2016年10月31日月曜日

 世間はハロウィンで盛り上がっているのかな。現代俳句では一応ハロウィンもカボチャも秋の季語になるようだ。
 神無月は本来旧暦の十月だったが、今はこの季節に新暦の七五三が重なってしまっている。七五三に神社へ行っても神様がいないんじゃ困るから、神様も今では新暦で行動しているのだろうか。その辺はよくわからない。
 昔は神無月の留守を守る神様として旧暦十月には恵比寿様を祭るえびす講が盛んだった。ハロウィンは新暦のその場所にうまくはまったのかもしれない。
 恵比寿様は「蛭子」と書くと天照大神や素戔男尊の目立たないお兄ちゃんだが、一方で海の向こうから来た外来神だともいう。それがケルトの神々に取って代わられたか。
 多神教の文化では神様と悪霊との境界は曖昧で、死者の霊もまた同様にとにかく陰陽不測はみな神様とばかりに混然とした形で迎えられた。妖怪やモンスターの類も皆友達というのが、日本の風土に合っている。
 ハロウィンはキリスト教圏の中にあって、数少ないペイガンの祭りとして生き残ったもので、それがアメリカで盛んになったのは、やはりお菓子会社の陰謀か。
 それが日本の多神教の中に戻っきたもんだから、子どもたちのお菓子の祭り以上に大人の間での仮装パーティーとして盛り上がり、妖怪、モンスター、亜人から漫画やゲームの様々なキャラクターに至るまで何でもありの世界になった。

2016年10月30日日曜日

 今日は湯山三吟の九十四句目。

   わりなしやなこその関の前わたり
 誰よぶこどり鳴きて過ぐらん   肖柏

 名残の裏ということで、ここは恋を離れる逃げ句となる。つまり「前わたり」を恋の情から切り離さなくてはならない。
 そこでさすが肖柏さん。なこその「来るな」に対して呼子鳥が「来よ」と言っているから、どっちに従えばいいのかわからず行ったり来たりしているというロジカルなネタとして展開する。
 なこその関も諸説あったが、今回の「呼子鳥」も難問だ。ネットを検索すると、カッコウのことだという説、「呼ぶ」ということに掛けた、何かを呼んでいるかのように聞こえる鳥一般を指す、特定のとりではないという説、ウグイス説、ホトトギス説、ツツドリ説、猿説などいろいろ出てくる。
 特定の鳥ではないという説は、時代が下って呼子鳥がどの鳥をあらわすのかわからなくなった頃には、実際にそういうふうに用いられていたと思われる。多分肖柏さんもそうだと思う。前句の「なこその関」もわからないし「呼子鳥」もわからないけど、中世の和歌や連歌では「な来そ」「呼ぶ」に掛けて習慣的に用いられていたに違いない。だから肖柏のこの句に関しては、それでいいのだろう。
 ただ、それでは何かすっきりしないのは確かだ。
 呼子鳥に関しては曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草(上)』(2000、岩波文庫)には、

 「此鳥のこと、古今集三鳥の一などいひて、諸書に説々あり。或は猿の事といひ、或は山鳥也といひ、又は山鶫つぐみ、又は鶯、郭公、などさまざまの鳥にあてていへど、みなたしかならず。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、2000、岩波文庫p.109)

とあり、『年浪草』の説として、ツツドリを挙げている。ツツドリはカッコウやホトトギスの仲間でカッコウよりは小さいが、同じく夏鳥で托卵する。全身灰色の鳥で、筒を叩いたような「ココッ、ココッ」という声で鳴く。ツツドリの声はyoutubeでも聞ける。今日見たのでは「フォ フォー」という字幕が出てたが、「ポ」とも「コ」とも聞こえる声なので、これが一番それらしい。
 『増補 俳諧歳時記栞草(上)』はまた、賀茂真淵の説も紹介している。

 「真淵翁曰、よぶこ鳥は春の暮より夏にかけて啼鳥也。此声は、人を呼がごとくきこゆるによりて呼子鳥と云。鳩に似て羽も背も灰色ににて、腹はすずみ鷹のごとく、足は鳩より少し高し。また曰、かほ鳥と云いふもこの鳥也。今俗のかんこ鳥と云もの也。喚子鳥の字音よりとなへ誤れる也。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、2000、岩波文庫p.109)

 カッコウ説はこれが元になっているのだろう。
 がだ、カッコウは閑古鳥と呼ばれ、江戸時代でも夏の季題として定着しているのに対し、呼子鳥は春の季題だ。季節はずれのカッコウという説はやや無理がある。ツツドリならカッコウともホトトギスとも別だから、独立して春の季題としてもおかしくない。ツツドリはホトトギスやカッコウの陰に隠れて忘れられた鳥になっていたのではないかと思う。

2016年10月28日金曜日

 さて、今日は湯山三吟の名残の裏の最初の句、つまり九十三句目。

    うときは何かゆかしげもある
 わりなしやなこその関の前わたり    宗祇    

 「や」や「か」は古文の時間に疑問・反語と習うが、連歌の場合は疑問は反語に、反語は疑問に取り成すのが定石とも言える。
 前句が「よそよそしくしている人に何で惹かれたりするんですか(惹かれたりしないでしょう)」という反語だったから、ここは疑問に取り成す。句の意味は、

 どうしたらいいことか、なこその関の前をうろうろしている、よそよそしくしている人に何で惹かれたりするだろうか。

といったところか。
 よそよそしい人になぜか惹かれてしまうというのはよくあることで、寄ってくる人はいつでもモノにできるとばかりキープするだけで、よそよそしい人にほどチャレンジしたがる。それを逆手に取ったのが、いわゆる「ツンデレ」だ。古語だと「つんつん」は「そばそばし」、「でれる」は「なつく」だから、「そばなつ」とでも言うべきか。
 なこその関は一般的には福島県いわき市の南部、茨城県北茨城市との境界近くで観光地にもなっている勿来の関とされているが、これは江戸時代に一般化した説で、実際の所は諸説あってよくわからなという。
 陸奥への古代の駅路は東山道だと白河を通り、東海道の方から行くと今の国道349号線、茨城街道の方から白河の先で合流し中通りを行く。浜通りのほうを北上する古代道路も存在したとされるが、そこにあったのは菊多関で「勿来の関」はその別名だとする説もあるが定かでない。後に菊多関と勿来関が混同された可能性もある。
 陸奥国府のあった宮城県の多賀城の北に勿来川があり、勿来神社があったことから、惣の関が勿来の関ではないかという説も有力になってきている。
 和歌や連歌では勿来の関は、「なこそ」という名前を「な・来(こ)そ」つまり「来るな」という意味と掛けて用いられることが多い。
 平安時代にあって勿来の関を有名にしたのは、『千載和歌集』の、

     陸奥國にまかりける時、
     勿來の關にて花のちりければよめる
 吹く風をなこその関と思へども
   道もせに散る山ざくらかな
              源義家朝臣

の歌で、吹く風を来るなと言って追い返す関なのに道が見えなくなるほどの山桜が散っているというこの歌には、戦には勝っても多くの人が散っていった悲しみが感じられる。
 『山家集』にも「旅の歌とて」という前書きで6首連ねるうちの一つに、

 東路やしのぶの里にやすらひて
   なこその関をこえぞわづらふ
             西行法師

の歌がある。
 信夫の里というと「しのぶもじ摺り」で、芭蕉も信夫の里尋ねて、もじ摺り石がひっくり返ったまま放ったらかしになっているのを嘆いているが、これは中通りの福島市内だ。位置的にもここから浜通りのいわきへ行くよりは、多賀城の方に向かうほうが自然なように思える。
 西行法師がみちのくを旅したのは確かだから、勿来の関の正確な位置を知っていたかもしれないが、都の大宮人の多くはただ噂に聞くだけで、もっぱら「なこそ」の掛詞の面白さが中心となっている。
 この宗祇の句でも、本当のなこその関のことではなく、来るなと言われている思い人のところについつい行ってはうろうろしてしまう様を、あくまで喩えとして「なこその関」と言っているにすぎない。まあ、気持ちはわかるが、今だったらストーカーだ。

