2021年1月31日日曜日

  今日も一日快晴。月がよく見える。
 コロナもこの調子だと月曜日の東京は500人切りそうだ。政府が無策でも感染が収まる、本当に不思議な国だ。感染者の監視システムはおろか、罰則もなければ義務すらない。
 思うにアンチというのは最初の流行に乗り遅れた人の中で、とりわけプライドの高い人というのは後追いするのを恥と思って、へっ俺はそんなもん興味ねえんだと強がってしまうところから生まれるんではないかと思う。
 去年の今頃既にネットでは中国が大変なことになっていると騒いでいたが、それに乗り遅れたプライドの高い人たちというのが、コロナなんてただの風邪だだとかコロナはフィクションだって言ってるんじゃないかな。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   余波の鳫も一くだり行
 上下の越の白山薄霞       信徳

 雁が「こしのしらやま」を越えて行く。今は加賀白山(かがはくさん)と呼ばれている。

 君がゆく越の白山知らねども
     雪のまにまにあとはたづねむ
              藤原兼輔(古今集)

の歌に詠まれている。
 謡曲『白髭』に、「天つ雁、帰る越路の山までも」とある。
 「上下(かみしも)」は裃のことだが、ここでは「裃の腰」と掛けて枕詞のように用いられている。

 五十二句目。

   上下の越の白山薄霞
 百万石の梅にほふなり      桃青

 白山は加賀国にあるので加賀百万石の梅が匂う。
 五十三句目。

   百万石の梅にほふなり
 昔棹今の帝の御時に       信章

 「棹」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「ここでは検地のこと。『昔棹』は文禄の検地のことか」とある。いわゆる太閤検地。
 ちなみに延宝五年の時の帝は霊元天皇で寛文三年即位、貞享四年に退位した。
 五十四句目。

   昔棹今の帝の御時に
 守随極めの哥の撰集       信徳

 ウィキペディアによれば霊元天皇は、

 「霊元天皇は、兄後西天皇より古今伝授を受けた歌道の達人であり、皇子である一乗院宮尊昭親王や有栖川宮職仁親王をはじめ、中院通躬、武者小路実陰、烏丸光栄などの、この時代を代表する歌人を育てたことでも知られている。後水尾天皇に倣い、勅撰和歌集である新類題和歌集の編纂を臣下に命じた。」

とある。
 守随(しゅずい)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、幕府の許しにより、東三三か国における秤のこと一切をつかさどる特権をもった、江戸秤座(はかりざ)守随彦太郎家。または、守随家によって製作、検定された秤。転じて、一般に秤をいう。なお西三三か国は、神善四郎家が、京秤座としてつかさどった。
  ※御触書寛保集成‐三四・承応二年(1653)閏六月「一 守随、善四郎二人之秤目無二相違一被二仰付一候上ハ、六拾六箇国ニて用レ之、遣可レ申事」

とある。前句の「棹」と縁がある。ただ、霊元天皇が守随を極めたとは思えない。
 五十五句目。

   守随極めの哥の撰集
 掛乞も小町がかたへと急候    桃青

 前句の「守随」を商人の持つ天秤として、「哥の撰集」だから小野小町の所へ年末決算の掛売りの代金を取りに行く。これも時代を無視したシュールギャグ。
 五十六句目。

   掛乞も小町がかたへと急候
 これなる朽木の横にねさうな   信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもある通り、謡曲『卒塔婆小町』に、

 「余りに苦しう候に。これなる朽木に腰をかけ休まばやと思い候」

とある。掛乞いの取り立て先は小野小町のことだから「これなる朽木」の横だろう。
 五十七句目。

   これなる朽木の横にねさうな
 小夜嵐扉落ては堂の月      信徳

 堂に泊まろうと思ってたら嵐で扉が壊れていたので朽木の横に寝る。
 五十八句目。

   小夜嵐扉落ては堂の月
 ふる入道は失にけり露      桃青

 昔ここにいた老いた入道はいなくなっていた。涙の露(TдT)。
 五十九句目。

   ふる入道は失にけり露
 海尊やちかい比まで山の秋    信章

 前句の「ふる入道」を常陸坊海尊とする。
 常陸坊海尊はウィキペディアに、

 「源義経の家来となった後、武蔵坊弁慶らとともに義経一行と都落ちに同行し、義経の最後の場所である奥州平泉の藤原泰衡の軍勢と戦った衣川の戦いでは、源義経の家来数名と共に山寺を拝みに出ていた為に生き延びたと言われている。」

とある。
 また、

 「江戸時代初期に残夢という老人が源平合戦を語っていたのを人々が海尊だと信じていた、と『本朝神社考』に林羅山が書いている。」

とあるので、「ちかい比まで」生存説があったようだ。
 六十句目。

   海尊やちかい比まで山の秋
 さる柴人がことの葉の色     信徳

 山の秋だから葉の色は赤。つまり赤嘘(あかうそ)。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「あか」は全くの意の接頭語) 全くのうそ。まっかなうそ。
  ※俳諧・毛吹草(1638)六「赤うそといはん木葉(このは)の時雨哉〈由氏〉」

とある。海尊は遠い昔に死んでいる。
 六十一句目。

   さる柴人がことの葉の色
 縄帯のそのさまいやしとかかれたり 桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、謡曲『志賀』の、

 「さりながら、かの黒主が歌の如く、その様いやしき山賤の薪を追ひて花の蔭に休む姿はげにも又‥‥数多き言の葉の心の花の色香までも」

を引用している。これは古今集仮名序の、

 「おほとものくろぬしは、そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」

による。
 前句の柴人を大友黒主とする。
 六十二句目。

   縄帯のそのさまいやしとかかれたり
 これぞ雨夜のかち合羽なる     信章

 「かち合羽」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「合羽の両袖があって裾の短いものをいう。歩行者用。」とある。「雨夜」はここでは品定めではなく、

 弥陀頼む人は雨夜の月なれや
     雲晴れねども西へこそゆけ
             西行法師(玉葉集)

という謡曲『百万』に引用されている歌で、前句の卑しい様を巡礼者としたのではないかと思う。
 六十三句目。

   これぞ雨夜のかち合羽なる
 飛乗の馬からふとや子規      信徳

 通りすがりの馬に乗せてもらったがホトトギスの声がしたので、よく聞こうとして馬を降りてしまった。これぞ徒歩合羽。

   みちゆく人きのもとにゐてほととぎすの
   なきてゆくをおよびさしていふことあるべし
 たまほこの道もゆかれずほととぎす
     なきわたるなるこゑをききつつ
               紀貫之(古今集)
の歌のも通じる。
 雨のホトトギスは、

 五月雨に物思ひをれば郭公
     夜ふかく鳴きていづちゆくらむ
               紀友則(古今集)

の歌がある。
 六十四句目。

   飛乗の馬からふとや子規
 森の朝影狐ではないか       桃青

 「狐を馬に乗せたよう」という諺はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「ぐらぐらと動いて落ち着きのないこと。また、あいまいでつかみどころのないこと。言うことに信用がおけないこと。きつねうま。
  ※俳諧・毛吹草(1638)二「きつねむまにのせたるごとし」

とある。
 ホトトギスの一声は、

 ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
     ただ有明の月ぞ残れる
              後徳大寺左大臣(千載集)

のように明け方に詠まれることも多い。
 馬に何かが飛び乗ってきたと思ったらホトトギスだった。きっと狐が化けたのだろう。

2021年1月30日土曜日

  『解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版)』( Kindle版)をダウンロードした。謡曲240曲収録で語彙検索ができるので、出典探しが楽になるのではないかと思う。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   胸算用の薄みだるる
 勝負もなかばの秋の浜風に    桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「勝負半ばと半ばの秋とを言い掛けた。碁のあげ石をハマと言う。」とある。
 中盤で大石が死んでしまいアゲハマに大きな差ができたということか。大きな読み違えをしたのだろう。心の中に秋風が吹く。
 三十八句目。

   勝負もなかばの秋の浜風に
 われになりたる波の関守     信章

 「われ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「『勝負なしの相撲をいふ』(俚言集覧)とある。今の相撲では使われてない。引き分けがないせいか。
 「波の関守」は古代東海道の清見が関で、薩埵峠の道がなかった時代には海岸沿いの波が高いと閉鎖される危険な道を通ったために、波の関守と呼ばれた。

 さらぬだにかはらぬそでを清見潟
     しばしなかけそなみのせきもり
              源俊頼(続詞花集)

の歌がある。
 浜辺で相撲を取っていたら波が来て引き分けになる。
 三十九句目。

   われになりたる波の関守
 顕れて石魂たちまち飛衛     信徳

 「石魂」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「謡曲・殺生石『形は今ぞ現す石の二つに割るれば石魂忽ち現れ出でたり』。」とある。石になった玉藻前のことをいう。その玉藻前の霊を成仏させる話で、そのときに石魂が割れる。
 波の関守は須磨にもいる。

 いととしく都こひしき夕くれに
     波のせきもるすまのうらかぜ
              源俊頼(堀河百首)

 千鳥を出すことで舞台を須磨に転じているのかもしれない。石魂が千鳥になるというのは何か出典があるのか、よくわからない。
 四十句目。

   顕れて石魂たちまち飛衛
 ふるい地蔵の茅原更行      桃青

 前句の石魂をお地蔵さんの霊験によるものとした。それっぽい霊験譚として別の展開を図る。
 四十一句目。

   ふるい地蔵の茅原更行
 塩売の人通ひけり跡見えて    信章

 塩売はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「塩の取引商人。日本では塩は海岸地方でのみ生産されるといった自然的・地理的制約があるので,山間・内陸地方の需要を満たすため,製塩地と山間・内陸地方との間に古くから塩の交易路,すなわち塩の道が開かれ,そこを塩商人が往来し,各地に塩屋・塩宿が生まれた。塩の取引には,古代から現代に至るまで製塩地の販女(ひさぎめ)・販夫が塩・塩合物をたずさえて,山間・内陸地方産の穀物・加工品との物々交換を行ってきた。とくに中世に入って瀬戸内海沿岸地方荘園から京都・奈良に送られていた年貢塩が途中の淀魚市などで販売されるようになると,大量の塩が商品として出回るようになり,その取引をめぐって各種の塩売商人が登場した。」

とある。江戸時代に関しては「世界大百科事典内の塩売の言及」に、

 「江戸時代にはいると,寛文年間(1661‐73)には全国海上交通網の整備によって,瀬戸内塩が全国市場に流通し,全流通量の90%を占めるようになり,恒常的に塩廻船が需要地に直送した。生産地からの出荷は,貢租を納めたあと自由搬出される型と,藩専売制によるものとがあった。」

 塩はどんな山奥で暮らしていても必要なもので、古くから塩売のための道ができていた。前句の茅原のなかの古い地蔵も、そうした塩売の通う道とした。
 四十二句目。

   塩売の人通ひけり跡見えて
 文正が子を恋路ならなん     信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「文正草子」とある。ウィキペディアに、

 「室町時代に成立した御伽草子の1つ。塩売文正・塩焼文正・ぶん太物語などの異名がある。」

とあり、

 「常陸国の鹿島大明神の大宮司に仕えていた雑色の文太はある日突然大宮司に勘当され、その後塩焼として財産をなして『文正つねおか』と名乗る長者となる。後に鹿島大明神の加護で2人の美しい娘を授かるが、ある日姉は旅の商人と結ばれてしまう。だが、その商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子である二位中将の変装であった。姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。」

という物語だという。まあ、塩売って大儲けし、娘は宮中へ玉の輿という庶民願望の物語のようだ。
 四十三句目。

   文正が子を恋路ならなん
 今日より新狂言と書くどき    桃青

 「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。
 前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、

 「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」

とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。
 四十四句目。

   今日より新狂言と書くどき
 物にならずにものおもへとや   信章

 新狂言の言葉を使って手紙を書いて口説いたがものにはできなかった。ものになってなにのに、もの思ふとはこれいかに。
 四十五句目。

   物にならずにものおもへとや
 或時は蔵の二階に追込て     信徳

 今でも「ものにならない」は仕事のできない、使えないという意味で用いられる。蔵の二階で反省しろということか。
 四十六句目。

   或時は蔵の二階に追込て
 何ぞととへば猫の目の露     桃青

 二階に追い込まれたのは猫だった。
 四十七句目。

   何ぞととへば猫の目の露
 月影や似せの琥珀にくもるらん  信章

 猫の目は琥珀色。月に薄い雲のかかったような色をしている。
 四十八句目。

   月影や似せの琥珀にくもるらん
 隠元ごろもうつつか夢か     信徳

 偉いお坊さんが黄色い衣をきているところから隠元禅師の登場となる。隠元の衣から衣打つに掛けてさらに打つを「うつつ」に掛けて「うつつか夢か」になる。
 四十九句目。

   隠元ごろもうつつか夢か
 法の声即身即非花散て      桃青

 「即非」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「[生]万暦44 (1616).5.14. 福建
  [没]寛文11 (1671).5.20. 長崎
  江戸時代前期に来朝した中国,明の黄檗僧,書家。俗姓は林,法名は如一。師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3(1657)年に来朝。長崎の崇福寺,宇治の萬福寺,豊前の福聚寺などを拠点に黄檗宗の教化に努めた。かたわら書をもって世に聞こえ,隠元,木庵性瑫とともに「黄檗の三筆」と称され,江戸時代の唐様書道界に貢献した。絵も巧みで,崇福寺蔵『牧牛図』,萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』などの作品があり,また著述に『語録』25巻,『仏祖道影賛』1冊がある。」

とある。隠元の弟子。
 ともに寛文の時代に亡くなったので、「花散りて」になる。
 五十句目。

   法の声即身即非花散て
 余波の鳫も一くだり行      信章

 「余波」は「なごり」と読む。「黄檗の三筆」と称された見事な筆跡に帰って行く雁の一行も一行の文のようだ。

2021年1月29日金曜日

 今日は旧暦十二月十七日で満月。今日は一日良く晴れて月が見えた。
 昨日一昨日に続いて『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』(講談社現代新書)で、ますマルガブだが、冒頭からコロナがあたかも大きな問題でないかのように温暖化の方が深刻と言い出す。しかもコロナとの戦いはフィクションで、ウイルスは友達だという。あとはアメリカのネットビジネスへの不信。渋谷で反マスクデモをやっている平塚さんとか仲良くなれそうな感じだ。
 実際に多くの人が死んでいるのだからコロナの脅威は現実でありフィクションではない。ただ、極端な観念論だと、どちらも意味論の問題に解消される。コロナは人を殺すことに何一つ手加減はしないから友達になれといっても無理な話だ。
 サンデルさんはもっぱらアメリカの話だが、トランプ支持者層を能力主義の敗者となった低学歴の労働者層と決めつけているようなところがある。民主党への批判はただ彼らへもっと思いやりを持てというだけのことで、基本的には正しいと思っている。軽蔑するか憐れむかだけの違い。
 あとシジェクの爺さん、何か随分怖がってるね。同じマル系でもマルガブと違うのは、年齢的に感染したらやばいからかな。
 ボトンさんの最悪の事態を想定せよというのとカミュから学べというのは賛成。生への執着を捨てるというのは、多分永遠の命を望むなかれということだと思う。感染していいということではない。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目

   いつ焼つけの岸の欵冬
 よし野川春もながるる水茶碗   信章

 吉野の山吹は、

 吉野河岸の山吹ふくかぜに
     そこの影さへうつろひにけり
              紀貫之(古今集)
 吉野川岸の山吹咲きにけり
     嶺の桜は散りはてぬらん
              藤原家隆(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 水茶碗はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 水などを飲む茶碗のことか。
  ※俳諧・信徳十百韻(1675)「涼しさは錫の色なり水茶碗 湯帷かたしく庭の夏陰」

とある。どうもよくわからないようだ。錫の色とあるから金属製だったのだろう。お湯を入れると熱くて持てないから水専用ということか。
 曲水の宴なら盃が流れてくるが、酒は入ってなくて水茶碗だった。
 二十四句目。

   よし野川春もながるる水茶碗
 紙袋より粉雪とけ行       信徳

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「薬袋」とした、とある。
 紙袋から出した粉薬を粉雪に見立て、水茶碗の水に溶け行く、とする。
 二十五句目。

   紙袋より粉雪とけ行
 風青く楊枝百本けづるらん    桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『和漢朗詠集』の、

 気霽風梳新柳髪 氷消波洗旧苔鬚
 気霽(はれ)ては風新柳の髪を梳(くしけづ)り、
 氷消ては波旧苔の鬚を洗ふ。

から来ているとする。
 楊枝は字面通りだと楊の枝だ。楊と柳は違うが同じ「やなぎ」だし、それ百本をくしけづる(櫛で梳かす)ではなく単に「けづる」とする。和漢朗詠集の詩句を意図的に誤読したところにシュールな面白さが生まれる。最後が「らん」で断定せずに推量とするところも大事。
 二十六句目。

   風青く楊枝百本けづるらん
 野郎ぞろへの紋のうつり香    信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紋楊枝のことだとある。紋楊枝はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、歌舞伎役者などの定紋をつけた楊枝。
  ※俳諧・大矢数千八百韻(1678)一二「紋楊枝十双倍にうりぬらん 人をぬいたる猿屋か眼」

とある。どういう形状の楊枝かはよくわからない。
 西鶴の大矢数の句は役者の紋の入った楊枝が二十倍で売れるというのだから、この頃にも転売ヤーがいたのか。そこで「猿屋」が登場している。日本橋さるやは宝永の創業なのでこの頃はまだなかったが、元禄の頃に書かれた『人倫訓蒙図彙』に「猿は歯白き故に楊枝の看板たり」とあるらしく(ウィキペディアによる)、猿屋を名乗る楊枝屋はそれ以前にもあったのだろう。
 信章の句に「うつり香」とあるから、香りを染み込ませた楊枝だったのだろう。歌舞伎だからまあ、野郎ばかりだが。
 二十七句目。

   野郎ぞろへの紋のうつり香
 双六の菩薩も爰に伊達姿     信徳

 双六は古い形のバックギャモンで、日本では古くから博打に用いられてきた。
 一方それとは別に絵双六という今でいう双六に近いものもあって、ウィキペディアには、

 「絵双六(えすごろく、繪雙六)というのは、上記の盤双六の影響を受けて発達した遊戯で、紙に絵を描いてさいころを振って絵の上のマスの中にある駒を進めて上がりを目指すものである。ただし、かなり早い段階で(賭博の道具でもあった)盤双六とは別箇の発展を遂げていった。
 ただし、最古のものとされる浄土双六には絵の代わりに仏教の用語や教訓が書かれており、室町時代後期(15世紀後半)には浄土双六が遊ばれていたとされる。なお、その名称や内容から元は浄土宗系統の僧侶によって作られたとも言われ、江戸時代の井原西鶴の作品(『好色一代男』など)には浄土双六がしばしば登場する。」

とある。
 この句にある「双六の菩薩」は絵双六の方であろう。
 二十八句目。

   双六の菩薩も爰に伊達姿
 衆生の銭をすくひとらるる    桃青

 前句の双六を浄土双六ではなくギャンブルに用いる盤双六に転じる。菩薩が伊達姿で賭場を開いて、衆生救済ではなく、衆生の銭を掬い取る。桃青ならではなシュール展開になる。
 二十九句目。

   衆生の銭をすくひとらるる
 目の前に嶋田金谷の三瀬川    信章

 三瀬川(みつせがわ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 仏語。亡者が冥土(めいど)に行く時に渡るという川。渡る所が三か所あり、生前の罪の有無軽重によってどこを渡るかを決定するとされる。みつのせがわ。三途の川。
  ※蜻蛉(974頃)付載家集「みつせがはあささのほどもしらはしと思ひしわれやまづ渡りなん」

