2020年9月30日水曜日

  今日は十四夜で昼は晴れていたけど夕方になって雲が広がった。最初は雲に霞む薄月が見えたが、だんだん雲が濃くなってゆく。明日は雨なのか。
 コロナの方も横ばいというのか、減るでもなく増えるでもなく、照りもせず曇りも果てぬころなかな。
 「舞都遲登理」ほうはまたちょっとお休みして、俳諧を読んでみたい。
 名月といえば元禄三年、猿蓑調の頃の歌仙を読んでみようと思う。八月十五日、膳所義仲寺の無名庵での興行された芭蕉、尚白両吟で、発句は、

   古寺翫月
 月見する座にうつくしき顔もなし  芭蕉

 まあ、野郎二人の興行では「うつくしき顔もなし」だろうな。
 脇。

   月見する座にうつくしき顔もなし
 庭の柿の葉みの虫になれ      尚白

 蓑虫というと、芭蕉の貞享四年の句に、

 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵    芭蕉

があり、伊賀の土芳が貞享五年三月に蓑虫庵を開いたときに、「蓑虫の」の句の自画賛を送られたというが、現存しない。これとは別に鯉屋杉風のところに伝来する芭蕉庵を描いた自画賛と英一蝶画の「みのむしの発句賛」が現存している。
 芭蕉の蓑虫の句を意識したのであろう。この無名庵にも柿の木があるから、柿の葉で蓑虫になれば芭蕉庵や蓑虫庵と肩を並べることになる。
 第三。

   庭の柿の葉みの虫になれ
 火桶ぬる窓の手際を身にしめて   尚白

 
 火桶は丸い木製の火鉢で、漆を塗って仕上げた。蒔絵を入れた高級なものもあった。
 ここでは漆を塗って仕上げる職人の手際を詠んだもので、製作中の火桶だから冬季にはならない。「身にしめて」で秋になる。
 四句目。

   火桶ぬる窓の手際を身にしめて
 別当殿の古き扶持米        芭蕉

 別当は神仏習合の際の神社を管理する僧のことで、修験の寺にも別当がいた。
 前句を完成した火桶を納品する場面とし、別当から扶持米をもらう。
 五句目。

   別当殿の古き扶持米
 尾頭のめでたかりける塩小鯛    芭蕉

 ここでいう小鯛はチダイではなく単に小さな鯛という意味だろう。保存するために塩漬けにする。塩漬けにすると小さな鯛がもっと小さくなるが、それでもちゃんと尾頭がついていてお目出度い。
 別当は仏者だが、他人の殺生した魚は食べる。ただ、贅沢はせずに、塩漬けの小鯛くらいに慎ましく止めておく。
 六句目。

   尾頭のめでたかりける塩小鯛
 百家しめたる川の水上       尚白

 これは尾頭を「御頭様」に取り成しての展開だろう。百家を従え川上に屋敷を構えている。

2020年9月28日月曜日

  今日は朝から秋晴れで、今年初めての雲一つない秋晴れとなった。富士山も雪をかぶり、くっきりと見えた。
 夕方頃から雲が出てきて、十二夜の月はかろうじて雲間に見えただけだった。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「陸地以の外難所、鮎川と云獵浦より舟路三里、黒崎と云へ、渡しに乘て島着ス。麓ヨリ四十六丁、陸ヨリ三里離て海中ニアリ。丸キ嶋山也。是なん陸奥山。五丁登テ大林寺、護摩堂・辨財天・神明、嶺に權現堂幷愛宕、五丁下りて御手洗、旱魃にも水不絶、嶺より二丁下りて廿鉾の水晶アリ。此水晶高サ貳拾尋、根の深サ不知、自六角にして一角の幅七尺余有、但末七尋ハ震動ニ折レテ、谷ニ落埋半見へたり。万劫經タル石故、空ハ松杉の寄生、枝はを連ね、石は莓覆て光不明也。誠靈山の印、稀有の一物、三國第一の珍寳、末代の記念。

     こがね花さくとよめるは此山にて、
     千歳の莓八重に厚く、木立春秋を
     しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、
     四時の風全凩のごとし。白雲空に
     消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立
     迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。
     東に金砂潠漂泊、黙然として是を
     おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、
     金生水の故ありやと、猶尊く、御手
     洗を咶れば、五ツの味をなす。冷
     水輕して、色は青天に等し。比は
     さつきの末つかた夏を忘れて、
     しばらく木のねを枕になしぬ。
    〇御手洗や夏をこぼるゝ金華山
    〇黄精の花やきんこの寄所
    〇水晶や凉しき海を遠目鑑」(舞都遲登理)

 石巻より十三里の船路を避けて牡鹿半島の先端にある鮎川港まで陸路で行ったようだが、かなりの難路だったようだ。山の迫るリアス海岸で、今の宮城県道2号石巻鮎川線もコバルトラインもうねうねと山の中を行く。
 鮎川から船路三里、牡鹿半島先端の黒崎を廻り、金華山に到着する。今の金華山港のあたりか。
 金華山は陸奥山(みちのくやま)とも言われていた。

 すめろぎの御代さかえんとあずまなる
     みちのく山にこがね花さく
            大伴家持(万葉集巻十八 四〇九七)

と歌にも詠まれている。
 今は金華山黄金山神社があるが、ウィキペディアによれば、かつては、

 「近代以前は弁財天(弁天)を祀る金華山大金寺(だいきんじ)という女人禁制の修験の真言宗寺院であり、広島県の厳島神社等とともに日本の「五弁天」の一にも数えられるとともに、霊場として山形県の出羽三山、青森県の恐山に並ぶ「東奥三霊場」に数えられた。」