2016年10月27日木曜日

 湯山三吟の91句目。

   尾上の松も心みせけり
 たのめ猶ちぎりし人を草の庵   肖柏

 さすがに肖柏さん、恋を振られてもさらっと付けてくれる。
 これも複雑な倒置。「たのめ猶ちぎりし人を草の庵」は「草の庵にちぎりし人を猶たのめ」で、「草の庵にちぎりし人を猶たのめ尾上の松も心みせけり」となる。松は「待つ」との掛詞になる。
 「ちぎる」は約束するという意味もあるが、遠まわしにあの行為の意味でも用いられる。
 「草の庵」だとか「草庵」だとかいうと、何となく隠棲しているお坊さんが浮かんできてしまって、ひょっとしてそっちの道?と思ってしまうが、「草庵」のそういうイメージは多分江戸時代になってからのもので、中世では普通に貧しい掘っ立て小屋のイメージだったのだろう。 そんなところで愛し合って、いつまでも待ち続けているというと、ちょっと万葉時代の恋のようで、王族が気まぐれでやっちゃった村の娘が、いつまでも待ち続けていたことを後で知って感動するなんて物語があったような。
 そして、92句目、名残の表の最後の句。

    たのめ猶ちぎりし人を草の庵
  うときは何かゆかしげもある   宗長

 前句を「たのめ猶ちぎりし人を」で切って「草の庵」に住んで人を避けているような私に何の魅力もないでしょう、と付ける。ここでは隠遁者のイメージになる。

2016年10月26日水曜日

 湯山三吟の続きで、今日は2句。
 まずは、

   衣手うすし日ぐらしのこゑ
 色かはる山の白雲打ちなびき     宗長

 ヒグラシは夏から秋の初めにかけて朝や夕暮れに鳴くもので、竜騎士07の『ひぐらしのなく頃に』は新暦の6月と夏の早い時期の設定になっている。もっとも、この人の作品は『おおかみかくし』で八朔が「八月食べごろ」になっているくらいだから、季節感は割と適当だったりする。
 「色かはる山」は紅葉の季節ということになると晩秋の季語になる。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には「色かはる」はないが、「色不変松(いろかへぬまつ)」が九月のところにある。「色かはる」自体が季語というよりは、意味の上で紅葉のことだから秋ということになるのだろう。
 初秋のヒグラシに晩秋の色変わると、何か季節的に合わない感じがするが、「ヒグラシの声に色変わる」と付くことで、秋の長い時間の流れを表しているのだろう。
 句としても、

 色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし日ぐらしのこゑ

と一首の和歌の形にしたときには複雑な倒置になっていて、倒置を元に戻すと、

 日ぐらしのこゑに色かはる山の白雲打ちなびき衣手うすし

となる。前句の「衣手うすし」を打ちなびく白雲の衣と取り成している。
 二句前の、

    この比ごろしげさまさる道芝
  あつき日は影よわる露の秋風に   宗祇

の句に劣らず、高度な技術を感じさせる。逆に言うとこういう高度なてにはの使い方をしないと展開できないほど、詰まってしまって重い展開になっている感じもする。
 次の、

    色かはる山の白雲打ちなびき
 尾上をのへの松も心みせけり     宗祇

の句は素直にすっと付いている。
 松は常緑樹で紅葉はしないし、枯れて茶色くなることもない。いつでも夏のように青々としてはいるものの、山の稜線にうっすらと薄い雲が打ちなびくと、松もうっすらと白く色を変え、秋めいて見える。
  白くなるというのは、人間の頭が白髪になってゆくのを連想させる。寓意としては、いつまでも若いつまりでいても頭は白くなり、人生の秋を知るということか。
 名残の懐紙の裏になる前にもうひと展開欲しい所で、「心見せけり」の擬人化した言い回しは、寓意と取り成して恋への展開を催促しているように思える。いわゆる「恋呼び出し」の句だ。

2016年10月25日火曜日

 湯山三吟の方は、今日は3句進んだ。

   よもぎふやとふをたよりにかこつらん
 この比しげさまさる道芝  宗長

 これは遣り句で、道の芝が茂っているありふれた情景を付けて、何とか「蓬生」の強烈なイメージをぬぐおうとしている。
 連歌では同じ本説の句を続けてはいけない。ただ、「蓬生」という有名な物語のタイトルが出てきてしまうと、そのイメージを振り払うのは難しい。

   この比ごろしげさまさる道芝
 あつき日は影よわる露の秋風に   宗祇

 この句は複雑な倒置と「てには」の使い方で、まさに宗祇ならではの技ありの句といえよう。
 「あつき日は影よわる露の秋風に」は「影よわるあつき日は秋風に露の」の倒置。「この比ごろしげさまさる道芝」と合わせると、「影よわるあつき日は秋風に道芝の露のこの比ごろしげさまさる」となる。「しげき」を道芝の茂きではなく、露の茂きと取り成している。
 「暑かった日の光も弱れば秋風に道芝の露もますますしげくなってゆく」という意味。

   あつき日は影よわる露の秋風に
 衣手うすし日ぐらしのこゑ     肖柏

 これも「影よわる」を季節の移ろいではなく日が傾くという意味に取り成している。

2016年10月24日月曜日

 私事になるが、二年前の春に父母を相次いで亡くし、直後の忙しさとその後に来た倦怠感や昔で言う「無常観」のようなものから、と要するに今の言葉では単なる「欝」なわけだが、それまで読んでいた源氏物語は明石の途中で終わったままになり、他にも書きかけになっていた文章がたくさんあって、未だに放ったらかしになっている。
 この「鈴呂屋俳話」を始めたのも、少しづつ昔のペースに戻そうと思ったからで、ただ、いろいろやりかけのことがあって、何から手を付けていいかわからない。
 昨日は昔書いた「浦上玉堂の山水画を読む」を「鈴呂屋書庫」http://suzuroyasyoko.jimdo.com/ にアップした。11月10日から千葉市美術館で「文人として生きる−浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」展が始まると聞いて、そういえばこういうのも書いていたと思い出した。
 そのあと今日、「文和千句第一百韻の世界」をアップした。連歌関係では「湯山三吟」が84句目で止まってしまっている。
 その85句目は、

    古人めきてうちぞしはぶく
 よもぎふやとふをたよりにかこつらん 肖柏

で、三つの古註が残っている。

 古註1蓬生の巻に、侍従のおば君、惟光を見付て、かこち出いでたる事なるべし。
 古註2よもぎふノやどへ源氏御出ありしとき、侍従げんじニとりつきたてまつりて、うらみ

を云へル事あり。
 古註3源氏よもぎふの巻の体也。古人のうちしはぶく事、この巻にみへたり。(『連歌俳諧

集』日本古典文学全集32、1974、小学館より)

 共通して『源氏物語』の蓬生巻の本説であることを指摘している。
 明石の次が澪標でその次が蓬生だから、本来ならとっくに読んでいたはずの箇所だ。
 取りあえずネットで既存の訳を読んで大雑把なあらすじを把握しなければならないが、これから読むところがネタバレになってしまうのは残念だ。
 大体ここの場面だろうというところが見つかった。源氏が末摘花の君の荒れ果てた家を訪ねたとき、惟光に様子を見てもらおうとしたとき、