とある。三途の川のこと。嶋田金谷の三瀬川は越すに越されぬ大井川のこと。渡るのに銭を取られる。
 三十句目。

   目の前に嶋田金谷の三瀬川
 から尻沈む淵はありけり     信徳

 「から尻」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 江戸時代の宿駅制度で本馬(ほんま)、乗掛(のりかけ)に対する駄賃馬。一駄は本馬の積荷量(三六~四〇貫)の半分と定められ、駄賃も本馬の半額(ただし夜間は本馬なみ)を普通としたが、人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに、五貫目までの荷物をうわのせすることができた。からじりうま。かるじり。
  ※仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)一「歩(かち)にてゆく人のため、からしりの馬・籠のり物」
  ② 江戸時代、荷物をつけないで、旅人だけ馬に乗り道中すること。また、その馬。その場合、手荷物五貫目までは乗せることが許されていた。からじりうま。かるじり。
  ※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)五「追分よりから尻(シリ)をいそがせぬれど」
  ※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)四「このからしりにのりたるは、〈略〉ぶっさきばおりをきたるお侍」
  ③ 馬に積むべき荷のないこと。また、その馬。空荷(からに)の馬。からじりうま。かるじり。
  ※雑兵物語(1683頃)下「げに小荷駄が二疋あいて、から尻になった」
  ④ 誰も乗っていないこと。からであること。
  ※洒落本・禁現大福帳(1755)五「兄分(ねんしゃ)の憐(あはれみ)にて軽尻(カラシリ)の罾駕(よつで)に取乗られ」

とある。どれのことかはよくわからないが、とにかく大井川には馬の沈む淵もある。
 三十一句目。

   から尻沈む淵はありけり
 小蒲団に大蛇のうらみ鱗形    桃青

 から尻の①のところに「人を乗せる場合は、蒲団、中敷(なかじき)、小附(こづけ)のほかに」とあるように、小蒲団を尻の下に敷いて乗った。
 鱗形はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 模様や形の名。三角形を一つまたは三つ以上その頂点をあうように組み合わせて配列したもの。歌舞伎では狂言娘道成寺に清姫が蛇体になることを表わした衣装に用い、能楽では鬼女などの衣装に用いる。つなぎうろこ。うろこ。いろこがた。
  ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「小蒲団に大虵のうらみ鱗形(ウロコガタ)〈芭蕉〉 かねの食つぎ湯となりし中〈信章〉」

とある。
 から尻の馬が沈むのは鱗形模様の座布団を敷いたりしたから、大蛇の怒りに触れたからだとする。
 三十二句目。

   小蒲団に大蛇のうらみ鱗形
 かねの食つぎ湯となりし中    信章

 「食(めし)つぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 飯櫃(めしびつ)。おはち。
  2 懐石に用いる道具の一。飯を入れる器。」

とある。金属製の飯櫃も溶けて湯になるような恋。
 前句を「思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す」(ウィキペディアより)とする「安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)」とし、お寺の釣り鐘ではなく「かねの食つぎ」と矮小化することで俳諧にする。
 三十三句目。

   かねの食つぎ湯となりし中
 一二献跡はさびしく暮過て    信徳

 式三献のことであろう。ウィキペディアの「世界大百科事典内の式三献の言及」に、

 「室町時代以後,武家社会の礼法の固定化が進むに伴って整えられた饗膳(きようぜん)形式であるが,年代や料理の流派の差によって内容にはかなりの異同がある。一例を挙げると《宗五大草紙(そうごおおぞうし)》(1528)には,初献(しよこん)に雑煮,二献に饅頭(まんじゆう),三献に吸物といった肴(さかな)で,いわゆる式三献(しきさんこん)の杯事(さかずきごと)を行い,そのあと食事になって,まず〈本膳に御まはり七,くごすはる〉とあり,一の膳には飯と7種のおかず,以下二の膳にはおかず4種に汁2種,三の膳と四の膳(与(よ)の膳)にはおかず3種に汁2種,五・六・七の膳にはそれぞれおかず3種に汁1種を供するとしている。また,〈五の膳まで参り候時も,御汁御まはりの数同前〉とも記されている。」

とある。この後半にある「一の膳には飯と7種のおかず」に食(めし)つぎだけが出てきて、「二の膳にはおかず4種に汁2種」がさ湯だけになって、後はなし。寂しく一日を終わる。釜のお焦げを湯で溶いて飲むなら韓国式だが。
 三十四句目。

   一二献跡はさびしく暮過て
 月はむかしの親仁友達      桃青

 「親仁」は「おやじ」のこと。月だけが友とは寂しい。あと自分の影があれば三人だが、ってそれは李白の「月下独酌」だ。
 三十五句目。

   月はむかしの親仁友達
 蛬無筆な侘ぞきりぎりす     信章

 蛬は「きりぎりす」と読む。コオロギのこと。「無筆」は読み書きができない、「侘」は侘び人のこと。月を友とする。
 三十六句目。

   蛬無筆な侘ぞきりぎりす
 胸算用の薄みだるる       信徳

 薄(すすき)の影に潜んでいれば寒くなっても大丈夫だと胸算用していたコオロギも、その頼みの薄もやがて枯れてしまう。

2021年1月28日木曜日

  昨日に続いて『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』(講談社現代新書)だが、タレブさんの「反脆弱性」という考え方も面白いね。基本的にどんな社会でも程よい混沌が必要なんだと思うよ。何でもかんでも一つの秩序で縛り付けてしまったら、そこで進歩が止まってしまうし、不測の事態への対応が出来なくなってしまっている。老子も「混沌は万物の母」と言っているし、自分の考えにも近い気がする。
 その次のモロゾフさんだが、幸いなことに日本にはまだネオリベラリズムもソリューソニズムもかけらすらない。相変わらずアナログなコロナ対応をやっているが、それでおさまっているから大丈夫だ。
 ピケティさんは相変わらず資本主義を乗り越えるといいながら、その先の世界へのビジョンはないようだ。キャピタルゲインへの累進課税はあってもいいと思う。その場合、筆者のような零細投資家は非課税にしてほしいもんだ。一定の年齢での一律投資資金給付は自分も考えたことがある。ただ、投資せずにパーッとすぐに全部使っちゃう人は必ずいると思う。そういうやつに限って、金がないからもっとよこせって言うもんだ。
 あと日本にはビリオネアは少ない。フォーブス誌のビリオネア番付では2020年の日本の10億USドル以上の資産を保有するビリオネアは30人。最高位が39位、立派な成績ではないか。別に国で規制しているわけではない。ビリオネアを減らすのは政策ではなく文化ではないかと思う。カルロス・ゴーンも逃げ出した国だしね。

 それでは「あら何共なや」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   ふけてしばしば小便の露
 きき耳や余所にあやしき荻の声  信徳

 荻の上風は古くから和歌連歌に詠まれてきたが、これは荻の中で誰かがしょんべんしているというだけ。
 十句目。

   きき耳や余所にあやしき荻の声
 難波の芦は伊勢のよもいち    桃青

 『菟玖波集』に、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻      救済

とあるが、それのもじり。
 「伊勢のよもいち」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「伊勢の人で百人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名」とある。
 十一句目。

   難波の葦は伊勢のよもいち
 屋敷がたあなたへざらりこなたへも 信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に発句の時にも出てきた謡曲『芦刈』の一節が引用されている。

 「雨の芦辺も乱るるかたを波、あなたへざらりこなたへざらり。」

 芦の揺れる様子を表す言葉だが、ここでは伊勢のよもいちが引っ張りだこで、あっちの屋敷へざらり、こっちの屋敷はざらりとなる。
 十二句目。

   屋敷がたあなたへざらりこなたへも
 替せ小判や袖にこぼるる     信徳

 ウィキペディアによると、日本の為替の歴史は古く、

 「日本の『かわせ』の語は中世、『交わす』(交換する)の連用形『かわし』と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。この時代、鎌倉で俸給をもらう下級役人が現れており、俸給として鎌倉に入って来る年貢を先取りする権利が与えられた。その際に権利証書として「為替」が発行されたのである。あるいは、鎌倉番役や京都大番役を勤める中小の御家人が、地元の所領からそれぞれが金銭や米を持ち込まなくとも、大口の荘園や有力御家人の年貢の運送に便乗する形で、鎌倉や京都で金銭や米を受け取るシステムとして、為替の仕組みが生まれている。つまりこの時代の為替は、金銭のみならず米その他の物品の授受にも用いられていたのである。
 いわゆる金銭のみの授受としての、日本で最古の為替の仕組みは室町時代の大和国吉野で多額の金銭を持って山道を行くリスクを避けるために考えられ、寛永年間に江戸幕府の公認を受けた制度であるとされている。吉野には大坂などの周辺地域の商人も出入しており、大坂商人の為替はこれを参照したとする説もある。また、鎌倉時代以来存在した割符との関係も指摘されている。
 江戸時代の日本では、政治・消費都市である江戸と経済的中心である大坂(更に商工業が発展した都・京都を加える場合もある)の間で商品の流通が盛んになった。それは多額かつ恒常的な貨幣流通の需要を生じさせるとともに、支払手段としての貨幣機能の発展、信用取引の発展を促して、両替商あるいは大都市それぞれに店舗を持つ大商人を仲介とした為替取引を発達させた。」

とある。
 金持ちの屋敷から屋敷へ為替や小判は移動するが、なかなか庶民の所には回ってこない。
 十三句目。

   替せ小判や袖にこぼるる
 物際よことはりしらぬ我涙    桃青

 物際(ものきは)はこの場合盆と正月の前の決算のことで、なけなしの為替や小判も袖から出て行ってしまう。
 十四句目。

   物際よことはりしらぬ我涙
 干鱈四五枚是式恋を       信章

 まえくの物際を瀬戸際の意味にする。
 貞享二年に芭蕉は。

 躑躅生けてその陰に干鱈割く女  芭蕉

の句を詠むが、干鱈は棒鱈とちがって柔らかく、水で戻さなくてもそのままかじることができる。干鱈を咲いている様子が女が悲しみに文を引き裂いている様子と似ているというのが俳諧のネタになる。
 干鱈四五枚は本当は手紙四五枚だったのだろう。
 十五句目。

   干鱈四五枚是式恋を
 寺のぼり思ひそめたる衆道とて  信徳

 衆道の多くは環境依存で同性愛になるだけで、寺を出ればノンケに戻ることも多い。今の男子校や女子高のようなもの。本物のLGBTは少数。これしきの恋。
 十六句目。

   寺のぼり思ひそめたる衆道とて
 みじかき心錐で肩つく      桃青

 お寺の閉鎖された環境では衆道もすぐに思い詰めて、喧嘩や心中沙汰も起こりやすい。
 十七句目。

   みじかき心錐で肩つく
 ぬか釘のわづかのことをいひつのり 信章

 「ぬかに釘」という諺がある。「柳に風」と同じ。聞き流せば済むことでもいちいちケチをつけたがる。今のネットもそうだが。
 十八句目。

   ぬか釘のわづかのことをいひつのり
 露がつもつて鐘鋳の功徳     信徳

 前句の「ぬか釘」をただの釘として、塵も積もれば山となるように、釘もたくさん集めればお寺の釣り鐘になる。古い携帯だってたくさん集めればその中のレアアースが再利用できる。
 十九句目。

   露がつもつて鐘鋳の功徳
 うそつきの坊主も秋やかなしむ覧 桃青

 仏教には「方便」という考え方があり、布教の為なら作り話をしてもいいことになっている。「嘘も方便」は諺にもなっている。
 布教のために根も葉もない物語を語っては涙の露を誘い、それが積もり積もって立派な釣り鐘になる。
 今の左翼も革命の為ならフェイクニュースを拡散させてもいいと思っているが、それはちょっとちがう。陰謀説のフェイクニュースは真実だと信じてのものだから、それもまたちがう。
 二十句目。

   うそつきの坊主も秋やかなしむ覧
 その一休に見せばやの月     信章

 今では一休さんというとテレビアニメの影響が強いが、実際はとんでもない破戒坊主だったようだ。その一休さん、

 嘘をつき地獄へおつるものならば
     なきことつくる釈迦いかにせん

という狂歌も残しているという。やはり嘘つきだったようだ。
 二十一句目。

   その一休に見せばやの月
 花の色朱鞘をのこす夕まぐれ   信徳

 一休さんはウィキペディアに、

 「木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。」

とある。昔から有名なエピソードだったのだろう。
 夕日が満開の桜を朱に染めてゆき、やがて満月が登る。一休さんに見せてやりたい。
 二十二句目。

   花の色朱鞘をのこす夕まぐれ
 いつ焼つけの岸の欵冬      桃青

 「欵冬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 植物「ふき(蕗)」の古名。また「つわぶき(橐吾)」の古名ともいう。〔本草和名(918頃)〕」

とある。「款冬」のところを見ると「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「③ 植物「やまぶき(山吹)」の異名。
  ※和漢朗詠(1018頃)上「雌黄を著して天に意(なさけ)あり 款冬(くゎんどう)誤って暮春の風に綻ぶ〈作者未詳〉」

とある。郭公をホトトギスと読むようなもので、欵冬はヤマブキと読む。
 「焼(やき)つけ」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「1 写真で、印画紙の上に原板を重ね、光を当てて露光させ、陽画を作ること。プリント。「べたで焼き付けする」
 2 陶磁器の上絵付けのこと。
 3 金属に塗料を塗ったのち加熱し、塗膜を乾燥・硬化させること。
 4 めっきをすること。」

とある。この場合は4の意味で、黄金色の山吹の花はいつ金メッキをしたのかという意味になる。前句の花の色の朱鞘に応じたもの。
 なお、めっきの技術についてはウィキペディアに、

 「日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている。1871年に偶然発見された仁徳天皇陵の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は仁徳天皇と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない。」

とある。また、エキサイト辞書には「平凡社 世界大百科事典」の「鍍金」の項目が載っていて、

 「アマルガム鍍金は江戸時代に書かれた《装剣奇賞》によると,その一つは,器物の表面をよく磨き,梅酢で洗浄し,砥粉(とのこ)と水銀を合わせてすりつけた上に金箔を置き,火であぶることを2,3度くりかえす箔鍍金法である。もう一つは,灰汁でよく器物を煮,その上を枝炭や砂で磨き,梅酢で洗ったのち,金粉と水銀をよく混合したアマルガムを塗布し,熱を加えると水銀が蒸発し金だけが表面に残る。これを2度ほどくりかえし,鉄針を横にしてこすり,刷毛で磨き,緑青で色上げする方法である。上代では後者に近い方法がとられたものと推定される。アマルガム鍍金は水銀を蒸発させるときに生ずるガスが有害で,人畜の皮膚や呼吸を冒すばかりでなく生命も危険である。平安時代以降には,素地の表面に水銀を塗り,金箔をはって箔を焼きつける技法もあらわれた。また水銀有毒ガスの危険を免れるため,そして鍍金と同様の効果をあげるため,漆で金箔を付着させる漆箔法が塗金法として開発されている。」

とある。

2021年1月27日水曜日

  『新しい世界 世界の賢人16人が語る未来』(講談社現代新書)を読み始めた。そのなかで興味を引いたのがジャレド・ダイアモンドのところだが、もっともこの人については日本の左翼とほとんど変わらないというか、もろに影響を受けているのではないかと思う。歴史観なんかもほとんど司馬史観だ。こういう人たちはたいていドイツを見習えという。
 ただ、後半の方でインタビュアーの方の説に、「トランプに投票した人」と「地元にとどまった人」との相関関係や、同じようなことがブレクジットにもあったという話はなかなか面白い。
 イギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートの言う「エニウエア族」(移動するエリートたち)と「サムウエア族」(地元にとどまる人たち)の対立という視点は、今の世界の「分断」を説明するのにかなり有効ではないかと思う。
 筆者もトランプ大統領の誕生とブレクジットを予想できたが、それは自分が六年間鹿児島にいたことを除けば、小学生時代を過ごした家に今でも住んでいることか関係しているのかもしれない。それに自慢ではないが生まれてこの方一度も海外に行ったことがない。自分自身が地元に留まった側の人間だから、多分トランプやブレクジットに投票した人の気持ちがわかるのだろう。
 昨日の三猿の例も、たとえば地元にとどまる人からすると何の疑問も抱かなかった三猿の画像に、世界を飛び回る人から「これイギリスじゃ大問題になるよ、日本は遅れている」何て言われればやはりカチンと来る。
 留まる人は地元のコミュニティの中で生活し、そこの価値観に従っている。それを飛び回る人たちはあからさまに上から目線で否定する。じゃあ何で世界を飛び回ろうとしないのかというと、基本的には貧しいこと、外国語ができないことなどがある。中にはなけなしの金をはたいて海外へ無銭旅行して、苦労して成り上がる者もいるかもしれない。でもそれをみんなに強いることはできない。
 まだ全部読んでないが、コロナを克服するには強い国家が必要みたいなことを言う人が多いように思える。そんなことはない。何よりも日本が証明したのは、国家が無策でも国民がしっかりしていれば感染を低く抑えることができるということだ。

 それでは俳諧の方だが、旧暦だと今年もまだ日数があるので、まだまだ冬の俳諧を。
 今度はもっと時代を遡って、延宝五年(一六七七年)の冬、芭蕉がまだなく桃青と呼ばれていた頃の、談林流行の真っただ中の百韻興行。
 発句は、

 あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青

 昨日は河豚汁(ふぐとじる)を食ったけど、毒にあたることもなく今日はこうしてぴんぴんして興行ができますよ、という挨拶になる。
 河豚については去年の今頃、2020年1月21日から23日のこの俳話に詳しく書いている。まあ、とにかく河豚はそれほど危険なものではなく、年末の運試しに洒落で食える程度には安全だったと思われる。
 この「あら何共(なんとも)なや」は謡曲『芦刈』の一節を拝借している。芦刈は離縁された妻が夫を探しに大阪へ行くと、難波の葦の、という話だ。
 脇は信章、後の素堂。

   あら何共なやきのふは過て河豚汁
 寒さしさつて足の先迄      信章

 「しさつて」の「しさる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「後ずさりする。「しざる」とも。
  出典平家物語 一二・泊瀬六代
  「蔵人(くらんど)うしろなる塗籠(ぬりごめ)の内へ、しざりいらんとしたまへば」
  [訳] 蔵人が後ろにある塗籠(=周囲を壁で塗りこめた部屋)の中へ、後ずさりして入ろうとなさるので。」

とある。河豚汁で体も暖まって、足の先までぽかぽかする。
 第三は京の信徳。

   寒さしさつて足の先迄
 居あひぬき霰の玉やみだすらん  信徳

 大道芸の居合い抜きだろう。抜いた刀が降ってくる霰にあたって音を立てると、霰の玉が乱れ飛ぶ。
 この描写は後の曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の名刀村雨の描写で「抜けば玉散る」という言葉にも通じ、近代の「抜けば玉散る氷の刃」の原型だったのかもしれない。
 居あい抜きの気迫に寒さも後ずさりするかのようだ。
 信徳はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「江戸前期の俳人。伊藤氏。本姓は山田氏か。通称助左衛門。別号梨柿園(りしえん)、竹犬子。京都の人。裕福な商家の出身で、初め貞門(ていもん)の高瀬梅盛(ばいせい)に師事したが、延宝(えんぽう)(1673~81)初年から談林(だんりん)派の高政(たかまさ)や常矩(つねのり)らに接して、談林風に傾倒。1677年(延宝5)には江戸へ下って芭蕉(ばしょう)らと交流し『江戸三吟』を刊行し、また81年(天和1)には『七百五十韻』など新風体を模索する注目すべき撰集(せんしゅう)を刊行するなど、芭蕉らと歩調をあわせて蕉風俳諧(しょうふうはいかい)胎動の契機をなした。以後も芭蕉らとの交流を続け、元禄(げんろく)期(1688~1704)には言水(ごんすい)、如泉(じょせん)、和及(わぎゅう)、我黒(がこく)らとともに京俳壇で重きをなすが、のちには蕉門との間は疎遠になった。編著『京三吟』『誹諧五(はいかいいつつ)の戯言(たわごと)』『胡蝶(こちょう)判官』『雛形(ひながた)』など。[雲英末雄]
  雨の日や門提(かどさげ)て行(ゆく)かきつばた
『荻野清編『元禄名家句集』(1954・創元社)』」

とある。
 四句目。

   居あひぬき霰の玉やみだすらん
 拙者名字は風の篠原       桃青

 霰と言えば、

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝

の歌がある。霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。
 ウィキペディアには篠原という名字にはいくつか系統があるという。近江国野洲郡篠原郷の篠原、源師房(村上源氏)を祖とする公家の篠原家、上野国新田郡篠原郷(現在の群馬県太田市)の起源の氏族、尾張国の篠原氏、安房国に進出した篠原氏など。
 五句目。

   拙者名字は風の篠原
 相応の御用もあらば池のほとり  信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『実盛』の「行くかと見れば篠原の池のほとりにて姿は幻となりて」の言葉を引いている。
 謡曲『実盛』は加賀篠原を舞台とした斎藤別当実盛の最期をその霊を通じて語らせるもので、中でも「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」の台詞は後に芭蕉が『奥の細道』の旅で、

