2017年1月31日火曜日

「梅若菜」の巻の第三。

   かさあたらしき春の曙
 雲雀なく小田に土持比(つちもつころ)なれや 珍碩(ちんせき)
 (雲雀なく小田に土持比なれやかさあたらしき春の曙)

 珍碩(ちんせき)は近江膳所の人。
 笠は旅人だけのものではなく、お百姓さんも農作業の時は笠を被る。冬の間の暇な時に新しい笠をこしらえたのだろう。新しい笠で気分も新たに、土を入れて田んぼの土も新しくし、田植えに備える。曙の空にはひばりも囀る。
 『はせを翁七部捜』(吏登口述・蓼太編、宝暦十一年序)には「葉五問 ひばり啼小田に土持比なれや、此第三比ならんの心歟。答、左にあらず。何比ならんといふ事をいぢわるう比なれやと、なすべきや。やはり比なれやなり。」とある。
 第三の末尾は「て」か「らん」で止めることが多い。これは規則ではなく単なる習慣で、必ずしも従う必要はない。第三あたりは句が滞ることを嫌い、早くささっと付けられるように、ある程度のパターンを決めておく方がいいというだけのことだ。
 だがここでは「や」で止めている。これは本来なら「土持つ頃ならん」とすべき所で、そのため『はせを翁七部捜』は問答形式で、これは「土持つ頃ならん」と同じに考えて良いのか?と問い、「さにあらず」と答える。「土持つ頃ならん」で良いなら、わざわざ意地悪く「頃なれや」と言い換える必要はない、というわけだ。だが「頃なれや」でなくてはいけない理由は記されていない。
 「らん」は疑問と反語の両方の意味があり、これを利用して前句との関係では疑問の意味だった「らん」を、次の句で反語に取り成せば、容易に大きな展開が出来る。「頃なるや」ならやはり疑問と反語の両方の意味があるから「頃ならん」とほぼ同じ働きになる。しかし「頃なれや」というふうに已然形に「や」が付いた場合は間投詞で詠嘆の意味に近くなる。

 春なれや名もなき山の朝霞   芭蕉

と同じ用法になる。意味としては「春が来たなあ!名もなき山も霞んでいる」という感じになる。これが、

 春なるや名もなき山の朝霞

だと、「名もなき山の朝霞に春なるや」の倒置となり、「春が来たのかなあ?」というニュアンスになる。
 そのためこの珍碩の句も、笠を新しくして小田に土を入れる季節になったなあ、という意味になる。「なったかなあ」という弱い言い方ではない。

季題は「雲雀」で春。鳥類。

2017年1月30日月曜日

 昨日は新宿御苑に行った。梅、蝋梅、寒桜、水仙、福寿草、いろいろな花が咲いていた。旧正月を過ぎて俳諧も春になる。
 今日は暖かかったが、夕暮れになると北風が吹いて寒さが戻ってきた。正月三日の月が見えた。
 さて、新暦の一月三日には丸子宿に行った縁もあり、『猿蓑』の歌仙、「梅若菜」の巻を読んで行こうと思う。『炭俵』の時は『「炭俵」連句古註集』(竹内千代子編纂、1995、和泉書院)のお世話になったが、今度は『芭蕉連句古注集 猿蓑編』(雲英末雄編、1987、汲古書院)のお世話になる。たのんまっせー。
 まずは発句から。

   餞乙州東武行
 梅若菜まりこの宿のとろろ汁   芭蕉

 今栄蔵の『芭蕉年譜大成』(1994、角川書店)によると、この句は元禄四年(一六九一)一月上旬大津で、乙州(おとくに)が江戸へ行くのでそのはなむけに珍碩、素男、智月、凡兆、去来、正秀らが集って行われた興行の発句だった。
 この時の興行は二十句で終わり、芭蕉がこの巻を伊賀に持ち帰り半残、土芳、園風、猿雖で二十一句目から三十二句目まで継がせ、暮春に芭蕉が上京したときに嵐蘭、史邦、野水、羽紅に残り四句を継がせて満尾させたという。かなり変則的な形で成立している。
 元禄二年(一六八九)の秋に『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、伊賀へと向かう途中にあの、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

の句を詠むことになるが、そのあと芭蕉は奈良、京都、大津を転々とする。そして元禄二年の十二月に乙州の姉である智月尼と出会う。芭蕉より十一歳年上の智月尼に、その後元禄四年暮春の江戸下向まで様々な形で世話になることになる。
 乙州は智月の弟だが、智月の死別した夫の家督を継がせるために養子にしたことで、弟でありながら息子でもある複雑な関係になった。
 その乙州の一足早い江戸下向の餞別に詠んだ句が「梅若菜」の句だった。
 句の意味は、これから江戸までの旅の間に至る所で梅を見るだろうし、芽生えたばかりの若菜も見ることだろう、そして宿では新鮮な若菜を食べることだろうし、そうそう丸子宿のとろろ汁も美味い頃だ、と江戸への旅路を羨んでみせて、乙州を喜ばそうというものだ。
 梅は古来多くの和歌に詠まれたもので、若菜も『百人一首』でも有名な『古今集』の、

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
               光孝天皇

の歌が思い起こされ、どちらも雅語だ。ただ、「若菜」が食べ物でもあるところから「まりこの宿のとろろ汁」を連想し、こちらの方は古典の風雅ではなく今の流行のもので、俳諧らしく落ちをつけている。
 この不易と流行との微妙なミスマッチ感は、当時だと笑いどころだったのだろう。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「賦体にして道すがら梅もあり、若菜もあり、まりこの宿にはとろろ汁の名物あり、とたはぶれし句なり。」とある。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「梅若菜のごとき景物は、勿論とろろ汁のごときも捨めやと、風雅の一棟也。」とある。「まりこのとろろ汁」が落ちだという認識が伺われる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前途の春色を思ひうらやめる意ならん。懸合の華実は更に、句作の鍛錬をみるべし。但むかしは挨拶体なども、幽玄をもてもととなせれば、雅にして心高し。」とある。

季題は「梅」「若菜」でともに春。植物。「梅」は木類。「若菜」は草類。「とろろ汁」は秋の季語だが春にも食べるので問題はない。景物を三つ並べるような句の作りは、

 目には青葉山ほととぎす初鰹  素堂

の句に似ている。


   梅若菜まりこの宿のとろろ汁
 かさあたらしき春の曙      乙州
 (梅若菜まりこの宿のとろろ汁かさあたらしき春の曙)

 江戸へと旅立つに当たって旅に不可欠な笠を新調し、真新しい笠でこの春の曙に旅立って行きますと、芭蕉の餞別に対しての「行ってきます」の挨拶となる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「打添ニテ前句ノ意味ニ構ズ、翁ノ餞別ヲ謝スル心ニテ、唯イサギヨク門出仕ルト言心ニテ心ヨキ句トナシタリ。」とある。
 『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「梅に曙、宿に笠。」とこの句が物付けでそれも二重に物付けをする「四手付(よつでづ)け」の句であることを指摘している。

季題は「春」で春。「笠」は衣装。

2017年1月28日土曜日

 今日は旧正月。
 別にこの日に合わせたわけではないが、鈴呂屋書庫の方に、今はなきHPゆきゆき亭にもアップしていた「鶯に」の巻をアップしました。「空豆の花」の巻もアップしてます。

2017年1月27日金曜日

 明日は旧正月。ということは今日は旧暦の大晦日(おほつごもり)になる。
 日本では明治の始めに旧暦での行事が禁止され、旧正月は廃れていったが、中国では今日から二月二日までは春節休暇となり、中華街では爆竹を鳴らし獅子や龍が舞い、盛大にお祝いする。
 ただ、それは中華街だからで、一般の日本人が暮らす住宅地に住む中国人は、なかなかそんなに騒ぐわけにもいかないだろう。中華街でも崩御や震災なんかがあると自粛を求められたりもする。
 いろいろな国の人が共存するとなると、お互いを気遣えばどうしても祭や行事は抑制されがちになり、特にマイノリティーとなれば肩身が狭い思いをすることになる。
 ヨーロッパではクリスマスは盛大に祝われ、街にはクリスマス市ができて賑わうが、だからといってヨーロッパに住むムスリムの人たちがラマダン明け (ライラ・アル・カドル)に同じように盛大にお祭をするわけではあるまい。それどころか、フランスではベールの着用が宗教的行為にあたるとして公共の場所で禁止されてたり、相当に肩身の狭い思いをしているのだろう。
 去年のクリスマスにはベルリンのクリスマス市でテロ事件があったが、厳重警戒の中でクリスマス市を続行した。日本だったらすぐに中止になっていたかもしれないが、ヨーロッパのキリスト教徒にしてみれば、クリスマスの行事は命をかけてでも守らなければならないものなのだろう。
 日本人からすれば、クリスマスもハローウィンも盛大にやるけど、誰もそれを命をかけてまで守るべきものだなんて思わない。春のお花見は戦中の自粛ムードの中でも行われてたというし、震災の後もいろいろ議論はあったもののお花見は行われていた。文化というのはそういうものだ。
 あの戦争に負けるまでは、日本人も命をかけてでも守るべきものがたくさんあったのだろう。それが戦後には急速に失われ、日本の伝統文化はもとより日本そのものも守ろうという意識が薄れ、日本そのものが早く消えてなくなればいいと思うものすら大勢いる。
 今の日本の祭や行事は先祖代々受け継がれてきたものでもなければ共同体のものでもない。ただ盛り上がればいいというだけの擬似祭というかお祭ごっこのようなもので、誰もその存続に命を張ることもないだろう。
 ただ、宗教性もなければ共同体の精神もない祭というのは、逆にいえば来る者を拒まない開放性を持っている。だからそれは決して悪いことではない。いつかそんな感じで世界中の人が参加できる地球祭ができればいいなとも思う。

2017年1月26日木曜日

 さあ、「空豆の花」の巻も残す二裏の六句のみ。一気に行きます。

三十一句目
   すたすたいふて荷なふ落鮎
 このごろは宿の通りもうすらぎし  利牛
 (このごろは宿の通りもうすらぎしすたすたいふて荷なふ落鮎)

 前句の「すたすたいふて」を客がいないからだとする。
 『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)には「落鮎の多くとれる時分、秋もすゑになり行、旅人の通りもうすらぎし也。」とある。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暮秋の光景。」とだけある。

無季。「宿」は居所。

三十二句目
   このごろは宿の通りもうすらぎし
 山の根際(ねぎは)の鉦(かね)かすか也 岱水
 (このごろは宿の通りもうすらぎし山の根際の鉦かすか也)

 さびれた宿場はシーンと静まりかえっていて、平地と山との境目あたりから、チーンと鉦を叩く音が聞きこえてくる。
 名残の裏に入り、軽く流すような付け。ただ、宿場が寂れたから落ち鮎売りもすたすた通り過ぎるという付けに、同じように、宿場が寂れたから遠くの鉦の音が聞きこえると付けるあたりは、やや展開に乏しい。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「会釈の附にして、寂莫をたすく。」とある。鉦は『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)に「山根の常念仏の鉦」とある。

無季。「山の根際」は山類。「鉦」は釈教。

三十三句目
   山の根際の鉦かすか也
  よこ雲にそよそよ風の吹出(ふきいだ)す    孤屋
 (よこ雲にそよそよ風の吹出す山の根際の鉦かすか也)

 「横雲」というのは、

  春はるの夜よるの夢の浮橋とだえして
    峰にわかるるよこぐものそら
                   藤原定家

の歌も思い起こされるように、明け方の雲。夜明けの景色に転じる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「夕時を朝時に転ず。」とある。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「鉦かすかなりといふより明ぼのの空の星の光りおさまり、上もなく静なるに西風のわづかにふくさま也。洛外などの景様なるべし。」とある。

