2020年7月26日日曜日

 朝から雨が降っていたが、上がるとクマゼミのショワショワいう声が聞こえる。
 晴れたかと思ったら雷が鳴り不安定な天気だ。
 ところで大阪の吉村さんはまだ寝ているのかな。

 X感染症対策をやりながら、社会・経済活動を元に戻していく。
 〇感染症対策をやりながら、社会・経済活動を変えてゆく。

 経済のために感染症対策をなおざりにするのではなく、ロックダウンなどの強力な感染症対策にも耐えられるような経済を作らなくてはならない。それが成功した国だけが生き残る。あと半年もすれば結果は出るだろう。
 感染症対策をやりながら、社会・経済活動を元に戻していくなら、何万人もの死者を出し、人材の喪失と社会全体に広まる恐怖が経済活動をじわじわと圧迫しだす。
 感染症対策をやりながら、社会・経済活動を変えてゆくなら、経済は一時的に停滞してもやがて力強く回復に向かいだす。
 さて、日本はどっち?
 経済をどう変えて行けばいいのかというなら、とっくに答えは出ているはずだ。産業の無人化と地産地消化だ。最低限の人の動きで経済を回す。やればできる、やらねばできぬ何事も。
 スクラップ・アンド・ビルドは日本のお家芸だったはずだ。日本ならできる。日本がやらなければほかの国が先にやって、みじめな敗北になるだけだ。これができない亡国政権なら早く代わってくれ。
 まあ、それはそうとして置いておいて、「有難や」の巻の続き。

 翌日、月山山頂から湯殿山に向かう。曾良の『旅日記』にはこうある。

 「七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首(本道寺へも岩根沢へも行也)、コヤ有。不浄汚離、ココニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニシメカケ・大日坊ヘカカリテ鶴ケ丘ヘ出ル道有)。是ヨリ奥ヘ持タル金銀銭持テ不帰。惣テ取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。
 △ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。
 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

 湯殿山へは月山山頂から西側の尾根を行くことになる。
 山頂からそれほど離れてないところに鍛冶屋敷があった。今でもそこは鍛冶小屋跡で鍛冶稲荷神社がある。芭蕉の『奥の細道』の本文には、

 「谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て爰に潔斎して釼を打終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に釖を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ、道に堪能の執あさからぬ事しられたり。」

とある。
 牛首はそこから尾根伝いに下ったところにある。今は月山スキー場への分岐点になっている。ここを越えてゆくと今なら月山湖に出る。寒河江ダムの下のあたりが本道寺になる。岩根沢はそれよりかなり東側で、今のハイキングコースでは月山から南東へと降りてゆく道を岩根沢コースと呼んでいる。岩根沢分岐で道が分かれ、左は岩根沢、右は本道寺になる。
 ここにも小屋があり、体を清めるだけの水があったようだ。
 「少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル」とあるのは今の装束場だろうか。「草鞋(わらじ)脱ぎ替え、手繦(たすき)掛けなどして御前に下る。」
 ここの下りから森林に入り急な坂を下ることになる。下ると湯殿山の御前に着く。これは御宝前のことであろう。その先に弘法大師によって開かれた大日坊がある。
 芭蕉の『奥の細道』にはこう記されている。

 「岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし、行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。」

 月山の桜は高山植物のタカネザクラ(俗称タケザクラ)というものらしい。雪の中に小さく咲くこの桜を見て芭蕉は行尊の、

 もろともにあはれと思へ山桜
    花よりほかに知る人もなし

の歌を思い起こす。
 そのあと御宝前の御神湯に入り、

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな    芭蕉

の句を詠むことになる。
 「△ハラヂヌギカヘ場ヨリシヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。」は装束場から稜線沿い湯殿山山頂を経て南へ行くと志津へ抜け、そこから寒河江川を下っていくと最上川に出るという情報であろう。その次には「堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。」という山小屋の宿泊料の情報も記されている。
 芭蕉と曾良はここで引き返して昼には月山山頂に戻る。ここで昼飯を食うわけだが、今度は「昼食」となっている。「中食」「昼食」結局どっちでもいいみたいだ。
 四合目の強清水にまで戻ると、そこで羽黒山南谷のほうから弁当を持って迎えに来た人に出迎えられることになる。そして夕暮れまでに南谷に帰ることになる。「甚労ル」、ああ疲れた。
 今のハイキングコースの所要時間だと、弥陀ヶ原から月山、月山から御宝前はともに三時間から三時間半くらいのコースとされている。
 一日目は月山に六時ごろ着いたとして、弥陀ヶ原を出たのは二時半ごろか。遅めの中食だった。
 翌日は朝の五時くらいに山頂を出たとして、八時には湯殿の湯につかり、十二時前には月山山頂で昼食をとる。そうなると弥陀ヶ原に着いたのは三時か三時半くらいか。弥陀ヶ原から合清水まで行き、そこから馬に乗ったにしても、強清水までは四里。時速八キロくらいは出さないと強清水の夕食には間に合わない。そこから南谷まで三里。早駕籠にでも乗ったか、それとも本当に忍者だったのか、二日目の行程はかなりハードだった。そりゃあ「甚労ル」となるわけだ。まあ、当然この日も俳諧などする余裕はない。
 「南谷ニ帰」とあるから三日の所に「南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。」とある別院紫苑寺に宿泊していたことになる。四日の表六句の俳諧興行は本坊で行われ、別院へ帰る。ここは訂正する。
 五日の「羽黒ノ神前ニ詣。帰、俳、一折ニミチヌ。」も別院で俳諧興行の続きが行われ、六日はそこからの出発だった。ここも訂正する。」
 『奥の細道』の方の記述に、

 「六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。」

とある。「図司佐吉と云者を尋て」は『旅日記』に「近藤左吉ノ宅ニ着」とあるからここは間違ってない。ただ、そこへの行程が新庄から船で清川を通り、

 「船ヨリアゲズ。一リ半、雁川、三リ半、出羽手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊より帰リテ会ス。」

とあるから、この本坊へ立ち寄ったことが「羽黒山に登る。」に相当するものだろう。申の刻前の夕暮れの空に三ヶ月が見えて、

 涼しさやほの三か月の羽黒山    芭蕉

となったのだろう。
 「雁川」は今日の「狩川」であろう。ここから南へ行くと羽黒町手向に出る。
 近藤左吉宅に着いてそこで近藤左吉こと露丸に「本坊若王寺別当執行代和交院ヘ大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡す。本坊ヘ持参」とあり、この和交院が会覚なので、この日は手紙を渡しただけで、会覚に会うのは翌日の蕎麦切りに招待された時だったと思われる。
 湯殿山から帰った翌日の記述は短い。

 「八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院御入。申ノ刻ニ至ル。」

 昼から本坊の会覚を訪ね、夕暮れまでそこで過ごす。

0 件のコメント:

コメントを投稿