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

の句を詠むことになる。加賀篠原は今の加賀市の海岸に近いところで、篠原古戦場跡には首洗池がある。これが「池のほとり」になるわけだが、風の篠原、もう死んでいるのか。
 六句目。

   相応の御用もあらば池のほとり
 海老ざこまじりに折節は鮒    信徳

 魚介料理の御用聞きとする。
 七句目。

   海老ざこまじりに折節は鮒
 醤油の後は湯水に月すみて    桃青

 塩味の強い醤油味の魚介料理の後はさ湯ですっきり。
 八句目。

   醤油の後は湯水に月すみて
 ふけてしばしば小便の露     信章

 月に露は付け合いだからこの展開。まあ、下ネタですね。

2021年1月26日火曜日

  庚申待という風習は今ではすっかり廃れてしまっているようで、今でもどこか田舎の方で行われているところがあるのだろうか、よくわからない。
 少なくとも今まで六十年生きてきて、そういう集まりを見たこともなければ身近で行われたという話も聞かない。
 庚申待についての知識は、多分九十年頃だと思うが道教について書かれた本で知った。道端の庚申等に興味を持つようになったのも、もっとあとで狛犬巡りを始めたころからだった。
 小学校の修学旅行で日光東照宮の三猿は見たが、その意味もずっと知らなかった。「見ざる、聞かざる、言わざる」は知っていたが、当時七十年代では若者の社会への無関心とかで揶揄する文脈で用いられることが多かった。
 多分日本でも三猿の意味について答えられる人は少ない。イギリスの方で黒人を差別する文脈で用いられ、レイシズムの象徴になってしまったのなら残念だが、せめて日本人も三猿の意味を聞かれたときにちゃんと答えられるようにしておいてほしいなと思う。そうしないと人権派の圧力でそのうち三猿は使ってはいけない画像になってしまう。鈴呂屋書庫にも日光に行ったときの画像があるので、それでBANされても困る。
 今日はその鈴呂屋書庫「箱根越す」の巻「たび寐よし」の巻をアップした。それと俳話には書かなかったが「花に遊ぶ」の巻「時は秋」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「冬景や」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   ことしの労を荷ふやき米
 塚の下母寒からむ秋の風     其角

 収穫したばかりの稲で作ったやき米を母の墓所に供える。
 三十二句目。

   塚の下母寒からむ秋の風
 邦を軍にとられ行みち      コ齋

 母を失い古郷は他国に占領され、農地を失い他国へと逃れる。
 三十三句目。

   邦を軍にとられ行みち
 はなのおく鳥うつ音に鐘つきて  仙化

 義経の吉野潜伏とも取れなくはないが、ここは間の二句が欠落していると見た方が良いのだろう。
 挙句。

   はなのおく鳥うつ音に鐘つきて
 すり餌をゆする目白鶯      李下

 「すり餌」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 小鳥を飼うのに用いる日本独特の飼料。川魚を焼いてすりつぶした粉と、糠と玄米粉を煎(い)った粉をこしらえておき、鳥に与える時に青葉やハコベをすりつぶしたものとともに水で練って用いる。煎糠と川魚粉の割合はふつう一〇対五でこれを五分餌と呼び、川魚粉を多くし、七分餌、八分餌などを与えることもある。腐りやすいので毎日調製しなければならない。昆虫を主食とする小鳥はヒエやアワなどの穀類で飼うことができないために工夫された。〔運歩色葉(1548)〕
  ※俳諧・桜川(1674)春一「法華経の鳥のすり餌は法味哉〈治尚〉」

とある。前句の「鳥うつ音」を鳥の羽打つ音として、飼われているメジロとウグイスとする。これにて殺生もなく目出度く一巻は終了する。
 江戸時代にはもちろんメジロとウグイスは区別されていた。ただ、ツルとコウノトリのように、しばしば混同されることもあったのではないかと思う。今でもそうだがみんなが生物学者ではないので、必ずしもみんなが正確に認識しているわけではない。タヌキとムジナ(アナグマ)に関しても、声のブッポウソウ(コノハズク)と姿のブッポウソウにしてもそうだろう。江戸時代でもみんなが本草家ではない。
 そのため、この俳話で種の混同のことに触れることがあっても、別に古人を冒涜するつまりはない。ただ彼らが我々と同じだったというだけの話をしているつもりだ。
 余談だが、逆に現代人を冒涜できる一例を。あの人類進化図というやつだ。今だに前かがみで膝を曲げて棍棒を持つあの姿が描かれているのをよく見るが、あれはとっくに否定された説で、今では人類の進化の初期の段階で完全な二足歩行をしていたことは学界では常識になっているのだが、巷では相変わらず古い図説が用いられている。
 未来の人が見たら平成はもとより令和になってもこの頃の人は原始人が前かがみで膝を曲げてよろよろ歩いていたと信じていた、ということで笑うことだろう。
 あともう一つ。いまだにアマラとカマラの物語を科学だと信じている連中がいるのもはずい。

2021年1月25日月曜日

  今日は晴れて暖かくなった。
 昨日の話の続き。まあ、とにかく心がどうであれ、子宮を持つものはペニスを持つ者の脅威から守られなくてはならない。それだけ。

 「それでは「冬景や」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   桃になみだが一国の酔
 朝がすみ賢者を流す舟みえて   芭蕉

 まあ、真面目な芭蕉さんだからここは本当に国が傾くことにする。国を顧みない皇帝に賢者が左遷されてゆく。杜甫も華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷された。
 二十句目。

   朝がすみ賢者を流す舟みえて
 詞のうみと絵に讃を乞      其角

 「詞のうみ」は『和漢朗詠集』の、

 文峯案轡白駒景 詞海艤舟紅葉声
 文峯に轡を案ず白駒の景、
 詞海に舟を艤(よそ)ふ紅葉の声

に出典があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 ことばや詩歌の豊富なことを、海の広大なのにたとえていう語。
  ※和漢朗詠(1018頃)上「文峯に轡を案ず白駒の景、詞海に舟を艤(よそ)ふ紅葉の声〈大江以言〉」
  ※本朝無題詩(1162‐64頃)二・賦連句〈藤原茂明〉「文賓詩友今為レ道、詞海如何欲レ釣レ名」 〔元稹‐献滎陽公詩〕」

とある。
 前句の左遷されてきた賢者に詩歌の才能があるからということで絵に讃を乞う。平易な言葉でも良さそうなところをわざわざ「詞海」という言葉を引いてくるところが其角らしい。
 二十一句目。

   詞のうみと絵に讃を乞
 松しまは雲居の庵に酒をのみ   李下

 雲居希膺(うんごきよう/うんごけよう)はウィキペディアに、

 「寛永13年(1636年)に伊達忠宗の招請があった奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興した。」

とある。後に芭蕉が書く『奥の細道』には、

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出たる嶋也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有あり。」

とある。曾良の『旅日記』にも、

 「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」

と記されている。前句の「詞の海」に松島の海を重ね合わせる。
 二十二句目

   松しまは雲居の庵に酒をのみ
 心は媚ず幾とせのたび      コ齋

 ウィキペディアによると雲居希膺は、

 「宇山大平寺にて9歳で出家する。その後、東福寺、大徳寺と居を移す。慶長11年(1606年)、愚堂東寔や大愚宗築らとともに虎哉宗乙や物外招播などの当時の名だたる禅僧の下を遍参した。元和2年(1616年)に妙心寺蟠桃院の一宙東黙より嗣法する。その後、若狭国小浜、摂津国勝尾山に隠遁する。元和7年(1621年)に妙心寺で開堂の儀を行うが、自らの境涯に満足せず修行を続け寛永9年(1632年)51歳にして越智山で座禅をした際に大悟した。寛永13年(1636年)に伊達忠宗の招請があった奥州へ移り、松島の瑞巌寺を再興した。正保元年(1644年)に石馬寺を中興。正保2年(1645年)に妙心寺153世となり、慶安3年(1650年)には愛子の大梅寺を開いている。万治2年(1659年)に同寺順世し、葬られる。慈光不昧禅師、大悲円満国師と贈諡された。」

とまさに「心は媚ず幾とせのたび」という生き方だった。前句を「雲居は庵に酒をのみ」という意味に取り成す。
 二十三句目。

   心は媚ず幾とせのたび
 四ッの時冬はあられのさらさらと 文鱗

 「四ッの時」は四時のことだが、四時はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙
  ① 春・夏・秋・冬の四つの季節の総称。四運。四季。よつのとき。しいじ。
  ※田氏家集(892頃)下・禁中瞿麦花詩三十韻「四時翫好、蘼可レ愛」
  ※俳諧・常盤屋の句合(1680)二五番「臘月の青物に、四時不変の国をおもひよせたるも奇特、左右わかちなし」 〔易経‐乾卦〕
  ② 一月中の、晦(かい)・朔(さく)・弦(げん)・望(ぼう)の四つの時。
  ③ 一日中の、朝・昼・夕方・夜の四つの時。また、黄昏・後夜・早晨・晡時の四つの時。
  ※日蓮遺文‐撰時抄(1275)「末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時礼懺四時の坐禅、生身仏のごとくなりしかば」
  〘名〙 昔の時刻の名。現在の午前、または午後の一〇時。
  ※藤河の記(1473頃)「夜の四つ時に八坂といふ里に舟を寄せて」

といろいろな意味がある。おそらくここは①であろう。
 二十四句目。

   四ッの時冬はあられのさらさらと
 水仙ひらけ納豆きる音      芭蕉

 冬の霰さらさら降る頃はもうじき水仙も咲くし、納豆は冬の寒いときに低温で熟成させる。「納豆きる」は引き割り納豆を作る作業で、芭蕉はのちの元禄三年に、

 納豆切る音しばし待て鉢叩き   芭蕉

の句を詠む。鉢叩きの音が聞こえるから納豆を切るのを待ってくれという句。
 二十五句目。

   水仙ひらけ納豆きる音
 片里の庄屋のむすこ角入て    濁子

 「角入(すみいれ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に「すみいれがみ(角入髪)」の略とあり、

 「〘名〙 元祿時代(一六八八‐一七〇四)、男性の半元服(はんげんぷく)の髪型。一四歳になった少年が、前髪の額を丸型から生えぎわどおりに剃ると角(かく)型になるところからいう。すみいれ。」

とある。半元服の髪形は「角前髪(すみまえがみ)」といい、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、元服前の少年の髪形。前髪を立て、額の生え際の両隅をそり込んで角ばらせたもの。すみ。すんま。」

とある。元服すると月代を剃る。角入はその全段階で、今で言う「剃り込み」に近い。
 前句を田舎の庄屋の庭先の情景とし、庄屋の噂を付ける。
 二十六句目。

   片里の庄屋のむすこ角入て
 伊勢おもひ立わらぢ菅笠     コ齋

 半元服でお伊勢参り。まあ、可愛い子には旅をさせよとは言うが。
 二十七句目。

   伊勢おもひ立わらぢ菅笠
 美濃なるや蛤ぶねの朝よばひ   仙化

 「よばひ」はここでは「よばふ」で何度も呼ぶこと。
 蛤と言えば桑名で伊勢国だが、ここでは前句の「わらぢ菅笠」の縁で「美濃(蓑)」にする。とはいえ、美濃は海に面してない。
 二十八句目。

   美濃なるや蛤ぶねの朝よばひ
 ながれに破る切籠折かけ     李下

 「切籠折かけ」はともに盆灯籠のことで、切子灯籠はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形の吊(つ)り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すかし)模様や六字名号(ろくじみょうごう)(南無阿弥陀仏)などを入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある。点灯には、中に油皿を置いて種油を注ぎ、灯心を立てた。お盆に灯籠を点ずることは『明月記(めいげつき)』(鎌倉時代初期)などにあり、『円光(えんこう)大師絵伝』には切子灯籠と同形のものがみえている。江戸時代には『和漢三才図会』(1713)に切子灯籠があり、庶民の間でも一般化していたことがわかるが、その後しだいに盆提灯に変わっていった。ただし現在でも、各地の寺院や天竜川流域などの盆踊り、念仏踊りには切子灯籠が用いられ、香川県にはこれをつくる人がいる。[小川直之]」

とあり、折掛け灯籠はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「細く削った竹2本を交差させて折り曲げ、その四端を方形の薄板の四隅に挿して、紙を張った盆灯籠。《季 秋》」

とある。木曽川と長良川の下流域は水害多発地域でもある。精霊棚は外に置くことも多かった。
 二十九句目。

   ながれに破る切籠折かけ
 月入て電残る蒲すごく      濁子

 激しい雷雨だったのだろう。夜明けには晴れてお盆の満月も沈み稲妻だけがのこり、蒲は水を被って大変なことになっている。
 三十句目。

   月入て電残る蒲すごく
 ことしの労を荷ふやき米     芭蕉

 やき米はウィキペディアに、

 「焼米とは、新米を籾(もみ)のまま煎(い)ってつき、殻を取り去ったもの。米の食べ方・保存法の一つ。 そのままスナック菓子として食べても良いし、汁物に浮かべて粥にして食べるという雑多な利用法があった。米粒状・粉状と形態も様々である。」

とある。収穫して精米せずにすぐに食べられるので、稲刈りの後に食べたのであろう。前句を夕暮れの景色に転じる。

2021年1月24日日曜日

  今日も一日雨だが雪にはならなかった。
 スポーツが男女別に分かれているのは、てっきり男女の身体能力に差があるからだと思っていたが、最近では精神の差で分けるように変わってきている。
 身体的にハンディがあるからというのはまだわかるが、精神に何かハンディでもあるのだろうか。心が女だと何か問題があるのだろうか。男女の精神に差がないのなら分ける必要がないのではないか。
 身体的には明らかに男女に差がある。陸上の女子100メートルの世界記録は10秒49だが、それを上回る男子選手は何百人か、もっといるかもしれない。そのなかに心が女だという人が一人ぐらいいてもおかしくない。他の競技でもそうだと思う。
 将来的には事実上女子として生まれたものがスポーツ大会の上位から締め出される可能性があるし、そもそも何のために男女を別にしているのか考え直した方が良い。
 男と女は生まれながらに身体的に差がある。また性においては明確に非対称性が存在する。肉体的な差を無視して精神において男女を規定すると、結局は生まれた時に男だったものがたとえ精神が女でも明らかに優位に立てる。今は差別を受けているからハンディがあるかもしれないが、差別がなくなれば明らかに優位に立てる。
 心が女でも肉体的に男性としての機能を持っているなら、それは女性にとって脅威になる。心は女だとはいっても性的志向は環境に左右されやすい。心が女でも女性に性的に反応することは実際にありうる。
 精神を基礎とする今の人権派の言うようなLGBTの開放は、LGBT内部でもペニスを持つものが優位に立つことになる。LGBTの開放には賛成だが、LGBTの開放は肉体的な差異にもっと関心を払うべきだ。そうしないと結局は女に生まれたものが、同性愛か異性愛か両刀かにかかわらず男に生まれたもののそれよりも不利になる。
 それでは「冬景や」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   甲にをらんすすき一むら
 太刀持る童のぬれて露しぐれ   仙化

 木の枝か棒を太刀にして遊んでる子供であろう。ススキに露が降りていて、それを頭にかざそうとすると頭が露で濡れてしまう。
 八句目。

   太刀持る童のぬれて露しぐれ
 車のみすにつつむすずむし    濁子

 前句の「太刀持る童」を太刀持ちの侍童(さぶらいわらわ)とする。goo辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「貴人のそばに仕えて雑務をする少年。さむらいわらわ。
 「をかしげなる―の姿好ましう」〈源・夕顔〉」

とある。
 九句目。

   車のみすにつつむすずむし
 尋来る友引地蔵茅朽て      其角

 「友引地蔵」は謎だがウィキペディアには、

 「六曜が中国から日本に伝来したのは14世紀の鎌倉時代とされる。江戸時代に入って六曜の暦注は流行した。しかし、その名称や解釈・順序は少しずつ変化している。例えば小泉光保の『頭書長暦』では大安、立連、則吉、赤口、小吉、虚妄となっている。六曜の先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の術語が確定するのは江戸後期のことである。」

とあるから、今の意味での「友引」ではなかったと思われる。単に長年会ってない友に会えるとか、そういうご利益のある地蔵なのか。
 前句を茅の朽ちた地蔵を尋ねて止めた貴族の車の周りで鳴いている鈴虫として、車を包む鈴虫の声とする。
 十句目。

   尋来る友引地蔵茅朽て
 うれしと飢にいちご拾はん    枳風

 前句の「茅朽て」を飢饉として、お地蔵さんのところに来たらナワシロイチゴが実っていて、早速ご利益を得る。「うれし」は「嬉しい」と「熟れし」を掛けている。
 十一句目。

   うれしと飢にいちご拾はん
 櫛かがみまくらに添て残しけり  仙化

 前句の「うれし」を更に「売れ」と掛ける。母に先立たれ形見に櫛と鏡を残された子は、まずはイチゴを摘んで飢えを満たす。
 十二句目。

   櫛かがみまくらに添て残しけり
 御歌合明日とちぎる夜      其角

 王朝時代、通ってきた男が、明日は帝の許での歌合せがあるというので、契った後櫛と鏡を枕元に残して去ってゆく。
 十三句目。

   御歌合明日とちぎる夜
 加茂川の流れを胸の火にほさむ  コ齋

 加茂社歌合としたか。加茂川の流れも干上がるほど恋をしてというような歌を思いつく。
 十四句目。

   加茂川の流れを胸の火にほさむ
 萩ちりかかる市原のほね     芭蕉

 京都市原の補陀落寺は小野小町の終焉の地とされている。謡曲『通小町』では、僧が市原に訪れると、

 秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
     小野とは言はじ薄生ひけり

という歌が聞こえてくる。この歌は鴨長明の『無名抄』では、在原業平が陸奥を旅した時に、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」という歌が聞こえてきて、行ってみると目から薄の生えた髑髏が見つかる。人に聞くとここが小野小町の終焉の地だという。そこで業平が「小野とはいはじ薄生ひけり」と付けたという物語になっている。謡曲では陸奥ではなく京都市原になっている。
 このことを踏まえて、前句を小野小町の恋歌として、市原の小町の髑髏に萩を添えて弔う歌にする。
 十五句目。

   萩ちりかかる市原のほね
 鵙の鳴方に杖つく夕まぐれ    文鱗

 前句の骨をモズの早贄とする。モズの鳴く方に行ってみたら早贄が見つかる。
 十六句目。

   鵙の鳴方に杖つく夕まぐれ
 牛を彩なす月のそめぎぬ     濁子

 日は沈み月が出て牛を照らし出す。江戸時代までの日本在来牛は色の濃い黒っぽいのが多いので、この場合の「そめぎぬ」は墨染の衣、僧衣のことか。
 十七句目。

   牛を彩なす月のそめぎぬ
 花の日を忘八の長とかしづかれ  李下

 「忘八」は「くつわ」と読む。weblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「《仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌(てい)の八つの徳目のすべてを失った者の意から》郭(くるわ)通いをすること。また、その者。転じて、遊女屋。また、その主人。」

とある。忘八の長は女郎屋の主人ということになる。
 そうなると前句の「牛」は妓夫(ぎゅう)のことか。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「遊里で客を引く男。遣手婆について,二階の駆引き,客の応待などもした。私娼や夜鷹についている場合もある。「牛」または「牛太郎」ともいい,「妓有」とも書くが,「妓夫」の字をあてたのは明治以降のことであるといわれる。この言葉の源は,承応の頃 (1652~55) ,江戸,葺屋町の「泉風呂」で遊女を引回し,客を扱っていた久助という男にあり,『洞房語園』によると,その男の煙草 (たばこ) を吸うさまが「及 (きゅう) 」の字に似ていたので,人々が彼をして「きゅう」というようになり,それがいつしか「ぎゅう」となり,やがて,かかる男たちの惣名になった,とある。」

とある。
 「花の日」は花見の日だとすれば遊女や妓夫から「忘八の長」とかしづかれて機嫌を良くした長が妓夫に月のようなきれいな服を着せてやったということか。
 十八句目。