無季。「よこ雲」は聳物。

三十四句目
   よこ雲にそよそよ風の吹出す
 晒(さらし)の上にひばり囀(さへづ)る  利牛

(よこ雲にそよそよ風の吹出す晒の上にひばり囀る)

 芭蕉の貞享五(一六八八)年夏に岐阜で書かかれた『十八楼の記』に、

 「たなかの寺は杉の一村(ひとむら)にかくれ、岸にそふ民家は竹のかこみのみどりも深し。さらし布所々に引きはへて、右にわたし舟うかぶ。」

とある。河原ではしばしば布を引き伸ばして晒す風景が見られた。ここでは暁の空に薄くたなびく横雲とその引き干た晒し布とが重なり合うようだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「日和と見て附たらん。」とある。横雲にそよ風で今日はいい天気になりそうだ、というところで雲雀を登場させる。

季題は「ひばり」で春。鳥類。

三十五句目
   晒の上にひばり囀る
 花見にと女子(をなご)ばかりがつれ立ちて 芭蕉
 (花見にと女子ばかりがつれ立ちて晒の上にひばり囀る)

 女のおしゃべりは雲雀のさえずりにたとえられる。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「人倫の噂遠きよりいえりけん。女子斗といふにほのかに響きあるハ囀るの字ならん。姦の字を思ふべし。」とある。雲雀の囀りと女の姦しさが「響き」となって付いている。

季題は「花見」で春。植物、木類。「女子」は人倫。

挙句
   花見にと女子ばかりがつれ立ちて
 余のくさなしに菫たんぽぽ  岱水
 (花見にと女子ばかりがつれ立ちて余のくさなしに菫たんぽぽ)

 「余の」は他のということ。「くさ」は草と種(くさ)との両方に掛かる。女ばかりで他の者もいずに、菫やタンポポのようだ。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「女バカリと言ヨリ、余ノ草ナシトハ作レリ。但、木瓜・薊ノ類ヒニハ有デ、菫・蒲公英トハ議敷草ノ名ニテ、女ト言ニ栞タリ。」とある。
 女ばかりと菫・蒲公英が響き付けとなる。

季題は「菫」と「たんぽぽ」で春。植物、草類。

2017年1月25日水曜日

 昨日の二十三句目と二十四句目のところ、「夜分」が抜けていた。二十三句目は「ねる」が夜分。二十四句目は「燭台」は夜分。
 また、「むめがかの」の巻の三十四句目、

   千どり啼一夜一夜に寒うなり
 未進の高のはてぬ算用     芭蕉

は「年貢納」で冬の句となる。
 それでは「空豆の花」の巻の続き。

二十五句目
   客を送りて提る燭台
 今のまに雪の厚さを指してみる    孤屋
 (今のまに雪の厚さを指してみる客を送りて提る燭台)

 「今の間」はちょっとの間ということ。客を送り出だした後、またたく間に積もった雪を杖で指して計りながら、客を送るときに門に提げた燭大の蝋燭があたりを照らしている。
 『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)には「客を送りて出れバ、思ひの外に雪積りし也。」とある。

季題は「雪」で冬。降物。

二十六句目
   今のまに雪の厚さを指してみる
 年貢すんだとほめられにけり 芭蕉
 (今のまに雪の厚さを指してみる年貢すんだとほめられにけり)

 またたく間に積もる雪を見て、粋な代官が杖で雪の深さを測りながら、「うむ。これで年貢もすんだな」とでも言ったのだろうか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「雪に豊年の故語あるより趣向し給ひけん。もしくハ県令の巡見などミゆ。前句に実をとめたるの附にあらず。」とある。
 「雪に豊年の故語」というのは、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)に「雪ハ豊年の瑞といふ事ハ、韓退之の父に、春雲始繋時、雪遂降実豊年之喜瑞也。」とあるそのことを言うと思われる。出典はよくわからない。韓退之の父は韓仲卿で、韓愈(韓退之)三歳の時に死別したという。

季題は「年貢納」で冬。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の冬之部に「年貢納」があり、「青藍云、年貢納といへること、増山の井及び苧環にこれを載せず。しかりといへども、[炭俵集]にㄟ今の間に雪のふかさをさしてみる、といへる前句に、ㄟ年貢すんだとほめられにけり 芭蕉 又、ㄟ千鳥なくひとよひとよに寒うなり、と云る前句に、ㄟ未進の高のはてぬ算用 芭蕉、云々。いづれも冬季にいれたれば、冬季として子細あるまじ。」とある。

二十七句目
   年貢すんだとほめられにけり
 息災に祖父(ぢぢ)のしらがのめでたさよ  岱水
 (息災に祖父のしらがのめでたさよ年貢すんだとほめられにけり)

 今年も無病息災で祖父も元気で働くことができた。おかげで年貢も早く納めて褒められた。
 『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「前句の人也。」とある。年貢すんだと褒められた人がどういう人なのかを付けた句。

無季。「祖父」は人倫。

二十八句目
   息災に祖父のしらがのめでたさよ
 堪忍ならぬ七夕の照り    利牛
 (息災に祖父のしらがのめでたさよ堪忍ならぬ七夕の照り)

 七夕の頃の日のジリジリと照りつける中を、若い者に負けじと農作業に精を出す老人。まさに無病息災目出度いかぎりである。
  今いまは高齢化社会で老人は珍らしくないが、死亡率の高い江戸時代では人口もピラミッド型。老人になるまで生きられるのが稀な時代。それゆえ元気で闊達な老人は若者の憧れでもあり、無条件に尊敬された。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「健ナル爺ノ田野ニ出テ、残暑ニ愁ザル趣言外也。」とある。
 さて、次は月の定座だが、七夕の昼からどうもって行くか。

季題は「七夕」は秋。

二十九句目
   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合はせ度(たき)芋畑       芭蕉
 (名月のまに合はせ度芋畑堪忍ならぬ七夕の照り)

 夏の旱魃に里芋の生育を気遣う。名月には昔は里芋を具え、豊年を祈った。そのため「芋名月」という言葉もある。
 月の定座だが、七夕の昼の句にそのままでは月は付けられない。こうした場合は時間の経過で乗り切るのが一応の定石といえよう。『去来抄』の

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲く花にかき出す橡(えん)のかたぶきて   芭蕉

の句や、

    くろみて高き樫木の森
  咲く花に小き門を出つ入つ   芭蕉

の句もそうした一つの例といえよう。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「名月の 月前七夕の照と出て、常の月ハ附られず。よって斯あしらひたる時候附也。」とある。   

季題は「名月」で秋。夜分、天象。「芋」も秋で植物、草類。二十五句目に「今のまに」とあり、ここでも「名月のまに」とあるが、俳諧では同字三句去りなので問題はない。『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「かかることを兎角いふべきにはあらず」とある。

三十句目
   名月のまに合はせ度芋畑
 すたすたいふて荷なふ落鮎   孤屋
 (名月のまに合はせ度芋畑すたすたいふて荷なふ落鮎)

 前句を「名月の芋畑で、まに合わせたき(とばかりに)」と読み、名月の芋畑を背景として「すたすたいふて」とつながる。「すたすたいふて」は「すたすたと」という意味。「落ち鮎」は秋の産卵後の鮎のことで、時期が限られるため、急いで売らなくてはならない。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「間に合せたきといふ詞を噺の上と取なし、鮎売どもの道すがらと思ひよせたり。」とある。

季題は「落鮎」で秋。水辺。なぜか連歌の式目には獣類や虫類、鳥類はあっても「魚類」はない。

2017年1月24日火曜日

 『陸奥鵆』でみつけたミミズクの句。

 木兎の啼や木の葉の落る度  月尋
 木兎の笑ひを見たる時雨哉  李里

 フクロウやミミズクの寝顔は笑っているように見える。時雨の森で目を細めているミミズクを見つけたら感動するだろうな。李里さんは鹿の糞の句だけではなかった。
 では「空豆の花」の巻の続き、二表に入る。

十九句目
   ふとん丸げてものおもひ居る
 不届な隣と中のわるうなり     岱水
 (不届な隣と中のわるうなりふとん丸げてものおもひ居る)

 隣同士の幼い恋も、親同士仲が悪くて、さながらロミオとジュリエット?
 『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「隣と中悪くなり物を思ひゐる也。」とあり、これはわかりやすい。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「後附なり。○誰かあぐべきなどいひけん。ふりハけ髪の兼言も仇になりぬる思ひなるべし。」とある。出典をひけらかしていてわかりにくいが、「誰かあぐべき」「ふりハけ髪」は『伊勢物語』の筒井筒からの引用で、幼馴染の男と女が成長につれ異性を意識し、男が女を妻にしたいと思うものの女の親に反対され、

 筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    過ぎにけらしな妹見ざる間に

と詠む。女もこれに、

 くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ
    君ならずして誰かあぐべき

と返した。このエピソードの面影と考えたのであろう。ただ、「ふとん丸げて」だとあくまで江戸時代の設定になる。古典の風雅の当時の現代的翻案と見られなくもないが、古典のことを知らなくても十分あるあるネタになっている。
 古典の風雅を江戸の日常で表現する。それはまさに「軽み」だといえよう。
 「兼言(かねごと)」は約束の言葉。

 昔せし我がかねごとの悲しきは
    いかに契りしなごりなるらむ
               平定文『後撰集』

の用例がある。

無季。「中(仲)」は恋。

二十句目
   不届な隣と中のわるうなり
 はっち坊主を上へあがらす  利牛
 (不届な隣と中のわるうなりはっち坊主を上へあがらす)

 はっち坊主は鉢坊主のことで、托鉢に来た乞食坊主のこと。昔の人は信心深かったから、そんな怪しげな坊主でも食い物を恵んでやったりしたが、わざわざ家に上がらせるというのはあまりないこと。いろいろな家を訪ねる托鉢僧だから、隣の家の人間がどんなにひどいことをするか話て聞かせ、噂を広めてもらおうということか。
 『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)には、「隣と不和になりたる折、鉢坊主の来たるに上へあがらせ、あくぞもくぞを咄すハ、身軽き人のさま也。」とある。「あくぞもくぞ」は人の欠点をいう。

無季。「はっち坊主」は釈教。人倫。

二十一句目
   はっち坊主を上へあがらす
 泣事のひそかに出来し浅ぢふに   芭蕉
 (泣事のひそかに出来し浅ぢふにはっち坊主を上へあがらす)

 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
 どういう事情でおおっぴらに葬儀ができないのかは、いろいろ想像の余地がある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「邸中の孫の君などなくしまいらせたる賤がふせ家に、形のごとくの営ミ事もうち憚れる按排ならんか。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「幼い落君をかくまひ置しが、医療叶ハず、なくし参らせたるふせ家に、野辺の送りさへ世を憚れる按排ならんか。」とあり、『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「人のなくなりたるなるべけれど、ゆゑありて、まづハ人にも告ざる也。」とある。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「桐壺の更衣の母の愁傷のすがた也。」とし、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は「賤しからぬひとの故ありて、世をしのぶ田舎住居と、はからずも世を去りしものありて、忍ぶ身の人にも告やらで」とある。
 土芳の『三冊子』には、

  「桐の木高く月さゆる也
 門しめてだまって寝たる面白さ

この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思ふ所に非ずと也。」

とある。『炭俵』の特に評判の良かった句と言えよう。

無季。「なくこと」は哀傷。

二十二句目
   泣事のひそかに出来し浅ぢふに
 置わすれたるかねを尋ぬる  孤屋
 (泣事のひそかに出来し浅ぢふに置わすれたるかねを尋ぬる)

 貧しい浅茅生の家で必死に貯めた金だったが、それがどこに置いたかわからなくなったら、やはり泣きたくなる。
 前句がいわゆる有心体の深い情を持った句である場合、次の句は重くならないようにあえて卑俗に落とすことが多い。「むめがかに」の巻の、

