なぜ俳諧を読むのか。なぜ俳諧に惹かれるのか。
多分それはひたすら自分のことばかり言う近代文学と違い、いろんな人の気持ちに成り代わって一人の人間がいろいろな人生を詠むことで、自分と違ういろいろな立場の人の心を学ぶことができるからではないかと思う。
他人の気持ちを理解し、他人に成り代わって他人のことを表現する。それは芸術を自己表現だとする西洋の考え方とは違うかもしれない。連歌や俳諧は違う。皆それぞれが他人に成り代わり、いろいろな人の心を表現する。
門しめてだまつてねたる面白さ
ひらふた金で表がへする 野坡
もちろん野坡はそんなことをする人ではない。でもその気持ちはわかる。連衆も集の読者も「あるある」といってそれを理解する。
杖一本を道の腋ざし
野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
これはまったく違う死に近い老人の句。これは芭蕉自身の心境だったかもしれないが、長い連句の中ではこういう人もいるというところで、誰もがその身に成り代わってその心境を理解する。
月くらき夜の塩梅を星で見る
聖霊棚はよほど窮屈 浪化
これなんぞは死霊の立場に成り代わる。
輾磑をのぼるならの入口
半分は鎧はぬ人もうち交じり 嵐蘭
ここでは源平合戦の頃の僧兵にもなれる。
草庵に暫く居ては打やぶり
いのち嬉しき撰集のさた 去来
では西行法師にもなれる。
いろいろな人の身になって、いろいろな人に共感して、いろいろな人の人生を理解する。それが連歌、俳諧の心ではないかと思う。
そして、人の心に成り代わり、人の心を理解するということが我国の文化の根底にあったことは誇るべきことだと思う。
人間は一人一人皆違い、一人として同じ人間はいない。考え方も人生観も信じるものも何を幸せとするかも、みんな人それぞれだ。生物が多様であることで強固な生態系を構成するように、みんなそれぞれ違うから社会も強固なものになる。
遺伝子に多様性がなかったなら、環境が変わればみんな一様に死滅するしかなかった。多様であるがために誰かが生き残って次の時代を作る。その多様さが互いに足りないものを補いあうことで、一人だけでなくみんなが生き残る確率も高くなる。
人は皆自分だけの遺伝子を持って生まれてくる。そして人は誰しもその自分固有の遺伝子の声にしたがって生きるほかない。人は誰しも生命の多様性の一つとしての自分を生きなくてはならない。でも自分だけではない。多様性の一つだから生きられる。それを教えてくれるのが連歌・俳諧ではないかと思う。
それでは「紫陽花や」の巻の二裏に入る。
三十一句目
国から来たる人に物いふ
閙(いそが)しう一臼搗て供支度 芭蕉
(閙しう一臼搗て供支度国から来たる人に物いふ)
国から来た人にお供するように誘われたか。すぐに付いてゆきたい気持ちを抑え、取り合えず目の前の仕事を片付ける。
無季。
三十二句目
閙しう一臼搗て供支度
糞(こえ)汲にほひ隣さうなり 子珊
(糞汲にほひ隣さうなり閙しう一臼搗て供支度)
「一臼搗て」を田舎の事として、肥え汲む匂いを付ける。糞尿ネタはシモネタということで蕉門では嫌われるが、畠に蒔く肥えを詠んだ句はいくつかある。
無季。
三十三句目
糞汲にほひ隣さうなり
今の間のじるう成程降時雨 杉風
(今の間のじるう成程降時雨糞汲にほひ隣さうなり)
「じるう」は「地潤う」。
『炭俵』の「ゑびす講」の巻に、
砂に暖のうつる青草
新畠の糞もおちつく雪の上 孤屋
の句があるように、新しく開墾した土地では雪の解ける頃に肥料をやるのが良いとされている。土が湿っていると酸欠になるからだという。
雪のない地方なら、収穫の終わった後の冬に荒起こしをして土を空気にあて、それから土作りに入る。肥を撒くのもこの頃だ。
雨が降りすぎると酸欠になる恐れがあるが、時雨の雨なら地面を潤してくれる。
季題は「時雨」で冬。降物。
三十四句目
今の間のじるう成程降時雨
日用の五器を籠に取込ム 八桑
(今の間のじるう成程降時雨日用の五器を籠に取込ム)
日用は「にちよう」ではなく「ひよう」と読む。日用(ひよう)の場合は「日雇い」のことをいう。
時雨が降りだしたので、日雇い労働者が主人の大事な食器を急いで籠に入れ、片付ける。
無季。
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