   花の日を忘八の長とかしづかれ
 桃になみだが一国の酔      枳風

 遊郭は傾城とも呼ばれ、これは『漢書』で美人を例えた「一顧傾人城、再顧傾人国」から来ているという。一目見れば城が傾き、もう一回見れば国が傾く。
 「桃になみだ」はおそらく前句の「花」から、杜甫の『春望』の「時に感じて花にも涙を濺ぎ」で、遊郭花街が盛り上がっていると、国は酔いしれ杜甫なら桃の花に涙をする、と勿論本気に憂いているのではなく、糞真面目な人間を笑う意味で言っているのだろう。

2021年1月23日土曜日

  今日は一日雨。でもまだ雪にはなってない。

 さて、「たび寐よし」の興行の後、次は二月中頃の伊勢での八吟歌仙興行になる。
 そこで一年ほど時を戻して貞享三年の冬、日付はわからないが、江戸で八吟歌仙興行が行われている。それを読んでみよう。
 ただ、二句欠落してしまったか、三十四句しか残っていない。
 発句は、

 冬景や人寒からぬ市の梅     濁子

 脇が其角だから其角亭で興行された可能性が高い。其角亭がどこにあったかは定かでないが、『元禄の奇才宝井其角』(田中善信著、二〇〇〇、新典社)によれば、曰人(わつじん)の『蕉門諸生全伝』の其角の父東順のところに「始メ甚右衛門町ニ居シ、人別帳、今存ス。本町ニ在り」とあり、貞享四年(一六八七)に刊行された『江戸鹿子』に、「堀江町 亀鶴」とあるのが其角だという。いずれにせよ日本橋界隈で、日本橋室町にあった魚河岸に近かったと思われる。
 市場には人がたくさんいて冬でも熱気にあふれている。それを寒い中に咲く寒梅に喩えて「市の梅」とする。ひいては、ここに集まっている人たちも、というところか。
 脇。

   冬景や人寒からぬ市の梅
 となりを迷ふ入逢の雪      其角

 市場の熱気に押されて、夕暮れの入相の鐘の鳴る頃の雪も隣へ追いやられて迷っている。
 日本橋の鐘というと、ウィキペディアに、

 「江戸時代の時の鐘は最初江戸城に置かれていた。その後、徳川秀忠の頃、1626年に時の鐘を辻源七が本石町三丁目(今の日本橋本町四丁目)に移し、鐘楼堂を建てた。」

とある。
 第三。

   となりを迷ふ入逢の雪
 年の貧たはら負行詠して     芭蕉

 前句の「となりを迷ふ」を隣を見て迷うとし、隣で米俵を背負っている人を詠(ながめ)して、我が身の貧しさを付ける。
 四句目。

   年の貧たはら負行詠して
 火をたく舟の星くらき空     仙化

 時の暮に夜遅くまで舟の荷揚げ作業を行う貧しさ。大晦日だと月はない。昔の人は満天の星空を美とする感覚はなく、星くらき闇と捉えていた。
 五句目。

   火をたく舟の星くらき空
 鷺うごく松おもしろき磯の月   枳風

 前句を漁船として磯の景色を付ける。
 六句目。

   鷺うごく松おもしろき磯の月
 甲にをらんすすき一むら     コ齋

 笠の上にススキを二束刺して兜のようにしようということか。

2021年1月22日金曜日

  コロナの方はどうやらピークアウトが見えてきて、欧米のようにはならなかった。毎年のことだが年末に人出がピークに達し、正月過ぎるとかたっと人も仕事も少なくなる。二月いっぱいはこのペースで行けるだろう。三月になると年度末で人の移動が多くなる。その時までにどれだけ抑えられるかが勝負になる。
 トランプの敗着は今思うとケネディ大統領暗殺に関する機密文書の公開を一時延期したことだったのではないか。あの文書を公開していて白なら白でいいし、黒ならCIA改革への世論を盛り上げることができただろう。ケネディ暗殺を灰色なままにしたことが、結局様々な陰謀説に信憑性を与えてしまっている。今回の選挙でも過激な陰謀論者を制御することができなくなった。
 また、あの時日本でも「チキン」という言葉がネット上に躍っていた。まあ、この秋のバイデンさんに期待したい。

 それでは「たび寐よし」の巻の続き。挙句まで。

 初裏。
 七句目。

   障子明ればきゆる燈火
 起もせできき知る匂ひおそろしき  東睡

 物の怪だろうか。
 八句目。

   起もせできき知る匂ひおそろしき
 乱れし鬢の汗ぬぐひ居る      芭蕉

 『源氏物語』葵巻の六条御息所であろう。

 「あやしう、われにもあらぬ御心ちをおぼしつづくるに、御ぞなども、ただけしのかにしみかへりたり。
 あやしさに、御ゆするまゐり、御ぞきかへなどし給ひて、こころみ給へど、なほおなじやうにのみあれば、我が身ながらだにうとましうおぼさるるに、まして、人のいひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつにおぼしなげくに、いとど御こころがはりもまさり行く。
 (妙な自分が自分でなくなるような感覚は続いていて、御衣などもただ、祈祷の際に焚いた護摩の芥子の香が染み付くばかりです。
 気持ち悪いので髪を洗ったり御衣を着替えたりしても、これといって変化もないので自分のことながら嫌になり、まして人がどう思っているかなど人に聞くわけにもいかず、一人で悶々とするだけでますます精神に変調をきたして行くばかりです。)

の場面。
 九句目。

   乱れし鬢の汗ぬぐひ居る
 なげられて又とりつけるをかしさよ 一井

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「前句を角力の後のこととした」とある。
 十句目。

   なげられて又とりつけるをかしさよ
 乳を飲子の我に似るらし      越人

 「なげられて」は引き離されて、「とりつける」はすがりつくで、乳児のおっぱいを飲む様子とする。「にるらし」と推量なので、「全く父さんにそっくりね」と言われたということか。
 十一句目。

   乳を飲子の我に似るらし
 麻布を煤びる程に織兼て      昌碧

 「煤(すす)びる」は煤で汚れるという意味。乳児は手がかかるし、二十四時間休んでくれないので、機織りをする暇はほとんどない。
 十二句目。

   麻布を煤びる程に織兼て
 藺を取こめばねこだ世話しき    荷兮

 「ねこだ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「藁筵。寝茣蓙」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 「〘名〙 わらやなわで編んだ大形のむしろ。また、背負袋。ねこ。
  ※俳諧・玉海集(1656)四「ねこたといふ物をとり出てしかせ侍し程に」

とあるので、「猫だ」ではないようだ。藺草を刈り取ったらすぐに「ねこだ」を作らなくならないので忙しくて機織りは後回しになる。
 十三句目。

   藺を取こめばねこだ世話しき
 夕立の先に聞ゆる雷の声      楚竹

 藺草を刈る頃は夕立の季節になる。
 十四句目。

   夕立の先に聞ゆる雷の声
 馬もありかぬ山際の霧       東睡

 雨が降らずに稲妻と雷の音だけになると秋になる。山の麓に霧がかかり馬は雷が去るのを待っている。
 十五句目。

   馬もありかぬ山際の霧
 小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ  芭蕉

 「いつけさせ」は「射付けさせ」で袖を射抜いてということ。
 街道から外れた山道、霧の中を歩いているとさお鹿を狙った矢が袖を射抜いてゆく。危ないから知らない山に勝手に入ってはいけない。抜け道などせずに街道を歩こう。
 十六句目。

   小男鹿のそれ矢を袖にいつけさせ
 飛あがるほどあはれなる月     越人

 初裏にまだ月が出てないし、次は花の定座なので、ここで月を出したい所。いきなり矢が飛んできて危うく命を落とすところに月ということで、かなり強引に展開しなくてはいけない所だ。
 前句を比喩としていきなり矢に射られたような飛び上がってびっくりするほど月がきれいだ、と何とか収める。
 十七句目。

   飛あがるほどあはれなる月
 凩にかぢけて花のふたつ三ツ    荷兮

 冬の帰り花に木枯しの澄んだ月が登り、なかなか見れるものではないということで、「飛あがるほどあはれなる月」になる。
 挙句。

   凩にかぢけて花のふたつ三ツ
 畠につづく野は遙なり       昌碧

 冬の畑に行くまでの野は草も枯れて、遥か彼方まで見渡せる。何となくこれから芭蕉さんの行く旅路を暗示させて、発句に呼応する形で一巻を終わる。

2021年1月21日木曜日

  もともと多様なものを無理に団結させようとするから「分断」が生じるんじゃないかな。
 それに民主主義の勝利だなんて、まるで今までが民主主義じゃなかったようなことを言うが、それこそ挑発しているとしか思えない。
 中国やイランならいざ知らず、政権交代の起こる国では、国家権力対民衆だとか体制対反体制だとかいうものはいつでも入れ替わる。だから国家の暴力は許されないが民衆の暴力は許されるだとか、国家のフェイクニュースは許されないが民衆のフェイクニュースは方便だだとかいう論理は通用しない。
 アメリカのリベラルはこれから体制側になり国家権力の側になる。それをしっかり自覚しないといつまでたっても分断は埋まらない。

 さて『笈の小文』の俳諧興行も芭蕉が十二月中旬に伊賀へと向かうと、しばらく伊勢や奈良への旅が続き激減することになる。
 また、「稲葉山」の巻でせっかく岐阜に招かれたにもかかわらず、実際に岐阜に入ったのは『笈の小文』の旅を終え、京から再び名古屋へと向かう途中で五月のことだった。
 そういうわけで、『笈の小文』の旅での冬の興行は、次の「たび寐よし」の巻で最後になる。今栄蔵『芭蕉年譜大成』(一九四四、角川書店)によると、このあとも十二月上中旬に

 露凍てて筆に汲み干す清水かな   芭蕉

を発句とする十吟二十四句があったというが、『校本芭蕉全集』には載っていない。
 それではその「たび寐よし」の巻の発句。

   十二月九日一井亭興行
 たび寐よし宿は師走の夕月夜    芭蕉

 興行は夕方から始まったのであろう。九日の月はほぼ半月。一井についてはよくわからないが名古屋の人のようだ。「たび寐よし」と一井の家に今日は泊めてもらうということで、当座の興に即した挨拶句になっている。
 脇。

   たび寐よし宿は師走の夕月夜
 庭さへせばくつもるうす雪     一井

 一井の句も当座の興で、狭い庭に薄雪が積もっていると応じる。狭いところですがとへりくだった挨拶になる。「せまく→せばく」とmとbが交替している。
 三句目。

   庭さへせばくつもるうす雪
 どやどやと筧をあぶる藁焼て    越人

 「どやどや」は普通は人が大勢押し寄せることを言うが、weblio辞書の「隠語大辞典」には、

 「火災。〔第一類 天文事変〕
  火災。火事場の騒ぎの形容より。」

とある。「隠語大辞典」は、「隠語大辞典は、明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録している」とあるので、江戸時代のものではない。火事で大騒ぎになる場面で「どやどや」が頻繁に使われたのは確かだろう。
 薄雪が積もって寒いからついつい焼火(たきび)をしたくなる気持ちはわかるが、狭い庭だと筧に燃え移って大騒ぎになる。
 四句目。

   どやどやと筧をあぶる藁焼て
 紙漉を見に御幸あるころ      昌碧

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「京都中川の紙屋院に行幸のある頃」とある。
 紙屋院はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「奈良時代に設けられた官立製紙所。「しおくいん」「かんやいん」ともいう。平安時代の大同(だいどう)年間(806~810)に、京都の紙屋川のほとりに拡充移設されて以来、紙屋紙(かんやがみ)の名声をもつ優秀な紙を漉(す)いた。製紙技術の指導的役割も果たし、和紙の流し漉(ず)き法もおそらくここで開発されたと思われる。平安末期に権力が貴族から武家の手に移り、また優れた地方産紙も出回るようになったためその地位は低下し、もっぱら漉き返しを行うようになった。[町田誠之]」

とある。紙屋川は天神川の北野天満宮より上をいう。
 このあたりには金閣寺があり、足利義満の時代に御小松天皇の北山殿行幸が行われた。コトバンクの「北山殿」の「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「室町時代,3代将軍足利義満が京都北山に営んだ別荘をいい,これにちなんで義満自身をもいう。ここには,元仁1(1224)年に西園寺公経が建てた別荘があったが,義満は西園寺実永からこれを譲り受け,工費百余貫を投じて応永4(1397)年に完成させた。同 15年には後小松天皇が行幸した。鹿苑寺金閣はその遺構。当時は,舎利殿,天鏡閣,護摩堂,懺法堂があり,広大な庭とともに異彩を放っていた。」

とある。
 この後小松天皇の北山殿行幸は応永十五年三月八日から二十八日まで行われたという。この地はまた西園寺家の北山殿を足利義満が受け継いだ地でもあり、それ以前から朝廷と縁の深い土地だった。行幸はそれ以前にも春秋に行われていたのだろう。
 句の方は前句を野焼きのこととし、北山で春の行幸が行われる頃、田んぼでは古い藁を燃やして野焼きを行っているという違え付けではないかと思う。
 五句目。

   紙漉を見に御幸あるころ
 琴持の筵の上をつたひ行      荷兮

 御幸だから琴を持った従者が筵の上を行く。
 六句目。

   琴持の筵の上をつたひ行
 障子明ればきゆる燈火       楚竹

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「夜の宴に、琴を運び込もうとして障子を明けると、吹き込む風に燈火が消える。」

とある。

2021年1月20日水曜日

  観光という言葉は『易経』の風地観の「六四。観国之光。利用賓于王。象曰、観国之光、尚賓也。」から来ている。意味としては今でいう観光というよりは「視察」に近い。幕末の頃「観光」はそういう意味で用いられていたという。多分そののち、英語のsightseeingの訳語として転用されたのではないかと思う。
 風地観は大地の上に風が吹いているという卦で、一年で言うと天地否のさらに陰気の上昇した八月になる。大地から風を見上げるという意味での観で、観は仰ぎ見ることをいう。「風土」という言葉もそこから来ているのかもしれない。
 「観、盥而不薦」とあるように、盥(手を洗清め)、不薦(神にお供えするように、無理に推しつけたりはしない)と、謙虚でなければならない。まあ、今のコロナ下ではちゃんと手を洗い、旅行を無理に勧めたりしないということか。
 それでは「箱根越す」の巻の続き。挙句まで。

二裏
 三十一句目

   あたら姿のかしら剃られず
 世の中の茶筅売こそ嬉しけれ    荷兮

 京の師走の風物でもあった鉢叩きは同時に茶筅売りだったという。剃髪はせず俗形だった。
 三十二句目

   世の中の茶筅売こそ嬉しけれ
 ねぶたき昼はまろび転びて     聴雪

 「茶筅売り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 茶筅を売る人。特に、歳末に自製の茶筅を京都の市中に売り歩いた空也堂の僧。のち、江戸市内でも、その扮装(ふんそう)や口上を真似て、白衣に鷹の羽や千鳥の模様を染めぬいた十徳を着て、茶筅をさした苞(つと)の竹棒をかつぎ、鉢や瓢箪をたたきながら売り歩いた。」

とある。
 実際はどうだったかは知らないが、年末だけ働いてあとは寝て暮らすというイメージがあったのだろう。
 三十三句目

   ねぶたき昼はまろび転びて
 旅衣尾張の国の十蔵か       芭蕉

 「十蔵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「越人の通称」とある。コトバンクの「美術人名辞典の解説」にも、
 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

とある。
 前句のぐうたら者はまるで越人だなということで、これは楽屋落ちの句。越人はいじりやすい人柄だったのだろう。
 三十四句目

   旅衣尾張の国の十蔵か
 富士画かねて又馬に乗       野水

 尾張には狩野派の絵師何人もいたが、十蔵という通称を持つ者がいたかどうかはよくわからない。富士山も雲に隠れたりするから見える場所を探して馬で移動する。
 三十五句目

   富士画かねて又馬に乗
 懐に盃入るる花なりし       如行

 馬での旅でも花見にいい場所があればそこで飲めるように懐に盃を入れている。
 挙句

   懐に盃入るる花なりし
 かげ和らかに柳流るる       越人

 桜に柳と言えば、

 見渡せば柳桜をこきまぜて
     都ぞ春の錦なりける
            素性法師(古今集)

の歌がある。柳と桜の錦を以て一巻は目出度く終わる。

2021年1月19日火曜日

  今日も晴れて寒く、夕暮れには半月にやや近づいた月が見え、そしてきぼうが見えた。午後六時過ぎ、ベランダの向きが悪くてほんの少しだったが、きぼう国際宇宙ステーション(ISS)が見えた。
 アニメの『はたらく細胞BLACK』はなかなか身につまされる話だが、でも結局ブラックだろうがホワイトだろうが最後はみんな死ぬんだ。何のためにこんな苦しんでるんだと言っても、結局すべてはゲノム様の乗物を動かすためで、みんな使い捨てなんだ。
 ただ、脳のニューロンの集中が独特な量子的な場を生み出し、そこに意識が生まれ、因果律を越えた自由が生まれる。ここにいる(現存在する)ということは、この宇宙の果てしない虚無の海の中に浮かぶほんの小さな島だ。そこで機械的因果律に支配された世界に唯一反抗する。そして最後は力尽きて虚無に飲み込まれていく。それだけだ。人間だって猫だった、ある程度の大きさの脳がある物はみんな同じだ。
 我々はどこまでもゲノム様の乗り物だが、それを利用して意識が生み出したミームを残すことができる。俳諧もそんな先人の残していった貴重なミームだ。
 それでは「箱根越す」の巻の続き。

 二表
 十九句目。

   そのまま梅を植るまく串
 下ごころ弥生千句の俳諧に      如行

 千句興行は連歌の古い時代に盛んに行われた。俳諧の場合は談林の時代に俳書を刊行する際に十百韻(とっぴゃくいん)の体裁をとることが多かったが、千句興行の形はとらなかった。西鶴の矢数俳諧のような何千句何万句の極端な興行はあったが。
 ここでは梅の木を植えるというところから、松意撰『談林十百韵』の第一百韻の発句、

 されは爰に談林の木あり梅の花    梅翁(宗因)

の句を連想したのだろう。
 そこからそんな都合よく梅の木があるわけないから、「下ごころ(計略)」であらかじめ植えておいたのではないかと想像し、『談林十百韵』をほのめかしながらもタイトルを連歌っぽく「弥生千句の俳諧」に置き換えたのではないかと思う。
 二十句目

   下ごころ弥生千句の俳諧に
 あさつき喰ふ人の臭さよ       荷兮

 アサツキ(浅葱)は今日では爽やかな香りを好む人も多いが、昔は臭いと言われていたようだ。まあ、「香り米」も臭いと言われていたから、この時代の人の匂いの感覚はそうだったのだろう。ただ、今日のパクチーのように、好きな人は病みつきなるようなものだったのかもしれない。この句の場合もパクチーに置き換えてみればわかりやすいかもしれない。
 二十一句目

   あさつき喰ふ人の臭さよ
 とろとろと一寝入して目の覚る    越人

 今でもアサツキを検索すると、「酒の肴に」というのが出てくるように、当時も酒の肴に一部の人に好まれたのだろう。宴席で酔いが回って一寝入りして目が覚めると、隣の奴がアサツキを食ってたりする。
 二十二句目

   とろとろと一寝入して目の覚る
 堂もる雨の鎧通りぬ         如行

 雨漏りするお堂の中に隠れてそのまま居眠りしたのだろう。追手の鎧武者たちは通り過ぎて行った。
 二十三句目

   堂もる雨の鎧通りぬ
 ころつくは皆団栗の落しなり     野水

 鎧武者が通るのを見たのは夢で、屋根にコロコロと落ちる団栗の音だった。落ち武者ならぬ落ち団栗だった。

 切られたる夢は誠か蚤の跡      其角

のような夢落ち。
 落ちたのが柿の実だったら去来の落柿舎になるが、それは元禄二年の話。
 二十四句目

   ころつくは皆団栗の落しなり
 その鬼見たし蓑虫の父        芭蕉

 許六編『風俗文選』の素堂「蓑虫ノ説」に、

 「みのむしみのむし。声のおぼつかなきをあはれぶ。ちちよちちよとなくは。孝に専なるものか。いかに伝へて鬼の子なるらん。清女が筆のさかなしや。よし鬼なりとも瞽叟を父として舜あり。汝はむしの舜ならんか。」

