2021年1月9日土曜日

 コロナの方は去年の暮れに死者が三千人を越えたと思ったら、あっという間に四千人を越えた。
 まあ一応強制力はないが緊急事態宣言は出ているし、一方で北陸は大雪でやはり不要不急の外出は控えるようにということになっている。ステイホームということだが、まあ、時期的に冬籠りか、というところで今日は冬籠りの句を拾ってみることにしよう。

 冬籠りの句は意外に芭蕉七部集には少ない。
 まずは『阿羅野』(元禄二年刊、荷兮撰)に芭蕉の句が二句ある。

 冬籠りまたよりそはん此はしら  芭蕉

 この句は貞享五年『笈の小文』から『更科紀行』の旅を経て芭蕉庵に戻り、九月三十日に元号が元禄元年に改まったその冬の句だ。
 再び戻ってきた第二次芭蕉庵の柱に、また寄り添わん、と語りかける。もっとも翌三月二十日にこの第二次芭蕉庵を引き払って『奥の細道』の旅に出てしまうのだが。

 先祝へ梅を心の冬籠り      芭蕉

 この句は『阿羅野』の冬の所にではなく「祝」の所にある。梅の花に新しい年を迎える心で冬籠りという句。

 これより前の冬籠りの句というと、春秋社の『普及版俳書大系』を探してみたが、今の所『江戸蛇之鮓』(延宝七年刊、言水編)の、

 捨てだに頭巾や袖の冬籠り    調楽

を見つけただけだ。世を捨てても頭巾と袖は捨てられないということか。「袖」は袖のある防寒着で、ちゃんちゃんこではなく綿入り半纏が手放せないということだろう。

 芭蕉七部集だと次に『猿蓑』(元禄四年刊、去来・凡兆撰)だが、

   翁の堅田に閑居を聞て
 雑水のなどころならば冬ごもり  其角

の句があった。
 芭蕉は元禄二年の冬も三年の冬も膳所の義仲寺無名庵で年を越している。おそらくこのどちらかの時のことだろう。
 おそらく元禄三年九月十二日付の江戸勤番中の曲水に宛てた書簡に、

 「秋も名残に移り、霜時雨の旅用意とて紙小あはせ縫したため、檜木笠に書付して三里に灸すえんと心打さはがるるに、魔疝、精神を濁して、いまだ富士の雪みん事不定におぼへられ候。」

と江戸に帰る予定が病気で帰れなくなった旨を伝えているので、そこから元禄三年の冬も湖南に滞在すると思ったのだろう。
 同じ日に曾良宛の書簡も送っているが、そこには「極寒には伊賀へ引取候事も可有御座候」とあるから、こちらのルートの情報ではなかったと思う。
 其角の父の竹下東順は堅田の出身で、今日では堅田本福寺の近くに宝井其角寓居乃跡という碑が立てられている。千那が堅田本福寺の住職だったところから、ここに滞在すると思ったのかもしれない。
 あるいは別のルートで、

   堅田にて
 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉    芭蕉

の句を知って、堅田閑居と判断したのかもしれない。
 句によると堅田の雑炊は名物だったようだが、今日には継承されてないようだ。冬はイサザや鮎の稚魚の氷魚(ひお)が獲れる。前年元禄二年冬には、

 霰せば網代の氷魚を煮て出さん  芭蕉

の句も詠んでいし、『猿蓑』には、

 時雨きや並びかねたるいさざ舟  千那

の句も見られる。

 冬籠りの句は芭蕉の死後になると急速に増えるが、それまでは数少ない。

 下帯の竿にかけつつ冬籠     木節(『己が光』元禄五年刊、車庸撰)
 先杖をはじめに焼ん冬籠     兀峯(『桃の実』元禄六年刊、兀峯撰)
 蓑笠も世に足る人や冬籠     露川(『藤の実』元禄七年刊、素牛撰)

