2020年7月30日木曜日

 曾良の『旅日記』の六月十日の所にはこうある。

 「十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎麦切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入被迎。又、大杉根迄被送。祓川ニシテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルルニ不及。申ノ刻、鶴ケ丘長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。」

 午前中に飯道寺正行坊がやってきて会ったとあるが、どういう人かはよくわからない。ただ、江州(近江国)飯道寺というと、四日の所に江州円入とあったから、円入の知り合いなのだろう。
 昼前に本坊に行って、また蕎麦切を食べる。茶はともかく、お寺で昼から酒飲んでたのか。二時ごろまで盛り上がったのだろう。
 これがお別れ会になったのか、芭蕉と曾良は鶴岡に向かう。本坊を出て円入は道に出る所まで送ってゆく。「大杉根」はよくわからないが爺杉のことか。祓川で手を洗い清め若王寺宝前院を出てゆく。手向の左吉(露丸)の家から芭蕉さんだけが馬に乗り、「光堂」まで釣雪が送っていく。もちろん中尊寺ではなく、岩波文庫の萩原注によれば手向の正善院前の黄金堂だという。そこから芭蕉と曾良と露丸は鶴岡に向かう。
 夕方近く鶴岡の長山五良右衛門宅に到着する。お粥を食べて一休みし、夜になってから興行を行う。
 長山五良右衛門は『奥の細道』本文には「長山氏重行」とある。
 さて、この時の発句。

 めづらしや山をいで羽の初茄子  芭蕉

 「山を出で」に「出羽」を掛けて、出羽三山を下りてここ鶴岡で初めて取れた茄子をご馳走になってめずらしや、となる。
 こういう掛詞を使った技巧的な句は、貞門時代と蕉風確立期の古典回帰の時期に特徴的にみられる。

 涼風やほの三ヶ月の羽黒山    芭蕉

の句も「ほの見る」に「みか月」を掛けているし、

 雲の峰幾つ崩レて月の山     芭蕉

の句も「崩れて尽きぬ」と「月の山」を掛けている。そしてこのあと酒田では、

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

と二つの地名に「暑さ」を「吹く」を掛けている。
 脇は長山五郎右衛門こと長山氏重行が詠む。

   めづらしや山をいで羽の初茄子
 蝉に車の音添る井戸       重行

 蝉の鳴く声に井戸の滑車の音がするだけの井戸端にすぎません、と謙虚に応じる。
 時代劇でよく見るあの滑車のついた井戸は「車井戸」という。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 滑車(かっしゃ)に縄をかけ、その両端に釣瓶(つるべ)をつけて、縄を上下することで水を汲むしかけの井戸。車井。くるまき。
  ※雑俳・天神花(1753)「長みじか京はのこらず車井戸」

とある。
 第三。

   蝉に車の音添る井戸
 絹機の暮閙しう梭打て      曾良

 「閙」は「さわがし」とも読むがここでは「いそがし」と読むらしい。「梭」の読みは「をさ」で機織りで横糸を通すシャトルのこと。
 井戸に近い小屋では絹織物を織っていて、せわしげに横糸を通している。鶴岡シルクは近代に入ってからだが、江戸時代にも多少は絹織物も作られていたか。
 四句目。

   絹機の暮閙しう梭打て
 閏弥生もすゑの三ヶ月      露丸

 閏三月があったのは近いところでは貞享三年、『春の日』が刊行され古池の句が大ヒットを記録した年だった。穀雨の後の立夏だけが入る月で閏三月の三日は新暦の四月の下旬になる。
 四句目は軽くということで時候を付ける。
 曾良の『旅日記』に「発句出テ一巡終ル。」とあるように十日はこの四句で終わる。

2020年7月29日水曜日

 最上川は五月雨を集めすぎて大変なことになっている。大石田といえば、

 さみだれをあつめてすずしもがみ川 芭蕉

を発句とする歌仙興行の行われた一榮宅のあった所だ。
 それでは「有難や」の巻の続き、挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   鍛冶が火残す稲づまのかげ
 散かいの桐に見付し心太      露丸

 「心太」はここでは「こころぶと」と読むようだ。「太」を「てい」と読んで「こころてい」となって、それが「ところてん」になったとも言われる。
 意味は分かりにくい。鍛冶が残していった火に当たってちょうどいいくらいの夜寒になって、空には稲妻がちらちらと見える頃には、心太もあまり食べなくなりこうして時は移ろいで行く、ということで、桐の葉の散る甲斐を見つけた、ということなのだろうか。
 三十二句目。

   散かいの桐に見付し心太
 鳴子をどろく片藪の窓       釣雪

 鳴子は田畑を鳥獣から守るための音を立てる板。
 「片藪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 道に沿って片方にある藪。
  ※宇治拾遺(1221頃)四「かたやぶにかくれゐて見れば、鳳輦の中に、金泥の経一巻、おはしましたり」

とある。
 窓は明かり取りとか換気用の窓で通りの方に面して開いているのだろう。通りの向こうは藪で鳥獣除けの鳴子が仕掛けてある。
 そこに住んでいる人は慣れているのだろうけど、旅人は何が起きたのかとびっくりする。
 三十三句目。

   鳴子をどろく片藪の窓
 盗人に連添妹が身を泣て      芭蕉

 盗人になってでも妹を食わせてゆこうとする兄と、それを心配そうに見守る妹、そういう設定だろうか。
 鳴子が鳴って何か悪いことが起きたかと驚く。
 三十四句目。

   盗人に連添妹が身を泣て
 いのりもつきぬ関々の神      曾良

 奥州街道の白河の関には住吉明神と玉島明神を祀った二つの明神社がある。同じように古い関所には神社があったのだろう。不破の関には関比男明神が祀られていた。逢坂の関にも関明神上下社があり、今は関蝉丸神社になっている。
 盗みを犯して関所を越えて逃げようとする兄と、それに従う妹、関の神々への祈りは尽きない。
 三十五句目。

   いのりもつきぬ関々の神
 盃のさかなに流す花の浪      会覚

 さて、最後の花の定座だが、曾良の『旅日記』にある「花ノ句ヲ進テ、俳、終。」がこのことだったのがわかる。芭蕉さんがそれまで俳諧興行を見ているだけだった別当代会覚阿闍梨に花の句を詠むように勧め、それがこの句だった。
 「花の浪」は桜の枝が風に波打つ様子をいい、「浪の花」だと浪の白いしぶきが花のようだという意味になる。前に宗因独吟「口まねや」の巻の七十句目の所で触れたが、

 桜花散ぬる風の名残には
     水なき空に浪ぞたちける
              紀貫之「古今集」

により、風に揺れる桜を浪に、飛び散る花びらを波しぶきに喩えたもの。
 花見の酒の肴に花の浪を眺めながら、今年も花は散り春は行ってしまうのか思うと、関々の神々に祈らずにはいられない。
 挙句。

   盃のさかなに流す花の浪
 幕うち揚るつばくらの舞      梨水

 前句の酒宴の終わり(打ち上げ)とばかりに燕が空を舞う。これにて「俳、終。」
 そのあと『旅日記』に「ソラ発句、四句迄出来ル。」とあるが、これは不明。
 曾良の『俳諧書留』には、この「有難や」の巻の前に、

   「翁
 雲の峰幾つ崩レて月の山
 涼風やほの三ヶ月の羽黒山
 語れぬ湯殿にぬらす袂哉
 月山や鍛冶が跡とふ雪清水     曾良
 銭踏て世を忘れけりゆどの道
 三ヶ月や雪にしらげし雲峯」

とあるが、この中の曾良の一句が用いられたか。
 芭蕉の三句は会覚に贈った真蹟短冊が残っている。

2020年7月28日火曜日

 昨日の二十四句目の作者「梨水」と書いてしまったが、芭蕉の間違いで、訂正しました。
 それでは「有難や」の巻の続き。梨水の機転でローカルな展開に。

 二十五句目。

   妻恋するか山犬の声
 薄雪は橡の枯葉の上寒く      梨水

 橡(とち)は東北に多い。橡の実は食用になるし、木材は硬くて木目が美しいので家具や椀に用いられる。また樹齢千年の巨木にもなる。『炭俵』の「早苗舟」の巻八十句目に、

   大水のあげくに畑の砂のけて
 何年菩提しれぬ栃の木       孤屋

の句もある。
 山の古木にうっすらと雪が積もると冬の始まりで、やがて雪に閉ざされる季節がくる。この場合の山犬はニホンオオカミかもしれない。
 二十六句目。

   薄雪は橡の枯葉の上寒く
 湯の香に曇るあさ日淋しき     露丸

 前句に刺激されて地元愛に目覚めたか。羽黒の冬の訪れに温泉の湯気に曇る朝日を付ける。雪見の朝風呂でも朝日が曇っていると寂しいか。
 二十七句目。

   湯の香に曇るあさ日淋しき
 鼯の音を狩宿に矢を矧て      釣雪

 鼯は「むささび」と読む。ムササビは夜行性で夜鳴く。その声を聴きながら狩人(マタギの人か)は矢を作り、早朝に狩に出るが、温泉の煙で視界は良くない。
 二十八句目。

   鼯の音を狩宿に矢を矧て
 篠かけしほる夜終の法       圓入

 「篠」は「すず」と読む。「篠懸け」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「修験者(しゆげんじや)が衣の上に着る麻製の法衣。「素襖(すあを)」と似た形に作る。◆深山の「篠(すず)」の露を防ぐために着ることから。」

とある。「しほる」は「しをる」で濡れること。マタギはムササビの声に矢を作り、山伏は夜すがら修行する。向かえ付け。
 二十九句目。

   篠かけしほる夜終の法
 月山の嵐の風ぞ骨にしむ      曾良

 月の定座だがここでは地名の月山を出す。真如の月にちなんだその名だが、修験者には過酷な嵐となることもある。
 三十句目。

   月山の嵐の風ぞ骨にしむ
 鍛冶が火残す稲づまのかげ     梨水

 月山といえば山頂付近に鍛冶小屋があり、芭蕉と曾良は見てきたばかりだった。前句の嵐を受けて稲妻の光る中で鍛冶屋が作業を終え、火だけが灯っている。

2020年7月27日月曜日

 「有難や」の巻の続き。

 八日は俳諧の方は一休みして九日に興行の続きが行われる。曾良の『旅日記』にはこう記されている。

 「九日 天気吉、折々曇。断食。及昼テシメアゲル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。」

 この日は晴れ時々曇りで、午前中は五日と同様断食シテ、この日は昼に素麺を食べる。
 午後から俳諧興行の続きを行うと、会覚から飯と酒の差し入れがある。夕暮れまで興行が行われた。
 それでは二の懐紙の表、十九句目。

   的場のすゑに咲る山吹
 春を経し七ッの年の力石      芭蕉

 的場は弓矢の練習場だった。武家の子供たちがここで練習したのだろう。片隅には去年七つになる子供が持ち上げた力石が置かれている。
 力石は今でも神社に行くと見られるが、神社にあるのは大人用の、祭りの時などに力比べをするためのものであろう。子供が持ち上げる力石はわざわざ子供用に用意したものか。
 二十句目。

   春を経し七ッの年の力石
 汲ていただく醒ヶ井の水      露丸

 醒ヶ井は近江にある中山道の宿で、琵琶湖と関ヶ原の間にある。日本武尊が伊吹山の神(白猪とも大蛇ともいう)と戦って敗れ、ここの水で傷を癒したという話が記紀に記されている。ザコだと思ってたら実はラスボス級だったというのが敗因のようだ。これが原因で結局日本武尊は亡くなることになる。
 力石を持ち上げていた子供も、いつか大人になり、戦いに敗れる日が来る。
 二十一句目。

   汲ていただく醒ヶ井の水
 足引のこしかた迄も捻蓑      圓入

 この日の興行では円入が加わる。四日に蕎麦切りを食べたときに「南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス」とあり、釣雪と会ったときに一緒にいたが、四日の興行には参加してなかった。
 「捻蓑(ひねりみの)」がどういう蓑かはよくわからない。「足引のこしかた迄も」は足引きの山路の来し方までも蓑を着てとなるが、同時に「足を曳き、腰肩までも捻り」となる。
 二十二句目。

   足引のこしかた迄も捻蓑
 敵の門に二夜寝にけり       曾良

 隠れ蓑という言葉があるように、蓑は正体を隠すのに用いられる。足を引きずった乞食を装って敵の門に探りを入れる。
 二十三句目。

   敵の門に二夜寝にけり
 かき消る夢は野中の地蔵にて    露丸

 て止めの場合は後ろ付けでもいいので、「敵の門に二夜寝にけり」の結果として「かき消る夢は野中の地蔵にて」と読んでもいい。返り討ちにあって野中の地蔵になったのだろう。
 二十四句目。

   かき消る夢は野中の地蔵にて
 妻恋するか山犬の声        芭蕉

 妻恋というと鹿が思い浮かぶが、前句のお地蔵さんに墓場のイメージがあるなら犬の声は付き物だ。
 この場合の山犬は野良犬のことで狼ではないだろう。生類憐みの令で野良犬が増えて問題になっていたともいう。

2020年7月26日日曜日

 朝から雨が降っていたが、上がるとクマゼミのショワショワいう声が聞こえる。
 晴れたかと思ったら雷が鳴り不安定な天気だ。
 ところで大阪の吉村さんはまだ寝ているのかな。

 X感染症対策をやりながら、社会・経済活動を元に戻していく。
 〇感染症対策をやりながら、社会・経済活動を変えてゆく。

 経済のために感染症対策をなおざりにするのではなく、ロックダウンなどの強力な感染症対策にも耐えられるような経済を作らなくてはならない。それが成功した国だけが生き残る。あと半年もすれば結果は出るだろう。
 感染症対策をやりながら、社会・経済活動を元に戻していくなら、何万人もの死者を出し、人材の喪失と社会全体に広まる恐怖が経済活動をじわじわと圧迫しだす。
 感染症対策をやりながら、社会・経済活動を変えてゆくなら、経済は一時的に停滞してもやがて力強く回復に向かいだす。
 さて、日本はどっち?
 経済をどう変えて行けばいいのかというなら、とっくに答えは出ているはずだ。産業の無人化と地産地消化だ。最低限の人の動きで経済を回す。やればできる、やらねばできぬ何事も。
 スクラップ・アンド・ビルドは日本のお家芸だったはずだ。日本ならできる。日本がやらなければほかの国が先にやって、みじめな敗北になるだけだ。これができない亡国政権なら早く代わってくれ。
 まあ、それはそうとして置いておいて、「有難や」の巻の続き。