と記している。

 蓑虫は鳴かないが「ちちよちちよ」と鳴くというのは、ウィキペディアによればカネタタキの声を蓑虫の声と誤ったのではないかと言う。まあ、ミミズが鳴くというのも、実はおケラの声だったというから。
 「清女」は清少納言のことで『枕草子』に

 「みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、今秋風吹かむをりぞ来んとする」

とある。瞽叟(こそう)は伝説の舜帝の父で、コトバンクの「世界大百科事典内の瞽叟の言及」に「舜の父は瞽叟(こそう)で暗黒神。」とある。
 団栗が落ちる中で一人ぶら下がっている蓑虫は父親が鬼だと言われている。どんな鬼なのか見てみたいというのだが、食われないように気をつけてね。
 なお、芭蕉は翌三月伊賀を訪れた時に、土芳の蓑虫庵の庵開きにと、

 みの虫の音を聞きにこよ草の庵    芭蕉

の句を贈っている。
 また、そのあと葛城山で、

 猶みたし花に明行神の顔       芭蕉

の句を詠んでいる。
 二十五句目

   その鬼見たし蓑虫の父
 布衣やぶれ次第の秋の風       如行

 蓑虫を服もボロボロの乞食の姿に重ね合わせる。親の顔を見てみたい。
 二十六句目

   布衣やぶれ次第の秋の風
 松島の月松島の月          越人

 これはまさに風羅坊(芭蕉)。『笈の小文』の冒頭に、

 「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきゅう)の中に物有り。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

とあるが、この文章はまだ書かれてなかったはずだ。
 しかもこの『笈の小文』の後、芭蕉は「松嶋の月先(まづ)心にかかりて」と言って『奥の細道』の旅に出る。まるで今後の芭蕉を予言するようだ。まあこの頃から雑談でいつか松島の月を見に行きたいと語ってたのかもしれない。
 句の方も後に江戸時代後期の狂歌師・田原坊の、

 松嶋やさてまつしまや松嶋や

の句を先取りしているかのようだ。
 越人という人は物凄いアイデアマンだったけど、あと一歩というところでそれを生かしきれなかった人なのかもしれない。「ためつけて」の巻の二十一句目、

   釣瓶なければ水にとぎれて
 夕顔の軒にとり付久しさよ     越人

の句もあと一歩で、

 朝顔につるべとられてもらひ水   千代女

になっていた。
 二十七句目

   松島の月松島の月
 ひょっとした哥の五文字を忘れたり 聴雪

 前句の「松島の月」の二回反復しているのを、何か思い出そうとしている場面として、和歌の最初の五文字が出てこないのか、と付ける。
 二十八句目

   ひょっとした哥の五文字を忘れたり
 妻戸たたきて逃て帰りぬ      芭蕉

 「妻戸」はコトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「寝殿造の住宅で、出入口に設けた両開きの板製の扉。寝殿造では、周囲の建具は蔀(しとみ)であったため、出入りには不便であり、そのため建物の端の隅に板扉を設けて出入口とした。妻は端を意味し、端にある扉であるために妻戸とよばれた。寺院建築や神社建築では板扉を板唐戸(いたからと)という。妻戸は板唐戸の形式の扉であったため、この形式の扉は建物の端に設けられなくても、すべて妻戸の名でよばれるようになった。[工藤圭章]」

とある。
 王朝時代の歌合の時に、歌の下手な人が事前に誰かに作ってもらってそれを覚えて行って披露するつもりだったのが、本番の時にその歌を忘れてしまったのだろう。妻戸を叩いて逃げ帰って行く。
 和泉式部の娘の小式部内侍が歌合の時に定頼の中納言に、「母からの文(ふみ)は来たか」と代作を疑われたのに答えて、

 大江山いく野の道の遠ければ
     まだふみも見ず天橋立
            小式部内侍

と詠んだという話はよく知られている。
 二十九句目

   妻戸たたきて逃て帰りぬ
 泣々てしゃくりのとまる果もなし  野水

 何かひどい目にあったんだろうけど、もう少し具体的な内容に踏み込んでほしかった。遣り句か。
 三十句目

   泣々てしゃくりのとまる果もなし
 あたら姿のかしら剃られず     如行

 「あたら」は惜しい、勿体ないということ。出家の理由を聞き出すとその悲しい話に涙が止まらなくなり、剃刀を持つ手も止まってしまった。
 このあたりも姿(具体性)に乏しく、時間が遅くなって進行を早めている感じがする。

2021年1月18日月曜日

  なんか相変わらずマス護美はマスクを注意しちゃいけないような風潮を作ろうとしている。感染症防止は生存権なんだから、他の権利に優先されるべきだ。
 鈴呂屋書庫「笠寺や」の巻「旅人と(笠の雪)」の巻をアップした。それと俳話には書いてないが「ためつけて」の巻もアップしたのでよろしく。
 それでは「箱根越す」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   蔀々を上る盆の夜
 帷子に袷羽織も秋めきて      執筆

 盆の頃は夜ともなると冷えてきて、夏の単衣の帷子の上に袷羽織を羽織ってたりする。
 八句目。

   帷子に袷羽織も秋めきて
 食早稲くさき田舎なりけり     芭蕉

 ウィキペディアによると、

 「日本において香り米が記載されている最古の文献は、日本最古の農書とされる『清良記』で、「薫早稲」「香餅」と記載されている。『清良記』と同じく17世紀に刊行された『会津農書』にも「香早稲」「鼠早稲」との記述がみられる。19世紀初頭に刊行された鹿児島の農書『成形図説』によると、日本では古代から神饌米、祭礼用、饗応用に用いられてきた。19世紀末に北海道庁が編纂した『北海道農事試験報告』によると、香り米は古くから不良地帯向けのイネとして知られており、北海道開拓の黎明期にも活用された。」

とあり、痩せ地で作る早稲には独特の香りがあったようだ。
 なお、『奥の細道』の旅で芭蕉は、

 早稲の香や分け入る右は有磯海   芭蕉

の句を詠んでいる。
 九句目。

   食早稲くさき田舎なりけり
 神主も常は大かた烏帽子なく    聴雪

 早稲が祭祀用に用いられていたなら、早稲から神主への移りは自然だ。神主も儀式のときは烏帽子を被るが、普段は被っていないことの方が多い。
 十句目

   神主も常は大かた烏帽子なく
 塘見えすく薮の下刈        如行

 「下刈」は笹や低木常緑樹を除去して本来育てるべき木の成長を促すもので、木下の藪がなくなると大きな木の間から遠くが見えるようになる。
 烏帽子を被る場合は髻(もとどり)を結い、そこに烏帽子をひっかけるのだが、この場合は下刈りをしたみたいに地肌が透けている(禿げている)というネタか。
 十一句目

   塘見えすく薮の下刈
 どやどやと還御の跡に鶴釣て    荷兮

 「還御(かんぎょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 天皇、法皇、三后(さんこう)が、出かけた先から帰ること。還幸(かんこう)。転じて、将軍、公卿(くぎょう)が出先から帰ることにいう場合もある。
  ※三代実録‐貞観三年(861)二月一八日「皇太后〈略〉夜分之後、還二御本宮一」
  ※平家(13C前)三「法皇やがて還御、御車を門前に立てられたり」

とある。
 「鶴釣て」は意味がよくわからない。鶴御成(つるおなり)のことか。ウィキペディアには、

 「鶴御成(つるおなり)は、江戸時代、将軍によっておこなわれた、ツルをとらえる鷹狩である。将軍による鷹狩りの中で最もおごそかなものとされた。」

とあり、

 「それぞれの飼場は鳥見が1人いて、これを管し、下飼人である網差およびその見習が日々そこにつめて、餌(毎日3回、籾5合ずつを撒く)を与え、種々の方法を講じて代に初めて下りたツルを馴らし、人をおそれなくなるのを見て、あらかじめこれを鷹匠頭に報告する。鷹匠頭はそれを検分してのち、さらに若年寄に上申し、若年寄は老中と協議のうえ、日時をさだめ、将軍に言上する。当日、将軍は藤色の陣羽織、従者はばんどり羽織、股引、草鞋で、将軍はまず寄垣(代附の外側に結んだ青竹の垣)の内にもうけた仮屋につく。将軍は鷹匠頭からタカを受け取り、鳥見が大きな日の丸の扇を高くあげてツルが逍遥しているほうにすすみ、ツルが驚いて飛び立とうとするのを見て、タカを放つ。
 もし1羽ではおぼつかないと思われる時は、鷹匠がさらに第2、第3のタカを放ち助けるが、タカ1羽でツルをとらえることはまれであるという。とらえられたツルは鷹匠が刀を執って将軍の前で左腹の脇をひらいて臓腑をだしてタカに与え、あとに塩をつめて縫い、昼夜兼行で京都へたてまつった。街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」といった。このツルの肉は新年三が日の朝供御の吸物になった。」

とある。
 還御の行列の後尾に鶴を釣り下げた人が通ったのか。前句の塘をその通り道となる街道としての付けであろう。
 等躬撰の『伊達衣』には、

   人日
 贄殿に鶴と添をく根芹哉       須竿

の句がある。
 十二句目

   どやどやと還御の跡に鶴釣て
 誰やら申出す念仏          越人

 将軍様の鶴が通るときに、必ずこれは殺生だと言って念仏を唱える人がいる。
 十三句目

   誰やら申出す念仏
 しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ   野水

 女の許に通ったつもりが、部屋から何やら念仏を唱える声が聞こえてくる。何かあったのか、悪いときに来てしまったと戸を開けるのをためらっているうちに蚊に食われる。
 十四句目

   しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ
 浮名はづれる月のからかさ      如行

 「月のからかさ」は月暈(げつうん)のことであろう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「月の周囲に現れる輪状の光暈。月の光が細かい氷の結晶からできている雲に反射・屈折して起こる。つきのかさ。」

とある。
 「浮名・はづれる月のからかさ」と切った方が良いのだろう。中に入りかねて外にいると、いつしか雲が切れて月の光が雲に虹のような輪っかを映し出す。忍んだつもりが姿を見られてしまい、浮名を流すことになる。「浮名にはづれる月のからかさ」の「に」が省略された形か。
 十五句目

   浮名はづれる月のからかさ
 長き夜に泣たるまみの重たげに    越人

 「まみ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①目つき。まなざし。
  出典源氏物語 桐壺
  「まみなども、いとたゆげにて」
  [訳] まなざしなども、とてもだるそうで。
  ②目もと。
  出典源氏物語 明石
  「所々うち赤み給(たま)へる御まみのわたりなど」
  [訳] (泣いて)ところどころ赤くなっていらっしゃる目もとのあたりなど。」

とある。この場合は目蓋のことか。
 長い夜を泣き明かして腫れた目蓋を重たげに開けると月の笠が見える。
 十六句目

   長き夜に泣たるまみの重たげに
 人に懐れて舟をあがりぬ       野水

 売り飛ばされ、舟に乗せられて運ばれてきた遊女としたか。
 十七句目

   人に懐れて舟をあがりぬ
 花の賀にけふ狩衣を雛にする     荷兮

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「雛」は「皺」の誤写とする。
 「花の賀」は『伊勢物語』第二十九段であろう。

 「昔、東宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、

 花に飽かぬ嘆きはいつもせしかども
     今日の今宵に似る時はなし」

たったこれだけだが、「東宮の女御」は二条后高子で、かなわぬ恋をする在原業平が招かれて詠んだ歌だとされてきた。
 表向きの意味は、花を見て飽くことのない、永遠に散ることなくいつまでも見ていられたらという嘆きは、今日のこの立派な祝賀の席に招かれて、他のどんな花見の席に招かれた時以上にそう感じた、というものだ。
 ただ、裏を読むなら、花に開けてもらえなかった叶うことのなかったこの恋の嘆きはいつものことだが、今日ほどその望みが跡形もなく砕け散った時はない、とも取れる。
 このあと在原業平は東国に下り、あの有名な都鳥の歌を詠んで隅田川を船で渡る。あの「花の賀」を思い出すと涙があふれ、狩衣を皺にしながら人に抱きかかえられるようにして船に乗る。
 十八句目

   花の賀にけふ狩衣を雛にする
 そのまま梅を植るまく串       聴雪

 「まく串」は幕串でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 幕を張るために立てる細い柱。幕柱。幕杭。串。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「幕串に梅の立木をそのまま使う」とあるとおり。梅を植える作業で狩衣に皺にしてしまった。
 なお、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には『如行子』『桃の白実』ともに、ここから先出勝ちになると記されているという。

2021年1月17日日曜日

  コロナの方はちょうど今正月三が日の都会で人が減り地方に移動していた頃から二週間で、その通りに都会では頭打ち、地方で急増となった。これから仕事始めで日常が帰ってきたころの分になる。油断はできない。
 日本では相変わらずネトウヨ(オールド資本主義)とパヨク(脱資本主義)の戦いだが、アメリカは既に陰謀論と持続可能資本主義との戦いになっているようだ。日本もそのうちそうなるのかな。それとも日本はまた取り残されて、いつまでもネトウヨ・パヨクから抜け出せないのかな。

 さて、次に読むのは貞享四年十二月四日名古屋の聴雪宅での興行。発句は、

 箱根越す人もあるらし今朝の雪   芭蕉

 句の方は説明するほどのものでもないが、まあ、他人事だけど今日箱根を越す人は大変だろうなという句。
 脇は聴雪宅なので、

   箱根越す人もあるらし今朝の雪
 舟に焼火を入るる松の葉      聴雪

 発句の箱根越すに対して、舟で行くから船の上で暖まるためによく燃える松の葉を積んでゆくとする。
 寓意といえばまあ、せいぜい「雪降って寒いですね」「なら火を焚きましょう」くらいのもの。
 第三。

   舟に焼火を入るる松の葉
 五六丁布網干せる家見えて     如行

 一丁は約百九メートルだから五六百メートルもあるような布網を干してある家があるということ。そんなに長い網があるのかと思ったら、「近畿の漁法と安全運航」というpdfファイルを見ると、いかなご船びき網漁業(2そう引き)の場合の漁具は最長で四百五十メートル、シラスの場合は五百から六百メートルに達する、と書いてある。
 布網というから目の細かい網で、シラス漁に用いるなら五六丁もあながち誇張でもないのかもしれない。
 ただ、桃隣の「舞都遲登理」の旅での目分量で測った寸法は実際よりだいぶ大きいこともあったから、多少は誇張されているかもしれない。
 まあとにかく、昔の名古屋の辺りだから、シラスかシラウオを取るための長い網が漁村にあったということだろう。
 シラウオは芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で桑名で詠んだ、

 あけぼのやしら魚しろきこと一寸  芭蕉

の句がある。この辺りのシラウオ漁は厳冬に行われていた。
 四句目。

   五六丁布網干せる家見えて
 枴むれつつ葭の中行        野水

 「枴(あふこ)」は物を荷うための天秤棒のこと。大きな網の干してある辺りでは、獲れたシラウオを運ぶための天秤棒を担いだ人たちが大勢葭(ヨシ)の中を行く。
 五句目

   枴むれつつ葭の中行
 明るまで戻らぬ月の酒の酔     越人

 月見で飲んだ酒の酔いは夜が明けるころまで醒めない。大きな宴会なのか、それまで天秤担いで酒の肴を運ばなくてはならない。
 六句目

   明るまで戻らぬ月の酒の酔
 蔀々を上る盆の夜         荷兮

 「蔀(しとみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 光や風雨をさえぎるもの。
  ※書紀(720)皇極四年六月(岩崎本平安中期訓)「是の日に、雨下(ふ)りて、潦水(いさらみつ)庭に溢(いはめ)り。席障子(むしろシトミ)を以て鞍作か屍(かはね)に覆(おほ)ふ」
  ② 柱の間に入れる建具の一つ。板の両面あるいは一面に格子を組んで作る。上下二枚のうち上を長押(なげし)から釣り、上にはねあげて開くようにした半蔀(はじとみ)が多いが、一枚になっているものもある。寝殿造りに多く、神社、仏閣にも用いる。しとみど。
  ※蜻蛉(974頃)上「明かうなれば、をのこどもよびて、しとみあげさせてみつ」
  ③ 船の舷側に設ける、波・しぶきよけで、多数の蔀立(しとみたつ)を立ててそのあいだに板を差し入れるもの。五大力船、小早、渡海船など本格的な垣立のない中小和船に用いる。〔和漢船用集(1766)〕
  ④ 築城で、外から城内が見え透くところをおおっておく戸の類。
  ※甲陽軍鑑(17C初)品三九「信玄公御家中城取の極意五つは、一、辻の馬出し、二にしとみのくるわ、しとみの土居」
  ⑤ 町屋の前面にはめこむ横戸。二枚あるいは三枚からなり、左右の柱の溝にはめ、昼ははずし、夜ははめる。「ひとみ」ともいう。しとみど。」

とある。時代的には⑤であろう。外したり嵌めたりするものだが、上古からの習慣で上げる、降ろすと言っていたのだろう。
 蔀々と複数だから、それぞれの家の蔀戸がみんな開いていて、お盆の夜は皆先祖の霊を迎えて酒を飲みかわす。

2021年1月16日土曜日

  今日も晴れて四日の月が見えた。 

 それでは「旅人と(雪の笠)」の巻の続き、挙句まで。

 初裏。
 七句目。

   椎の古枝を腰に折添
 覆盆子ふむ山より村の雨晴て   如行

 山奥の村人とする。焚き木にするのだろう。
 八句目。

   覆盆子ふむ山より村の雨晴て
 老声くるし夏の鶯        芭蕉

 老鶯は近代では夏の季語になっているようだが、この時代はそのままでは春なので「夏の鶯」とする。宗因独吟に、

 口まねや老の鶯ひとり言     宗因
   夜起きさびしき明ぼのの春
 ほの霞む枕の瓦灯かきたてて
   きせるにたばこ次の間の隅

とあり、春の季語になっているのは明らか。
 山村の雨上がりに夏の鶯を付ける。
 九句目。

   老声くるし夏の鶯
 物喰ハで昼寝がちなる襟     桐葉

 「襟」は「ものおもひ」と読む。なぜそう読むのかはよくわからない。
 夏はただでさえ食欲がなくなるし、暑いと動きたくなくて昼寝がちになるが、それにまぎれて恋のもの思いにふける。外では夏の鶯の声がする。
 十句目。

   物喰ハで昼寝がちなる襟
 又ふみ書て車返しつ       如行

 古代の牛車で通ってきた男に直接対応せずに手紙だけ渡して追い返す。やつれた姿を見せたくないということなのか。
 十一句目。

   又ふみ書て車返しつ
 樒籠に見よし摘たる山の草    芭蕉

 「見よし」は「見よと」の間違いではないかと『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある。
 樒(しきみ)は木偏に密と書くように、密教と結びついていたようだ。『源氏物語』の「若菜下」では出家した朧月夜に宛てて長文の手紙を書くが、その返事の手紙に樒の枝が添えてあった。
 ここではその物語を下敷きにしながら、尼寺に直接乗り込んできた男に樒籠を見せて、ここから出ることはないというメッセージを送ることになる。
 十二句目。

   樒籠に見よし摘たる山の草
 印くづれし柴人のみち      桐葉

 山の草を摘みに行った柴人がおいた枝折(道しるべ)が帰る時に何かに乱されてわからなくなる。鳥が加えていったか、動物が踏み荒らしたか。
 十三句目。

   印くづれし柴人のみち
 橇作る家も淋しき春の風     如行

 日本の橇にはスキーのような二本の板の上に籠を乗せた物、人が乗る屋根付きの駕籠を乗せた物などがある。籠を編むのは農閑期の仕事だったのだろう。
 春風に雪が融けて柴人の道も橇がいらなくなる。
 十四句目。

   橇作る家も淋しき春の風
 三ヶ月細く節句しりけり     芭蕉

 三日月が見えれば三月三日の上巳だと分かる。雪国で春の遅い土地だと実感がわきにくいのだろう。
 十五句目。

   三ヶ月細く節句しりけり
 鵜を入る初川いそぐ花の蔭    桐葉

 今の長良川の鵜飼いは毎年(新暦で)五月十一日から十月十五日までとなっているが、観光用ではなく生業としてやってた頃は旧暦三月には初漁を行ってたのだろう。
 十六句目。