 よりてこわづくれば、いと物古りたる声にて、まづしはぶきを先に立てて、彼は誰れぞ、なに人ぞととふ。

とある。
 前句の「古人めきてうちぞしはぶく」をこの人物に取り成したということはわかった。この人物は「侍従が叔母の少将といひ侍りし老い人」だということがわかる。古註1の通りだとわかる。
 問題はこの人物が以前に出てきてたかどうかだが、自分で訳した末摘花巻を読み返したがよくわからない。
 とりあえず「よもぎふやとふをたよりにかこつらん」の句は、「よもぎふをとふをたよりにかこつらんや」の倒置で、蓬生を訪れて来たのを何かの縁とばかりについつい愚痴ってしまったか、すっかり年寄りくさくなって咳払いをしてしまう、という意味になる。
 

2016年10月22日土曜日

 前に書いた『鵲尾冠(しゃくびかん)』の、

   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳   機石

の句だが、『枕草子』の「むつかしげなるもの」にも猫の耳が登場する。

 「むつかしげなる物、ぬい物のうら。ねずみのこのけもまだおひぬを、すの中よりまろばしいでたる。うらまだつけぬかはきぬのぬいめ。ねこのみゝの中。ことに清げならぬ所のくらき。ことなる事なき人の、こなどあまたもちあつかひたる。いとふかふしも心ざしなきめの、心ちあしうしてひさしうなやみたるも、をとこの心ちはむつかしかるべし。」

 何気にうざい物。刺繍の裏側。毛の生えてないネズミの子が簾の中から転がり出てくる。裏地のまだ付いてない毛皮の服の縫い目。猫の耳の中。暗くて雑然とした所。たいした身分でもないのに子どもをたくさん作って手に負えなくなっている。大して気があるわけでもない女が気分を悪くして長いこと塞ぎこんでいるのも、男の心情としてはうざいでしょうね。

 この場合は猫の耳の形状ではなく耳の中が汚れていることを指すと思われる。
 越人撰に『猫の耳』と言う俳書があり、これは享保2年刊の『鵲尾冠』よりもかなり後の享保14年のもので、前書きに、

 「集を猫耳といふ事は清女が筆にとるならしけにやよつのときの何くれより人物技芸のくだくだしきまで耳のにこけと生出たるこれや彼垂雲の翼具したる鳥の化して牡丹に眠れるかはた西域より貢せし猫の世にかたましき此道の鼠輩の人もなげにあれわたるを壇によりて威をなせるかしらず千載の子雲をまちて是がために伯楽とせむ」

とある。
 猫がいないのをいいことに鼠のような奴らが威張り散らすといけないので、千載の子雲が現れるのを待って今は逸材の発掘に専念しようというのだが、これは芭蕉を猫にたとえて各務支考をディスっているのか。要するに「うざい」ということか。

2016年10月20日木曜日

 連歌も俳諧も基本的にはこういう会話の機知を基本として、そこで面白い冗談を言って人を笑わせたり、ちょっといい話をしてみたり、時にはしんみりさせてみたりして、会話がどんどん脱線してゆくのを良しとする。
 連歌には両吟や三吟、四吟のような、少数の連衆(連歌の参加者をこう呼ぶ)が順番に付けてゆく場合と、ある程度の人数の連衆が大喜利のように次の句を競って付けて、その中の一句をその場で選んで続けてゆく出勝ちという方法とがある。
 「大喜利のように」と言ったが、むしろ「大喜利」自体が連歌の出勝ちが元になっているのではないかと思う。連歌・俳諧はその後の日本のお笑い芸の基礎となっている。
 連歌会(れんがえ)が催されると連衆は採用される句の多さを競ったり、その中で一番良い句を選んだりして、それに賞品を出したりした。こうして楽しいひと時を過ごした後は御馳走が振舞われ、飲んだり唄ったり賑やかなものだった。
 会話の楽しさという点では、後の漫才にもこれは受け継がれている。
 漫才は中世に流行した千秋万歳(せんずまんざい)が元になっていると言われている。二人一組で正月などに鼓を打って舞を舞ったりしてみんなの長寿を祈願するもので、江戸時代の俳諧でもしばしば千秋万歳のことが詠まれている。

 やまざとはまんざい遅し梅の花    芭蕉

 これは千秋万歳の興行が都会から徐々に田舎の方に移動してゆくことを詠んでいる。当時の「あるある」だったと思われる。
 なお、今の「漫才」は大正末期の吉本興業の芸人、エンタツアチャコによって確立されたという。
 江戸時代の俳諧師のイメージが今の芸人に近いのは、次の句からも伺われる。

 今朝国土笑はせ初ぬ俳諧師    高政

 菅野谷高政は宗因の高弟で京都談林の中心人物だった。
 この句からは、江戸時代の俳諧師のイメージが今日の俳人のイメージと随分と異なることが感じ取れる。
 彼らは文人として知識人の一翼として世間からの尊敬を集めてはいたものの、そこには真面目で神経質な芸術家というイメージはない。
 子弟の間ではぴりぴりとした関係はあっただろう。仲間同士で真剣な議論をすることもあっただろう。でも世間の前では笑いを振りまく存在だった。
 それは今日の「芸人」の世界に近いといってもいいのではないかと思う。テレビでおちゃらけて笑いを振りまいてはいても、その裏では厳しい修行があり、上下関係があり、真剣な議論がある。お笑いの道も決して誰でもできるような生易しいものではない。ただ、それを表に出さないのがプロというものだ。
 今日でもお笑い芸人の世界からいっぱしの文化人になった者がいる。ビートたけしなどそのいい例だ。今や世界に誇る北野監督だ。もちろん芥川賞作家のピース又吉も忘れてはいけない。
 多分、たくさんの弟子達を抱えた芭蕉翁の姿は、たけし軍団に近いものがあったのだろう。今だったら芭蕉は「翁」ではなく「殿」と呼ばれていたかもしれない。
 俳諧師になるものの素性は様々だが、江戸時代の俳諧文化の礎を築いた松永貞徳は藤原惺窩に儒学を学んだ儒者だった。それだけでなく古今伝授を受けた細川幽斎に和歌を学び、里村紹巴に連歌を学んだ、当時の第一級の文化人だった。「松永」の姓も戦国武将の松永弾正の甥ということで、由緒正しい血筋を表わしている。
 その貞徳の句はというと、

 霞さへまだらにたつやとらの年
 雲は蛇呑みこむ月の蛙かな
 花よりも団子やありて帰る雁
 冬ごもり虫けらまでもあなかしこ

といったもので、真面目な学者が馬鹿をやると、それだけで面白い。馬鹿をやっているようでも、「雲は蛇」の句は、中国では月の模様を兎ではなく蛙に例えていることを知っていないとわからないし、そういうところでチラッと教養を覗かせたりする。
 もちろん、今日のお笑い芸人も結構そうそうたる名門大学の出身者が多い。ネタもかなり高度な知識を必要とするものがあったりする。それを思うと、貞徳は今日の芸人の祖だったと言ってもいいのだろう。
 才能があるからといって偉ぶってはいけない。才能がある人間がその才能でもって人を笑わせ、溢れる知性をみんなを幸せにするために使う。決して戦争のために使ったりはしない。それが日本の文化人のあるべき姿であり、その伝統は今でも生きている、と信じたい。

2016年10月19日水曜日

 連歌は本来雑談のような気楽なものだった。
 伊地知鐵男は宗祇法師の言葉を引用してこう言ってる。

 『宗祇は連歌の特質を、

 連歌は、先世上の雑談の返答をなすに似たり。さても昨日の風はいかめしく吹つるかな、といひ侍らば、さこそ、いづくの花も残らず、散つらめ、などと返答をしたるやうにあるべき也。又至極の後は、西といへば東と答ふるやうに句をなす物なり。(『宗祇初学抄』)

