2017年6月8日木曜日

 伊藤仁斎は寛永四年(一六ニ七)の生まれで、寛永二十一年生まれの芭蕉よりはかなり先輩だが、元禄を過ぎて宝永二年(一七〇五)まで長生きしている。世代は違うとはいえ、一応同時代を生きたといってもいいだろう。
 基本的には儒者で、儒教の経典とされる四書五経の内、四書のほうを重視した文献学者だった。五経に重点を置いた荻生徂徠とともに「古学」という括りで語られることが多い。
 当時の儒教は朱子学であれ陽明学であれ古学であれ、基本的には経典の解釈の学で、いわば堯舜などの先王の治世から孔子に至るまでの故実の学だった。伊藤仁斎の主著といわれる『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』は四書の語句を項目別に解説した部立ての学で、童子の質問に答えていく形式でつづられた『童子問』は機知の部分に当たる。
 儒教の根底にあるのは基本的には人間の情念であり、「性」だとか「誠」だとか言われるもので、朱子学はそれを格物窮理によって探求し、陽明学は直感的な仏教で言う頓悟のようなものを重視し、伊藤仁斎は孔子や孟子の言葉からその血脈を読み取ろうとした。
 方法は違っていても、表現の仕方は異なっていても、基本的に人間の心の根底にあるものに違いはなく、それは西洋的なロゴスの単一性ではなく、孔子、老子、仏陀の三人が酢を舐めて一様に酸っぱい顔をするような生理的なものとして捉えられていた。今日では「生理的」だとか「遺伝的」だとかいうことになるが、当時の言葉では「性」「誠」「道」と呼ばれるものだった。
 鎌倉時代に様々な新興仏教が興り、流行したが、そのもっとも驚くべき点は彼らが原理主義に陥らなかったことだろう。仏教の根底も人間の生理的な部分に根ざしたため、一つのロゴスがドグマとして支配することはなかった。
 さて、その伊藤仁斎の『童子問』(元禄四年頃から書きはじめ、死の二年後の宝永四年に公刊された)の最後の方に詩について論じた部分がある。これも西行の歌論や蕉門の俳論との共通性が見られて面白い。
 まず童子の問いから始まる。

 「問う、詩文編集甚だ多し。孰(いず)れをか正を得たりと為(す)る。」

 それに仁斎先生は答える。

 「曰く、三百篇の後、唯漢魏の際、遺響尚存す。厥(そ)の後唯杜少陵氏が作、庶幾(ちか)しと為す。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 四書五経の一つであり、孔子の編纂の伝承を持つ『詩経』三百篇は当然の事ながら詩の正統とされる。その後は漢や魏の時代に「古詩」と呼ばれるものが若干存在し、その後は盛唐の時代の杜少陵の作がその正統に近いというのが仁斎先生の答だ。杜少陵は今日一般的に杜甫と呼ばれている。少陵野老と号したことから杜少陵とも呼ばれていた。
 その正統の理由として更にこう述べる。

 「蓋(けだ)し古人の詩は、皆咨嗟詠嘆の餘に発して、一も事実に非ざる者無し。謂ゆる性情に本づくという、是のみ。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 「咨嗟」は歎くことをいう。李白は「蜀道難」という古詩のなかで成都への道の険しさや猛獣毒蛇などのことを語った後、最後に「側身西望長咨嗟」で結んでいる。恐怖に震えながら西にある行き先を眺め長く「咨嗟」する、という意味だ。
 「詠嘆」もまた悲痛な思いを歌に込めて歌い上げることをいう。
 詩の基本にあるのは人生の様々な苦悩から来る嘆きの声で、そこに真実がある。これを「性情に本づく」という。
 ここに「やまとうたは人のこころをたねとして」という『古今集』仮名序の言葉を思い浮かべることもできるであろう。当時の和歌も『詩経』や漢魏の古詩や盛唐の詩の影響を受けていたことは言うまでもない。
 『詩経』の大序にはこうある。

 「詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。(詩は志すところのものである。心にあるにを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。)
 言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。(言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。)
 情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。(感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。)
 故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。(故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。)」

 さらに『詩経』はこう言う。

 上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。(為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。)
 至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。(周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。)
 国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。(国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。)

 「風刺」という言葉はここから来ている。先王の治世であれば詩は喜びにあふれているが、先王の道の失われた春秋戦国時代から今日に至るまでは詩は基本的には「咨嗟詠嘆」であり、それが人の自然な性情だというわけだ。
 これに対し正統でない詩というのは、『童子問』ではこういうものを言う。

 「後人の事無うして強いて作るが若(ごと)きに非ず。其の感托する所無うして、徒らに光景に流連し、物象を模写する者は、状(かた)どり難きの景を写して、目前に在るが如しと雖ども、畢竟徒作のみ。風雲月露、山川草木、本(も)と天地自ら有るの物、詩人の之を模写することを須(もち)いず。」(『童子問』伊藤仁斎著、清水茂校注、1970、岩波文庫、p.235)

 要するに心から現代の政治や世の乱れに対し心から嘆くこともなく、ただ美しい景色を見てはそれを描写するだけのものは「徒作のみ」となる。これは景物を否定するのではなく、心の底からの思いを景物の比(対比)や興(言い興し)でもって述べるのは正統となる。それなしに景物だけこれでもかと描写するのは「徒作」になる。

 『去来抄』「先師評」

 「つたの葉───     尾張の句
 此のほ句ハ忘れたり。つたの葉の、谷風に一すじ峯迄まで裏吹かへさるゝと云句なるよし。予先師に此句を語る。先師曰、ほ句ハかくの如く、くまぐま迄謂つくす物にあらずト也。支考傍に聞て大ひに感驚し、初てほ句トいふ物をしり侍ると、この比ごろ物語り有り。予ハ其時なをざりに聞なしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意なし。(『去来抄・三冊子・旅寝論』穎原退蔵校訂、1939、岩波文庫、p.20)

 ここで問題になっている句というのは、

 蔦の葉は残らず風のそよぎ哉   荷兮

の句を指すとされている。
 伊藤仁斎は儒者だから、政道の衰えの嘆きに重点が置かれているが、仏者であれば西行のように秘密の真言であることに重点を置き、蕉門はそれを「風雅の誠」と呼ぶ。どれも人間の本来持つ性情だという点では一致している。
 先日テレビで坂本龍一が出ているのを見て、相変わらず80年代のアヴァンギャルドやミュージック・コンクレートから抜け出せないんだなと思った。こうした音楽は不協和音や意図的にリズムをはずした音などを用いるが、その理由が自然界の音のほとんどは不協和音でリズムも不揃いだからというなら、結局その音楽は「自然の模倣」にすぎないのではないかと思う。
 不協和音や外れたリズムは人間の内面から来る強烈な嘆きの声から生み出された時、その真価を発揮するのではないかと思う。残念ながら坂本さんの音楽にはそれが感じられずただ観念的に無理やり作ってる感がある。それではブラックメタルに勝てないと思う。

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