早朝にはヒグラシが鳴いていたらしい。その後もアブラゼミやミンミンゼミの声が聞こえてきて夏を盛り上げてくれているが、相変わらず空は晴れない。
テレビはGoToキャンペーンで旅行している人の喜びの声を伝え、古い映像まで使って飲食店の賑わいをアピールしている。コロナで日本を混乱に陥れて革命でも起こす気でいるのか。みんなが自粛しないでひゃほーっとばかりに遊び歩いているのが痛快でしょうがないんだろうな。
まあ、気持ちだけは旅気分で、「有難や」の巻の続き。
十三句目
豆うたぬ夜は何となく鬼
古御所を寺になしたる檜皮葺 芭蕉
檜皮葺はウィキペディアによれば、
「飛鳥時代より寺院の建築技術のひとつとして瓦葺が伝来し、寺院の建物の多くは瓦葺きが用いられたが、檜皮葺は付属的な建物の屋根に用いられた。
また、奈良時代・平安時代では公的な建築物が瓦葺きだったのに対し、私的な建築物では檜皮葺が用いられた。例えば朝廷の公的な儀式の場である大極殿は瓦葺きであったが、天皇の私邸である紫宸殿や清涼殿は檜皮葺である。また平安時代以降の貴族の私邸である寝殿造も檜皮葺である。
伝来当初は瓦葺がより格式の高い技法であったが、平安時代以降は国風文化の影響もあり、檜皮葺が屋根葺工法の中で最も格式の高い技法となった。平安時代中期以降は、公的儀式の場も瓦葺の大極殿から、檜皮葺の紫宸殿に移動している。」
ということで、御所の紫宸殿などに用いられてきた。
ここでいう古御所がどこの御所かは定かでないが、御所の建物がそのままお寺として用いられたなら、昔ながらの檜皮葺が残っていてもおかしくない。
芭蕉は平泉の伽羅御所のあたりも訪ねている。曾良の『旅日記』には「さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル」と記されていて、秀衡屋敷は伽羅御所(現在の柳之御所遺跡)と思われる。『奥の細道』本文にも「秀衡が跡は田野になりて」とある。せめて檜皮葺の建物の一つでも残っていてくれればというところか。中尊寺の金色堂は木瓦葺きだった。
現存しないが京都の御所のあたりに、当時は檜皮葺のお寺があったのかもしれない。やや離れているが千本釈迦堂(大報恩寺)には檜皮葺の建物が残っている。ここではおかめ福節分が舞や狂言を交えて華やかに行われている。
十四句目。
古御所を寺になしたる檜皮葺
糸に立枝にさまざまの萩 梨水
糸萩は糸のように枝の細い萩で、立枝(たちえ)は高く枝の伸びる様。萩にもいろいろな品種があり、古いお寺ならそうしたものが植えられていてもおかしくない。
十五句目。
糸に立枝にさまざまの萩
月見よと引起されて恥しき 曾良
萩は臥すに通じる。
月の夜は男が月明かりを頼りに通ってくる夜でもある。そうして床に伏してお楽しみになったのだろう。そしてうとうとしていると起こされる。何となくきまりが悪い。「さまざまの萩」は庭の眺めか、それとも臥した様の比喩か。
十六句目。
月見よと引起されて恥しき
髪あふがするうすものの露 芭蕉
寝乱れた髪に濡れた薄衣、引き起こされた時の状態であろう。
十七句目。
髪あふがするうすものの露
まつはるる犬のかざしに花折て 露丸
宮本注は狆(ちん)だという。愛玩犬なら花の簪もあったのかもしれない。高価な犬で遊女に好まれた。
足もとにまつわりついてくる狆に、花の枝を折って頭にのせてやる。可愛い。
十八句目。
まつはるる犬のかざしに花折て
的場のすゑに咲る山吹 釣雪
的場は弓場、矢場とも言い、本来弓矢の練習場所だが、江戸時代には次第に寺社の縁日などの射的などをも指すようになった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「(1)古くは弓術の練習場をさし、この意味では弓場(ゆば)、的場(まとば)ともいう。武家では長さ弓杖(きゅうじょう)33丈(約76メートル)、幅は同じく1丈(約2.3メートル)と決められ、射場には(あずち)を築き、これに的をかける。矢場は城内や屋敷内、または人家の少ない郊外に設けられた。
(2)江戸時代には、矢場は料金をとって楊弓(ようきゅう)(遊戯用小弓)を射させた遊戯場をさす。これは江戸での呼び名で、京坂では一般に楊弓場といった。楊弓は古くから行われ、主として公家(くげ)の遊戯であったが、江戸時代に民間に広がり、日常の娯楽として流行をみた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころには寺社の境内や盛り場に矢場が出現、矢場女(矢取女)という矢を拾う女を置いて人気をよんだ。間口(まぐち)1、2間のとっつきの畳の間(ま)から7間(けん)半(約13.5メートル)先の的を射る。的のほか品物を糸でつり下げ、景品を出したが、矢取女のほうを目当ての客が多かった。的場の裏にある小部屋が接客場所となり、矢場とは単なる表看板で、私娼(ししょう)の性格が濃厚になった。1842年(天保13)幕府はこれを禁止したが、ひそかに営業は続けられ、明治20年代まで存続した。のちに、矢場の遊戯場の面は鉄砲射的に、私娼的性格は銘酒屋に移行したものもある。」
とある。
この場合は前句を大きな屋敷に住むか仕える女性として、庭の的場の端に山吹が咲いていて、ということだろう。
庶民の矢場は元禄の頃から広まっていったらしいが、最初は健全な娯楽だったのだろう。後にいかがわしい場所になったことから、一説に「やばい」は「矢場」から来たともいう。
山吹のかざしは宗因独吟「口まねや」の七十句目に、
蛤もふんでは惜む花の浪
さつとかざしの篭の山吹 宗因
の句がある。『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りが本歌になる。
「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
やまぶきを上にさして書付けて侍りける
やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
ゐでのわたりの物と見るかな
家綱
返し
心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
はまくりかへしあはれとぞ思ふ
俊頼」
この場合は手紙に添えるかざし。
さて、翌日はいよいよ月山に向けて出発。
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