2018年1月31日水曜日

 夕方まで曇っていたので月食は無理だと思っていた。だけどなぜか晴れた。月食の寒月何と呼ぶべきか。月食の寒月赤いわ赤いわの。

 「日の春を」の巻、少しだけ進んでおこう。

 五十七句目。

   竹うごかせば雀かたよる
 南むく葛屋の畑の霜消て     不卜

 「葛屋」は草葺の家のことだという。農家の畑の霜も日が射すとともに消えて行き、雀も眼が醒めて竹を動かせば出てくる。

 五十八句目。

   南むく葛屋の畑の霜消て
 親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗

 農家の縁側、霜も消えて暖かくなれば親子でむつまじく碁を打つ。

2018年1月30日火曜日

 昨日の五十句目、「金山がほら」がまちがって「金山がはら」になっていたので訂正した。
 さてここから先は『初懐紙評注』の助けなしでおぼつかないが、とにかく行ってみよう。

 三表、五十一句目。

   さかもりいさむ金山がほら
 此国の武仙を名ある絵にかかせ  其角

 武仙は歌仙からの発想だろう。三十六歌仙屏風は戦国時代からしばしば製作されているし、三十六歌仙絵巻は鎌倉時代まで遡れる。
 盗賊の頭領の金山八郎左衛門なら、三十六歌仙ならぬ三十六人の武将を描いた三十六武仙なんかを描かせて飾りそうだなということで、この句になったのだろう。天和的な発想の名残を感じさせる。

 五十二句目。

   此国の武仙を名ある絵にかかせ
 京に汲する醒井の水     コ斎

 「醒井(さめがい)の水」は洛中三銘水の一つ。同じ名前の水が滋賀県米原市にもあり醒井宿という中山道の宿場になっている。こちらの方は日本武尊の伝説がある。
 おそらく武仙から日本武尊を連想し、武仙の絵を飾りながら京の醒井の水でお茶でも立てようというのだろう。醒井の水は千利休にも好まれたし、戦国武将も多くこの水を好んだ。

 五十三句目

   京に汲する醒井の水
 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉

 井手の玉川は宇治の南にあり、平成の名水百選にも選ばれている。

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり
     花の盛りにあはましものを
               よみ人知らず(古今集)

の歌にも詠まれている。
 ただ、玉川は京都(山城)だけでなく、近江の野路の玉川、摂津の三嶋の多摩川、武蔵の調布の玉川、陸奥の野田の玉川、紀伊の高野の玉川と合わせて「六玉川」と呼ばれていた。
 六つの玉川の水をそれぞれ見て歩いたが、やはり京の醒井の水が一番ということか。

 五十四句目。

   玉川やをのをの六ツの所みて
 江湖江湖に年よりにけり   仙花

 江湖は長江と洞庭湖に限らず広く五胡四海の広い世界を表していたという。風光明媚な川や湖の景色を訪ね歩き、六つの玉川も見て、旅をしているうちに年取ってしまった。水辺が続く。

 五十五句目。

   江湖江湖に年よりにけり
 卯花の皆精にもよめるかな    芳重

 『校本芭蕉全集第三巻』によれば「精」は「しらげ」と読む。精白米、つまり銀シャリのこと。
 この本の注釈には、

 卯の花のみな白髪とも見ゆるかな
     賤が垣根は年よりにけり

という無名抄の歌を引用している。卯の花に白髪というと元禄二年の『奥の細道』で芭蕉に同行した曾良が、

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな   曾良

と詠んでいる。
 卯の花を白髪に喩えるのは、わりとありきたりなことだったのだろう。ここでは白髪ならぬ精げに喩える。言い間違いの面白さを狙ったか。

 五十六句目。

   卯花の皆精にもよめるかな
 竹うごかせば雀かたよる   揚水

 これは諺のような句だ。文和千句第一百韻の「植ゑずはきかじ荻の上風 長綱」を思わせる。
 竹を動かせば雀が動いてない竹の方に集まるように、卯の花が銀シャリに似ていると誰かが言えば、みんな「そうだそうだ」となる、ということか。雀は米に集まる。

2018年1月29日月曜日

 月もだいぶ丸くなってきた。31日に満月となり、月食があるらしい。その四日後は立春。旧暦だとまだ師走だが。
 そういうわけで、今年は年内立春、「年の内に春はきにけり」になる。立春から正月まではふる年と今年とが共存し、過去と現在とが出会うその期間が今年は二週間近くある。
 かなり前に見たセサミストリートで、過去と現在が出会う場所、それは博物館というのがあったが、古今集もきっとそういう意図で編纂されたのだろう。
 さて、それでは「日の春を」の巻の続き。ここでも過去と現在とが出会う。

 四十七句目。

   糺の飴屋秋さむきなり
 電の木の間を花のこころせば   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「秋といふ字を不捨に付侍る。巧者の(秋以下十五文字一本によりて補ふ)働言語にのべがたし。糺あたりの道すがら森の木の間勿論也。木の間に稲妻尤面白し、真に秋の夜の花ともいふべし。」

とある。
 「評注」の「秋以下十五文字一本によりて補ふ」というのは、「秋働言語にのべがたし」と十五文字抜けていたのを、別の本によって補ったということか。
 秋という字を捨てずというのは、大方こういう場面では「糺の飴屋」から展開するということだろうか。この句は確かに飴屋の方を捨てて、秋を生かして付けている。
 電(いなづま:稲妻)は以前『ももすもも』の「冬木だち」の巻を読んだとき、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を引用した。ここでふたたび。

 「[和漢三才図会]秋の夜晴て電あるは常也。俗伝ていふ、此時稲実る故に、稲妻、稲交(いなつるみ)の名あり。」

 このとき「実際には見たことがない」と書いたが、子供の頃の記憶で、夜の空の地平線近くが薄っすらと光っては消え光っては消えて、何だろうと思ったことはある。それが稲妻なのか人工的なライトが雲に反射しているだけなのかはよくわからない。
 おそらく今の夜空が明るすぎることが原因なのだろう。町の灯りのない、天の川が見えるくらいの山奥とかだったら稲妻も常なのかもしれない。
 加茂の糺の森は、昔は夜ともなると真っ暗闇で、その木の間から稲妻の光が漏れると、そこだけはっと明るくなり、花が咲いたように見えたのだろう。

 四十八句目。

   電の木の間を花のこころせば
 つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 『初懐紙評注』には、

 「此句の付やう一句又秀逸也。物すごき闇の夜、稲妻ぴかぴかとする時節、聖、野に伏侘る体、ちか頃新し。俳諧の眼是等にとどまり侍らん。」

とある。
 「ひじり(聖)」は諸国を遊行する一所不住の僧で、「笈」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、「修験者(しゅげんじゃ)などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱。」だという。聖は笈を背負い、しばしば野宿をした。
 あたりは真っ暗闇で稲妻がピカピカ光っていれば、普通の人なら恐怖を感じる所だが、そこは意に介さない(つれない)僧のこと、木の間の稲妻もこれぞ花とばかりに背負ってた笈を下ろし、そこで野宿する。

 稲妻に悟らぬ人の貴さよ   芭蕉

の句はこれより後の元禄三年の句。あるいはこの枳風の句が頭にあったのかもしれない。
 芭蕉の紀行文に『笈の小文』とあるが、これは芭蕉自身が付けたタイトルではなく、芭蕉の死後に近江の弟子の乙州(おとくに)がつけたものとされている。
 芭蕉も旅するときは僧形だったし、遊行する「ひじり」になぞらえてこういうタイトルをつけたのだろう。「俳聖」というのもそういう点では二重の意味があったのだろう。同時代の本因坊道策を「棋聖」と呼ぶように、芭蕉の俳句があまりに神だから(一昨年の流行語で言うなら「神ってる」から)「聖」の名を冠しているのと、遊行する聖(ひじり)のようだからというのと、両方の意味で「俳聖」だったのだろう。
 日本は多神教の国で、もとより全知全能の神なんて概念はない。「神」というのは易経の「陰陽不測、是を神という」の神で、要するに説明のつかないことは「神」なのである。

 四十九句目。

   つれなきひじり野に笈をとく
 人あまた年とる物をかつぎ行   揚水

 『初懐紙評注』には、

 「此句又秀逸也。聖の宿かりかねたる夜を大晦日の夜におもひつけたる也。先珍重。聖は野に侘伏たるに、世にある人は年取物かつぎはこぶ体、近頃骨折也。前句の心を替る所、猶々玩味すべし。」

とある。
 前句の聖の野宿を大晦日のこととする。芭蕉にも『野ざらし紀行』の旅の句に、

 年暮れぬ笠きて草鞋はきながら  芭蕉

というのがある。実際は故郷の伊賀で年を越したようだが。故郷に帰っても心は旅の中だ、という意味か。
 昔は数え年だったので、正月が来ると一歳年を取る。今みたいに誕生日で年を取るのではなかった。大晦日は決算日でもあり、商人は忙しく駆け回る。それを「年を取るものを」と「物をかつぐ」とを掛けて「年とる物をかつぎ行」と表現する。聖はかついだ物を降ろし、世俗の人は年を背負い込む。
 まあ、だからといって聖が年取らないわけではないが、ただ年を取るのも忘れていつでも気持ちを若く保つというのは大事なことだ。「忘年会」というのも本来は年を取るのを忘れるためにみんなで楽しもうというものだった。それを一部の人だが、「過去を忘却するなんてけしくりからん」とか言って「望年会」なんて言ったりしている。日本語をちゃんと勉強しよう。そうしないと老けちゃうよ。それが望みならいいけど。

 五十句目。

   人あまた年とる物をかつぎ行
 さかもりいさむ金山がほら  朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「金山は我朝の大盗也。前句よく請たり。註に不及、附やう明也。」

とある。
 「金山」は御伽草子の「あきみち」に出てくる金山八郎左衛門のこと。とはいえ、このあだ討ち物語とは関係なく、単に大泥棒として掻っ攫った物をアジトに運び込んでは酒盛りする情景を付ける。
 このあと、この評注について短い説明がある。

 「当時の俳道意味心得がたし、願は句解したまはらんやと侍りければ、即興に加筆し給じ。終日の席、はせを翁の持病心よからず五十韻にして筆をたち給ふ。」

 これでいくと、この評注は芭蕉の晩年の病の中で書かれたもののようだ。確かに十年近くたってしまうと、貞享のころの俳諧は既にわかりにくくなっていたのだろう。支考が古池の句をよく理解できてなかったように。
 ただ、この詞書が本当かどうかはわからない。晩年の軽みの頃の用語が使われてない点では、実際は貞享三年春からそう遠くない時期に書かれたのではないかと思う。ただ、草稿としてしまってあったものを晩年に弟子の誰かに託したのかもしれない。
 いずれにせよ残念ながらあとの五十句は注釈がない。自力で読まなくてはならない。