と、連歌は問答対話におなじだという。』(『連歌の世界』伊地知鐵男、1967、吉川弘文館p.2~3)

つまり、
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
みたいな乗りが大事で、当意即妙の問答が要求される。
 おそらく平安時代の貴族社会でも、こうした季候の挨拶がうまくできるか、スムーズでいて、それでいて機知の聞いた面白い会話ができるというのが条件だったものと思われる。
 清少納言の『枕草子』も、本来はそういった会話の手引書だったのではないかと思われる。「枕」というのは頭に敷くもののことで、会話のきっかけに、という意味があったと思われる。つまり、
 「いやー春でんなー。」
 「春ゆうたらあけぼのでんなー。」
 「そや、紫色の雲が低くたなびいていて、あれは奇麗でんなー。」
というような会話が理想とされていたのであろう。連歌もその延長線上にある。
 機知に富んだ会話というのは、ありきたりな返しだけでなく、変化も必要になる。
 「昨日は風が強かったなー。」
 「花もみんな散っちゃっただろうなー」
 「そうだな、風が強かったからなー。」
なんて元に戻ってしまうと、会話が堂々巡りして何の発展もなくなる。連歌でも同じことが言える。そこでたとえば「今日花見に来る人は悔しいだろうなー」みたいな展開が必要になる。
 たとえば、

 春夏秋に風ぞ変れる

という前句に対し、

    春夏秋に風ぞ変れる
 花のあと青葉なりしが紅葉して     周阿

と付けるとする。ここで、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「そうだな、桜の花も散った若葉になって秋には紅葉するようなもんだな。」
という受け答えが成立する。
 和歌の形にしても、

 花のあと青葉なりしが紅葉して春夏秋に風ぞ変れる

と奇麗につながる。
 ここには別の発想ももちろんある。

    春夏秋に風ぞ変れる
 雪の時さていかならむ峯の松    二条良基

 これだと、
 「春夏秋と風は変って行くもんだなー。」
 「これから雪の季節になって峰の松はどうなっちゃうのかなー。」
となる。これでもいい。
 周阿の句は前句の春夏秋をそのままなぞって具体例をあげたのだが、二条良基は春夏秋と来たら次は冬という発想をしている。
 和歌の形にしても、

 雪の時さていかならむ峯の松春夏秋に風ぞ変れる

と、きちんとつながる。
 一条兼良は『筆のすさび』のなかで、初心者のために、他にどういう付け句が可能かというところでいくつか試みている。

    春夏秋に風ぞ変れる
 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡

 既に秋になって実がなっている梨の片枝にまだ花の跡が残っているのをみると、いきなり実がなったのではなく、春夏秋と季節が変って実になったのだなー、て感じがします、というやや回りくどい付けだ。

    春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに

 これも春夏秋と鷹の毛が変ったという受け。

    春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や

 これは春に都を出て白河の関に到達するまでに春夏秋と過ぎ去ったというもの。言うまでもなく、

 都をば霞みとともにたちしかど秋風ぞふく白河の関   能因法師

の歌を本歌としたもの。
 和歌の形にすると、

 実を結ぶ梨のかた枝の花の跡春夏秋に風ぞ変れる
 毛をかふるしらおの鷹のとやだしに春夏秋に風ぞ変れる
 都いでていく関越えつ白河や春夏秋に風ぞ変れる

となる。
 いずれも発想としては、周阿と同様、春夏秋という変化をそのまま具体化する発想で、これらに比べると二条公の発想が秀でているように思える。
 後に紹巴は、今では周阿の体は時代遅れで、二条公を良しとすると言っている。
 このように、日常会話の延長にありながら、57577の形でその機知を競うというのが連歌の本来の楽しみだった。
 俳諧で例を挙げれば、

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

の発句に、二つの脇が付けられている。
 一つは、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 明日来る人はくやしがる春    風麦

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
てな感じの会話になる。
 さらに第三はこう付ける。

   明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて     良品

 「こんなに散ってしまうと、明日来る人はさぞかし悔しいやろな。」
 「そうそう、蝶や蜂のことまで気遣ったりして。」
と会話が展開する。
 もう一つのバージョンだと、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり    珎碩

で、これだと、
 「桜の木の下では汁も膾も桜が散って何もかもが桜でんがなー。」
 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 そして、第三は、

   西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて    曲水

 「そや、西日も長閑でいい天気やな。」
 「春も終わりのこの季節になると旅する人は虱が痒くて、ぽりぽりやってんやろな。」
と会話が発展してゆく。
 どちらが良いか悪いかということではなく、俳諧の連歌も基本的にはこういう会話が基本になっている例として提示しておきたい。
 これを和歌の形にすると、

 木のもとに汁も膾も桜かな明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春
 木のもとに汁も膾も桜かな西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行く春暮れて西日のどかによき天気なり

ときちんと付いて和歌の体をなしていることがわかる。

2016年10月18日火曜日

 俳諧は俗語の連歌であり、ならば連歌はというと、 二条良基の『連理秘抄』にはこうある。

 「連歌は歌の雑体也、昔は百韻五十韻などとてつらぬる事はなくて、只上の句にても下の句にても言懸けつれば、今なからを付けける也」

 また、同じく二条良基の『知連集』にはこうある。

 「連歌は歌をもって文として、和歌の便をわきまえて後、言葉を分て連歌に取なす也」

 宗砌の『初心求詠集』にはこうある。

 「夫謌道は、花になく鶯、水にすむ蛙にいたるまでもその器と申侍れば、人(倫)の心あらむ如何でか是を翫事なからむ哉、殊連歌は三十文字あまりの言の葉を上下に分けて、是に深き心あり」
 宗祇の『長六文』にはこうある。

 「抑連歌と申事は只歌より出来事候、又貫之が詞に人の心を種としてよろづの言葉とぞなれりけると侍れば、連歌も心の外を尋べき事にも侍らず、然共歌と連歌との替目少侍るべきにや、歌には五句を云くだして終に其理を述べ、連歌には上句と云へ下句といひ別々に取分侍れば、分々に其理なくては不叶事也、連歌は昔は只続句などの如く前句に云かけて、一句の理をばさらに届ざる事侍」

 宗長の『連謌比况集』にはこうある。

 「夫連歌は歌より出て其感情歌より深し、猶し氷の水より出て水より寒に異ならず、これによりて君も臣も心を一にして是を翫ひ、賢なるも愚なるも姿を同くして是を学ぶ」

 紹巴の『至寶抄』にはこうある。

 「然に連歌は哥一首を二に分て百韻となし申候、乍去哥と連歌と少替申候、哥は上の句に其意聞え候はねども、下の句にて断り、(又下の句の心を上の句にて理り)申候事多し、連歌は一句一句に其断りなくては叶はざる事候」

 ここからはっきりしているのは、連歌は和歌の上句と下句を分けたものだということだ。
 宗祇の『長六文』では、57577の五句を言い下してその理があるが、連歌では上句・下句それぞれに理が必要だとし、紹巴の『至寶抄』もそれを受け継いでいる。
 これはたとえば、和歌では、

 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ     伝柿本人麻呂

のように、上575は単なる序詞として、下句を言いだすための特に意味のない言葉でも良いという場合がある。
 これに対して、連歌では上句もちゃんと意味を持ってなくてはならないということをいう。

 連歌は本来和歌の一つの体、つまり和歌の一首として捉えられていて、基本的には57577、上句下句合わせて一首の和歌を仕上げるゲームだった。
 なら、それはどういうゲームかというと、伊地知鐵男は尻取り遊びに例えている。