   鵜を入る初川いそぐ花の蔭
 美濃侍のしたり顔なる      如行

 長良川の鵜飼いは美濃侍にとっても郷土の誇りというところか。美濃は作家の司馬遼太郎が「美濃を制するものは天下を制す」と言ったように、生産力が高く、かつ京にも近いという土地ということもあってか、幕府はここに有力大名が出ることを警戒し、幕府直轄領になっていた。余所の藩士たちの中にいると肩身が狭かったのかもしれない。
 一方、鵜匠の方は古代には宮廷直属の官吏だったというが、江戸時代は普通に漁師だった。今は宮内庁の職員だという。
 十七句目。

   美濃侍のしたり顔なる
 御即位によき白髪と撰出され   芭蕉

 先にも述べたが貞享四年は東山天皇の即位した年だった。ただ、その式典に白髪の美濃侍がいたかどうかは知らない。
 挙句。

   御即位によき白髪と撰出され
 植て常盤の百本の竹       桐葉

 「竹取の翁」の縁か。白髪に竹を付ける。
 竹は松や梅とともにお目出度い木(式目上は木でも草でもない)で、この一巻も目出度く終わる。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、『如行子』の底本に「はせを心地不快ニして是にてやみぬ」、『桃の白実』のも「はせを心地不快して是迄にて止ぬ」とあるという。芭蕉さんの体調不良で半歌仙で切り上げたと思われる。

2021年1月15日金曜日

  今日は一日曇って寒かった。
 コロナの方は東京はようやく頭打ちというか高止まりの傾向が見えてきた。ただその分地方に広がって、地方の方が増えている。
 外出している人が多いということで非難するなら、外出せざるを得ない状況を作っている企業をもっと責めるべきではないか。
 基本的に日本の企業はデジタルトランスフォーメーション(DX)に出遅れていて、テレワークも非常時の一時的な措置と考えている会社が多い。
 前にも日本は一過性の災害に離れているが持続亭な災害には弱いと書いたが、コロナも一過性で止まない雨はないんだから、今ちょっと我慢すればすべて元に戻るという感覚で、今投資しても世の中全体が元に戻ってしまえばどうせ無駄になるという感覚になっているのではないか。
 どの業界でも、少しでも外出・移動・対面せずに経済を回せるように取り組んでほしい。仕事だから不要不急ではないなんて言い訳はしないでほしい。

 さて、次の俳諧だが、旧暦で師走になったので、芭蕉の旅も師走まで飛んで十二月一日に熱田桐葉亭で行われた三吟を読もうと思う。

 旅人と我見はやさん笠の雪    如行

を発句とする半歌仙だが、「旅人と」の巻は「我名よばれん」の発句の巻とかぶるし、別の名前にするには今回の句は「我名よばれん」の句を踏まえた対になるものなので、「旅人と(笠の雪)」の巻とした。
 「笠寺や」の巻と今回の「旅人と(笠の雪)」の巻の間に巻かれた「磨なをす」の巻、「稲葉山」の巻は既に鈴呂屋書庫の蕉門俳諧集の方にアップしているし、外にも今まで俳話で読んできた俳諧がいくつかまた、多少訂正加筆したりしてにアップしているので、蕉門俳諧集の方もよろしく。
 それでは発句。

   芭蕉老人京までのぼらんとして熱田にしばし
   とどまり侍るを訪ひて、我名よばれんといひ
   けん旅人の句をきき、歌仙一折
 旅人と我見はやさん笠の雪    如行

 芭蕉がこの『笈の小文』の旅に出る際に詠んだ、

   十月十一日餞別會
 旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

の句を如行が聞いて、ならば見はやさん、応じる。「はやす」は合いの手を入れて盛り上げることで、「笠に雪が積もり」はるばる雪の中をやってきた姿を見れば、なるほど旅人だと歓迎する意味になる。
 如行は大垣の人で、芭蕉さんが来ていると知って熱田の桐葉宅に駆け付けた。
 本来歌仙は一の懐紙の表裏、二(名残)の懐紙の表裏の二折で、「歌仙一折」は半歌仙になる。
 脇はもちろん芭蕉さんが。

   旅人と我見はやさん笠の雪
 盃寒く諷ひ候へ         芭蕉

 「はやす」から「諷(うた)ひ」を付け、「雪」から「盃寒く」と四手に受ける。
 発句の「見はやさん」と主体を変えずに、旅人と見はやすから、寒いけど謡ってくれと二句一章にする。まあ、如行さんも大垣から旅をしてきたのだし、ともに旅人だということで、この半歌仙を楽しもう。
 第三は亭主の桐葉が付ける。まあ、三吟だから桐葉さんしかいないが。

   盃寒く諷ひ候へ
 有明の鉢の木を刈初て      桐葉

 「鉢の木」では字足らずで、『校本芭蕉全集 第三巻』の注によると、『桃の白実』の方のテキストでは「鉢の木賊(とくさ)」となっているから、「賊」の一字抜け落ちたのだという。
 「鉢の木賊」は謡曲『鉢木』を踏まえたもので、大雪の中を旅の僧がやってきた時に梅桜松の鉢植えの木を折って、惜しげもなく焚き木にした、その人物があの「いざ鎌倉」の佐野源左衛門常世だった。
 桐葉の句も客人をもてなす句になっていて、発句の情を去ってはいないが、そこは心意気ということで良しとしよう。季節は秋に転じる。
 なお、木賊はそれほど選定の必要のない草で、傷んだ枝を落とす程度だと園芸のサイトに書いてあった。小さいけど恐竜の時代に栄えた鱗木の仲間だという。
 四句目。

   有明の鉢の木(賊)を刈初て
 露になりけり庭の砂原      如行

 木賊を植えた庭には玉砂利が敷き詰められていて露に輝いている。
 五句目

   露になりけり庭の砂原
 こみかどに駒引むこふ頭ども   芭蕉

 駒引きとする。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 平安時代、毎年八月中旬に、諸国の牧場から献上した馬を天皇に御覧に入れる儀式。天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もと、国によって貢馬の日が決まっていたが、のちに一六日となり、諸国からの貢馬も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった。秋の駒牽。《季・秋》 〔九暦‐九条殿記・駒牽・天慶元年(938)九月七日〕
  ※俳諧・去来抄(1702‐04)先師評「駒ひきの木曾やいづらん三日の月〈去来〉」

とある。「こみかど」は正門ではない門。ここでは馬のための入口。
 六句目

   こみかどに駒引むこふ頭ども
 椎の古枝を腰に折添       桐葉

 大嘗祭の時には柴垣に椎の枝を挿すが、この「椎の古枝」も宮廷儀式に必要なものだったのだろう。
 ちなみにウィキペディアによれば、貞享四年三月二十一日に霊元天皇の譲位によって東山天皇が即位し、四月に即位式を行った後、「さらに11月16日には長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた。」とある。

2021年1月14日木曜日

  今日もいい天気だった。暖かくなったというが部屋に籠っているとよくわからない。
 去年読んだラノベの中でもう一つ、霧崎雀さんの『血潮の色に咲く花は』(二〇一四、ガガガ文庫)も良かったね。前に読んだ『快感回路』(デイヴィット・J・リンデン、ニ〇一二、河出書房新社)と何か考え方が似てる気がする。『怨獄の薔薇姫』も好きだから、続き出ないかな。
 それでは「笠寺の巻」の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   名を待宵と付し白菊
 おもひ草水無瀬の水に投入ん   重辰

 思草はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙
  ① 植物「なんばんギセル(南蛮煙管)」の異名。《季・秋》
  ※万葉(8C後)一〇・二二七〇「道辺の尾花が下の思草(おもひぐさ)今さらになに物か思はむ」
  ② 植物「おみなえし(女郎花)」の異名。
  ※行宗集(1140頃)「女郎花おなじ野べなるおもひ草いま手枕にひき結びてむ」
  ③ タバコの異称。
  ※浄瑠璃・曾根崎心中(1703)「煙管にくゆる火も、〈略〉吹きて乱るる薄煙、空に消えては是もまた、行方も知らぬ相おもひぐさ」
  [補注]どの植物を指すのかについては古来諸説がある。和歌で「尾花が下の思草」と詠まれることが多いところから、ススキなどの根に寄生する南蛮煙管と推定されている。「思ふ」を導いたり、「思ひ種」にかけたりして用いられるが、下向きに花をつける形が思案する人の姿を連想させることによるものか。」

とある。他にもリンドウだという説やツユクサだという説もある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は前句の「宵待」を宵待の小侍従として同時代の後鳥羽院の水無瀬宮で応じたとしている。これだと付け合い的な発想で物付けで付けたことになる。
 水無瀬川は伏流水で表に水が見えないから水無瀬川で、そこに思い草を投げ込むというのは何かの逆説だろうか。
 もう一つ後鳥羽院が白菊を好んだという縁もある。後鳥羽院が隠岐に流されたとき、息子の順徳院が詠んだ歌に、

 いかにして契りおきけむ白菊を
     都忘れと名づくるも憂し
              順徳院

というのがある。
 順徳院の立場に立って、後鳥羽院の帰りを願い宵待という別名の白菊を水無瀬川に投げ入れたい、と読む方が良いのかもしれない。
 三十二句目。

   おもひ草水無瀬の水に投入ん
 秋くれぬとて扇引さく      自笑

 「草」には「草ぐさ」というように品物のことも意味する。前句の「おもひ草」を思いを書き綴った品物として、扇に物を書きつけて引き裂いて投げ入れたとしたのだろう。
 後に『奥の細道』の旅で北枝と別れる時に芭蕉は、

 物書て扇引さく余波哉      芭蕉

と詠んでいる。
 三十三句目。

   秋くれぬとて扇引さく
 初雪のかかる箙をうち払ひ    知足

 箙(えびら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。背板を板にせずに枠にしたものを端手(はたて)といい、中を防己(つづらふじ)でかがって中縫苧(なかぬいそ)という。端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする。葛箙、逆頬箙、竹箙、角箙、革箙、柳箙などの種類がある。
  ※平家(13C前)四「二十四刺したる矢を、〈略〉射る、矢庭に敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙に一つぞ残りたる」
  ② 能楽用の小道具。数本の矢を紐で束ね、箙に擬したもの。
  ③ 連句の形式の一つ。箙にさす矢の数にかたどり、一巻二四句から成るもので、初折の表六句と裏六句、名残の表六句と裏六句、合わせて二四句を一連とした。〔俳諧・独稽古(1828)〕」

とある。また、

 「[語誌](1)「箙」の字は「十巻本和名抄‐五」「色葉字類抄」などでは「やなぐひ」の訓が付けられている。「やなぐひ」は、平安時代には朝廷で儀仗用などに用いられていた。平安時代末頃から衛府の随身や武士の使用していたものを指して「えびら」と呼ぶようになったものと思われる。
  (2)「今昔‐二八」の記述より矢と容器とを含めて「やなぐひ」、矢を入れる容器だけを「えびら」と区別していたものと思われる。しかし、後には混同されることもあったようで、易林本節用集では、「胡簶」「箙」ともに「えびら」と読まれている。」

とあり、やなぐひであれば矢がきれいに扇形に並ぶ。
 前句の「扇引さく」をやなぐひのきれいに扇方に並んだ矢が、雪を払おうとしたために乱れて、扇を引き裂いたようになってしまったという意味かもしれない。
 三十四句目。
   初雪のかかる箙をうち払ひ
 鳥居を覗く八重の松ばら     如風

 これも「やなぐひ」であれば神事であろう。八重の松原はお目出度い感じがする。
 三十五句目。

   鳥居を覗く八重の松ばら
 花盛尾張の国に札うちて     菐言

 これは天林山笠覆寺への奉納俳諧ということで、花の盛にこのお寺にお参りしてと盛り上げる。お参りすることを「札打つ」という。
 挙句。

   花盛尾張の国に札うちて
 暖になるすぐの明ぼの      安信

 「すぐ」は真っすぐのこと。朝の暖かな陽ざしは真っすぐに差し込んでくる。

2021年1月13日水曜日

  旧暦だと今日から師走。快晴。
 日本で陰謀論が過激化しにくいのは学研の「ムー」という雑誌のおかげではないかと思ってる。子供のころにあったあの雑誌がいまだに続いているというのも驚きだが、あの雑誌はUFOや心霊現象、オカルトだけでなく世界の様々な陰謀説も紹介してくれる。一つの陰謀説を聞かされると人はわりかし信じやすいが、たくさんの陰謀説を見せられると相対化されてしまい、信じなくなるものだ。
 陰謀説は信じるものではなく、あくまで談笑のネタとして楽しむものだ。
 話は変わるが去年の秋、ちょうど心臓の検査で病院に行ってた頃読んだラノベに「猫の地球儀」(秋山瑞人著、2〇〇〇、電撃文庫)というのがあった。
 人類が滅んだのか、地球を回る宇宙コロニーに長く取り残されて知能を進化させた猫たちがいて、その中の一匹がロボットとともに地球へ行こうとする話だが、最近よくテレビで推しているあのアニメ映画とちょうど逆だなと思って。

 それでは「笠寺や」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   火を消す顔の憎き唇
 盞をあらそひ負てかり枕     菐言

 「かり枕」は仮寝と同じ。旅寝の意味と仮眠の意味がある。
 この場合は飲み比べに負けて寝てしまったところに、勝者がどや顔で火を吹き消す。
 二十句目。

   盞をあらそひ負てかり枕
 一二の船を汐にまかする     自笑

 前句の「かり枕」を旅寝にする。汐まかせの船の上で寝る。
 二十一句目。

   一二の船を汐にまかする
 乗捨し真砂の馬の哀なり     重辰

 いくさでの敗走であろう。馬を捨ててたまたま置いてあった舟で漕ぎ出す。どこへ行くとも決めてなく、あとは汐まかせ。
 二十二句目。

   乗捨し真砂の馬の哀なり
 刀をぬきてたぶさおし切     如風

 「たぶさ」は髻(もとどり)のこと。出家するつもりか、ただ僧に成りすますだけか。
 二十三句目。

   刀をぬきてたぶさおし切
 大年の夜のともし火影薄く    知足

 武家だが借金のかたに家屋敷も取られ、もはや火の消えるように出家するしかない。
 二十四句目。

   大年の夜のともし火影薄く
 居眠りながらくける綿入     安信

 「くける」は「絎ける」で「国語辞典オンライン」には「布の端を縫い目が目立たないように縫うこと。また、そのような縫い方。」とある。
 大晦日の夜に破れた綿入れ半纏をつくろっている。正月はやはりきちんとした格好をしなくては、というところだが、忙しかったのか泥縄になってしまった。
 二十五句目。

   居眠りながらくける綿入
 藁の戸に乳を呑ほどの子を守て  自笑

 綿入れをねんねこ半纏のこととする。
 二十六句目。

   藁の戸に乳を呑ほどの子を守て
 もぎつくしたる午時の花     菐言

 「午時(ひるどき)の花」は午時花(ゴジカ)という植物もあるが、ここではヒルガオのことか。花は可憐だが畑の雑草で、葉は食用になるから、片っ端から捥ぐ。
 二十七句目。

   もぎつくしたる午時の花
 山路来て何やら床し郭公     如風

 言わずと知れた『野ざらし紀行』の時の、

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句の下五を変えただけの句だ。貞享二年三月二十七日の芭蕉・叩端・桐葉の三吟興行の時の発句は、

 何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

だったが、貞享二年五月十二日付の千那宛書簡に「山路来て」と改められた句形が見られる。
 雑草をむしりとる山の百姓はスミレに魅了されることはなくても、さすがにホトトギスの声ならわかる。
 二十八句目。

   山路来て何やら床し郭公
 笈おもげなる宮の休らひ     重辰

 山路を行くのを旅人とする。神社で一休みしているのだろう。
 「笈」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の2種がある。箱笈は内部が上下2段に仕切られ,上段に五仏を安置し,下段に念珠,香合,法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり,木彫で花や鳥を表わし,彩漆 (いろうるし) で彩色した鎌倉彫の装飾を施したものもある。」

とある。
 『鬼滅の刃』の竈門炭治郎が背負っているのも、見た目は箱笈で、昔なら違和感なかったと思う。
 二十九句目。

   笈おもげなる宮の休らひ
 姉妹窓の細めに月を見て     安信

 前句の「宮」を熱田の宮宿として、遊郭の姉妹を付ける。笈を背負った旅人もここで安らう。
 三十句目。

   姉妹窓の細めに月を見て
 名を待宵と付し白菊       知足

 白菊のように清楚な美しさを持つ遊女の別名は「宵待」。
 ちなみに宵待ち草(待宵草、月見草)は幕末に観賞用に輸入されたものが雑草化したもので、この時代にはまだない。

2021年1月12日火曜日

 今日は曇っていて寒かった。小雨は降ったが雪にはならなかった。
 夫馬賢治さんの『ESG思考』では「環境社会への影響を考慮すると利益減」の側で、「環境社会への影響を考慮への反対」ならオールド資本主義、賛成なら脱資本主義、いわゆる資本主義を否定する左翼ということになり、その反対の軸「環境社会への影響を考慮すると利益増」の側で「環境社会への影響を考慮への反対」の側に位置する「陰謀論」についてはほとんど言及されてなかった。賛成の方はいうまでもなくニュー資本主義(持続可能資本主義)になるわけだが。
 今アメリカを騒がしている陰謀論というとQアノンだと思うが、これについて日本ではほとんどその内容は知られていない。ウィキペディアを読むと一応どういう陰謀をなのかわかるが、それによると、

 「アメリカ合衆国連邦政府を裏で牛耳っており、世界規模の児童売春組織を運営している悪魔崇拝者・小児性愛者の秘密結社が存在し、ドナルド・トランプはその秘密結社と戦っている英雄である」

というわけだが、この陰謀説自体日本ではほとんど知られていないし信じる人も皆無といっていいだろう。
 同じウィキペディアに、「日本でアメリカ大統領戦の不正などを主張するトランプ支持者などを「Qアノン」ならぬ「Jアノン」と呼ぶ人々もいる。」とあるが、「Jアノン」という言葉も今日調べて初めて知った。
 筆者は毎日2ちゃんねるに目を通しているから、そこに書き込まれるネトウヨと思われる主張はよく知っているが、その中に児童買春組織が出てきたためしはない。日本の陰謀説のほとんどは中国政府かAntifaだ。BLMデモに関しても、トゥンベリさんについてもこの二つの陰謀という説は枚挙にいとまがない。
 中国政府の陰謀という説は、ちょっと前の左翼が何でもかんでも安倍ヒットラーの手の上で動いているかのような陰謀説を信じてたのに似ている。中国政府は確かに不穏だが、その脅威を極端に拡大し、あたかも習近平が万能の神であるかのように祭り上げてしまっている。
 コロナに関しても、日本ではコロナウィルス自体が架空のものだという説はあまり人気がない。コロナはただの風邪だという人はいるが、コロナそのものが存在しないという人はほとんどいない。
 陰謀論の根底にあるのは持続可能資本主義が脱資本主義と同様、世界の文化を一元化するのではないかという不安ではないかと思う。世界に多種多様な民族文化があり、誰しもそのローカルな文化に所属している。ローカルな文化の中でそれぞれ生存の取引を行い、その中で少しでも良い生活を得ようと一生懸命になっている。それが「地球」の名のもとに破壊されることを恐れているのではないかと思う。
 持続可能資本主義は当然ながら多様な文化習慣を容認することで多様な市場を生み出し、結果的にそれが経済成長につながる。それがきちんと担保されないなら、持続可能資本主義は自分たちが自発的に作り出すものではなく、外からやってきた得体のしれないものになってしまう。それが陰謀説を生む土壌になるのではないかと思う。

 それでは「笠寺や」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   売残したる庭の錦木
 ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ 菐言

 エノコログサは猫じゃらしのこと。売れ残った空き家にエノコログサが枯れて伏せり、ニシキギが四五本残っている。
 八句目。

   ゑのころのかさなり伏て四ツ五ツ
 むらむら土の焦し市原      執筆

 市原は京都の北側、鞍馬や貴船への入口になる。元禄七年春の「五人ぶち」の巻二十七句目に、

   むかしの栄耀今は苦にやむ
 市原にそこはかとなく行々子   芭蕉

の句がある。京都の五山送り火では過去に市原で「い(かながしら)」の字の送り火が行われていたらしい。原田淑人さんの「生物学者はこんなことを考えている」というサイトに書いてあった。
 その送り火が貞享の頃にあったかどうかはわからないが、「むらむら土の焦し」は野焼きの情景だろう。
 九句目。