2018年1月28日日曜日

 今日も一日曇っていて寒かった。家でお休み。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 三十九句目。

   弥勒の堂におもひうちふし
 待かひの鐘は墜たる草の上    芭蕉

 『初懐紙評注』には、

 「弥勒の堂といふ時は、観音堂釈迦堂など云様に、参詣繁昌にも聞えず。物淋しき体を心に懸て、鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔に見えたる体、見る心地せらる。五文字にて一句の味を付たり。注釈に及ばず。よくよく味ひ聞べし。」

とある。
 確かに観音堂や釈迦堂はよく聞くが、弥勒堂はあまり見ないような気がする。ためしにググってみたが、「弥勒堂」だと仏壇屋が出てきてしまう。「弥勒堂 古寺」だと室生寺や慈尊院の弥勒堂がようやく出てくる。どちらもかなり地味な建物だ。
 弥勒信仰はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「弥勒菩薩を本尊とする信仰。死後、弥勒の住む兜率天とそつてんへ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成る。インドに始まり、日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。」

とある。
 芭蕉の時代は弥勒信仰の流行期から外れていたので、戦国末期の流行期に建てられた弥勒堂がそのまま放置され、野に埋もれている情景がしばしば見られたのだろう。「鐘の地に落て葎の中に埋れ、龍頭纔(わずか)に見えたる体」は当時のあるあるだったか。「龍頭」は釣鐘の上部にある吊るための縄をかける部分をいう。
 「待かひ」は弥勒の再来を待つということか。その思いも今では落ちた釣鐘のように打ち臥している。

 四十句目。

   待かひの鐘は墜たる草の上
 友よぶ蟾の物うきの声    仙花

 『初懐紙評注』には、

 「友呼蟾 ちか頃珍重に侍る。草むらの体、物すごき有様、前句に云残したる所を能請たり。うき声といふにて、待便りなき恋をあひしらひたり。」

とある。前句の「待かひ」に「友呼ぶ蟾(ひき)」が付く。前句の言い残した景色を追加した体。
 ヒキガエルというと、『蛙合』に、

 うき時は蟇(ひき)の遠音も雨夜哉  曾良

の句がある。ヒキガエルの声は物憂く聞こえる。

 四十一句目。

   友よぶ蟾の物うきの声
 雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎

 『初懐紙評注』には、

 「蟾の声といふより田舎の体を云のべたる也。雨と付る事珍しからずといへども、ひなぐもり珍し。しかも秋に云言葉にあらず。古き歌によみ侍る。惣じて句々、折々古歌古詩等の言葉、所々にありといへども、しゐて名句にすがりたるにもあらず侍れば、さのみことごとしく不記。」

とある。
 曾良の句にもあったように、蛙に雨は付き物で、蟾に雨も別に珍しくはない。
 「ひなぐもり」は岩波古語辞典には、枕詞で「日の曇る薄日の意から同音の地名「碓氷」にかかる。」とある。例として挙げられているのは、

 ひなぐもり碓日の坂を越えしだに
     妹が恋しく忘らえぬかも
              防人(巻二十、四四〇七)

 たしかに滅多に用いられない言葉で、古歌にあるといってもそんなに有名な歌ではないし、本歌とも思えない。
 雨というほどひどく憂鬱ではないが薄曇で鬱陶しいということか。蟾の鳴く田舎の景色に天候を添えている。

 四十二句目。

   雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり
 門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白

 『初懐紙評注』には、

 「鄙の体あらは也。濱寺などの門前に、魚干網など打かけたる体多し。曇と云に干スと附たる、都て、作者の器量おもひよるべし。」

とある。濱寺は山寺に対しての言葉か。漁村にあるお寺の門前で干物が干してある事は珍しくないということで、これはあるあるネタといっていいだろう。
 せっかく干しているのに雨とはいわないまでも薄曇りなのは残念。

 四十三句目。

   門は魚ほす磯ぎはの寺
 理不尽に物くふ武者等六七騎   芳重

 『初懐紙評注』には、

 「此句秀逸也。海辺軍乱たる体也。民屋寺中へ押込て狼藉したる有様、乱国のさま誠にかく有べし。世の中おだやかに、安楽の心ばへ、難有思ひ合せて句を見るべし。」

とある。
 芭蕉はこうした武士の横暴や武家社会の堅苦しさなどの風刺を好む所がある。その意味では芭蕉好みの句といえよう。
 国が乱れれば軍のモラルも下がり、民間人に対する略奪などが横行する。やはり平和がいい。

 四十四句目。

   理不尽に物くふ武者等六七騎
 あら野の牧の御召撰ミに   其角

 『初懐紙評注』には、

 「前句の勢よく替りたり。野馬とりに出立たる武士の体、尤面白し。三句のはなれ、句の替り様、句の新しき事、よく眼を止むべし。」

とある。
 これは略奪から一転して道草の句に。荒野の牧場にお殿様の乗る馬を選びにきたものの、そんな簡単なことではない。むちゃ振りというか、理不尽な命令にすねた武者等が道草食う。
 江戸中期になると「三句の渡り」なんてことが言われるが、本来連歌も俳諧も三句に渡ってはいけないもので、「三句のはなれ」が正しい。「句の替り様」こそ連句の醍醐味といっていい。

 四十五句目。

   あら野の牧の御召撰ミに
 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗

 『初懐紙評注』には、

 「段々附やう、文句きびしく続きたる故に、よく云ひなし侍る。かやうの所巧者の心可附義也。夕日さびしき鵙の一声と長嘯のよめるに、西行の柴の戸に入日の影を改めて、とよめる月をとり合せて一句を仕立たる也。長嘯のうたを、本歌に用ゆるにはあらず侍れども、俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」

とある。
 長嘯は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。

 鉢叩あかつき方の一こゑは
     冬の夜さへもなくほととぎす
                 長嘯子

の歌から、芭蕉は、

 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

の句を元禄二年に詠んでいる。「夕日さびしき鵙の一声」は『芭蕉の人情句: 付句の世界』(宮脇真彦、二〇一四、角川選書)によれば、

 野辺見れば尾花が末にうち靡く
     夕日も薄し鵙の一声
                長嘯子

だという。
 「西行の柴の戸に入日の影を改めて」も同書によれば、

 射し来つる窓の入日を改めて
     光を変ふる夕月夜かな
                西行法師

だそうだ。
 「鵙の一声夕日を月にあらためて」の句は確かにこの二つの歌を合わせた句だ。「鵙の一声」に「夕日も薄し」と「入日を改めて」「夕月夜」を合わせれば、この句になる。
 紺屋に馬を探しに来て日も暮れるというだけの句だが、二つの和歌を引いてきてここまで作るというのは巧者としか言いようがない。
 貞門談林では俗語を一語入れなくてはならないのだが、蕉門ではそうした制約を撤廃したから和歌の言葉だけで構成してもかまわない。「俳諧は童子の語をもよろしきは、借用侍れば、何にても当るを幸に、句の余情に用る事先矩也。」と、使える言葉は何でも使えということだ。

 四十六句目。

   鵙の一声夕日を月にあらためて
 糺の飴屋秋さむきなり    李下

 『初懐紙評注』には、

 「洛外の景気、尤やり句也。月夕日に其地を思ひはかりて見ゆ。」

とある。
 前句が時候なので、それにふさわしい場所として京都の賀茂川と高野川の合流点付近に思いをはせる。下鴨神社があるので飴屋もあったのだろう。夕暮れともなれば店じまいか。

2018年1月27日土曜日

 「日の春を」の巻の続き。

 三十五句目。

   近江の田植美濃に恥らん
 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重

 『初懐紙評注』には、

 「時節を云合せたる句也。美濃近江と二所いふにて、郭公をあらそふ心持有て、とく起て聞勝にせんとは申侍る也。」

とある。
 田植えといえば初夏でホトトギスの季節になる。早起きしていち早く今年最初のホトトギスの声を聞き、美濃のホトトギスに勝ちたい、と。

 三十六句目。

   とく起て聞勝にせん時鳥
 船に茶の湯の浦あはれ也   其角

 『初懐紙評注』には、

 「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。船中にて茶の湯などしたる風流奇特也。思ひがけぬ所にて茶の湯出す。茶道の好士也。思ひよらぬ物を前句に思ひ寄たる、又俳諧の逸士也。」

とある。
 船中で茶の湯というのは揺れてやりにくそうだが、あえてそれを楽しむというのはなかなかお目にかかれないような飛び切りの数奇物ということか。船中で酒ならありきたり。
 時鳥を聞くために早起きする奇特さと、船中での茶の湯の奇特さ、奇特つながりといい、そこに浮かび上がる数奇物の像といい、後の匂い付けに繋がるものを感じさせる。
 「時鳥、水辺川浦などにいふ事勿論也。」という言葉は、『去来抄』にいう、

 面梶よ明石のとまり時鳥    野水

の句が芭蕉の「野を横に」に似ているということで、『猿蓑』に入集させるべきかどうか去来が芭蕉に相談した時、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったことを思い起こさせる。

 二裏、三十七句目。

   船に茶の湯の浦あはれ也
 つくしまで人の娘をめしつれて  李下

 『初懐紙評注』には、

 「此句趣向句作付所各具足せり。舟中に風流人の娘など盗て、茶の湯などさせたる作意、恋に新し。感味すべし。松浦が御息女をうばひ、或は飛鳥井の君などを盗取がる心ばへも、おのづからつくし人の粧ひに便りて、余情かぎりなし。」

とある。
 「娘など盗て」というのは当時のリアルな誘拐事件ではなく、あくまで王朝時代の物語の趣向と思われる。
 「飛鳥井の君」は『狭衣物語』、「松浦が御息女」はよくわからないが『源氏物語』の玉鬘か。

 三十八句目。

   つくしまで人の娘をめしつれて
 弥勒の堂におもひうちふし  枳風

 『初懐紙評注』には、

 「此句、尤やり句にて侍れども、辺土の哀をよく云捨たり。句々段々其理つまりたる時を見て、一句宜しく付捨らる逸句不労。」

 中世の連歌では恋は三句から五句続けるのが普通だったが、蕉門では一句で捨てていいことになっていた。ここでも釈教に展開して恋を捨てる。
 誘拐された娘はその身を嘆き、出家して仏道に入る。「おもひうちふし」に「辺土の哀」が感じられる。