 「わが国に古くから「尻取り」「後取り」という遊びがある。
 イヌ(犬)─ヌエ(鵺)─エビ(蝦)─ヒグマ(羆)─マス(鱒)─スズメ(雀)─メジロ(目白)
と、詞の末尾の音と次詞の頭首の音とが同音でつづくように、詞、体言を連ねていく文字つなぎの遊戯である。おなじように室町期15世紀半ばごろ、専ら文字鎖という文学的な遊びが流行した。たとえば御陽成院御製と伝える『いろは文字鎖』は「色よき柘榴─轆轤ひく縄─花咲ける谷─庭の朝顔─仏の教へ─下手の射る的‥‥」のように尾音と頭音と同音でつなぎ、しかも連続する頭音はいろはで統一されている。」(『連歌の世界』伊地知鐵男、1967、吉川弘文館p.1)

 むしろ子供の頃に唄ったあのわらべ歌に似ているかもしれない。

 「金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはウサギ、ウサギは跳ねる、跳ねるはカエル、カエルは青い、青いは葉っぱ、葉っぱは揺れる、揺れるは地震、地震は恐い、恐いはお化け、お化けは消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のはげ頭。」

というやつだ。

 こんがりと金平糖が焼きあがり
    その甘いことその甘いこと
 お砂糖が壺一杯に入ってて
    まばゆいばかりの真っ白白な
 現われた因幡の国のウサギ殿
    ぴょんと一跳ね人驚かす

とでもすれば、連歌っぽくなる。
 これを確か昔の漫才のネタかなんかで、「金平糖は甘い、甘いは金平糖、金平糖は甘い」、と延々と反復してボケるのがあったが、連歌もこれと同じで前の句の発想に戻ったら永遠に堂々巡りしてしまう。それゆえ前の句とまったく違った発想で展開させなくてはならない。
 この種の言葉遊びは他の国にもあるのかもしれない。ただ、多くの文化では単なる子供の遊びというところで終っているのだと思う。こうした言葉遊びを大人が真剣にやるあたりが、日本の文化の特徴なのかもしれない。
 日本人はよく、車を発明しながらも明治になるまで戦車を作るという発想がなく、その代りに精密なからくり人形を作ったと言われている。
 和を尊び平和を愛する日本人は、言葉遊びを大人の娯楽に高め、文学にまで高めた。
 それが明治以降は軍国主義教育の影響で、大の大人が遊ぶなんて怪しからんなんてことになり、文学からも笑いの要素が排除され糞真面目なものじゃないといけないみたいになってしまった。
 そこから連歌はいわゆる近代文学から締め出される形となった。
 そして、それ以降の「連句」の復興の動きは、基本的には上句と下句を合わせて一首の和歌を完成させるというゲーム性を排除する形で行なわれ、今に至っている。

 「子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。」(『連句のたのしみ』高橋順子、1997、新潮選書p.60)

 今日のいわゆる「連句」は「知的ゲーム」ではあってはいけないらしい。それは伝統的な連歌や俳諧とはまったく別のものと言ったほうがいい。連歌や俳諧は是非ともマンガやお笑いの好きな人に読んでもらいたい。

2016年10月17日月曜日

 今日は十七夜で昼間の雨も夕方にはあがり、うす雲ごしに月が見える。
 それとは関係なく、今日も越人撰の『鵲尾冠(しゃくびかん)』から、

 ゆくあきは五郎丸なき五郎哉   飛泉

 作者の飛泉についてはよくわからないが、この集の中にかなり頻繁に登場する名前で、越人門の主要人物と思われる。
 「飛泉」を検索すると近代の歌人真下飛泉ばかりでてきてしまう。「五郎丸」に至っては去年話題になったあのラグビー選手のことばかりずらっと並んで、なかなかそれ以外の五郎丸の情報が出てこないのは困ったものだ。
 ただ、どうやら「五郎丸」は曽我物語の御所五郎丸ではないかというところに辿り着いた。曽我物語の主人公は曽我十郎と曽我五郎で、五郎丸なき五郎というのは曽我五郎と御所五郎丸に関係がありそうだ。
 曽我物語というと、『去来抄』にある、

 兄弟のかほ見るやミや時鳥   去来

の句がある。これは「去来曰、是句ハ五月廿八日夜、曾我兄弟の互に貌見合せける比、時鳥などもうちなきかんかしと」作った句で、芭蕉や其角からは「謂ひおほせず」と評された。
 飛泉のこの句も「謂ひおほせず」という感じがする。兄弟力を合わせてついに父の仇、工藤祐経を富士野の巻狩りの夜に討ったあと、兄の十郎は討ち死にし、弟の五郎も女装した五郎丸の取り押さえられた。
 曽我物語は遊行巫女(ゆぎょうみこ)によって口承され、様々な女性芸能者によって完成されていったとあって、兄弟二人の固い絆は今でも腐女子の想像を誘いそうだし、そこに女装の五郎丸の登場で花を添えている。
 仇討ちは夏に行われたから「ゆくあき」という季語との関係がよくわからないが、五郎丸の出ない曽我物語は行き秋のように淋しいということか。

2016年10月16日日曜日

 今日は十六夜で満月。
 月とは関係なく、今日は越人撰の『鵲尾冠(しゃくびかん)』から拾ってみた。

   清少納言もよく見て
 木耳(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳   機石
 南天は星を括(くく)るや実の光          同

 機石という作者のことは不明。
 乾燥させた木耳を見て猫の耳みたいだと思った人はたくさんいると思う。これだけだと「あるある」だが、耳が木耳みたいなのは耳が黒い猫に限られるというところで、清少納言の『枕草子』の「猫は上のかぎり黒くて、他はみな白からん」を引いてきて、「清少納言もよく見て」という前書きをつけているあたりは、出典に頼る古典の知識をひけらかしたふうなところは其角の風か。
 「むづかし」は「面倒くさい」だとか「うざい」とか言う時に使う言葉で、単なる三角形のように見えて意外に複雑な形をしている所をそう表現したか。木耳は茸の一種なので秋の句になる。ただし近代では夏。
 南天の句は南天の実が星を括って束にしたみたいだという句。「南天の実の光は星を括るや」の倒置。南天の実は秋だが、近代では冬とする場合もある。

2016年10月15日土曜日

 今日は月がよく見える。先月今月と新暦旧暦がちょうど一ヶ月ずれているため十三夜は13日、そして今日は十五夜。ただし、長月の。
 十三夜の二日後ということで、桃隣撰『陸奥鵆』の秋の部で一連の後の月の句の二句後に出てくるのがこれ。

 紛らしや木の実の中に鹿の糞   李里

 ララといいリリといい、こういう名前の人はシモネタが好きなのか。どういう人なのか、今のところ情報をつかんでない。
 鹿の糞というと昔の「笑っていいとも!」のタモリとさんまのコーナーでも話題になった吉永小百合の「奈良の春日野」を思い出す。この曲の鹿の糞は、

 草花や寺無住にして鹿の糞    子規

の句の影響を指摘する人もいるが、鹿の糞の句は子規が最初ではなかったようだ。
 正岡子規は入手できる限りの江戸時代の俳書を集めて分類した人だから、『陸奥鵆』は当然読んでいただろうし、この句も知っていたにちがいない。

2016年10月13日木曜日

 今日は十三夜だが空は曇っている。
 桃隣撰『陸奥鵆』には「芭蕉庵十三夜の記」という貞享五年九月十三夜、芭蕉庵で月見した時の句に、素堂が前書きし、芭蕉が後書きをした一連の句が掲載されている。

