今日ネットで注文した『芭蕉連句古注集 猿蓑篇』(雲英末雄、1987、汲古書院)が届いた。これで前に読んだ「市中は」の巻や「灰汁桶の」の巻藻読み返すことができる。
それはこのあととして、まずは「雪の松」の巻の続き。
十一句目
馬の荷物のさはる干もの
竹の皮雪踏に替へる夏の来て 石菊
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て馬の荷物のさはる干もの)
竹の皮は軽いから、運ぶ時にはかなりうず高く積んで、道にはみ出した洗濯物に接触したりしていたのだろう。竹の皮が盛んに運ばれてくるのは夏が来て雪駄(雪踏)の季節になったからだ。雪駄は竹で編んだ草履の底に皮を張ったもので、水に強く夏に用いられる。
これもそう難しくないあるあるネタだったようで、古註の解釈にそんなに差がない。『古集』系には「かさ高なるもやうあるより、竹の皮荷と見ていへり。句作の優美をおもハざらんや。」とある。
『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「凡愚ふつつかの句なり。二三畳より以下三句、興趣さらに無し。」とある。こういう単純なあるあるネタがお気に召さないのは、古典の教養のあるところを見せたい文人にはありがちなこと。
季題は「夏の来て」で夏。「雪駄」は衣装。特に夏の季語にはなっていない。
十二句目
竹の皮雪踏に替へる夏の来て
稲に子のさす雨のばらばら 杉風
(竹の皮雪踏に替へる夏の来て稲に子のさす雨のばらばら)
「さす」は育つという意味。夏といっても旧暦四月の初夏のことで、田植えのすんだ稲の苗をはぐくむ雨がばらばら降ってくるというもの。
あるあるネタが続いたことで、ここらでちょっと一休みというか目先を変えたい空気を見事に読んでいる。このあたりが杉風のキャリアの長さというか、ベテランの味でもある。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)も「うつりえもいハれず」と言っている。
無季。「稲の子」を夏としてもよそそうなものだが、季語としては定まってない。植物。草類。「粟」から五句隔てている。「雨」は降物。
十三句目
稲に子のさす雨のばらばら
手前者の一人もみえぬ浦の秋 野坡
(手前者の一人もみえぬ浦の秋稲に子のさす雨のばらばら)
手前者(てまえしゃ)は辞書を引くと、『類船集』の「─と言ふは富める人なり」を例として「家計の豊かな人、資産家」としている。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)も「手前者 富人也。」としている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「手前者ハ分限者也。」としている。「分限者(ぶげんしゃ)」も金持ち、財産家と言う意味。にわか成金ではなく、代々の資産を受け継いで資産を管理している者のことをいう。
「浦」というから漁村なのだろうけど、漁業だけでは食って行けず、細々と稲も育て半農半漁の生活を送っている、そんな風情だろうか。
季節を秋に転じる。
季題は「秋」で秋。「浦」は水辺。「熊谷の堤」から五句隔てている。
十四句目
手前者の一人もみえぬ浦の秋
めつたに風のはやる盆過 利合
(手前者の一人もみえぬ浦の秋めつたに風のはやる盆過)
「めった」は今の標準語では否定の言葉を取るが、昔は必ずしもそうではなかったようだ。むしろ今で言う「めっちゃ」に近いか。「めたくた」だとか「めったくた」という言葉もあるし、「滅茶苦茶」も本来は「滅多くた」だったのだろう。
「風」は「風邪」のことで、貧しい漁村だから栄養状態が良くなくて、盆も過ぎるとちょっとしたことで風邪がめっちゃ流行る、ということなのだろう。
『古集』系には「侘しき浦里に自然の場あり。」とある。「自然」はこの場合、今でいうような自然がたくさんあるということではなく、人力で左右できない不慮のこと、万一のこと、という意味。
秋が二句続いたのでそろそろ月が欲しい頃だ。
季題は「盆過」で秋。
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