昨日は大磯の高麗山、浅間山、湘南平を歩いた。
湘南平は標高181メートルの低山だが、付近に高い山がないせいで360度の大パノラマが楽しめる。西に富士、箱根、足柄、丹沢、南に伊豆、初島、大島、利島、東に房総半島、三浦半島、江ノ島、横浜のランドマークタワー、北には東京の高層ビル郡とスカイツリーが望める。
湘南平では早咲きの梅も咲いていた。
さて、今年もそろそろまた俳諧を読んでいこうと思う。
新年ということで貞享三年の其角の歳旦吟、
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉 其角
を発句とした芭蕉も含めた十八人の連衆による百韻、これに挑戦してみたい。
この百韻の前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている。いわゆる蕉風確立期、古池の句が発表された頃の評風を知るうえで貴重な資料だ。
その発句だが、『初懐紙評注』には、
「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」
とある。
「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。
日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。
脇。
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
砌に高き去年の桐の実 文鱗
文鱗は堺の人で芭蕉に釈迦像を贈ったという。貞享元年に、
文鱗生、出山の御像を送りけるを安置して
南無ほとけ草の台も涼しけれ 芭蕉
の句を詠んでいる。
『初懐紙評注』には、
「貞徳老人の云。脇体四道ありと立られ侍れども、当時は古く成て、景気を言添たる宜とす。梧桐遠く立てしかもこがらしままにして、枯たる実の梢に残りたる気色、詞こまやかに桐の実といふは桐の木といはんも同じ事ながら、元朝に木末は冬めきて木枯の其ままなれども、ほのかに霞、朝日にほひ出て、うるはしく見え侍る体なるべし。但桐の実見付たる、新敷俳諧の本意かかる所に侍る。」
とある。
松永貞徳の脇体四道はよくわからない。ネットで調べると四道ではないが「俳諧」というサイトに「白砂人集」が紹介されていて、そこには「脇に五つの仕様あり。一には相対付、二つには打越付、三つには違ひ付、四つには心付、五つには比留り。」とあった。
実はこれと同じものが戦国時代の連歌師紹巴の『連歌教訓』にある。
「一、脇に於て五つの様あり、一には相対付、二には打添付、三には違付、四には心付、五には比留り也、(此等口伝、好士に尋らるべし)、大方打添て脇の句はなすべき也、
年ひらけ梅はつぼめるかたえかな
雪こそ花とかすむはるの日
梅の薗に草木をなせる匂ひかな
庭白妙のゆきのはる風
ちらじ夢柳に青し秋のかぜ
木の下草のはなをまつころ
か様に打添て脇をする事本意成べし、脇の手本成べし、」
(『連歌論集、下』伊地知鉄男編、一九五六、岩波文庫p.263~264)
「白砂人集」は肝心な「打添」を「打越」と誤っているし、打添以外は滅多に用いられない。
打添は発句の趣向の寄り添うような付け方で、「年ひらけ」に「春の日」、「梅はつぼめる」に「雪こそ花」と付ける。二番目の例も「梅の薗」に「庭白妙」、「なせる匂ひ」に「春風」と打ち添える。三番目の例も「ちらじ夢」に「はなをまつころ」と打ち添える。
貞門時代の芭蕉も参加した寛文五年の貞徳翁十三回忌追善俳諧の脇は、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
鷹の餌ごひと音おばなき跡 季吟
で、これも「かるれどかれぬ紫苑(師恩)」に「音をばなき(亡き)跡」というふうに打ち添えている。
延宝四年の芭蕉の発句に対する信章の脇も、
此梅に牛も初音と鳴つべし
ましてや蛙人間の作 信章
というふうに、「牛も初音」に「ましてや‥」と打ち添える。
発句が次第に明白な挨拶の意味を失ってくると、脇も打ち添えようがなくなって景気で付けるようになる。
延宝六年の芭蕉発句に付けた千春の脇は、景気付けの走りといえよう。
わすれ草煎菜につまん年の暮れ
笊籬味噌こし岸伝ふ雪 千春
「わすれ草」に年忘れを掛けた芭蕉の発句に何ら打ち添えるのでもなく、「煎り菜摘み」に「雪」を景気で出してくる。これは、
君がため春の野に出でて若菜摘む
我が衣手に雪は降りつつ
光孝天皇
の歌を踏まえている。
さて、文鱗の脇に戻ってみると、
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉
砌に高き去年の桐の実 文鱗
初春の句に初春の情景として去年からなっている桐の実を付けているのがわかる。「桐の木」と言わずに「桐の実」というところで桐の実だけが残って葉の落ちた木を、子規流に言えばマイナーイメージで描いている。
残った桐の実に新しい年の光が差して輝く様を「高き」という言葉を添えることで際立たせる。
こういう脇の付け方を、「新敷俳諧の本意かかる所に侍る」と芭蕉は考えていた。
この景気で受ける脇の付け方は、すぐの他門にも広まったのだろう。和及(貞門系)の元禄二年刊の『俳諧番匠童』にもこうある。
「一 脇 古流は連歌のごとく、体さまざま習有れども、今は大概発句景気なれば、又景気にてあしらひてよし。」(『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、岩波書店p.501)
0 件のコメント:
コメントを投稿