   十三夜
 芭蕉の庵に、月をもてあそびてただ月をいふ。越の人あり、つくしの僧有、まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし、あるじも浮雲流水の身として、石山の蛍にさまよひ、さらしなの月に嘯て菴に帰る。いまだいくかもあらず、菊に月にもよはさて、吟身いそがしいかな。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞すること、みつればあふるる悔あればなり。中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず、我国の風月にとめるなるべし。
 もろこしに不二あらばけふの月見せよ  素堂
 かけふた夜たらぬほどてる月見哉    杉風
 後の月たとへば宇治の巻ならん     越人
 後の月名にも我名は似ざりけり     路通
 我が身には木魚に似たる月見哉     宗波
 木曽の痩もまだなをらぬに後の月    芭蕉
 中秋の月はさらしなの里、姨捨山になぐさめかねて、なおあはれさのめにもはなれずながら、長月十三夜になりぬ。こよひは宇多のみかどのはじめて、みことのりをなし世に名月と見はやし、後の月あるは二夜の月など云める。これ才士・文人の風雅なくはふるなるべし。問人のもてあそぶべきものといひ、且は山野のたび寝もわすれがたうて、人々をまねき瓢を扣(たたき)、峯のささぐりを白鴉と誇る。隣の家の素翁、丈山老人の一輪いまだみたず二分虧(かく)といふ唐哥は、この夜折にふれたりと、たづさへ来れるを壁のうへにかかげて、草の菴のもてなしとす。狂客何某しらら・吹上とかたり出ければ、月も一期は栄えある屋うにて、なかなかゆかしきあそびなりけらし。

 芭蕉が姨捨山の月を見に行った『更科紀行』の後、江戸に戻ったときの十三夜のお月見だった。まず、素堂の序文。これはこの日に書かれたのではなく、後から加えられたものらしい。書簡と思われるものが残っている。

 「芭蕉の庵に、月をもてあそびてただ月をいふ。越の人あり、つくしの僧有、まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし、あるじも浮雲流水の身として、石山の蛍にさまよひ、さらしなの月に嘯て菴に帰る。いまだいくかもあらず、菊に月にもよほされて、吟身いそがしいかな。花月も此為に暇あらじ。おもふに今宵を賞すること、みつればあふるる悔あればなり。中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず、我国の風月にとめるなるべし。」

 素堂は芭蕉が江戸に出てきた頃からの古い門人で、代表作は「目には青葉山ほととぎす初鰹」。季語を三つも使った贅沢な句だ。
 「越の人あり」は越智越人。『更科紀行』の旅に同行し、その流れで江戸までついて来たのであろう。
 「つくしの僧」は宗波のことか。一年前の貞享四年八月に曾良とともに芭蕉の『鹿島詣』の旅に同行している。路通も僧なので路通の方を指すのかもしれない。
 「まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし」は同語反復になっているが、浮き草が同じ仲間の浮き草に合う、類は友を呼ぶという意味か。
 「あるじ」は芭蕉庵の主、芭蕉庵桃青のこと。
 「石山の蛍にさまよひ」は、

   木曽路の旅を思ひ立ちて大津にとどまるころ、まづ瀬田の蛍を見に出でて
 この蛍田毎(たごと)の月にくらべみん  芭蕉

の句のことか。
 「さらしなの月に嘯て」は言わずと知れた『更科紀行』の、

   姨捨山
 俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友   芭蕉

を指す。
 「菊に月にもよほされて」の菊は、九月十日に素堂亭で「残菊の宴」を催したことを言う。「月」は今回のことか。
 「花月も此為に暇あらじ」は元は「花月もこの人の為に晦あらじ」という発句だったらしい。編纂の段階でカットされたか。
 「中華の詩人、わすれたるに似たり。ましてくだら・しらぎにもしらず」は十三夜のお月見が日本独自のものであることを言っているのだろう。くだら・しらぎはいつの時代かという感じだが、この時代のあの地域は、朝鮮と言っても李氏朝鮮と言っても李朝と言っても差別になるらしいので、一体何と呼んでいいものか。

 もろこしに不二あらばけふの月見せよ  素堂

 中国に富士山があったなら十三夜の月見をするべきだ。
 まあ、中国には泰山や廬山をはじめとするあまたの名山はあっても富士山はないから、十三夜の月見を強制はしない。

 不二晴よ山口素堂のちの月   白雄

の句はこれより百年くらい後のこと。

 かけふた夜たらぬほどてる月見哉    杉風

 これは芭蕉七部集の『阿羅野』にも収められている句。「かけ」は「影」で、影は光という意味。十五夜にふた夜まだ光が足りないはずなのに、それ以上に明るく見えるのは空が澄み切っているせいなのだろう。

 後の月たとへば宇治の巻ならん     越人

 十五夜が『源氏物語』の本編なら、十三夜は続編の「宇治十帖」だろうか。

 後の月名にも我名は似ざりけり     路通

 「後の月」という名前だけど、元の月の十五夜とはまったく似ていない独自の月だ、という意味か。「後の月、名月にも我名月は似ざりけり」とすればわかりやすい。

 我が身には木魚に似たる月見哉     宗波

 僧である我が身には十三夜の不完全な丸い形が木魚に見える。

 木曽の痩もまだなをらぬに後の月    芭蕉

 木曽へ名月の旅をして痩せてしまったのがまだ治ってないうちにもう十三夜か、忙しいなあ。
 このあとの芭蕉の文章は有名だし、ネットでもいろいろな人が解説しているのでひとまず置いておく。

2016年10月12日水曜日

 明日は十三夜で、ということは今日は十二夜。月はラグビーボールのようで丸くない。
 十三夜は「後の月」ともいう。

 懐の猫も夜寒し後の月     秋色

 桃隣撰『陸奥鵆(むつちどり)』の句。
 この季節になるとさすがに残暑も終わり、夜なども肌寒くなる。そして夏の間は寄ってこなかった猫も寄ってくる、猫近しの季節でもある。
 秋色というと十三の時に詠んだといわれる、

 井戸端の桜あぶなし酒の酔   秋色

がよく知られている。
 同じく『陸奥鵆』の句。

 来月は霞まん月を栗の光(つや) 沾徳

 秋色も沾徳もともに榎本其角の門。
 十三夜は晴天率が高いといわれ、十五夜よりも澄んでいるとされている。だから来月の月は今よりは霞むだろうというわけだが、「栗の光」というのは十五夜が芋名月と呼ばれているのに対し十三夜が栗名月と呼ばれていることから来る。時期的にも栗の実る頃だし、十三夜の完全に丸くならない形状も栗を思わせる。十三夜とは書かれていないが十三夜を詠んだ句で間違いない。
 ならばお師匠さんの句。

   題十三夜
 月影のここ住よしの佃島    其角

 李由・許六撰の『韻塞(いんふたぎ)』の句。
 佃島には住吉神社があり、その住吉と掛けて十三夜で月の光もひときわ澄んでいて良いという句になる。
 この句は其角自身が晩年に編纂した『五元集』では、

 名月やここ住よしの佃島

になっている。直さなくても良かったのにという感じのベタな句になっている。推測するに、この方が覚えやすくて、伝わってゆくうちにいつの間にみんな「名月や」で覚えてしまっていたので、それに合わせたのではないか。

2016年10月9日日曜日

 今日も千山撰『花の雲』から。

 びんぼなれど淋しさ何の秋の暮  擧桃

 擧桃は姫路市的形の人。
 『去来抄』の、

 「夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国
  此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日山寺に晩鐘をきくに、曾(かつ)てさびしからず。仍(よつ)て作ス。去来曰、是これ殺風景也なり。山寺といひ、秋夕ト云、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端游興騒動の内に聞て、さびしからずと云ハ一己の私也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、若(も)し情有らバ如何のごとくにも作セんト。今の句に直せり。勿論句勝(まさら)ずといへども、本意を失ふ事ハあらじ。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

