の浦人もそんなメギツネの恨みのこもった目にはっと我に帰り、これまでの殺生の罪深さと人生の悲しさに何かを感じ入ったことだろう。中世連歌の、

   罪もむくいもさもあらばあれ
 月残る狩場の雪の朝ぼらけ     救済

や、蕉門の、

 あけぼのや白魚白きこと一寸    芭蕉

に通じるものがあるが、この句は単なる殺生の罪だけでなく、恋の罪も含ませていることで秀逸と言えよう。
 句は、「弭たしむのとの浦人を女狐の深き恨みを見返りて」と後ろ付けになっていて、「て」止めの後ろ付けは古くから容認されている。これを倒置として見れば、「女狐の深き恨みを見返りて、弭たしむのとの浦人(を)」となる。

 十二句目。

   女狐の深き恨みを見返りて
 寝がほにかかる鬢のふくだみ    几董

 「ふくだみ」は「ふくらみ」から派生した言葉だが、毛のそばだったふくらみを意味する。
 前句の「見返りて」を過去をふり返るという意味に取り成したか。いつも恨めしそうな目で見ているメギツネ(に喩えられる女性)も眠れば無邪気な顔になり、鬢のふくだみが顔にかかっているのもアホ毛のようでそそるものがある。
 「鬢」は耳の上あたりの毛をいい、島田髷ではこの鬢の毛を丸く膨らます。男の月代では鬢付け油でカチッと固める。

 十三句目。

   寝がほにかかる鬢のふくだみ
 いとをしと代りてうたをよみぬらん 蕪村

 「いとをし」は「いとほし」であろう。元は「厭(いと)う」から来た言葉で、見るに堪えないという意味が転じて可哀相なという意味になった。ただ、今日の「やばい」がそうであるように、あるいはかつての「いみじ」が忌むべきから凄く良いという意味に転じたように、否定的な言葉の肯定的な言葉への転用はしばしば起こる。「すごい」もそうだった。
 「かはゆし」も気の毒から今のような可愛いに変化しているように、「いとほし」も今の愛しいの意味に変わっていった。
 この句ではまだ変わる前の「可哀相」の意味で、鬢の解けた娘の寝顔を見て、そこからさんざん泣き明かした跡を読み取り、それを不憫に思った誰かが替って歌を詠んで男の元に届けたのだろうか、と付ける。うまくいけばいいが、かえってこじらせて小さな親切大きなお世話なんてことにもなりかねない。
 恋の句は蕉門の場合、第三者的な醒めた視点から、時に茶化されたりしているが、恋の情をこういう風にストレートに詠む風は、蕉風ではなく大阪談林から受け継いだものだろう。

 十四句目。

   いとをしと代りてうたをよみぬらん
 出船つれなや追風(おひて)吹秋 几董

 「いとをし」を恋の情から別離の情へと転じる。「追風(おひて)吹秋」は「秋の追風吹く」の倒置でこの「秋」は放り込みではない。「秋の追風吹く出船はつれなや」という意味になる。連歌のような句だ。

2017年12月6日水曜日

 社会主義は現実には不可能な何処にもない国、不在郷(ユートピア)を求める。そういう意味では浮世離れした蕪村の俳諧は社会主義者には受けがいいのかもしれない。
 桃源郷の甘い夢は疲れた心にノスタルジックな癒しと安らぎを与えてくれるが、それはこの世のものではない。死後の世界の安らぎであろう。

 さて、「冬木だち」の巻は初裏に入る。
 七句目。

   春なつかしく畳帋とり出て
 二の尼の近き霞にかくれ住     蕪村

 「畳帋」は鼻紙としても用いられる。となると、「二の尼」が出てきたところで蕪村なら当然『冬の日』の「狂句こがらし」の巻の十八句目は知っていただろう。

   二の尼の近衛の花のさかりきく
 蝶はむぐらにとばかり鼻かむ    芭蕉

 元は宮廷に仕える女性だったのだろう。何らかの事情で出家して八重葎の茂る荒れ果てたお寺で生活することになり、折から春で宮廷では近衛の花が盛りだとの噂を耳にする。自分自身を蝶に喩え、桜ではなく葎に留まる我が身を嘆き涙ぐむのだが、そこは俳諧で涙ぐむことを「鼻かむ」と表現する。
 高雅な趣向も卑俗な言葉で落とすのが芭蕉の俳諧だ。内容が高雅なままだから卑俗な言葉が却って雅語と同格に高められる。これを「俗語を正す」という。逆に卑俗な内容だと、どんな高雅な言葉を用いても、むしろ雅語を貶めることになる。
 蕪村は「鼻かむ」という言葉は使わない。「畳帋とり出て」で「鼻をかむ」=涙ぐむの連想を引き出そうとするのだが、芭蕉の句を知ってないと見落とす所だ。

