観光という言葉は『易経』の風地観の「六四。観国之光。利用賓于王。象曰、観国之光、尚賓也。」から来ている。意味としては今でいう観光というよりは「視察」に近い。幕末の頃「観光」はそういう意味で用いられていたという。多分そののち、英語のsightseeingの訳語として転用されたのではないかと思う。
風地観は大地の上に風が吹いているという卦で、一年で言うと天地否のさらに陰気の上昇した八月になる。大地から風を見上げるという意味での観で、観は仰ぎ見ることをいう。「風土」という言葉もそこから来ているのかもしれない。
「観、盥而不薦」とあるように、盥(手を洗清め)、不薦(神にお供えするように、無理に推しつけたりはしない)と、謙虚でなければならない。まあ、今のコロナ下ではちゃんと手を洗い、旅行を無理に勧めたりしないということか。
それでは「箱根越す」の巻の続き。挙句まで。
二裏
三十一句目
あたら姿のかしら剃られず
世の中の茶筅売こそ嬉しけれ 荷兮
京の師走の風物でもあった鉢叩きは同時に茶筅売りだったという。剃髪はせず俗形だった。
三十二句目
世の中の茶筅売こそ嬉しけれ
ねぶたき昼はまろび転びて 聴雪
「茶筅売り」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 茶筅を売る人。特に、歳末に自製の茶筅を京都の市中に売り歩いた空也堂の僧。のち、江戸市内でも、その扮装(ふんそう)や口上を真似て、白衣に鷹の羽や千鳥の模様を染めぬいた十徳を着て、茶筅をさした苞(つと)の竹棒をかつぎ、鉢や瓢箪をたたきながら売り歩いた。」
とある。
実際はどうだったかは知らないが、年末だけ働いてあとは寝て暮らすというイメージがあったのだろう。
三十三句目
ねぶたき昼はまろび転びて
旅衣尾張の国の十蔵か 芭蕉
「十蔵」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「越人の通称」とある。コトバンクの「美術人名辞典の解説」にも、
「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」
とある。
前句のぐうたら者はまるで越人だなということで、これは楽屋落ちの句。越人はいじりやすい人柄だったのだろう。
三十四句目
旅衣尾張の国の十蔵か
富士画かねて又馬に乗 野水
尾張には狩野派の絵師何人もいたが、十蔵という通称を持つ者がいたかどうかはよくわからない。富士山も雲に隠れたりするから見える場所を探して馬で移動する。
三十五句目
富士画かねて又馬に乗
懐に盃入るる花なりし 如行
馬での旅でも花見にいい場所があればそこで飲めるように懐に盃を入れている。
挙句
懐に盃入るる花なりし
かげ和らかに柳流るる 越人
桜に柳と言えば、
見渡せば柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける
素性法師(古今集)
の歌がある。柳と桜の錦を以て一巻は目出度く終わる。
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