という本意本情の議論を思い出す。
 この句も「淋しさ何の秋の暮」だけなら、「秋の暮といったら淋しいに決まってるのに何で」ということになるだろう。上五に「びんぼ(貧乏)なれど」と来ることで、貧しくても秋の暮の淋しさに耐えて頑張るんだという句になる。秋の暮の本意本情をはずしてはいない。

 ねぶたがる人を起して月見とよ  擧桃

 これも名月なのに寝るというのは無風流ということになりがちだが、実際眠い時もある。それをうまく月の本意本情をはずさずに詠んでいる。「面」の所で紹介した、

 まあ寝まいあれほど月が晴て居ル 凉風

の発句とも似ている。

2016年10月7日金曜日

 国語というのは日本であれヨーロッパであれその他の地域であれ近代国家形成の過程で作られたもので、本来人間は自らの生活空間から言語を習得し、その言語を話すだけだった。
 それは都市のような大きな生活圏が形成されていれば、それだけ多くの人に通じる言葉を身につけていたし、そこにいろいろな国の商人が出入りして多言語空間を形成していれば、自然にいくつもの言語を習得していた。逆に小さな離島や近隣との交流の少ない小さな村で育てば、ほとんど局地的にしか通じないような言葉を喋るしかなかった。
 ただ、どんなに狭い地域の方言でも、どんなに広い地域で通じる言語でも、その複雑さには変わりがなかったという。人間の言語能力は生得的なものであり、広ければ広いなりに狭ければ狭いなりに、同じように複雑な言語体系を作り出すことができていた。ただ、言語習得の臨界期にまったく言語に接することができなかったなら、話は別だ。
 「方言」というのは標準語が確立された近代社会での標準語に対する言葉で、標準語のなかった時代には「方言」という意識もない。そして長いことそういう言語は記述されることもなかった。記述する場合にはそれ専用の言葉が存在したからだ。アジアの漢文、ヨーロッパのラテン語、イスラム圏ではコーランのアラビア語がそれだった。
 基本的にそれらはその時代のリアルタイムの言葉ではない。リアルタイムの言葉はいつでも多様すぎた。だから古典の言葉で書き表した。古典は過去の言葉だから変わることがない。
 日本の中世の雅語の文学も、基本的には古今から新古今までの八代集の言葉が用いられた。なぜ口語の文学がなかったかというと、口語で歌を詠んでも、その言葉が理解できる範囲の限られた人たちにしか通じなかったからだ。
 俳諧は雅語の文学に対して俗語の文学として誕生したものだが、基本的には共通語である雅語に、ほんの少し俗語を交える所から出発した。それが松永貞徳の貞門の俳諧だった。貞門では俗語は一句に一語のみと定められ、それ以外は雅語を用いなくてはいけなかった。雅語の用法が正しいかどうかは古典の用例にいちいち突き合わせて検証され、「証歌」を取らなくてはならなかった。いわゆる「標準語」の確立された近代の俳人からするとそれはかなり面倒くさく窮屈で、封建時代の野蛮な風習に見えたかもしれない。しかし、まだ江戸や上方の大都市圏の言語が定まらなかった時代には必要なことだった。
 江戸や上方はいろんな地方から人が集まり生活していくうえで、自然に共通の言語が形成され始めた。談林の俳諧はいち早くこうした都市の言葉を解禁したが、その言葉も多くは謡曲など芝居の言葉が多かった。
 元禄2年の奥の細道の途中で詠んだ、

 あなむざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

の句の「あなむざんやな」は口語とはいっても謡曲『実盛』に出典のある言葉で、ある程度多くの人の共通認識のある言葉を選ばなければ伝達そのものが成り立たなかったと思われる。
 芭蕉が「軽み」を意識し、あえて出典をはずしていった時、この句は、

 むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

という今日『奥の細道』で知られる形となった。
 蕉門の俳諧が俗語の開放をなしえたのは、都市部を中心としたある程度の共通の言葉が形成されたことと無関係ではあるまい。芭蕉が中世に生まれていたら、宗祇法師と同様に雅語しか使わなかっただろう。都市化はただ大きなまとまった言語圏を形成するだけでなく、そこに出入りする諸国の商人たちや、参勤交代で定期的にやってくる地方の武士たちに広がり、都会の文化に親しんだ人ならでは理解のできる、全国的に通用する言葉を生じ始めていたのではないかと思う。
 ただ、惟然が芭蕉の軽みをさらに推し進め、口語化をさらに拡張しようとした時、京や近江でやっているうちは良かったが、それが播州姫路に伝播したとき、かえってわかりにくい言葉になってしまったのではなかったか。おととい紹介した『二葉集』の面六句はそういう意味で、簡単なようで難しい。ほとんど推測で読んでしまったが、これをきちんと検証するとなるとかなり大変な作業になるだろう。
 標準語以前の世界は、今日の我々には想像を絶する。だが、それを前近代的という言葉だけで片付けるのは勿体ない。それは今日の先進諸国から消えてしまった夜の闇に似ているのかもしれない。
 そんな播州姫路の句、

 広ふても広かれ世界花にやれ     良々

 案外近代的かもしれない。

2016年10月5日水曜日

 千山に関しては『風羅念仏にさすらう─口語俳句の祖、惟然坊評伝─』(沢木美子、1999、翰林書房)にわずかな記述があった。

 「千山は、生涯弟子を取ることがなかった惟然の唯一の弟子といえるかもしれない。惟然に弟子を取る気持ちはなかったものの、千山自らが惟然に近侍し、以前の口語俳句に傾倒し、その伝播に務め、あらゆる援助をしているのである。千山は姓を井上といい、号を風羅堂、丹頂堂、春曙庵などと称した。家業は姫路酒井侯の御用商人で、書肆も営んでいたといい、播磨俳諧の発展に大きく貢献した。そんな千山に、惟然は芭蕉から貰った遺品を与える約束をしている。」(『風羅念仏にさすらう─口語俳句の祖、惟然坊評伝─』p.188)

 その姫路には、良々、厚風、至楽、冬月、定當、多幸、雪柯などの面々がいた。
 惟然の超軽みの俳諧は、基本的には禅の文化にありがちな、地道な修行や思索を重ねることで真理を得るのではなく、その場のひらめきによる頓悟を求め、理屈抜きで意味のないことに意味を見出そうとする傾向によるものであろう。江戸後期になるが仙厓義梵の絵などにも通じるものがある。
 『二葉集』に載っている面(面六句)をちょっと見ておこう。

   其の一
 おさだまりぞないてや雁の渡るらん  厚風
   うかりうかりと秋をくらいた   凉風
 是もまた食になる葉ぞ月にみや    惟然
   すべりころべど土はかまわぬ   定當
 此橋は作物ばしか作蔵か       多幸
   いつの間にまあ我はとうから   元用

 発句、

 おさだまりぞないてや雁の渡るらん  厚風

は今で言う「お約束」ということか。秋になれば雁は鳴きながら日本に渡ってくるというのは、あまりに月並みな趣向だから、ちょっと自虐的に「お約束だけど」と言ってみたのだろう。

