昨日に続き『続猿蓑』の五月雨の句。
五月雨や蠶煩ふ桑の畑 芭蕉
何度もいうが、芭蕉の時代の、特に芭蕉の用いる切れ字「や」は中世的な用法で、本来末尾に来る疑問反語の「や」を倒置で前に持ってきたもので、係助詞の「や」と同様に考える必要がある。
つまりこの句は「五月雨に蚕煩ふや」が倒置になり「五月雨や蚕煩ふ」になったと考えるべきであろう。
そうなると、今度は「五月雨に蚕煩ふや」と「桑の畑」との関係になる。「桑の畑で五月雨に蚕煩ふや」だと、言葉の続きは自然だが内容的におかしくなる。蚕は部屋の中で飼うもので、桑の畑は蚕の餌をとりにいくところにすぎないからだ。ここで無理やり、病気で死んだ蚕を桑の畑に捨てたと解釈する人もいるが、それではあまりに無理がありすぎる。
ここは桑の畑に五月雨が降るのを見ての蚕の心配と見たほうがいい。「桑の畑の五月雨に、蚕煩うや」そう読んだ方がいい。この場合の「や」は疑問であるとともに、蚕が病んだりしてないかという気遣い、心配りの「や」と考えた方がいい。
病死した蚕を描写するというのは近代俳句的発想で、芭蕉の時代の風流ではない。五月雨に蚕が病気になりやしないかと気遣うのが風流の心だ。
この句に関しては、各務支考の『十論為弁抄』(享保十年刊)にこうある。
「ある時、故翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯といひ、病蠶といへる此詞のおもしろければ、
鶯や竹の子藪に老を啼
さみだれや蠶わづらふ桑の畑
かく此二句をつくり侍しが、鶯は筍藪といひて、老若の余情をいみじく籠り侍らん。蠶は熟語をしらぬ人は、心のはこびをえこそ聞まじけれ、是は筵の一字を入て家に飼たるさまあらんと、其句のままに申捨らしが、例の泊船集に入たるよし。」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫、P.139)
「病蠶」という言葉は中国語のサイトで白居易集を見つけてメモ帳にコピーし、「病蚕」ではなく「蚕病」で検索したらすぐに出てきた。簡体字のサイトだったので、同じものを繁体字のサイトで捜した。それが以下の詩だ。
酬鄭侍御多雨春空過詩三十韻
白居易
南雨來多滯 東風動即狂
月行離畢急 龍走召雲忙
鬼轉雷車響 蛇騰電策光
浸淫天似漏 沮洳地成瘡
慘澹陰煙白 空蒙宿霧黃
暗遮千里目 悶結九回腸
寂寞羈臣館 深沉思婦房
鏡昏鸞滅影 衣潤麝消香
蘭濕難紉佩 花凋易落妝
沾黃鶯翅重 滋綠草心長
紫陌皆泥濘 黃汙共淼茫
恐霖成怪沴 望霽劇禎祥
楚柳腰肢嚲 湘筠涕淚滂
晝昏疑是夜 陰盛勝於陽
居士巾皆墊 行人蓋盡張
跳蛙還屢出 移蟻欲深藏
端坐交遊廢 閑行去步妨
愁生垂白叟 惱殺蹋青娘
變海常須慮 為魚慎勿忘
此時方共懼 何處可相將
已望東溟禱 仍封北戶禳
卻思逢旱魃 誰喜見商羊
預怕為蠶病 先憂作麥傷
惠應施浹洽 政豈假揄揚
祀典修咸秩 農書振滿床
丹誠期懇苦 白日會昭彰
賑廩賙饑戶 苫城備壞牆
且當營歲事 寧暇惜年芳
德勝令災弭 人安在吏良
尚書心若此 不枉系金章
長いので暇があったら訳してみたいが。「預怕為蠶病 先憂作麥傷」とあるから、多分雨が続いて蚕や麦の病気が心配だと気遣う内容ではないかと思う。これをすらすら読める漢文力が欲しい。
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