2017年6月29日木曜日

 人文科学を本当の意味で科学にするには、脳科学の十分な発展を待たなくてはならないが、その前でも出来ることはある。
 基本的には形而上学的独断を語らないということだ。
 神を現在において人間の理性では説明できぬものと定義する分にはかまわないが、それに「全知全能」だとか「唯一絶対」という属性を与えることは形而上学的独断に当たる。
 神は一人かもしれないし八百万の神がいるのかもしれない。また、そこに一即多の論理を当てはめることもできるかもしれない。そこは変数として処理しなくてはならない。いずれにせよ科学的に証明はできない。
 つまり、未だ科学的に証明されてないものが存在するということは主張できる。ただその内容については未知というほかなく、そこに神話を語るべきではない。
 言語や民族なる物が個々の人間を超越して存在するという主張についても、ならそれはどういう存在なのかといった時に非物質的な霊的な存在を仮定すべきではない。可能性があるとすればそれは人類の共通の遺伝子くらいであろう。もちろんそれでは個々の言語や民族は説明できないが、多様な言語や民族が生み出されるその根本が遺伝子に由来すると仮定することはできる。チョムスキーの言うような深層文法がもし存在するなら、それは遺伝的なものであろう。あるいは記憶一般の構造化に関わるものなのかもしれない。
 人間の記憶は何らかの形で要素に分解され構造化されることによってなされる。その操作の多くは意識に登ることはない。こうして人はそれぞれ自分の脳の中に無意識の内に世界を秩序付け構造化し記憶する。それが言葉や絵や音楽などの手段によって伝達可能なのは、その構造化の背後に遺伝的な要素があり、大体同じような内容になるからであろう。しかし、細かい所では多様性が生じる。
 哲学はこうした無意識の内に構造化された世界を意識化する作業ではないかと思う。その意識化の過程は哲学者によって様々で方法もばらばらだから、結局哲学者の数だけ哲学があることになる。ただ、根底にある世界の構造化そのものは遺伝的であるため、他人の哲学を全面支持はできなくてもある程度は共鳴することはできる。
 「世間一般」だとかハイデッガーの言う「日常的平均的なもの」についても、人によって捉え方はばらばらだ。だけど根底の部分に遺伝的要素があるからばらばらでも互いに共感することはできる。「何とかの常識は世界の非常識」なんて言い方もあるが、それでも複数の異なる常識があることは理解できる。それは同じものを違う角度から見ているとわかるからだ。最初から違うものを見ているなら共感も伝達も成立しない。
 世界を自分という一つの角度から見るのが哲学なら、複数の角度から見るのは連歌俳諧だ。

2017年6月28日水曜日

 前にエピステーメのことを書いたが、結局ミシェル・フーコーの知の考古学も科学として確立できないまま、今では忘れ去られている。レビストロースの開いた構造人類学も同じようなものだ。だからと言って一般的な社会学もやはり迷走中というほかない。
 文献学に基づく古典的な人文学(ヒューマニズム)の時代は確実に終わってゆくが、フーコーが思い描いたように言語学をモデルにして人文科学が再編されることもなかった。
 文化だとか歴史だとかを科学的に解明することは難しい。一度起きた事件は二度と起こらないから、検証することができない。
 それに加えて、民族だとか文化だとかいうものは明確に定義することができない。一口に大和民族と言っても、北は北海道から南は沖縄まで様々な地方文化があり、独自の県民性があったりするし、同一地域でもオタクもいればヤンキーもいるし、様々な職種や学歴や階級によって生じる多様性をどう捉えていいかもわからない。
 民族は遺伝子からしても定義できない。今までも様々な形で混血してきたし、これからも国境を越えたラブロマンスは無数に作られていくだろう。
 明確に定義できないけど、漠然として何となく存在している。それが文化であり民族だ。
 言語も同じだ。ソシュール言語学でいうような「ラング」は一つの理想としてしか存在しない。現実に存在するのは無数のパロールだけだ。パロールは無秩序なのではなく、各自の脳の中でそれぞれ独自に構造化されている。その各自の内で構造化された言語は、どれもよく似ているがまったく同じかというとそうではない。だから文法や語彙が正しいかどうかについて意見は分かれる。一般の間でもそうだし、言語学者の間でも一つの答えというのはない。
 民族も文化も、各自それぞれの中で独自に構造化されているし、隣に住んでいる人同士だとそれは大体似ている。それでも各自の構造があるだけで、一人ひとりの人間を離れて民族や文化が超越的に存在することはない。
 だから、社会を科学すると、その対象は全ての成員の内にあるそれぞれ微妙に異なった構造物を全て対象にしなくてはならない。そんなことは無理な話だ。だから統計的方法に頼る。しかしその統計の質問の仕方でいくらでも操作できる。安倍首相の支持率はある新聞の調査では86パーセントで、ある新聞の調査では5パーセントだという。
 社会科学は永遠に大雑把な傾向ぐらいのことしかいえない。歴史学も哲学も文学研究も同様だ。大雑把なことしか語れない。そんな大雑把なもので政治が動けば、政治もまたとんでもない愚を繰り返すのは当然だ。
 人文科学の再編はフーコーの意に反して、あくまで脳科学の進歩を待って延期された状態にある。脳科学と人工知能が一致した時、初めて人文科学は「科学」となるのかもしれない。そのとき、人文学者というのは存在しない。高度なAIとそれを搭載した量子コンピュータのみが人文学者になる。
 囲碁や将棋でもAI同士を対戦させるとそれこそ並み居るプロ棋士の理解を超えた宇宙人の戦いになるという。そういう宇宙人が政治をやれば、ひょっとしたら科学的社会主義が実現するのかもしれない。
 そんな取りとめのないことを考えながら、昔の人の言葉に思いをはせる。AIだったら、膨大な古典のテキストから、まったく我々の思いもしなかったような名前も付けられないような概念を発見し、それを駆使して解明してくれるかもしれない。そのときようやく答合わせができるのだろう。

2017年6月26日月曜日

 さあいよいよ「紫陽花や」の巻もあと二句。名残惜しい所だ。庶民から将軍様までいろいろな人の人生の一断面を眺めながらも、言の葉の遊びには必ず終わりがある。
 連句は振るたびに模様の変わる万華鏡のような世界。

三十五句目
   日用の五器を籠に取込ム
 扈従衆(こしょうしゅう)御茶屋の花にざはめきて 桃隣
 (扈従衆御茶屋の花にざはめきて日用の五器を籠に取込ム)

 「御茶屋」はウィキペディアによると、1御殿御茶屋、2お茶屋屋敷、3御茶屋、4茶屋、5お茶屋の五つに分類されている。御殿御茶屋は将軍の外出の際の休憩所。お茶屋屋敷は慶長十年に徳川家康が上洛の際の休泊のための施設。御茶屋は街道に作られた大名のための宿泊施設で「本陣」とも言う。茶屋は一般の休息所。お茶屋は花街で芸妓を呼んで飲食する店。
 扈従衆(こしょうしゅう)を引き連れて来るのだから、将軍か大名の訪れる御茶屋で1か2ではないかと思われる。桜がたくさん植えられているなら、1である可能性が高い。今は浜離宮恩賜庭園となっている浜御殿や品川の御殿山にあった品川御殿などがある。
 将軍やそのお付の者たちが御殿御茶屋の広い庭に桜が咲いているのを見て俄にざわめきたち、今にも花見の宴になりそうなので、御茶屋の日雇い衆は急いで籠に食器を詰めて庭へと運び、宴の準備をする。

季題は「花」で春。植物、木類。「扈従衆」は人倫。

挙句
   扈従衆御茶屋の花にざはめきて
 小船を廻す池の山吹     主筆
 (扈従衆御茶屋の花にざはめきて小船を廻す池の山吹)

 挙句はこの興行の筆記係を務めていた「主筆」が詠み、一巻が締めくくられる。
 浜離宮クラスの立派な御茶屋であれば、庭に船を浮かべられる池くらいありそうだ。岸には山吹も咲いている。
 山吹といえば小判の連想も働く。粗末な藪の「別座敷」に始まり、最後は山吹の池に船まで浮かべて終わる。病身で前途洋々の旅ではないが、芭蕉の最後の旅をこうして目出度く送り出すことができた。そして江戸の人たちとはこれが永の別れとなった。
 黄金は錆びないところから永遠の命の象徴とされており、道教では黄金の骨と玉の肉体を手にいれることで不老不死を得られるとされていたということは、『笈の小文─風来の旅─』(鈴呂屋書庫にupされている)の西河のところでも書いた。池の山吹に芭蕉も永遠にというところか。

季題は「山吹」で春。植物、草類。「小船」「池」は水辺。

2017年6月25日日曜日

 なぜ俳諧を読むのか。なぜ俳諧に惹かれるのか。
 多分それはひたすら自分のことばかり言う近代文学と違い、いろんな人の気持ちに成り代わって一人の人間がいろいろな人生を詠むことで、自分と違ういろいろな立場の人の心を学ぶことができるからではないかと思う。
 他人の気持ちを理解し、他人に成り代わって他人のことを表現する。それは芸術を自己表現だとする西洋の考え方とは違うかもしれない。連歌や俳諧は違う。皆それぞれが他人に成り代わり、いろいろな人の心を表現する。

   門しめてだまつてねたる面白さ
 ひらふた金で表がへする    野坡

 もちろん野坡はそんなことをする人ではない。でもその気持ちはわかる。連衆も集の読者も「あるある」といってそれを理解する。

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉

 これはまったく違う死に近い老人の句。これは芭蕉自身の心境だったかもしれないが、長い連句の中ではこういう人もいるというところで、誰もがその身に成り代わってその心境を理解する。