 八句目。

   二の尼の近き霞にかくれ住
 七ツ限りの門敲く音        几董

 「七ツ」は申の刻で、日没より少し前、日の傾く頃を言う。電気のなかった時代は大体昼の仕事を終える頃で、ここで終わらないとそれこそ「日が暮れちゃう」。
 お寺のほうも七つで閉門となる。だが、そんな時間に門を叩く音がする。誰だろうかよくわからない。

 九句目。

   七ツ限りの門敲く音
 雨のひまに救の粮やおくり来ぬ   蕪村

 係助詞の「や」が入るので、「救いの粮のおくり来ぬや」の倒置となる。
 雨が止んだのでその合い間に急いで城門から兵糧を運び込む。ただ、「や」と疑っているので兵糧が運び込まれたのだろうか、というニュアンスとなる。
 断定せずに軽く疑う表現というのは連句では珍重される。そのほうが次の句が付けやすいからだ。疑問は反語に、反語は疑問に取り成すことができる。

 十句目。

   雨のひまに救の粮やおくり来ぬ
 弭(つのゆみ)たしむのとの浦人  几董

 「弭」は「ゆはず」とも読む。ゆはずは弓の筈で、筈は弓の両端の弦をかけるところを言う。そこが角でできているものを「つのゆみ」という。
 武士というと今では刀のイメージがあるが、古代の源平合戦の頃の武士は馬に乗り弓矢で戦うのが普通だった。
 お約束で前句の「や」を反語に取り成し、来たのは兵糧ではなく弓矢で狩をする能登の浦人だった。

2017年12月5日火曜日

 そういうわけで、「冬木だち」の巻を読んでいこうと思う。今回も「牡丹散て」の巻のときと同様、小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』を参考にする。
 「冬木だち」の巻、第三。

   此句老杜が寒き腸
 五里に一舎かしこき使者を労て   蕪村

 上五を「五里に一舎」と字余りにするあたりは天和期の蕉門を意識したのか。ただ芭蕉の「櫓の声波を打つて」「芭蕉野分して」「夜着は重し」のような力強いフレーズでないのは残念だ。
 内容は明和天明期に流行した漢文趣味か、五里行く毎に宿を設けて使者を労い、漢詩を詠んでは「此句は老杜が寒き腸です」と言って捧げる。
 蕪村は「右二句共に尋常の句法にてはなく」と書いているらしいが、これは俳諧の常の体ではないという意味もあったのだろう。『去来抄』に「基(もとゐ)より出ると不出(いでざる)風」という議論があったが、確かに次韻や虚栗の体は基(もとゐ)となる和歌の体ではなく「不出(いでざる)風」には違いない。

 四句目。

   五里に一舎かしこき使者を労て
 茶にうとからぬあさら井の水    几董

 使者への労いはここでは漢詩ではなく茶の湯になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、「あさら井」は「浅ら井」で浅い井戸。
 詩を茶に変えただけで展開に乏しい。

 五句目

   茶にうとからぬあさら井の水
 すみれ啄(はむ)雀の親に物くれん 几董

 前句の茶に疎からぬ人の位で付けたのだろう。
 「すみれ啄(はむ)」は実際にはスミレの葉についた虫を啄ばんでいるのだろう。虫を取って子雀に運ぶ雀の親に餌をやっているのだろうか。いかにも慈悲深い人という感じだが、蕉門が描き出した庶民のリアルな世界には程遠い。
 蕪村より更に後の時代になると、

 雀の子そこのけそこのけお馬が通る 一茶

の句があるが、この句は身分社会を風刺したような十分リアリティーがある。蕪村の俳諧は庶民の鬱屈したエネルギーをあえて嫌って、絵空事の理想の世界に遊ぶのを特徴としている。芭蕉が「帰俗」なのに対して蕪村が「離俗」だと言われるのはそういうところだ。

 六句目。

   すみれ啄雀の親に物くれん
 春なつかしく畳帋(たたう)とり出て 蕪村

 つまりこういう調子になる。『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』の注によれば、畳帋はたとう紙のことで懐紙とも言うらしいが、別に花粉症で花を鴨意図して紙を取り出したのではない。前句の心やさしい人は和歌をたしなむ佳人だという単純な展開。

2017年12月4日月曜日

 今日の明け方、仕事に向う時に西の空に大きな丸い月が見えた。あれがスーパームーンというやつか。日本語にすると「超月」になるのかな。聞いたことのない言葉だが。「ちょーつきじゃん」と言うと何か違う感じがする。日本語って面白い。
 旧暦十月、神無月で冬だから寒月になる。凍月(いてづき)というほどには寒くない。凍月はいてつくからいてづきなのか。英語だとフリーズムーン、尾崎かな。
 冬の月というと真っ先に思い浮かぶのは蕉門ではなく、