2018年1月26日金曜日

 寒い日が続く。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 三十一句目。

   あられ月夜のくもる傘
 石の戸樋鞍馬の坊に音すみて   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」

とある。
 「石の戸樋」は軒先などの雨樋ではなく、湧き水を引いてきて修行用の滝にしたり手水にしたりするための石を組んで作られた水路のことだろう。今日でも魔王の滝に石樋が見られる。「音すみて」は水の流れる音の澄んでいるということだろう。
 貞門や初期の談林俳諧では、雅語の用法として正しいかどうかを證歌をとって確認する作業があったため、名所を出すときでもその名所にふさわしいかどうかでいちいち證歌を引かなくてはならなかったのだろう。
 蕉門では基本的に俗語の俳諧なので、雅語としての用法を確認する必要はない。霰月夜から寒い所というだけの理由で鞍馬を出しても差し支えない。

 三十二句目。

   石の戸樋鞍馬の坊に音すみて
 われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 『初懐紙評注』には、

 「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」

とある。
 鞍馬の僧正が谷は牛若丸が剣術の修行をしたという伝説もあり、その剣の師匠が天狗だったというあたりから、のちの鞍馬天狗の物語が生じることとなった。また、鞍馬寺には坂上田村麻呂が奉納したと伝えられている黒漆剣があり、現在は京都国立博物館に保管されている。
 実際に鞍馬に刀鍛冶がいたかどうかはわからないが、そこは俳諧だから創作でいい。
 前句の「音すみて」を刀を鍛える音とする。

 三十三句目。

   われ三代の刀うつ鍛冶
 永禄は金乏しく松の風      仙花

 『初懐紙評注』には、

 「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」

とある。
 永禄は戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。
 「金(こがね)乏しく」は、名人であるが故に良い刀を作ること以外は眼中になく、金銭感覚に乏しいがため、結局は貧乏暮らしをしているということか。「松の風」という景色を添えて逃げ句にする。

 三十四句目。

   永禄は金乏しく松の風
 近江の田植美濃に恥らん   朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」

とある。
 前句の「永禄」を捨てて、ただ昔のことぐらいの意味とし、「金乏しく」も今みたいに経済が発達してなかった頃」ぐらいの意味とする。昔の田植えはお祭で、笛を吹き鼓を打ち、田植え歌の風流を楽しんだ。
 芭蕉の時代よりは後になるが、彭城百川の『田植図』に昔の田植えの様子が伺われる。おそらく元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅で見た「奥の田植え歌」もこんなだっただろう。
 芭蕉の時代でも田植えの風流は廃れていなかったのなら、永禄の昔の近江の国の田植えはさぞかし盛大だったに違いない。
 「遠き夷とはちがふ成べし」という言葉には、『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」という思想が込められている。田植えを単なる労働ではなく、村をあげてのお祭とし、風流を楽しむ所に人間らしさがあり、禽獣夷狄とは違うんだという誇りがある。
 逆に言えば、今日の我々の近代的労働は禽獣夷狄に堕していると言っていいのかもしれない。禽獣夷狄とは言わないまでも「歯車」や「ロボット」だのに成り下がっているのは確かだろう。

2018年1月24日水曜日

 月曜日は朝から雪がちらつき昼過ぎには本降りになった。夕方になると立ち往生した車によって至る所渋滞で動かなくなった。

 渋滞の果てを隠して雪が降る   こやん

 この日は会社に泊った。
 翌日、朝の国道246では渋滞の車がエンジンを止めライトも消して死んだようになっていた。昼になっても至る所渋滞していた。融けた雪が再び固まって路上に無数の突起を作っていて、こうなると車はすべらないようにゆっくり進むしかない。

 雪融けて車体を揺する氷かな   こやん

 この日も結局帰りが遅くなり、昨日の寝不足もあって早く寝た。
 今日は晴れたが寒かった。

 さて、「日の春を」の巻の続き。

 二十七句目。

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ
 罌子咲て情に見ゆる宿なれや   枳風

 『初懐紙評注』には、

 「はげたる眉といへば老長がる人のおとろへて、賤の屋杯にひそかに住る体也。罌子は哀なるものにて、上ツ方の庭には稀也。爰に取出して句を飾侍る。是等の句にて植物草花のあしらひ、所々に分別有べきなり。」

とある。
 「罌子(けし)」は一日花で儚いが、朝顔や槿と違い秋の淋しさを伴わない。また、田舎に詠むことが多い。
 前句の眉のハゲを書いた眉のハゲではなく、年取って白髪になり抜けていった眉として、芥子畑のある片田舎に隠居する老人に取り成している。

 二十八句目。

   罌子咲て情に見ゆる宿なれや
 はわけの風よ矢箆切に入   コ斎

 『初懐紙評注』には、

 「矢箆切といふ言葉先新し。前句民家にして武士の若者共、與風珍敷物かげなど見付たる体也。大形は物語などの体をやつしたる句也。或は中将なる人の鷹すへて小野に入、うき舟を見付たるなどのためし成ん。されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」

 「矢箆切(やのきり)」は矢の棒の部分である矢箆(やの)を切ることをいう。矢箆(やの)は矢柄(やがら)、矢箆竹(やのちく)ともいう。
 矢箆切のために山に入ってゆくと風が木の葉を分けるように吹いて、そこからケシの花の咲く宿が一瞬目に入る。
 芭蕉は『源氏物語』の「手習」の俤としている。「されども其故事をいふにはあらず。其余情のこもり侍るを意味と申べきか。」というのは、まだこの頃は「本説」に対しての「俤」という言葉を見つけてなかったからだろう。

 二十九句目。

   はわけの風よ矢箆切に入
 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

 『初懐紙評注』には、

 「藪かげの有様ありありと見え侍る。しかも句作風情をぬきて、只ありのままに云捨たる句続き心を付べし。」

とある。
 下手に掛けた罠だから、葉分けの風が吹くと丸見えになってしまう。これだけでネタとして面白いので、余計な風情で飾ったりせずそのまま詠んでいる。このあたりの笑いの壺は其角はよく心得ている。

 三十句目。

   かかれとて下手のかけたる狐わな
 あられ月夜のくもる傘    文鱗

 『初懐紙評注』には、

 「冬の夜の寒さ深き体云のべ侍る。傘に霰ふる音いと興あり。然も月さへざへと見ゆる尤面白し。狐わなといふに、細に付侍るはわろし。」

 ここでは狐罠を単なる冬の景色の一場面として、あられ月夜の景を付ける。
 ここでいうい霰は氷霰で5ミリを越える大きなものは雹という。積乱雲が発生した時に降るので、夕立の空の片側が晴れていたりするように、霰雲も空全体を覆わずに月が照ってたりする。
 氷霰だから唐傘に当たるとバラバラと音がする。これを「くもる傘」と言い表している。
 月の光が射しているから下手な狐罠がはっきりと見える。その意味では「狐罠」と「あられ月夜」は付いている。隠れてない罠と隠れてない月という「隠れてない」つながりという意味では後の「響き付け」に近いが、この場合は原因結果の関係もあるので心付けといったほうがいいだろう。

2018年1月21日日曜日

 今日は一日ゆっくりと休んだ。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 十九句目。

   命を甲斐の筏ともみよ
 法の土我剃リ髪を埋ミ置ん    杉風

 『初懐紙評注』には、

 「筏のあやうく物冷じきを見て、身の無常を観じたる也。甲斐と云は、古人仏者の古跡等多く、自然に無常も思ひよりたれば也。剃髪埋み置作為、新敷哀をこめ侍る。」

とある。
 前句の川の流れの無常に出家僧を付ける。それだけでは展開に乏しいが、剃った髪を埋めるというところに芭蕉は新味を見ている。

 二十句目。

   法の土我剃リ髪を埋ミ置ん
 はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 『初懐紙評注』には、

 「別意なし。草庵隠者の体也。さもあるべき風流なり。」とある。
 剃った髪を埋めて草庵で生活する隠遁者のあるある(さもあるべき)といっていいだろう。まあ、鴨長明か兼好法師を気取ってちょっと文章を書いてみたりするが、なんか恥ずかしくなって人が来るとあわててしまったり、ありそうなことだ。

 二十一句目。

   はづかしの記をとづる草の戸
 さく日より車かぞゆる花の陰   李下

 作者を杉風とする本もある。
 『初懐紙評注』には、

 「前句、隠者の体を断たる也。尤官禄を辞して、かくれ住人のいかめしき花見車を日々にかぞへて居る体也。只句毎に句作のやわらかにめづらしきに目を留むべし。」

とある。かなり褒めているので後の人が杉風の方がふさわしいとして変えてしまったか。
 車を使うのは平安時代の貴族で、当時の官道は道幅も広く簡易舗装がされていた。官を辞して田舎に籠れるも、花の季節となると都から花見の車がやって来る。今日は何台来たかなんてことも「はづかしの記」には記されているのだろうか。

 二十二句目。

   さく日より車かぞゆる花の陰
 橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

 『初懐紙評注』には、

 「春の景気也。季の遣ひ様、かろくやすらか成所を見るべし。花の閉目杯は、易々と軽く付るもの也。」

とある。花の定座の後は、それを引き立たせるためにも、軽く景色を付けて流すのがいい。
 花の定座は各懐紙の後ろから二番目で、懐紙を山折にして綴じた時には、定座の後の句が綴じ目に来る。
 陽炎というと今では夏の炎天下のめらめらを思い浮かべがちだが、かつてはおそらく野焼きの煙で、炎が燃え上がらずにくすぶった上に生じる陽炎を本意としていたのではないかと思われる。だから小雨に陽炎もありだったのだと思う。ここで初の懐紙が終わる。

 二表、二十三句目。

   橋は小雨をもゆるかげろふ
 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「是又春の気色也。付やうさせる事なし。野辺田畑のあたり、残雪にやぶれたる案山子立たる姿哀也。景気を見付たる也。秋のもの冬こめて春迄残たるに、薄雪のかかりたる体、尤感情なるべし。」

とある。
 これも軽く景色であしらった句で、春のまだ残る雪も珍しければ秋の案山子がまだ残っているのはさらに珍しい、とした。

 二十四句目。

   残る雪のこる案山子のめづらしく
 しづかに酔て蝶をとる歌   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「句作の工なるを興じて出せる句也。蝶をとるとる歌て酔に興じたる体、誠に面白し。」