 翌日、月山山頂から湯殿山に向かう。曾良の『旅日記』にはこうある。

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニシメカケ・大日坊ヘカカリテ鶴ケ丘ヘ出ル道有)。是ヨリ奥ヘ持タル金銀銭持テ不帰。惣テ取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。
 △ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。
 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

 湯殿山へは月山山頂から西側の尾根を行くことになる。
 山頂からそれほど離れてないところに鍛冶屋敷があった。今でもそこは鍛冶小屋跡で鍛冶稲荷神社がある。芭蕉の『奥の細道』の本文には、

 「谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て爰に潔斎して釼を打終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に釖を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ、道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」

とある。
 牛首はそこから尾根伝いに下ったところにある。今は月山スキー場への分岐点になっている。ここを越えてゆくと今なら月山湖に出る。寒河江ダムの下のあたりが本道寺になる。岩根沢はそれよりかなり東側で、今のハイキングコースでは月山から南東へと降りてゆく道を岩根沢コースと呼んでいる。岩根沢分岐で道が分かれ、左は岩根沢、右は本道寺になる。
 ここにも小屋があり、体を清めるだけの水があったようだ。
 「少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル」とあるのは今の装束場だろうか。「草鞋(わらじ)脱ぎ替え、手繦(たすき)掛けなどして御前に下る。」
 ここの下りから森林に入り急な坂を下ることになる。下ると湯殿山の御前に着く。これは御宝前のことであろう。その先に弘法大師によって開かれた大日坊がある。
 芭蕉の『奥の細道』にはこう記されている。

 「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし、行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。」

 月山の桜は高山植物のタカネザクラ(俗称タケザクラ)というものらしい。雪の中に小さく咲くこの桜を見て芭蕉は行尊の、

 もろともにあはれと思へ山桜
    花よりほかに知る人もなし

の歌を思い起こす。
 そのあと御宝前の御神湯に入り、

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな    芭蕉

の句を詠むことになる。
 「△ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。」は装束場から稜線沿い湯殿山山頂を経て南へ行くと志津へ抜け、そこから寒河江川を下っていくと最上川に出るという情報であろう。その次には「堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。」という山小屋の宿泊料の情報も記されている。
 芭蕉と曾良はここで引き返して昼には月山山頂に戻る。ここで昼飯を食うわけだが、今度は「昼食」となっている。「中食」「昼食」結局どっちでもいいみたいだ。
 四合目の強清水にまで戻ると、そこで羽黒山南谷のほうから弁当を持って迎えに来た人に出迎えられることになる。そして夕暮れまでに南谷に帰ることになる。「甚労ル」、ああ疲れた。
 今のハイキングコースの所要時間だと、弥陀ヶ原から月山、月山から御宝前はともに三時間から三時間半くらいのコースとされている。
 一日目は月山に六時ごろ着いたとして、弥陀ヶ原を出たのは二時半ごろか。遅めの中食だった。
 翌日は朝の五時くらいに山頂を出たとして、八時には湯殿の湯につかり、十二時前には月山山頂で昼食をとる。そうなると弥陀ヶ原に着いたのは三時か三時半くらいか。弥陀ヶ原から合清水まで行き、そこから馬に乗ったにしても、強清水までは四里。時速八キロくらいは出さないと強清水の夕食には間に合わない。そこから南谷まで三里。早駕籠にでも乗ったか、それとも本当に忍者だったのか、二日目の行程はかなりハードだった。そりゃあ「甚労ル」となるわけだ。まあ、当然この日も俳諧などする余裕はない。
 「南谷ニ帰」とあるから三日の所に「南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。」とある別院紫苑寺に宿泊していたことになる。四日の表六句の俳諧興行は本坊で行われ、別院へ帰る。ここは訂正する。
 五日の「羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。」も別院で俳諧興行の続きが行われ、六日はそこからの出発だった。ここも訂正する。」
 『奥の細道』の方の記述に、

 「六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。」

とある。「図司佐吉と云者を尋て」は『旅日記』に「近藤左吉ノ宅ニ着」とあるからここは間違ってない。ただ、そこへの行程が新庄から船で清川を通り、

 「船ヨリアゲズ。一リ半、雁川、三リ半、出羽手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊より帰リテ会ス。」

とあるから、この本坊へ立ち寄ったことが「羽黒山に登る。」に相当するものだろう。申の刻前の夕暮れの空に三ヶ月が見えて、

 涼しさやほの三か月の羽黒山    芭蕉

となったのだろう。
 「雁川」は今日の「狩川」であろう。ここから南へ行くと羽黒町手向に出る。
 近藤左吉宅に着いてそこで近藤左吉こと露丸に「本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡す。本坊ヘ持参」とあり、この和交院が会覚なので、この日は手紙を渡しただけで、会覚に会うのは翌日の蕎麦切りに招待された時だったと思われる。
 湯殿山から帰った翌日の記述は短い。

 「八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院御入。申ノ刻ニ至ル。」

 昼から本坊の会覚を訪ね、夕暮れまでそこで過ごす。

2020年7月25日土曜日

 連休三日目。今日は旧暦の六月五日。曇り時々雨。

 水無月六日の曾良の『旅日記』には、こう記されている。

 「六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小やがけ也)。弥陀原、こや有、中食ス。(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」

 好天に恵まれて、芭蕉、曾良御一行は月山を目指すこととなった。『奥の細道』の本文には、

 「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」

 「八日」は芭蕉の記憶違いであろう。この種の間違いは『奥の細道』のあちこちに見られる。芭蕉はあくまで自分の記憶で『奥の細道』を書き、曾良の『旅日記』と照合することはなかったのだろう。書いたのが三年後の元禄五年だから、記憶違いがあるのもしょうがない。

 「木綿しめ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 こより、または白布で編んだ紐で輪を作り、首にかける修験袈裟(しゅげんげさ)。
  ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)出羽三山「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて」

とある。「宝冠」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「③ (「法冠」とも書く) 五智宝冠または八葉蓮華をかたどった山伏・修行者が着用したかぶりもの。
  ※俳諧・曾良随行日記(1689)日記本文「浄衣・法冠・しめ斗にて行」

とある。
 宝冠は白い布を頭に巻いて結んだようなもので、木綿注連は縄状のものを首からかける。普段の旅姿にこの二点を加えたスタイルだったのだろう。もちろん二人で登るような無謀なことはせず、強力が付き従う。ガイドと荷物持ちを兼ねていたのだろう。
 今日では八合目の弥陀ヶ原まで道路が通っているが、当時もこの少し手前の七合目高清(今の合清水)まで馬で行けたようだ。
 道路ができる前の道筋は「山形県鶴岡市羽黒町観光協会ブログ」で写真入りで辿ることができる。
 おそらく朝早く手向荒町の露丸亭を出て、馬で合清水に向かったのだろう。馬は馬子に曳かれて尾根伝いの道をゆっくりと進む。
 「三リ」とあるから三時間後くらいには四合目の強清水に着く。小月山(おづきやま)神社のあるところが二合目だから、それよりは先にある。その名の通り湧き水があり、休憩場所になっていた。ここから先が急な上り坂になり、上ると視界が開け、鳥海山が見えるという。
 六合目の平清水は今でも避難小屋があり、少し前まではキャンプ場もあった。
 七合目の合清水で弥陀か原高原へと一気に登ってゆく途中にある。かつては馬の終点だったため小屋があったようだ。ここから更に登り高原に出ると、今では高山植物の咲き乱れる高原だが、江戸の寒冷期には至る所に雪の残る雪原だったのではないかと思う。『奥の細道』の「氷雪を踏みてのぼる事八里」もあながち誇張ではなかったのだろう。
 弥陀ヶ原にも小屋があって昼食をとる。当時は朝餉と夕餉の間のという意味で「中食」だったか。持ってきた弁当でも食べたのだろう。
 「(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。」とあるように、この高原は氷雪踏み分けてゆく難所だった。「フダラ」は雨告山の方が西補陀落、藁田禿山(わらたかむろやま)の方が東補陀落と呼ばれているように、この高原全体が補陀落だったのかもしれない。御浜池は藁田禿山の先にある。濁沢は御浜池より一つ南側の谷にある。これらへの道への分岐点があり、そのつど強力さんが解説してくれたのだろう。
 「御田有。行者戻リ、こや有。」の御田は御田原で弥陀ヶ原からそれほど離れていない。「行者戻リ」は行者返しで大きな岩を上る険しい道で、役行者(えんのぎょうじゃ)がここで引き返したという伝承があるらしい。ここを上ると山頂も近い。
 山頂に着いたのは申の刻で日の沈むころだった。今だと出羽三山神社の月山本宮だが、当時も神仏習合した月山権現の御室があったのだろう。角兵衛小屋があってそこに宿泊する。
 曾良の『旅日記』に「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」とある。岩波文庫の『おくのほそ道』の萩原恭男注は、ブロッケン現象のこととしている。
 芭蕉の『奥の細道』には「息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」とあるが、六日の月だから月は半月までいかずに西の方にあったと思われる。そのあと「笹を舗、篠を枕として、臥て明るを待。」と野宿を匂わせているが、ちゃんと山小屋に泊まっている。
 この日は天気も良く、夏の入道雲がもくもくと現れては大きくもならずに消えて、それを繰り返してたのだろう。霧はかからず雲も広がらず、来光(ブロッケン現象)は見られなかったが、夜には月山の名前の通りの月も見えた。

 雲の峰幾つ崩て月の山       芭蕉

と、この句で締めくくっておくことにしよう。

2020年7月24日金曜日

 早朝にはヒグラシが鳴いていたらしい。その後もアブラゼミやミンミンゼミの声が聞こえてきて夏を盛り上げてくれているが、相変わらず空は晴れない。
 テレビはGoToキャンペーンで旅行している人の喜びの声を伝え、古い映像まで使って飲食店の賑わいをアピールしている。コロナで日本を混乱に陥れて革命でも起こす気でいるのか。みんなが自粛しないでひゃほーっとばかりに遊び歩いているのが痛快でしょうがないんだろうな。
 まあ、気持ちだけは旅気分で、「有難や」の巻の続き。

 十三句目

   豆うたぬ夜は何となく鬼
 古御所を寺になしたる檜皮葺    芭蕉

 檜皮葺はウィキペディアによれば、

 「飛鳥時代より寺院の建築技術のひとつとして瓦葺が伝来し、寺院の建物の多くは瓦葺きが用いられたが、檜皮葺は付属的な建物の屋根に用いられた。
 また、奈良時代・平安時代では公的な建築物が瓦葺きだったのに対し、私的な建築物では檜皮葺が用いられた。例えば朝廷の公的な儀式の場である大極殿は瓦葺きであったが、天皇の私邸である紫宸殿や清涼殿は檜皮葺である。また平安時代以降の貴族の私邸である寝殿造も檜皮葺である。
 伝来当初は瓦葺がより格式の高い技法であったが、平安時代以降は国風文化の影響もあり、檜皮葺が屋根葺工法の中で最も格式の高い技法となった。平安時代中期以降は、公的儀式の場も瓦葺の大極殿から、檜皮葺の紫宸殿に移動している。」

ということで、御所の紫宸殿などに用いられてきた。
 ここでいう古御所がどこの御所かは定かでないが、御所の建物がそのままお寺として用いられたなら、昔ながらの檜皮葺が残っていてもおかしくない。
 芭蕉は平泉の伽羅御所のあたりも訪ねている。曾良の『旅日記』には「さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル」と記されていて、秀衡屋敷は伽羅御所(現在の柳之御所遺跡)と思われる。『奥の細道』本文にも「秀衡が跡は田野になりて」とある。せめて檜皮葺の建物の一つでも残っていてくれればというところか。中尊寺の金色堂は木瓦葺きだった。
 現存しないが京都の御所のあたりに、当時は檜皮葺のお寺があったのかもしれない。やや離れているが千本釈迦堂(大報恩寺)には檜皮葺の建物が残っている。ここではおかめ福節分が舞や狂言を交えて華やかに行われている。
 十四句目。

   古御所を寺になしたる檜皮葺
 糸に立枝にさまざまの萩      梨水

 糸萩は糸のように枝の細い萩で、立枝(たちえ)は高く枝の伸びる様。萩にもいろいろな品種があり、古いお寺ならそうしたものが植えられていてもおかしくない。
 十五句目。

   糸に立枝にさまざまの萩
 月見よと引起されて恥しき     曾良

 萩は臥すに通じる。
 月の夜は男が月明かりを頼りに通ってくる夜でもある。そうして床に伏してお楽しみになったのだろう。そしてうとうとしていると起こされる。何となくきまりが悪い。「さまざまの萩」は庭の眺めか、それとも臥した様の比喩か。
 十六句目。

   月見よと引起されて恥しき
 髪あふがするうすものの露     芭蕉

 寝乱れた髪に濡れた薄衣、引き起こされた時の状態であろう。
 十七句目。

   髪あふがするうすものの露
 まつはるる犬のかざしに花折て   露丸

 宮本注は狆(ちん)だという。愛玩犬なら花の簪もあったのかもしれない。高価な犬で遊女に好まれた。
 足もとにまつわりついてくる狆に、花の枝を折って頭にのせてやる。可愛い。
 十八句目。

   まつはるる犬のかざしに花折て
 的場のすゑに咲る山吹       釣雪

 的場は弓場、矢場とも言い、本来弓矢の練習場所だが、江戸時代には次第に寺社の縁日などの射的などをも指すようになった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 「(1)古くは弓術の練習場をさし、この意味では弓場(ゆば)、的場(まとば)ともいう。武家では長さ弓杖(きゅうじょう)33丈(約76メートル)、幅は同じく1丈(約2.3メートル)と決められ、射場には(あずち)を築き、これに的をかける。矢場は城内や屋敷内、または人家の少ない郊外に設けられた。
 (2)江戸時代には、矢場は料金をとって楊弓(ようきゅう)(遊戯用小弓)を射させた遊戯場をさす。これは江戸での呼び名で、京坂では一般に楊弓場といった。楊弓は古くから行われ、主として公家(くげ)の遊戯であったが、江戸時代に民間に広がり、日常の娯楽として流行をみた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころには寺社の境内や盛り場に矢場が出現、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気をよんだ。間口(まぐち)1、2間のとっつきの畳の間(ま)から7間(けん)半(約13.5メートル)先の的を射る。的のほか品物を糸でつり下げ、景品を出したが、矢取女のほうを目当ての客が多かった。的場の裏にある小部屋が接客場所となり、矢場とは単なる表看板で、私娼(ししょう)の性格が濃厚になった。1842年(天保13)幕府はこれを禁止したが、ひそかに営業は続けられ、明治20年代まで存続した。のちに、矢場の遊戯場の面は鉄砲射的に、私娼的性格は銘酒屋に移行したものもある。」

