『解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版)』( Kindle版)をダウンロードした。謡曲240曲収録で語彙検索ができるので、出典探しが楽になるのではないかと思う。
それでは「あら何共なや」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
胸算用の薄みだるる
勝負もなかばの秋の浜風に 桃青
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「勝負半ばと半ばの秋とを言い掛けた。碁のあげ石をハマと言う。」とある。
中盤で大石が死んでしまいアゲハマに大きな差ができたということか。大きな読み違えをしたのだろう。心の中に秋風が吹く。
三十八句目。
勝負もなかばの秋の浜風に
われになりたる波の関守 信章
「われ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「『勝負なしの相撲をいふ』(俚言集覧)とある。今の相撲では使われてない。引き分けがないせいか。
「波の関守」は古代東海道の清見が関で、薩埵峠の道がなかった時代には海岸沿いの波が高いと閉鎖される危険な道を通ったために、波の関守と呼ばれた。
さらぬだにかはらぬそでを清見潟
しばしなかけそなみのせきもり
源俊頼(続詞花集)
の歌がある。
浜辺で相撲を取っていたら波が来て引き分けになる。
三十九句目。
われになりたる波の関守
顕れて石魂たちまち飛衛 信徳
「石魂」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「謡曲・殺生石『形は今ぞ現す石の二つに割るれば石魂忽ち現れ出でたり』。」とある。石になった玉藻前のことをいう。その玉藻前の霊を成仏させる話で、そのときに石魂が割れる。
波の関守は須磨にもいる。
いととしく都こひしき夕くれに
波のせきもるすまのうらかぜ
源俊頼(堀河百首)
千鳥を出すことで舞台を須磨に転じているのかもしれない。石魂が千鳥になるというのは何か出典があるのか、よくわからない。
四十句目。
顕れて石魂たちまち飛衛
ふるい地蔵の茅原更行 桃青
前句の石魂をお地蔵さんの霊験によるものとした。それっぽい霊験譚として別の展開を図る。
四十一句目。
ふるい地蔵の茅原更行
塩売の人通ひけり跡見えて 信章
塩売はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、
「塩の取引商人。日本では塩は海岸地方でのみ生産されるといった自然的・地理的制約があるので,山間・内陸地方の需要を満たすため,製塩地と山間・内陸地方との間に古くから塩の交易路,すなわち塩の道が開かれ,そこを塩商人が往来し,各地に塩屋・塩宿が生まれた。塩の取引には,古代から現代に至るまで製塩地の販女(ひさぎめ)・販夫が塩・塩合物をたずさえて,山間・内陸地方産の穀物・加工品との物々交換を行ってきた。とくに中世に入って瀬戸内海沿岸地方荘園から京都・奈良に送られていた年貢塩が途中の淀魚市などで販売されるようになると,大量の塩が商品として出回るようになり,その取引をめぐって各種の塩売商人が登場した。」
とある。江戸時代に関しては「世界大百科事典内の塩売の言及」に、
「江戸時代にはいると,寛文年間(1661‐73)には全国海上交通網の整備によって,瀬戸内塩が全国市場に流通し,全流通量の90%を占めるようになり,恒常的に塩廻船が需要地に直送した。生産地からの出荷は,貢租を納めたあと自由搬出される型と,藩専売制によるものとがあった。」
塩はどんな山奥で暮らしていても必要なもので、古くから塩売のための道ができていた。前句の茅原のなかの古い地蔵も、そうした塩売の通う道とした。
四十二句目。
塩売の人通ひけり跡見えて
文正が子を恋路ならなん 信徳
『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「文正草子」とある。ウィキペディアに、
「室町時代に成立した御伽草子の1つ。塩売文正・塩焼文正・ぶん太物語などの異名がある。」
とあり、
「常陸国の鹿島大明神の大宮司に仕えていた雑色の文太はある日突然大宮司に勘当され、その後塩焼として財産をなして『文正つねおか』と名乗る長者となる。後に鹿島大明神の加護で2人の美しい娘を授かるが、ある日姉は旅の商人と結ばれてしまう。だが、その商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子である二位中将の変装であった。姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。」
という物語だという。まあ、塩売って大儲けし、娘は宮中へ玉の輿という庶民願望の物語のようだ。
四十三句目。
文正が子を恋路ならなん
今日より新狂言と書くどき 桃青
「新狂言」は歌舞伎の「狂言尽」のことであろう。歌舞伎が半ば売春に走っていた時代から野郎歌舞伎として真面目なお芝居へと変わっていったときに、幕府からも「物真似狂言尽」として許可されるようになった。
前句を新狂言の演目とし、役人を納得させる。ウィキペディアに、
「歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を『野郎歌舞伎』と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。」
とある。二十六句目の役者の紋のついた楊枝といい、延宝五年は野郎歌舞伎の全盛期だった。
四十四句目。
今日より新狂言と書くどき
物にならずにものおもへとや 信章
新狂言の言葉を使って手紙を書いて口説いたがものにはできなかった。ものになってなにのに、もの思ふとはこれいかに。
四十五句目。
物にならずにものおもへとや
或時は蔵の二階に追込て 信徳
今でも「ものにならない」は仕事のできない、使えないという意味で用いられる。蔵の二階で反省しろということか。
四十六句目。
或時は蔵の二階に追込て
何ぞととへば猫の目の露 桃青
二階に追い込まれたのは猫だった。
四十七句目。
何ぞととへば猫の目の露
月影や似せの琥珀にくもるらん 信章
猫の目は琥珀色。月に薄い雲のかかったような色をしている。
四十八句目。
月影や似せの琥珀にくもるらん
隠元ごろもうつつか夢か 信徳
偉いお坊さんが黄色い衣をきているところから隠元禅師の登場となる。隠元の衣から衣打つに掛けてさらに打つを「うつつ」に掛けて「うつつか夢か」になる。
四十九句目。
隠元ごろもうつつか夢か
法の声即身即非花散て 桃青
「即非」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「[生]万暦44 (1616).5.14. 福建
[没]寛文11 (1671).5.20. 長崎
江戸時代前期に来朝した中国,明の黄檗僧,書家。俗姓は林,法名は如一。師の隠元隆琦の招きに応じて明暦3(1657)年に来朝。長崎の崇福寺,宇治の萬福寺,豊前の福聚寺などを拠点に黄檗宗の教化に努めた。かたわら書をもって世に聞こえ,隠元,木庵性瑫とともに「黄檗の三筆」と称され,江戸時代の唐様書道界に貢献した。絵も巧みで,崇福寺蔵『牧牛図』,萬福寺塔頭萬寿院蔵『羅漢図』などの作品があり,また著述に『語録』25巻,『仏祖道影賛』1冊がある。」
とある。隠元の弟子。
ともに寛文の時代に亡くなったので、「花散りて」になる。
五十句目。
法の声即身即非花散て
余波の鳫も一くだり行 信章
「余波」は「なごり」と読む。「黄檗の三筆」と称された見事な筆跡に帰って行く雁の一行も一行の文のようだ。
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