   むらむら土の焦し市原
 旗竿に藪はほられて風の音    知足

 市原合戦であろう。ウィキペディアに、

 「市原合戦(いちはらかっせん)は、治承4年(1180年)9月7日に信濃国で起きた合戦。「善光寺裏合戦」とも呼ばれる治承・寿永の乱の中で起きた合戦の一つ。史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。」

とある。木曽義仲が大軍を率いてやってきたため笠原平五頼直の軍は逃げ出し、残ったのは風の音ということか。
 十句目。

   旗竿に藪はほられて風の音
 下部の祖父と女すむ家      如風

 下部(しもべ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 雑用に使われる者。召使い。「神の―」
  2 身分の低い者。
  「この魚…頭は―も食はず」〈徒然・一一九〉
  3 官に仕えて、雑役を勤めた下級の役人。
  「―ども参ってさがし奉れ」〈平家・四〉」

とある。武家に周りの藪が切り払われてしまい、風が直に家に吹き込むようになった。「女すむ家」というところで恋呼び出しになる。
 十一句目。

   下部の祖父と女すむ家
 きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て 自笑

 振袖は「ふるそで」であろう。「袖振る」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 合図として、または別れを惜しんだり、愛情を示したりして、着物の袖を振る。
  ※万葉(8C後)一・二〇「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖(そで)布流(フル)」

とある。
 後朝に別れを惜しんで袖を振るが、そこに烏帽子の祖父さんが必ず現れて、二人っきりにしてくれない。
 十二句目。

   きぬぎぬのまた振袖に烏帽子着て
 恨みを笛に吹残しける      安信

 通ってきたのは烏帽子を着て笛を吹く貴公子だった。
 十三句目。

   恨みを笛に吹残しける
 曇るやと夷に見せたる秋の月   重辰

 本歌は、

 あやなくも雲らぬ宵をいとふかな
     信夫の里の秋の夜の月
             橘為仲(新古今集)

だろうか。前句の「恨み」が陸奥に流された人の情になる。
 十四句目。

   曇るやと夷に見せたる秋の月
 露さぶげなり義経の像      菐言

 元禄九年の桃隣の「舞都遲登理」の旅の平泉の所に「義經像・堂一宇。辨慶櫻、中尊寺入口ニ有。」とある。それ以前の尾張の方でも噂に聞いていたか。
 十五句目。

   露さぶげなり義経の像
 白絹に萩としのぶを織こめて   如風

 これは想像だろう。義経の像といえば白装束に宮城野の萩と「みちのくのしのぶ文知摺」に掛けてシノブの葉を織り込んでというのが似合いそうだ。
 十六句目。

   白絹に萩としのぶを織こめて
 院の曹子に薫を乞        知足

 「曹子(ざうし)」は御曹司のこと。院は上皇や女院にも用いられるが、この場合は単に貴人の邸宅のことであろう。そこの白絹に萩としのぶを織こめた着物を着ている御曹司に薫物をもらいにゆく。
 十七句目。

   院の曹子に薫を乞
 廊を双六うちにしのびより    安信

 「廊」は「わたどの」と読む。屋根のある渡り廊下で前句の院を寺院としたか。『冬の日』の「つゝみかねて月とり落す霽かな 杜国」を発句とする巻の十一句目に、

   蕎麦さへ青し滋賀楽の坊
 朝月夜双六うちの旅ねして    杜國

の句がある。寺に双六うちは付き物なのだろう。
 双六はバックギャモンのことで、ギャンブルに用いられていた。ここでは双六の負けの借金の代わりに高価な薫物を要求するということか。
 十八句目。

   廊を双六うちにしのびより
 火を消す顔の憎き唇       重信

 双六うちとの密会。

2021年1月11日月曜日

  ニュー資本主義ではなくてもっと端的な言い方をするなら「持続可能資本主義」でいいのではないかと思う。ただこの名称だと、「資本主義を持続させるなんてとんでもない」とパヨチンどもが発狂しそうだが、逆に言えば持続可能資本主義は左翼の革命思想を終わらせる力があり、人々を左右の対立による犠牲から救うことにもなる。ネトウヨとパヨクの対立もなくなる。
 オールド資本主義は資源の枯渇、環境破壊、貧困による消費の低迷などによって破滅の道を歩む。戦後の修正資本主義(これは左翼の側からの呼び名だが)は国内の貧困を解消し、消費社会を生み出したが、それだけでは不十分だった。基本的には、
 1、地球レベルでの貧困をなくすことで、全世界が巨大な消費社会になり需要が飛躍的に伸びる。
 2、民族やマイノリティーへの差別をなくすことで多様な消費形態が生まれ、これも市場の拡大につながる。
 3、再生可能エネルギーや資源のリサイクルをすることで、資源の枯渇による経済危機を防ぐ。
 4、地球温暖化に配慮することで、天災による損失を減らす。
 5、地球環境全般に配慮することで、リスクを減らすとともに新たな需要を喚起することもできる。
ということだろう。
 中国型の一国資本主義は漢民族の消費拡大にしかならない。3、4、5、で多少の貢献は可能だが、限定的でしかなく、むしろ途上国の搾取や民族・マイノリティーへの弾圧を行うため、資本主義の発展にとってはマイナスになる。
 中村哲さんがアフガニスタンでしたようなことは、これからはゼネコンがやってもいいのではないかと思う。ボランティアではなく地元の労働者に正当な賃金を払って行えば、地元経済の発展にもなる。日本がもっと早くからこういうことを積極的にやっていれば、アフリカが中国によって借金漬けになることを防げたし、WHOもコロナ対策にきちんと機能できただろう。
 コロナの方は神奈川に続き東京もクラスター追跡をやらなくなった。市中感染が広がって追跡困難な上、それに人員を割く余裕もなくなった。今までの感染抑制の切り札を失うことになった。
 幸い鈴呂屋は今日も暇なので今年も俳諧を読んでいくことにしよう。

 『笈の小文』の旅の「星崎の」の巻の続きで、「笠寺や」の巻。
 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注によると、

 「『知足齋日日記抄』貞享四年十一月の冬に、「十七日、笠寺奉納はいかい今日私宅ニて桃青翁と共連衆七人ニてスル」とある。但し、芭蕉は発句のみ。発句は貞享四年春(三年春説もある)の寂照(知足)宛書簡に出で、この年の春、予め送っていた。」

とある。この書簡は短く、

   「この御寺の縁記(起)、人のかたるを聞侍て
 かさ寺やもらぬ岩屋もはるのあめ
             武城江東散人芭蕉桃青

 笠寺の発句度々被仰下候故、此度進覧申候。よきやうに清書被成、奉納可レ被レ成候。委曲夏中可得御意候。 以上
   寂照叟」

とある。
 笠寺は天林山笠覆寺で笠寺観音と呼ばれている。名鉄線本笠寺駅の近くにある。ウィキペディアには、

 「寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
 その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年 - 935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。」

とある。笠地蔵の原型のような話だ。
 なお、この寺にある芭蕉句碑はなぜか笠寺の句ではなく星崎の句になっているという。
 芭蕉が『笈の小文』の旅で訪れたということで、知足宅でこの発句を立句として歌仙興行が行われるが、芭蕉は同席しただけで発句のみの参加となっている。
 そのため、発句は十一月だけど春の句になっている。

   奉納
 笠寺やもらぬ窟も春の雨     芭蕉

 笠寺の辺りは平地なので岩屋(窟)がありそうなところではない。この句は「笠寺の春の雨(に)もらぬ窟もや」の倒置で、つまり観音様に被せた笠を岩屋に見立てたものだろう。娘のしたことは岩屋を掘ったに匹敵する、という意味になる。「も」は力もで並列のもではない。
 知足亭での興行なので脇は知足が付ける。

   笠寺やもらぬ窟も春の雨
 旅寝を起こすはなの鐘撞     知足

 「旅寝を起こす」というのは、わざわざ旅の途中に立ち寄ってもらったことへの労いであろう。春のなので「花」、お寺なので「鐘」と四手に付ける。
 第三。

   旅寝を起こすはなの鐘撞
 月の弓消ゆくかたに雉子啼て   如風

 朝の景に雉子の声も添えて下弦過ぎの「末の三日月」を付ける。
 四句目。

   月の弓消ゆくかたに雉子啼て
 秀句ならひに高瀬さしけり    重辰

 高瀬舟は江戸時代の河川での物流を担ってきた船。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「近世以後、川船の代表として各地の河川で貨客の輸送に従事した船。小は十石積級から大は二、三百石積に至るまであり、就航河川の状況に応じた船型、構造をもつが、吃水の浅い細長い船型という点は共通する。京・伏見間の高瀬川就航のものは箱造りの十五石積で小型を代表し、利根川水系の二百石積前後のものはきわめて長大で平田舟(ひらだぶね)に類似し、大型を代表する。」

とある。下流の川幅が広いところでは平田舟が用いられた。
 高名な俳諧師が来るとなれば、高瀬舟に乗って駆け付ける。その方が歩くよりも早いからだ。
 芭蕉の『奥の細道』の旅での日光から大渡(おおわたり)への近道も高瀬舟だったのかもしれない。
 五句目。

   秀句ならひに高瀬さしけり
 茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑    安信

 蓑は通常藁で作るが笹の蓑もあったのか。高瀬舟の船頭が着ていたのだろう。
 前句を京都の高瀬川の舟として宇治茶の出荷の場面を付ける。高瀬川はウィキペディアに、

 「江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。 開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。」

とある。
 宇治の抹茶は甜茶にしたあと熟成させるため、秋に封切りをした。時雨の頃が抹茶の出荷時期になる。京の町に秀句を習いに行く人も、この船に同乗する。
 六句目。

   茶を出す時雨に急ぐ笹の蓑
 売残したる庭の錦木       自笑

 錦木(ニシキギ)はウィキペディアに、

 「日本の北海道・本州・四国・九州のほか、国外では中国、アジア北東部に分布し、山野に自生する。秋の紅葉を楽しむため、庭木としてもよく植えられる。紅葉が見事で、ニッサ・スズランノキと共に世界三大紅葉樹に数えられる。」

とある。
 前句の笹の蓑を冬構えの木に被せる覆いと取り成したか。
 売れ残って紅葉の葉も散ってしまったニシキギに、時雨にやられないように笹の覆いをする。

2021年1月10日日曜日

  夫馬賢治さんの『ESG思考』を読み終えた。最後の方にコロナのことに触れていたが、ある意味でコロナはオールド資本主義発見器になったかな。このコロナ禍を変革のチャンスとするのがニュー資本主義、すぐに元通りに戻そうとするのがオールド資本主義。せっかくテレワークのチャンスなのに、ちょっと感染が収まってくるとすぐ通勤させて、社員の命より金が大事という経営ではそのうちクラスター出して、社会的信用を失うのではないかと思う。
 ただ、ニュー資本主義‥‥もう少しいいネーミングなかったかな。何かこの言葉だけ聞くとひどく胡散臭く聞こえる。もっと本質がわかるようないいネーミングはないものか。

 さて冬籠りの続き。
 元禄九年刊風国撰の『初蝉』より。

 放すかととはるる家や冬籠リ   去来

 この場合の「放す」の意味はよく分からない。家を売り払うのか、家督を譲るということなのか。まあ、結論を保留して狸寝入りを決め込むということなのだろう。
 次は元禄九年刊史邦撰の『芭蕉庵小文庫』より。

 鶏の片脚づつやふゆごもり    丈草
 金屏の松もふるさよ冬籠り    芭蕉

 芭蕉の句の方は先に触れたので丈草の句だが、これは鶏の片脚立ちのことだろう。平塚市博物館のホームページには、

 「鳥はしばしば片足で立っていること があります。地面にいる鳥はもちろんのこと、木の枝で休んでいる鳥もよく片足立ちになります。その時は、片方の足はおなかの羽毛の中に入れていることが多いので、片足立ちは体温が足から逃げるのを少なくするような保温の役目があると思われます。」

とある。
 丈草の家は質素で寒そうだから、鶏みたいに足を温めながら過ごしているのだろう。
 次は元禄十年刊風国撰の『菊の香』から。

 冬ごもり目の草臥んあかりまど  朱拙
 墨染に眉の毛ながし冬籠り    去来

 朱拙はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「1653-1733 江戸時代前期-中期の俳人。
承応(じょうおう)2年生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)の人。医を業とした。中村西国に談林風をまなび,元禄(げんろく)8年来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者。編著に「梅桜」「けふの昔」など。享保(きょうほう)18年6月4日死去。81歳。通称は半山。別号に守拙,四方郎,四野人。」

とある。許六の『俳諧問答』にも、

 「又豊後の一集あり。此ハ惟然が手筋たり。然ども此集、坊が教示より先草稿し、後坊に聞て加入すと聞けり。
 そのほか坊が徒の集なし。
 或曰、豊後に集已板に出。世にあらハす事ハ惟然教示ノ後ノ集也。その前より有集ハ、終に板に不出。」

とある。これが朱拙撰の『梅桜』(元禄十年刊)だと岩波文庫の横澤三郎注にある。
 寒くて閉め切った室内では明かり窓の光だけなので暗く、書物など読んだら目が疲れる。
 去来の句は冬籠りの興に老僧の景を付ける去来の得意なパターンで、「眉の毛ながし」は取り囃しになる。達磨大師の水墨画が思い浮かぶ。
 次は元禄十年刊桃隣撰『陸奥衛』から。

 手習の外なし老の冬籠り     少噲

 少噲についてはよくわからない。『陸奥衛』には何句か見られる。冬籠りで閑だから何か手習いでもするしかない。コロナのステイホームでもありそうなことだ。手習いの元の意味は習字だが、江戸時代には他の習いごとにも拡大されていたであろう。
 次は元禄十年刊李由・許六撰『韻塞』の句。

 大儀して鍋蓋ひとつ冬ごもり   李由
 人を吐く息を習はむ冬籠     千那
 冬籠鼓の筒のほこりかな     木導
 土鑵子や焼火になるるふゆ籠   米巒

 「大儀して」の句は許六の『俳諧問答』にも登場する。

 「又李由ある時、『鍋ぶた一ッ冬籠』と云句に、五字を頼まれたり。是容易に出る五字ニあらず。これ魂魄を入る五文字なれバ、案じ煩て、
 大儀して鍋ぶた一ッ冬ごもり
と云事をすへたり。」

 まあ、面倒くさい時には手っ取り早く鍋で済ませるのが一番で、鍋と蓋のワンセットがあれば冬を乗り切れる。
 「人を吐く」の句は「吐く息を人を(に)習はむ」の倒置であろう。部屋の火鉢の傍は暖かいが、余所から人が来て吐く息が白いのを見ると寒いんだなと分かる。コロナのステイホームの場合は吐く息で飛沫感染の恐れがあるので、ちゃんとマスクをしよう。
 鼓の句は、鼓が合いの手を入れる楽器であまり一人では演奏しないので、冬籠りの時は埃をかぶっているということだと思う。木導は彦根藩士。
 「土鑵子や」の鑵子(かんす)は茶釜のことで、土鑵子は土鍋のような陶器でできた茶釜のことであろう。「焼火(やいひ)」はお灸のこと。土鑵子で薬を煎じ、お灸を据えるのは、病気療養の冬籠りだろう。米巒についてもよくわからない。
 次は元禄十二年刊凉菟撰の『皮籠摺』。

 皆人もかうした事か冬ごもり   凉菟
 押立た箕は屏風也ふゆごもり   箕足
 湯をすする口のとがりや冬籠   狸々
 かけものの壁に跡あり冬ごもり  凉菟

 「皆人も」の句。冬籠りをしていると他の人の情報がなかなか入らないから、みんなも籠っているのか気になる。「か」という切れ字は「かな」と同じで治定の意味なので、みんなも籠っているのだろうか、籠っているのだろうな。というニュアンスになる。コロナのステイホームでもこういう孤独感はあるだろう。ただ、テレビが映し出す世界を真に受けないこと。情報操作されてしまうので、ネットや視聴者参加型のラジオ番組でいろんな人の声を聞こう。
 「押立た」の句。箕(み)は穀物を篩うための道具で、竹で編んだ大きな塵取りの柄のないような形をしている。大きなものなので、これを立てておけば屏風代わりに風を遮ってくれる。箕足という人もよくわからないが、箕を背負って歩いてるのを後ろから見ると箕の下から足がでているようにみえる、そういう俳号か。
 「湯をすする」の句、確かにすする時には口を前に尖らす。狸々もよくわからない。「りり」と読むのか「しょうじょう」と読むのか。「たぬたぬ」でないことは確かだろう。
 「かけものの」の句は『嵯峨日記』の、

 五月雨や色帋へぎたる壁の跡   芭蕉

と同竈(同巣)ではないかと思う。冬籠りで客を迎えるでもないから、大事な掛け軸ははずしている。
 次は元禄十三年刊乙孝撰の『一幅半』より。

 冬籠ル顔や詩人のかぶり物    凉菟
 梟の咳せくやうに冬ごもり    一旨
 辛キ物くふた顔なり冬ごもり   臼杵
 やねうらの傘見るや冬籠     如豹
 隣さへいつ見たままの冬籠    桐羽

 凉菟の句の「詩人のかぶり物」は昔の中国の漢詩人の帽子なのだろうけど、何か黒いものを被っている。ネットで見たらコスプレ衣裳として販売されていた。平式幞头という頭巾だろうか。ここでは単に煤で顔が黒くなったということなのだろう。
 「梟の」の句。フクロウの声というと「ほうほう」だが、日本のフクロウは短く、「ほっ、ほ」と鳴くようだ。youtubeで聞ける。それが咳のように聞こえたのだろう。
 「辛キ物」の句は、寒いときの顔は大体目を細めて顔全体をしかめる、その顔が辛いものを食べたときの顔と似ているというのだろう。
 「やねうらの」の句は、寒いと部屋で寝転がっていることが多いから、屋根裏の柱が嫌でも目に入る。それがから傘のようだというのだろう。高台寺の茶室の傘亭の画像を見るとなるほどと思う。元禄の頃の草庵もこういう作りだったのか。
 「隣さへ」の句は、隣の人にもこの頃会ってないな、という句。
 次は元禄十四年刊、万子・支考撰の『そこの花』の二句。

 米ひとつ蟻の力や冬籠      為貼
 丸瓢もろふて行む冬ごもり    山之

 米俵の重さは60キロあったという。それを担ぐ姿が蟻の餌を運ぶ姿に似ているということか。
 丸瓢(まるひさご)はよくわからないが、瓢箪にもいろいろな形のものがあり、丸い瓢箪を器にするということか。
 元禄十六年刊支考・牧童撰『草刈笛』。

 摺小木の細工もはてず冬籠    芦文
 爰かけばかしこもかゆし冬籠   烏水
 狸にはならでけふとし冬籠    雨青
 芦の葉の鷺とすくまむ冬籠    支考

 暇だからすりこ木にいろいろ細工をしてみる。
 寒いと乾燥肌で体中あちこちがかゆくなる。
 昔はタヌキとアナグマの区別がつかず、一緒くたにされていた。ホンドタヌキは冬眠しないがアナグマは冬眠する。ここでは冬眠状態にはなれず、ついつい出歩いてしまうという意味か。
 支考の句は芦の葉に住む鷺のように寒さに身をすくめるという意味だろう。寒いときは鷺も首を縮めて丸くなる。
 元禄十六年刊素覧撰『幾人主水』。

 弦かけぬ関屋の弓や冬籠り    桃妖

 関所には弓をはじめとする武器が一通り揃えられていて何かあった時に備えているのだが、冬籠りはその弦の外している状態のようなものか、という句だろう。桃妖は加賀山中とある。芭蕉が山中三吟を巻き、曾良と別れたところだ。
 宝永元年刊、去来・卯七撰『渡鳥集』

 椿見る座敷の内や冬籠      勝之介

 座敷から庭の椿が見える冬籠り。ちょっと裕福な感じがする。
 出典はわからないが「575筆まか勢」というサイトで拾った句。

 きらひなる猫も撫らん冬籠    百里
 友とてや猫もかじけて冬籠り   昌房

 同竈(同巣)という感じがするが、どっちが先というわけでもないのだろう。百里は江戸の嵐雪門。昌房は膳所衆で探志、臥高とともに許六の『俳諧問答』で、「風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」と評されている。
 百里は師の嵐雪と同様猫嫌いなのだろう。猫が嫌いな人は猫を追いかけたり声を出して呼んだりしないで放っておいてくれるから、案外そういう人に猫は寄ってくるものだ。
 昌房の句の「かじけて」はweblio辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「1 手足が凍えて自由に動かなくなる。かじかむ。「寒さで手が―・ける」
  2 やせ細る。衰え弱る。
  「衣裳(きもの)弊(や)れ垢(あか)つき、形色(かほ)―・け」〈崇峻紀〉
  3 植物などがしぼむ。
  「いと―・けたる下折れの、霜も落さず」〈源・藤袴〉」

