七十九句目のところで、昔は堤防を意図的に決壊させて水を緩やかにあふれさせることで被害を小さくしようとしたと書いたが、多分江戸時代前期までは河川敷にかなり土地の余裕があったからではないかと思う。
江戸時代後期になると新田開発が進み、川のすぐ脇までびっしりと水田になってしまったため、氾濫すると水田が水につかり、収穫前なら全滅することになる。だから堤防を高く強固にして水害を防ぐようになった。
昔の人の知恵は学ぶべきものもあるが、状況が全く違っていることもあるので必ずしも今の治水に適用できるかどうかはわからない。昔だったら大きな田んぼを守るためには片隅の小さな畑を犠牲にすることもできたかもしれないが、今だとその畑の所有者が許すかどうかという問題にもなるだろう。
火事でも昔は周囲の家を壊して回り、火の手が広がるのを食い止めた。今果たしてそれができるかどうかは難しい。
それでは「早苗舟」の巻の続き。
八十九句目。
うんぢ果たる八専の空
丁寧に仙台俵の口かがり 孤屋
「仙台俵」は中村注に「仙台米の俵」とある。仙台藩は六十二万石で江戸に多くの米を供給していた。
深川に仙台藩の蔵屋敷が立つのは四年後の元禄十一年で、この頃はまだなかった。
米俵の口は藁で編んだ円座状の蓋をかがりつけて止める。出荷用のたくさんの米俵を用意するには、なかなか面倒な作業だ。
九十句目。
丁寧に仙台俵の口かがり
訴訟が済で土手になる筋 野坡
江戸時代は訴訟社会で土地の境界線争い、水利争い、借金の取り立てなど、様々な訴訟が行われた。
河川敷の改修のための土地の収用の裁判だったか、新たな土手が完成し、そこから米俵が船に乗せられてゆく。
九十一句目。
訴訟が済で土手になる筋
夕月に医者の名字を聞はつり 利牛
「聞(きき)はつり」はほんのちょっと耳にすること。
医者は読み書きが得意なので、お坊さんと同様訴訟の際に書類を作成したり、弁護士のような仕事をする。
医者は俳諧師と同様号で呼ばれることが多く、あまり名字で呼ばれることはなかったのではないかと思われる。訴訟が済んだ後の夕月の宴で初めて名字を知るということもあったのかもしれない。
九十二句目。
夕月に医者の名字を聞はつり
包で戻る鮭のやきもの 孤屋
医者への付け届けであろう。名前を聞きかじっただけなので、結局会えなかったか。
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