   月くらき夜の塩梅を星で見る
 聖霊棚はよほど窮屈   浪化

 これなんぞは死霊の立場に成り代わる。

   輾磑をのぼるならの入口
 半分は鎧はぬ人もうち交じり   嵐蘭

 ここでは源平合戦の頃の僧兵にもなれる。

   草庵に暫く居ては打やぶり
 いのち嬉しき撰集のさた   去来

では西行法師にもなれる。
 いろいろな人の身になって、いろいろな人に共感して、いろいろな人の人生を理解する。それが連歌、俳諧の心ではないかと思う。
 そして、人の心に成り代わり、人の心を理解するということが我国の文化の根底にあったことは誇るべきことだと思う。
 人間は一人一人皆違い、一人として同じ人間はいない。考え方も人生観も信じるものも何を幸せとするかも、みんな人それぞれだ。生物が多様であることで強固な生態系を構成するように、みんなそれぞれ違うから社会も強固なものになる。
 遺伝子に多様性がなかったなら、環境が変わればみんな一様に死滅するしかなかった。多様であるがために誰かが生き残って次の時代を作る。その多様さが互いに足りないものを補いあうことで、一人だけでなくみんなが生き残る確率も高くなる。
 人は皆自分だけの遺伝子を持って生まれてくる。そして人は誰しもその自分固有の遺伝子の声にしたがって生きるほかない。人は誰しも生命の多様性の一つとしての自分を生きなくてはならない。でも自分だけではない。多様性の一つだから生きられる。それを教えてくれるのが連歌・俳諧ではないかと思う。

 それでは「紫陽花や」の巻の二裏に入る。

三十一句目
   国から来たる人に物いふ
 閙(いそが)しう一臼搗て供支度 芭蕉
 (閙しう一臼搗て供支度国から来たる人に物いふ)

 国から来た人にお供するように誘われたか。すぐに付いてゆきたい気持ちを抑え、取り合えず目の前の仕事を片付ける。

無季。

三十二句目
   閙しう一臼搗て供支度
 糞(こえ)汲にほひ隣さうなり  子珊
 (糞汲にほひ隣さうなり閙しう一臼搗て供支度)

 「一臼搗て」を田舎の事として、肥え汲む匂いを付ける。糞尿ネタはシモネタということで蕉門では嫌われるが、畠に蒔く肥えを詠んだ句はいくつかある。

無季。

三十三句目
   糞汲にほひ隣さうなり
 今の間のじるう成程降時雨    杉風
 (今の間のじるう成程降時雨糞汲にほひ隣さうなり)

 「じるう」は「地潤う」。
 『炭俵』の「ゑびす講」の巻に、

   砂に暖のうつる青草
 新畠の糞もおちつく雪の上   孤屋

の句があるように、新しく開墾した土地では雪の解ける頃に肥料をやるのが良いとされている。土が湿っていると酸欠になるからだという。
 雪のない地方なら、収穫の終わった後の冬に荒起こしをして土を空気にあて、それから土作りに入る。肥を撒くのもこの頃だ。
 雨が降りすぎると酸欠になる恐れがあるが、時雨の雨なら地面を潤してくれる。

季題は「時雨」で冬。降物。

三十四句目
   今の間のじるう成程降時雨
 日用の五器を籠に取込ム    八桑
 (今の間のじるう成程降時雨日用の五器を籠に取込ム)

 日用は「にちよう」ではなく「ひよう」と読む。日用(ひよう)の場合は「日雇い」のことをいう。
 時雨が降りだしたので、日雇い労働者が主人の大事な食器を急いで籠に入れ、片付ける。

無季。


2017年6月24日土曜日

 今日は旧暦で閏五月の朔日。「紫陽花や」の巻の巻かれた元禄七年(一六九四)もまた閏五月があった。閏五月朔日は伊賀上野に帰り着いたばかりの頃だ。
 許六・李由編の『韻塞(ゐんふたぎ)』には「閏月」という部立てがあり、

   芭翁後の旅行、餞別に
 五月雨も日と月のびよ閏月    石菊

の句がある。
 芭蕉が旅立ったのはまだ五月十一日のこと。既に体調の悪化した芭蕉に急ぎの旅は無理なので、ゆっくり時間をかけて旅をしてくださいよという気遣いを込めている。「日と月のびよ」は「一月のびよ」と掛けている。
 もう一句五月閏の句がある。

 さみだれにふた月ぬるる青田哉  芳山

 これは芭蕉の旅とは関係なく同じ頃詠まれたものだろう。芭蕉は閏五月になる前に伊賀に到着している。ただ大井川では川止めにあって五月十六日に島田に到着したが大井川を渡れたのは十九日だった。
 さてその芭蕉の最後の旅立ちの少し前に巻かれた「紫陽花や」の巻の続き。

二十七句目
   見世より奥に家はひっこむ
 取分て今年は春(はる)ル盆の月 子珊
 (取分て今年は春ル盆の月見世より奥に家はひっこむ)

 月の定座を二句繰り上げる。
 『校本芭蕉全集』第五巻の中村注は、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)の、「あらたに家を造りて飛退たる人の霊祭りする体と思ひよせたり」を引用しているが、それが何で珍しく晴れた盆の月と関係があるのか良くわからない。『俳諧鳶羽集』は『猿蓑』や『炭俵』の注でも独自の解釈が多い。
 これは薮入りに結びつけた方がいいのかもしれない。奉公人が店を出てどこかの奥の家に引っ込むと、その夜は珍しく晴れて盆の月が見えるというのはどうだろうか。

季題は「盆の月」で秋。夜分、天象。「盆」が釈教ではないことは『去来抄』にもある。

二十八句目
   取分て今年は春ル盆の月
 まだ花もなき蕎麦の遅蒔    杉風
 (取分て今年は春ル盆の月まだ花もなき蕎麦の遅蒔)

 蕎麦には春蒔き用の品種と夏蒔き用の品種があり、この場合は夏蒔きの方だろう。夏蒔きは新暦の八月に蒔くから、いくら蕎麦の成長が早いからといっても、お盆の頃はまだ芽生えたばかりで花とは程遠い。春蒔きの方はこの頃花が咲く。「蕎麦の花」は秋の季語になっている。
 中村注は「春ル盆の月」を旱魃のこととして、「盆頃の日でり続きから、作物の不作を思いよせた付け」としているが、それだと十五句目の「秋来ても畠の土のひびされて」とかぶる。
 芭蕉はこのあと九月に伊賀で、伊勢からやってきた支考と斗従をねぎらい、

 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉

の句を詠むことになる。夏蒔きの蕎麦も山奥となればさらに遅く、旧暦九月にようやく花が咲く。食べるのはもっと後のこと。

 三日月に地は朧なり蕎麦の花   芭蕉

の句はこの二年前の元禄五年秋の句。蕎麦の白い花は小さく、夕暮れともなるとかすかに白く朧に見える。マイナーイメージで朧な蕎麦の花と対比させることで、暗に月の方は秋で澄み切っていることを表している。

季題は「花もなき蕎麦(蕎麦の花)」で秋。植物、草類。

二十九句目
   まだ花もなき蕎麦の遅蒔
 柴栗の葉もうつすりと染なして  桃隣
 (柴栗の葉もうつすりと染なしてまだ花もなき蕎麦の遅蒔)

 「柴栗」は栗の原種で小粒だが味は良いという。筆者はまだ食べたことがないので「良い」と断定はしない。栗の葉も秋になると黄葉するが、蕎麦もまだ花の咲く前だから栗の葉もよく見ないとわからない程度のうっすらと色づくに留まる。

季題は「柴栗」で秋。植物、木類。

三十句目
   柴栗の葉もうつすりと染なして
 国から来たる人に物いふ     八桑
 (柴栗の葉もうつすりと染なして国から来たる人に物いふ)

 故郷よりやってきた人に、ついつい尋ねてみたくなる。「柴栗の葉もうつすりと染なしているかい?」と。

無季。「人」は人倫。

2017年6月23日金曜日

 ネットで芦田愛菜ちゃんの句が話題になっていた。

   学校の傘立て
 青空や赤い長靴鬼ころぶ    愛菜

 「鬼ころぶ」の意味がわからないが、この場合の「鬼」はひょっとして強調の言葉で「鬼のようにころぶ」ということだろうか。
 梅雨の雨が上がり青空が見えると喜んで、朝履いてきた赤い長靴で外に飛び出すが、履きなれない靴なので派手にころんでしまったというなら、なかなか面白いのではないかと思う。やはり凡人の句ではない。
 季語のない弱点は前書きで補えばいい。

   梅雨晴れの学校の傘立てにて
 青空や赤い長靴鬼ころぶ

 ところで話は変わり、今日も「紫陽花や」の巻の続き。二十三句目から。

   五つがなれば帰ル女房
 此際(このきは)を利上ゲ計に云延し 杉風
 (此際を利上ゲ計に云延し五つがなれば帰ル女房)

 「利上げ」は今日では金利を上げることだが、ここでは元本を返済せずに利息分だけを支払うことを言うらしい。ただ、辞書を見ると用例がこの句だというのは気になる。ほかの用例はあるのだろうか。
 元本が減らなければ永遠に利息を払い続けなくてはいけないし、それすら滞るとなれば、後は借金が雪だるま式に増えてゆき、借金地獄に落ちてゆくパターンだ。女房にも逃げられる。

無季。

二十四句目
   此際を利上ゲ計に云延し
 まんまと今朝は鞆(とも)を乗出す 桃隣
 (此際を利上ゲ計に云延しまんまと今朝は鞆を乗出す)

 鞆は備後国の鞆の浦で瀬戸内海の海上交通の要。何とかこれからの商売で借金を返すんだと、前向きに転じた句だ。

無季。「鞆」は名所。水辺。

二十五句目
   まんまと今朝は鞆を乗出す
 結構な肴を汁に切入て     八桑
 (結構な肴を汁に切入てまんまと今朝は鞆を乗出す)

