なんか相変わらずマス護美はマスクを注意しちゃいけないような風潮を作ろうとしている。感染症防止は生存権なんだから、他の権利に優先されるべきだ。
それでは「箱根越す」の巻の続き。
初裏。
七句目。
蔀々を上る盆の夜
帷子に袷羽織も秋めきて 執筆
盆の頃は夜ともなると冷えてきて、夏の単衣の帷子の上に袷羽織を羽織ってたりする。
八句目。
帷子に袷羽織も秋めきて
食早稲くさき田舎なりけり 芭蕉
ウィキペディアによると、
「日本において香り米が記載されている最古の文献は、日本最古の農書とされる『清良記』で、「薫早稲」「香餅」と記載されている。『清良記』と同じく17世紀に刊行された『会津農書』にも「香早稲」「鼠早稲」との記述がみられる。19世紀初頭に刊行された鹿児島の農書『成形図説』によると、日本では古代から神饌米、祭礼用、饗応用に用いられてきた。19世紀末に北海道庁が編纂した『北海道農事試験報告』によると、香り米は古くから不良地帯向けのイネとして知られており、北海道開拓の黎明期にも活用された。」
とあり、痩せ地で作る早稲には独特の香りがあったようだ。
なお、『奥の細道』の旅で芭蕉は、
早稲の香や分け入る右は有磯海 芭蕉
の句を詠んでいる。
九句目。
食早稲くさき田舎なりけり
神主も常は大かた烏帽子なく 聴雪
早稲が祭祀用に用いられていたなら、早稲から神主への移りは自然だ。神主も儀式のときは烏帽子を被るが、普段は被っていないことの方が多い。
十句目
神主も常は大かた烏帽子なく
塘見えすく薮の下刈 如行
「下刈」は笹や低木常緑樹を除去して本来育てるべき木の成長を促すもので、木下の藪がなくなると大きな木の間から遠くが見えるようになる。
烏帽子を被る場合は髻(もとどり)を結い、そこに烏帽子をひっかけるのだが、この場合は下刈りをしたみたいに地肌が透けている(禿げている)というネタか。
十一句目
塘見えすく薮の下刈
どやどやと還御の跡に鶴釣て 荷兮
「還御(かんぎょ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 天皇、法皇、三后(さんこう)が、出かけた先から帰ること。還幸(かんこう)。転じて、将軍、公卿(くぎょう)が出先から帰ることにいう場合もある。
※三代実録‐貞観三年(861)二月一八日「皇太后〈略〉夜分之後、還二御本宮一」
※平家(13C前)三「法皇やがて還御、御車を門前に立てられたり」
とある。
「鶴釣て」は意味がよくわからない。鶴御成(つるおなり)のことか。ウィキペディアには、
「鶴御成(つるおなり)は、江戸時代、将軍によっておこなわれた、ツルをとらえる鷹狩である。将軍による鷹狩りの中で最もおごそかなものとされた。」
とあり、
「それぞれの飼場は鳥見が1人いて、これを管し、下飼人である網差およびその見習が日々そこにつめて、餌(毎日3回、籾5合ずつを撒く)を与え、種々の方法を講じて代に初めて下りたツルを馴らし、人をおそれなくなるのを見て、あらかじめこれを鷹匠頭に報告する。鷹匠頭はそれを検分してのち、さらに若年寄に上申し、若年寄は老中と協議のうえ、日時をさだめ、将軍に言上する。当日、将軍は藤色の陣羽織、従者はばんどり羽織、股引、草鞋で、将軍はまず寄垣(代附の外側に結んだ青竹の垣)の内にもうけた仮屋につく。将軍は鷹匠頭からタカを受け取り、鳥見が大きな日の丸の扇を高くあげてツルが逍遥しているほうにすすみ、ツルが驚いて飛び立とうとするのを見て、タカを放つ。
もし1羽ではおぼつかないと思われる時は、鷹匠がさらに第2、第3のタカを放ち助けるが、タカ1羽でツルをとらえることはまれであるという。とらえられたツルは鷹匠が刀を執って将軍の前で左腹の脇をひらいて臓腑をだしてタカに与え、あとに塩をつめて縫い、昼夜兼行で京都へたてまつった。街道筋ではこれを「御鶴様のお通り」といった。このツルの肉は新年三が日の朝供御の吸物になった。」
とある。
還御の行列の後尾に鶴を釣り下げた人が通ったのか。前句の塘をその通り道となる街道としての付けであろう。
等躬撰の『伊達衣』には、
人日
贄殿に鶴と添をく根芹哉 須竿
の句がある。
十二句目
どやどやと還御の跡に鶴釣て
誰やら申出す念仏 越人