とある。
 この場合は前句を大きな屋敷に住むか仕える女性として、庭の的場の端に山吹が咲いていて、ということだろう。
 庶民の矢場は元禄の頃から広まっていったらしいが、最初は健全な娯楽だったのだろう。後にいかがわしい場所になったことから、一説に「やばい」は「矢場」から来たともいう。
 山吹のかざしは宗因独吟「口まねや」の七十句目に、

   蛤もふんでは惜む花の浪
 さつとかざしの篭の山吹      宗因

の句がある。『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りが本歌になる。

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
   やまぶきを上にさして書付けて侍りける
 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
     ゐでのわたりの物と見るかな
                 家綱
   返し
 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
     はまくりかへしあはれとぞ思ふ
                 俊頼」

 この場合は手紙に添えるかざし。
 さて、翌日はいよいよ月山に向けて出発。

2020年7月23日木曜日

 連休初日は雨。でもコロナの感染拡大を防ぐ意味では恵みの雨か。
 重症者や死者が少ないということで妙な楽観論が広がっているが、危機管理の基本は最悪の事態を想定すること。楽観論で行動して、あとで「あんななるとは思わなかった」と言っても遅い。
 まず検査数が増加したことで、一人感染者が見つかったらその周囲を片っ端から調べるようになったことで、感染から日の浅い感染者が検査を受けるようになった。そのため軽症や無症状でもこれから重症化する可能性がある。
 ちょっと前までは重篤化してから検査を受ける例が多かったので、感染してからそれがカウントされるまで二週間のタイムラグがあると言われていたが、このタイムラグはかなり少なくなっている。その分検査から重篤化するまでのタイムラグが予想される。今は重症者が少なくても二週間後に一気に増える可能性がある。
 さらに重篤化しても人工呼吸器によって最長で一か月くらい生かしておくことができるから、死者の数はさらに遅れて増加する。
 コロナが弱毒化したかどうかは二三週間待ってみれば答えは出る。重症化の増加が起こり、それに遅れて死者も増加するようなら、コロナは弱毒化していない。結果が出るまでは警戒を怠るべきではない。
 それでは「有難や」の巻の続き。

 元禄二年水無月五日、曾良の『旅日記』にはこうある。

 「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。」

 断食のところは岩波文庫の萩原恭男注に「三山巡礼のために断食した」とある。
 ただ、一日二食だった時代に朝飯を抜いて結局昼に食べているならあまり変わらない気もする。まあ、前日には朝夕とは別に昼に蕎麦を食っているから、それに比べれば少ないが。ただでさえ夏は食欲が減退するし、また蕎麦を食べたのかな。
 夕飯もまだ明るいうちに食ったのだろう。それから神前に向かう。当時は神仏習合で、若王寺宝前院に隣接してたのであろう。明治の廃仏毀釈と修験道の禁止で羽黒山には出羽(いでは)神社が作られ、その後出羽三山神社に統合された。
 神社に参拝した後、「帰」とあるから近藤左吉亭で興行の続きが行われたのだろうか。
 付け順は釣雪・芭蕉・露丸・曾良・釣雪・露丸・芭蕉・梨水・曾良・芭蕉・露丸・釣雪で特に規則性がないところから出がちで行われたようだ。珠妙がはずれている。
 それでは初裏。
 七句目。

   北も南も碪打けり
 眠りて昼のかげりに笠脱て     釣雪

 「眠りて」は「ゐねむりて」と読む。「昼のかげりに笠脱て眠りて」の倒置で、旅体に転じる。
 八句目。

   眠りて昼のかげりに笠脱て
 百里の旅を木曾の牛追       芭蕉

 旅体ということで場面を木曾に転じる。姨捨山に行ったときに中山道で荷物を運ぶ牛を目にすることが多かったか。
 九句目。

   百里の旅を木曾の牛追
 山つくす心に城の記をかかん    露丸

 前句を木曽義仲の倶利伽羅峠の戦いの「火牛の計」に取り成すのは、まあお約束といったところか。『源平盛衰記』に記された伝説で、ウィキペディアには、

 「しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。」

とある。
 山城というと「木曽義仲の隠れ城」と言われている楡沢山城が知られている。木曽義仲の功績を記録にとどめようということなのだろう。
 芭蕉も木曽義仲のファンで大津義仲寺をたびたび訪れ、無名庵を結び、最後はこの義仲寺に眠ることとなった。
 十句目。

   山つくす心に城の記をかかん
 斧持すくむ神木の森        曾良

 曾良は物騒なことを好まないのか、山城を作るにも御神木には気を付けるように釘を刺す。さすが吉川惟足の門下生だ。
 十一句目。

   斧持すくむ神木の森
 歌よみのあと慕行宿なくて     釣雪

 これは西行の跡を慕ってみちのくを旅する芭蕉と曾良を詠んだ楽屋落ちか。宿がなければ自分で作るしかないと斧をふるうことになりますよと、曾良に向かって言っているのか。曾良もいろいろ苦労はしているが、さすがに斧をふるうことはなかっただろう。
 十二句目。

   歌よみのあと慕行宿なくて
 豆うたぬ夜は何となく鬼      露丸

 「何となく」は「何と泣く」。
 宮本注は、

 草も木も我大君の国なれば
     いづくか鬼のすみかなるべき
            (太平記)

の歌を引用している。「宿なくて」に「鬼」が付く。
 豆は巻かれなくても、結局一年中鬼は外のわけだから、鬼はいつでも泣いているのだろう。ただ「歌よみのあと慕行」が生かされていない。

2020年7月22日水曜日

 「有難や」の巻の続き。

 第三。

   住程人のむすぶ夏草
 川船のつなに蛍を引立て      曾良

 夏草に蛍は付け合いといってもいい。
 須賀川での「かくれ家や」の巻の脇にも、

   かくれ家や目だたぬ花を軒の栗
 まれに蛍のとまる露草       栗斎

 出羽大石田での「さみだれを」の巻の脇にも、

   さみだれをあつめてすずしもがみ川
 岸にほたるを繋ぐ舟杭       一榮

の句がある。
 四句目。

   川船のつなに蛍を引立て
 鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月      釣雪

 川船の綱から鵜飼の連想に持ってゆくが、鵜は潜らずに飛んでいくから鵜飼ではない。夕暮れの景色に三ヶ月を添える。
 曾良の『旅日記』に「三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢、互ニ泣第ス。」とある。曾良の旧知の僧のようだ。『俳諧書留』に「花洛」とあるところからすると京都の人のようだ。尾張の釣雪と同一人物なのか別人なのかはよくわからない。
 曾良は信州諏訪の生まれで、若い頃を伊勢長島で過ごしている。そのあと江戸に出て、芭蕉に出会うわけだから、この時はまだ京都に住んだことはなかったとすれば、伊勢長島の大智院にいたころの旧友か。ならば川船の綱に長良川の鵜飼いを連想するのは自然だったし、「鵜の飛跡」は伊勢長島から大きく羽ばたいた曾良のことを言っているのかもしれない。
 五句目。

   鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月
 澄水に天の浮べる秋の風      珠妙

 三日月を天の川を渡る船に見立て、七夕の頃の句とする。

 天の海に雲の波立ち月の舟
     星の林に漕ぎ隠る見ゆ
              柿本人麻呂(万葉集)

の歌がある。
 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注によれば、珠妙は『旅日記』に「南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円人ニ会ス」とあるところの浄教院の僧だという。
 六句目。

   澄水に天の浮べる秋の風
 北も南も碪打けり         梨水

 秋風に砧は李白の「子夜呉歌」であろう。

   子夜呉歌       李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征
 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。
 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。
 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 萬戸擣を北も南もと言い換える。
 梨水は『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注には「羽黒住の俳人」とある。
 水無月四日は、ここまでで終わり、近藤左吉の宅に戻る。

2020年7月21日火曜日

 今日は旧暦で水無月の朔日。土用の丑の日でもある。
 暑気払いはやはりカレーがいい。「う」のつくものという意味では「ウコン(ターメリック)」も入っているし、クミンは「うまぜり」という別名がある。ちなみに今日のカレーはウシは入ってなくて豚だった。
 カレーは匂いが分からなくなったらすぐわかるので、コロナ対策にもなる。
 さて、水無月の俳諧ということで、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中、六月四日に羽黒山南谷で始まった歌仙興行を見てゆくことにしよう。折から政府のGo Toキャンペーンも始まるということで、羽黒山へ行った気になるのもいいのではないかと思う。行った気になる分には感染を広めることもない。まあ、建前としては来てくださいなのだろうけど、こういう状況だけに空気を読めということなのではないかと思う。
 曾良の『旅日記』の六月四日のところにはこうある。

 「四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎麦切ニテ被招、会覚ニ謁ス。幷南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円人ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢、互ニ泣第ス。」

 この日は表六句で終わったようだ。
 前日に新庄を発った芭蕉と曾良は羽黒手向荒町の近藤左吉の宅に着く。そこから羽黒山の若王寺宝前院に行き、南谷にある本坊の隠居所を訪ねている。別院紫苑寺というらしい。残念ながら若王寺宝前院の大伽藍も別院紫苑寺も今はない。明治元年の神仏分離令で、羽黒山は出羽神社になり、明治五年には修験道が禁止され、見る影もなくなった。
 四日は良い天気に恵まれたが、その分暑かっただろう。蝉の鳴く中を蕎麦切りを食べに南谷の本坊の隠居所へ行き羽黒山の別当代会覚阿闍梨に会う。この人はのちに、別れの時に、

 忘なよ虹に蝉鳴山の雪      会覚

の発句を送ることになる。これをもとにした歌仙「忘るなよ」の巻は「温海山や」の巻とともに去年読んだ。
 蕎麦切りは今日のように細く切ったそばで、それ以前の蕎麦掻に対して言う。
 俳諧はここでまず表六句ができあがることになる。
 まず発句。

 有難や雪をかほらす風の音    芭蕉

 この句は後に、

 有難や雪をかほらす南谷     芭蕉

に改作され、『奥の細道』に収められている。
 羽黒山は標高四一四メートルで雪はないが、隣の月山は一九八四メートルで、夏でも雪渓がある。南風に乗って、あたかも月山の雪渓の雪の香りが運ばれてくるようで涼しげです、という興行開始の挨拶になる。
 季語は風薫るで夏になる。芭蕉はこの直前新庄で、

   御尋に我宿せばし破れ蚊や
 はじめてかほる風の薫物      芭蕉

の脇を詠んでいる。
 これに対し、脇は羽黒手向荒町の近藤左吉(俳号露丸)が詠む。宿の提供者という意味もあるだろう。

   有難や雪をかほらす風の音
 住程人のむすぶ夏草        露丸

 住める程度に夏草を結んだだけの粗末な草庵ですと謙虚に応じる。

2020年7月19日日曜日

 梅雨明けがだいぶ遅れそうだ。
 日本人は一過性の災害には強いが、長期化する者には弱いというところで、何かアニメ映画の「天気の子」の意味が今頃分かったように思える。
 よく「止まない雨はない」というが、「止まない雨はない」のなら、ただじっと止むのを待っていればいい。でも「止まない雨」があるのなら、人間のほうが変わらなくてはいけない。
 コロナもウィルスが根絶されない限り終わらない。免疫は獲得しても長く持たないいから集団免疫の獲得は無理なようだし、免疫が困難ならワクチンも期待できない。どう考えても長期化するのは間違いない。
 だったら変わらなくてはならない。ラッドウィンプスの『新世界』もそんな応援歌なんだとようやくわかった。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。挙句まで。

 名残裏。
 九十三句目。

   包で戻る鮭のやきもの
 定免を今年の風に欲ばりて    野坡

 定免はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 恒常的に賦課を免除されること。また、その田。
  ※大乗院寺社雑事記‐応仁元年(1467)四月二五日「定免一斗宛在所也」
  ② (「免」は、年貢の税率) 江戸時代の徴税法の一つ。過去五年から一〇年の収穫高を平均して税額を定め、一定の年限を限って、その間は豊作・不作にかかわらず、定められた税額を徴収したもの。もし、風水害などの災害が大きい時は、とくに破免検見(はめんけみ)という処置をとって税額を減じた。定免取り。
  ※集義和書(1676頃)一六「無事の時は定免よし」
  ※浮世草子・新可笑記(1688)四「世中の秋にはつよくとり、不作の年にはそれそれの毛見(けみ)の大事是なり。定免(テウメン)の取かた用捨有へし」

とある。年貢の定額制ということか。
 今年は豊作になりそうだから定免にしてもらおうと思って、付け届けに鮭を持って行ったが断られたということか。
 九十四句目。

   定免を今年の風に欲ばりて
 もはや仕事もならぬおとろへ   利牛

 定免だと働けなくなっても取られてしまうということか。
 九十五句目。

   もはや仕事もならぬおとろへ
 暑病の殊土用をうるさがり    孤屋

 「暑病(あつやみ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 夏の暑さのために病気になること。また、その病気。暑気あたり。暑さあたり。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「暑病(ヤミ)の殊土用をうるさがり〈孤屋〉」

とある。熱中症のことか。
 「うるさい」は煩わしい、鬱陶しいということ。今日でも「前髪がうるさい」という言い方は残っている。
 土用は夏バテの季節だった。土用の丑の日にウナギを食べるようになるのは百年くらい後のことになる。
 九十六句目。

   暑病の殊土用をうるさがり
 幾月ぶりでこゆる逢坂      野坡

 暑いときに旅はしたくないもので、涼しくなって久しぶりに逢坂山を越える。
 九十七句目。

   幾月ぶりでこゆる逢坂
 減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし 利牛

 「店(たな)さらし」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①商品が売れずに長い間店頭に置かれたままになっていること。また、その商品。 「 -の品」 「十九世紀で売れ残つて、二十世紀で-に逢ふと云ふ相だ/吾輩は猫である 漱石」
  ②解決を要する問題が、全然手をつけられずに放置されていること。 「 -になっている案件」

とある。
 近江の国には鍛冶屋が多かったのだろう。包丁、農具、武器など、そうそう売れるものではないから、何か月かたって行ってみても同じものがそのまま置いてあったりする。
 九十八句目。

   減もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし
 門建直す町の相談        孤屋

 「町」は「ちょう」と読む。城下町の町人地のことであろう。職業別に分けられて、ここでは鍛治町になる。
 今の東京駅の南側に鍛冶橋という地名があり、かつて鍛冶橋御門があった。寛永六年(一六二九)の建立。京橋側に鍛冶町があった。
 ここではそんな立派な門ではなく、どこかの小さな鍛治町の木戸のようなものかもしれない。寂れているので門だけでも立て直そうということか。
 九十九句目。

   門建直す町の相談
 彼岸過一重の花の咲立て     野坡

 門を立て直し、これから町も繁栄するぞというところで桜の花もようやく咲き始めた様を付ける。
 この一巻をもって、これからこの三人で江戸蕉門を盛り上げていくぞという決意が込められているのかもしれない。
 挙句。

   彼岸過一重の花の咲立て
 三人ながらおもしろき春     執筆

 最後は執筆が締めくくる。三人だけでも面白かったですよ、と。やや上から目線な感じがするけどひょっとして芭蕉さん?