   門しめてだまつてねたる面白さ
 ひらふた金で表がへする    野坡

と同様に考えればいい。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「泣事のひそかに出来しと云より転じて、貧家のわりなき事にて質置たる金をうしなひ、家うち取かかりて捜す体を見せたり。」とある。

無季。

二十三句目
   置わすれたるかねを尋ぬる
 着のままにすくんでねれば汗をかき 利牛
 (着のままにすくんでねれば汗をかき置わすれたるかねを尋ぬる)

 これは夢落ち。大切な金がなくなった夢を見てはっと目が覚める。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前句を夢に転じて汗とハいへり。しかもその字のわざとならぬ句作の工夫を察すべし。」とある。

無季。「汗」は近代では夏の季語だが、どのみちここでは冷や汗のことで、夏にかく汗ではない。

二十四句目

   着のままにすくんでねれば汗をかき
 客を送りて提る燭台     岱水
 (着のままにすくんでねれば汗をかき客を送りて提る燭台)

 昔の遊郭はいきなりことに及ぶようなことはせず、まずは遊女の姿を垣間見、やがて対面するが、そこでも話をするだけ。遊びなれぬ客は間が持てずにもじもじするばかりで、酒ばかりかっくらって、ついには居眠り。冷や汗かきながら、遊女の灯す燭台で送ってもらう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「初対面なる遊女とも見たらん。」とある。

無季。「客」は人倫。

2017年1月23日月曜日

 今日は風が強かった。
 久々に身を切るような北風だった。
 何かそれにふさわしいような句を探してみた。

 から風の水田に吹て寒哉    序令『陸奥鵆』

 どういう作者か知らないけど、吹きっさらしの冬の田んぼは寒い。
 
 尖りたる風を笑ふか冬牡丹   牧堅『陸奥鵆』

 これも知らない作者だが、「尖りたる風」というのはなかなか近代的な感じがする。
 やはり寒さというと陸奥というところか。

2017年1月22日日曜日

 鈴呂屋書庫の日記にも書いたが、アメリカの大統領は中学生でもわかるような英語で語るのに、日本の政治家はいつも何を言っているかわからない。難しい言葉を使えば偉いと思っているようなところがある。それは今日の俳人にも言えるのではないかと思う。
 芭蕉の軽みは古典の風雅の世界を誰もがわかる俗語で表現するということにあった。

 声枯れて猿の歯白し峯の月   其角
 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉

 漢籍に出てくる猿の叫びは魚屋の塩鯛でも表現できる。それが軽みだった。
 さて、それでは「空豆の花」の巻の続き。

十三句目
   家のながれたあとを見に行
 鯲(どぢゃう)汁わかい者よりよくなりて 芭蕉
 (鯲汁わかい者よりよくなりて家のながれたあとを見に行)

 「よくなりて」はよく食いてという意味。洪水の後には水の引いた地面にドジョウが落ちていたりしたのか。酸いも甘いも噛み分けてきた老人だけに、そこは落ち着いたもので、これこそ塞翁が馬、災転じて福と成すとばかりに、家の流れたあとを見に行っては、拾ってきたドジョウを食いまくる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「後附の二句一章といハん。」とある。後ろ付けは七七の下句に五七五の上句を付けたときに、後から付けた五七五に七七が続き、五七五七七の和歌のように読み下せる付け方を言う。
 本来連歌ではこのように付けていたのだが、「て」止めに限っては七七に五七五を続けるような前付けでもいいとされてきた。それがちょうどこの元禄の頃から崩れ始めて、七七に五七五を付ける時には前付けが普通になり、この芭蕉の句のような古風な付け方を「後ろ付け」と呼ぶようになっていった。
 二句一章も、本来連歌は上句と下句を合わせて一種の和歌を完成させるゲームだったのだが、それが次第に忘れ去られ、こういう昔風の一首の和歌としてすんなり読み下せる付け方を二句一章と呼ぶようになった。

無季。「わかい者」は人倫。

十四句目
   鯲汁わかい者よりよくなりて
 茶の買置をさげて売出す     孤屋
 (鯲汁わかい者よりよくなりて茶の買置をさげて売出す)

 ドジョウ汁には酒が付き物というわけで、酒の飲みたい老人は茶の買い置きを安く売って、金を工面する。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「商のうへ飲む以為に転ぜり。与奪なり。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「酒好親父トミテ、此頃ハ酒デモヒツパクニ附テト言意ヲ、此方ヨリ前句へ与エテ奪ヒ終レリ。」とある。

無季。

十五句目
   茶の買置をさげて売出す
 この春はどうやら花の静なる   利牛
 (この春はどうやら花の静なる茶の買置をさげて売出す)

 花の定座を二句繰り上げている。茶会から花見の連想が働くため、それを逃す必要はない。
 当時はまだ今のような煎茶がなく抹茶が主流で、花見の季節にはお茶会も盛んに開かれ需要が増える。それが景気が悪かったりして花見が盛りあがらないとなれば、花見特需による値上がり見込んで買占めた茶も安く放出せざるをえなくなる。
 『梅林茶談』(櫻井梅室、天保十二年刊)には「前句のさげて売出すをこころにとめて、此春は何となく不景気にて、商もはかばかしからず。花見に行人も例年よりハすくなしと思ひとりて、花も静なりと軽く作せり。」とある。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)に「北枝考、前句茶の買置を下てうるハ、世上不景気ト見立其時節を付たりト云り。」とあるから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも交流のあった北枝の説が元になっているようだ。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「新茶ノ頃ニナレバ、買オキノ茶ヲヤスクウル。」とあるが、抹茶は半年壺に入れて寝かせるため新茶の季節は十一月になる。

季題は「春」と「花」で春。「花」は植物、木類。

十六句目
   この春はどうやら花の静なる
 かれし柳を今におしみて     岱水
 (この春はどうやら花の静なるかれし柳を今におしみて)

 素性法師の歌に、

 見渡せば柳桜をこきまぜて
    都ぞ春のにしきなりける
             素性法師

とあるように、桜と柳はともに春を彩るもので付き物。桜の木のそばにあった柳が枯れてしまえば、桜もどこか寂しげで、枯た柳を惜しんでいるように見える。
 『梅林茶談』(櫻井梅室、天保十二年刊)には「古年の春までは、柳のみどりもたち添ひて、花も一しほうるはしかりしに、其柳かれて花も淋しくおもはるると一転して付られたり。」とある。

季題は「柳」は春。植物、木類。「枯し柳」はここでは冬で葉の落ちた柳の意味ではないので、冬の季語ではない。

十七句目
   かれし柳を今におしみて
 雪の跡吹はがしたる朧月     孤屋
 (雪の跡吹はがしたる朧月かれし柳を今におしみて)

 柳に積もっていた雪も春の風に吹きはがされて、朧月が出ている。しかし、柳は枯たままで緑はなく、まったくもって惜しい。
 花の定座が繰り上がり月がまだだったのでここで出す。春だから「朧月」になる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「折にふれて思ひ出たる風情ならん。」とある。

季題は「朧月」で春。夜分、天象。「雪」はここでは跡なので冬ではない。

十八句目
   雪の跡吹はがしたる朧月
 ふとん丸げてものおもひ居る   芭蕉
 (雪の跡吹はがしたる朧月ふとん丸げてものおもひ居る)

 春は恋の季節で、朧月の夜は寝付けけずに、布団を丸めて物思いにふける。
 この頃の蒲団は冬の夜着で、今のような四角い布団ではない。そのため蒲団は畳むのではなく丸める。春とは言っても雪の跡がまだ残るため、それまでは蒲団を着ていたのだろう。雪がはがれて蒲団もはがれるというあたりが細かい。月の朧も涙によるものでもあるかようだ。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「朦朧たる春宵に閨愁のさまをよせ給ひけん。はがしたるの語もまた用あるに似たり。」とある。

季題は「ふとん」で冬。衣装。「ものおもひ」は恋。

2017年1月20日金曜日

 今日は雪の予報もあったが、ほとんど降ることもなかった。
 それでは「空豆の花」の巻の続き。初裏に入る。

七句目
   どたりと塀のころぶあきかぜ
 きりぎりす薪の下より鳴出して  利牛
 (きりぎりす薪の下より鳴出してどたりと塀のころぶあきかぜ)

 前句を古くなって横倒になった塀とし、人住ぬ荒れ果てた家に放置された薪の下ではキリギリス(今でいうコオロギ)が鳴き出して、しみじみ秋を感じさせる。

季題は「きりぎりす」で秋。虫類。鳴く虫は通常夜分で、打越に月があるため輪廻になるが、難かしい展開のところなので流したのだろう。コオロギは別に昼に鳴いていてもいい。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「虫ハ夜分にして差合を繰べからずとハ、鳴くことの夜分に限らざれバならし。爰に後句の働を賛せざらんや。」とある。

八句目
   きりぎりす薪の下より鳴出して
 晩の仕事の工夫するなり     岱水
 (きりぎりす薪の下より鳴出して晩の仕事の工夫するなり)

 夕暮れてコオロギの鳴きだす頃、薪を割ったりくべたりしながら、夜の仕事のことを考えている。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「仕事ハ薪に用あり。」とある。薪に仕事が付くといっても良いだろう。薪という体に仕事という用を付ける物付けになる。

無季。「晩」は夜分。

九句目
   晩の仕事の工夫するなり
 妹をよい処からもらはるる    孤屋
 (妹をよい処からもらはるる晩の仕事の工夫するなり)

 妹が良家に嫁に行くことが決まったが、それには相応の婚資もいれば衣装もいる。嬉しいけど頭の痛いことでもある。

無季。「妹を‥‥もらはるる」は恋。「妹」は人倫。

十句目
   妹をよい処からもらはるる
 僧都のもとへまづ文をやる    芭蕉
 (妹をよい処からもらはるる僧都のもとへまづ文をやる)

 これは恵心僧都(えしんそうず)の面影。恵心僧都は天台宗の僧、源信(九四二~一○一七)のことで、横川の僧都とも呼ばれ、『源氏物語』「手習い」に登場する横川の僧都のモデルと言いわれている。光源氏の子薫(かおる)と孫の匂宮(においのみや)との三角関係から身投みなげした浮船(うきふね)の介護をし、かくまっていた横川の僧都こそ、恋の相談にふさわしい相手。妹の良縁も真っ先に知らせなくては、ということになる。
  晩年の芭蕉は「軽み」の体を確立して、出典にこだわらない軽い付けを好んだが、源氏物語ネタは昔からの連歌・俳諧の花であり、嫌うことはなかった。このことは『去来抄』にも、『猿蓑』の撰の時、物語の句が少ないと言って

 粽(ちまき)結ふかた手にはさむ額髪(ひたひがみ) 芭蕉

の発句を新たに書き加えたエピソードからもうかがわれる。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「ココニ僧都ト出セルは、活法ト可言。但、余情ハ恵心僧都ノ妹ノ面影ナルベシ。」とある。
 出展を知らないと意味が通りにくいような付けは「本説」で、「面影(俤)」という場合は、出典を知らなくても一応の意味が通るが、知っているとより味わい深いものになるような、出典に必ずしも依存しない付け方を言う。

無季。「僧都」は人倫(僧都は案山子を意味する場合があり、その場合は非人倫となる)。釈教。「文をやる」は恋。

十一句目
   僧都のもとへまづ文をやる
 風細う夜明がらすの啼きわたり   岱水
 (風細う夜明がらすの啼きわたり僧都のもとへまづ文をやる)