将軍様の鶴が通るときに、必ずこれは殺生だと言って念仏を唱える人がいる。
十三句目
誰やら申出す念仏
しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ 野水
女の許に通ったつもりが、部屋から何やら念仏を唱える声が聞こえてくる。何かあったのか、悪いときに来てしまったと戸を開けるのをためらっているうちに蚊に食われる。
十四句目
しのび入る戸を明かねて蚊に喰れ
浮名はづれる月のからかさ 如行
「月のからかさ」は月暈(げつうん)のことであろう。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「月の周囲に現れる輪状の光暈。月の光が細かい氷の結晶からできている雲に反射・屈折して起こる。つきのかさ。」
とある。
「浮名・はづれる月のからかさ」と切った方が良いのだろう。中に入りかねて外にいると、いつしか雲が切れて月の光が雲に虹のような輪っかを映し出す。忍んだつもりが姿を見られてしまい、浮名を流すことになる。「浮名にはづれる月のからかさ」の「に」が省略された形か。
十五句目
浮名はづれる月のからかさ
長き夜に泣たるまみの重たげに 越人
「まみ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、
「①目つき。まなざし。
出典源氏物語 桐壺
「まみなども、いとたゆげにて」
[訳] まなざしなども、とてもだるそうで。
②目もと。
出典源氏物語 明石
「所々うち赤み給(たま)へる御まみのわたりなど」
[訳] (泣いて)ところどころ赤くなっていらっしゃる目もとのあたりなど。」
とある。この場合は目蓋のことか。
長い夜を泣き明かして腫れた目蓋を重たげに開けると月の笠が見える。
十六句目
長き夜に泣たるまみの重たげに
人に懐れて舟をあがりぬ 野水
売り飛ばされ、舟に乗せられて運ばれてきた遊女としたか。
十七句目
人に懐れて舟をあがりぬ
花の賀にけふ狩衣を雛にする 荷兮
『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「雛」は「皺」の誤写とする。
「花の賀」は『伊勢物語』第二十九段であろう。
「昔、東宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、
花に飽かぬ嘆きはいつもせしかども
今日の今宵に似る時はなし」
たったこれだけだが、「東宮の女御」は二条后高子で、かなわぬ恋をする在原業平が招かれて詠んだ歌だとされてきた。
表向きの意味は、花を見て飽くことのない、永遠に散ることなくいつまでも見ていられたらという嘆きは、今日のこの立派な祝賀の席に招かれて、他のどんな花見の席に招かれた時以上にそう感じた、というものだ。
ただ、裏を読むなら、花に開けてもらえなかった叶うことのなかったこの恋の嘆きはいつものことだが、今日ほどその望みが跡形もなく砕け散った時はない、とも取れる。
このあと在原業平は東国に下り、あの有名な都鳥の歌を詠んで隅田川を船で渡る。あの「花の賀」を思い出すと涙があふれ、狩衣を皺にしながら人に抱きかかえられるようにして船に乗る。
十八句目
花の賀にけふ狩衣を雛にする
そのまま梅を植るまく串 聴雪
「まく串」は幕串でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 幕を張るために立てる細い柱。幕柱。幕杭。串。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」
とある。
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「幕串に梅の立木をそのまま使う」とあるとおり。梅を植える作業で狩衣に皺にしてしまった。
なお、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には『如行子』『桃の白実』ともに、ここから先出勝ちになると記されているという。
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