 「まんま」を飯に取り成す。朝飯をしっかり取ってから航海に乗り出す。

無季。

二十六句目
   結構な肴を汁に切入て
 見世より奥に家はひっこむ   芭蕉
 (見世より奥に家はひっこむ結構な肴を汁に切入て)

 これは京の町屋だろうか。間口は狭いが奥行きが長く、うなぎの寝床のような家は税金対策だとも言われている。奥の間では結構な肴を惜しげもなく汁に切り入れている。

無季。「家」は居所。

2017年6月22日木曜日

 「紫陽花や」の巻の続き。

十七句目
   雲雀の羽のはえ揃ふ声
 べらべらと足のよだるき花盛  子珊
 (べらべらと足のよだるき花盛雲雀の羽のはえ揃ふ声)

 さて花の定座だが、練雲雀からどうやって花に持ってゆくのか、芭蕉からの難題だ。
 結局子珊の答は前句を比喩に取り成すことだった。羽の生えたばかりの雲雀は鷹の餌食になるくらい動きも緩慢だというところから、疲れきった花見客をそれに喩える。
 「べらべらと」というオノマトペは常用されていたわけではなく感覚的に言い放ったものだろう。「ぶらぶらと」だと普通の散歩だが、「べらべらと」だともっとけだるい感じがする。花見ではしゃぎすぎたか、人の多さで辟易したか、はたまた飲みすぎたか、あるいは祭の後の寂しさか、行きは上げ雲雀でも帰り道は練雲雀の声のようにけだるい声になる。

季題は「花盛」で春。植物、木類。

十八句目
   べらべらと足のよだるき花盛
 ひらたい山に霞立なり     杉風
 (べらべらと足のよだるき花盛ひらたい山に霞立なり)

 平たい山は上野山のことだろう。芭蕉の時代から花の名所だった。標高はせいぜい二十メートルくらい。桜が咲けば遠くから見ると白く霞がかかったように見える。
 昔は染井吉野ではなく山桜だったから、その白い花は霞や雲に喩えられた。

季題は「霞立」で春。聳物。「山」は山類。

二表

十九句目
   ひらたい山に霞立なり
 正月の末より鍛冶の人雇    桃隣
 (正月の末より鍛冶の人雇ひらたい山に霞立なり)

 平たい山を平城山(ならやま)に取り成したのだろう。特に佐保山の霞は古来歌にも詠まれている。平らにすることを「ならす」というあたりが語源か。

 飛鳥の天の香具山も亀の甲のように平たい山で、香具山の霞も古歌に詠まれている。
 奈良には鍛冶屋が多く、農閑期には農家の人も臨時に雇ったりしたのだろう。
 『校本芭蕉全集』第五巻の中村注は、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)の「二月・八月をもて鍛冶の時節とす。故にむかう槌の人雇ひしたるさまをあしらひたり」を引用している。

季題は「正月」で春。「鍛冶」は人倫。

二十句目
   正月の末より鍛冶の人雇
 濡たる俵をこかす分ヶ取     八桑
 (正月の末より鍛冶の人雇濡たる俵をかす分ヶ取)

 これは「鍛冶」を「梶」に取り成したか。今では「梶」は船の方向を変えるための道具だが、本来は船を進めるための櫓や櫂を意味していた。
 前句の「正月の末より」は捨てて、舟漕ぐ人足を雇って、難破船から濡れた米俵を転がし、山分けした。
 『校本芭蕉全集』第五巻の中村注は、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)の、

 「人雇ひといふより起して、破船あるひは暴風などにて、ぬれたる俵の価をさげて売る折々あり。一口に買入れわけ取するさまを見せたり。」

を引用している。これは「鍛冶」をそのままの意味にして、米を買って分けたとするわけだが、それだと単なる共同購入で、わざわざ「雇う」意味がわからない。

無季。

二十一句目
   濡たる俵をこかす分ヶ取
 昼の酒寝てから酔のほかつきて  芭蕉
 (昼の酒寝てから酔のほかつきて濡たる俵をこかす分ヶ取)

 さて、取り成しの応酬になると芭蕉さんも負けてはいられない。これも「俵」の「瓢」への取り成しだろう。
 昼間っから酒を飲んでいい気持ちになってうとうとしていると急に酔いが回ってきて、酒のこぼれて濡れた瓢箪を分けてもらって飲もうとしてひっくり返す。

無季。

二十二句目
   昼の酒寝てから酔のほかつきて
 五つがなれば帰ル女房      子珊
 (昼の酒寝てから酔のほかつきて五つがなれば帰ル女房)

 「五つ」は時刻の暮五つのことで、春分秋分の頃だと午後八時くらいになる。昼の酒に酔いつぶれて、眼が覚めたら午後八時で真っ暗。女房はあきれて里へ帰っちまったってんだから情けない話だ。

無季。「女房」は人倫。

2017年6月21日水曜日

 今日は雨も風も強く嵐のようだった。
 それでは「紫陽花や」の巻の続き。

十三句目
   山のかぶさる下市の里
 草臥のつゐては旅の気むづかし  杉風
 (草臥のつゐては旅の気むづかし山のかぶさる下市の里)

 これは難しい。「草臥(くたびれ)のつゐて」は多分「草臥つく」の変化したものだろう。「草臥」は語源的には草の上にひれ伏すことなのだろう。「草臥つく」はその疲労の慢性化したものをいうのだろうか。「気むづかし」は気味が悪い、恐ろしいという意味。
 中村俊定注には「山間の里から旅、旅から草臥を趣向とし、宿とる、とらぬの仲間あらそいと句作した」とあるが、どこから仲間争いが出てきたのかよくわからない。
 疲労が重なることで、山間の里の山が不気味に迫って、襲い掛かってくるように見えるということか。下句の「かぶさる」を生かすなら、そういう解釈になる。

無季。「旅」は旅体。「仮枕」から三句隔てている。

十四句目
   草臥のつゐては旅の気むづかし
 四日の月もまだ細き影      桃隣
 (草臥のつゐては旅の気むづかし四日の月もまだ細き影)

 前句の「気むづかし(恐ろしい)」を薄暗がりのせいにする。
 二日三日だと夕暮れの空に月はあるものの真っ暗になる前に沈んでしまうが、四日だと真っ暗な中に四日の月が残っている。ただ、地面を照らすにはあまりに弱々しい光で闇とかわらない。

季題は「月」で秋。夜分、天象。

十五句目
   四日の月もまだ細き影
 秋来ても畠の土のひびわれて   八桑
 (秋来ても畠の土のひびわれて四日の月もまだ細き影)

 旱魃だろうか。旧暦文月の四日になっても恵みの雨は降らず、畠の土はひび割れている。

季題は「秋」で秋。

十六句目
   秋来ても畠の土のひびわれて
 雲雀の羽のはえ揃ふ声      芭蕉
 (秋来ても畠の土のひびわれて雲雀の羽のはえ揃ふ声)

 さてまたまたこれは難しい。秋は三句続けなくてはいけないのに「雲雀の羽のはえ揃う」は練雲雀で夏になってしまう。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では六月の所に、

 「練雲雀 ○凡六月、毛をかへて旧をあらたむ。俗呼て練雲雀と称す。毛かふるとき、其飛こと速かならず。故に鷹を放てこれを捕ふ。これを雲雀鷹と云。」

とある。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の補注に引用されている『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『華実年浪草』(三余斎麁文、宝暦三年刊)にも練雲雀や雲雀鷹への言及がある。
 夏から秋にかけてのことだから、秋とする場合もあったのか。
 ひび割れた畠に鷹の餌食となる雲雀は響き付けだろうか。

季題は「練雲雀」でここでは秋。鳥類。

2017年6月20日火曜日

 昼間は暑いけど朝は涼しいからまだいい。いろいろな所で紫陽花が咲いている。確かにこの時期は紫陽花が咲いているというだけで、そこだけ特別な感じがする。
 それでは、「紫陽花や」の巻の続き。初裏に入る。


七句目
   榾堀かけてけふも又来る
 住憂て住持こたへぬ破れ寺   子珊
 (住憂て住持こたへぬ破れ寺榾堀かけてけふも又来る)

 「住持」は住職のこと。「こたへぬ」はこの場合「堪へぬ」で、昔はお坊さんがちゃんと住んでたのだが、あまりに山奥で住み辛くてついに破れ寺になってしまったようだ。ただ榾を取りに来る人だけが毎日やってくる。

無季。「住持」「寺」は釈教。

八句目
   住憂て住持こたへぬ破れ寺
 どうどうと鳴浜風の音     杉風
 (住憂て住持こたへぬ破れ寺どうどうと鳴浜風の音)

 住み憂き寺とはどういう寺かというと、海辺で浜風のどうどうと鳴るようなところにある寺だ。
 こういう景を付けてさらっと流すのは杉風の得意パターンか。

無季。「浜風」は水辺。

九句目
   どうどうと鳴浜風の音
 若党に羽織ぬがせて仮枕    桃隣
 (若党に羽織ぬがせて仮枕どうどうと鳴浜風の音)

 「若党」はウィキペディアによれば、

 『貞丈雑記』に「若党と云はわかき侍どもと云事也」とあるように本来は文字通り若き郎党を指したものであるが、江戸時代には武家に仕える軽輩を指すようになった。その身分は徒士侍と足軽の中間とも足軽以下とも言われた。「若党侍」とも呼ばれるが士分ではなく大小を差し羽織袴を着用して主人の身辺に付き添って雑務や警護を務めた。一季か半季の出替り奉公が多く年俸は3両1人扶持程度であったため俗に「サンピン侍」と呼ばれた。

という。
 「仮枕」は旅で寝ることを言う。
 前句の浜風の音を海辺の宿場のこととし、武士がお付の者に羽織を脱がせてもらって床に就く。

無季。「若党」は人倫。「羽織」は衣装。「仮枕」は旅体。

十句目
   若党に羽織ぬがせて仮枕
 ちいさき顔の身嗜(みだしなみ)よき 八桑
 (若党に羽織ぬがせて仮枕ちいさき顔の身嗜よき)