2020年7月18日土曜日

 七十九句目のところで、昔は堤防を意図的に決壊させて水を緩やかにあふれさせることで被害を小さくしようとしたと書いたが、多分江戸時代前期までは河川敷にかなり土地の余裕があったからではないかと思う。
 江戸時代後期になると新田開発が進み、川のすぐ脇までびっしりと水田になってしまったため、氾濫すると水田が水につかり、収穫前なら全滅することになる。だから堤防を高く強固にして水害を防ぐようになった。
 昔の人の知恵は学ぶべきものもあるが、状況が全く違っていることもあるので必ずしも今の治水に適用できるかどうかはわからない。昔だったら大きな田んぼを守るためには片隅の小さな畑を犠牲にすることもできたかもしれないが、今だとその畑の所有者が許すかどうかという問題にもなるだろう。
 火事でも昔は周囲の家を壊して回り、火の手が広がるのを食い止めた。今果たしてそれができるかどうかは難しい。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 八十九句目。

   うんぢ果たる八専の空
 丁寧に仙台俵の口かがり     孤屋

 「仙台俵」は中村注に「仙台米の俵」とある。仙台藩は六十二万石で江戸に多くの米を供給していた。
 深川に仙台藩の蔵屋敷が立つのは四年後の元禄十一年で、この頃はまだなかった。
 米俵の口は藁で編んだ円座状の蓋をかがりつけて止める。出荷用のたくさんの米俵を用意するには、なかなか面倒な作業だ。
 九十句目。

   丁寧に仙台俵の口かがり
 訴訟が済で土手になる筋     野坡

 江戸時代は訴訟社会で土地の境界線争い、水利争い、借金の取り立てなど、様々な訴訟が行われた。
 河川敷の改修のための土地の収用の裁判だったか、新たな土手が完成し、そこから米俵が船に乗せられてゆく。
 九十一句目。

   訴訟が済で土手になる筋
 夕月に医者の名字を聞はつり   利牛

 「聞(きき)はつり」はほんのちょっと耳にすること。
 医者は読み書きが得意なので、お坊さんと同様訴訟の際に書類を作成したり、弁護士のような仕事をする。
 医者は俳諧師と同様号で呼ばれることが多く、あまり名字で呼ばれることはなかったのではないかと思われる。訴訟が済んだ後の夕月の宴で初めて名字を知るということもあったのかもしれない。
 九十二句目。

   夕月に医者の名字を聞はつり
 包で戻る鮭のやきもの      孤屋

 医者への付け届けであろう。名前を聞きかじっただけなので、結局会えなかったか。

2020年7月17日金曜日

 今日は旧暦五月二十七日(辛酉)で五月も今日を含めて残すところ四日になった。相変わらず梅雨空が続く。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 八十五句目。

   足なし碁盤よう借に来る
 里離れ順礼引のぶらつきて    利牛

 「順礼引」は中村注に「木賃宿の客引」とある。
 「ぶらつく」は清濁の表記がなかった時代には「ふらつく」との区別が難しい。同じ言葉だったのかもしれない。
 ぶらぶらと歩きまわるというよりは、手持無沙汰で暇つぶしに碁盤を借りに来るということだろう。
 八十六句目。

   里離れ順礼引のぶらつきて
 やはらかものを嫁の襟もと    孤屋

 「やわらかもの」は絹織物のことで、ウィキペディアによれば、

 「寛永5年(1628年)には、農民に対しては布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻に対しては紬の使用を許された)され、下級武士に対しても紬・絹までとされ贅沢な装飾は禁じられた。」

とあり、

 「農民の服装に対しては続いて寛永19年(1642年)には襟や帯に絹を用いることを禁じられ、さらに脇百姓の男女ともに布・木綿に制限され、さらに紬が許された層でもその長さが制限された。」

とある。紬ではない絹を襟に使っていれば、農工商ではなく武士だということになる。商人が見た目が木綿に似ているということでこっそりと紬を着るということは五句目のところで触れたが、問題は紬も「やわらかもの」に含まれるかどうかだ。
 この場合、順礼引が嫁にやわらかものの襟の服を買ってやったのなら、紬であろう。
 八十七句目。

   やはらかものを嫁の襟もと
 気にかかる朔日しまの精進箸   野坡

 「朔日しま」は中村注に「朔日初めから、早々の意。」とある。
 「精進箸(いもひばし)」は忌(いも)ひ、つまり精進潔斎の時に使う箸で、朔日ごろ、その箸を見て精進潔斎が始まるのを予感させる。嫁の側の忌日だろうか。
 精進潔斎が始まれば男女同衾も禁じられる。
 八十八句目。

   気にかかる朔日しまの精進箸
 うんぢ果たる八専の空      利牛

 「うんぢ果てる」は倦(う)み果てるということ。
 「八専」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「陰暦で、壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの12日間のうち、丑(うし)・辰(たつ)・午(うま)・戌(いぬ)の4日を間日(まび)と呼んで除いた残りの8日。1年に6回あり、雨の日が多いという。仏事などを忌む。」

とある。
 壬子(みずのえね)から癸亥(みずのとい)は十干十二支の甲子(きのえね)に始まり癸亥(みずのとい)で終わる最後の十二日になる。ちなみに今日は辛酉(かのえとり)で明後日の十九日は癸亥(みずのとい)、八専の終わり頃になる。
 精進潔斎も忌日だが、八専も忌日だ。忌日が重なればやれることも少なくうんぢ果てることになる。八専は雨の日が多いということで、空までが鬱陶しい。

2020年7月16日木曜日

 そういえば確か昔読んだ山本七平(AKAイザヤ・ベンダサン:これは「いざや便出さん」から来ているという)の本だったか、日本の災害はみな一過性だと書いてあった。地震、台風、雷などもそうだし、合戦ですら天下分け目の関ケ原の合戦が半日で終わったもんだから、日本人は短期戦には強いが長期の持久戦となると弱いという。
 確かに日本のサッカーも先行逃げ切りでないとなかなか勝てない。太平洋戦争も最初の三か月は破竹の勢いだったが、その後じり貧になると立て直すこともできずにずるずるといってしまった。コロナでもその弱点が出てしまうのか。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   尚云つのる詞からかひ
 大水のあげくに畑の砂のけて   利牛

 「あげく」は連歌や俳諧の挙句からきた言葉だが、なぜか結果が悪いという意味で用いる。
 上流から流れてきた水に含まれる砂質土が川の周りに滞積すると、自然堤防が形成されるが、川の水が増水すると、今とは違い、堤防を意図的に決壊させて水を緩やかにあふれさせることで被害を小さくしようとしたという。
 だから、堤防を決壊させたときに自然堤防を形成する砂質土が畑に流れ込んでくるのは、よくあることだったのだろう。ただ、決壊させる場所によって誰の畑のほうに砂が多いとか、口論になることも多かったのではないかと思う。
 八十句目。

   大水のあげくに畑の砂のけて
 何年菩提しれぬ栃の木      孤屋

 「何年菩提」は中村注には「世に久しいこと。ただ長い間という意味にも用いる。」とある。「菩提」は単なる強調の言葉か。
 たびたび大水に見舞われても、それをものともせずに生き残っている大きな栃の古木がある。
 八十一句目。

   何年菩提しれぬ栃の木
 敷金に弓同心のあとを継     野坡

 「敷金」は今日では家や部屋を借りるときに預ける金のことだが、これは比較的新しいものらしい。
 江戸時代で「敷金(しききん、しきがね)」といった場合は、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 売買・貸借などの契約の際の証拠金。手付け金。また、不動産貸借の際、将来生ずるかもしれない損害の補填の意味で、あらかじめ預けておく保証金。しききん。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「敷銀(シキカネ)にして物を売(うる)共、前より残銀かさむ時は、見切て是を捨(すつ)べし」
  ② 婚姻や養子縁組などの際の持参金。しききん。
  ※浮世草子・懐硯(1687)五「入聟の敷銀(シキガネ)にて此家を継がすべき事をたくみ」
  ③ 香道で、香を炷(た)くときに敷く薄い金銀の板。銀葉。
  ※浮世草子・椀久二世(1691)下「右の手に香箸、左に敷銀(シキカネ)を持ちて、名香聞飽て鼻血たらし」
[語誌]中世では「敷銭(しきせん)」、近世に入って上方では「敷銀(しきがね・しきぎん)」、江戸では「敷金(しきがね・しききん)」といった。

の三つが記されている。この場合は「あとを継(つぎ)」とあるから、②の養子縁組の持参金であろう。
 「弓同心」は弓足軽という徒歩で弓を射る弓兵のこと。鉄砲が飛び道具の主流になってからはやや影が薄くなったが、高度な技術を要することには変わりない。
 持参金をもって弓同心の後を継いで、代々弓の道を受け継いでゆく姿が、屋敷の大きな栃の古木に例えられる。この場合の「菩提」には、先祖の霊を弔う意味も読み取れる。
 八十二句目。

   敷金に弓同心のあとを継
 丸九十日湿をわずらふ      利牛

 「湿」は中村注には「湿疹、ここでは疥癬などの皮膚病。」とある。ほかに「湿」とつく病気には、梅雨時などに体がだるくなる湿邪、リューマチを意味する風湿がある。この場合は湿邪が夏の三か月続いた可能性もあると思う。
 八十三句目。

   丸九十日湿をわずらふ
 投打もはら立ままにめつた也   孤屋

 「投げ打つ」は捨てる、放棄するという意味。「めつた」は滅多で思慮もなくという意味。
 湿邪の時は些細なことにもイライラしては何もする気がなくなる。
 八十四句目。

   投打もはら立ままにめつた也
 足なし碁盤よう借に来る     野坡

 前句の「投打」を囲碁の投了のこととする。負けかかると粘ろうともせずにすぐにかっとなって投了するような囲碁の打ち手はまだまだ初級で、自分の愛用の盤もなく、足のついてない簡易碁盤をしょっちゅう借りに来る。

2020年7月15日水曜日

 我慢できずに夜遊びしたり旅行したりすれば、それだけ感染リスクが高まり、コロナで死ぬ確率も高くなる。じっとしていた人は死ぬ確率は低くなる。ほんのわずかな確率の差でも、最終的には遊び歩いた人の遺伝子は淘汰され、我慢強い人の遺伝子が残る。これがダーウィニズムだ。
 コロナが駆逐されることなく、コロナと共存する時代が長く続くとするなら、人類は引きこもることを苦としない我慢強い人間へと進化する。社会も同様、対面型のサービス業は全体的に衰退し、ネット上のサービスや地道な農業や製造業が生き残る。それを支えるAIやロボット産業は躍進することになる。
 今は斜陽のサービス業の延命に金を注ぎ込むよりは、工場を日本に戻すことを考えたほうがいい。テレワークで都市と田舎の格差がなくなれば、地方の活性化にもつながる。
 Go toよりもBack toを。スーパーシティーよりもスーパーカントリーを。
 観光旅行の時代が終われば、いろいろな地域を渡り歩けるのは一部の特殊な人間となるかもしれない。旅行者は昔の「マレビト」に戻るのではないか。
 和辻哲郎は世界が一つになるために日本人の「外へ向かう衝動の欠如」の克服を説いたが、今の世界は逆に流れている。世界はますます多様化し、統一よりも分割の時代に入っている。今必要なのは「内へ向かう衝動」ではないのか。諸民族がうまいこと棲み分けることで人種差別もなくなり、新世界が生まれる。
 異民族をこき使うのはもうやめよう。自分たちで働こう。諸民族がそれぞれ自分たちの世界を手にすることで、きっと世界は平和になる。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 七十三句目。

   水菜に鯨まじる惣汁
 花の内引越て居る樫原      利牛

 「花の内」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 「読み方:ハナノウチ(hananouchi)
  東北地方での小正月から月末までの間の呼称
  季節 新年
  分類 時候」

とある。昔は東北地方に限らず用いられていたか。四つの花の一つは似せ物の花になる。
 「惣汁」もそうだが、近代俳句では新暦正月が冬に来てしまったため、春夏秋冬とは別に「新年」を部立てしている。俳諧では歳旦や新年の句は当然ながら春になる。
 「樫原(かたぎはら)」は京都の地名で、ウィキペディアには、

 「樫原(かたぎはら)とは、京都市西京区の一部をいう。
 樫原は南北に通じる物集女街道、東西にのびる山陰街道の結節点にあたる。物集女街道は北摂から京都市域に入る幹線道路であり、嵐山に通じる。四条街道と通じ、梅津や桂、嵐山の木材湾港と通じる古くからの商業路である。山陰街道は大枝山方面から丹波地方にのびる幹線道路である。樫原はこのような交通の要衝であることから、古くから街道町として栄えた。丹波方面の計略を命じられた戦国時代の明智光秀による整備の歴史も語られており、幕末には志士を匿う豪商も多く存在した。ちなみに近郊の川島には、志士を経済的に支えた土豪・革嶋氏の拠点がある。」