 出典のある句が困るのは、「僧都」を出した時点でイメージが『源氏物語』の横川の僧都に限定され、展開が重くなることだ。そのため、「軽み」の風では好まれなくなった。
 出典には別の出典でというのが一応の定石。ここは中世歌壇を代表する頓阿法師(とんなほうし)が小倉で秘会を催すことを兼好法師に知らせるために、深夜に使いを出して、明け方に横川の兼好法師のもとに到着したという古事による。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句夫々ヘモヤレド、遠キ兼好僧都の許へ先文をやる体ト見立、夜深の様を付たり。風細う夜明烏の鳴渡トハ、兼好のござる横川へハ、小倉の頓阿の許より余程あれバと、夜深に支度させれど、此使臆病にて猶予のうち、漸明けれバいざと出ゆく様也。」とある。
 もちろん、出典と関係なく、単に景色を付けて流した「遣り句」と見てもいい。そこはあくまで面影。

無季。「夜明」は夜分。「からす」は鳥類。

十二句目
   風細う夜明がらすの啼きわたり
 家のながれたあとを見に行    利牛
 (風細う夜明がらすの啼きわたり家のながれたあとを見に行)

 風も細くなって嵐も去り、夜も明け、ようやく家の流された跡を見に行く。洪水の中を必死に逃げた昨日のことが思い出される。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「雨も漸く晴たるふぜいと見たらん。明侍かねてどやどや出るあんばい自然いふべからず。」とある。
 「雪の松」の巻に、

   粟をかられてひろき畠地
 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水

の句がある。元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、このころはまだそのときの記憶が鮮明だったのだろう。

無季。「家」は居所。「ながれた」は水辺。

2017年1月19日木曜日

 パーマ大佐という芸人のことは、正直今朝のニュースを見るまでまったく知らなかった。「森の熊さん」の歌詞が少し紹介されていた。
 まず、これは替え歌ではない。替え歌というのは元歌のメロディーに違う歌詞をつけるもので、これは元歌の一番、二番、三番、四番、五番のそれぞれの間にオリジナルの歌を挿入したもので、むしろヒップホップのサンプリングの手法に近い。
 「森の熊さん」という童謡は、昔からなぜ熊さんが「お逃げなさい」と言ったのか謎とされてきた。襲う気がないなら逃げるように指示する必要もないし、襲う気だったらわざわざ逃げろとは言わない。謎があるからそこに創作意欲が刺激され、色々なパロディーを生んできた。
 想像力を掻き立て新たな創作を刺激するという意味では、この童謡の歌詞は良く出来ているし、それが長くこの歌が親しまれてきた理由なのかもしれない。
 パーマ大佐の「森の熊さん」もこの謎から触発された創作の一つで、「森の熊さん」の歌詞に一つの合理性を与えようとしている。「そこにやってきた警察」から二番の「お逃げなさい」へのつなぎ方は連歌の手法にも近い。まあ、だからこの風流日記で取り上げるわけだが、

 お嬢さんお逃げなさいと熊さんが

という句に付け句をすると考えればいい。

   お嬢さんお逃げなさいと熊さんが
 そこにやって来たのは警察

これで十分付け句になる。こんな感じで、

   後ろからところが熊さんついてくる
 力尽きてもまた蘇えり

   お嬢さんちょっと待ってよ落し物
 伝えたいことあって追いつく

   ありがとうお礼に熊さん歌いましょう
 おっとここはさすがにネタバレになるので‥‥

 連歌も俳諧も、基本的に前句に人格はない。どのように取り成すのも自由というのが基本になっている。表記する時も前句の作者名は記さないのが普通だ。このブログでも一貫してそうしている。
 発句に限っては脇を付けるときは必ず和すようにという習慣になっているから、和すつもりがない場合は発句で返す。

 草の戸に我は蓼くふほたる哉  其角

に対し、

 朝顔に我は飯食ふ男哉    芭蕉

と返したのがそれだ。
 連句の復活の難しさは、特に老いた文学者には著作権厨が多いということもあるのかもしれない。下手に取り成すと「作品の人格権の侵害だ」なんて怒り出されたのでは恐くて付け句なんてできない。
 様々な創作を刺激する文学というのは、それだけ傑作の証しであり、駄作はパロディーにすらならない。そして、そうやって想像力が刺激され、様々な新たな創作を生み出す中で、良いものが残り、つまらないものは忘れ去られることで、文学や芸術は進歩していくのだということは忘れないで欲しい。

2017年1月18日水曜日

 今日もあちこちで梅の花を見た。早咲きの梅は紅梅が多い。
 以前「ゆきゆき亭」にアップしていた「空豆の花」の巻の書き直しを始めた。まず表六句。

発句
   ふか川にまかりて
 空豆の花さきにけり麦の縁(へり)  孤屋(こをく)

 元禄七年(一六九四)初夏、深川芭蕉庵での興行の発句。このすぐあと五月十一日には芭蕉は西へと最後の旅に出る。
 初夏は麦秋ともいわれ、麦の穂が稔り、葉は枯れ、あたかも晩秋の田んぼのようになる。
 ソラマメもまた春から初夏にかけて、白と濃い紫とのコントラストのある、可憐な花をつける。「まかりて」は田舎に下る時の言い回しであり、都に上るときには「まうでて」となる。
 この句は都を離れて田圃を尋ねる句であり、芭蕉を陶淵明のような田園の居に隠棲する隠士に見立ての句だ。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「まかりハ、あなへゆくに用る詞。まうでハ、此方へ来る事に用る詞。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「都へハ参といひ、鄙へハまかるといふ。」とある。

季題は言葉はなくても内容からいえば「麦秋」で夏。「豆の花」という春の季題があるが、ここでは麦秋の風景であるため、句全体として夏の句となる。「空豆」「麦」はともに草類。
 連歌や蕉門の俳諧は実質季語で、句全体の内容から季節を判断する。これに対して近代俳句は「季語」が使われていればほぼ自動的に一定の季節に分類される形式季語で、そのため季重なりがあったときにも、実質的な季節で判断せずに自動的に判断するため混乱が生じる。そのため近代俳句では季重なりに対して厳しくなる傾向にある。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「蚕豆(そらまめ)は夏季、其花は春季のもの、麦は夏季のものなれども、冬の播種より長く畠に在り。されば此句空豆の花とあるに、季の春、夏おぼつかなしと難ずる者あり。されど蚕豆の花、夏猶ほ咲くあれば、麦の縁とあるにかけて、夏季の句なることに論無し。」とある。近代俳句の立場から「季の春、夏おぼつかなし」という人も多かったのだろう。
 芭蕉の時代より一世紀くらい後だが、

 そら豆やただ一色に麦のはら  白雄

という句がある。


   空豆の花さきにけり麦の縁
 昼の水鶏(くひな)のはしる溝川   芭蕉
 (空豆の花さきにけり麦の縁昼の水鶏のはしる溝川)

 クイナは水田などに住むが、夜行性でなかなか人前に姿を表わさない。そのクイナが昼間に姿を表わしたということで、珍しいお客が芭蕉庵に尋ねてきてくれたことの寓意としている。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「発句ニ珍シカル体有ヨリ、昼ノ水鶏ト珍ラシク言テ其姿ヲ附タリ。」とある。

季題は「水鶏」で夏。水辺、鳥類。「溝川」も水辺。

第三
   昼の水鶏のはしる溝川
 上張(うはばり)を通さぬほどの雨降て  岱水(たいすい)
 (上張を通さぬほどの雨降て昼の水鶏のはしる溝川)

 水鶏が昼に出てきたのを、雨で行く人も稀だからだとする。そんな雨の中、上張を羽織って行く人は旅人か。
 『梅林茶談』(櫻井梅室著、天保十二年刊)には「卯月の空あたたなるに、小雨ふりかかりたる野路を過る旅人のさまなるべし。」とある。上に羽織るものを一般に上張りというなら、旅人の着る半合羽も含まれるのか。

無季。「上張」は衣装。「雨」は降物。

四句目
    上張を通さぬほどの雨降て
 そっとのぞけば酒の最中     利牛(りぎう)
 (上張を通さぬほどの雨降てそっとのぞけば酒の最中)

 前句の「上張を通さぬほど」はここでは雨の状態を表す単なる比喩になる。外は雨が降ってるので仕事も休み、家の中で密かに酒を飲んでいる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「静なる日をたのしミ居たらん。そっとの語余情あり。」とある。

無季。

五句目
   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月そっとのぞけば酒の最中)

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。何だ、みんな酒を飲んでいたか。七夕の頃の宴の句。
 土芳の『三冊子(さんぞうし)』(元禄十五年成立)には、「前句のそつとといふ所に見込て、宵からねる体してのしのび酒、覗出だしたる上戸のおかしき情を付けたる句也。」とある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「打よりて遊びうかれてあるくなど、七夕頃の夜ルの賑ひとも広く見なして趣向し給ひけん。」とある。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「寝処(ねどころ)」は居所。「誰」は人倫。

六句目
   寝処に誰もねて居ぬ宵の月
 どたりと塀のころぶあきかぜ   孤屋
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月どたりと塀のころぶあきかぜ)

 前句を若い衆のみんな遊びにいってて誰もいないとし、塀が倒れて起こさなくてはいけないのにという、主人のぼやきとした。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「折あしく事ある体、附合の死活を考ふべし。」とある。
 秋風で塀が倒れたのではなく、古くなってた塀が倒れて秋風が吹き込んできたと見たほうがいいと思う。月が出てみんな浮かれ歩いて留守なのに野分の風は無理がある。
 今日だと漫画アニメなどの温泉回のお約束の場面も浮かぶが、昔の風呂は混浴が普通だったのでそれはない。ただ、酔って暴れまわったり相撲を取ったりして塀が倒れたというのはあるかもしれない。

季題は「秋風」は秋。「塀」は居所。

2017年1月17日火曜日

 寒い日が続くけど、早咲きの梅はもう咲いている。まだ旧正月が来てないから、寒梅ということになる。
 冬の梅というと、

   寒梅
 梅一輪一輪ほどの暖かさ   嵐雪

の句がかつては有名だった。百里編の『東遠農久(とおのく)』の句で、歌仙の発句で、脇は、

   梅一輪一輪ほどの暖かさ
 海鼠腸覗く後明りに     百里

だったという。(『蕉門名家句選(上)』堀切実編注、一九八九、岩波文庫)
 海鼠腸(このわた)はナマコの腸で作った塩辛だとウィキペディアに書いてあった。海鼠(ナマコ)と同様、冬の季題になる。
 嵐雪というと、

   東山晩望
 蒲団着て寝たる姿や東山   嵐雪

の句もかつては有名だった。小学校の頃父に連れられて京都へ行ったときに聞いた句で、特に俳句に興味のあるわけでもない親父が知っていたのだから、昔は誰もが知ってる句だったのだろう。
 今のような四角い掛け蒲団が普及したのは江戸時代の後期で、嵐雪の時代の蒲団というのは綿を入れた夜着のことで「着る」ものだった。冬の季題になる。南北に細長い東山は蒲団着て横たわっている人の姿に見えたのだろう。芳山編『枕屏風』の句。
 今は旧暦では年の暮。

   五十ばかりの古猫の鼠もとらずなりて、
   常にいろりに鼻さしくべて冬籠りたり、
   なまじい南泉の刀をのがれたるを、身の
   幸にして今年も暮ぬ
 いづれもの猫なで声に年の暮  嵐雪

 浪化・万子・支考編『そこの花』の句。
 「南泉の刀」は禅の書『無門関』の「南泉斬猫」から来ている。こういう出典のある言葉をひけらかすのは其角・嵐雪の風で、芭蕉の晩年の軽みに反発し、疎遠になって行ったという。
 自分自身を猫に例えている嵐雪は猫好きのように見えるが、実は嵐雪の妻が猫好きで、嵐雪がそれが面白くなくて猫をどこかに隠したら、妻が、

 猫の妻いかなる君の奪ひ行く

と詠んで、隣の女が事情を告げ、夫婦仲が険悪になったという前歴がある。竹内玄玄一著の『俳家奇人談』に記されている。きっとそのあとで結局猫好きになったのだろう。
 其角のミミズク、嵐雪のネコ、似たもの同士なのか。