 若党の姿を付ける。
 「でかい面する」なんて言葉もあるように、顔が大きいと何となく自己主張が強く脂ぎってる印象がある。本人は別にそんなつもりはないんだろうし、顔の大きさは生まれつきではあるが、今でも世間では「顔がでかい」というのはしばしば笑いを誘う。
 その逆に顔が小さいとそれだけで謙虚そうに見えてしまう。本当はどうだか知らないが。

無季。

十一句目
   ちいさき顔の身嗜よき
 商(あきなひ)もゆるりと内の納りて 芭蕉
 (商もゆるりと内の納りてちいさき顔の身嗜よき)

 「ゆるり」というのは今でいう「ゆるい」に近いか。まあ、あまりがつがつ稼ごうとしなくても、のんびりゆったりと楽しながらそれでいてちゃんと成り立っていて、家内も丸く納まるなら言うことはない。働き方改革もこういうふうに行きたいものだ。

無季。

十二句目
   商もゆるりと内の納りて
 山のかぶさる下市の里     子珊
 (商もゆるりと内の納りて山のかぶさる下市の里)

 吉野の金峯山寺を降りて吉野川に出るあたりが上市で、そこからさらに吉野川に沿って西へ下ったところにあるのが下市。近鉄吉野線に下市口という駅がある。山に囲まれた小さな盆地だ。伊勢南街道の通る交通の要衝でもある。
 紀伊和歌山から高野山、吉野山、伊勢神宮を結ぶこういう街道沿いなら人の流れも絶えることなく、かといって東海道ほど過密でもなく、ゆるい商売で生計が立てられそうだ。
 初裏に入ってから無季の句が六句続くが、こういうのも芭蕉最晩年の軽みの風といっていいだろう。

無季。「山」は山類。「里」は居所。

2017年6月18日日曜日

 今日は午後から雨になった。
 「蕪村論」を鈴呂屋書庫のほうにアップした。内容は春風馬堤曲、澱河歌、「牡丹散て」の巻の解説。
 それでは「紫陽花や」の巻の続き。

四句目
   朔に鯛の子売の声聞て
 出駕籠の相手誘ふ起々     桃隣
 (朔に鯛の子売の声聞て出駕籠の相手誘ふ起々)

 魚などの生鮮物の売り子の声は、その朝上がったもの痛まぬうちに売りに来るため朝が早い。ちょうど人が起き出すころで、宿場では駕籠に乗る人の客引きが始まる。「出駕籠」は道端で客待ちをする駕籠のこと。

無季。「相手」は人倫。

五句目
   出駕籠の相手誘ふ起々
 かんかんと有明寒き霜柱    八桑
 (かんかんと有明寒き霜柱出駕籠の相手誘ふ起々)

 「かんかん」というのは今の感覚だと「がちがち」といったところか。明け方の宿場の旅立ちの風景に、月の定座にふさわしく有明の月を出す。ただの有明だと月並だからか、冬のがちがちの霜柱を添える。

季題は「霜柱」で冬。「有明」はこの場合冬の月で、夜分、天象。

六句目
   かんかんと有明寒き霜柱
 榾堀かけてけふも又来る    芭蕉
 (かんかんと有明寒き霜柱榾堀かけてけふも又来る)

 「榾(ほだ)」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、「材に伐り取たる木の根を掘出したるものなり。関東では根骨といふ。山家、玄冬のころ炉に昼夜これを焼て寒を凌ぐものなり。」とある。
 その榾を掘りに今日もやってくる。

季題は「榾」で冬。

2017年6月17日土曜日

 まず昨日の宿題の「茶俵」だが、『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の中村注には、「番茶などつめる俵」とある。
 今日の番茶は煎茶から派生したものだが、それ以前の原始的な製法の茶も番茶と呼ばれ、庶民の間で飲まれていたと言われている。
 おそらくは葉を一枚一枚摘み取るのでもなく、枝ごと摘んで束ねて干すだけの単純なものから、その地方地方で独自の工夫を凝らしたものまでいろいろあったのだろう。こうした原始的な茶の飲み方はミャンマーなどにも見られる。西洋のハーブティーの飲み方に近い。
 こうしたお茶は立派な茶畑で作られる抹茶と違い、庭先などに植えられていたと考えられる。こうしたお茶なら梅雨時の晴れ間にまとめて収穫して乾燥させ、自分で俵に詰めるということは十分考えられる。

    紫陽花や藪を小庭の別座敷
 よき雨あひに作る茶俵    子珊

の句の解釈としては、一応それで意味は通る。
 ただ、18世紀後半の、すでに煎茶の普及した頃の茶の名産地、宇治の句、

 卯花や茶俵つくる宇治の里  召波

の場合はこうした番茶ではなく、煎茶の新茶を俵に詰めていたのであろう。
 なお、この「茶俵」という言葉は同時期に江戸で編纂が進められていた『炭俵』を連想させる。『炭俵』の素龍の序文には「閏さつき初三の日」とあり、これより少し後になるが、選者の孤屋、野坡、利牛らとの交流があることを考えれば、それを知っててあえて「茶俵」で対抗した可能性もある。この日の連衆は『炭俵』の選者ではない人ばかりが集まっている。
 それでは、第三に行ってみよう。

   よき雨あひに作る茶俵
 朔(ついたち)に鯛の子売の声聞て 杉風

 「鯛の子」はタラコがタラの卵であるのと同じで鯛の卵をいう。春から夏にかけての鯛の産卵期に取れる。少量しか取れない珍味で、おそらくタラコ同様塩漬けにした保存の利くものを売っていたのだろう。魚問屋の杉風ならでは発想かもしれない。
 中村注には「よき雨間といふこと葉のひびきより、朔日をおもいよせたり」という『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)の引用がある。月初めの目出度い日にこれまたお目出度い「鯛」を重ねることで、「よき雨あひ」が単なる天気のいい日というだけでなく吉日であることを匂わせる。

2017年6月16日金曜日

 今日は午後から夕立の雲が出てきたものの、遠く雷鳴を二三回聞いて、ぽつぽつ雨が降ったかと思ったら、それだけで特に何もなかった。山沿いのほうでは雹が降ったとニュースで言ってた。
 この季節、そろそろまた俳諧を読んでみたくなった。紫陽花の季節なので、元禄七年、芭蕉が最後の旅に出る直前の五月に詠んだ、

 紫陽花や藪を小庭の別座敷   芭蕉

の句をはじめとする興行が気にかかる。場所は深川の子珊亭の別座敷だとされている。
 子珊は前年の冬、『炭俵』にも収録されている「雪の松」の巻でなかなかの活躍をした人で、今回の「紫陽花や」の巻も自ら『別座敷』という俳書を編纂し、このあとの旅で伊賀に滞在中の芭蕉に届けたという。
 芭蕉の発句の意味は、「紫陽花は藪を小庭の別座敷にするや」で、例によって「や」を係助詞的な倒置の用法で「紫陽花や」とし、語尾の「にする」を省略したもの。
 「藪」は自然そのままに守られた「森」でもなく、人が利用するために管理された「林」でもなく、ただ雑草や低木の生い茂った場所を言う。むしろ荒れ果てた印象を与える。
 藪というと「竹やぶ」を連想する人も多いと思うが、竹に関しても人が人工的に植えたものではなく、勝手に生えるがままにしてある所という意味で「藪」という言葉が用いられるのであろう。「竹林」という言葉もあるが、これだと庭などの人工的に竹を植えた場所というニュアンスになる。
 藪はいかにも草ぼうぼう木がぼうぼうの荒れたところで殺風景なイメージがあるが、そこに紫陽花の花が咲くと急に見違えるかのように、まるでそこだけ別座敷になったかのように見える。
 小庭の藪だから、本当は春にはきれいな花が咲いてたりもしたのだろう。夏になるとそれが雑草に埋もれ殺風景になるが、そこに紫陽花が咲くと、再び立派な庭に戻る。「別座敷」はこの場合比喩で、本当に子珊亭に別座敷があったかどうかは不明。「小庭」というくらいだから、本当はそれほど広い家ではなく、狭い家が別座敷になったみたいだと洒落ただけと見た方がいいかもしれない。
 さて、これに対する子珊の脇だが、

    紫陽花や藪を小庭の別座敷
 よき雨あひに作る茶俵    子珊

 さて、これは難しい。当時は抹茶が主流だったから新茶は秋のもので、粉末だから俵には入れない。しかもお茶を一俵も消費する家とは思えない。
 ちなみに蕪村七部集の一つ、『五車反古』には、

 卯花や茶俵つくる宇治の里  召波

の発句がある。
 今日はもう遅いので、これは宿題にする。

2017年6月13日火曜日

 今日は久しぶりに梅雨らしい雨が降った。
 『続猿蓑』の五月雨の句は三句で、残りの一句はこれだ。

 五月雨や踵(きびす)よごれぬ磯づたひ 沾圃

 「磯づたひ」は海岸沿いに行くことを言い、旅体の句と言えよう。
 芭蕉の「温泉ノ頌」という俳文にも、「北海の磯づたひして、加州やまなかの涌湯に浴す」とあり、「あかあかと」の句の真跡懐紙写しにも、「北海の磯づたひ、まさごはこがれて火のごとく」の文がある。実際に海辺を歩くというよりは、海岸線に沿って旅するという用例だ。
 この句の「や」も倒置による係助詞的な用法で、「五月雨に踵よごれぬ磯づたひや」の倒置であろう。
 海辺の道だから砂地なので道がぬからず、五月雨の季節でも踵が汚れないというのが言葉通りの意味だが、暗にマイナーイメージで、五月雨の季節は道がぬかるんで旅をするのに難儀する、という意味を込めているのであろう。

