今日は天気予報では晴れて暖かくなると言ってたが、朝から霧が立ちこめ、昼過ぎてもどんより空は曇っていて、日差しがない分暖かさもそんなに感じられなかった。
それでは「日の春を」の巻の続き。
十句目。
朝まだき三嶋を拝む道なれば
念仏にくるふ僧いづくより 朱絃
朱絃についてはよくわからない。『蛙合』では、
僧いづく入相のかはづ亦淋し 朱絃
の句を詠んでいる。
『初懐紙評注』には、
「此句、僅に興をあらはしたる迄也。神社には仏者を忌む物也。参詣の僧も神前には狂僧也。三嶋は町中に有社なれば、道通りの僧もよるべきか。」
とある。神社に似つかわしくない僧を登場させ、狂僧としている。
舞台も三嶋に転じている。東海道は三嶋大社の前を通る。
十一句目。
念仏にくるふ僧いづくより
あさましく連歌の興をさます覧 蚊足
蚊足は京の談林系で江戸に移住し蕉門になったという。
『初懐紙評注』には、
「連歌の興をさます、付やう珍し。度々我人の上にもある事にて、一入珍重に侍る。」
とある。一心不乱に念仏を唱える声が聞こえてきて、連歌が一時中断されたりするのは、「度々我人の上にもある事にて」とあるように俳諧興行でもしばしば起こることで、俳諧興行あるあると言ってもいいのだろう。
連歌も俳諧もお寺で興行することが多い。
十二句目。
あさましく連歌の興をさます覧
敵よせ来るむら松の声 ちり
ちりは千里とも書き、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅に同行している。そこでは、
「何某ちりと云いけるは、このたびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉(ほうゆうしんある)かなこの人。
深川や芭蕉を富士に預ゆく ちり」
と紹介している。
旅の途中、大和国竹内のちりの実家にも泊り、
わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく 芭蕉
の句も詠んでいる。
句の方は『初懐紙評注』には、
「聞えたる通別意なし。連歌に軍場を思ひ寄せたるなり。」
とある。連歌は和歌同様「力を入れずして天地を動かす」道で、基本は平和主義だ。敵の軍勢が攻めてくる音が聞こえれば、それこそ連歌どころではない。
ただ、戦国時代には紹巴のような大名にもてはやされた有名連歌師がいたし、戦国大名の中にも連歌を好むものはいくらもいた。明智光秀の備前・備中への出陣の際の戦勝祈願の天正十年愛宕百韻は特に有名で、
ときは今天が下しる五月哉 光秀
を発句とし、紹巴が、
水上まさる庭の夏山
花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
という第三を詠んでいる。
十三句目。
敵よせ来るむら松の声
有明の梨子打ゑぼし着たりける 芭蕉
さてようやく芭蕉さんの登場になる。敵が来るなんてあまり風雅でない前句にどう対処したか、自身の解説(初懐紙評注)を見てみよう。
「付様別条なし。前句軍の噂にして、又一句さらに云立たり。軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる付やう軽くてよし。一句の姿、道具、眼を付て見るべし。」
付け方としては特に変わったものではない。前句が軍(いくさ)だから、梨子打ゑぼしを登場させたという。
ネットで梨打烏帽子を調べると、「中世歩兵研究所 戦のフォークロア」というサイトがあり、「萎烏帽子」というページにこうあった。
「烏帽子の中でもっとも原初的で、もっともありふれた物が「萎烏帽子【なええぼし】」(もしくは「揉烏帽子【もみえぼし】」「梨打烏帽子【なしうちえぼし】」)である。
烏帽子が平安後期から漆で塗り固められ、素材も紙などに変わって硬化していく中で、「萎烏帽子」は薄物の布帛を用いた柔らかいままの姿をとどめ、公家が「立烏帽子」、武家が「侍烏帽子」を着用する中で、「萎烏帽子」は広く一般の成人男子に、また戦陣における武家装束としても着用された。」
これを読めば「軍に梨子打ゑぼしとあしらいたる」の意味がわかる。
「あしらう」というと今では「適当にあしらう」なんて慣用句があるが、和食では食材の組み合わせで彩を添えることをいい、連歌では付き物によって付けることをいう。
特に本説などによる深い意味を持たせず、ここでは軽くあしらわれている。「軽い」というのは出典の持つ深い意味を引きずらずに、出典を知らなくても意味が通るように付けることをいう。
芭蕉の「軽み」の風はこれよりまだ数年先のことだが、それ以前の蕉風確立期でも、付け句に関しては展開を楽にするために軽いあしらいを推奨していた。「一句の姿、道具、眼を付て見るべし」とは、これが付け句の手本だと言っているようなものだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