2017年1月15日日曜日

 さてついに「雪の松」の巻の最後の三句となった。今回も「ゑびす講」の巻、「むめがかに」の巻同様、鈴呂屋書庫蕉門俳諧集にアップしたのでよろしく。

三十四句目
   約束にかがみて居れバ蚊に食れ
 七つのかねに駕籠呼に来る  杉風
 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つは寅の刻で夜もまだ明けぬ頃、夏なら午前三時過ぎくらいか。「お江戸日本橋七つ発ち」というくらいだから、昔の旅人はこれくらいの時間に宿を出たのだろう。七つの鐘のなる頃に呼びに来たのだが、仕度に時間がかかっているのかなかなか出てこない。待っているうちに蚊に刺されてしまったということで、前句の恋から駕籠かきあるあるに転じる。
 次は花の定座。杉風さんのことだから駕籠に乗って花見にという展開も考慮してか。
 わかりやすい句で問題はない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の「呼ニヤルマデココニ待テト、駕籠ノモノヲ待セオクニ、蚊ニクハレナドシテ困リタルヲ、今ハハヤ七ツト云ニ呼ニ来シ也。」がわかりやすい。

無季。

三十五句目
   七つのかねに駕籠呼に来る
 花の雨あらそふ内に降出して   桃隣
 (花の雨あらそふ内に降出して七つのかねに駕籠呼に来る)

 七つの鐘は朝だとまだ夜も明ける前で花見に行くには早すぎる。ここは春でも申の刻、午後四時頃の鐘に取り成す。となると、花見の帰りの駕籠ということになる。昔は不定時法なので季節によって今の定時法の時刻より早くなったり遅くなったりした。
 花見で酒が入れば酔って喧嘩になることもあったのだろう。あるいは雨が降りそうなので帰る帰らないで言い合っていたか。つかみ合いわめき散らしているうちに雨が降りだして喧嘩は水入り。さあ帰ろうということでもう日が暮れかかったころに駕籠を呼びにやる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろ附なり。○花見の迎駕に附なして後の七ツに転ぜり。」とある。「うしろ附」という言葉は江戸後期になって作られた言葉ではないかと思う。
 本来短句に長句を付ける場合は後ろ付けになり、「て」止めのとき以外は前づけにするほうが特殊だったのだが、蕉門も軽みの頃には「後ろ付け」は附けにくいというので長句を付けるときにも前付けが多くなったのだろう。
 そして、幕末ともなると、もはや上句下句合わせて和歌にするという意識が薄れて、「二句一章」などという言葉が生じてきたのだろう。現代連句は完全に一句独立の連想ゲームになっているが、その根は既に芭蕉の軽みの時代に始まっていたのかもしれない。。

季題は「花」で春。植物。木類。「雨」は降物。

挙句
   花の雨あらそふ内に降出して
 男まじりに蓬そろゆる    岱水
 (花の雨あらそふ内に降出して男まじりに蓬そろゆる)

 よもぎ餅は貞享五年(一六八八)刊の『日本歳時記』(貝原好古著、貝原損軒删補)にも記されているという。もちろんヨモギは普通に食用にもなっていたし、薬用としても用いられた。蓬摘みは当時の女の仕事だったようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「[本朝食鑑]艾餅(よもぎもち)は嫩(わか)き艾苗を采(と)り、茎をさり、煮熟して、蒸糯(むしもちごめ)に合せ搗て餅に作り、三月三日必この餅を用ひて賀祝とす。」とある。「蓬そろゆる」というのはこの茎を取り除く工程を言うのか、花見に来て、雨が降りそうだから帰るかどうか言い争っているうちに雨がふり出し、雨宿りした所で女たちのヨモギの葉をそろえる作業を手伝っていったのだろう。
 無骨な男たちが慣れない細かな作業をしては女たちに怒られたり、それでいて互いにちょっと下心があったり、ほのぼのした和やかな雰囲気でこの一巻は目出度く終了する。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、「蓬そろふるハ女ノ役ナレド、雨モフリ出タレバ、男モ交リテ手伝スルサマ也。」とある。

季題は「蓬」で春。植物。草類。「男」は人倫。

 子珊の『別座敷』の序に芭蕉の言葉として「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり。」とある。この歌仙も古典の風雅だとか出典とかと関係なく、日常誰もが感じているようなあるあるネタを中心に展開されている。季節の句もほんの息抜き程度で、無季の句が半分以上を占める。句の付け方も、短句に対して長句が付くときに、「て」止め以外でも前付けになる傾向が見られる。
 芭蕉はトレンドに逆らうような人ではない。自分は古くなったと感じていても、門人たちが新しい俳諧を作ってくれることを疑っていない。そういう芭蕉の態度がこの歌仙になったのだと思う。まさに「浅き砂川」を水に漬かることなく渡っていくように、三十六句軽やかに駆け抜けていった感がある。
 ただ、俳諧がより誰でも出来る簡単なものになって行くと、必ずそれを面白く思わないものも出てくる。人間にはやはり人より秀でたい、目立ちたいという欲求がある。人の知らない難解な言葉を知り、難解な書物を出展にし、一部のマニアックな人だけにわかればいいという人たちもいる。其角の江戸座俳諧はそうした層を巧みに取り込んでいったのだろう。俳諧一巻を一般から募り、それに加点して本にする、いわゆる点取り俳諧への道を開いたのがこの流れだった。
 難解な句は一度聞いても意味が通らないが、書物なら何回でも読み返して考えることが出来る。最後まで人と人とが面と向き合って談笑する興行俳諧にこだわった芭蕉の俳諧は、出版文化の拡大とともに苦しいものとなっていったのは確かだ。
 興行が廃れ書物俳諧になってゆくと、広く投句を募り、それを本にすれば、投句者層がそのまま読者になってくれる。より投句者を増やすには一巻を募集するよりも、発句なり付け句なり一句だけで投句できたほうがいい。こうして江戸中期には川柳点が流行することになる。俳諧も発句中心になり、連句は廃れて行く。
 明治になり正岡子規が行った俳句革新も、基本的にはこの流れに沿ったものだった。子規の俳諧連句は数えるほどしか作られてない。発句のみを公募し本に載せることで、投句者が同時に読者となり本の購買者となる点取り俳諧の経営手法を継承している。
 こうした書物俳諧も、いまやネットに押されて過去の物になりつつある。ネット上では別に撰者に選ばれなくてもいくらでも呟くことができる。投句料も要らなければ本を買う必要もない。そして五七五という形式も必要ない。投稿はテキストでも画像でも動画でも何でも良いわけだ。
 ただ、形式は廃れても結局その精神は不易ではないかと思う。人はいつの世でも平和で身分の別なく談笑できる場を求めている。それは信じていい。

2017年1月14日土曜日

 今日はほんの短い間だったが白いものがちらちらと舞った。記録には残らない程度の降雪だった。鉛色の雲が覆ったかと思ったら晴れ間があったり、「北国日和定めなき」という北国の空もこんなだろうかと思った。
 それでは、「雪の松」の巻の続き。二裏に入る。

三十一句目
   酒をとまれば祖母の気に入
 すすけぬる御前の箔のはげかかり 子珊
 (すすけぬる御前の箔のはげかかり酒をとまれば祖母の気に入)

 御前は『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「一向宗の持仏也。」とある。ここで言う一向宗は戦国時代の一向一揆の一向宗ではなく、今の浄土真宗のことで、江戸幕府が本末制度に基づいて仏教のさまざまな宗派を系統立てた時に浄土真宗系の様々な宗派をそう呼ぶようになったようだ。
 持仏は個人的に持ち運ぶことの出来る小さな仏像のことで、浄土真宗では金の仏像が推奨されている。
 この句は「祖母の気に入すすけぬる御前の箔のはげかかり、酒をとまれば」と読むのが良いように思える。祖母は一向宗を信仰し金箔の念持仏を持っていたが、家督を継いだ孫が酒に溺れ家計は破綻し、仏像も手入れが行き届かず金箔がはがれてもそのままになっていた。酒をやめれば。そういう句ではないかと思う。
 複雑な倒置は連歌ではしばしば見られるが、江戸時代の言語感覚では次第に理解が困難になっていったのではないかと思う。
 古註では考えすぎの多い『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「酒止たら金が溜うとばばの喜ベバ、イヤ私が禁酒も廿年遅かった、此仏段と同じ事で」というのが近かったしヒントになった。これは仏壇の煤抜きに来た男が禁酒をして祖母に気に入られ、という解釈だが、煤抜きなんてことはどこにも書いてないから曲斎さんの例の類稀な想像力によるものだろう。

無季。「御前」は釈教。「仏の食」から三句隔てている。

三十二句目
   すすけぬる御前の箔のはげかかり
 次の小部屋でつにむせる声  利牛
 (すすけぬる御前の箔のはげかかり次の小部屋でつにむせる声)

 「つにむせる」は『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)に「唾(ツ)に嚏(ムセル)ナリ。」とある。唾にむせること。
 ここでいう御前は屋敷に設置された大型のものを言うのであろう。寺の本尊ではなく自宅で祀られるものは御前になる。
 その横の部屋では控えのものが談笑し、笑うついでにむせて咳き込んでしまったのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「武家のもやうに転ず。傍輩どものおかしさをこらえ居る体、世情を尽せり。」とある。「傍輩」は同僚ということ。

無季。「小部屋」は居所。

三十三句目
   次の小部屋でつにむせる声
 約束にかがみて居れバ蚊に食れ  曾良
 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ次の小部屋でつにむせる声)

 この巻は恋の句が少なかったので、本来二の裏はあっさりと終わらせるところをあえてここで恋を出したのだろう。
 約束をして部屋で身をかがめて待っていると蚊に食われてしまい、隣ではようやく男が来たのか唾にむせる声がする。
 普通に男女が会えばドラマチックなのだが、一方は蚊に食われ、一方は唾にむせてと散文的なところが俳諧というべきか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「夜分と見来る自然いふも更なり。」とある。これだけではよくわからないが、次の句の所には「前句ハ恋なるを」とあり、夜分と見て、自ずと男女の合う場面を出したのは言うまでもない、というところか。

季題は「蚊」で夏。虫類。「約束」は恋。

2017年1月13日金曜日

 「雪の松」の巻の二十八句目

   又けさも仏の食で埒を明
 損ばかりして賢こがほ也   杉風

のところで「相場師も賢く立ち回っているつもりでもちょっとした読み違いで地獄を見ることもある。」と書いていたら、ちょうどあの有名な投資家のジョージ・ソロス氏がトランプ氏の大統領当選後の株価を読み誤って、結果10億ドルもの損失を出したというニュースが飛び込んできた。
 もっとも270億ドルの資産を運用するソロスさんのことだから10億ドルくらいたいしたことはないだろうけど。1080万円の資産を運用していて40万損しただけと思えば、それくらいのことはよくあることで、痛くも痒くもないと言ってもいいのではないか。
 今日もほぼ満月。「冬の月」の句は二十九句目。

二十五句目
   わざわざわせて薬代の礼
 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃
 (雪舟でなくバと自慢こきちらしわざわざわせて薬代の礼)

 お歳暮を持っっていったところ、自分の持っている書画骨董をひとしきり自慢され、延々と薀蓄を聞かされるのは迷惑な話だ。「自慢こきちらし」と「わせて」の主語は異なる。このころの俳諧には主語が異なっていても明示しないことは良くある。
 「こく」というのは「嘘こく」だとか「調子こく」だとか非難の意味が込められている。今でもこういう時は「ったく自慢こきやがって」というところだろう。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「前句態々わせて薬代に下されし物に、疑ハないト云詞ト見立」広言を付けたり。」とあるが、真蹟の雪舟だったら薬代にしては高価すぎるのではないかと思う。