 そのほか、目についた五月雨の句。
 まず等躬撰の『伊達衣』(元禄十二年)から、

 五月雨はどこへ行やら和田津海  心水

 この句は、

 木枯しの果てはありけり海の音  言水

に似ている。同巣(同竃)といってもいいか。作者名も似ている。言水の句のほうは元禄三年の『新撰都曲』だから、言水の方が先と思われる。

   盤子が餞別
 それほどの色黒むまじ五月雨   風仙

 五月雨の季節で日が射さないからそれほど日焼けもしないだろう、という意味だが、

 早苗にも我色黒き日数かな    芭蕉

の句が『泊舟集』(元禄十一年)にあるので、影響があったかもしれない。

2017年6月12日月曜日

 昨日に続き『続猿蓑』の五月雨の句。

 五月雨や蠶煩ふ桑の畑    芭蕉

 何度もいうが、芭蕉の時代の、特に芭蕉の用いる切れ字「や」は中世的な用法で、本来末尾に来る疑問反語の「や」を倒置で前に持ってきたもので、係助詞の「や」と同様に考える必要がある。
 つまりこの句は「五月雨に蚕煩ふや」が倒置になり「五月雨や蚕煩ふ」になったと考えるべきであろう。
 そうなると、今度は「五月雨に蚕煩ふや」と「桑の畑」との関係になる。「桑の畑で五月雨に蚕煩ふや」だと、言葉の続きは自然だが内容的におかしくなる。蚕は部屋の中で飼うもので、桑の畑は蚕の餌をとりにいくところにすぎないからだ。ここで無理やり、病気で死んだ蚕を桑の畑に捨てたと解釈する人もいるが、それではあまりに無理がありすぎる。
 ここは桑の畑に五月雨が降るのを見ての蚕の心配と見たほうがいい。「桑の畑の五月雨に、蚕煩うや」そう読んだ方がいい。この場合の「や」は疑問であるとともに、蚕が病んだりしてないかという気遣い、心配りの「や」と考えた方がいい。
 病死した蚕を描写するというのは近代俳句的発想で、芭蕉の時代の風流ではない。五月雨に蚕が病気になりやしないかと気遣うのが風流の心だ。
 この句に関しては、各務支考の『十論為弁抄』(享保十年刊)にこうある。

 「ある時、故翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯といひ、病蠶といへる此詞のおもしろければ、
 鶯や竹の子藪に老を啼
 さみだれや蠶わづらふ桑の畑
かく此二句をつくり侍しが、鶯は筍藪といひて、老若の余情をいみじく籠り侍らん。蠶は熟語をしらぬ人は、心のはこびをえこそ聞まじけれ、是は筵の一字を入て家に飼たるさまあらんと、其句のままに申捨らしが、例の泊船集に入たるよし。」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫、P.139)

 「病蠶」という言葉は中国語のサイトで白居易集を見つけてメモ帳にコピーし、「病蚕」ではなく「蚕病」で検索したらすぐに出てきた。簡体字のサイトだったので、同じものを繁体字のサイトで捜した。それが以下の詩だ。
 
   酬鄭侍御多雨春空過詩三十韻
               白居易
 南雨來多滯 東風動即狂
 月行離畢急 龍走召雲忙
 鬼轉雷車響 蛇騰電策光
 浸淫天似漏 沮洳地成瘡
 慘澹陰煙白 空蒙宿霧黃
 暗遮千里目 悶結九回腸
 寂寞羈臣館 深沉思婦房
 鏡昏鸞滅影 衣潤麝消香
 蘭濕難紉佩 花凋易落妝
 沾黃鶯翅重 滋綠草心長
 紫陌皆泥濘 黃汙共淼茫
 恐霖成怪沴 望霽劇禎祥
 楚柳腰肢嚲 湘筠涕淚滂
 晝昏疑是夜 陰盛勝於陽
 居士巾皆墊 行人蓋盡張
 跳蛙還屢出 移蟻欲深藏
 端坐交遊廢 閑行去步妨
 愁生垂白叟 惱殺蹋青娘
 變海常須慮 為魚慎勿忘
 此時方共懼 何處可相將
 已望東溟禱 仍封北戶禳
 卻思逢旱魃 誰喜見商羊
 預怕為蠶病 先憂作麥傷
 惠應施浹洽 政豈假揄揚
 祀典修咸秩 農書振滿床
 丹誠期懇苦 白日會昭彰
 賑廩賙饑戶 苫城備壞牆
 且當營歲事 寧暇惜年芳
 德勝令災弭 人安在吏良
 尚書心若此 不枉系金章

 長いので暇があったら訳してみたいが。「預怕為蠶病 先憂作麥傷」とあるから、多分雨が続いて蚕や麦の病気が心配だと気遣う内容ではないかと思う。これをすらすら読める漢文力が欲しい。

2017年6月11日日曜日

 六月四日に里山ガーデンに行った帰り、十日市場の方へ歩いていく途中に梅田川に沿って歩ける道があって、そこの梅田川流水地でアオサギを見た。大きい鳥がいるのでなんだろうと思って後で調べたらアオサギのようだった。
 『続猿蓑』に数少ない「つゆ」の用例として、

 しら鷺や青くもならず黴(つゆ)の中  不玉

の句がある。この句はシロサギはシロサギでアオサギにはならないという意味なのだろう。
 シロサギが大きくなって黴が生えたわけではないが、「黴」を利かすためにあえて「五月雨」ではなく「黴の中」としたのだろう。
 不玉は出羽国酒田の町医者で、『奥の細道』の旅の途中で出会い、「川舟に乗て、酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿す。」とある。曾良の『旅日記』のよると、到着したとき(六月十三日)は留守で、「留守ニテ、明朝逢」とある。
 この日(六月十四日)は寺島助彦亭に招かれ、

 涼しさや海に入れたる最上川  芭蕉

を発句とする俳諧興行に参加している。このときの句は曾良の『俳諧書留』に記されていて、

   月をゆりなす浪のうき見る
 黒がもの飛行(とびゆく)庵の窓明て 不玉

の第三を詠んでいるが、残念ながら七句目までしか記されてない。「末略ス」とある。
 この興行の翌日(六月十五日)から象潟へ旅に同行し、

 象潟や汐焼跡は蚊のけふり   不玉

の句も詠んでいるが、残念ながらこの句は『奥の細道』には採用されなかった。
 象潟から帰り、六月十九日にふたたび寺島助彦亭で芭蕉、曾良と俳諧三吟歌仙興行を行う。これにも参加し、

   温海山や吹浦かけて夕涼
 みるかる磯にたたむ帆筵    不玉

の脇などがある。この歌仙は三日かかっている。この頃の芭蕉の俳諧は出羽の時といいかなり時間を食ったようだ。六月十四日の興行も結局最後までできなかったから「末略ス」となったのかもしれない。こうした時間のかかりすぎる俳諧に何とかしなくてはということで、「軽み」の風が生み出されていったのだろう。
 芭蕉の発句は、先の『奥の細道』の「淵庵不玉と云医師(くすし)の許を宿す。」のあとに、

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ
 暑き日を海にいれたり最上川

と直して記されている。
 六月二十三日には近江屋玉志亭に招かれ、

 三人の中に翁や初真桑     不玉

の句を詠んでいる。
 この他にも曾良の『俳諧書留』には、

   羽黒より被贈
 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪    会覚
   杉の茂りをかへり三ヶ月  芭蕉
 磯伝ひ手束の弓を提て     不玉
   汐に絶たる馬の足跡    曾良

の四句が記されている。会覚は羽黒山別当代で、月山の雪のことを忘れるなよという餞別の句があったので、それに三人で付けている。芭蕉の脇は「ほの三日月の羽黒山」の句を踏まえている。

2017年6月10日土曜日

 七日に梅雨入りしたものの、雨は少し降っただけで、暑い日が続く。
 関東の梅雨は曇った日が続くだけでそれほど雨は降らない。それにひきかえ鹿児島に6年いたときの梅雨は毎度の事ながら凄かった。
 「梅雨入り」という言葉は気象庁が梅雨入り梅雨明けを発表するようになって広まった言葉で、気象庁のホームページでは昭和二十六年(一九五一)からになっている。
 梅雨という言葉は本来中国の言葉で、俳諧では「五月雨(さみだれ、さつきあめ)」という言葉が用いられている。「梅雨」「つゆ」の用例はほとんど見当たらない。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には一応「五月雨 梅雨 入梅 黴雨 墜栗花穴(ついり)」とある。
 「入梅」は今日で言う梅雨の始まる日のことではなく、二十四節季に含まれない節季、雑節の一つで、『増補 俳諧歳時記栞草』には「[四時纂要]閩人(みんじん)、立夏の後、庚日に逢ふを入梅とす。」とある。ウィキペディアを見ると、立夏後の最初の庚の日、『埤雅』(1125)閩人についてとあり、これが元になっていると思われる。そのほかに。ウィキペディアは、芒種後の最初の丙の日(『神枢』『三元帰正』)、芒種後の最初の壬の日(『碎金録』『本草綱目』)と、諸説あったことを記している。
 ちなみに「閩」は今の福建省の辺りにあった中国五代十国時代の国で、入梅はそのあたりの節季だったか。立夏後の最初の庚の日だと、時期的には沖縄の梅雨入りの時期に近い。芒種後だと日本の本土の梅雨入り時期に重なる。
 さて、試しに『猿蓑』の五月雨の句を見てみよう。

 五月雨に家ふり捨てなめくじり   凡兆

 五月雨というと今日でもカタツムリを連想する人は多いと思うが、これもそうで、ただカタツムリと言わず、「家ふり捨てなめくじり」とカタツムリの殻のないナメクジを登場させる。これは生物学的にも正しく、ナメクジはカタツムリの殻の退化したものの総称とされている。
 ただ、「家ふり捨て」だと、単なる殻の退化ではなく「出家」を連想させる。ナメクジは仏者だったか。