とある。今の言葉の「かじかむ」はここから来ている。
 以上、冬籠りの句をいろいろ見てきたが、やはり最後の〆はこれだろう。

 冬籠り虫けらまでもあなかしこ  貞徳

2021年1月9日土曜日

 コロナの方は去年の暮れに死者が三千人を越えたと思ったら、あっという間に四千人を越えた。
 まあ一応強制力はないが緊急事態宣言は出ているし、一方で北陸は大雪でやはり不要不急の外出は控えるようにということになっている。ステイホームということだが、まあ、時期的に冬籠りか、というところで今日は冬籠りの句を拾ってみることにしよう。

 冬籠りの句は意外に芭蕉七部集には少ない。
 まずは『阿羅野』(元禄二年刊、荷兮撰)に芭蕉の句が二句ある。

 冬籠りまたよりそはん此はしら  芭蕉

 この句は貞享五年『笈の小文』から『更科紀行』の旅を経て芭蕉庵に戻り、九月三十日に元号が元禄元年に改まったその冬の句だ。
 再び戻ってきた第二次芭蕉庵の柱に、また寄り添わん、と語りかける。もっとも翌三月二十日にこの第二次芭蕉庵を引き払って『奥の細道』の旅に出てしまうのだが。

 先祝へ梅を心の冬籠り      芭蕉

 この句は『阿羅野』の冬の所にではなく「祝」の所にある。梅の花に新しい年を迎える心で冬籠りという句。

 これより前の冬籠りの句というと、春秋社の『普及版俳書大系』を探してみたが、今の所『江戸蛇之鮓』(延宝七年刊、言水編)の、

 捨てだに頭巾や袖の冬籠り    調楽

を見つけただけだ。世を捨てても頭巾と袖は捨てられないということか。「袖」は袖のある防寒着で、ちゃんちゃんこではなく綿入り半纏が手放せないということだろう。

 芭蕉七部集だと次に『猿蓑』(元禄四年刊、去来・凡兆撰)だが、

   翁の堅田に閑居を聞て
 雑水のなどころならば冬ごもり  其角

の句があった。
 芭蕉は元禄二年の冬も三年の冬も膳所の義仲寺無名庵で年を越している。おそらくこのどちらかの時のことだろう。
 おそらく元禄三年九月十二日付の江戸勤番中の曲水に宛てた書簡に、

 「秋も名残に移り、霜時雨の旅用意とて紙小あはせ縫したため、檜木笠に書付して三里に灸すえんと心打さはがるるに、魔疝、精神を濁して、いまだ富士の雪みん事不定におぼへられ候。」

と江戸に帰る予定が病気で帰れなくなった旨を伝えているので、そこから元禄三年の冬も湖南に滞在すると思ったのだろう。
 同じ日に曾良宛の書簡も送っているが、そこには「極寒には伊賀へ引取候事も可有御座候」とあるから、こちらのルートの情報ではなかったと思う。
 其角の父の竹下東順は堅田の出身で、今日では堅田本福寺の近くに宝井其角寓居乃跡という碑が立てられている。千那が堅田本福寺の住職だったところから、ここに滞在すると思ったのかもしれない。
 あるいは別のルートで、

   堅田にて
 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉    芭蕉

の句を知って、堅田閑居と判断したのかもしれない。
 句によると堅田の雑炊は名物だったようだが、今日には継承されてないようだ。冬はイサザや鮎の稚魚の氷魚(ひお)が獲れる。前年元禄二年冬には、

 霰せば網代の氷魚を煮て出さん  芭蕉

の句も詠んでいし、『猿蓑』には、

 時雨きや並びかねたるいさざ舟  千那

の句も見られる。

 冬籠りの句は芭蕉の死後になると急速に増えるが、それまでは数少ない。

 下帯の竿にかけつつ冬籠     木節(『己が光』元禄五年刊、車庸撰)
 先杖をはじめに焼ん冬籠     兀峯(『桃の実』元禄六年刊、兀峯撰)
 蓑笠も世に足る人や冬籠     露川(『藤の実』元禄七年刊、素牛撰)

といったところだろうか。
 「下帯の」の句は寒いから部屋干しするという意味だろう。後の二句は杖や蓑傘など旅を感じさせるものと取り合わせて、旅をやめて冬籠りするという句になる。阿羅野の句や其角の句が芭蕉の旅の間の冬籠りだったことに由来するものだろう。
 なお、芭蕉には、『市の庵』(元禄七年刊、洒堂撰)に、

    贈洒堂
   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは
   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な
   かれ
 難波津や田螺の蓋も冬ごもり   芭蕉

の句がある。これは元禄六年の夏に洒堂が膳所から大阪に居を移すが、これがやがて之道とのトラブルのもとになる。おそらく、そんなことになるとも知らずに送った句で、琵琶湖を出た田螺が難波の葦の蟹に挟まれないようにおとなしくしてなさい、という句だが、大阪談林の猛者たちを念頭に置いていたのだろう。おとなしくしてなかったようだ。
 その他、

 金屏に松のふるびや冬籠り    芭蕉

の句が支考撰『笈日記』(元禄八年刊)に見られる。
 史邦撰『芭蕉庵小文庫』(元禄九年刊)には、

 金屏の松もふるさよ冬籠り    芭蕉

の形で掲載されている。元禄六年十月九日付けの許六宛書簡と元禄六年十一月八日付けの荊口宛書簡には、

 金屏の松の古さよ冬篭り     芭蕉

となっているので、これが本来の形と思われる。古い由緒あるお寺での冬籠りする姿が感じられる。
 この句は元禄二年冬というから『奥の細道』の旅を終え「猿に小蓑を」の句を詠んで伊賀に帰った時に詠んだ

 屏風には山を絵書て冬籠     芭蕉

の改作だとされている。ただ、この句だと屏風は新しくてこれから絵を描くということになる。
 『後の旅』(元禄八年刊、如行撰)には、
 
   千川亭に遊て
 折々に伊吹をみては冬ごもり   芭蕉

の句がある。これは元禄四年九月二十八日に膳所の義仲寺無名庵を出て江戸に下向する途中、大垣の千川亭に寄った時の句だ。大垣といえば伊吹山がすぐ近くに見えるが、ここに何日滞在したのかはわからない。十月二十九日には江戸に着いている。

 芭蕉亡き後は、浪花撰『有磯海』(元禄八年刊)に、

   芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときき
   て、伏見より夜舟さし下す
 舟にねて荷物の間や冬ごもり   去来
 そこ意にや広間の番も冬ごもり  恕風
 炭の火に並ぶきんかのひかり哉  北枝
 冬籠り炭一俵をちからかな    滄波

の四句がある。
 去来は芭蕉臨終の間際にも、

 病中のあまりすするや冬ごもり  去来

の句を詠んで、同席していた丈草の「うづくまるやくわんの下のさむさ哉」が「丈草出来たり」と芭蕉に言われたことで、「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじ」と反省している。まあ、冬籠りという季題を選び、そこからその本意本情にあった景を探って「あまりすするや」になったのだろう。
 「舟にねて」の句も「冬籠り」の興から「舟にねて荷物の間や」という景を添えているだけで、あまり芭蕉さんのことを心配している風には見えない。

 そこ意にや広間の番も冬ごもり  恕風

の「そこ意(い)」は下心のことだから、広間の番で寒いけど、心の中ではこれでも冬籠りだと言い聞かせているということか。

 炭の火に並ぶきんかのひかり哉  北枝

の句は「冬籠り」の言葉は入っていないが、冬籠りの句の間に挟まっている。「きんか」は鶏の金柑のことか。一羽から数個取れるという。

 冬籠り炭一俵をちからかな    滄波

 この句はわかりやすい。炭一俵あれば冬を越せる。

2021年1月8日金曜日

  『俳諧問答』の続き。

 「一、千那 上方の高弟ニして、器もすぐれてよし。論ぜば、尚白が器ハ鈍にして重し。千那の器ハ勝れていき過たり。花実は花過たり。とりはやしも得られたる故に、弥実をかくす味あり。
 風雅二ツ、世用八ツ有。たまたま残りたる二ツの風雅、八ツの世用の盛なるに寄て、次第に押領せらる。
 たとへバ脾腎の虚を煩ふ人、火気のさかむに上て、わづか残たる脾土を焼がごとし。次第に肺の気もよハりぬる故に、水を増す事かたし。
 久しく師説にはなれて、流行の堀切ハ出来、八ツの世用の火気はハ上るに寄て、元気次第によハれり。病の癒る期ハあるまじ。
 此人の俳諧のいき過たると云ハ、われ斗面白おもふといへ共、人會てうれしがらず。たとへバ卯月朔日衣がへの日、紙帳を売来る人あり。師ノ云々、これいき過也。しかも其年寒して火燵を離れず。人の売ざる内ニうるべしとおもひて、紙帳紙帳といへ共、人の気移らず。ありがたきたとへなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.215~217)

 千那は『野ざらし紀行』の頃からの芭蕉の古い門人で、近江の堅田本福寺の住職だという。「器もすぐれてよし」は去来・支考と並ぶ。尚白の「鈍にして重し」は杉風の「器も鈍ならず」よりかなり落ちる。乙州・北枝の「器大方也」よりも下か。
 器のすぐれて良しとはいうものの、器ハ勝れていき過たりとあるのは、才能はあるのだけど一般受けしないということか。そのあとの「俳諧のいき過たる」のことをいうのであろう。
 紙帳の例えはわかりにくいが、先を行き過ぎて売れないということか。今でも発売するタイミングが早すぎて売れなかった商品というのはある。
 紙帳(しちょう)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「和紙製の蚊帳(かや)。紙布を糊(のり)付けして張り合わせてつくる。『守貞漫稿(もりさだまんこう)』(1853序)には図入りで掲げられ、上部が狭く下部が広くなっているものが江戸で売り物とされたこと、あちこちを地紙(じがみ)形(扇形)、団扇(うちわ)形などに切り除き紗(しゃ)を張ってふさぎ使ったことなどが述べられている。『理斎(りさい)随筆』(1823序)には、安価で寝姿が見えないなどと、紙帳の十徳が説かれている。石見(いわみ)(島根県)の山村では明治末まで蚊帳として使用されたし、会津(福島県)では柿渋(かきしぶ)で補強した紙布を敷き、作業用としてカヤとよばれる紙帳を吊(つ)り、その中で紙製の帽子をかぶって、製蝋(ろう)用のキノミ(漆の実)搗(つ)きをしたという。[天野 武]」

とある。
 「花実は花過たり。」というのは杉風の「花実ハ実過たり。」の真逆になる。「風雅二ツ、世用八ツ有」はそのまま実二花八ということか。世俗に通じ花はあるが流行の先を行き過ぎて失敗しているということなのだろう。
 李由・許六編の『韻塞』にも千那の句は多く見られる。

 水鼻にまこと見せけりおとりこし 千那

 「おとりこし」は親鸞の命日の報恩講を本山と重ならないように繰り上げて行うことで、各自の家で行われて、お坊さんが来てくれるという。そのお坊さんが寒さに水鼻を垂らしているが、それでもわざわざ来てくれたというところに誠を感じるということか。「水鼻にまこと見せけり」で何だろうと思わせる所が上手い。
 『韻塞』のこの句の一つ前は、

 時雨来る空や八百屋の御取越  汶村

の句で、これも時雨の季節に八百屋までやってきてくれるという意味だろう。

 寒き日は猶りきむ也たばこ切  千那

 「たばこ切」は畳んだ煙草の葉を小さく切り刻む作業のことか。夏に採れた煙草の葉は乾燥させ、冬に刻み煙草になる。

 氷魚といふ名こそおしけれとしの暮 千那

 氷魚(ひお)はアユの稚魚で冬の琵琶湖で獲れる。元禄二年、芭蕉は膳所で、

 霰せば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉

の句を詠んでいる。

 「一、尚白 是も上方の高弟也。師説を久しくへだてたれバ、弥旧染の病再発したり。
 かれが器の鈍して重き所ニ、一風面白き胴切たる所あり。師此胴切たる事を、たすけて用ひ給へり。今ハ其筋もわすれたり。たとへバ五人持の石瓶の底のぬけたるがごとし。
 一年わすれ梅と云集を作らんとせし時、師次第に流行し給ふに寄て、かるみを説り。此かるミ力落て、今に其集ならずして年経ぬ。
 たとへバ深き井のもとに落ておぼるる人在。師のたすけに寄て、水ぎハまで引上ゲ給へり。もとのくるしミをわすれて、爰ぞ世界とおもへる時、師ハ井輪・石垣をはね上て、かるみハ爰也、此所へ来れりとおしへり。
 落たる人、師のまねをしてはね上らんとする時、例の鈍き重き器なれバ、もとの水底へ沈ミ、ひた物迷て、あらぬごみをたてるがごとし。
 今とでも、一度師のたすけに寄て水ぎハ迠ハ引上られたれバ、其道を尋て、それより次第次第に石を這ひ、輪を攀て上り侍らバ、おもく鈍共、流行せざる事ハあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.217~220)

 「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)とあるように、許六はかつて尚白に教えを乞うたこともあった。尚白の方は貞享二年芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で弟子になり、蕉風確立期の風を学んでいる。
 「器が重い」というのは保守的ということか。「胴切(どうぎる)」というのは、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 胴切りにする。筒ぎりにする。
  ※太平記(14C後)八「五尺三寸の太刀を以て、敵三人懸けず筒切(ドウギッ)て」
  ② 大胆自由に事を行なう。きままに処置する。
  ※日葡辞書(1603‐04)「ドウギリモノ。または、Dôguitta(ドウギッタ) ヒト」
  ※歌舞伎・桑名屋徳蔵入船物語(1770)二「御出家の托鉢余り胴切って承知仕った」

とある。この場合は②の意味で、新風を起こすだけの大胆さがなかったのだろう。芭蕉の助けで大胆な句も詠めたが、師亡きあとはその筋も忘れ元に戻っているというのだろう。
 「わすれ梅」は、ウィキペディアに、

 「句集 忘梅
 この書の出版を巡り芭蕉との師弟関係が崩壊した。芭蕉からの千那宛書簡(元禄4年9月28日)は関係崩壊の過程を示す貴重な書簡である。「忘梅」に千那が書いた序文について芭蕉が朱を入れたことで確執が生じたことに端を発した。これ以後、芭蕉と、千那や尚白との文通は残っていない。大津蕉門には、森川許六・河合乙州・菅沼曲水・高橋怒誰等の次世代門弟と、初代門弟との間には何時しかそよそよした隙間風が吹くようになっていった。芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄6年5月4日)「尚白ごとき」と記され垣間見える。」

とある。その元禄四年九月二十八日付千那宛書簡には、

 「尚白集御序文下書先日被遣候を考候處、集之序に難仕候故、下書なる程あら方したため候。」

とある。そして、

 「芭蕉門に入りと云處、尚白心入も候はば御除可被成候」

とあるように、「芭蕉門に入り」というところを抹消するということは事実上の破門となる。
 そして元禄六年五月四日付許六宛書簡には、

 「御帰国被成候はば、去来へ御通し可被成候。拙者方よりも可申遣、是も一人一ふりあるおのこにて、尚白ごときのにやくやものに而は無御座候。」

とある。許六が江戸から彦根に帰る直前、芭蕉が其角の所に行っている留守に許六が芭蕉庵を尋ね行き違いになった後の書簡で、彦根に帰った後は去来を頼るようにと書き残す傍ら、尚白に頼ってもしょうがないようなことを言っている。「にやくや」はgoo国語辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「にや‐くや の解説
 [副]あいまいでにえきらないさま。
 「懐中が乏しきゆゑ、―の挨拶をしてゐるに」〈滑・続膝栗毛・七〉」

とある。
 師匠のこの言葉を元に、許六は去来に手紙を書き、この『俳諧問答』のきっかけにもなっている。許六の尚白の評価も「にやくやもの」つまり腰の重い保守的な、ということになっている。
 芭蕉の死後、

 しけ絹に紙子取あふ御影哉   尚白

の追悼句が其角撰『枯尾花』に、記されている他、元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧百韻にも参加し、

   ふとんを巻て出す乗物
 弟子にとて狩人の子をまいらする 尚白

   里迄はやとひ人遠き峯の寺
 聞やみやこに爪刻む音     同

   木像かとて椅子をゆるがす
 三重がさねむかつく斗匂はせて 同

   三河なまりは天下一番
 飯しゐに内義も出るけふの月  同

という句を付けている。
 そしてしばらくの沈黙の後元禄十五年刊惟然撰『二葉集』に、

   閑居のこころを
 竹といへば痩藪梅は老木かな  尚白

の句を寄せている。

 「一、李由幷予が風雅ハ、よくしり給ふ上なれバ、論ずるにたらず。たとへバ作のしれぬ打物、しかも疵がちなり。しかれ共、わざのさハりにならぬ疵なれば、骨の切るをとり得とするのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220)

 「よくしり給ふ」というのは自分と最も近い弟子だから論じるべき相手ではないということだろう。
 「打物」はこの場合は刀剣のことだろう。無名作者の疵物と謙遜してはいるが、問題にならないような疵でばっさりと骨を断つ。上級武士だけあってなかなか勇ましい例えだ。

 「一、師 諸門弟の得たる所、一ツも欠たる事なし。師の得たる所ハ一所も虚なき故に、鉄壁をたてるがごとし。故に位高くして徳甚だ篤し。何人が後代に到ても、此翁を押者あらむや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.220~221)

 師匠は完全無欠で鉄壁。まあ、確かに三百年以上もたった今でも芭蕉を越える者はいない。芭蕉の句は誰もが何句か思い出せるが、他の作者の句はなかなか思い出せないものだ。観念的な美学を振り回して越えたと論じることはできるかもしれない。だが、芭蕉程国民的に、否国外でも親しまれている俳人はいない。
 「押す」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①動かす。押す。
  出典枕草子 日のいとうららかなるに
  「櫓(ろ)といふものおして、歌をいみじううたひたるは」
  [訳] 櫓という物を押して、歌をさかんに歌っているのは。
  ②前に進める。
  出典源氏物語 玉鬘
  「唐泊(からとまり)より川尻(かはじり)おすほどは」
  [訳] 唐泊から川尻へ舟を進める間は。
  ③押し当てる。
  出典源氏物語 常夏
  「みな、いと涼しき勾欄(こうらん)に背中おしつつ、さぶらひ給(たま)ふ」
  [訳] 皆とても涼しい欄干に背中を押し当てながら控えていらっしゃる。
  ④圧倒する。
  出典源氏物語 桐壺
  「右の大臣(おとど)の御勢ひは、ものにもあらずおされ給へり」
  [訳] 右大臣のご威勢は問題にもならず(左大臣に)圧倒されてしまわれた。
  ⑤張り付ける。印をおす。
  出典平家物語 一・殿上闇討
  「中は木刀(きがたな)に銀箔(ぎんぱく)をぞおしたりける」
  [訳] 中身は木刀に銀箔を張り付けてあった。
  ⑥すみずみまで行き渡らせる。
  出典万葉集 一〇七四
  「春日山おして照らせるこの月は」
  [訳] 春日山をすみずみまで行き渡らせて照らしているこの月は。」

とある。この場合は④の意味であろう。今日のような「推薦する」の意味はない。

 「此外の門人、野辺のかづら、林の木葉に等し。論ずる詞もなし。
 右七拾余枚の長編、先生の意見もかへりミず、しかも能しり給ふ所といへ共、予が腸を引出して書之。同門のよしミ、就中先生と予ハ骨肉のおもひをなす故也。必他見他言可蒙御用捨者也。
 于時元禄十一戊寅春三月 於風狂堂述
         五井老主人
            森許六草稿
  呈落柿舎主人
    去来先生梧右下」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.221~222)

 他の門人のことはよくわからない。まあ、とにかく公表を前提とした論ではなく、くれぐれも内緒にしておいてくれ、ということでこの「同門評判」は終わる。