2017年1月5日木曜日

 三が日もあっという間に過ぎ去り、今日から仕事。いつもの日常に戻る。
 一日は家でゆっくり休み、二日にはいつもの年同様、武州柿生琴平神社へ初詣に行った。
 三日は「街道を行く、東海道編」の続きで静岡から島田まで歩いた。
 安倍川の川会所跡には由井正雪墓址碑があって、延宝6年(1678)の芭蕉と杉風との両吟、

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや  杉風

を思い出した。
 伏字で何のことかわからないが、本来は、

   よしなき謀反笑止千万
 夢なれや由比正雪夢なれや  杉風

だったという。これに芭蕉は、

   夢なれや由比正雪夢なれや
 さてさて荒(あれ)し軒の宿札 芭蕉

と付けている。
 由井正雪は慶安4年(1651)に当時の減封・改易によって生じた牢人たちを集めて江戸城を焼き討ちし、自らは京都で決起して天皇を拉致して担ぎ上げて政権を奪取する予定だったが、計画は事前に発覚し、正雪は駿府宿(静岡)で捕り方に囲まれ自決したという。芭蕉の句はその時の情景を想像してのものか。
 丸子宿というと、慶長元年創業で元禄4年に芭蕉が詠んだ、

   餞乙州東武行
 梅若菜丸子の宿のとろろ汁   芭蕉

の句が思い出される。
 この句は丸子宿で詠んだものではなく、前書きにあるように、近江の国の大津で乙州(おとくに)が江戸に向かう際に餞(はなむけ)の句として詠んだものだ。これから東海道を登るなら、丸子の宿のとろろ汁がおすすめだよ、というような意味か。これに対し乙州は、

   梅若菜丸子の宿のとろろ汁
 笠新しき春の曙       乙州

と答える。
 丸子というと忘れてはならない、と言いながら実は忘れていたのだが、水無瀬三吟、湯山三吟に参加した柴屋軒宗長の柴屋軒があった所だ。現在は吐月峰柴屋寺になっているらしい。このとき思い出していれば行ってみたのだが、忘れてた。
 宇津ノ谷は昔は宇津の山とも言われ、かつては伝路があり、山越えの細い道は『伊勢物語』にも描かれ、そこから「蔦の細道」と呼ばれるようになった。
 十団子はここの古くからの名物で、『宗長日記』(島津忠夫校注、1975、岩波文庫)の大永4年(1526)の6月16日のところに、

 「府中、境(おり)ふし夕立して宇津の山に雨やどり。此茶屋むかしよりの名物十(とを)だんごといふ、一杓子に十づつ、かならずめらうなどにすくはせ興じて、夜に入て着府。」

とある。宗長の時代ですら既に「むかしより」だった。
 十団子というと、芭蕉の弟子の許六の、

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

の句がある。秋風の吹く頃になると収穫直前で米が不足し米価が上がる所から

十団子も小粒になるという、東海道を何度も行き来した人にはわかるあるある

ネタだったのだろう。
 江戸時代の道は古代・中世の蔦の細道ではなく、若干北側のルートを通る。
 島田には塚本如舟邸跡があった。「むめがかに」の巻の十六句目のところで芭蕉が元禄七年の最後の旅の途中、島田で曾良と杉風に宛てて二通の手紙を書いたその場所だと思われる。
 なかなか楽しい旅で、詳しくはmixiの方に書いている。みんなの日記で公開している。

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