 ひね麦の味なき空や五月雨     木節

 ちょっと前に自分が乾物屋の配送をやってた頃、伝票に商品名のあとに括弧して「ひねもの」と書いてあるのを見たが、今でも古くなって在庫処分で値引きして売るものを「ひねもの」と言う。(一部には古くなって熟成する良い意味での「ひねもの」もあるようだ。)
 この句の場合の「ひね麦」も同じで、五月雨の季節になって新麦が出回ると、去年の収穫分は「ひね麦」として安く売られていたのだろう。米でいえば古米と同じで味が落ちるから、ひね麦のように味の落ちる空だ、五月雨の空は、というのがこの句の意味だろう。

 馬士(うまかた)の謂次第なりさつき雨 史邦

 雨の日は道がぬかるんで、街道を歩くのにも苦労する。そんな日は金さえあれば馬に乗りたいもの。というわけで街道の馬方さんも強気で、こんな日は一切値引きしないばかりかいくらでも吹っかけてくる。五月雨の頃は馬の値段は馬方さんの言い値になる。おそらく当時のあるあるネタであろう。

 笠嶋やいづこ五月のぬかり道   芭蕉

 これは芭蕉の『奥の細道』の一句。
 藤中将実方はなかなかの風流人だったがかなり熱い人で、書のほうで有名なクールな藤原行成とはそりが合わなかったようだ。
 東山へ花見に行った時に、途中で雨が降りだしたが、そこで平然と、

  さくらがり雨はふり来ぬおなじくは
    濡るとも花の影にくらさん
               藤中将実方

と歌って宮中の話題となったが、斎信大納言がこのことを帝に報告する時に行成が「歌はいいが、やることは正気ではない」とディスったという。
 その後殿上で別のことで口論になり、実方が笏(しゃく)で行成の冠を叩き落としたものの行成のほうが平然として冠を正したため、一方的に非があったということで陸奥の守に左遷されたという。まあ、天才肌の不器用さというか、ありそうなことだ。
 その実方が任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を拝もうともせず素通りした所、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。
 後にこの地を訪れた西行法師が哀れに思い、

  朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
    枯野のすすき形見にぞ見る
               西行法師

と詠んでいる。
 芭蕉さんもこの道祖神に挨拶しなくてはと思ったが、五月雨で難儀しているうちに通り過ぎてしまい、この句を詠んだという。幸いバチは当たらなかったようだ。

  大和紀伊のさかひはてなし坂にて、往来の
  巡礼をとどめて奉加すすめければ、料足つ
  つみたる紙のはしに書つけ侍る
 つづくりもはてなし坂や五月雨   去来

 「はてなし坂」は熊野古道の果無峠の道のことで、標高1070メートル、かなり大変な山越えだったと思われる。巡礼者のための道を整備するのに寄付を求められ、そのお金を包む紙の隅っこにこの句を書いたという。
 「つづくり」は繕うこと、修繕することを言う。五月雨にぬかるむ道を見ながら、修繕の方も果てのない坂だと洒落て、修繕の労をねぎらったのであろう。

 髪剃や一夜に金情(さび)て五月雨 凡兆

 梅雨時は湿気が多いので、研いだばかりの剃刀も一晩立てばもう錆びている。ありそうなことではある。句は「五月雨に髪剃の一夜に金情てや」の倒置。

 日の道や葵傾くさ月あめ      芭蕉

 これは6月2日の日記でも書いたが、太陽のもっとも盛んな旧暦五月は、その太陽が隠れてしまう五月雨の季節でもある。歴史も同じで、王朝時代の春は保元平治の乱によって終わりを告げ、以降乱世の時代になる。皇統の道は姿を見せず、五月雨の分厚い雲の彼方だが、葵(向日葵)は見えない天道に向って東へと傾いてゆく。「葵」はもちろん徳川家を象徴する。

 縫物や着もせでよごす五月雨    羽紅

 羽紅こと、おとめさんの句。黴の季節を詠んだもの。梅雨が別名「黴雨」という漢学の素養も覗かせたか。
 さて、五月雨の最後を飾るのは其角さん。

    七十余の老醫みまかりけるに、弟子共こぞ
   りてなくまま、予にいたみの句乞ける。そ
   の老醫いまそかりし時も、さらに見しれる
   人にあらざりければ、哀にもおもひよらず
   して、古来まれなる年にこそといへど、と
   かくゆるさゞりければ
 六尺も力おとしや五月あめ      其角

 七十過ぎの老いた医者が亡くなったので、その弟子たちが涙ながらに其角の元に追善の句を求めてきた。とはいえ面識もない人なので、気の毒とは思っても実感が涌かず、「古希まで生きたのだから」と慰めてはみるものの、それでは許してもらえず、この句を詠む。
 駕籠かきの者は「六尺」とも呼ばれた。なぜそう呼ばれたかは諸説あるようだ。私なんぞは偉大な老醫先生の駕籠かきのような者ですが、この五月雨の季節にはがっくりと力を落としてますという、まあ無難な追悼の句に作ってみせたわけだ。これも機知と言えよう。

2017年6月8日木曜日

 伊藤仁斎は寛永四年(一六ニ七)の生まれで、寛永二十一年生まれの芭蕉よりはかなり先輩だが、元禄を過ぎて宝永二年(一七〇五)まで長生きしている。世代は違うとはいえ、一応同時代を生きたといってもいいだろう。
 基本的には儒者で、儒教の経典とされる四書五経の内、四書のほうを重視した文献学者だった。五経に重点を置いた荻生徂徠とともに「古学」という括りで語られることが多い。
 当時の儒教は朱子学であれ陽明学であれ古学であれ、基本的には経典の解釈の学で、いわば堯舜などの先王の治世から孔子に至るまでの故実の学だった。伊藤仁斎の主著といわれる『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』は四書の語句を項目別に解説した部立ての学で、童子の質問に答えていく形式でつづられた『童子問』は機知の部分に当たる。
 儒教の根底にあるのは基本的には人間の情念であり、「性」だとか「誠」だとか言われるもので、朱子学はそれを格物窮理によって探求し、陽明学は直感的な仏教で言う頓悟のようなものを重視し、伊藤仁斎は孔子や孟子の言葉からその血脈を読み取ろうとした。
 方法は違っていても、表現の仕方は異なっていても、基本的に人間の心の根底にあるものに違いはなく、それは西洋的なロゴスの単一性ではなく、孔子、老子、仏陀の三人が酢を舐めて一様に酸っぱい顔をするような生理的なものとして捉えられていた。今日では「生理的」だとか「遺伝的」だとかいうことになるが、当時の言葉では「性」「誠」「道」と呼ばれるものだった。
 鎌倉時代に様々な新興仏教が興り、流行したが、そのもっとも驚くべき点は彼らが原理主義に陥らなかったことだろう。仏教の根底も人間の生理的な部分に根ざしたため、一つのロゴスがドグマとして支配することはなかった。
 さて、その伊藤仁斎の『童子問』(元禄四年頃から書きはじめ、死の二年後の宝永四年に公刊された)の最後の方に詩について論じた部分がある。これも西行の歌論や蕉門の俳論との共通性が見られて面白い。
 まず童子の問いから始まる。

 「問う、詩文編集甚だ多し。孰(いず)れをか正を得たりと為(す)る。」

 それに仁斎先生は答える。

 「曰く、三百篇の後、唯漢魏の際、遺響尚存す。厥(そ)の後唯杜少陵氏が作、庶幾(ちか)しと為す。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 四書五経の一つであり、孔子の編纂の伝承を持つ『詩経』三百篇は当然の事ながら詩の正統とされる。その後は漢や魏の時代に「古詩」と呼ばれるものが若干存在し、その後は盛唐の時代の杜少陵の作がその正統に近いというのが仁斎先生の答だ。杜少陵は今日一般的に杜甫と呼ばれている。少陵野老と号したことから杜少陵とも呼ばれていた。
 その正統の理由として更にこう述べる。

 「蓋(けだ)し古人の詩は、皆咨嗟詠嘆の餘に発して、一も事実に非ざる者無し。謂ゆる性情に本づくという、是のみ。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 「咨嗟」は歎くことをいう。李白は「蜀道難」という古詩のなかで成都への道の険しさや猛獣毒蛇などのことを語った後、最後に「側身西望長咨嗟」で結んでいる。恐怖に震えながら西にある行き先を眺め長く「咨嗟」する、という意味だ。
 「詠嘆」もまた悲痛な思いを歌に込めて歌い上げることをいう。
 詩の基本にあるのは人生の様々な苦悩から来る嘆きの声で、そこに真実がある。これを「性情に本づく」という。
 ここに「やまとうたは人のこころをたねとして」という『古今集』仮名序の言葉を思い浮かべることもできるであろう。当時の和歌も『詩経』や漢魏の古詩や盛唐の詩の影響を受けていたことは言うまでもない。
 『詩経』の大序にはこうある。

 「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。(詩は志すところのものである。心にあるにを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。)
 言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。(言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)
 情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。(感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。)
 故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。(故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)」

 さらに『詩経』はこう言う。

 上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。(為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)
 至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)
 国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。(国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。)

 「風刺」という言葉はここから来ている。先王の治世であれば詩は喜びにあふれているが、先王の道の失われた春秋戦国時代から今日に至るまでは詩は基本的には「咨嗟詠嘆」であり、それが人の自然な性情だというわけだ。
 これに対し正統でない詩というのは、『童子問』ではこういうものを言う。