とある。
 「蝶をとるとる」という歌がこの頃はあったのだろうか。よくわからない。酔っ払って歌うのだから子供が蝶を採るのとは違うだろう。

 二十五句目。

   しづかに酔て蝶をとる歌
 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

 『初懐紙評注』には、

 「此句、附所少シ骨を折たる句也。前句に蝶を現在にしたる句にあらず。蝶をとるとる歌といふを、諷物にして付たる也。殿守は禁中の下官の者也。蝶取歌と云ふ風流より、禁裏に思ひなして、夜すがら夜明し興ありて、殿守等があけて、猶ねぶたげに見ゆる体也。」

とある。「殿守」はweblio辞書の「三省堂大辞林」の「とのもりづかさ」の項に、

 「(「主殿署」と書く)律令制で、春宮とうぐう坊に置かれた役所。東宮の湯浴み・灯火・掃除などのことをつかさどった。とのもりつかさ。みこのみやのとのもりつかさ。しゅでんしょ。」

とある。皇太子のお世話をする雑用係だろうか。
 蝶を見て「蝶をとるとる」と歌ったのではなく、あくまで宮廷での風流の余興で、夜を徹した遊んだ朝、殿守は眠くてしょうがないといったところか。
 宮廷ネタの多さは、この頃の蕉風の特徴なのだろう。蕪村も天和からこの頃の蕉風を真似ていたのか。

 二十六句目。

   殿守がねぶたがりつるあさぼらけ
 はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 『初懐紙評注』には、

 「朝ぼらけといふより、きぬぎぬ常の事なり。はげたる眉といふは寝過して、しどけなき体也。伊勢物語に夙に殿守づかさの見るになどいへるも、此句の余情ならん。」

とある。
 「朝ぼらけ」といえば後朝ということで、激しい夜を過ごした後はきっと書いた眉などハゲているだろうなと付ける。こういう目の付け所はさすが芭蕉さんだ。
 『伊勢物語』六十五段に、「つとめてとのもづかさの見るに、沓はとりて、奥に投げ入れてのぼりぬ。」とある。在原業平が大御息所の従妹に入れあげて、宮中に帰るときに靴を奥に投げ入れて外出してなかったように見せかけているのを殿守司に見られてしまい、そのうちこの事が評判になって帝の耳に入り流罪となる。
 『伊勢物語』のこの場面を知らなくても意味は通るから、本説ではなく俤と言ってもいいだろう。このころはまだ俤付けという言葉はなく、余情と言っている。

2018年1月19日金曜日

 トランプ大統領就任から一年とテレビで言っていた。ネットで見たCNNのニュースでは「トランプ米大統領の就任から間もなく1年。世界から見た米国の指導者への支持率が過去最低水準に落ち込んでいることが19日までに分かった。」とあったが、そのあとに「米ギャラップが134の国と地域を対象に行った世論調査で明らかになった。」とある。なんだ、アメリカでの支持率ではないのか。さすがアメリカの朝日新聞と言われるだけのことはある。
 トランプ大統領爆誕は言いに付け悪いに付け、古い時代の終わりと新しい時代の始まりを象徴する出来事だと思う。
 安倍首相も盛んに戦後レジームの終わりということを言ってきたが、トランプ大統領爆誕も戦後の米ソの二極支配から冷戦崩壊後のアメリカ一極支配、それに対抗する国連主義、こうした「一つの世界」をめぐる覇権争いの終わりを意味する。アメリカは世界の覇者たることを放棄し、普通の国になることを選んだ。
 一方の極が失われると、それに対抗してきた国連主義のリベラルも行き場を失い迷走する。世界はゆっくりと覇権の時代から多元主義の時代へと進んでゆく。世界は単なる「分断」で終らず、果てしなく細分化してゆくだろう。ただ、それは人間の個々の多様性を考えるなら、最も自然なことだ。
 西洋的な理性の独裁が終る時、日本の古い文化も見直されるに違いない。そんな希望を胸に抱きながら、それでは「日の春を」の巻の続き。

 十四句目。

   有明の梨子打ゑぼし着たりける
 うき世の露を宴の見おさめ  筆

 筆は主筆(あるいは執筆)のことで、興行の際の審判兼記録係だが、慣例として一巻に一句詠むことが多い。挙句の場合が多いが、ここでは連衆が一巡した所で詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「前句を禁中にして付たる也。ゑぼしを着るといふにて、却て世を捨てるといふ心を儲たり。観相なり。」

とある。
 前句の梨子打ゑぼしを宮中の公式行事の際の烏帽子ではなく、退出する際の普段着の烏帽子としたか。
 江戸時代ではみんなちょん髷頭を晒しているが、中世まではちょん髷頭をさらすのは裸になるよりも恥とした。職人歌合の博徒のイラストには素っ裸のすってんてんになった博徒の頭に烏帽子だけが描かれている。
 禁裏を退出して出家するにも、髪を剃るまでは烏帽子をかぶっている。「うき世の露を宴の見おさめ」と出家をほのめかす言葉に「梨子打ゑぼし着たりける」とすることで、烏帽子を着るという行為が却って出家の心となる。

 十五句目。

   うき世の露を宴の見おさめ
 にくまれし宿の木槿の散たびに  文鱗

 『初懐紙評注』には、

 「宴は只酒もりといふ心なれば、世のあぢきなきより、恋の句をおもひ儲たり。木槿のはかなくしほるるごとく、我が身のおもひしほるといふより、にくまれしと五文字置なり。恋の句作尤感情あり。」

とある。出家の情から恋に転じる。
 女の所を訪ねてみたけども速攻ふられてしまい、ちょうど槿の花が一日にして散るように、我が恋も一夜にして散った。一夜の浮かれた心も露のように儚く消え、この宿も見納めとなる。

 十六句目。

   にくまれし宿の木槿の散たびに
 後住む女きぬたうちうち   其角

 『初懐紙評注』には、

 「後住女は後添の妻といはん為也。にくまれしといふにて後添えの物と和せざる味を籠めたり。砧打々と重たるにて、千万の物思ひするやうに聞え侍る。愁思ある心にて、前句をのせたる也。翫味浅からず。」

とある。
 「後住む女」は後妻のことで、夫に嫌われて毎日毎日槿の花が咲いては散ってゆくように、砧を打って儚い期待を胸に秘めながら夫の帰りを待つ。
 まあ、其角の句も芭蕉の評も、ちょっと男の女はかくあるべしという期待が入っているかなという感じはするが。

 十七句目。

   後住む女きぬたうちうち
 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し   コ斎

 『初懐紙評注』には、

 「砧は里水辺浜浦等に多くよみ侍る。尤姥捨更科吉野など山類にも読侍れば、砧を山類にてあしらひたる也。乳を呑猿と云にて、女といふ字をあしらひたる也。幽かなる意味、しかもよく通じたり。」

とある。
 砧の句の恋の情から逃げるには、その舞台となる場所を付けるというのが常套手段なのだろう。ここでは山類を付ける。
 砧打つ女に「乳をのむ猿」をあしらうことで、この女にも子供がいることをほのめかす。
 猿の声は本来中国の長江以南の地にかつて広く生息していたテナガザルのロングコールのことで、哀愁を帯びたその声を聞くと断腸の思いになるという。ただ、ここにいる連衆の人たちは漢籍を通じて知識として知っているだけで、本物は聞いたことがなかったにちがいない。
 所詮は頭の中だけの猿の声だから、その猿が「乳をのむ猿」だという空想を容易に膨らますことができる。ただ、こうした漢籍に依存した知識の中だけの趣向は、やがて芭蕉が「軽み」の体に向うと敬遠され、もっとリアルな日常の趣向を重視するようになる。
 元禄五年、其角が、

 声枯れて猿の歯白し峯の月   其角

の句を詠んだ時には、芭蕉は空想の猿ではなく、同じ情をもっと日乗卑近なもので言い換えようと試みる。それが、

 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉

だった。

 十八句目。

   山ふかみ乳をのむ猿の声悲し
 命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 『初懐紙評注』には、

 「猿の声悲しきより、山川のはげしく冷敷体形容したる付やう。尤山類をあしらひたる也。」

 中国の六朝時代の無名詩に、

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 巴東の山峡の巫峡は長く、
 猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。

という詩がある。今では三峡ダムという巨大なダムのある巴東山峡だが、それを日本に移せば甲斐の国の筏ということか。
 『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」とあり、猿の声に悟りを開いた広聞和尚のことを思い起こし、猿の声の悲しさに人の命を甲斐の筏のように頼りなく儚いものだと思い知れ、ということか。

2018年1月18日木曜日

 今日は天気予報では晴れて暖かくなると言ってたが、朝から霧が立ちこめ、昼過ぎてもどんより空は曇っていて、日差しがない分暖かさもそんなに感じられなかった。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 十句目。

   朝まだき三嶋を拝む道なれば
 念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 朱絃についてはよくわからない。『蛙合』では、

 僧いづく入相のかはづ亦淋し   朱絃

の句を詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「此句、僅に興をあらはしたる迄也。神社には仏者を忌む物也。参詣の僧も神前には狂僧也。三嶋は町中に有社なれば、道通りの僧もよるべきか。」

とある。神社に似つかわしくない僧を登場させ、狂僧としている。
 舞台も三嶋に転じている。東海道は三嶋大社の前を通る。

 十一句目。

   念仏にくるふ僧いづくより
 あさましく連歌の興をさます覧  蚊足

 蚊足は京の談林系で江戸に移住し蕉門になったという。
 『初懐紙評注』には、

 「連歌の興をさます、付やう珍し。度々我人の上にもある事にて、一入珍重に侍る。」

とある。一心不乱に念仏を唱える声が聞こえてきて、連歌が一時中断されたりするのは、「度々我人の上にもある事にて」とあるように俳諧興行でもしばしば起こることで、俳諧興行あるあると言ってもいいのだろう。
 連歌も俳諧もお寺で興行することが多い。

 十二句目。

   あさましく連歌の興をさます覧
 敵よせ来るむら松の声    ちり

 ちりは千里とも書き、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅に同行している。そこでは、

 「何某ちりと云いけるは、このたびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉(ほうゆうしんある)かなこの人。