無季。

二十六句目
   雪舟でなくバと自慢こきちらし
 となりへ行て火をとりて来る 子珊
 (雪舟でなくバと自慢こきちらしとなりへ行て火をとりて来る)

 前句が骨董好きの裕福な家のイメージだったのに対し、ここでは貧相な骨董商に転じる。キセルの火が消えたからといって隣に借りに行くというのは、少なくとも立派な屋敷ではなく町中の風景だ。
 今でもたまに見るような、狭い店に所狭しと怪しげな物が並べられ、売れてる様子もなく埃をかぶって、骨董屋なのかゴミ屋なのかわからないような店を想像するといいのだろう。いかにも偏屈そうな親父がキセルをふかして、これなんか雪舟以外の何物でもないだろうとでかい口を叩いているけど、客のほうもどうせ嘘に決まっているとばかりに二束三文に値切っている、そんな世界だろう。
 子珊はこれで四句目。花の定座も勤めたし、今日はなかなか冴えている。翌元禄七年の五月には、最後の旅に出る芭蕉のための餞別句会が子珊亭で催され、

 紫陽草(あぢさゐ)や藪を小庭の別座敷  芭蕉

の句に対し、

   紫陽草や藪を小庭の別座敷
 よき雨間(あまあひ)に作る茶俵  子珊

の脇を付けている。このときのことを元に子珊は『別座敷』を編纂する。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前底無用なるより、二句一章に作りて奪へり。隣ハ古道具の見世つづきとミるべし。」とある。

無季。

二十七句目
   となりへ行て火をとりて来る
 又けさも仏の食で埒を明     利牛
 (又けさも仏の食で埒を明となりへ行て火をとりて来る)

 前句の貧乏くさい様子から、托鉢して生活する修行僧のこととする。朝に托鉢してご飯を恵んでもらい、一日一食で過ごし、それ以外に炊事をしてはいけないのが本来なのだが、空腹に耐え切れなかったのか隣に火を貰いに行く。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「裏借家のひとり坊主などミゆ。体用の変なり。」とある。

無季。「仏の食」は釈教。「精進日」から四句隔てている。

二十八句目
   又けさも仏の食で埒を明
 損ばかりして賢こがほ也   杉風
 (又けさも仏の食で埒を明損ばかりして賢こがほ也)

 前句を修行僧ではなく、乞食に身を落とした相場師とする。
 江戸時代だから株や債権はないが、金・銀・銭は独立して変動相場で動いているから、そこでFXのように利ざやを得ることはできただろう。幕末には海外の金銀の交換レートが違うことから外国人に金を銀に交換してもらって儲けた人がいたともいう。
 また、江戸時代には先物取引が行われていたので、コモディティへの投資でも儲けることはできた。
 ただ、策士策に溺れるというか、賢く立ち回っているつもりでもちょっとした読み違いで地獄を見ることもある。
 次は月の定座だが、月呼び出しというには程遠いが、「賢こ顔」が何となく月を連想させるか。あれは「かこち顔」だったか。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「相場師のしもつれともいハん。」とある。「しもつれ(仕縺れ)」は辞書だと「めちゃくちゃになる、どうにもならなくなる」とあり近松門左衛門の天神記の「これほど身代しもつれて、田地に離れ」を用例として挙げている。「すってんてんになる」というのが一番しっくり来る感じがするが。

無季。

二十九句目
   損ばかりして賢こがほ也
 大坂の人にすれたる冬の月    利合
 (大坂の人にすれたる冬の月損ばかりして賢こがほ也)

 前句を大阪商人のこととする。天下の台所と言われた大阪は全国から様々な物資が入ってきて豊かに見えるが、その分競争も激しくなかなか商売の道は厳しい。
 冬の澄み切った空の寒々とした月もそんな大阪商人からすれば「すれた」冷たさに見えるのだろうか。凍りつくような空気の中で月もまた一人「賢こがほ」している。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「物ニスルドキ人ヲ冬ノ月ニ寄テ、前句ヲツナギタルナリ。」とある。

季題は「冬の月」で冬。夜分。天象。「大坂」は名所。「人」は人倫。

三十句目
   大坂の人にすれたる冬の月
 酒をとまれば祖母の気に入  野坡
 (大坂の人にすれたる冬の月酒をとまれば祖母の気に入)

 前句の「大坂の人」を女のことに取り成したか。それに対して男はすっかり都会ですれてしまった冬の月のような冷たい顔をしている。クールでニヒルなのはいいが、相手の親の受けはすこぶる悪い。そこで酒をやめて一心に働けばその女の祖母にも気に入ってもらえるだろうかというところだ。だがあくまで「とまれば」という仮定の話。なかなか酒はやめられないもの。
 『古集』系は「欠落ものの聟に入たるなどいふ思惑に附けなせり」とする。

無季。「祖母」は人倫。

2017年1月12日木曜日

 今日は東に満月。西の空にはVenus and Mars are alright tonightってウィングスの中学の頃に聞いた曲を思い出す。
 「雪の松」の巻にも「大坂の人にすれたる冬の月」の句があるが、今日はまだそこまで行かない。
 とりあえず二表に入る。

十九句目
   川からすぐに小鮎いらする
 朝曇はれて気味よき雉子の声   杉風
 (朝曇はれて気味よき雉子の声川からすぐに小鮎いらする)

 前句を朝の景色として雉の声を添える。小鮎は簗漁で朝回収してきたのだろうか。この一巻全体に景物の句が少ないので、もっぱら杉風は景物担当なのか。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とある。

季題は「雉子」で春。鳥類。

二十句目
   朝曇はれて気味よき雉子の声
 背戸へ廻れば山へ行みち   岱水
 (朝曇はれて気味よき雉子の声背戸へ廻れば山へ行みち)

 「背戸」は裏口。これもほとんど説明の必要はない。水辺から山類への転換というべきか。そろそろ大きな展開が欲しい。

無季。「背戸」は居所。「山」は山類。

二十一句目
   背戸へ廻れば山へ行みち
 物思ひただ鬱々と親がかり    孤屋
 (物思ひただ鬱々と親がかり背戸へ廻れば山へ行みち)

 待ってましたというかやっと出てきたというか、ようやく恋になる。
 前句の裏口から山への道を恋の通い路とし、そこから出て会いに行きたいのだけど、踏ん切りがつかずにただ悶々としている。それはまだ「親がかり」つまり親に養ってもらってる身で、自信がないのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「ままならぬ恋路に心すすまぬ風情ならん。何となく立出たる体に附なせり。」とある。

無季。「物思ひ」は恋。

二十二句目
   物思ひただ鬱々と親がかり
 取集めてハおほき精進日   曾良
 (物思ひただ鬱々と親がかり取集めてハおほき精進日)

 「精進日(しょうじび)」は忌日などで肉や魚を絶って精進すべき日。前句の恋の物思いと合わせると、夫との死別かと想像が働く。死別して実家に戻って親がかりなら辻褄は合う。
 精進日が多いのは鬱による拒食症によるものか。昔は鬱状態になり物事すべたが空しく思えるようになると「発心」とみなされ、人との接触を拒んで引き籠ると世俗の交わりを断ったと言われ、拒食症になると穀断ちとみなされた。その行き着くところは自殺だが、それを即身仏や補陀落渡海という形で神聖な儀式として行われることもあった。食物が喉を通らないだけでも、世間からは精進とみなされた。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「食事のすすまぬ趣ならん。夫妻などにおくれたる底の余意あるか。」とある。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句後家に成て親元へかかり、兄弟の気がねに物思ふ体ト見立」其場の咄を付たり。」と、死別の悲しみではなく兄弟への気遣いのためとし、精進日を親族に押し付けられたものと解釈する。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、「取集め 前句ヲ夫ニ死レテ親里ニカヘリ、夫ノ家ノ忌日トヲ併テハ、忌日多クナリタルヨシナリ。」とあるが、「取集めてハ」は「とにかくいろいろ」という程度の意味で、親族のいろいろの事情によりそれぞれの精進日が多くてというのは考えすぎだろう。
 喪失の悲しみを「精進日が多い」という形で笑いに転化して表すのが俳諧で、喪失の悲しみよりも親族の圧力がというのは、実際にありそうなことだけど下世話な感じがする。

無季。「精進日」は釈教。

ニ十三句目
   取集めてハおほき精進日
 餅米を搗て俵へはかりこみ    桃隣
 (餅米を搗て俵へはかりこみ取集めてハおほき精進日)

 前句の「取集めて」が何を取り集めているかはっきりしなかったのを、「餅米を搗て俵へはかりこみ取り集めてハおほき」とする。
 餅米を搗くというのは精米することをいう。昔は米を杵で搗いて精米した。餅搗きではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「斎非時のもふけなるべし。」となる。斎非時(ときひじ)は禅家で僧と共にする食事のことで『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「年回の」という補則が付く。年回は年忌に同じ。

無季。

二十四句目
   餅米を搗て俵へはかりこみ
 わざわざわせて薬代の礼   依々
 (餅米を搗て俵へはかりこみわざわざわせて薬代の礼)

 前句の精米した餅米を薬代(やくだい)の礼に取り成す。
 「わせて」は「御座(おわ)して」と同じ。韓国語ではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暮年の光景と見て趣向したらん。」とある。いわゆるお歳暮か。ただ、季語は入っていない。

無季。

2017年1月11日水曜日

 ようやく冬らしく寒くなってきた。今年は水仙が咲くのが早いから早く暖かくなるのかな。月はもうすぐ満月、ということは旧暦で師走の十日過ぎということか。
 では「雪の松」の巻の続き。

十五句目
   めつたに風のはやる盆過
 宵々の月をかこちて旅大工    依々
 (宵々の月をかこちて旅大工めつたに風のはやる盆過)

 お盆というと今でも帰省ラッシュだが、江戸時代でも薮入りとお盆は奉公人が故郷に帰る日だった。ところが江戸時代にもブラックな職場はあって、なかなか帰省が許されなかったりする。旅の大工もそうだったのだろう。盆の過ぎる頃にはやけに風邪だといって休む大工が多い。何で風邪を引いたのかと聞いたら、ついつい月が綺麗で夜更かしして、と。そんなところだろうか。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「盆過ノ淋敷ナル折ト言、流行病ノ節ニ、故郷ノ忍バシキ趣ヲ附タリ。」とある。

季題は「月」で秋。夜分。天象。「旅大工」は人倫。

十六句目
   宵々の月をかこちて旅大工
 背中へのぼる児をかハゆがる 桃隣
 (宵々の月をかこちて旅大工背中へのぼる児をかハゆがる)

 昔は街頭も町の灯りもなくて、夜は暗い闇に閉ざされていた。それだけに月の出る日は貴重で、宴会をやったり遊び歩いたり祭りだったりと月の明るさを利用した。大人だけでなく子供も浮かれて月の出る日には大はしゃぎだったのだろう。
 旅の大工も地元の人たちと一緒になって月夜を過ごせば、その土地の子供になつかれたりもする。となると大工さんの方も国に残してきた自分の子供を思い出してはついつい可愛がる。
 「かハゆ」は可哀相という意味と可愛いという両義があり、芭蕉の時代にも、

 盲より唖のかハゆき月見哉かな   去来

の用例がある。可哀相というのが守ってあげたいという意味に転化して、小さい弱いものへの愛情を表す言葉になったのだろう。いまや「かわいい」は世界の言葉になりつつある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「郷にも稚子のあるなるべし」とのみあるが、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句宵々の月を侘て、故郷シノブ旅大工ト見立恩愛の情を述べた。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「背中へのぼりて狂ひ遊ぶを愛すると也。」、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「吾児と同じ年頃なる他人の児の無邪気に戯るるを愛する也。」とある。
 幕末・明治の註釈だと、「かハゆ」はみな可愛いの意味に解しているが、ひょっとしたら元禄の頃には「背中に登ってくる子供が可哀相」と読んで、親のない子供か何かを想像して涙したのかもしれない。次は花の定座。