 「後人の事無うして強いて作るが若(ごと)きに非ず。其の感托する所無うして、徒らに光景に流連し、物象を模写する者は、状(かた)どり難きの景を写して、目前に在るが如しと雖ども、畢竟徒作のみ。風雲月露、山川草木、本(も)と天地自ら有るの物、詩人の之を模写することを須(もち)いず。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 要するに心から現代の政治や世の乱れに対し心から嘆くこともなく、ただ美しい景色を見てはそれを描写するだけのものは「徒作のみ」となる。これは景物を否定するのではなく、心の底からの思いを景物の比(対比)や興(言い興し)でもって述べるのは正統となる。それなしに景物だけこれでもかと描写するのは「徒作」になる。

 『去来抄』「先師評」

 「つたの葉───     尾張の句
 此のほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹かへさるゝと云句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂つくす物にあらずト也。支考傍に聞て大ひに感驚し、初てほ句トいふ物をしり侍ると、この比ごろ物語り有り。予ハ其時なをざりに聞なしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意なし。(『去来抄・三冊子・旅寝論』穎原退蔵校訂、1939、岩波文庫、p.20)

 ここで問題になっている句というのは、

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句を指すとされている。
 伊藤仁斎は儒者だから、政道の衰えの嘆きに重点が置かれているが、仏者であれば西行のように秘密の真言であることに重点を置き、蕉門はそれを「風雅の誠」と呼ぶ。どれも人間の本来持つ性情だという点では一致している。
 先日テレビで坂本龍一が出ているのを見て、相変わらず80年代のアヴァンギャルドやミュージック・コンクレートから抜け出せないんだなと思った。こうした音楽は不協和音や意図的にリズムをはずした音などを用いるが、その理由が自然界の音のほとんどは不協和音でリズムも不揃いだからというなら、結局その音楽は「自然の模倣」にすぎないのではないかと思う。
 不協和音や外れたリズムは人間の内面から来る強烈な嘆きの声から生み出された時、その真価を発揮するのではないかと思う。残念ながら坂本さんの音楽にはそれが感じられずただ観念的に無理やり作ってる感がある。それではブラックメタルに勝てないと思う。

2017年6月6日火曜日

 先日、平安末から江戸中期までのエピステーメの話をしたが、芭蕉の俳諧と西行の和歌との間の距離の近さは、蕉門の虚実の論と西行の『梅尾明恵上人伝記』に見える歌論との近さにも現れている。

 「西行法師常に来りて物語して云はく、我歌を読むは、遥かに尋常に異なり。華・郭公・月・雪、都(すべ)て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なる事、眼に遮り耳に満てり。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.151)

 花、ホトトギス、月、雪など、いわゆる花鳥風月の興で以て歌を詠むにしても、それらのものが皆虚妄だということを常に意識している。つまり花鳥風月四季折々の景物などは基本的に「虚」に属するもので、ただそれは何かを言い興すための「興」にすぎない。

 「又読み出す所の言句は、皆真言に非ずや。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.151)

 花鳥風月の虚から言い興した言葉は真言ではないのだろうか。この疑問系は反語として打ち消される。

 「華を読めども実(げ)に華と思ふ事なく、月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.151~152)

 花を詠んではいても物理的な花を詠むのではなく、月を詠んでも天体としての月を詠んでいるのではなく、ただ言葉の縁でもってそこから何かを言い興す、その「興」に随って詠み置くにすぎない。
 花も月も歌に詠まれ、実際に花も月もないところで人がそれを耳にした時、それは花そのものでも月そのものでもない、ただ聞く人の記憶の中にある何かを呼び覚ますに過ぎない。

 「紅虹(こうこう)たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本、明かなる物にも非ず、又色どれる物にも非ず。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.152)

 『般若心経』の「色即是空、空即是色」あたりを念頭においているのかもしれないが、本となる空に色はなく、そこに光が当たれば様々な色が生じるという発想は、後の『朱子学』の未発・既発の考え方に近い。
 『去来抄』「修行教」では

 「あらまし人躰(じんてい)にたとへていはば、先づ不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰(ざぐゎぎゃうぢゅうくっしんふくぎゃう)の形同じからざるが如し。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』穎原退蔵校訂、1939、岩波文庫、p.63)

とあるが、これは空に喩えて言えば、不易は色のない空間としての空で、流行はそこに虹が出たり太陽が明るく照ったりして「形同じからざるが如し」ということになるだろう。

 「我又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると云へども、更に蹤跡なし。此の歌即ち是如来の真の形躰也。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.152)

 これは蕉門の言葉で言うなら、不易の心の上において種々の流行を彩るとはいえ、それを後追いしているわけではない。景物はあくまで心の誠を述べるための興であり、景物をそのものを追い求めているのではない。
 こうしてできた歌は如来の真の姿だという。如来も絵に描いたり木や石で彫ったりするが、それはあくまで心の中にある如来を呼び起こすものであって、そこにある絵や仏像が如来なのではない。

 「去れば一首読み出でては一躰の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得る事あり。若しここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべしと云々。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.152)

 要するにいたずらに華麗な景物ばかりを追い求めて実のない歌を詠むのは徐道というわけだ。歌は景物を描写すれば足りるというものではない。そこに心がなければならない。「やまとうたは人の心をたねとして」と『古今集』の仮名序にもある。心がなければ歌にはならない。

 「さて読みける、

 山深くさこそ心はかよふとも
     すまで哀れはしらん物かは

喜海其の座の末に在りて聞き及びしまま之を注す。」(『明恵上人集』久保田淳・山口明穂校注、1981、岩波文庫、p.152)

 「すむ」はお約束で「住む」と「澄む」を掛けているのだろう。言の葉の道の奥山深く分け入って、様々な古歌を学んだとしても、珍しい景物に心を奪われていては良い歌は作れない。むしろそうした景物を虚と見極め、心を澄まし、空にすることが肝要というわけだ。

2017年6月5日月曜日

 学生の頃だったか、ミシェル・フーコーの『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、1974、新潮社)を部屋に籠って、確かかなり一気に読んだという記憶がある。それだけ内容が衝撃的だったし、高校の時読んだアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』(清水徹訳、1967、新潮文庫)と並んで自分に大きな影響を与えた本だった。
 この本で学んだのは「ヘテロトピア」という多様な秩序の混在する一種のユートピアと、時代によって学問の概念が変わってゆくというエピステーメという考え方だった。今でもヘテロトピアは私にとっての理想だし、一つの秩序の支配する一つの世界なんてのはまやかしどころか、世界を最終戦争に導く危険な考え方だと思っている。
 エピステーメに関しては、すぐに思い立ったのが日本のエピステーメだった。それ以前から日本の思想には興味を持っていたが、あらためて伊藤仁斎、荻生徂徠、安藤昌益、三浦梅園など興味を持って読んでみた。
 その頃に思いついたのが、平安末から江戸中期までのかなり長い間になるが、故実、部立て、機知を学問の中心としていた一つの時代があるのがわかった。
 つまり、学問はまず儒学でも仏学でも神道でも、基本は経典を学ぶことであり、それも経典を字義通りに解釈するのではなく、その背後にある隠された真理を探究することが重要だった。その隠された真理は神仏儒道全ての根底にある普遍的なものとされていた。そのためには正統とされる経典だけでなく緯書やそのほかの伝承なども参照しながらの、いわゆる故実の学だった。
 そして、それを論理的に解説するのではなく、基本的な概念などを分類し部立てして辞典のような形態で書き表していた。
 さらに故実を学びそれを部立てするだけでは完全といえず、本当に大事なのはこうした知識を体得しながら、それを現実の様々な場面に臨機応変に対応する能力、いわゆる機知を養うことだった。
 故実、部立て、機知はそのまま連歌や俳諧の基礎でもある。古歌を古詩などから風雅の心を学び、それを春夏秋冬、恋、述懐、神祇、釈教などに部立てし、それを踏まえた上で即興で句を付ける機知として実践されなくてはならなかった。
 この日本の中世的エピステーメは江戸時代中期に突如「物」が登場することにより急変した。賀茂真淵、安藤昌益の時代がその変わり目になる。
 この頃より故実の権威そのものが疑われだし、神仏儒道やさらにその細かい宗派が相対化され、故実の権威を「物」によって再編しようと動き出した。この頃盛んに繰り返された言葉が「天地は語らぬ経を読む」だった。
 こうして、故実の位置に物学(ものまなび)が収まり、物についての知識は部立てから論理体系へと移り、硬直した原理主義的な主張がはびこるようになり、機知の場は隅に追いやられていった。蕪村の時代の興行俳諧の衰退も、このエピステーメの変化から説明することができる。
 多分この「物」によるエピステーメの再編は日本だけのものではなく、朝鮮(チョソン)や清でも「実学」の動きとして平行して起こったものだと思う。あまり詳しくはわからないが。
 一方で、このエピステーメの変化は近代化への道を開いた。蘭学もまたこの新しいエピステーメのもとに登場することとなった。そして明治になり、正岡子規によって連歌・俳諧の伝統は最終的な死を宣告されることとなった。
 実は俳諧に本格的に興味を持って読むようになったのは、それよりかなりあとだった。学生生活も終わり就職、結婚といろいろ忙しくて、フーコーを読んでから八年後だったか、それは芭蕉からではなく蕪村からだった。
 芳賀徹の『與謝蕪村の小さな世界』(1988、中公文庫)を読んでいて目に留まったのが