 冬木だち月骨髄に入夜哉    几董

だったりして、和語で平たく言えば「骨身に凍みる」ということなのだが、それを漢文風に気負って「月骨髄に入」という所が、明和天明の頃の中国かぶれの粋だったのだろう。とはいえ冬木立を我骨身に見立てて、冬木立の枝の突き刺さる月を「月骨髄に」というあたりはさすがに上手い。
 惟然撰の『二葉集』の超軽みの句に、

 爰(ここ)へ出る筈かよ月の冬木立 淡齋

の句がある。葉が茂ってるときは月が見えるような場所ではなかったのだが、という意味か。
 安永五年刊の『続明烏』のこの句は、安永九年の『桃李(ももすもも)』で歌仙の形を取って収められている。
 以前、「牡丹散て」の巻を読んだ時にも触れたが、この歌仙は興行によるものではなく手紙のやり取りによって作られたもので、即興性のない、熟考による歌仙だった。だから、その場の乗りで笑いを誘うものではなく、むしろ近代的な意味でのコラボレート作品を作ったようなもので、現代連句に近い。
 蕪村の脇は、

   冬木だち月骨髄に入夜哉
 此句老杜が寒き腸(はらわた) 蕪村

だが、ちょっと待った、これって、『俳諧次韻』の、

    鷺の足雉脛長く継添へて
 這_句(このく)以荘-子(そうじをもって)可見矣(みつべし) 其角

に似てないか。「寒き腸」も、

 櫓の声波を打つて腸氷る夜や涙  芭蕉

ではないか。「断腸の思い」というのを腸を断つとせずに腸が氷るとしたところに新味があったのだが、それを「寒き腸」にしてもかえって「氷る」よりも弱い言い回しになるだけだ。
 蕪村さんは何だか後世に残る歌仙を作ろうと気負いすぎて、企画倒れになってしまったのではないか。其角の句のパクリだけに。

2017年12月1日金曜日

 今年は五月閏ということで芭蕉の最期の年元禄七年を見てきた。ほんの少しだけど、芭蕉の死を見取ったような気がする。
 支考の『前後日記』に、「飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと」とあるのを読んで、点滴のなかった時代はそうだったんだなと思った。今だったら食べなくても点滴で生きながらえることができる。昔は食べ物が喉を通らなくなった時点で、もう終わりだったんだ。
 芭蕉の死を考るあまりに自分の死を意識すると、なんか厭世的になってくる。生まれてから死ぬまで続く、のがれられない生存競争。この世界の片隅に何とか自分ひとり生きてゆける隙間を見つける、たったそれだけのことで人は疲れ果てて、それで戦う意欲を失ったときは死ぬしかないんだろうな。
 人と人とはお互い張り合って、その「張り」が人間存在の空間性だなんて和辻哲郎は言ってたな。お互い生きようとして、頑張って、その緊張関係が人間の世界を形作っている。個と個もそうだし、民族と民族もそうだし、国家と国家もそうだ。適度の張りがあって、世界はうまく動いてゆく。
 社会主義は一つの哲学が支配することで秩序ある世界を作ろうとするが、結局「一つの哲学」なんてものは存在せず、人間の数だけ哲学ができてしまう。それを一つにするのはただ強力な権力。独裁国家だった。独裁国家で生存競争が終わることはない。ただ独裁者の座をめぐって最も過酷な競争が生じるだけだった。飢餓と粛清、それが社会主義の結末だった。
 世界を一つにしようというインターナショナリズムも、結局は特定の民族が他の民族を支配し、強力な権力で争いを封じてただけだった。それがほころんだ時どうなるかは旧ユーゴスラビアがどうなったかを見ればいい。
 生存競争が避けられないなら、それとうまく付き合って、その軋轢を和らげて行くしかない。怒りを笑いに転じてゆくのが俳諧の知恵であり、日本人の知恵だった。独裁国家は例外なく笑いを奪う。笑うことも戦いだ。
 芭蕉のその後は、支考の『前後日記』には、

 「此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、伏見より木曽塚の旧草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉焼香の外に、余哀の者も三百人も侍るべし。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 其角の『芭蕉翁終焉記』には、

 「物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去来・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・寿貞が子治朗兵衛・予ともに十人、笘もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、‥‥」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.67)

とある。
 『源氏物語』の時代でも京都から舟であっという間に須磨まで移動したが、上方の海運は古代から受け継がれていたようだ。芭蕉の遺体も一晩で伏見に着き、翌日には大津の義仲寺に辿り着いた。そこで葬儀が行われ、三百人もの人が集まったという。やはり芭蕉は当時の大スターだった。笑いは世界を救う力がある。みんなそれを知っている。
 ということで〆にして、次回からは気分を変えたいものだ。