2018年1月26日金曜日

 寒い日が続く。
 それでは「日の春を」の巻の続き。

 三十一句目。

   あられ月夜のくもる傘
 石の戸樋鞍馬の坊に音すみて   挙白

 『初懐紙評注』には、

 「霰は雪霜といふより、少し寒風冷じく聞ゆる物なるによりて、鞍馬と云所を思ひよせたり。昔は名所の出し様、碪に須磨の浦十市の里吉野の里玉川など付て、證歌に便て付る。霰は那須の篠原、雪に不二、月に更科と付侍るを、当時は句の形容によりて名所を思ひよする。尤心得ある事也。」

とある。
 「石の戸樋」は軒先などの雨樋ではなく、湧き水を引いてきて修行用の滝にしたり手水にしたりするための石を組んで作られた水路のことだろう。今日でも魔王の滝に石樋が見られる。「音すみて」は水の流れる音の澄んでいるということだろう。
 貞門や初期の談林俳諧では、雅語の用法として正しいかどうかを證歌をとって確認する作業があったため、名所を出すときでもその名所にふさわしいかどうかでいちいち證歌を引かなくてはならなかったのだろう。
 蕉門では基本的に俗語の俳諧なので、雅語としての用法を確認する必要はない。霰月夜から寒い所というだけの理由で鞍馬を出しても差し支えない。

 三十二句目。

   石の戸樋鞍馬の坊に音すみて
 われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 『初懐紙評注』には、

 「此句詠様奇特也。鞍馬尤人々の云伝て、僧正が谷抔打ものに便る事也。石の戸樋などいふに鍛冶、近頃遠く思ひ寄たる、珍重也。浄き地、清き水をゑらみ、名剣を打べきとおもひしより、一句感情不少。三代といふて猶粉骨鍛冶名人といはん為なり。」

とある。
 鞍馬の僧正が谷は牛若丸が剣術の修行をしたという伝説もあり、その剣の師匠が天狗だったというあたりから、のちの鞍馬天狗の物語が生じることとなった。また、鞍馬寺には坂上田村麻呂が奉納したと伝えられている黒漆剣があり、現在は京都国立博物館に保管されている。
 実際に鞍馬に刀鍛冶がいたかどうかはわからないが、そこは俳諧だから創作でいい。
 前句の「音すみて」を刀を鍛える音とする。

 三十三句目。

   われ三代の刀うつ鍛冶
 永禄は金乏しく松の風      仙花

 『初懐紙評注』には、

 「永禄は其時代を云はんため也。鍛冶名人多くは貧なるもの也。仍て金乏しといへる也。前句の噂のやうにて、一句しかも明らかに聞え侍る。是等よく心を付翫味すべし。」

とある。
 永禄は戦国時代のさなかで、川中島の戦い、桶狭間の戦い、永禄の変などが起きている。刀鍛冶から合戦、永禄の頃という連想で展開している。
 「金(こがね)乏しく」は、名人であるが故に良い刀を作ること以外は眼中になく、金銭感覚に乏しいがため、結局は貧乏暮らしをしているということか。「松の風」という景色を添えて逃げ句にする。

 三十四句目。

   永禄は金乏しく松の風
 近江の田植美濃に恥らん   朱絃

 『初懐紙評注』には、

 「只上代の体の句也。金乏しきといふより昔をいふ句也。昔は物毎簡略にて、金も乏しき事人々云伝へ侍る。美濃近江は都近き所にて、田植えなどの風流も、遠き夷とはちがふ成べし。」

とある。
 前句の「永禄」を捨てて、ただ昔のことぐらいの意味とし、「金乏しく」も今みたいに経済が発達してなかった頃」ぐらいの意味とする。昔の田植えはお祭で、笛を吹き鼓を打ち、田植え歌の風流を楽しんだ。
 芭蕉の時代よりは後になるが、彭城百川の『田植図』に昔の田植えの様子が伺われる。おそらく元禄二年に芭蕉が『奥の細道』の旅で見た「奥の田植え歌」もこんなだっただろう。
 芭蕉の時代でも田植えの風流は廃れていなかったのなら、永禄の昔の近江の国の田植えはさぞかし盛大だったに違いない。
 「遠き夷とはちがふ成べし」という言葉には、『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」という思想が込められている。田植えを単なる労働ではなく、村をあげてのお祭とし、風流を楽しむ所に人間らしさがあり、禽獣夷狄とは違うんだという誇りがある。
 逆に言えば、今日の我々の近代的労働は禽獣夷狄に堕していると言っていいのかもしれない。禽獣夷狄とは言わないまでも「歯車」や「ロボット」だのに成り下がっているのは確かだろう。

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