とある。阪急の桂駅が近い。
 惣汁が京の習慣だったから、正月は町中で過ごし、小正月過ぎてから樫原に引っ越す。
 七十四句目。

   花の内引越て居る樫原
 尻軽にする返事聞よく      孤屋

 「尻軽」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (形動)
  ① 尻の軽いこと。起居の活発なこと。身軽なこと。また、そのさま。
  ※浮世草子・好色一代女(1686)一「身拵へ取いそぎ、駕籠待兼(まちかね)尻(シリ)がるに乗移りて」
  ② 振舞いのかるがるしいこと。かるはずみ。
  ③ 多情なこと。特に、女の、浮気なこと。
  ※仮名草子・御伽物語(1678)二「そふからはかしづくべきなり。世のしりがるなるをんなにきかせてしがな」

とある。今では③以外の意味ではほとんど用いられないが、かつては今で言う「フットワークが軽い」に近い良い意味もあったようだ。
 樫原は交通の要所なだけに、仕事上、こういうところにさっと引っ越してくれるのは使う方としては嬉しいものだ。
 七十五句目。

   尻軽にする返事聞よく
 おちかかるうそうそ時の雨の音  野坡

 「うそうそ時」は明け方や夕暮れの薄暗いころで逢魔が刻とも言う。雨の黄昏に返事する者は人外さんかもしれない。
 七十六句目。

   おちかかるうそうそ時の雨の音
 入舟つづく月の六月       利牛

 旧暦の六月だと梅雨も明けている。熱いカンカン照りの日が続くが夕立も多い。夕立の後には月も出る。
 この頃は灘から運ばれてくる酒も最後の売り切りになり、駆け込み需要で船が増えたのだろう。あとは新酒を待つことになる。
 七十七句目。

   入舟つづく月の六月
 拭立てお上の敷居ひからする   孤屋

 「お上(うえ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 主人の妻や目上の人の妻を敬っていう語。
  「いかなれば―にはかくあぢきなき御顔のみにて候ふぞやと」〈仮・是楽物語下〉
  2
  ㋐土間・庭に対して、畳の敷いてある部屋。座敷。
  「毎年お庭で舞ひまして、お前は―に結構な蒲団敷いて」〈浄・大経師〉
  ㋑主婦の居間。茶の間。おいえ。
  「―には亭主夫婦、あがり口に料理人」〈浄・曽根崎〉」

とある。この場合は2であろう。
 入舟が多いということで商売繁盛なのか、店の座敷の敷居もきれいに磨いてある。「ひからする」は前句の月にも掛かる。
 七十八句目。

   拭立てお上の敷居ひからする
 尚云つのる詞からかひ      野坡

 「からかひ」は古語では「争い」意味があるので、ここは口喧嘩のことであろう。「お上」を2のイの意味に取るなら夫婦喧嘩か。

2020年7月14日火曜日

 旅といっても時代によっていろいろなものがある。
 和歌や連歌の羇旅は配流などによるものか、天皇の御幸で、西行の旅は勧進だったと言われている。
 中世の連歌師になると、全国に散らばる連歌の愛好者のために興行をして回る、今でいうとコンサートツアーに近い旅の形態が生まれた。談林の祖の宗因まではそのような旅もあった。
 芭蕉の旅の場合は興行もおこなうが経済的な理由というよりは、むしろ歌枕や物語の舞台などを訪ねる、今でいう聖地巡礼に近いものとなった。
 江戸時代の庶民の旅は信仰に結びついたもので、お伊勢参りや富士講、三峯講といったものだった。
 近代になり鉄道が整備されると初詣が流行し、また欧米の影響から風光明媚な地を巡る物見遊山の旅も増えてきた。
 戦後になると大量生産大量消費時代を反映し、団体でも個人でも盛んに観光旅行をするようになった。
 今回のコロナの蔓延は、こうした流れを変えるような新しい旅の形態を生むのだろうか。まだコロナ後の世界は見えてこない。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 六十九句目。

   入来る人に味噌豆を出す
 すぢかひに木綿袷の龍田川    野坡

 「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」

とある。合服に近いかもしれないが期間は合服より短い。夏の季語になる。
 龍田川はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1]
  [一] 奈良県北西部、生駒山地の東側を南流し、斑鳩(いかるが)町で大和川に合流する川。上流を生駒川、中流を平群(へぐり)川ともいう。紅葉の名所。
  ※古今(905‐914)秋下・二八三「龍田河紅葉乱れてながるめりわたらば錦中やたえなむ〈よみ人しらず〉」
  [二] 奈良県北西部、大和川の龍田川との合流点から下流、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)との境にかけての古称。歌枕。
  [2]
  ① ((一)(一)挙例の「古今‐秋下」の歌から) 模様の名。流水に紅葉(もみじ)の葉を散らしたもの。
  ※浮世草子・好色一代男(1682)一「西の方の中程、ちいさき釣隔子(つりがうし)、唐紙の竜田川(タツタカハ)も、紅葉ちりぢりにやぶれて」
  ② (「古今‐秋下」の「ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは〈在原業平〉」から) 紅い血が川のように流れること。
  ※雑俳・あづまからげ(1755)「咎あれば畳の上も龍田川」

とあり、この場合は[2]①であろう。 龍田川模様の木綿袷は初夏に着るものというよりは重陽の前に着る秋の袷のようだが、季語の扱いとしてはどうなのだろうか。前句の味噌豆も秋に採れる。実質秋だが、形式的には夏ということか。
 七十句目。

   すぢかひに木綿袷の龍田川
 御茶屋のみゆる宿の取つき    利牛

 「宿の取つき」は宿場の始まるあたりということか。前句の「すぢかひに」は「御茶屋」に掛かる。
 「御茶屋」は宿場の本陣のこと。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所あるいは休息所。
 七十一句目。

   御茶屋のみゆる宿の取つき
 ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ 孤屋

 「どんどほこらす」は中村注に爆竹を盛んに燃やすこととある。「ほやほや」は炎や湯気の立ち上るさまを言い、それが雲のようにちぎれてゆく。
 爆竹はウィキペディアに、

 「日本でも古くから小正月や節分の催事として「爆竹」と呼ばれるものがあったようで、鎌倉時代の1251年(建長3年)1月16日、後嵯峨上皇が爆竹を見たという記事がみえている(『辨内侍日記』)。ただしこれは青竹を燃やし音を立てるもので、火薬を用いたものではない。この催事は現在でもドンド焼きや左義長と呼ばれて各地に伝承されている。」

 この場合もどんど焼きの風景であろう。春になる。
 七十二句目。

   ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ
 水菜に鯨まじる惣汁       野坡

 「惣汁(そうじる)」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 「昔、京の町々にあった、町屋または町会所と呼ぶ会所で町人の常会が毎月一回開かれたこと
  季節 新年」

とある。そこでは京野菜の水菜に混じって鯨も並んでいる。

 煤掃之礼用於鯨之脯     其角
 (すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ)

という『次韻』の句があるように、これは去年の年末の干し鯨が混ざっているという意味だろう。

2020年7月13日月曜日

 蝉が鳴いたり雷が鳴ったりすると梅雨も明けるという。あともう少しというところか。
 それでは「早苗舟」に巻の続き。

 三裏。
 六十五句目。

   なめすすきとる裏の塀あはひ
 めを縫て無理に鳴する鵙の声   孤屋

 「めを縫て」というのは囮百舌(おとりもず)のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 他のモズを寄せるために、眼瞼(まぶた)を縫って盲目にして鳴かせるモズ。《季・秋》
  ※日次紀事(1685)八月「此月山林間囮鵙(をとりもず)縦レ日居二於架頭一傍設二黏竽一而執二鵙鳥一、是謂レ落レ鵙」

とある。「鵙落とし」という鵙猟に用いるもので、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」

とある。秋の季語。
 えのき茸を採るあたりで鵙の罠も仕掛けてある。
 六十六句目。

   めを縫て無理に鳴する鵙の声
 又だのみして美濃だよりきく   野坡

 前句の鵙落としを比喩としたか。かなり無理難題を吹っかけて美濃の情報を手に入れたか。
 六十七句目。

   又だのみして美濃だよりきく
 かかさずに中の巳の日をまつる也 利牛

 三月上巳は巳の日の祓だが、ここでは上巳でも正月の初巳でもなく、毎月来る二番目の巳の日のことであろう。巳の日は弁天様の縁日で金運に恵まれるから、初巳上巳だけでなく、巳の日は中でも下でも全部祀りたいのであろう。前句を「また頼みして、巳の頼り聞く」と取りなす。年がら年中弁天様に願い事をして、弁天様のご利益を乞う。
 六十八句目。

   かかさずに中の巳の日をまつる也
 入来る人に味噌豆を出す     孤屋

 味噌豆は大豆に異名。大豆は今は秋の季語だが曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはない。乾燥大豆が一年中あったからか。
 大豆は縁起ものなので、毎月中旬の巳の日には気前よくふるまう。

2020年7月12日日曜日

 昭和十七年版の和辻哲郎の『倫理学 中巻』の「第六節 文化共同体」の所にはかなり長めのアメリカの黒人に関する記述がある。(戦後版では占領軍に配慮して、大幅に書き改められている。)

 「以上の如く見れば人格を民族の一員として規定することは決して突飛ではないのである。が我々は更にこのことを否定的な面から実証することも出来る。即ち人が人格として取り扱われない場合を捕えることによって人格の何であるかを知るのである。かかる場合の代表的なるものは、本路人との区別を重視する立場に立って云えば、人を牛馬と同じく道具として取扱う場合、即ち奴隷制度であろう。ところで我々から見れば、奴隷制度は征服された異民族をおのが民族の一員として取扱わないという態度にほかならぬのである。古代に於いてそうであったばかりではない。近い頃までアメリカ大陸には人類の歴史始まって以来の最も巨大な奴隷制度があったが、アフリカから強制的に連れてこられたニグロは、アフリカのおのが民族の中にあってはそれぞれ立派に人格として取扱われていたにも拘らず、アングロサクソン民族の中では牛馬と同じき道具として取扱われた。そうして人権の平等を宣言して新しい国家を作る際にも、この奴隷の取り扱いが人権平等の主張と真正面から衝突し、従って人権平等の宣言が真赤な嘘になるということには誰も気づかなかった。それは必ずしも十八世紀末のアメリカ人が恐ろしく鉄面皮であったとか頭が粗雑であったとかと言うことを示しているのではない。彼らにとっては人類とはおのが民族のことに過ぎなかったのである。だから人権平等を高唱しつつ奴隷を鞭っていても、何らの矛盾を感ぜられなかったのである。この事実は、アメリカの独立宣言において平等の権利を持つとせられている人格が、実は当時のアングロサクソン民族の一員のみ意味していたということを究めて露骨にしめしていると云ってよいであろう。
 この指摘に対してアメリカ人は南北戦争による奴隷制度の廃棄をあげて弁解するでもあろうが、しかし奴隷制度の廃棄を何か非常に重大な人類愛的行為であったかのごとくに宣伝していること自体が我々にとっては非常に奇妙な現象である。我々から見れば奴隷制度のない状態が正常な人間存在なのであるから、この制度の廃棄は単に正常な状態に復帰したというに過ぎない。重大な事件と目されるべきはむしろアフリカのニグロを劫掠して奴隷にしたというその行為である。この行為があったからこそ奴隷解放という如きことも可能となった。しかもこの奴隷解放だけでは未だ最初の悪虐な行為は償われていない。ニグロはアフリカに於いてその特殊な、しかし極めて好く整った人倫組織を形成していた。ニグロの劫掠はこの人倫組織を破壊し、その人倫性を蹂躙することであった。従ってその償いはニグロをアメリカの市民として差別待遇するというようなことでは果たされないのである。ニグロを人格として取扱うことはニグロ民族を一つの個性として尊重することでなくてはならない。即ち各々の民族をしてその所を得しめるという立場に立つことなくしては人格の尊重はあり得ないのである。」

 アメリカの黒人は奴隷解放の後で市民権を持ってはいても、黒人文化の独立性を認めず、アングロサクソン文化の支配下におかれ、それに従わぬ者として差別されてきた。黒人は白人文化に同化して初めて人間とみなされるような状態が続いていた。
 アメリカの黒人問題の解決には、もちろん黒人だけでなくネイティブアメリカンでもアジア系でもヒスパニックでも、それぞれの文化の尊重なしにはあり得ない。黒人を白く塗って解決するものではない。黒に関する言葉や表現を規制してあたかも黒人が存在しなかったかのようにするのではなく、むしろ黒を最大限にかっこ好くすることのほうが大事だ。
 黒人問題の背後にあるのは古代ギリシャ以来の、嫌な仕事は奴隷に押し付けて俺達は遊んで暮らすんだ、という発想ではないかと思う。
 奴隷は解放されると、次にくるのは失業だ。彼らは職に就くために不利な条件を飲み、後からやってくる様々な移民たちとの競争に晒され、それ同士で争わなくてはならなくなった。
 この異民族をこき使って自分達は楽をするという発想を捨てなくては、何も解決しないのではないかと思う。
 和辻哲郎はきっと日本がこの戦争に負けたらそうなるという危機感でこの文章を書いたのだろう。戦後にはとにかくアメリカ文化を取り入れろと説くが、それが日本人が奴隷化を免れる唯一の道だと考えたからだと思う。白人に同化しろ、それが白人の奴隷にならないための道だった。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 五十五句目。

   鍋の鑄かけを念入てみる
 麦畑の替地に渡る傍尒杭     利牛

 「替地」はウィキペディアに、

 「江戸時代には、個人の田畑や町村の境界変更のために替地が行われたほか、当事者双方の合意によって宅地や田畑を交換する相対替が年季売・本物返・質流れと並ぶ田畑永代売買禁止令の脱法行為として行われていた。
 また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。例えば、境界問題や租税徴収との関係で旗本が江戸幕府の許可を得て知行地を交換したり、幕府や大名が必要上から土地を召し上げた場合の代替地提供のことを指した。だが、もっとも大規模なものは、大名の国替であった。」