といったところだろうか。
 「下帯の」の句は寒いから部屋干しするという意味だろう。後の二句は杖や蓑傘など旅を感じさせるものと取り合わせて、旅をやめて冬籠りするという句になる。阿羅野の句や其角の句が芭蕉の旅の間の冬籠りだったことに由来するものだろう。
 なお、芭蕉には、『市の庵』(元禄七年刊、洒堂撰)に、

    贈洒堂
   湖水の礒を這出たる田螺一疋、芦間の蟹のは
   さみをおそれよ。牛にも馬にも踏まるゝ事な
   かれ
 難波津や田螺の蓋も冬ごもり   芭蕉

の句がある。これは元禄六年の夏に洒堂が膳所から大阪に居を移すが、これがやがて之道とのトラブルのもとになる。おそらく、そんなことになるとも知らずに送った句で、琵琶湖を出た田螺が難波の葦の蟹に挟まれないようにおとなしくしてなさい、という句だが、大阪談林の猛者たちを念頭に置いていたのだろう。おとなしくしてなかったようだ。
 その他、

 金屏に松のふるびや冬籠り    芭蕉

の句が支考撰『笈日記』(元禄八年刊)に見られる。
 史邦撰『芭蕉庵小文庫』(元禄九年刊)には、

 金屏の松もふるさよ冬籠り    芭蕉

の形で掲載されている。元禄六年十月九日付けの許六宛書簡と元禄六年十一月八日付けの荊口宛書簡には、

 金屏の松の古さよ冬篭り     芭蕉

となっているので、これが本来の形と思われる。古い由緒あるお寺での冬籠りする姿が感じられる。
 この句は元禄二年冬というから『奥の細道』の旅を終え「猿に小蓑を」の句を詠んで伊賀に帰った時に詠んだ

 屏風には山を絵書て冬籠     芭蕉

の改作だとされている。ただ、この句だと屏風は新しくてこれから絵を描くということになる。
 『後の旅』(元禄八年刊、如行撰)には、
 
   千川亭に遊て
 折々に伊吹をみては冬ごもり   芭蕉

の句がある。これは元禄四年九月二十八日に膳所の義仲寺無名庵を出て江戸に下向する途中、大垣の千川亭に寄った時の句だ。大垣といえば伊吹山がすぐ近くに見えるが、ここに何日滞在したのかはわからない。十月二十九日には江戸に着いている。

 芭蕉亡き後は、浪花撰『有磯海』(元禄八年刊)に、

   芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときき
   て、伏見より夜舟さし下す
 舟にねて荷物の間や冬ごもり   去来
 そこ意にや広間の番も冬ごもり  恕風
 炭の火に並ぶきんかのひかり哉  北枝
 冬籠り炭一俵をちからかな    滄波

の四句がある。
 去来は芭蕉臨終の間際にも、

 病中のあまりすするや冬ごもり  去来

の句を詠んで、同席していた丈草の「うづくまるやくわんの下のさむさ哉」が「丈草出来たり」と芭蕉に言われたことで、「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじ」と反省している。まあ、冬籠りという季題を選び、そこからその本意本情にあった景を探って「あまりすするや」になったのだろう。
 「舟にねて」の句も「冬籠り」の興から「舟にねて荷物の間や」という景を添えているだけで、あまり芭蕉さんのことを心配している風には見えない。

 そこ意にや広間の番も冬ごもり  恕風

の「そこ意(い)」は下心のことだから、広間の番で寒いけど、心の中ではこれでも冬籠りだと言い聞かせているということか。

 炭の火に並ぶきんかのひかり哉  北枝

の句は「冬籠り」の言葉は入っていないが、冬籠りの句の間に挟まっている。「きんか」は鶏の金柑のことか。一羽から数個取れるという。

 冬籠り炭一俵をちからかな    滄波

 この句はわかりやすい。炭一俵あれば冬を越せる。

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