2021年1月26日火曜日

  庚申待という風習は今ではすっかり廃れてしまっているようで、今でもどこか田舎の方で行われているところがあるのだろうか、よくわからない。
 少なくとも今まで六十年生きてきて、そういう集まりを見たこともなければ身近で行われたという話も聞かない。
 庚申待についての知識は、多分九十年頃だと思うが道教について書かれた本で知った。道端の庚申等に興味を持つようになったのも、もっとあとで狛犬巡りを始めたころからだった。
 小学校の修学旅行で日光東照宮の三猿は見たが、その意味もずっと知らなかった。「見ざる、聞かざる、言わざる」は知っていたが、当時七十年代では若者の社会への無関心とかで揶揄する文脈で用いられることが多かった。
 多分日本でも三猿の意味について答えられる人は少ない。イギリスの方で黒人を差別する文脈で用いられ、レイシズムの象徴になってしまったのなら残念だが、せめて日本人も三猿の意味を聞かれたときにちゃんと答えられるようにしておいてほしいなと思う。そうしないと人権派の圧力でそのうち三猿は使ってはいけない画像になってしまう。鈴呂屋書庫にも日光に行ったときの画像があるので、それでBANされても困る。
 今日はその鈴呂屋書庫「箱根越す」の巻「たび寐よし」の巻をアップした。それと俳話には書かなかったが「花に遊ぶ」の巻「時は秋」の巻をアップしたのでよろしく。
 それでは「冬景や」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   ことしの労を荷ふやき米
 塚の下母寒からむ秋の風     其角

 収穫したばかりの稲で作ったやき米を母の墓所に供える。
 三十二句目。

   塚の下母寒からむ秋の風
 邦を軍にとられ行みち      コ齋

 母を失い古郷は他国に占領され、農地を失い他国へと逃れる。
 三十三句目。

   邦を軍にとられ行みち
 はなのおく鳥うつ音に鐘つきて  仙化

 義経の吉野潜伏とも取れなくはないが、ここは間の二句が欠落していると見た方が良いのだろう。
 挙句。

   はなのおく鳥うつ音に鐘つきて
 すり餌をゆする目白鶯      李下

 「すり餌」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 小鳥を飼うのに用いる日本独特の飼料。川魚を焼いてすりつぶした粉と、糠と玄米粉を煎(い)った粉をこしらえておき、鳥に与える時に青葉やハコベをすりつぶしたものとともに水で練って用いる。煎糠と川魚粉の割合はふつう一〇対五でこれを五分餌と呼び、川魚粉を多くし、七分餌、八分餌などを与えることもある。腐りやすいので毎日調製しなければならない。昆虫を主食とする小鳥はヒエやアワなどの穀類で飼うことができないために工夫された。〔運歩色葉(1548)〕
  ※俳諧・桜川(1674)春一「法華経の鳥のすり餌は法味哉〈治尚〉」

とある。前句の「鳥うつ音」を鳥の羽打つ音として、飼われているメジロとウグイスとする。これにて殺生もなく目出度く一巻は終了する。
 江戸時代にはもちろんメジロとウグイスは区別されていた。ただ、ツルとコウノトリのように、しばしば混同されることもあったのではないかと思う。今でもそうだがみんなが生物学者ではないので、必ずしもみんなが正確に認識しているわけではない。タヌキとムジナ(アナグマ)に関しても、声のブッポウソウ(コノハズク)と姿のブッポウソウにしてもそうだろう。江戸時代でもみんなが本草家ではない。
 そのため、この俳話で種の混同のことに触れることがあっても、別に古人を冒涜するつまりはない。ただ彼らが我々と同じだったというだけの話をしているつもりだ。
 余談だが、逆に現代人を冒涜できる一例を。あの人類進化図というやつだ。今だに前かがみで膝を曲げて棍棒を持つあの姿が描かれているのをよく見るが、あれはとっくに否定された説で、今では人類の進化の初期の段階で完全な二足歩行をしていたことは学界では常識になっているのだが、巷では相変わらず古い図説が用いられている。
 未来の人が見たら平成はもとより令和になってもこの頃の人は原始人が前かがみで膝を曲げてよろよろ歩いていたと信じていた、ということで笑うことだろう。
 あともう一つ。いまだにアマラとカマラの物語を科学だと信じている連中がいるのもはずい。

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