とある。
 「傍尒杭(ぼうじくい)」は「牓示・牓爾・榜示(ほうじ)」のことで、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔「ぼうじ」とも〕
  ①杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。
  ②馬場の仕切り。
  ③庭の築垣ついがき。」

とある。
 この場合は借金で麦畑を取られてしまった人だろう。古い鍋を修復しながら細々と生活している。
 五十六句目。

   麦畑の替地に渡る傍尒杭
 売手もしらず頼政の筆      孤屋

 借金取りの側に立ち、借金の形で交換した麦畑に金に困って売った頼政の筆を響きで付ける。この場合は筆そのものではなく、筆で書いたもののことか。
 「売手もしらず」はまさか頼政の筆とは売る側も知らなかったという意味だろう。二束三文で買い取った筆が思わぬお宝でびっくりという所か。
 頼政は歌人で、

 今宵誰すず吹く風を身にしめて
     吉野の嶽の月を見るらむ
          従三位頼政(新古今集)

の歌は以前「篠吹く」の例として紹介した。延宝六年の「実や月」の巻の十五句目、

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

の句が、

 埋木の花咲くこともなかりしに
     身のなる果はあはれなりけり
               源頼政

の歌による取り成しだということも以前に書いた。
 一応コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「平安末期の武将。仲政(なかまさ)の子。弓術に長じ,歌人としても著名。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方に参じ,平治の乱では平清盛にくみし,従三位(じゅさんみ)に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。1180年以仁(もちひと)王を奉じて挙兵,平氏と宇治に戦って敗死した。家集に《源三位頼政家集》がある。紫宸殿(ししんでん)上の鵺(ぬえ)を射取ったという伝説は,能などに脚色されている。」

とある。鵺退治の伝説を詠んだ句には「守武独吟俳諧百韻」の、

   すきとほる遠山鳥のしだりをに
 はきたる矢にも鵺やいぬらん

の句がある。
 五十七句目。

   売手もしらず頼政の筆
 物毎も子持になればだだくさに  野坡

 「だだくさ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔近世語〕
 雑然として整理のゆきとどかないさま。ぞんざい。 「 -なやうでもただはころばない/柳多留 14」

とある。只の質草と掛けて用いられていると思われる。子供が出来てこれまでの骨董道楽も止め、不要なものを処分したら、そのなかに頼政の筆もあった。
 五十八句目。

   物毎も子持になればだだくさに
 又御局の古着いただく      利牛

 御局(おつぼね)というと春日局(かすがのつぼね)のような奥女中を連想するが、大河ドラマの『春日局』の頃、職場の年季の入った女性の事を比喩で「お局様」と呼んだりしていた。ここでもこうした比喩もしれない。
 職場の先輩が恩を着せようとしてやたらに古着をくれたりする。まさにお仕着せだ。
 五十九句目。

   又御局の古着いただく
 妓王寺のうへに上れば二尊院   孤屋

 妓王寺は祇王寺のこと。二尊院とともに嵯峨野にある。
 祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。二尊院の先輩尼から古着をもらったりしてたか。
 六十句目。

   妓王寺のうへに上れば二尊院
 けふはけんかく寂しかりけり   野坡

 祇王寺はこの頃は寂れていたようだ。江戸中期には再興されるが、明治には廃寺となる。二尊院とは天地懸隔だったのだろう。
 六十一句目。

   けふはけんかく寂しかりけり
 薄雪のこまかに初手を降出し   利牛

 「けんかく」とあえて平仮名にしてあるのは「剣客」への取り成しのためか。修行のために表に出れば、雪に先手を取られてしまう。
 六十二句目。

   薄雪のこまかに初手を降出し
 一つくなりに鱈の雲腸      孤屋

 「一つくなり」は中村注に「ひとかたまり」とある。鱈の白子に雪が積もると、どれが雪でどれが白子やら。
 六十三句目。

   一つくなりに鱈の雲腸
 銭ざしに菰引ちぎる朝の月    野坡

 銭を束ねて留める紐がなくてマコモを引きちぎって代用する。緩く束ねられた銭は白子に見えなくもないか。
 六十四句目。

   銭ざしに菰引ちぎる朝の月
 なめすすきとる裏の塀あはひ   利牛

 「なめすすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「なめずすき」とも) きのこ「えのきたけ(榎茸)」の異名。
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸なめすすき」

とある。
 えのき茸は今のはひょろひょろと細長いが、これはモヤシのように日に当てずに栽培するからで、本来は茶色くて立派な笠をひろげる。
 裏の塀の方でえのき茸が取れたので売って小銭稼ぎしたのか、菰を引きちぎって銭を束ねる。

2020年7月11日土曜日

 今日は時折日も差したが時折小雨が降った。まだ梅雨は明けない。
 最近K値という言葉を聞くから、一応調べてみた。
 K値は累計感染者に対する新規感染者の割合だという。
 新規感染者に関しては七日移動平均線を用いている。(株価の場合は五日移動平均線と二十五日移動平均線とが併用される。)
 感染者の増加や減少の傾向を見るには、普通に考えれば七日であれ五日であれ、普通に移動平均線を見ればある程度のことはわかる。いわゆる上昇トレンドにあるか下降トレンドにあるかはわかる。
 ただ、それを過去の感染者累計で割る意味は一体なんだろうか。
 累計である限り、分母は日に日に増え続ける。それに対する新規感染者の割合は、分母が増え続けるほど少なくなる。つまり毎日同じ数の新規感染者が出ていても、K値は下降トレンドを示すことになる。
 つまり、新たな感染者が同数か微増くらいでもこのグラフではピークアウトしたことになり、一度ピークアウトすると上昇トレンド認定のハードルが恐ろしく高くなる。
 ここまでいえばK値というのが何なのかは明瞭だ。それは現在の感染者の増加傾向や減少傾向を見ているのでなく、たとえ増加していたとしても、過去の膨大な数の感染者に較べればたいしたことがないことを言っているにすぎない。
 これはつまり、時間が経てば経つほど、累計感染者が増えれば増えるほど、新たな感染者数の脅威は下方修正される、そういう魔法の数値だ。
 多分これを考えた人は、単なる思い付きで言っただけなのだと思う。それが感染症対策をしないですませる格好の口実を与えててしまったのではないか。
 騙されているのか確信犯なのかはよくわからないが、国や自治体がこの魔法にかかってしまっているなら、救いようがない。エスナ!
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   弦打颪海雲とる桶
 機嫌能かいこは庭に起かかり   野坡

 孵化した蚕の幼虫(毛蚕:けご)は二三日すると動かなくなり脱皮する。これを眠という。四回目の眠のことを庭休みという。この脱皮が終ることを庭起きという。このあと蚕は盛んに桑の葉を食べ大きくなる。
 前句を時候としての付け。
 五十二句目。

   機嫌能かいこは庭に起かかり
 小昼のころの空静也       利牛

 小昼(こひる)はコトバンクの「デジタル大辞泉」の解説に、

 「《「こびる」とも》
  1 正午に近いころの時刻。
  2 昼食と夕食の間、または朝食と昼食の間にとる軽い食事。」

とある。
 芭蕉の時代は『伊達衣』に、

 二時の食喰間も惜き花見哉    杜覚

の句があるように、一日二食の所が多かった。『猿蓑』の、

 水無月や朝めしくはぬ夕すゞみ  嵐蘭

の句も、朝飯は食ってないが昼飯は食ったというわけではあるまい。厚くて食欲がなく、朝から何も食ってないという意味。
 その意味ではここでの「小昼」は2の意味とも考えられる。ちょうど小腹がすくころだ。
 五十三句目。

   小昼のころの空静也
 縁端に腫たる足をなげ出して   孤屋

 足が腫れて仕事にならないから縁端(えんはな)に足を投げ出して、手持ち無沙汰な感じだ。
 五十四句目。

   縁端に腫たる足をなげ出して
 鍋の鑄かけを念入てみる     野坡

 「鑄(い)かけ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。鋳掛師は居職であるが,鋳掛屋は出職である。二つの箱に道具をいれて7尺5寸の長いてんびん棒をかついで町中を歩いた。」

とある。
 修理中に火傷でもしたか、鋳掛屋は腫れた足でやってきて鍋を直すと、その具合を念入りに見ている。

2020年7月10日金曜日

 新宿シアターモリエールの舞台からクラスターが発生した。ようやくの再開ということで感染防止の十分な対策はしていたのだろう。ただ、舞台もライブハウス同様、閉鎖的な空間だからエアロゾルは場内に漂い、熱演する俳優や興奮した客は呼吸数も増加するためエアロゾルを吸い込みやすく、なかなか難しいものだ。
 別に誰も芸能関係者を目の敵にして自粛を要請してきたわけではない。ただ、室内での舞台芸術がクラスターを生みやすいのはどうしようもない。これからも舞台芸術は試練に立たされるのだろうな。見に行く方も覚悟がいる。
 ショーパブも似ている。天文館の「NEWおだまLee男爵」も梨泰院のショーも、きっと行けば楽しいんだろうな。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 四十七句目。

   むく起にして参る観音
 燃しさる薪を尻手に指くべて   野坡

 「燃しさる」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘自ラ四〙 薪の、かまどの外にはみ出した部分にまで、炎が燃え移る。炭や薪以外のものに火が移る。また、もえさしになる。燃え残る。燃えすさる。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「大釜の下より大束の葭もへしさりしに」

とある。
 「薪を尻手に」は「串に鯨をあぶる」と同じで今日だと「に」は「で」になる。はみ出した薪に背を向けた状態で後ろに指を伸ばし、薪の位置を戻す。
 観音堂にお籠りする時、お参りするところの後ろで寒さを防ぐために焚き火をし、その周りで休息したりしたのだろう。背中が熱いと思ったら、焚き火がはみ出していたので、後手でそっと戻す。
 四十八句目。

   燃しさる薪を尻手に指くべて
 十四五両のふりまはしする    孤屋

 「ふりまわし」はやり繰りする事。十四五両は今だと百万円くらいの価値はあるので、そこそこまとまった金だが、商売で動く金としてはそれほどではないかもしれない。商家の囲炉裏端とする。
 四十九句目。

   十四五両のふりまはしする
 月花にかきあげ城の跡ばかり   利牛

 月花の眺めの良い場所なのに、昔の土をかき上げただけの城跡の土塁があるばかり。十四五両あれば小さな草庵のひとつでも建てられるか。
 五十句目。

   月花にかきあげ城の跡ばかり
 弦打颪海雲とる桶        孤屋

 弦打(つるうち)は魔物を祓うために弓の弦をぶんぶん鳴らすことをいい、弦打颪(つるうちおろし)は風に蔓が音を立てるような山から吹き降ろす風ということか。
 城跡だから、落ち武者の亡霊でも出てきそうだ。それを祓うかのような風の音がする。
 海雲(もずく)は春の季語になる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「是をとらんとするに滑りて得がたし。鮑空貝を用てこれをとる。阿州鳴戸、泉州岸和田、及び対州の産、肥太く佳とす。薑醋(しょうがず)に和してこれを食ふ」とある。

2020年7月9日木曜日

 ちょっと今日は俳諧のほうは一休み。新しいパソコンが届いた。
 今日の東京の新たな感染者は224人、全国では340人を超える。
 昨日は75人で減ったなと思ったが、まあ何の対策も取ってないんだから減るはずはない。
 政府は相変わらず何もしないし、明日には予定通りイベントの開催制限を緩和される。とうとう日本がブラジルになる日が来たか。
 さすがにここまで来てコロナがただの風邪だと思っている人はごく少数だろうし、ほとんどの人はどうしていいかかなり戸惑うだろうな。
 自粛したいが会社に行かなくてはならないというジレンマの中で、生き残るためには究極の選択に迫られる。
 三月の感染者が急増した時よりも状況は悪い。みんな、地を這ってでも生き延びよう。

2020年7月8日水曜日

 そういえばアメリカの方からのニュースだとコロナ対策には手袋とワイパーが欠かせないというようなことが書いてあった。日本では一時期手袋が売り切れになったりはしたが、長くは続かなかったし、今でも手袋をしている人はほとんど見ない。ワイパーのこともあまり聞かない。
 あと、ずっと家に引き籠ってた女性が、たった一度感染者の運んできた荷物を家に入れたために感染したというニュースもあった。ウイルスのついた荷物をついうっかり直接手で触ってしまったためだという話だったが、日本ではそれ以前に玄関から外に出た時点で、感染者の残したエアロゾルを吸ったんではないかと言われていた。
 接触の場合口や鼻の回りに着いたとしても、そこから中にはなかなか入りにくい。それに対してエアロゾルを吸った場合、ダイレクトに肺に達するから危険が大きい。
 日本では早くからエアロゾル感染のことは知られていたが、建前上エアロゾルという言葉は使わず、飛沫感染の飛沫が長く空気中を漂うというふうに説明されてきた。そこから部屋の喚起を頻繁に行うようにと指導されてきた。
 ライブハウス(これは和製英語でクラブハウスと言ったほうがいいのか)やスポーツジムが真っ先に自粛の対象となったのも、エアロゾル感染が早くから暗黙の内に認められていたからだと思う。
 もしアメリカではWHOの言うことをそのまま信じてエアロゾル対策を何もせず、接触による感染ばかりに神経質になっていたとしたら、トランプさんが怒るのも頷ける。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 四十三句目。

   師走比丘尼の諷の寒さよ
 餅搗の臼を年々買かえて     利牛

 一年に一度しか使わない臼だから、どこかへ仕舞っておいて黴が生えたり腐ったりして、結局毎年買い換えているということか。
 ただでさえ年末はお金が出て行くのに臼を買ったりしていては、いい正月も迎えられない。
 四十四句目。

   餅搗の臼を年々買かえて
 天満の状をまた忘れけり     野坡

 大阪の天満(てんま)というと天満青物市場があり栄えた場所だった。
 臼を駄目にするような人だから、手紙もうっかり忘れる、という位付けであろう。
 四十五句目。

   天満の状をまた忘れけり
 広袖をうへにひつぱる舩の者   孤屋

 「広袖」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 袖口の下を縫い合わせない袖。長襦袢(ながジュバン)・丹前・夜着などに用いる。平袖(ひらそで)。
  2 鎧(よろい)の袖の一種。下方が広くなったもの。」