 深川や芭蕉を富士に預ゆく    ちり」

と紹介している。
 旅の途中、大和国竹内のちりの実家にも泊り、

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく 芭蕉

の句も詠んでいる。
 句の方は『初懐紙評注』には、

 「聞えたる通別意なし。連歌に軍場を思ひ寄せたるなり。」

とある。連歌は和歌同様「力を入れずして天地を動かす」道で、基本は平和主義だ。敵の軍勢が攻めてくる音が聞こえれば、それこそ連歌どころではない。
 ただ、戦国時代には紹巴のような大名にもてはやされた有名連歌師がいたし、戦国大名の中にも連歌を好むものはいくらもいた。明智光秀の備前・備中への出陣の際の戦勝祈願の天正十年愛宕百韻は特に有名で、

 ときは今天が下しる五月哉  光秀

を発句とし、紹巴が、

   水上まさる庭の夏山
 花落つる池の流れをせきとめて       紹巴

という第三を詠んでいる。

 十三句目。

   敵よせ来るむら松の声
 有明の梨子打ゑぼし着たりける   芭蕉

 さてようやく芭蕉さんの登場になる。敵が来るなんてあまり風雅でない前句にどう対処したか、自身の解説(初懐紙評注)を見てみよう。

 「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」

 付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
 ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。

 「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
 烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」

 これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。
 「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。
 特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。
 芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。

2018年1月17日水曜日

 今日は久しぶりに本降りの雨だった。
 ICANのフィン事務局長は核について議論することが大事だと言っていた。
 核兵器はないにこした事はないが、ただ核兵器の禁止は地雷はクラスター爆弾の禁止とは明らかに違う。特に威力という点で、生化学兵器をもはるかに凌ぐ。
 地雷をいくら保有しても世界征服は無理だが、核の力があればひょっとしたら可能なのではないのかという誘惑は、どこの国の独裁者にもあるのではないかと思う。
 今年のキム・ジョンウンの新年の辞でも、「チュチェ革命偉業の最後の勝利をなしとげるまで闘争と前進を止めるつもりはない」と言っている。その行き着くところは結局永久革命だろう。北朝鮮一国に留めることなく、チュチェ思想が世界を支配する時代を作ろうとしている。
 そしてこの人は世界征服の最大のライバルであるアメリカと同胞である南朝鮮以外の国のことは何一つ語っていない。世界を支配するのはアメリカか北朝鮮か、と頭の中にはそれしかないのだろう。
 こういう独裁者は、たとえアメリカ・ロシア・中国・インドが一斉に核を放棄したとしても核開発はやめないだろう。そしてそれらの国の核抑止力があるにもかかわらず未だに北朝鮮の核開発は止められないのだから、それがなくなったらどうなるのかは推して知るべしだ。
 別にあの国に限ったことではない。世界征服の野心を持つ者が核開発を始めたとき、それを止める手段はあるのだろうか。それがないなら今すぐに手放しに核兵器禁止条約を批准するのはかえって危険ではないかと思う。
 むしろ愚案ずるに、核兵器禁止条約の前に独裁政治禁止条約を作るべきではないかと思う。
 じゃあ、それでは気分を変えて「日の春を」の巻の続き。

 七句目。

   炭竃こねて冬のこしらへ
 里々の麦ほのかなるむら緑    仙化

 仙化はちょうどこの頃芭蕉の古池の句を句合わせの形で発表する『蛙合』の編纂をしてたのではないかと思う。その第一番では、

   左
 古池や蛙飛こむ水のおと     芭蕉
   右
 いたいけに蝦つくばふ浮葉哉   仙化
 
 此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし。

と編者である仙化自身の句を芭蕉の古池の句と並べている。
 さて七句目の方だが、『初懐紙評注』には、

 「付やう別条なし。炭竃の句を初冬の末霜月頃抔の体に請て、冬畑の有様能言述侍る。その場也。」

とある。前句の炭竃に神無月の末から霜月にかけての景色を付けている。特に変わった趣向はないが、「麦ほのかなるむら緑」は冬の畑の様子をよく言い表している、というのが芭蕉の評価のようだ。

 八句目。

   里々の麦ほのかなるむら緑
 我のる駒に雨おほひせよ   李下

 李下といえば天和元年の春、当時まだ桃青と名乗っていた芭蕉が深川に隠棲するというので、その新たな住居の庭に芭蕉を植えたことで知られている。ここから深川の新たな住居は「芭蕉庵」と呼ばれ、桃青もまた「芭蕉庵桃青」と名乗るようになった。ここに今日一般に知られている「芭蕉さん」の呼び名が誕生することになった。
 さてこの句は『初懐紙評注』には、

 「是等奇意也。何を付たるともなく、何を詠めたるともなし。里々の麦と言より旅体を言出し、むら緑などうるはしきより雨を催し侍る景色、弁口筆頭に不掛。」

と評されている。
 付き物に寄せて付けるのではなく、里々の景色に旅体、むら緑にそれを際立たせる雨を付け、馬に雨覆いをせよとしている。
 百韻なので九句目から初裏に入る。

 九句目。

   我のる駒に雨おほひせよ
 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白

 挙白は『奥の細道』の旅立ちの際、芭蕉に餞別として、

 武隈の松みせ申せ遅桜      挙白

の句を贈っている。芭蕉は実際に武隈の松の所に辿り着いた時、

 桜より松は二木を三月越し     芭蕉

の句を詠む。
 さて、九句目の方は、『初懐紙評注』には、

 「是さしたる事なくて、作者の心に深く思ひこめたる成べし。尤旅体也。箱根前にせまりて雨を侘たる心。深切に侍る。」

とある。
 小田原を朝未明に出て、箱根八里を越えて三島に至る道なれば、雨は困ったものだ。箱根を越えたことのある人なら痛切に感じる所だろう。

2018年1月16日火曜日

 今日は暖かかった。山は霞んで春のようだった。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 第三。

   砌に高き去年の桐の実
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

 枳風(きふう)は江戸の人で、これより後のことになるが、元禄五年、『奥の細道』の旅の後しばらく近江など関西で過ごした芭蕉が再び江戸に来た時、杉風と枳風が出資して第三次芭蕉庵を建てたという。
 『初懐紙評注』には、

 「第三の体、長高く風流に句を作り侍る。発句の景と少し替りめあり。柳見に行くとあれば、未景不対也。雪村は画の名筆也。柳を書べき時節、その柳を見て書んと自舟に棹さして出たる狂者の体、珍重也。桐の木立詠やう奇特に侍る。付やう大切也。」

とある。「長高く」は今の言葉ではうまく表現しにくいが、力強くと格調高くを合わせた感じか。「居丈高」という言葉に「たけたか」は生き残っているが、もとは背が高いことからきている。それが高い所から物を言うという意味になった。
 紹巴の『連歌教訓』には、

 「第三は、脇の句に能付候よりも長高きを本とせり、句柄賤しきは第三の本意なるべからず、」(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.264)

とある。
 発句が新年の句だったのに対し、柳は仲春から晩春の景になる。「未景不対也」というのは、秋から残っている桐の実に春の柳を対比させる「相対付け」とするには、まだ「見にゆく」段階で柳そのものを出していないので成り立たない。
 雪村は室町後期から戦国時代にかけての絵師で、雪舟をリスペクトしていたが、雪舟の亡くなった頃に生まれているため、直接的なつながりはない。尾形光琳に影響を与えたが、尾形光琳が活躍するのはもう少し後のこと。
 雪村が自ら舟を漕いで柳を見に行くというあたりに風狂が感じられる。「砌(みぎり)」は発句に対しては「その時まさに」という意味で用いられていたが、ここでは「水際」の意味になり、そこから「棹さして」を導き出している。

 四句目。

   雪村が柳見にゆく棹さして
 酒の幌に入あひの月     コ斎

 コ斎はよくわからないが、其角の弟子のようだ。この頃の興行にはよく登場する。
 『初懐紙評注』には、

 「四句目なれば軽し。其道の様体、酒屋といつもの能出し侍る。幌は暖簾など言ん為也。尤夕の景色有べし。」

とある。
 四句目は軽く遣り句するのを良しとする。これは発句から第三までを引き立たせるためと、前半で句を滞らせないためと、いろいろ理由がある。
 前句の風狂の体から酒を導き出し、酒屋の暖簾を「酒の幌(とばり)」と言い表す。雪村が酒の酔いに任せて夕暮れの月に舟を出して柳を見に行ったとする。

 五句目。

   酒の幌に入あひの月
 秋の山手束の弓の鳥売ん     芳重

 月が出たところで季節は秋になる。芳重がどういう人かはよくわからない。
 『初懐紙評注』には、

 「狩の鳥を得て市に持出て売体さも有べし酒屋に便りたる珍重の付様也。手束の弓は短き弓也。」

とある。
 「手束(たつか)の弓」はコトバンクのデジタル大辞泉の解説によれば、

 手に握り持つ弓。たつかの弓。
 「―手に取り持ちて朝狩(あさがり)に君は立たしぬ棚倉(たなくら)の野に」〈万・四二五七〉

とある。軍(いくさ)に用いる馬上で射るための長い弓ではなく、手に持って携帯でき、物陰に隠れて獲物を狙えるような短い弓と思われる。
 猟師が射た鳥を酒屋に酒の肴にと売りに来る。

 六句目。

   秋の山手束の弓の鳥売ん
 炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

 杉風は言わずと知れた人で、知らない人はぐぐってみよう。
 『初懐紙評注』には、

 「前句ともに山家の体に見なして付侍る。猟師は鳥を狩、山賤は炭竃を拵て冬を待体、別条なき句といへども炭竃の句作、終に人のせぬ所を見付たる新敷句也。」

とある。
 山奥では猟師は鳥を売りに行き、山賤は木炭を作って冬に備えるとなる。「炭竃」を出すあたりに、当時の芭蕉は新味を感じていた。

2018年1月15日月曜日

 昨日は大磯の高麗山、浅間山、湘南平を歩いた。
 湘南平は標高181メートルの低山だが、付近に高い山がないせいで360度の大パノラマが楽しめる。西に富士、箱根、足柄、丹沢、南に伊豆、初島、大島、利島、東に房総半島、三浦半島、江ノ島、横浜のランドマークタワー、北には東京の高層ビル郡とスカイツリーが望める。
 湘南平では早咲きの梅も咲いていた。
 さて、今年もそろそろまた俳諧を読んでいこうと思う。
 新年ということで貞享三年の其角の歳旦吟、

 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

を発句とした芭蕉も含めた十八人の連衆による百韻、これに挑戦してみたい。
 この百韻の前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている。いわゆる蕉風確立期、古池の句が発表された頃の評風を知るうえで貴重な資料だ。
 その発句だが、『初懐紙評注』には、

 「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」

とある。
 「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。
 日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。