 稲づまや浪もてゆへる秋津しま   蕪村

の句だった。それまでの学校での近代俳句の洗脳を受けていた頭では、なんだこりゃというこれまでの俳句の概念とまったくかけ離れた句だった。
 そのあと、少しづつ昔の句に触れてゆくうちに、学校で習った俳句の概念が正岡子規によって作られたもので、それ以前には「俳諧」というまったく違った世界があったことに気づくことになった。
 そして、蕪村を理解するにはまず芭蕉からとなり、芭蕉を理解するにはということで連歌を読むようになった。そして、芭蕉と蕪村との間に大きな断絶があることにも気づいた。そこで学生の頃思い描いた日本のエピステーメのことを思い出した。
 連歌俳諧はそういうわけで、私にとっては、近代化し西洋的な意味での「文学」に高めるべき過去の遺物などではなかった。それは近代化の中で今の学問(エピステーメ)からは排除されているが、日本が生み出したオリジナルの文化で、その精神は死んだのではなく、今でも日本の大衆芸術の中に生き続け、ジャパンクールを根底で支えている。それこそが西洋の猿真似などではなく日本のオリジナルとして世界に誇れるもんだと信じるからだ。
 西洋崇拝の連中は言う、「そんなものは日本だけの恥ずかしいものだ」と。そんなことはない。「日本だけ」ということに価値がある。

2017年6月4日日曜日

 今日はズーラシアの隣にある里山ガーデンに行った。全国都市緑化よこはまフェアの最終日だ。花壇にはいろいろな花が咲いていた。カラスがうるさく、ここは元々俺たちの寝ぐらだったとでも言っているのか。
 ポピーもたくさん咲いていた。
 芥子の花の句は乙孝撰の『一幅半(ひとのはん)』だと一日花の儚さがずいぶん強調されている。

 散ことは桜にまけじ芥子の花   一鶏
 夢を見たやうに散たり芥子の花  八菊
 芥子の花提て来る間や種斗(ばかり) 對水

 芥子は散るとすぐ芥子坊主になる。

 うつとりと髪結ぬ日やけしの花  如豹

 髪を結って一日漫然と過ごしていると芥子の花はすぐ散ってしまうということか。
 この芥子の句四句の前に、

 一重づつ散を牡丹のたのみかな  石周

という句があった。

 一重づつ一重づつ散れ八重桜   子規

の句に通じるものがある。

2017年6月3日土曜日

 『嵯峨日記』の卯月二十五日のところで史邦と丈草が落柿舎にやってくる。丈草は漢詩を二首詠み、史邦は発句を披露する。それがこの句だ。

 芽出しより二葉に茂る柿の實(さね)  史邦

 「實」を「み」と読んでしまうと柿の実は秋になってしまう。ここでは「さね」と読む。岩波古語辞典を引くと、「果実の中心にある枝」とある。ここでは、やがて果実が実るであろう新芽の枝、くらいに考えた方がいいか。
 この句の季語は「茂る」で夏。近代では「柿若葉」という夏の季語があるが、この時代にはない。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「柿の花」という夏の季語が載っている。柿の實は柿の花になる前の花芽と見ればいいのだろう。「柿の花」は「柿の薹(とう)」ともいう。
 芽吹いてきた柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生えてくる。この芽吹いた二枚葉の付け根のところに蕾ができ、花が咲く。
 折から柿の若葉がまぶしい季節。二枚づつ次々に出てくる葉っぱに、柿の実への期待も高まるが、なにぶん「落柿舎」なので、果して落ちずに残ってくれるか。

 翌卯月二十六日、芭蕉、丈草、史邦に乙州、去来が加わり、表六句に一句足りない五句の短い俳諧興行を行う。



   芽出しより二葉に茂る柿の實
 畠の薼(ちり)にかかる卯の花    芭蕉
 (芽出しより二葉に茂る柿の實畠の薼にかかる卯の花)

 複雑な倒置だが「卯の花の塵の畠にかかる」が「卯の花の畠の塵にかかる」を経て「畠の塵にかかる卯の花」になったと思われる。散った卯の花が塵となって柿の畠に白い色を添える。季題は「卯の花」で夏。

第三

   畠の薼にかかる卯の花
 蝸牛頼母(たのも)しげなき角振て     去来
 (蝸牛頼母しげなき角振て畠の薼にかかる卯の花)

 畠は普通の畠になる。蝸牛(かたつむり)の角は「角」とは言うものの柔らかく、牛の角や鬼の角とは違って何か頼りない。
 「角振る」というと、

 かたつぶり角振り分けよ須磨明石  芭蕉

の句も浮かんでくる。これは須磨明石を分ける鉄拐山などの山塊を蝸牛に見立てた句。
 季題は「蝸牛」で夏。

四句目

   蝸牛頼母しげなき角振て
 人の汲間を釣瓶待也       丈草
 (蝸牛頼母しげなき角振て人の汲間を釣瓶待也)

 人が釣瓶を落として水を汲んでいる間、蝸牛が井戸端でその水を待っているかのようにじっとしている。

五句目

   人の汲間を釣瓶待也
 有明に三度飛脚の行哉(や)らん  乙州
 (有明に三度飛脚の行哉らん人の汲間を釣瓶待也)

 三度飛脚は江戸と大阪を月三回往復する飛脚便のことで、東海道を六日で走ったといわれる。今日のマラソン同様水分補給は欠かせなかったのだろう。有明の月の残る早朝に出発する三度飛脚は、しばし水分補給のため釣瓶で水を汲む間歩みを止めて待っている。「有明」で月の定座になる。季題はその「有明」で秋。

2017年6月2日金曜日

 今は夏というとだいたい学校の夏休みのイメージがあってか、八月くらいをイメージすることが多い。朝顔の花が咲いて、スイカを食べて、夕暮れにはヒグラシが鳴き、盆踊りがあり、ってこれらはかつてはみんな秋のものだった。
 昔は夏というのは旧暦の四月五月六月。今でいうと大体五月六月七月くらいに相当する。そういうわけで、今は夏の真っ盛りというわけだ。
 夏の真っ盛りは大体五月雨の季節で、草木が鬱蒼と茂り花は少なく、春秋に比べると地味な季節だった。
 『万葉集』の額田王の春秋競憐歌に、

 冬こもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉(もみ)つをば取りてぞ偲ふ 青きをば置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我は

の「山を茂み入りても取らず草深み取りても見ず」は、すぐに夏が来て草木の茂り変わっていってしまうことを疵にしたものであろう。秋の紅葉は散ってしまって冬が来ても手にとって見ることができる。俳諧でも「紅葉」は秋だが「落ち葉」は冬になる。
 「春に万物を生じ秋に止む」が春秋の心なら、夏の心は「万物の生じすぎ」、冬の心は「万物のなきがら」であろう。
 「万物の生じすぎ」は言い換えれば生命の過剰であり、過剰な生命は生存競争を始め、戦いに荒れ果ててゆく。それに比べると冬は生命が少ないだけに平和だ。
 中国でも屈原の『懐沙』に、

 滔々たる猛夏、草木莾々たり。
 懐(おもい)を傷め永く哀しみ、汩として南土に徂く

とある。そこには政争に敗れて死すべき運命を暗示させている。
 草木の茂りは「鬱蒼」だとか「鬱々」だとか表現するように、憂鬱だとか葛藤だとかいう精神的な煩悶の意味にも拡大されて用いられる。
 また戦いによって荒れ果てた姿も草木の茂りとして表現される。

 夏草や兵どもが夢の跡     芭蕉

はその「夏草」に見事に生命の過剰=生存競争=戦争、そしてその悲しさを表現している。
 芭蕉の『奥の細道』の日光の句、

 あらとうと青葉若葉の日の光  芭蕉

も基本的には青葉若葉に今日のようなみずみずしさを表現したのではなく、荒れ果てた戦国の世に終止符を打ち、日の光をもたらした徳川家康公への賛美の句と見たほうがいいだろう。原案の方がその意図がわかりやすい。

 あなとうと木の下闇も日の光  芭蕉

 「木の下」というと豊臣秀吉の元の名前を連想させる。
 夏の真ん中というと五月、さつきで五月雨(さみだれ)の季節でもある。木々の鬱蒼とした茂りと同様、太陽の光のもっとも強い時期でありながら、その太陽は木々や五月雨の分厚い雲によって隠されている。この逆説もまた、生命の過剰、争いと結びつく。
 『宗長日記』の中にある宗長独吟百韻の中の、

   いつまでとふる五月雨のかきくらし
 雲間の空もはるかにぞ見る   宗長

の句は、戦国時代に生きた宗長の実感だったのだろう。雲間の空の向こうには何があるかといえば、それは太陽、日の道だ。隠喩としてはそれは天皇をも意味しうる。
 芭蕉もまた元禄三年に、

 日の道や葵傾くさ月あめ    芭蕉

の句を詠んでいる。ここにも「日の道」=天皇、「葵」=徳川という隠喩が読み取れる。
 元禄三年といえば芭蕉が幻住庵にいた頃だ。
 その翌年、京都嵯峨の落柿舎で、この句を詠む。

 五月雨や色紙へぎたる壁の跡  芭蕉

 五月雨は「降る」もので、時間の「経る」に掛けて用いられる。五月雨の時間の経過が壁を日焼けさせ、色紙をはがすとそこだけ元の壁の色が現れる。それは直接的には落柿舎で過ごした日々のことだが、隠喩として拡大するなら、王朝時代が終わり武家の支配する乱世となって五百年、かつての輝かしき「日の道」の証しを見つけたかのような感慨と見てもいいのではないかと思う。
 余談だが、キャンディーズの『微笑がえし』(阿木燿子作詞)の「畳の色がそこだけ若いわ」の一節は芭蕉のこの句の換骨か。
 夏という季節の本意は、本来は強すぎる日の光とそれが雲や木々で覆われてしまうという矛盾にあった。日の光は、それを天皇と理解するなら長い武家政治の雲の上で今では見えない存在になっていることを意味し、日の道に傾倒し、青葉若葉の下にまで日の光をもたらした徳川公への賛美の意味にも転換できた。
 近代的に見るなら、日の光を遥かな理想、プラトンのイデアの光に転じることも可能かもしれない。

 風そよぐせいたかのっぽの木の頭上
     我には見えぬ青空がある
               俵万智

 いずれにしても日の光はまだ閉ざされている。そして日が顔を出す時は万物の生命の止む秋になる。