2017年1月9日月曜日

 「雪の松」の巻の続き。

七句目

   粟をかられてひろき畠地
 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水
 (熊谷の堤きれたる秋の水粟をかられてひろき畠地)

 「粟をかられて」を収穫ではなく、堤防が切れて大水が押し寄せ粟の畑を流していってしまった、という意味に取り成す。
 元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、そのときの記憶がまだ鮮明だったのだろう。荒川は文字通りの荒ぶる川で、有史以来度々大きな水害を引き起こしてきた。
 荒川は昔は熊谷付近から元荒川の方へ流れ、越谷の方へ流れ、吉川で太日川に合流していたが、幕府は寛永六年(一六二九)に荒川の付け替えを行い、入間川から隅田川の方へ流すようにしたが、その後も度々水害は起こった。
 同じ『炭俵』の「空豆の花」の巻の十二句目にも、

   風細う夜明がらすの啼わたり
 家のながれたあとを見に行    利牛

の句がある。(前句は岱水の句。)
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「淼漫(ビャウマン)たる景象ミゆ。」とあるが、そんな悠長な句ではないだろう。むしろ災害の記憶を残すための句といっていいのではないかと思う。

季題は「秋の水」で秋。水辺。「堤」も水辺。芭蕉の第三から三句隔てている。

八句目

   熊谷の堤きれたる秋の水
 箱こしらえて鰹節売る    野坡
 (熊谷の堤きれたる秋の水箱こしらえて鰹節売る)

 被災した人たちに昔は災害援助なんてなかったから、被災した後の生活は自分で何とかしなくてはならない。とりあえず背負い箱をこしらえて鰹節売りで生計を立てる。
 江戸時代初期の鰹節は紀州の名産で「熊野節」と呼ばれ、上方を中心に広がっていったという。元禄の頃になると紀州甚太郎がカビ付けを行うようになり、これによって江戸までの輸送に耐えられる鰹節(改良土佐節)が出来た、と「にんべん」のHPにあった。そういう意味では「鰹節売り」というのはこの時代のベンチャービジネスだったのかもしれない。
 「空豆の花」の巻の十三句目も、

    家のながれたあとを見に行
  鯲汁わかい者ものよりよくなりて   芭蕉

と、洪水の後の地面に落ちていたドジョウを拾ってきて食う様が描かれている。災害の後の昔の人の苦労と知恵が偲ばれる。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「水難からの俄商人を趣向せり。前句を虚体に転ず。」とある。『古集』系はほぼ同じ。「虚体」というのは、前句を過去のことにして今は、という意味か。

無季。

九句目

   箱こしらえて鰹節売る
 二三畳寝所もらふ門の脇     子珊
 (二三畳寝所もらふ門の脇箱こしらえて鰹節売る)

 前句が背負い箱に鰹節を入れて持ち運び、天秤下げて振り売りをする行商人の姿だったのに対し、ここでは二三畳のささやかながらも店舗を構える鰹節売りになる。とはいえ、やや展開に乏しい。
 まあ、出勝ちのときはあまり悩まずに、とにかく句が付いたらさくさく進めるものなのだろう。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前底ハふり売とも見るべきに、こなたハ箱もふたつ三ツならべて、草履や鼻紙も提置る風情ならん。百にたらずのかかり人などいハんか。」とある。『古集』系はほぼ同じ。

無季。「寝所」は居所。

十句目

   二三畳寝所もらふ門の脇
 馬の荷物のさはる干もの   沾圃
 (二三畳寝所もらふ門の脇馬の荷物のさはる干もの)

 この「干もの」は「ひもの」ではなく洗濯物の「ほしもの」の方。
 二三畳の寝所はここでは店ではなく単なる生活の場で、狭いながらも洗濯物を干すところに生活感がにじみ出る。門の脇だから、荷物を背負った馬が出入りするたびに洗濯物に引っかかって落ちたり汚れたりする。あるあるネタか。
 『古集』系には「出入りする馬に洗濯ものなるべし」とある。それほど難しい句ではない。

無季。「馬」は獣類。

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