2020年7月12日日曜日

 昭和十七年版の和辻哲郎の『倫理学 中巻』の「第六節 文化共同体」の所にはかなり長めのアメリカの黒人に関する記述がある。(戦後版では占領軍に配慮して、大幅に書き改められている。)

 「以上の如く見れば人格を民族の一員として規定することは決して突飛ではないのである。が我々は更にこのことを否定的な面から実証することも出来る。即ち人が人格として取り扱われない場合を捕えることによって人格の何であるかを知るのである。かかる場合の代表的なるものは、本路人との区別を重視する立場に立って云えば、人を牛馬と同じく道具として取扱う場合、即ち奴隷制度であろう。ところで我々から見れば、奴隷制度は征服された異民族をおのが民族の一員として取扱わないという態度にほかならぬのである。古代に於いてそうであったばかりではない。近い頃までアメリカ大陸には人類の歴史始まって以来の最も巨大な奴隷制度があったが、アフリカから強制的に連れてこられたニグロは、アフリカのおのが民族の中にあってはそれぞれ立派に人格として取扱われていたにも拘らず、アングロサクソン民族の中では牛馬と同じき道具として取扱われた。そうして人権の平等を宣言して新しい国家を作る際にも、この奴隷の取り扱いが人権平等の主張と真正面から衝突し、従って人権平等の宣言が真赤な嘘になるということには誰も気づかなかった。それは必ずしも十八世紀末のアメリカ人が恐ろしく鉄面皮であったとか頭が粗雑であったとかと言うことを示しているのではない。彼らにとっては人類とはおのが民族のことに過ぎなかったのである。だから人権平等を高唱しつつ奴隷を鞭っていても、何らの矛盾を感ぜられなかったのである。この事実は、アメリカの独立宣言において平等の権利を持つとせられている人格が、実は当時のアングロサクソン民族の一員のみ意味していたということを究めて露骨にしめしていると云ってよいであろう。
 この指摘に対してアメリカ人は南北戦争による奴隷制度の廃棄をあげて弁解するでもあろうが、しかし奴隷制度の廃棄を何か非常に重大な人類愛的行為であったかのごとくに宣伝していること自体が我々にとっては非常に奇妙な現象である。我々から見れば奴隷制度のない状態が正常な人間存在なのであるから、この制度の廃棄は単に正常な状態に復帰したというに過ぎない。重大な事件と目されるべきはむしろアフリカのニグロを劫掠して奴隷にしたというその行為である。この行為があったからこそ奴隷解放という如きことも可能となった。しかもこの奴隷解放だけでは未だ最初の悪虐な行為は償われていない。ニグロはアフリカに於いてその特殊な、しかし極めて好く整った人倫組織を形成していた。ニグロの劫掠はこの人倫組織を破壊し、その人倫性を蹂躙することであった。従ってその償いはニグロをアメリカの市民として差別待遇するというようなことでは果たされないのである。ニグロを人格として取扱うことはニグロ民族を一つの個性として尊重することでなくてはならない。即ち各々の民族をしてその所を得しめるという立場に立つことなくしては人格の尊重はあり得ないのである。」

 アメリカの黒人は奴隷解放の後で市民権を持ってはいても、黒人文化の独立性を認めず、アングロサクソン文化の支配下におかれ、それに従わぬ者として差別されてきた。黒人は白人文化に同化して初めて人間とみなされるような状態が続いていた。
 アメリカの黒人問題の解決には、もちろん黒人だけでなくネイティブアメリカンでもアジア系でもヒスパニックでも、それぞれの文化の尊重なしにはあり得ない。黒人を白く塗って解決するものではない。黒に関する言葉や表現を規制してあたかも黒人が存在しなかったかのようにするのではなく、むしろ黒を最大限にかっこ好くすることのほうが大事だ。
 黒人問題の背後にあるのは古代ギリシャ以来の、嫌な仕事は奴隷に押し付けて俺達は遊んで暮らすんだ、という発想ではないかと思う。
 奴隷は解放されると、次にくるのは失業だ。彼らは職に就くために不利な条件を飲み、後からやってくる様々な移民たちとの競争に晒され、それ同士で争わなくてはならなくなった。
 この異民族をこき使って自分達は楽をするという発想を捨てなくては、何も解決しないのではないかと思う。
 和辻哲郎はきっと日本がこの戦争に負けたらそうなるという危機感でこの文章を書いたのだろう。戦後にはとにかくアメリカ文化を取り入れろと説くが、それが日本人が奴隷化を免れる唯一の道だと考えたからだと思う。白人に同化しろ、それが白人の奴隷にならないための道だった。
 それでは「早苗舟」の巻の続き。

 五十五句目。

   鍋の鑄かけを念入てみる
 麦畑の替地に渡る傍尒杭     利牛

 「替地」はウィキペディアに、

 「江戸時代には、個人の田畑や町村の境界変更のために替地が行われたほか、当事者双方の合意によって宅地や田畑を交換する相対替が年季売・本物返・質流れと並ぶ田畑永代売買禁止令の脱法行為として行われていた。
 また、江戸時代には所領・知行地の交換のことも替地と称した。例えば、境界問題や租税徴収との関係で旗本が江戸幕府の許可を得て知行地を交換したり、幕府や大名が必要上から土地を召し上げた場合の代替地提供のことを指した。だが、もっとも大規模なものは、大名の国替であった。」