とある。広袖はこれ以外にも神主や僧が着る古風な衣裳に見られる。
 あるいは天満の状を天満宮の書状として、うっかり者の神官にしたのかもしれない。
 広袖を上に引っ張るのは、袂に状が入ってないかどうか調べるためであろう。
 「舩」は「船」に同じ。
 四十六句目。

   広袖をうへにひつぱる舩の者
 むく起にして参る観音      利牛

 「むく起」はむっくり起きること。
 観音様にお参りに行くのだから、前句の広袖は巡礼者だったか。舟の上で寝てしまったか、船の者が袖を引っ張って起す。

2020年7月7日火曜日

 豪雨は九州南部から北部に移って、あいかわらず大変なことになっている。七夕の気分でもないね。
 自民党は習近平国賓来日中止要請決議を了承した。まあ、これでポスト安倍争いで岸田の株が急騰というところか。
 コロナは今頃エアロゾル感染がどうのこうのって、前からわかってたことなのに、空気感染との違いの定義が曖昧なのも一因のようだが、まだそういうのが「ない」と思っている人がいるのかな。
 確かにエアロゾルがデマだと信じているなら、何でライブハウスが自粛なんだって言いたくもなるだろうな。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   ずいきの長のあまるこつてい
 ひつそりと盆は過たる浄土寺    利牛

 浄土寺といっても浄土宗か浄土真宗かでお盆のやり方は違うが、当時は浄土真宗は一向宗に含まれていたので、ここでは浄土宗の寺であろう。
 江戸には赤坂に浄土宗浄土寺がある。「猫の足あと」というサイトによれば、

 「起立は文亀の頃で、初め江戸城内平川口の地に創建し、後に白銀町へ替地を命ぜられ、また麹町十丁目成瀬隼人正屋敷の邊に引き移つたが、更に寛文五年、類焼の頃、現在の地へ替地を拝領移轉した。」

ということで、元禄の頃には既に赤坂に移っていた。
 同じ「浄土寺」の名前でも兵庫県小野にある浄土寺は高野山真言宗だから、浄土寺だから浄土宗とは限らない。
 浄土真宗(当時は一向宗)のお盆はやや特殊だが、それ以外は精霊棚を造り迎え火を焚き、盆灯篭を置き、お供え物をし、送り火を焚いて終わる流れは一緒だ。
 盆の時は賑やかだった浄土寺も、過ぎれば静かになり、牛の背に乗ったずいきが運び込まれ、慎ましやかな生活を送る。
 三十八句目。

   ひつそりと盆は過たる浄土寺
 戸でからくみし水風呂の屋ね    野坡

 「からくむ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① からげ組む。綱などで縛って一つにまとめる。
  ※玉塵抄(1563)四三「舫は舟をならべてからくんで一そうのやうにしてのるを云ぞ」
  ② 組みたてる。構え作る。
  ※御伽草子・浜出草紙(室町末)「ほうらいの山をからくみ」
  ③ 言いがかりをつけて困らせる。からむ。
  ※洒落本・仮根草(1796か)三子東深結妓「なんだかおつにからくむの」
  ④ いろいろと工夫する。また、たくらむ。
  ※浄瑠璃・心中刃は氷の朔日(1709)上「あぢなあき内からくんで」

とある。この場合は②であろう。
 当時の風呂は蒸し風呂が主流だったが、大きな桶に水をためて沸かす風呂もあり、これを水風呂と言った。
 庭に据えるもので、お寺なら水風呂を置く十分なスペースもあっただろう。古くなった戸板を廃物利用して屋根にする。
 三十九句目。

   戸でからくみし水風呂の屋ね
 伐透す椴と檜のすれあひて     孤屋

 「伐透(きりすかす)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘他サ四〙 切って間が透くようにする。
  ※再昌草‐永正六年(1509)八月二二日「夏のうちはすずむした陰しめおきし桐きりすかし月をみる哉」

とある。
 戸板で囲った小屋は伐り透かして、外が見えるようにしていたのだろう。
 「椴」は椴松(とどまつ)の「とど」だが、ここでは「もみ」と読むようだ。樅(もみ)は戸板に用いられる。「檜」といえばいまでも檜風呂というくらい、浴槽に用いられる。小屋と浴槽が密着しているのか、擦れ合う音がする。
 四十句目。

   伐透す椴と檜のすれあひて
 赤い小宮はあたらしき内      利牛

 前句を樅や檜の茂る山の中とし、間伐して新しい神社の祠を作る。赤いから稲荷神社か。
 四十一句目

   赤い小宮はあたらしき内
 浜迄は宿の男の荷をかかえ     野坡

 浜から舟に乗る旅人の荷物を運び、帰りは新しいお稲荷さんにお参りして帰る。旅の無事を祈ってのことだろう。
 「五人ぶち」の巻の二十九句目に、

   神拝むには夜が尊い
 月影に小挙仲間の誘つれ     野坡

の句もあるように、庶民の間での神祇信仰は篤く、ちょっとの間でも時間があればお参りする。
 四十二句目。

   浜迄は宿の男の荷をかかえ
 師走比丘尼の諷の寒さよ     孤屋

 「師走比丘尼」は「広辞苑無料検索」に、

 「おちぶれて姿のみすぼらしい比丘尼。」

とある。
 その比丘尼だが、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 《〈梵〉bhiksunīの音写》出家得度して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性。尼僧。
  2 中世、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人。
  3 江戸時代、尼の姿をした下級の売春婦。
  4 「科(とが)負い比丘尼」の略。」

とある。
 「諷(うた)」は経文を声に出して唱える「諷誦(ふうじゅ)」のことだとしてら、一応本物の尼さんなのか。托鉢か勧進か、街頭に立つ姿が寒々としている。
 寒い中宿の男は浜まで荷物を運び、落ちぶれた比丘尼は諷誦する。向かえ付けといえよう。

2020年7月6日月曜日

 「早苗舟」の巻の続き。

 三十一句目。

   くばり納豆を仕込広庭
 瘧日をまぎらかせども待ごころ   利牛

 「瘧(おこり)」はマラリアのことで、「わらはやみ」ともいう。周期的に熱が出るので、熱の出る日を「瘧日(おこりび)」という。
 「まぎらかす」は「まぎらわす」に同じ。「わらわす」を「わらかす」と言うようなもの。
 前句を寺と見て、『源氏物語』の若紫巻の、源氏の君が北山のなにがしでらを尋ねる場面を連想したのだろう。
 三十二句目。

   瘧日をまぎらかせども待ごころ
 藤ですげたる下駄の重たき     野坡

 「すげる」は下駄の鼻緒を通すことをいう。藤の鼻緒というのは、当時はどうだったのか。ウィキペディアの「下駄」の所には、「緒の材質は様々で、古くは麻、棕櫚、稲藁、竹の皮、蔓、革などを用い、多くの場合これを布で覆って仕上げた。」とあるから藤の蔓も用いられていたのだろう。他の材質に較べて重かったのか。
 「瘧日をまぎらかす」というので、田舎での療養として、藤の鼻緒の原始的な下駄を出したのかもしれない。
 三十三句目。

   藤ですげたる下駄の重たき
 つれあひの名をいやしげに呼まはり 孤屋

 富士の下駄を履いている人の位であろう。女房の名を賤しげに呼びまわる。
 三十四句目。

   つれあひの名をいやしげに呼まはり
 となりの裏の遠き井の本      利牛

 農村の風景だろう。隣といっても離れているし、その裏の井戸はさらに遠い。
 三十五句目。

   となりの裏の遠き井の本
 くれの月横に負来る古柱      野坡

 中国の伝説では月には桂の木があるという。ただ、ここは田舎なので、桂ではなく古くなった柱を背負ってくる男がいるだけだ。
 三十六句目。

   くれの月横に負来る古柱
 ずいきの長のあまるこつてい    孤屋

 ずいきはサトイモやハスイモなどの葉柄で食用になる。名月といえば里芋を供えるもので、芋名月とも呼ばれるが、ここでは芋ではなく芋柄。
 「こつてい」は特牛という字を書き、weblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「こというし(特牛)」に同じ。 「ずいきの長(たけ)の余る-(孤屋)/炭俵」

とある。「こというし」は、

 「強く大きな牡牛(おうし)。こといのうし。ことい。こってい。こっていうし。こってうし。こっとい。 「 -程なる黒犬なるを/浮世草子・永代蔵 2」

とある。
 さすがに牛の体長より長いということではあるまい。牛の背中に積んだときに、横に大きくはみ出すということだろう。古柱のように見えたのは束ねたずいきだった。

2020年7月5日日曜日

 人吉の方では大変なことになっている。学生の頃だったか、えびのから熊本へと車で抜けたことがある。まだ高速がなかったので、川沿いの大型トラックのたくさん通る道だった。
 都知事選は予想通りの瞬殺で小池再選だった。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目。

   御影供ごろの人のそはつく
 ほかほかと二日灸のいぼひ出    野坡

 「二日灸」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に。

 「陰暦2月2日にすえる灸。この日に灸をすえると年中息災であるという。8月2日にすえる灸にもいう。ふつかやいと。《季 春》「かくれ家や猫にもすゑる―/一茶」

とある。ここでは「ふつかやいと」と読む。ところでこの一茶の句、じっとしててくれるのかな。今では体に貼るタイプのお灸もあるし、温灸もあるが。
 「いぼひ出(いで)」は中村注に「灸のあとのただれるをいう」とある。
 「ほかほか」は今だと炊き立てのご飯を想像するが、昔は外外(ほかほか)で離れ離れという意味。この句の場合は「あちこちに」というような意味だろう。
 二月二日にお灸をして火傷した跡がただれて、二十一日頃になってもあちこちに残っている、という意味になる。
 二十四句目。

   ほかほかと二日灸のいぼひ出
 ほろほろあへの膳にこぼるる    孤屋

 中村注は「ほろほろあへ」という料理とし、法論味噌の和えものだとする。
 ただ、ここは前句の「ほかほか」に応じて「ほろほろ」という擬音を付けたとも取れる。「ほろほろこぼれる」で、和えの膳の上に涙がこぼれるとなる。それだけ火傷のかぶれが痛むということだろう。
 「ほろほろ」は花や葉が散る擬音で、

 ほろほろと山吹散るか滝の音    芭蕉

の句もあるが、涙がほろほろとこぼれるという用法もある。
 「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」(西條八十作詞)にも「泣いてくれるなホロホロ鳥よ」のフレーズがあって、涙のほろほろとホロホロ鳥を掛けている。
 二十五句目。

   ほろほろあへの膳にこぼるる
 ない袖を振てみするも物おもひ   利牛

 「ない袖を振る」というのは今日では「ない袖は振れない(お金がないので払えない)」というふうに否定形で用いられているが、芭蕉の時代でもこの言い方があったのかはよくわからない。
 「袖振る」は一般的にはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 別れを惜しんだり、愛情を示したりするために、袖を振る。
  「白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)―・る」〈万・四三七九〉
  2 袖を振って舞う。
  「唐人の―・ることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見き」〈源・紅葉賀〉」

とあるとおりだ。
 この場合だと別れが惜しいわけではないけど惜しむ振りをして、それでも悲しみに涙がこぼれるという意味か。
 二十六句目。

   ない袖を振てみするも物おもひ
 舞羽の糸も手につかず繰      野坡

 「舞羽(まいば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 糸を巻く道具。台に立てた短い竿(さお)の上に十字形の枠(わく)を載せて回し、枠の四端に差した竹に糸を掛けて巻き取るようにしたもの。まいのは。〔訓蒙図彙(1666)〕」

とある。糸巻きのことのようだ。
 袖のない姿で舞羽で糸を繰るというと、鶴の恩返しの民話が思い浮かぶ。元の話は室町時代の御伽草子の「鶴の草紙」で最初は機を織る話ではなく、「わざわひ」という獣を実家に取りに行かせ、悪い地頭をやっつける話になっている。今でいえば召喚師の家系ということか。
 機を織って恩返しをするのは「蛤草子」の方で、鶴ではなく蛤になっている。
 今の鶴の恩返しはこの二つが合体したものと見ていいだろう。ただ芭蕉の時代にあったかどうかは不明。
 ここでは単に前句の物思いの主を機織る女性としたと見た方がいい。
 なお福島の方では機織る男性もいたようだ。等躬撰の『伊達衣』に、

   福島にて
 たなばたは休め絹織男共      鋤立

の句がある。
 二十七句目。

   舞羽の糸も手につかず繰
 段々に西国武士の荷のつどひ    孤屋

 参勤交代の大名行列があると、それに先行してまず荷物を運ぶ人足たちがやってくる。次々にその人足たちが集まってくると本隊の到着も近い。機織る娘も大名行列を見物したくてわくわくしてくる。
 二十八句目。

   段々に西国武士の荷のつどひ
 尚きのふより今日は大旱      利牛

 「大旱(おほてり)」は日照り、旱魃のこと。「きのふ」は古くは前日だけでなく、最近という意味でも用いられた。
 ここでは大名行列は関係なく、単に西国武士からの物資が集まってくるとする。救援物資か。
 二十九句目。

   尚きのふより今日は大旱
 切蜣の喰倒したる植たばこ     野坡

 「切蜣」は「きりうじ」と読むが、今日では「キリウジ」はキリウジガガンボの幼虫を指すもので稲・麦の幼根などを食べる。
 ただ、タバコの害虫ではない。タバコに含まれる天然成分ロリオライドに防虫効果があり、タバコに害虫は付きにくい。
 ここでいう切蜣(きりうじ)はネキリムシなどを一般的に指す言葉ではなかったかと思う。
 ネキリムシにはキリウジガガンボの幼虫だけでなく、コガネムシ、コメツキムシの幼虫も含まれているし、蛾の幼虫も含まれている。
 漢字の「蜣」も本来コガネムシなどを表わす字で、「きりうじ」と言った場合、今日の生物学的区分ではなく、根を食い荒らす虫一般を指していたと思われる。
 タバコに大きな害を与えるのはカブラヤガ、タマナヤガ、オオカブラヤガの幼虫で、これもネキリムシということで「きりうじ」に含まれていたと思われる。
 タバコはネキリムシに食われ、その植え旱魃となると、踏んだり蹴ったりだ。
 三十句目。