 脇。

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 文鱗は堺の人で芭蕉に釈迦像を贈ったという。貞享元年に、

   文鱗生、出山の御像を送りけるを安置して
 南無ほとけ草の台も涼しけれ  芭蕉

の句を詠んでいる。
 『初懐紙評注』には、

 「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」

とある。
 松永貞徳の脇体四道はよくわからない。ネットで調べると四道ではないが「俳諧」というサイトに「白砂人集」が紹介されていて、そこには「脇に五つの仕様あり。一には相対付、二つには打越付、三つには違ひ付、四つには心付、五つには比留り。」とあった。
 実はこれと同じものが戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』にある。

 「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、
  年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
   雪こそ花とかすむはるの日
  梅の薗に草木をなせる匂ひかな
   庭白妙のゆきのはる風
  ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
   木の下草のはなをまつころ
 か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」
 (『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)

 「白砂人集」は肝心な「打添」を「打越」と誤っているし、打添以外は滅多に用いられない。
 打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。
 貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、

   野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
 鷹の餌ごひと音おばなき跡     季吟

で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。
 延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作        信章

というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。
 発句が次第に明白な挨拶の意味を失ってくると、脇も打ち添えようがなくなって景気で付けるようになる。
 延宝六年の芭蕉発句に付けた千春の脇は、景気付けの走りといえよう。

   わすれ草煎菜につまん年の暮れ
 笊籬味噌こし岸伝ふ雪       千春

 「わすれ草」に年忘れを掛けた芭蕉の発句に何ら打ち添えるのでもなく、「煎り菜摘み」に「雪」を景気で出してくる。これは、

 君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
                  光孝天皇

の歌を踏まえている。
 さて、文鱗の脇に戻ってみると、

   日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
 砌に高き去年の桐の実    文鱗

 初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。
 残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。
 こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。
 この景気で受ける脇の付け方は、すぐの他門にも広まったのだろう。和及(貞門系)の元禄二年刊の『俳諧番匠童』にもこうある。

 「一 脇 古流は連歌のごとく、体さまざま習有れども、今は大概発句景気なれば、又景気にてあしらひてよし。」(『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、岩波書店p.501)

2018年1月13日土曜日

 『風俗文選』の文章も行分けすれば何となく近代的に見えるし、さらにそれを連にすれば大分印象も変わってくる。
 試しに支考の「猫祭文」を近代的に表記してみた。

  猫を祭る文
              各務支考
 李四が草庵に
 ひとつの猫ありて
 これをいつくしみ思うこと
 人の子をそだつるに殊ならず

 ことし長月二十日ばかり
 隣家の井にまとひ入れてみまかりぬ
 その墓を庵のほとりに作りて
 釈自圓とぞ改名しける

 彼を祭ること
 人を祭るに殊ならねば
 このたび爪牙の罪をまぬがれて
 変成男子の人果にいたらむとなり

 その文に曰く

  秋の蝉の露に忘れては
  秋の花の霜に凍るも

  鳥部山の四時に噪ぎ
  馬嵬が原の一夜に衰ふ

   きのふは錦茵に千金の娘たりしも
   けふは墨染めの一重の尼となれり

  されば
   柏木の衛門の夢
   虚堂和尚の詩

 恋にまよふ
 欄干に水ながれて
 梅花の朧なる夜

 貧にはぬすむ
 障子に雨そそひて
 燈火の幽かなる時

  鼠は捕らえるべしとつくりて
  褒美は杜工部

  蛙は無用といましめて
  異見は白蔵司

 昔は女三の宮の中
 牡丹簾にかがやきて
 花まさにはやく

 今は李四が庵の辺
 天蓼垣にあれて
 実すでにおそし

  前世は誰が膝枕にちぎりてか
  さらに傾城の身仕舞

  後は世はかならず音楽にあそばむ
  ともに菩薩の物数奇

 玉の林の鳥も啼らむ
 蓮の葉の花も降らし

  涅槃の鐘の声冴えて
  囲炉裏の眠りたちまちにおどろき

  菩提の月の影晴れて
  卒塔婆の心なににか疑はむ

   如是畜生
   南無阿弥

 ついでに作者の示されてない『風俗文選』「書類」のフクロウの出てくる「院艶書」も近代的に表記してみた。

   院の艶書
             作者不詳
 やまとの国に梟といふ鳥あり
 鷽姫をこひて
 文かきやる

 ことにそもじはまこともじ
 いくたびも文かよはして
 まことの文字の返し見るまで

2018年1月12日金曜日

 昨日の「雑ノ説」の中に嵐蘭のことが出てきていたが、おなじ『風俗文選』の誄類のところに芭蕉の「嵐蘭ノ誄」というのがあった。
 誄は音読みだと「るい」で本家の『文選』にも誄類はある。この場合は「るいるい」と読むのだろう。訓読みだと「しのびごと」になる。
 その中で、

 「今年仲の秋中の三日。由井金沢の波の枕に月をそふとて。鎌倉に杖を曳。其かへるさより。心地なやましうして。終に息絶ぬ。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.117)

という一節がある。
 『風俗文選』で気になるのは、短いセンテンスで「。」を打って区切っているところで、ネットで見た酒田市立光丘文庫所蔵の風俗文選を見ても、確かに丸が打たれている。
 これを行分けして書くと近代詩のようになって面白い。こんなふうになる。

 今年仲の秋中の三日
 由井金沢の波の枕に月をそふとて
 鎌倉に杖を曳
 其かへるさより
 心地なやましうして
 終に息絶ぬ

 「由井金沢」は由比ガ浜、金沢八景のことか。
 芭蕉の誄は短く簡潔な文章だが、去来、許六の誄となると、もう少し詩に近づく。

 あるは杖を横たへ
 落柿舎を叩て飛込だままか都の子規とも驚かされ
 予も彼山に這のぼりて
 脚下琵琶湖ノ水
 指頭花洛山と
 眺望を共にし侍りしを
 人は山を下らざるの誓ひあり
 予は世にただよふの役ありて
 久しく逢坂の関越る道もしらず
    (去来「丈草ヵ誄」)

 病ありて
 起臥のさびしさをしらずとかや
 猶思ふ人のなきにしもあらで
 此事かの事仕果してむ
 今宵は森の下露わけそぼちて小萩がもとに袂をしぼらんと
 玉だれのひまもとむるに
 あらぬあさはりのみ出来がちにて
 初夜過る雪駄の音も程なく静まり
 夜かれのみぞおほかる
    (許六「去来ヵ誄」)

 誄ではなく歌類の所の支考「落柿舎先生ノ挽歌」も、行を分けて書けばこんな感じになる。

 ことしはいかなる年なれば
 かくあぢきなき人をのみ見るらん
 去年の神無月は
 浪化の君にわかれて
 霜の光に名をしたひ
 粟津の丈草は
 此きさらぎの願ひにみちて
 花の陰に帰り給ひぬ
    (支考「落柿舎先生ノ挽歌」)

 さらに後半に歌が記されている。

 家は聖護院の森にかくれて
 名は落柿舎の梢に残りて
   世ははたいかならん

 寒き梟の声に驚き
 空しき秋の色を恨む
   我はたかくならん

 窓のあらしに燈をまもり
 軒のしづくに影をしたふ
  おしむべし アア かなしむべし アア
    (支考「落柿舎先生ノ挽歌」)

 こうした追悼文は、蕪村の「北寿老仙をいたむ」に先行する作品として注目してもいいのではないかと思う。試しに「北寿老仙をいたむ」を『風俗文選』風に表記するとこうなる。

   北寿老仙ヲ悼
 君明日に去ぬ夕の心千々に。何ぞはるかなる。君をおもふて岡野辺に行つ遊。岡野辺何ぞ悲しき。蒲公の黄に薺の白う咲たる。見る人ぞなき。雉子のあるかたひなきに鳴を聞ば。友ありき河を隔て住にき。‥‥以下略‥‥

 蕪村の新しさは表記法の新しさだったのかもしれない。

2018年1月11日木曜日

 脳の回路は各自の人生における様々な偶然の積み重ねによって形成されるもので、何びとたりとも自分の脳の回路を自由意志によって設計することはできない。
 いかなる思想であってもそれを人に強要することができないのは、脳の回路はいかなる強制によっても変えることができないからだ。ただ恐怖で縛り付ける、いわゆる「洗脳」があるだけだ。
 脳の回路はその人の個性であり、人は全て多様性の一つとしての自分を生きるほかない。それがために降りかかる運命も、結局全て受け入れなくてはならない。
 許六編の『風俗文選』の不知作者による「雑ノ説」はそうした運命をよく捉えている。

 「人物禽獣は。其人物禽獣の粉骨なる所に倒れ。山川草木は。其山川草木のすぐれたる所にたふる。物皆おのがたのしみの纔(わずか)なる所に。たふれ果るも哀なる事なるべし。瞿曇は無為に倒れ。仲尼は仁義にたふる。荘老は寓言にたふれ。神仙は霊異に倒る。伯夷叔齊は賢にたふれ。楠正成は忠に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 瞿曇(ぐどん)はGautama、つまりゴーダマ・シッダールタ(瞿曇悉達)のこと。仲尼は孔子のこと。伯夷・叔斉は殷代末期の孤竹国の王子で最後は餓死した。

 「火はあつきにたふれ。水はひややかなるにたふる。砂糖はあまきにたふれ。野老はにがきにたふる。長はながきにたふれ。短はみぢかきに倒る。されば瘡を愁ふるほとは痒をかく所にたのしみ。貧を苦しむものは。盗賊の難なき事をたのしふ。是皆和漢人情の趣く事は。さらさらかはる事あるべからず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 野老(ところ)はオニドコロのことで、自然薯に似ているが、どこにでも生えている草で、根は苦くて普通は食べられないが、かつてはあく抜きをして食用にしていたという。イモの部分に髭のような根が生えていることから、老人のようなので、野老と書く。

     菩提山
 此山のかなしさ告げよ野老掘    芭蕉

の句が『笈の小文』のなかにある。
 瘡の喩えは「幸福とは苦痛がなくなることである」「ならば水虫を掻いている時は幸福なのか」と言う有名な詭弁を思い出させる。正確には水虫を掻いている時は苦痛を掻くという別の刺激で紛らわしているだけで苦痛がなくなるわけではない。水虫が完治したなら幸福なのではないかと思う。
 貧乏人が盗られるものがないことを楽しむというのも、まあ負け惜しみというか、やはり盗られるほどの財産を持ってみたいものだ。
 まあ、こういう話は洋の東西問わず必ずあるものだ。

