2017年1月19日木曜日

 パーマ大佐という芸人のことは、正直今朝のニュースを見るまでまったく知らなかった。「森の熊さん」の歌詞が少し紹介されていた。
 まず、これは替え歌ではない。替え歌というのは元歌のメロディーに違う歌詞をつけるもので、これは元歌の一番、二番、三番、四番、五番のそれぞれの間にオリジナルの歌を挿入したもので、むしろヒップホップのサンプリングの手法に近い。
 「森の熊さん」という童謡は、昔からなぜ熊さんが「お逃げなさい」と言ったのか謎とされてきた。襲う気がないなら逃げるように指示する必要もないし、襲う気だったらわざわざ逃げろとは言わない。謎があるからそこに創作意欲が刺激され、色々なパロディーを生んできた。
 想像力を掻き立て新たな創作を刺激するという意味では、この童謡の歌詞は良く出来ているし、それが長くこの歌が親しまれてきた理由なのかもしれない。
 パーマ大佐の「森の熊さん」もこの謎から触発された創作の一つで、「森の熊さん」の歌詞に一つの合理性を与えようとしている。「そこにやってきた警察」から二番の「お逃げなさい」へのつなぎ方は連歌の手法にも近い。まあ、だからこの風流日記で取り上げるわけだが、

 お嬢さんお逃げなさいと熊さんが

という句に付け句をすると考えればいい。

   お嬢さんお逃げなさいと熊さんが
 そこにやって来たのは警察

これで十分付け句になる。こんな感じで、

   後ろからところが熊さんついてくる
 力尽きてもまた蘇えり

   お嬢さんちょっと待ってよ落し物
 伝えたいことあって追いつく

   ありがとうお礼に熊さん歌いましょう
 おっとここはさすがにネタバレになるので‥‥

 連歌も俳諧も、基本的に前句に人格はない。どのように取り成すのも自由というのが基本になっている。表記する時も前句の作者名は記さないのが普通だ。このブログでも一貫してそうしている。
 発句に限っては脇を付けるときは必ず和すようにという習慣になっているから、和すつもりがない場合は発句で返す。

 草の戸に我は蓼くふほたる哉  其角

に対し、

 朝顔に我は飯食ふ男哉    芭蕉

と返したのがそれだ。
 連句の復活の難しさは、特に老いた文学者には著作権厨が多いということもあるのかもしれない。下手に取り成すと「作品の人格権の侵害だ」なんて怒り出されたのでは恐くて付け句なんてできない。
 様々な創作を刺激する文学というのは、それだけ傑作の証しであり、駄作はパロディーにすらならない。そして、そうやって想像力が刺激され、様々な新たな創作を生み出す中で、良いものが残り、つまらないものは忘れ去られることで、文学や芸術は進歩していくのだということは忘れないで欲しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