連休三日目。今日は旧暦の六月五日。曇り時々雨。
水無月六日の曾良の『旅日記』には、こう記されている。
「六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小やがけ也)。弥陀原、こや有、中食ス。(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」
好天に恵まれて、芭蕉、曾良御一行は月山を目指すこととなった。『奥の細道』の本文には、
「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」
「八日」は芭蕉の記憶違いであろう。この種の間違いは『奥の細道』のあちこちに見られる。芭蕉はあくまで自分の記憶で『奥の細道』を書き、曾良の『旅日記』と照合することはなかったのだろう。書いたのが三年後の元禄五年だから、記憶違いがあるのもしょうがない。
「木綿しめ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 こより、または白布で編んだ紐で輪を作り、首にかける修験袈裟(しゅげんげさ)。
※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)出羽三山「八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて」
とある。「宝冠」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「③ (「法冠」とも書く) 五智宝冠または八葉蓮華をかたどった山伏・修行者が着用したかぶりもの。
※俳諧・曾良随行日記(1689)日記本文「浄衣・法冠・しめ斗にて行」
とある。
宝冠は白い布を頭に巻いて結んだようなもので、木綿注連は縄状のものを首からかける。普段の旅姿にこの二点を加えたスタイルだったのだろう。もちろん二人で登るような無謀なことはせず、強力が付き従う。ガイドと荷物持ちを兼ねていたのだろう。
今日では八合目の弥陀ヶ原まで道路が通っているが、当時もこの少し手前の七合目高清(今の合清水)まで馬で行けたようだ。
道路ができる前の道筋は「山形県鶴岡市羽黒町観光協会ブログ」で写真入りで辿ることができる。
おそらく朝早く手向荒町の露丸亭を出て、馬で合清水に向かったのだろう。馬は馬子に曳かれて尾根伝いの道をゆっくりと進む。
「三リ」とあるから三時間後くらいには四合目の強清水に着く。小月山(おづきやま)神社のあるところが二合目だから、それよりは先にある。その名の通り湧き水があり、休憩場所になっていた。ここから先が急な上り坂になり、上ると視界が開け、鳥海山が見えるという。
六合目の平清水は今でも避難小屋があり、少し前まではキャンプ場もあった。
七合目の合清水で弥陀か原高原へと一気に登ってゆく途中にある。かつては馬の終点だったため小屋があったようだ。ここから更に登り高原に出ると、今では高山植物の咲き乱れる高原だが、江戸の寒冷期には至る所に雪の残る雪原だったのではないかと思う。『奥の細道』の「氷雪を踏みてのぼる事八里」もあながち誇張ではなかったのだろう。
弥陀ヶ原にも小屋があって昼食をとる。当時は朝餉と夕餉の間のという意味で「中食」だったか。持ってきた弁当でも食べたのだろう。
「(是ヨリフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドト云ヘカケル也。)難所成。」とあるように、この高原は氷雪踏み分けてゆく難所だった。「フダラ」は雨告山の方が西補陀落、藁田禿山(わらたかむろやま)の方が東補陀落と呼ばれているように、この高原全体が補陀落だったのかもしれない。御浜池は藁田禿山の先にある。濁沢は御浜池より一つ南側の谷にある。これらへの道への分岐点があり、そのつど強力さんが解説してくれたのだろう。
「御田有。行者戻リ、こや有。」の御田は御田原で弥陀ヶ原からそれほど離れていない。「行者戻リ」は行者返しで大きな岩を上る険しい道で、役行者(えんのぎょうじゃ)がここで引き返したという伝承があるらしい。ここを上ると山頂も近い。
山頂に着いたのは申の刻で日の沈むころだった。今だと出羽三山神社の月山本宮だが、当時も神仏習合した月山権現の御室があったのだろう。角兵衛小屋があってそこに宿泊する。
曾良の『旅日記』に「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」とある。岩波文庫の『おくのほそ道』の萩原恭男注は、ブロッケン現象のこととしている。
芭蕉の『奥の細道』には「息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。」とあるが、六日の月だから月は半月までいかずに西の方にあったと思われる。そのあと「笹を舗、篠を枕として、臥て明るを待。」と野宿を匂わせているが、ちゃんと山小屋に泊まっている。
この日は天気も良く、夏の入道雲がもくもくと現れては大きくもならずに消えて、それを繰り返してたのだろう。霧はかからず雲も広がらず、来光(ブロッケン現象)は見られなかったが、夜には月山の名前の通りの月も見えた。
雲の峰幾つ崩て月の山 芭蕉
と、この句で締めくくっておくことにしよう。
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