   切蜣の喰倒したる植たばこ
 くばり納豆を仕込広庭       孤屋

 「くばり納豆」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年末または年始に、寺から檀家へ配る自製の納豆。
  ※俳諧・炭俵(1694)上「切蜣(うじ)の喰倒したる植たばこ〈野坡〉 くばり納豆を仕込広庭〈孤屋〉」

とある。
 全国納豆協同組合連合会のホームページによると、

 「昔は納豆は、秋から冬にかけて食べるのが習慣でした。したがって、柿の実が色づいて納豆仕込みがはじまると、毎日のように納豆が食卓にのるため、体力が充実してきて、病気に対する抵抗力も強くなるために、医者にかかる人も少なくなってしまう。」

とあり、水戸天狗納豆のホームページには、

 「昔は、寒中に乾燥納豆や納豆漬けを大量に仕込み、田植えの時の体力食にしました。」

とある。
 まあ大体晩秋から冬に仕込むのが普通だったのだろう。
 肉を食べないお坊さんにとって、納豆は貴重な蛋白源だったから、お寺で納豆を作っていたのは当然だろう。タバコの栽培もひょっとしたら外来の植物だけに、お寺を中心に栽培が広まっていたのかもしれない。

2020年7月3日金曜日

 「早苗舟」の巻の続き。

 十七句目。

   只綺麗さに口すすぐ水
 近江路のうらの詞を聞初て     野坡

 近江の浦に占いの「うら」を掛けたものであろう。近江の浦は「只綺麗」で、神社での「占い」に「口すすぐ水」となる。
 さらには近江八景と八卦を掛けているのかもしれない。
 十八句目。

   近江路のうらの詞を聞初て
 天気の相よ三か月の照       孤屋

 占いの詞から天気の状態をあえて「相」と言う。琵琶湖の上に三日月が輝く。
 十九句目。

   天気の相よ三か月の照
 生ながら直に打込ひしこ漬     利牛

 ひしこ漬けはへしこ漬けとも呼ばれ若狭地方の名物になっている。今は鯖や鰒や大きな鰯なども用い、塩漬けにした後糠漬けにするが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「[和漢三才図会]一二寸ばかりの小鰯を用て醢(あつもの)とす。造法、鮮鰯一升、洗はずして塩三合和し、三日にして後、石を以これを圧す。或は同く茄子・生薑・穂蓼・番椒等漬るも又佳也。鯷の字未詳。[本朝食鑑]鯷(ひしこ)は小鰯なり。」

とある。
 昔は小鰯を塩で漬けるだけで糠漬けではなかったようだ。
 小さな鰯は三日月に似てるし、三日漬けるところも三日月に通じる。
 二十句目。

   生ながら直に打込ひしこ漬
 椋の実落る屋ねくさる也      野坡

 椋の木は大木になり、秋に実をつける。大量に屋根に落ちた椋の実は椋鳥も食べきれずに屋根の上で腐ってゆく。
 生きながら塩漬けになる小鰯に屋根の上で腐る椋の実が響きで付く。
 二十一句目。

   椋の実落る屋ねくさる也
 帯売の戻り連立花ぐもり      孤屋

 帯売りは中世の『七十一番職人歌合』にも登場する。女性の職業だった。
 「花ぐもり」は今では桜の季節の曇り空のことだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、

 「[陸放翁天彭牡丹記]半晴半陰謂之花曇、養花天同之。」

とある。陸放翁は陸游のことで、『天彭牡丹譜』の「風俗記第三」に、「最喜陰晴相半,時謂之養花天。」とある。
 以前に帯を売りに行った家を訪ねてみると、椋の実にすっかり屋根が腐っていて荒れ果てていたので戻ってきたということか。花の季節なのに、どこかもやもやとした気持ちになる。
 二十二句目。

   帯売の戻り連立花ぐもり
 御影供ごろの人のそはつく     利牛

 「御影供(みえいく)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏教儀式名。「みえいく」とも読む。祖師の命日に,その図像 (御影) を掲げて供養する法会 (ほうえ) 。代表的なものに真言宗祖弘法大師御影供があり,毎月 21日に行う法会を「月並御影供」,3月 21日の法会を「正 (しょう) 御影供」という。天台宗には天台大師・伝教大師・慈覚大師・慈恵大師・智証大師の五大師御影供がある。なお,宗派により同種の行事を報恩講,あるいは会式 (えしき) ,御忌会 (ぎょきえ) などと称する。」

とある。旧暦三月二十一日頃は桜の季節でもあり、花見の席で着飾るための帯を求めたりして、それを当て込んだ帯売りも稼ぎ時で忙しくなる。

2020年7月2日木曜日

 新たな感染者が一気に増えた。小池知事も西村担当相も菅官房長官も放置する構えだ。安倍首相は表に出てこないし、どうやらブラジル化への道は現実になりそうだ。
 政府や自治体が何もしないなら、本当に国民の方で自粛警察を組織するしかないだろう。
 世界的に経済を再開した国に感染の拡大が見られている。従来の経済に戻そうとすることがいかに危険なことか、もうすぐみんな経験することになる。経済を再開するには、徹底したオンライン化とAI化とロボット化で人と人との接触を最小限に抑える仕組みを作らなくてはならない。
 もう元には戻れない。新世界へ向かって進むしかない。今までの経済への執着を捨てよ。迷うな。古い経済をぶっ壊せ。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 十三句目。

   吹るる胼もつらき闇の夜
 十二三弁の衣裳の打そろひ     利牛

 弁の衣裳を律令制度の弁官の衣裳ということにすると、前句と繋がらなくなってしまう。中国の弁服だとしても同じだ。向かえ付けにしては対になる言葉がない。
 そうなると、弁に何か別の意味があったと考えたほうがいいだろう。
 遊郭の弁柄色の格子と関係があるのかもしれない。あるいはべんがら染めの衣裳があったのか、とりあえず答を保留したい。
 十四句目。

   十二三弁の衣裳の打そろひ
 本堂はしる音はとろとろ      野坡

 舞台はお寺になる。寺院の赤もべんがら塗りだが、それと衣裳とはつながるのか。
 十五句目。

   本堂はしる音はとろとろ
 日のあたる方はあからむ竹の色   孤屋

 青竹は日が当たると日焼けして茶色になる。本堂に何らかの形で青竹が使われていたのだろう。これもよくわからない。
 十六句目。

   日のあたる方はあからむ竹の色
 只綺麗さに口すすぐ水       利牛

 これは手水場の柄杓だろうか。

2020年7月1日水曜日

 香港といいウイグルといい、大変なことが起きているのに、右側にも左側にも中国に忖度する人たちがいる。安倍政権に経団連が圧力をかけているという噂もあるが、本当だとしたら文字通りの意味で売国奴集団だ。
 コロナ対策に圧力を欠けているのも大体どういう奴等かはわかる。とにかく儲かりさえすればいい。人がどれだけ死のうが、一つの民族が浄化され消滅しようがおかまいなしだ。
 国内の感染者数も着実に増え続けているし、今年の下半期もいいことなさそうだな。
 アマビエ巻、挙句。

   疫病に涙も果てぬこの世界
 雲の向こうやさみだれの月

 まあ、とにかく目出度く終わらせる要素が何もないけど、希望だけは失わないでいたいね。
 というわけで三月二十二日に二ケ領用水沿いの枝垂桜を見て、二十五日に脇を付けてから、毎日一句づつ付けていって百句目の挙句に至り、取り合えず生きて満尾することができた。

 「アマビエ」の巻
 新冠病毒退散祈願何人俳諧独吟百韻

初表

    武蔵溝ノ口の二ケ領用水沿いの枝垂桜を見て、
    言水編『東日記』の、
     山川に人魚つるらん糸ざくら 丸尺
    の句を思い起し、
 アマビエもつれるといいな糸桜
   春がいくまで二十八日
 タワマンの霞の中に夜は明けて
   言葉少なに駅の押し合い
 ドアに立つおやじ動こうともしない
   見れば真っ赤に燃え上がる空
 台風の尋常でない夕月夜
   ブルーシートの脇は芭蕉葉

初裏
 秋薔薇のようやく揃う作業小屋
   思えば辛いSEの頃
 異世界にハーレム展開描くにも
   何の嫉妬か見つからぬ本
 ググっても謎の解けない恋の道
   長閑な日々を引き籠りつつ
 信じよう不幸の先の花の春
   知らず年賀の遠方の友
 名を聞いて下の名前と付け加え
   月の宴の門も開いて
 山寺のBGMは虫の声
   露を踏み分け御朱印の列
 レーシングスーツは旅の衣にて
   宿に着いても酒は飲まない

二表
 少しづつ業界言葉覚えだす
   草木も鬱の新緑の頃
 猫の顔隠せるほどの牡丹咲き
   尺八習う和風ゴシック
 時節柄ユーチューバーを目指そうか
   年末ジャンボ一応は買い
 片隅の小さなやしろ手を合わせ
   歩こう会の口は休まず
 七十年過ぎてから言う好きだった
   万博あとにまためぐり逢い
 偶然と思えずもしやストーカー
   公園脇で休憩すれば
 いつのまに宵待草の月夜にて
   暑さも蝉も止むことはなく

二裏
 ネクタイと紺のスーツの皺伸ばし
   すぐに過ぎてくたまの休日
 君の気を引くにも炭に火は着かず
   焼けぼっくいを横目で眺め
 これじゃまるでボーイズラブの女キャラ
   黙っておこうカミングアウト
 世話好きの熟年尼にときめいて
   変わったお茶をご馳走になる
 月を背に漁火遠い日本海
   向こうの岸は霧に閉ざされ
 フレコンの黒きを見れば肌寒く
   かえるの声はどこか寂しい
 花の宴門限だけはゆずれずに
   残念なのはしらす雑炊

三表
 窓からは春の日の射す病院で
   世界は不思議奇跡に溢れ
 太古より恋の遺伝子引き継いで
   それでも引くは子供何人
 公園へお散歩カーの道長く
   木枯らし寒いレッカー作業
 かわいそう日本のひとが叱られる
   左翼ばかりのつどう飲み会
 酒に負け議論に負けてゲロ吐いて
   朝はカラスの騒ぐかあかあ
 住み込みの仕事どこかにないだろか
   嘘をつくのも慣れたこの頃
 夜も更けて曇りもはてぬ薄月に
   彼岸花咲く土手はひんやり

三裏
 監督の怒声も遠く秋の風
   ゾンビ四五人世間話を
 スコップの立ててあるのをちら見して
   明日は雪で何を作ろう
 白菜と葱はあるけど肉はなく
   故郷の便りうれしいけれど
 だからもう結婚なんてしないから
   あの娘は夜の街へと消えて
 役人の小遣いじゃ援交は無理
   ポルノサイトのアイコン注意
 まずシャワー浴びてとせかす下心
   空には昼の月が霞んで
 今日もまた仕事ないまま花を見る
   ふりかえるならみんな陽炎

名残表
 戦いの記憶も遠い春の海
   ここは命の夢のふるさと
 地球儀をくるくる回す子の笑みに
   爺は勝手に物買ってくる
 トイレットペーパー部屋にうず高く
   査察があると通路片付け
 古めかしいエレベーターは故障中
   外階段は夏の香りが
 ワイシャツの少年達は汗臭く
   垣間見るのはスク水の君
 もっこりも気にならぬ程あどけなく
   冬籠る寺虹になぐさむ
 定めなき雨のおさまる凍月に
   中央道を西へと向かう

名残裏
 終らない夢に選んだ新天地
   頼むネットよ繋がってくれ
 豊かさは自由があってこそのもの
   早咲き枝垂れ八重の花々
 過ぎてった楽しい春の思い出よ
   蝶の羽にも時間よ戻れ
 疫病に涙も果てぬこの世界
   雲の向こうやさみだれの月

 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   掃ば跡から檀ちる也
 ぢぢめきの中でより出するりほあか 孤屋

 「ぢぢめき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (歴史的かなづかいは「ぢぢめき」か)
  ① 人がやかましく騒ぐこと。
  ※バレト写本(1591)「ソノバノ jijimequi(ジジメキ) シバシワ ヤマズ」
  ② 動物がやかましい声や音を出すこと。《季・秋》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕
  ※俳諧・ひさご(1690)「雀を荷ふ籠のぢぢめき〈二嘯〉 うす曇る日はどんみりと霜おれて〈乙州〉」
  ③ 小鳥を入れて運ぶ楕円形の長い籠。〔俚言集覧(1797頃)〕

とある。この場合は②の意味だろう。
 「るりほあか」は瑠璃鳥(るりちょう)と頬赤(ほあか)のことで、瑠

璃鳥は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の「る」の八月のところに、

 「瑠璃鳥 [和漢三才図会]碧鳥、俗云、留里。大さ雀のことくにして、頭・背・翮上、翠色。頬・頷、臆下に至て純黒、胸・腹白く、觜・脚・尾、具に蒼色。其声、円滑にして清く囀る。」

とある。
 同じく頬赤は「ほ」の八月のところに、

 「頬赤鳥 正字未詳。[和漢三才図会]状、雀より小く、背の色も亦雀のごとし。其頬赤く胸白くして雌鶉の文あり。声、青鵐に似て細く高し。常に蒿間に棲む。」

とある。
 たくさん鳥が騒いでる中に、瑠璃鳥と頬赤鳥の姿を見出す。美しい鳥もいれば、檀の赤い鮮やかな葉も散っている。
 十句目。

   ぢぢめきの中でより出するりほあか
 坊主になれどやはり仁平次     利牛

 前句の「ぢぢめき」を③の鳥籠の意味に取り成して、出家してもやはり仁平次という俗名の頃から変わっていない。鳥を飼うのをやめられないとする。
 十一句目。

   坊主になれどやはり仁平次
 松坂や矢川へはいるうら通り    野坡

 伊勢松阪の矢川町は現在の松阪駅前のあたりで、遊郭があったが元禄三年の大火で焼失したという。近くには清光寺(せいこうじ)がある。
 坊主になっても遊郭に通うときには元の仁平次に戻ってしまう。
 十二句目。

   松坂や矢川へはいるうら通り
 吹るる胼もつらき闇の夜      孤屋

 「闇の夜」は月のない夜のこと。「胼(ひび)」はあかぎれのことで、田舎の侘しげな遊郭で、女の人たちはあかぎれに苦しみながら闇の夜に生きる。