今は夏というとだいたい学校の夏休みのイメージがあってか、八月くらいをイメージすることが多い。朝顔の花が咲いて、スイカを食べて、夕暮れにはヒグラシが鳴き、盆踊りがあり、ってこれらはかつてはみんな秋のものだった。
昔は夏というのは旧暦の四月五月六月。今でいうと大体五月六月七月くらいに相当する。そういうわけで、今は夏の真っ盛りというわけだ。
夏の真っ盛りは大体五月雨の季節で、草木が鬱蒼と茂り花は少なく、春秋に比べると地味な季節だった。
『万葉集』の額田王の春秋競憐歌に、
冬こもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉(もみ)つをば取りてぞ偲ふ 青きをば置きてぞ嘆く そこし恨めし秋山我は
の「山を茂み入りても取らず草深み取りても見ず」は、すぐに夏が来て草木の茂り変わっていってしまうことを疵にしたものであろう。秋の紅葉は散ってしまって冬が来ても手にとって見ることができる。俳諧でも「紅葉」は秋だが「落ち葉」は冬になる。
「春に万物を生じ秋に止む」が春秋の心なら、夏の心は「万物の生じすぎ」、冬の心は「万物のなきがら」であろう。
「万物の生じすぎ」は言い換えれば生命の過剰であり、過剰な生命は生存競争を始め、戦いに荒れ果ててゆく。それに比べると冬は生命が少ないだけに平和だ。
中国でも屈原の『懐沙』に、
滔々たる猛夏、草木莾々たり。
懐(おもい)を傷め永く哀しみ、汩として南土に徂く
とある。そこには政争に敗れて死すべき運命を暗示させている。
草木の茂りは「鬱蒼」だとか「鬱々」だとか表現するように、憂鬱だとか葛藤だとかいう精神的な煩悶の意味にも拡大されて用いられる。
また戦いによって荒れ果てた姿も草木の茂りとして表現される。
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
はその「夏草」に見事に生命の過剰=生存競争=戦争、そしてその悲しさを表現している。
芭蕉の『奥の細道』の日光の句、
あらとうと青葉若葉の日の光 芭蕉
も基本的には青葉若葉に今日のようなみずみずしさを表現したのではなく、荒れ果てた戦国の世に終止符を打ち、日の光をもたらした徳川家康公への賛美の句と見たほうがいいだろう。原案の方がその意図がわかりやすい。
あなとうと木の下闇も日の光 芭蕉
「木の下」というと豊臣秀吉の元の名前を連想させる。
夏の真ん中というと五月、さつきで五月雨(さみだれ)の季節でもある。木々の鬱蒼とした茂りと同様、太陽の光のもっとも強い時期でありながら、その太陽は木々や五月雨の分厚い雲によって隠されている。この逆説もまた、生命の過剰、争いと結びつく。
『宗長日記』の中にある宗長独吟百韻の中の、
いつまでとふる五月雨のかきくらし
雲間の空もはるかにぞ見る 宗長
の句は、戦国時代に生きた宗長の実感だったのだろう。雲間の空の向こうには何があるかといえば、それは太陽、日の道だ。隠喩としてはそれは天皇をも意味しうる。
芭蕉もまた元禄三年に、
日の道や葵傾くさ月あめ 芭蕉
の句を詠んでいる。ここにも「日の道」=天皇、「葵」=徳川という隠喩が読み取れる。
元禄三年といえば芭蕉が幻住庵にいた頃だ。
その翌年、京都嵯峨の落柿舎で、この句を詠む。
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉
五月雨は「降る」もので、時間の「経る」に掛けて用いられる。五月雨の時間の経過が壁を日焼けさせ、色紙をはがすとそこだけ元の壁の色が現れる。それは直接的には落柿舎で過ごした日々のことだが、隠喩として拡大するなら、王朝時代が終わり武家の支配する乱世となって五百年、かつての輝かしき「日の道」の証しを見つけたかのような感慨と見てもいいのではないかと思う。
余談だが、キャンディーズの『微笑がえし』(阿木燿子作詞)の「畳の色がそこだけ若いわ」の一節は芭蕉のこの句の換骨か。
夏という季節の本意は、本来は強すぎる日の光とそれが雲や木々で覆われてしまうという矛盾にあった。日の光は、それを天皇と理解するなら長い武家政治の雲の上で今では見えない存在になっていることを意味し、日の道に傾倒し、青葉若葉の下にまで日の光をもたらした徳川公への賛美の意味にも転換できた。
近代的に見るなら、日の光を遥かな理想、プラトンのイデアの光に転じることも可能かもしれない。
風そよぐせいたかのっぽの木の頭上
我には見えぬ青空がある
俵万智
いずれにしても日の光はまだ閉ざされている。そして日が顔を出す時は万物の生命の止む秋になる。
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