 「昔より風雅に倒るる人おほき中に。西行は歌に倒れ。宗祇は連歌にたふる。先師ばせを翁は、はいかいにたふれて。生涯を終る。其門葉あまたの中に。たふるる所同じからず。武の杉風は耳のとほきにたふれて。微細の論を聞かざれば。二十余年半は流行し。半は流行せず。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

 死ぬ間際まで俳諧のことが頭から離れなかった芭蕉翁のことは、去年たどってきた。『笈の小文』で

 「ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76)

と言う芭蕉は、まさに俳諧依存症だ。
 杉風は余り人の意見に耳を貸さなかったのか、芭蕉存命中は『炭俵』の軽みにも着いて行き、流行の先端にいたが、芭蕉の死後はかたくなに芭蕉存命時代の風体を変えなかったのだろう。それでも享保十七年(一七三二年)八十六歳まで生きた。

 「洛の去来は。風雅の正直にたふれて。春風桃李花の開くる日をしらず。其角は作にたふれ。支考は理にたふる。涼菟はふるみのしたるきに倒れ。露川は俳諧の数にたふる。史邦木導は風雅のつよみに倒れ。千那李由は風月の情の過たるに倒る。嵐蘭は鎌倉の月にたふれ。丈草は松本の閉関にたふる。杜国は横にたふれ。惟然は高みにたふる。尚白は忘梅の趣向に倒れ。許六は文章の文に倒る。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.76~77)

 去来の句は生真面目で型どおりに納めようとする傾向があり、全体に花に乏しかったし、其角はひねりすぎてしばしば企画倒れ。支考は芭蕉存命中は天才的な機知を示したが、やがて俳論書を書くことにのめりこんでいった。
 涼菟は伊勢の神職で都会的な新しさを求めることもなく、田舎の水にどっぷりとつかっていった。露川は諸国を行脚し『西国曲』『北国曲』を編纂した。どちらもボリュームのある書で確かに数は多い。
 嵐蘭は江戸の人で元禄六年、鎌倉に月を見に行ってその帰りに病に倒れた。初七日に芭蕉は、

 見しやその七日は墓の三日の月   芭蕉

の句を捧げている。
 丈草は近江松本の義仲寺無名庵に棲み芭蕉もしばしば滞在するが、芭蕉の葬儀がここで行われ、埋葬されたため、丈草は残りの生涯をここで芭蕉の墓を守ることに費やすこととなった。
 杜国は『冬の日』に参加し、『笈の小文』の旅にも同行したが、元禄三年に若くして死んだ。
 尚白は『忘梅』の編纂の際のトラブルで芭蕉に破門された。許六はこの『風俗文選』を編纂している。あるいはこの文章は許六のものか。

 「されば芭蕉流に倒るるものもあれば。ばせを流をたふす人もあるなり。鶯は時鳥に倒れ。桜は紅葉にたふる。人は人にたふるるもあれば。我は我に倒るるものなり。」(『風俗文選』伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫p.77)

 さて、ここでこの「雑ノ説」も絞めになるが、弟子たちの中には芭蕉に倒れるものもあれば芭蕉を倒すものもありと、芭蕉亡き後のごたごたを嘆き、鶯は時鳥に、桜は紅葉にと時の流れを感じ、人は人に倒れ、我も我に倒れると結ぶ。
 人は皆それぞれ多種多様な生き方をしてはそれぞれの持って生まれた性質によって倒れてゆく。我もまた同じ。結局多様性の一つとしての自分を生きる以外に道はなく、自分の道に倒れるならそれもまたやむを得ずというところか。

2018年1月10日水曜日

 人は生まれながらにして顔かたちが違ったり、背の高い低いがあったり太りやすい太りにくいがあったり、禿げやすい禿げにくいだとか大食いだとか少食だとかいろいろな違いがある。違うのは別に肌の色や目の色や髪の色に限ったことではない。人間は生まれながらにして一人一人みんな違う。日本人だからと言ってみんな直毛黒髪というわけでもない。
 生まれながらに多様な人間は、育つ環境や文化の違いでまた更に多様になる。
 精神の多様性というのは脳の発達過程が環境と資質との複合によってみんな異なるところから生じる。同じものを見ても感じ方はみんな違う。それは人はただ物を見るのではなく、それを様々な記憶と照らし合わせて、その意味を読み取るからだ。記憶は一人一人みんな違う。何を連想するかは人によって違う。連想された記憶を結びつけてそこからどういう思考を導き出すかもみんな違う。だから同じ物を見ても、みんな違った考え方をする。
 さらに、個々の人間の特有な体験から、ある種の物には脳内快楽物質を刺激する特有の回路が形成される。花に異様に興味を持つ人がいたり、山を見ることに異様な快楽を覚える人がいたり、人間の思考回路は決して一様ではない。何に興味を持つか、何に心地よさを感じるのか、何に癒しを感じるのか、みんなそれぞれ違う。
 一枚の絵を見ても、まず色の見え方で先天的に異なる場合がある。赤青黄の三色の色覚にしても、たとえ色覚異常でないにせよ、若干の強度のばらつきは考えられる。それに加えて視力や乱視の問題もある。そして、見えた色彩に関しても、幼少期からの環境や習慣によって、ある種の色には敏感である種の色には鈍感になるといったことも生じる。こうして色彩感覚は文字通り十人十色ということになる。
 さらにそこに描かれた絵の内容にしても、その人の持つ記憶と結びつけられたとき、思い起こすものはみんな違う。その記憶を関連付けて絵を解釈する段になっても、思考回路は人それぞれみんな違うし、それに対して感じられる快不快も異なる。
 ということで、万人が等しく感動する絵なんてものは存在しない。どんな名画でも見る人によっては興味を引かないということは別におかしなことではない。
 音楽でも同じで、聴覚そのものも先天的にばらつきがあるだろうし、環境や文化によってある種の音に敏感になったり鈍感になったりもする。そこから連想される思考も人それぞれだし、それを快と感じるか不快と感じるかも人それぞれだ。つまり万人が等しく感動する音楽なんてものは存在しない。
 文学ということになればさらに明らかだ。同じ日本語と言っても日本全国均一ではないし、地域や階級や職種、それに一部の趣味の人が好んで使う言葉があったり、特定の仲間内だけに通じる言葉や家族の中だけで通じる言葉もあったりする。さらに一部の外国人の片言の日本語も、日本人の言語感覚に影響を与えたりする。翻訳調の言い回しや、いろいろな国の言葉の癖が移ったりもする。
 もちろん一つの単語から想起されるものは各自の過去の体験や知識に基づくもので、ネイティブであれば特にだが、辞書を見て言葉の意味を理解しているのではない。
 そういうわけで万人が等しく感動する文学も存在しない。
 芸術の価値というのはカントの言うようにそれについて議論することは可能だが、ただ現実的には各自の感性の多様性の壁に阻まれて、おそらく永久に結論が出ることはないだろう。ただ言えるのは、多くの人が記憶に残そうとしたものは残るというだけのことだ。
 芸術は人間のあくなき創作意欲がある限り日々ほぼ無数に生み出されては、人間の記憶の限界からその多くは作られたすぐそばから忘れ去られてゆく。その中で残るというのは、それだけ多くの人の記憶に取り付いて離れなかったからに他ならない。
 まあ、近代では政府主導でカリキュラムを作りほぼ強制的に覚えさせることで時の権力の都合のいい作品を残そうとするが、ただ一つの体制もそう長くは続かないから、体制が変わるたびにただ覚えさせられただけのものは消えてゆく。こうした忘却の荒波をかいくぐったものだけが古典と呼ばれる。
 芸術作品への人々の熱狂と陶酔は、少なからず脳内快楽物質の作用と結びついて独自の脳回路を形成するところからくるもので、必ずしも自由意志によるものではない。少なくとも脳の回路を人が自由意志に基づいて任意に設計するなんてことはできるはずがないからだ。だから時の権力により特定の芸術を奪うことは一時的には可能だが、結局は長続きしない。
 江戸時代でも享保、寛政、天保の改革を代表とするように、何度も巷で流行する芸術に禁制が敷かれてきた。明治維新のときも政府の西洋化政策から多くの伝統芸術が禁止され、弾圧された。もちろん軍国主義の時代も様々なものが禁止された。他所の国の話だが、社会主義革命によってそれまでの芸術が禁止されたり弾圧されたりする例はたくさんある。イスラム原理主義やキリスト教原理主義によるそれももちろんある。だが、芸術の禁止は人間の感性を変えることはできなかった。ただみんな我慢していただけだ。
 人間の多様な脳回路は自由意志によって選択されたものではないから、自由意志によって変えさせることはできない。
 脳回路の多様性は個性でありキャラクターである。LGBTもあくまでキャラであって病気ではない。それを病気とみなすとすれば、それは社会的な排除のシステムに他ならない。プロ棋士とネトゲ廃人を分けるものも、そうした排除のシステムに他ならない。
 明治の文学者たちが連歌や俳諧を文学とみなさず「愚なるもの」とすら言ったのも、排除の論理であり芸術の論理ではない。だから連歌も俳諧も消えることなく今日にその多くの作品が保存されている。それに再び新しい価値を与えられるかどうかはこれからの人間の仕事だ。
 脳回路が選択し、快だと感じる芸術はもとより多様であり、人間の飽くなき創作欲と記憶の限界から芸術作品は常に流行を繰り返す。ならば不易とは何か。芸術には普遍的な価値は存在しないのか。美の普遍は存在しないのか。おそらく作品としては存在しない。ただどこかで国や時代が変わっても同じ人間として共鳴できるものはある。その共通の感覚が不易に他ならない。