無季。「児」は人倫。人倫が二句続く。

十七句目
   背中へのぼる児をかハゆがる
 茶むしろのきハづく上に花ちりて 子珊
 (茶むしろのきハづく上に花ちりて背中へのぼる児をかハゆがる)

 「きハづく」は汚れが目立つという意味。
 今の煎茶は元文三年(1738)に永谷宗円が摘んだ葉を蒸して揉みながら乾燥させる方法を発明し、急須にお湯を入れて飲むようになったという。それ以前のお茶についてはっきりしたことはわかないが、抹茶が主流だったという。
 抹茶の場合収穫前に茶園を筵で覆い、光を当てないようにするから、ここでいう茶むしろもその覆いのことだと思われる。時期的にも茶の収穫の一ヶ月くらい前なら、桜の季節と重なる。
 桜の季節になると茶畑は完全に筵で覆われて、その上に花びらが散ってたりしたのだろう。外の土埃や枯葉や鳥の糞なんかで汚れた筵も花びらが積もればそれなりに美しくなる。茶農家の人も子供を背中に乗せながら、「おう、よしよし、今年も立派な抹茶が出来るずら」なんていう、そんな情景が浮かんでくる。
 古註はみな芭蕉の時代に煎茶がなかったということを知らずに書いている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「茶を揉む女子どもに転ず。」と言うが、当時茶は揉まなかったし、茶揉みは収穫の後なので季節も合わない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)も「茶ムシロハ、其筵ノ上ニテ製スル也。」とあるがこれも同じ誤解。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は多分季節が合わないことで、これらの幕末の註のおかしさに気づいていたのだろう。「きはつくは際やかに目立つなり。茶むしろ猶新しきなるべし。前句をまことの母と児とにして、田家の庭前の春の景色を如実に描きたり。」とある。まだ茶揉みの作業に入る前だから、清潔で新しい筵のことと考え、「きハづく」の意味を強引に変えてしまっている。

季題は「花」で春。植物。木類。

十八句目
   茶むしろのきハづく上に花ちりて
 川からすぐに小鮎いらする  石菊

 「いらする」は「炒る」に使役の「らす」の付いたものだろう。鮎というと今日では櫛に刺して塩焼きにするが、昔は鍋に油を敷かずに、そのまま焦げ付かないように鍋を降りながら火を通したのだろう。芭蕉の好物に「炒り牡蠣」というのがあったが、殻のついた牡蠣をガラガラと炒るから、その音が外にまで聞こえたという。
 田舎の茶畑なら鮎の取れる川もすぐ近くにある。取れたてをすぐに食うならどんな料理法でも美味いに違いない。
 花に鮎の子と季節の物を付けた句で、親子の人情でほろっとさせたあと、花でさらに盛り上がった後だから、このような軽い遣り句でも十分すぎるだろう。
 古註は「いらする」の解釈でかなりもめている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は「煮る」の意味だとし、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「い」と「わ」の書き間違いで「割らする」だとする。『標註七部集』(惺庵西馬・潜窓幹雄編、元治元年春序)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「入らする」だという。

季題は「小鮎」で春。水辺。「川」も水辺。

2017年1月10日火曜日

 今日ネットで注文した『芭蕉連句古注集 猿蓑篇』(雲英末雄、1987、汲古書院)が届いた。これで前に読んだ「市中は」の巻や「灰汁桶の」の巻藻読み返すことができる。
 それはこのあととして、まずは「雪の松」の巻の続き。

十一句目
   馬の荷物のさはる干もの
 竹の皮雪踏に替へる夏の来て   石菊
 (竹の皮雪踏に替へる夏の来て馬の荷物のさはる干もの)

 竹の皮は軽いから、運ぶ時にはかなりうず高く積んで、道にはみ出した洗濯物に接触したりしていたのだろう。竹の皮が盛んに運ばれてくるのは夏が来て雪駄(雪踏)の季節になったからだ。雪駄は竹で編んだ草履の底に皮を張ったもので、水に強く夏に用いられる。
 これもそう難しくないあるあるネタだったようで、古註の解釈にそんなに差がない。『古集』系には「かさ高なるもやうあるより、竹の皮荷と見ていへり。句作の優美をおもハざらんや。」とある。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「凡愚ふつつかの句なり。二三畳より以下三句、興趣さらに無し。」とある。こういう単純なあるあるネタがお気に召さないのは、古典の教養のあるところを見せたい文人にはありがちなこと。

季題は「夏の来て」で夏。「雪駄」は衣装。特に夏の季語にはなっていない。

十二句目
   竹の皮雪踏に替へる夏の来て
 稲に子のさす雨のばらばら  杉風
 (竹の皮雪踏に替へる夏の来て稲に子のさす雨のばらばら)

 「さす」は育つという意味。夏といっても旧暦四月の初夏のことで、田植えのすんだ稲の苗をはぐくむ雨がばらばら降ってくるというもの。
 あるあるネタが続いたことで、ここらでちょっと一休みというか目先を変えたい空気を見事に読んでいる。このあたりが杉風のキャリアの長さというか、ベテランの味でもある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)も「うつりえもいハれず」と言っている。

無季。「稲の子」を夏としてもよそそうなものだが、季語としては定まってない。植物。草類。「粟」から五句隔てている。「雨」は降物。

十三句目
   稲に子のさす雨のばらばら
 手前者の一人もみえぬ浦の秋   野坡
 (手前者の一人もみえぬ浦の秋稲に子のさす雨のばらばら)

 手前者(てまえしゃ)は辞書を引くと、『類船集』の「─と言ふは富める人なり」を例として「家計の豊かな人、資産家」としている。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)も「手前者 富人也。」としている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「手前者ハ分限者也。」としている。「分限者(ぶげんしゃ)」も金持ち、財産家と言う意味。にわか成金ではなく、代々の資産を受け継いで資産を管理している者のことをいう。
 「浦」というから漁村なのだろうけど、漁業だけでは食って行けず、細々と稲も育て半農半漁の生活を送っている、そんな風情だろうか。
 季節を秋に転じる。

季題は「秋」で秋。「浦」は水辺。「熊谷の堤」から五句隔てている。

十四句目
   手前者の一人もみえぬ浦の秋
 めつたに風のはやる盆過   利合
 (手前者の一人もみえぬ浦の秋めつたに風のはやる盆過)

 「めった」は今の標準語では否定の言葉を取るが、昔は必ずしもそうではなかったようだ。むしろ今で言う「めっちゃ」に近いか。「めたくた」だとか「めったくた」という言葉もあるし、「滅茶苦茶」も本来は「滅多くた」だったのだろう。
 「風」は「風邪」のことで、貧しい漁村だから栄養状態が良くなくて、盆も過ぎるとちょっとしたことで風邪がめっちゃ流行る、ということなのだろう。
 『古集』系には「侘しき浦里に自然の場あり。」とある。「自然」はこの場合、今でいうような自然がたくさんあるということではなく、人力で左右できない不慮のこと、万一のこと、という意味。
 秋が二句続いたのでそろそろ月が欲しい頃だ。

季題は「盆過」で秋。

2017年1月9日月曜日

 「雪の松」の巻の続き。

七句目

   粟をかられてひろき畠地
 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水
 (熊谷の堤きれたる秋の水粟をかられてひろき畠地)

 「粟をかられて」を収穫ではなく、堤防が切れて大水が押し寄せ粟の畑を流していってしまった、という意味に取り成す。
 元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、そのときの記憶がまだ鮮明だったのだろう。荒川は文字通りの荒ぶる川で、有史以来度々大きな水害を引き起こしてきた。
 荒川は昔は熊谷付近から元荒川の方へ流れ、越谷の方へ流れ、吉川で太日川に合流していたが、幕府は寛永六年(一六二九)に荒川の付け替えを行い、入間川から隅田川の方へ流すようにしたが、その後も度々水害は起こった。
 同じ『炭俵』の「空豆の花」の巻の十二句目にも、

   風細う夜明がらすの啼わたり
 家のながれたあとを見に行    利牛

の句がある。(前句は岱水の句。)
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「淼漫(ビャウマン)たる景象ミゆ。」とあるが、そんな悠長な句ではないだろう。むしろ災害の記憶を残すための句といっていいのではないかと思う。

季題は「秋の水」で秋。水辺。「堤」も水辺。芭蕉の第三から三句隔てている。

八句目

   熊谷の堤きれたる秋の水
 箱こしらえて鰹節売る    野坡
 (熊谷の堤きれたる秋の水箱こしらえて鰹節売る)

 被災した人たちに昔は災害援助なんてなかったから、被災した後の生活は自分で何とかしなくてはならない。とりあえず背負い箱をこしらえて鰹節売りで生計を立てる。
 江戸時代初期の鰹節は紀州の名産で「熊野節」と呼ばれ、上方を中心に広がっていったという。元禄の頃になると紀州甚太郎がカビ付けを行うようになり、これによって江戸までの輸送に耐えられる鰹節(改良土佐節)が出来た、と「にんべん」のHPにあった。そういう意味では「鰹節売り」というのはこの時代のベンチャービジネスだったのかもしれない。
 「空豆の花」の巻の十三句目も、

    家のながれたあとを見に行
  鯲汁わかい者ものよりよくなりて   芭蕉

と、洪水の後の地面に落ちていたドジョウを拾ってきて食う様が描かれている。災害の後の昔の人の苦労と知恵が偲ばれる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「水難からの俄商人を趣向せり。前句を虚体に転ず。」とある。『古集』系はほぼ同じ。「虚体」というのは、前句を過去のことにして今は、という意味か。

無季。

九句目

   箱こしらえて鰹節売る
 二三畳寝所もらふ門の脇     子珊
 (二三畳寝所もらふ門の脇箱こしらえて鰹節売る)

 前句が背負い箱に鰹節を入れて持ち運び、天秤下げて振り売りをする行商人の姿だったのに対し、ここでは二三畳のささやかながらも店舗を構える鰹節売りになる。とはいえ、やや展開に乏しい。
 まあ、出勝ちのときはあまり悩まずに、とにかく句が付いたらさくさく進めるものなのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前底ハふり売とも見るべきに、こなたハ箱もふたつ三ツならべて、草履や鼻紙も提置る風情ならん。百にたらずのかかり人などいハんか。」とある。『古集』系はほぼ同じ。

無季。「寝所」は居所。

十句目

   二三畳寝所もらふ門の脇
 馬の荷物のさはる干もの   沾圃
 (二三畳寝所もらふ門の脇馬の荷物のさはる干もの)

 この「干もの」は「ひもの」ではなく洗濯物の「ほしもの」の方。
 二三畳の寝所はここでは店ではなく単なる生活の場で、狭いながらも洗濯物を干すところに生活感がにじみ出る。門の脇だから、荷物を背負った馬が出入りするたびに洗濯物に引っかかって落ちたり汚れたりする。あるあるネタか。
 『古集』系には「出入りする馬に洗濯ものなるべし」とある。それほど難しい句ではない。

無季。「馬」は獣類。

2017年1月8日日曜日

 今年もまずは古註を頼りに俳諧を読むことで、俳諧の展開や癖に慣れるようにしようと思う。
 そういうわけで、今は竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)に頼り、

 雪の松おれ口みれば尚寒し    杉風

を発句とする「雪の松」の巻を読んでみようと思う。
 今日は寒くて午後からは雨で一日籠っていたからかなり進んだ。ただ、あまり長くなるので、今日の所は面六句までにしておこう。