   おさだまりぞないてや雁の渡るらん
 うかりうかりと秋をくらいた   凉風

 「うかり」は「憂かり」か。もちろん「雁」と掛けている。「くらいた」というのは「暮にした」ということか。「暮」を「くらう」と動詞化したのだろう。秋。

   うかりうかりと秋をくらいた
 是もまた食になる葉ぞ月にみや    惟然

 これは里芋のことだろうか。里芋は昔から月に供えるもので、芋名月という言葉もある。前句の「くらいた」を「食らうた」に取り成したか。秋。

   是もまた食になる葉ぞ月にみや
 すべりころべど土はかまわぬ   定當

 「月にみや」を月のある明るい夜に見たほうがいいという意味の取り成す。ほら言ったこっちゃない、土のやわらかい所に足を取られて転んだじゃないか。無季。

   すべりころべど土はかまわぬ
 此橋は作物ばしか作蔵か       多幸

 「作物ばし」は作り物の橋、形だけの橋ということか。「作蔵」はデジタル大辞泉によると、「男根を擬人化した語。」だそうだ。ってことはシモネタか。無季。

   此橋は作物ばしか作蔵か
 いつの間にまあ我はとうから   元用

 「とうから」は意味不明。「とうがらし」だと秋になるので、ここでは出せない。「きびがら」のことか。

   其の二
 どつこいなどつこいどこいほうなげた  多幸
   はつはつはつと秋風が吹く       凉風
 のらりくらりやだけるさかひ月暮て   元用
   めつたやたらに雁が啼はい     定當
 其所(そこ)ちつと大事の事がのいてくれ 千山
   隣にやまぶ何をごろつく      元灌

 発句、

 どつこいなどつこいどこいほうなげた  多幸

の「どつこい」は「どすこい」のことか。どすこい、どすこい、どこへほうりなげた、と相撲の句で秋の句となる。

   どつこいなどつこいどこいほうなげた  多幸
 はつはつはつと秋風が吹く       凉風

 「つ」は小さな「っ」で、はっはっはっ、と笑うように秋風が吹くということか。秋。

   はつはつはつと秋風が吹く
 のらりくらりやだけるさかひ月暮て   元用

 「やだける」は方言か。意味不明。「よだけし」が訛って動詞化したものか。だとすると、のらりくらりと面倒くさがって何もしないうちに日が暮れて月が出る。秋。

   のらりくらりやだけるさかひ月暮て
 めつたやたらに雁が啼はい     定當

 これは説明の必要もなさそうだ。秋。

   めつたやたらに雁が啼はい
 其所(そこ)ちつと大事の事がのいてくれ 千山

 雁にそこ通るからどいてくれというだけのことか。何か別の意味があるのか、不明。無季。

   其所(そこ)ちつと大事の事がのいてくれ
 隣にやまぶ何をごろつく      元灌

 「やまぶ」は山伏。といってもただのごろつきか。無季。

   其の三
 まあ寝まいあれほど月が晴て居る   凉風
   ふらふらふらのすすきふらふら  惟然
 くはとその猫にはかえぬ鳥啼て    定當
   今のどさりは何じゃどさりは   千山
 こまりますそれではあまりどふもども 元用
   たつた所は男いつぴき      多幸

 発句、

 まあ寝まいあれほど月が晴て居る   凉風

 せっかく月が晴れてよく見えるのだから寝るまいぞ。わかりやすい。秋。

   まあ寝まいあれほど月が晴て居る
 ふらふらふらのすすきふらふら  惟然

 これは揺れる薄が催眠術のように眠気を誘うということか。秋。

   ふらふらふらのすすきふらふら
 くはつとその猫にはかえぬ鳥啼て    定當

 「にはかえぬ」は「俄か得ぬ」か。ねこが「くわっ」と威嚇したが、捕まえることのできない鳥が鳴いている。秋は三句つづけなくてはいけない所だが、ここ無季。

   くはとその猫にはかえぬ鳥啼て
 今のどさりは何じゃどさりは   千山

 「どさり」は多分猫が木から落ちた音でしょう。無季。

   今のどさりは何じゃどさりは
 こまりますそれではあまりどふもども 元用

 これは女中か何かの台詞か。ちょっとシモネタに走ってないか。無季。

   こまりますそれではあまりどふもども
 たつた所は男いつぴき      多幸

 やっぱシモネタじゃん。無季。
 まあ、こんな感じの他愛のない句が、惟然の超軽みの行き着いた所なのだろう。

2016年10月4日火曜日

 今日、注文していた『蕉門俳諧続集』(1927、日本俳書大系刊行会)が届いた。
 ぱらぱらとめくっていたら、露川撰『庵の記』の中に、許六の「辧柄の毒々しさよ蔓玆舎華」の句があった。
 千山撰の『花の雲』の雑体のところにこんな句があった。

   名所もそこそこに
 猫の居る木は何じややら何じややら   洛茨

 雑体だから無季題で、前書きに「名所」とあるから名所に分類できるのかもしれないが、それもそこそこに猫のいる木が気になってしまい、名所の本意ともほど遠い。惟然の超軽みの風の産物か。

   空裏を走のこころならんか
 さあさあさあ爰(ここ)でサアサア盃を 至楽

 「空裏を走」は「八角磨盤空裏を走る」という禅問答から来た言葉で、この心に通じないだろうかというわけだ。内容はただ盃をというだけの句。八角形の石臼が空の裏側を走るなんてのは今で言えばシュールというところだろう。まあ、結局「意味がない」ということを言いたかったのだろうか。この世のすべては本当は意味なんてないんだとでも言いたげだ。一応「釈教」になるのか。

   ちちぶ山
 ここちよい尻つき出いてちちぶ山   ララ

 俳号も人を食ってるが、どうせエロ爺の句だろう。漢字で書けば「良々」のようだ。秩父山は名所だから「名所」の句。

 どつかりと上から臼がこけました  (少年)黄瓜

 まあ臼が転げてもおかしい年頃なのか。こういう意味のない句でも禅だと言えば通っちゃうんだろうな。
 撰者の井上千山(AKA千山風人)は播州の人で、惟然の門下であるとともに、鬼貫、来山など、芭蕉が制圧できなかった大阪談林系の人たちとも交流があったようだ。

2016年10月3日月曜日

 昨日は横浜のオクトーバーフェストに行った。
 近代になっていろいろ新しい季語ができたから「オクトーバーフェスト」も秋ということになるのだろう。まあ、「オクトーバー」だけでも秋だが。ただ長音を示す「ー」を勘定に入れないにしても7文字もあるから、残る10文字しか自由に使えないので作りにくい。
 ビールも近代に入ってから夏の季語になったが、最近はクラフトビールが浸透してきて、キンキンに冷えたビールをガーッとやるばかりがビールではなくなってきているので、そのうち見直しが必要になるかもしれない。
 うまいビールは十月にそれほど冷やさないで飲んでもうまい。オクトーバーフェストのための「フェストビア」は秋とすべきだろう。フェストビアは3月に仕込むことからメルツェン(三月)とも呼ばれている。3月に仕込んで10月まで長期熟成させると濃厚でフルーティーなビールに仕上がる。
 会場の赤レンガ倉庫の脇の芝生には赤とんぼが飛んでいた。赤とんぼに限らずトンボは秋の季題。近代ではトンボの種類で夏にしたり秋にしたりしているようだ。
 フェストビアを飲んで芝生に寝転がり、赤とんぼを眺めるのは至福のひと時というべきか。昨日は予報に反してよく晴れたいい天気で、空も次第に赤く染まる。

 フェストビア飲んでないのは赤とんぼ

2016年10月1日土曜日

 先日紹介した、

 おそろしき谷を隠すか葛の花  桃隣

の句だが、「葛の花」が近代俳句では秋なので、ついついその調子で季について触れなかったが、江戸時代には「葛の花」は夏の季題だった。一緒に並んだ「青山椒」の句も夏。
 たびたび登場する曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』でも「葛の花」は夏の六月のところにある。

葛の花:蘇頌曰、葛は春苗を生じ藤(つる)を引。蔓一二丈。[和漢三才図会]花、豆の花に似て大きく、実もまた黄色豆の莢の如し。(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』岩波文庫、p.404)

 ただ、実際葛の花が咲くのは新暦で言えば8月の終わりから9月の初めぐらいで、あまり夏という感じはしない。
 あるいは、本当は「おそろしき谷を隠すか葛の原」としたかったところを、まだ夏なので「葛の花」としたか。