とある。
 「傍尒杭(ぼうじくい)」は「牓示・牓爾・榜示(ほうじ)」のことで、コトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔「ぼうじ」とも〕
  ①杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。
  ②馬場の仕切り。
  ③庭の築垣ついがき。」

とある。
 この場合は借金で麦畑を取られてしまった人だろう。古い鍋を修復しながら細々と生活している。
 五十六句目。

   麦畑の替地に渡る傍尒杭
 売手もしらず頼政の筆      孤屋

 借金取りの側に立ち、借金の形で交換した麦畑に金に困って売った頼政の筆を響きで付ける。この場合は筆そのものではなく、筆で書いたもののことか。
 「売手もしらず」はまさか頼政の筆とは売る側も知らなかったという意味だろう。二束三文で買い取った筆が思わぬお宝でびっくりという所か。
 頼政は歌人で、

 今宵誰すず吹く風を身にしめて
     吉野の嶽の月を見るらむ
          従三位頼政(新古今集)

の歌は以前「篠吹く」の例として紹介した。延宝六年の「実や月」の巻の十五句目、

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

の句が、

 埋木の花咲くこともなかりしに
     身のなる果はあはれなりけり
               源頼政

の歌による取り成しだということも以前に書いた。
 一応コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「平安末期の武将。仲政(なかまさ)の子。弓術に長じ,歌人としても著名。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方に参じ,平治の乱では平清盛にくみし,従三位(じゅさんみ)に叙せられて源三位(げんざんみ)と呼ばれた。1180年以仁(もちひと)王を奉じて挙兵,平氏と宇治に戦って敗死した。家集に《源三位頼政家集》がある。紫宸殿(ししんでん)上の鵺(ぬえ)を射取ったという伝説は,能などに脚色されている。」

とある。鵺退治の伝説を詠んだ句には「守武独吟俳諧百韻」の、

   すきとほる遠山鳥のしだりをに
 はきたる矢にも鵺やいぬらん

の句がある。
 五十七句目。

   売手もしらず頼政の筆
 物毎も子持になればだだくさに  野坡

 「だだくさ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「〔近世語〕
 雑然として整理のゆきとどかないさま。ぞんざい。 「 -なやうでもただはころばない/柳多留 14」

とある。只の質草と掛けて用いられていると思われる。子供が出来てこれまでの骨董道楽も止め、不要なものを処分したら、そのなかに頼政の筆もあった。
 五十八句目。

   物毎も子持になればだだくさに
 又御局の古着いただく      利牛

 御局(おつぼね)というと春日局(かすがのつぼね)のような奥女中を連想するが、大河ドラマの『春日局』の頃、職場の年季の入った女性の事を比喩で「お局様」と呼んだりしていた。ここでもこうした比喩もしれない。
 職場の先輩が恩を着せようとしてやたらに古着をくれたりする。まさにお仕着せだ。
 五十九句目。

   又御局の古着いただく
 妓王寺のうへに上れば二尊院   孤屋

 妓王寺は祇王寺のこと。二尊院とともに嵯峨野にある。
 祇王寺は清盛の邸を追われた白拍子、祇王と祇女(19歳)とその母の刀自が尼となった所で、その後も尼寺だった。二尊院の先輩尼から古着をもらったりしてたか。
 六十句目。

   妓王寺のうへに上れば二尊院
 けふはけんかく寂しかりけり   野坡

 祇王寺はこの頃は寂れていたようだ。江戸中期には再興されるが、明治には廃寺となる。二尊院とは天地懸隔だったのだろう。
 六十一句目。

   けふはけんかく寂しかりけり
 薄雪のこまかに初手を降出し   利牛

 「けんかく」とあえて平仮名にしてあるのは「剣客」への取り成しのためか。修行のために表に出れば、雪に先手を取られてしまう。
 六十二句目。

   薄雪のこまかに初手を降出し
 一つくなりに鱈の雲腸      孤屋

 「一つくなり」は中村注に「ひとかたまり」とある。鱈の白子に雪が積もると、どれが雪でどれが白子やら。
 六十三句目。

   一つくなりに鱈の雲腸
 銭ざしに菰引ちぎる朝の月    野坡

 銭を束ねて留める紐がなくてマコモを引きちぎって代用する。緩く束ねられた銭は白子に見えなくもないか。
 六十四句目。

   銭ざしに菰引ちぎる朝の月
 なめすすきとる裏の塀あはひ   利牛

 「なめすすき」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「なめずすき」とも) きのこ「えのきたけ(榎茸)」の異名。
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「聖の好むもの、比良の山をこそ尋ぬなれ、弟子遣りて、松茸平茸なめすすき」

とある。
 えのき茸は今のはひょろひょろと細長いが、これはモヤシのように日に当てずに栽培するからで、本来は茶色くて立派な笠をひろげる。
 裏の塀の方でえのき茸が取れたので売って小銭稼ぎしたのか、菰を引きちぎって銭を束ねる。

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