2017年6月28日水曜日

 前にエピステーメのことを書いたが、結局ミシェル・フーコーの知の考古学も科学として確立できないまま、今では忘れ去られている。レビストロースの開いた構造人類学も同じようなものだ。だからと言って一般的な社会学もやはり迷走中というほかない。
 文献学に基づく古典的な人文学(ヒューマニズム)の時代は確実に終わってゆくが、フーコーが思い描いたように言語学をモデルにして人文科学が再編されることもなかった。
 文化だとか歴史だとかを科学的に解明することは難しい。一度起きた事件は二度と起こらないから、検証することができない。
 それに加えて、民族だとか文化だとかいうものは明確に定義することができない。一口に大和民族と言っても、北は北海道から南は沖縄まで様々な地方文化があり、独自の県民性があったりするし、同一地域でもオタクもいればヤンキーもいるし、様々な職種や学歴や階級によって生じる多様性をどう捉えていいかもわからない。
 民族は遺伝子からしても定義できない。今までも様々な形で混血してきたし、これからも国境を越えたラブロマンスは無数に作られていくだろう。
 明確に定義できないけど、漠然として何となく存在している。それが文化であり民族だ。
 言語も同じだ。ソシュール言語学でいうような「ラング」は一つの理想としてしか存在しない。現実に存在するのは無数のパロールだけだ。パロールは無秩序なのではなく、各自の脳の中でそれぞれ独自に構造化されている。その各自の内で構造化された言語は、どれもよく似ているがまったく同じかというとそうではない。だから文法や語彙が正しいかどうかについて意見は分かれる。一般の間でもそうだし、言語学者の間でも一つの答えというのはない。
 民族も文化も、各自それぞれの中で独自に構造化されているし、隣に住んでいる人同士だとそれは大体似ている。それでも各自の構造があるだけで、一人ひとりの人間を離れて民族や文化が超越的に存在することはない。
 だから、社会を科学すると、その対象は全ての成員の内にあるそれぞれ微妙に異なった構造物を全て対象にしなくてはならない。そんなことは無理な話だ。だから統計的方法に頼る。しかしその統計の質問の仕方でいくらでも操作できる。安倍首相の支持率はある新聞の調査では86パーセントで、ある新聞の調査では5パーセントだという。
 社会科学は永遠に大雑把な傾向ぐらいのことしかいえない。歴史学も哲学も文学研究も同様だ。大雑把なことしか語れない。そんな大雑把なもので政治が動けば、政治もまたとんでもない愚を繰り返すのは当然だ。
 人文科学の再編はフーコーの意に反して、あくまで脳科学の進歩を待って延期された状態にある。脳科学と人工知能が一致した時、初めて人文科学は「科学」となるのかもしれない。そのとき、人文学者というのは存在しない。高度なAIとそれを搭載した量子コンピュータのみが人文学者になる。
 囲碁や将棋でもAI同士を対戦させるとそれこそ並み居るプロ棋士の理解を超えた宇宙人の戦いになるという。そういう宇宙人が政治をやれば、ひょっとしたら科学的社会主義が実現するのかもしれない。
 そんな取りとめのないことを考えながら、昔の人の言葉に思いをはせる。AIだったら、膨大な古典のテキストから、まったく我々の思いもしなかったような名前も付けられないような概念を発見し、それを駆使して解明してくれるかもしれない。そのときようやく答合わせができるのだろう。

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