2018年1月8日月曜日

 昨日は目黒不動へ犬狛犬を見に行った。普通の狛犬は獅子の形をしているが、犬の形をしている狛犬は珍しい。ただ、狼狛犬との境界は曖昧で、狼狛犬だと言われれば狼狛犬だった。
 WHOはゲーム依存症を国際疾病分類に加えるというが、薬物の依存症と違い、本来の脳内快楽物質による依存症は少なからず誰しもあるものだ。仕事中毒なんていわれるのもそうだし、プロ棋士はみんな将棋依存症だし、登山家は登山依存症だし、サッカー選手はサッカー依存症だし、芭蕉は間違いなく俳諧依存症だ。そういう自分も学者にはなれなかったが一種の学問依存症と言っていいだろう。
 人生のある時に何かのきっかけである行為をしたときに脳内快楽物質が分泌され快楽報酬を受け取ると、脳内にそれを反復するような回路を形成する。分泌されるのは人工的な薬物ではなくあくまで天然の脳内快楽物質だ。
 アルコールやニコチンや他の薬物による依存症は、ある行為で脳内快楽物質を出すように回路が形成されるのではなく、人工的な快楽物質を脳内に注入するものだから、まったく質的に異なる。そして、その人工的な快楽物質を入手し、摂取するように脳内回路が形成される。
 そうではなく、天然の脳内快楽物質である限り、その分泌は器質的な障害ではない。ただ、その快楽物質回路は、本来は生存競争に勝ち抜くために機能するべきものだが、実際にはそれがために敗北をもたらしてしまうこともある。
 人間の場合、そうした勝者と敗者との境目が物理的なものではなく社会的であるため、結局快楽報酬をもたらす行動が社会的に承認されているものかどうかで明暗を分けることになる。競馬やパチンコに快楽を感じればギャンブル依存だが、投資に快楽を感じれば投資家になる。
 同じように、ネトゲに快楽を感じればゲーム依存症と呼ばれてしまうが、同じゲームでも囲碁や将棋なら棋士になれる。それは囲碁将棋にはスポンサーが着いて報酬が得られるという、それだけの違いにすぎない。
 社会的な報酬がなく、むしろそれをすることで反社会的の烙印を押されてしまう行為に関しては病気とみなされ、報酬のあるものはむしろ奨励される。純粋に生理学的に見ればその両者に境界はない。病気は社会によって定義される。
 ネトゲだってスポンサーが着いて報酬がもらえ、ゲームでの活躍を多くの人が賞賛し、国民栄誉賞がもらえるような状況が生じるなら、もはや誰もそれを病気とは言わないだろう。
 医学のまなざしが社会的なものであることは、ミシェル・フーコーが指摘してきたことだが、もちろん器質的な障害による精神病もあるから、そこは区別しなくてはならない。
 LGBTという言葉が一種の流行語のようになっているが、これは別に病気ではないし医学の問題ではない。それを受け入れるかどうかは社会の問題であり、あくまで文化の問題だ。そのなかで一部の者だけが性同一性障害と呼ばれるのは、治療することによって社会が受け入れることが可能だということで、逆にいえばLGBTから排除されているといってもいい。
 鬱はセロトニンの欠乏などの器質障害によるものだが、それでもかつては「発心」とみなされ、社会はそれをポジティブに受け入れてきた。何をするのも空しく感じられ、生きる気力の失せた状態になると、「この世の無常を悟った」と言われ、部屋に引きこもるようになると「世俗の交わりを断った」と言われ、拒食症になると「ついに穀を絶った、ありがたやありがたや」になる。そして補陀落渡海や即身仏などの合法的な自殺用を用意してくれる。
 病気は単に身体の変化の問題だけでなく、それを受け入れる社会の問題でもある。
 芭蕉は一所不住を誓い生涯を旅してすごしたが、百年後に歌枕の旅に出たある女性は「ものぐるい」とみなされたという。
 LGBTに関して言えば、キリスト教などの聖書の文化が同性愛を長いこと犯罪とみなしてきた歴史に負うところが大きい。そうした歴史を持たない日本では、芭蕉があたかもホモであるかのような発言をしてもスキャンダルになる事はなかった。まあ、実際にはホモではなかったと思うが。
 ある行動に対して快楽物質が分泌される回路を持つことは、その人間の最も本質的な個性を形成するもので、安易に医学の名の下に排除したり治療を強要するようなことがあってはならない。それがなければこの世の中にはただ均質な労働者がいるだけで、スターもヒーローも天才もいない退屈な世界にしかならない。均質な労働者なんてのはそのうちロボットに取って代わられるだけだから、これからはむしろあらゆる依存症を社会に役立てることの方が大切だ。かつてネトゲ廃人だった人でも、ネット株に転向して成功した人がいるという。

2018年1月5日金曜日

 今日は寒い一日だったが、雪にならなくて良かった。
 「馬に寝て残夢月遠し」の句で芭蕉が菊川に泊って未明に出発したとなると、やはり『野ざらし紀行』の伊勢までの日程が気になる。
 出発が八月の中頃で伊勢で「三十日月なし」の句を詠んでいるとすると、大体二週間くらいの旅だったことになる。
 旧街道ウォーキング「人力」というサイトに載っている各宿場間の距離を参考に、大体一日四十キロ前後進む(歩いたにしても馬に乗ったとしてもスピードは変わらないものとして)なら日本橋から大井川の手前の島田までは六日間。菊川から四日市までは五日間、四日市から伊勢までは二日と思われる。これで十三日。それに大井川で足止めされた日数が加わる。
 『野ざらし紀行』には、

 「大井川越る日は終日雨降ければ、

 秋の日の雨江戸に指おらん大井川  ちり」

とある。そして小夜の中山の所には「廿日余の月かすかに見えて」とある。
 「終日雨降ければ」が大井川をわたる予定の日に一日雨が降り、やむなく島田に一泊し、翌日の夕方にようやく川を渡って菊川に着いたとなれば、無駄にしたのは一日ということになる。つまり江戸を発って八日目に小夜の中山を越えたことになる。もっとも
 伊勢の三十日から逆算するなら、二十九日に四日市を出て翌日伊勢に着いてその夜真っ直ぐに参宮したとするなら、菊川を出たのは二十四日ということになる。それだと江戸を出たのは十七日となる。
 十七日に旅立って戸塚に泊り、十八日に小田原泊、十九日に沼津泊、二十日に興津泊、二十一日に藤枝泊、翌二十二日に大井川を渡る予定が島田一泊になり、翌二十三日の夕方にようやく川止めが解除され菊川泊。これで計算が合う。
 芭蕉の小夜の中山の句はもう一句ある。

 忘れずば小夜の中山にて涼め   芭蕉

 これは『野ざらし紀行』に旅立つ二ヶ月前の六月、松葉屋風瀑が江戸から伊勢に帰郷する際の餞別句で、八月三十日には伊勢で再会することになる。

 命なりわづかな笠の下涼み    芭蕉

という延宝四年に芭蕉が詠んだ句を踏まえたもので、小夜の中山を通る時にこの句を忘れてなかったら笠の下に涼んで下さい、という意味だろう。

2018年1月4日木曜日

 今年も正月休みは今日で終わり。
 一日は家でゆっくり休み、二日は午後になってから武州柿生琴平神社は混んでるだろうなと思って、歩いてゆける近くの伊勢社に初詣に行った。無人の神社で人はポツリポツリだった。
 三日は「街道を行く、東海道編」の続きで島田から掛川まで歩いた。
 金谷から旧東海道石畳の方へ行くと、鶏頭塚というのがあって、

 曙も夕ぐれもなし鶏頭華    巴静

の句が記されていた。巴静は美濃出身で支考の弟子で、このあたりに蕉風を広めた人のようだ。鶏頭は朝も昼も夜も赤いので曙も夕暮れもないということか。
 小夜(さや)の中山はたくさんの歌碑があった。

 雲のかかるさやの中山越えぬとは
    都に告げよ有明の月
               阿仏尼
 旅ごろも夕霜さむきささの葉の
    さやの中山あらし吹くなり
               藤原家良
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや
    命なりけりさやの中山
               西行法師
 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月
    しぐれてこゆる小夜の中山
               蓮生法師
 東路のさやの中山なかなかに
    なにしか人を思ひそめけむ
               紀友則
 ふるさとに聞きしあらしの声もにず
    忘れぬ人をさやの中山
               藤原家隆
 東路のさやの中山さやかにも
    見えぬ雲井に世をや尽くさん
               壬生忠岑
 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく
    横ほり臥せるさやの中山
               詠み人知らず

 阿仏尼の歌は、上方からきて事任(ことのまま)八幡宮の紅葉を見てから莢の中山に登り、「をちこちの峯つづき、こと山に似ず」とその眺望を『十六夜日記』に記している。歌は莢の中山を越えたあと菊川宿に泊った時のもので、他にも、

 こえくらすふもとの里のゆふやみに
    まつかぜおくるさやの中山
 渡らむとおもひやかけしあづま路に
    ありとばかりはきく川の水

の二首を記している。
 蓮生法師と詠み人知らずの歌は「甲斐が嶺」を詠んでいる。ぐぐると甲斐が嶺は北岳(白根山)のこととあるが、蓮生法師の歌は広く南アルプス連峰の高山を指すものと理解すべきであろう。実際小夜の中山はいわゆる峠道ではなく稜線上を歩く道で眺めが良い。北の方も大井川渓谷が南北に長く通っているため、その合い間から聖岳のあたりの真っ白な山々が見える。これを「甲斐が嶺」と呼んだのだろう。
 読み人知らずの歌は、「さやにも見しが」を「見じ」と同様にはっきりとは見えないがという意味に解されているが、「はっきり見えた」という意味に取ってもいいのかもしれない。その場合は、真っ白い峰々がこうして見えているのにたくさんの山が手前に横たわって心(けけれ)無い、という意味になる。
 小夜の中山というと、芭蕉の句も二句ある。

 命なりわづかな笠の下涼み   芭蕉
 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり 同

 「命なり」の句碑は「涼み松」の所にある。この句は夏の炎天下の道で笠の下だけがわずかに涼しいという意味の句だと思っていたが、後の人が勝手にこの松の下で涼んだということにして、名所にしてしまったのだろう。
 「馬に寝て」の句は早朝というか未明の句だが、だとすると菊川の間(あい)の宿に泊ったと思われる。菊川は阿物尼も泊った古くからの宿場だが、東海道五十三次には入らず間宿として扱われていた。ウィキペディアによると、

 「間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にある菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 」

とある。大井川が川留めになっていて夕方になってやっと渡れたとすれば、菊川宿に泊ったとしても何の不思議はない。小夜の中山は山の上の方まで茶畑になっていたが、芭蕉の時代からそうだったかどうかはよくわからない。「茶のけぶり」というのは、焙炉で乾燥させるときの煙であろう。それは下から昇ってきた煙かもしれない。
 小夜の中山は東には富士山を望み、北には南アルプスが垣間見え、西には浜松豊橋の平野や海までが見渡せる。道幅の広い古代東海道がこの小夜の中山の稜線に作られた時から、眺望は良かったのだろう。それが、単に東西の境界線というだけでない東海道随一の名所として古代から近世に至るまで和歌や俳諧に詠まれてきた理由なのかもしれない、とそう思った。