まずは発句から。

 雪の松おれ口みれば尚寒し    杉風

 元禄六年(一六九四)十一月上旬、江戸での興行で、芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。
 岱水が脇を詠んでいる所から、場所は岱水亭である可能性がある。芭蕉庵の近くに住んでいたと言われているが、どういう人なのか詳細はわかっていない。
 発句を詠んでいる杉風は日本橋小田原町で魚問屋を営み、その屋号から鯉屋杉風と呼ばれている。江戸に出てきたばかりの芭蕉も小田原町に住み、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやっていたという。
 日本橋小田原町は現在の日本橋室町で、日本橋三越のある辺りになる。日本橋魚市場発祥の地の碑もあり、このあたりは魚市場として賑わっていた。
 杉風は芭蕉が江戸に出てきた時からの古い門人であり、同時にスポンサー的な存在でもあった。小田原町の下宿も杉風が世話したとも言われているし、深川芭蕉庵も杉風の別邸の近くにあり、杉風が使用していた生け簀があの句に詠まれた「古池」だったともいう。
 其角や嵐雪が次第に芭蕉と離れてゆく中、杉風は芭蕉の「軽み」の風を受け入れ、『炭俵』の主要なメンバーのひとりとなる。ここではスペシャルゲストとして招かれ、発句を詠むことになる。野坡、孤屋、岱水、利牛など『炭俵』でおなじみのメンバーだけでなく、『奥の細道』に同行した曾良や、伊賀出身で芭蕉の甥とも伝えられている桃隣なども参加している。
 杉風の発句は当日雪が降っていてそのまんまの景色を詠んだか、雪の日にありがちな景色を思い浮かべたものか。雪も寒いが雪の重みで折れた松の切り口はわが身が切り裂かれたようでぞっとする。「まあ、とにかく今日は寒いっすねー」という季候の挨拶でもある。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「詩歌をからず名聞を飾らず、此句に此人の生質もゆかしき心地ぞせらるれ。但、寒の字にすさまじきその光景ミゆ。」とあり、『古集』系の『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じ。
 これといった出展もなく、あるあるネタで詠む所は芭蕉の「軽み」の基本的な詠み方。「名聞を飾らず」は其角と比べてということか。杉風は魚問屋で金持ちだから、別にたくさん弟子を取って稼がなくては、という事情がないというのもあったと思うが。
 その意味では、芭蕉の「軽み」は遊俳にはいいが、師匠としての価値を常に高くアピールしなくてはならない業俳にとってはきつかったかも。

季題は「雪」で冬。降物。「寒し」も冬。蕉門では季重なりは何ら問題ではない。「松」は植物で木類。



   雪の松おれ口みれば尚寒し
 日の出るまへの赤き冬空   孤屋
 (雪の松おれ口みれば尚寒し日の出るまへの赤き冬空)

 なお寒いといえばやはり明け方の寒さは身にしみる。別に日の出の頃に興行を始めたというのではなく、「寒いね」という挨拶には「寒いね」と答える暖かさが大事ということだろう。
 「赤き冬空」というからには、雪が上がって晴れた朝なのだろう。挨拶なので寒さの中にもこれから暖かくなるといいねという気持ちが込められている。
 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)に「雪はれの朝やけを見て、アア冬の朝晴ハしけの印、けふも亦大雪かと寒恐のこはがる様也。」というのは、一巻の途中の句ならともかく、脇句の挨拶の役割から逸脱している。考えすぎではないか。

季題は「冬空」で冬。「日」は天象。空に既に赤みが差しているので「夜分」は免れると思われる。まだ昇ってはいないとはいえ、ここで天象が出たことで月の定座が苦しくなるが、さてどうなるか。

第三
   日の出るまへの赤き冬空
 下(ゲ)肴を一舟浜に打明て      芭蕉
 (下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)

 下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。
 今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。

無季。「下肴」「舟」「浜」など皆水辺。

四句目
   下肴を一舟浜に打明て
 あいだとぎるる大名の供   子珊
 (下肴を一舟浜に打明てあいだとぎるる大名の供)

 一舟分の大量の魚が干してあれば、通る人は何かと気になるもの。安く分けてもらえないかとばかりに立ち寄ってゆく。もちろん下賤な魚など大名の興味を引くものではないが、そのお供の下っ端の武士にしてみればついつい皆立ち止まって、列が途切れてしまう。
 芭蕉を除いても十二人の連衆がいるし、順番にというわけでもなく、ここは出勝ちで付けてゆくところだ。それこそ笑点の大切りのような乗りで、すぐに出来て一番面白かった句がこれだったのだろう。順番で付けてゆく両吟・三吟・四吟などとは違った展開が楽しめそうだ。

無季。「大名の供」は人倫。

五句目
   あいだとぎるる大名の供
 身にあたる風もふハふハ薄月夜  桃隣
 (身にあたる風もふハふハ薄月夜あいだとぎるる大名の供)

 さてここは月の定座だが、大名行列が夜ということはないので、遅れて暗くなって宿に着いたことにする。
 「遅くなった」というのをそのまんま言うのではなく、「身にあたる風もふハふハ」と急いで駆け込む様子を言うことで匂わす、いわゆる匂い付けになる。遅れてたお供の連中が、宿を見て慌てて駆け込む様が目に浮かぶ。
 『古集系』には「羽織のすがたを形容せり。いそぐさまなるべし。」とある。走っているので羽織が風にひらひらする。

季題は「薄月夜」で秋。天象。夜分。雲でかすんだ月も、春は「朧月」で秋「薄月」になる。「身」は人倫。

六句目
   身にあたる風もふハふハ薄月夜
 粟をかられてひろき畠地   利牛
(身にあたる風もふハふハ薄月夜粟をかられてひろき畠地)

 「身に当たる風」を風を切って走る姿ではなく、吹いてきた風が遮るものなく身に吹き付けてくることと取り成す。粟を刈り取った跡の広い畠では風を遮るものがない。わかりやすい句だ。
 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「カラリトシタル所ヲ可見。」とある。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「病上りの身にあたる風をいたむ体」というのは考えすぎ。曲斎さんの註釈はこういうのが多い。何か人が思いつかないことを言ってやろうという所があるのだろう。

季題は「粟を刈る」で秋。植物。草類。

2017年1月6日金曜日

 『戦国を往く連歌師宗長』(鶴崎裕雄、2000、角川叢書)をぱらぱらとめくっていたら、丸子宿の説明板にあった「丸子という里、家五、六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」という宗長の言葉の出展が『宇津山記』だというのがわかった。
 このあと、

 「市あり。北にやや入りて泉谷といふ。安元先祖(斎藤加賀守安元)よりの宿所。奥深き禅室観勝院。滝あり。門前に流れ、たためる巌なめらかにして、松杉さい入りより、心澄むべっく見ゆ。左の岨に観音の霊像、行基菩薩の御作とか言ひ伝へぬ。此の上にも滝の音して堂の前にみなぎり落つ。大きなる嶽横たはりて、谷のふところ広く、鳥の声かすかに、猿梢に叫ぶ。暁閑居の寝覚め耐えがたし。予、早う二十歳ばかりの程よりここに心を占めしにや。」

と続く。
 ここに柴屋軒を結んだのは永正三年(1506)、宗長59歳の時のことだという。今は吐月峰柴屋寺になっている。
 禅室観勝院は歓昌院のことで、吐月峰柴屋寺よりも川上にある。千手観音を御本尊としている。
 観音堂は柴屋寺の先左にあるらしい。ただ、行基菩薩の作ではなく運慶の作らしい。どっちにしてもビッグネームには違いないが。
 『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の「宗長手記」大永六年(1528)の二月九日の所に、

 「宇津の山泉谷、年比しめをき行かよふ柴屋、石をたて、水をまかせ、梅をうへなど、普請のつゐで、かたはらに又杉あり、松あり、竹の中に石をたたみ、垣にして、松の木三尺ばかり、一方けづりて、

 柴屋のこけのしき道つくるなり
    けふをわが世の吉日にして」

とある。
 ただ、旅をすることが多い宗長さんのことだから、しばらく留守にして戻ってみると荒れ果てて修繕したり、大変だったようだ。大永七年のところにこうある。

 「柴屋一とせ七月十四日朝の野分に、客殿吹こぼたれつとききし。其比越前にありて、帰下ても久あらしはてつるを、おとどしの冬、又もとの三分一ばかりの茅屋を取たてて、ことしの七月九日に帰住て、めぐりの垣、こもすだれとりのけて、庭のながれ、浅茅の中に、埋石なども門外の川よけに、過半取いだし、のこる石ここかしこにちらし捨をきしを、又とりならべて水をすまし、心をなぐさめ侍る。」

 さらには、

 「宇津山柴屋庭、もとの水石所々ほりおこしなどして、過半畑になして、まびきなの種まかするとて、

 まびき菜はさざれ石まの山畑の
    かたしや老の後まきの種」

とある。

2017年1月5日木曜日

 三が日もあっという間に過ぎ去り、今日から仕事。いつもの日常に戻る。
 一日は家でゆっくり休み、二日にはいつもの年同様、武州柿生琴平神社へ初詣に行った。
 三日は「街道を行く、東海道編」の続きで静岡から島田まで歩いた。
 安倍川の川会所跡には由井正雪墓址碑があって、延宝6年(1678)の芭蕉と杉風との両吟、

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや  杉風

を思い出した。
 伏字で何のことかわからないが、本来は、

   よしなき謀反笑止千万
 夢なれや由比正雪夢なれや  杉風

だったという。これに芭蕉は、

   夢なれや由比正雪夢なれや
 さてさて荒(あれ)し軒の宿札 芭蕉

と付けている。
 由井正雪は慶安4年(1651)に当時の減封・改易によって生じた牢人たちを集めて江戸城を焼き討ちし、自らは京都で決起して天皇を拉致して担ぎ上げて政権を奪取する予定だったが、計画は事前に発覚し、正雪は駿府宿(静岡)で捕り方に囲まれ自決したという。芭蕉の句はその時の情景を想像してのものか。
 丸子宿というと、慶長元年創業で元禄4年に芭蕉が詠んだ、

   餞乙州東武行
 梅若菜丸子の宿のとろろ汁   芭蕉

の句が思い出される。
 この句は丸子宿で詠んだものではなく、前書きにあるように、近江の国の大津で乙州(おとくに)が江戸に向かう際に餞(はなむけ)の句として詠んだものだ。これから東海道を登るなら、丸子の宿のとろろ汁がおすすめだよ、というような意味か。これに対し乙州は、

   梅若菜丸子の宿のとろろ汁
 笠新しき春の曙       乙州

と答える。
 丸子というと忘れてはならない、と言いながら実は忘れていたのだが、水無瀬三吟、湯山三吟に参加した柴屋軒宗長の柴屋軒があった所だ。現在は吐月峰柴屋寺になっているらしい。このとき思い出していれば行ってみたのだが、忘れてた。
 宇津ノ谷は昔は宇津の山とも言われ、かつては伝路があり、山越えの細い道は『伊勢物語』にも描かれ、そこから「蔦の細道」と呼ばれるようになった。
 十団子はここの古くからの名物で、『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の大永4年(1526)の6月16日のところに、

 「府中、境(おり)ふし夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十(とを)だんごといふ、一杓子に十づつ、かならずめらうなどにすくはせ興じて、夜に入て着府。」

とある。宗長の時代ですら既に「むかしより」だった。
 十団子というと、芭蕉の弟子の許六の、

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句がある。秋風の吹く頃になると収穫直前で米が不足し米価が上がる所から

十団子も小粒になるという、東海道を何度も行き来した人にはわかるあるある

ネタだったのだろう。
 江戸時代の道は古代・中世の蔦の細道ではなく、若干北側のルートを通る。
 島田には塚本如舟邸跡があった。「むめがかに」の巻の十六句目のところで芭蕉が元禄七年の最後の旅の途中、島田で曾良と杉風に宛てて二通の手紙を書いたその場所だと思われる。
 なかなか楽しい旅で、詳しくはmixiの方に書いている。みんなの日記で公開している。