という。大林寺は大金寺の間違いであろう。かつてここに大伽藍が存在していたようだ。明治の廃仏毀釈でここも跡形もない。
 御手洗は今のこの金華山黄金山神社の御水取場でいいのか、よくわからない。
 山頂もかつては竜蔵権現だったが、今は大海祇(おおうみつみ)神社になっている。
 水晶は今は天柱石と呼ばれ、山頂の東側にあるという。高さ二十メートルだから一尋が五尺(約百五十センチ)として、十三尋ちょっとというところか。「七尋ハ震動ニ折レテ」とあるから、それを加えれば二十尋になる。
 ただ、今の写真で見る限り、一般的なクリスタルのあの透き通った六角の柱とはかなりイメージが違う。普通の岩のように見える。まあ、当時も苔むして「光不明」とある。
 さて、句の方も長い前書きがついている。俳文として読んでもよさそうだ。

   こがね花さくとよめるは此山にて、
   千歳の莓八重に厚く、木立春秋を
   しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、
   四時の風全凩のごとし。白雲空に
   消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立
   迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。
   東に金砂潠漂泊、黙然として是を
   おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、
   金生水の故ありやと、猶尊く、御手
   洗を咶れば、五ツの味をなす。冷
   水輕して、色は青天に等し。比は
   さつきの末つかた夏を忘れて、
   しばらく木のねを枕になしぬ。
 御手洗や夏をこぼるゝ金華山
 黄精の花やきんこの寄所
 水晶や凉しき海を遠目鑑

 頭は大伴家持の歌で、「春秋を知らず」は、

 春秋は知らぬときはの山河は
     なほ吹く風を音にこそ聞け
             清少納言(清少納言集)

の歌や、水無瀬三吟七十六句目の、

   山がつになど春秋のしらるらん
 うゑぬ草葉のしげき柴の戸    肖柏

といった用例がある。あたかも仙郷のように生き物の生死を知らぬことをいう。
 鶯もホトトギスに子を取られることもなく、一年中凩のような強い風が吹いている。
 このあたりは神仙郷をイメージするための言葉の綾で、一年いてここの春秋や一年中吹く凩を経験しているわけではない。
 「白雲空に消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立迷ふ。」は夏の湿気の多い季節では実際にそうだったのかもしれない。「南の磯に海鹿日を待て眠る」とあるが、当時ならニホンアシカの姿を見たとしても不思議はないだろう。江戸時代には日本の沿岸に数多く生息していた。
 ウィキペディアによるとニホンアシカは「一九七五年に竹島で二頭の目撃例があったのを最後に」絶滅したとされているが、はっきりとニホンアシカだと確認されてない目撃例は、その後も三回ほど(最後のはニ〇一六年)あったという。
 「金砂潠漂泊」は「金砂潠(キンコ)漂泊(タゞヨフ)」とルビがふってある。砂は沙、潠は噀と同じで、「沙噀」はナマコと読む。「潠(噀)」は口から噴き出すもの、唾液などを言うが、ナマコは刺激を受けると腸管を肛門や口から放出するため沙噀というのであろう。
 ナマコの中でも「金海鼠・光参(きんこ)」と呼ばれるものがあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「① キンコ科に属するナマコ類の一種。全長二〇センチメートルに達する。体は長楕円形で、前端に樹枝状の一〇本の触手がある。灰褐色に褐色の斑紋がある個体が多いが、体色の変異は大きい。腹面は湾曲するが背面はやや平たい。常磐地方から北海道、千島などの沿岸に分布。昔から宮城県金華山産が賞味された。煮て干したものを中国料理につかう。ふじこ。《季・冬》
  ※俳諧・桜川(1674)冬二「料理てばひかりやはらぐ金海鼠哉〈季堅〉」

とある。キンコは水を吸うことで浮力を付け、海を漂うという。
 七宝はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏典中に列挙される7種の宝。7種は必ずしも一定しないが,代表的なものとしては,金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう) 。金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう)」

とあるが、キンコはその一つの金の子で、そのキンコの獲れる金華山は五行説で「金は水を生ず」とあるように、水を生む島なのではないかと思うと尊いことで、その金華山から湧き出る御手洗の水も五つの味、つまり五味(酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味 )をすべて兼ね備えていると言うのだが、実際どういう味だろうか。
 五月の暑くじめじめした季節だが、ここではそれを忘れて「しばらく木のねを枕になしぬ。」
 そして発句になる。

 御手洗や夏をこぼるゝ金華山   桃隣

 「夏をこぼるる」は現代語だと「夏にこぼれる」だろう。金華山の金が水を生じ、零れ落ちている。それで「夏を」は放り込み。

 黄精の花やきんこの寄所     桃隣

 「黄精(おうせい)」はナルコユリから取れる漢方薬で、ナルコユリの花が白いところから、これは波しぶきを黄精の花に見立てたのかもしれない。キンコがそれに寄って来る。

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

 実際には天柱石は普通の岩のように濁っているし、当時はさらにそれに苔が生えていたが、それだけに、磨けば透き通るのではないかと想像したのだろう。磨かれた水晶は海を見る遠眼鏡になる。とはいっても多分遠眼鏡は話に聞くだけで、普通の眼鏡のようなものを想像してたか。それすら当時は滅多に見ることはなかっただろう。

2020年9月27日日曜日

  「舞都遲登理」の続き。

 「松嶋より平和泉へ心ざし、遙分入まゝ海道より半里斗右へ入て、とみの山登て見れば、富山大仰寺、高泉和尚額アリ。此所より松島・雄島其外島々浦々目に下に見おろし、手も届く程のけしき、詞に絶たり。松島を岡より見渡したるよりも猶增りて、國主も度々登山のほし行人必尋て見るべし。
    〇麥喰て嶋々見つゝ富の山」(舞都遲登理)

 前に「外ニ金花山・富ノ山」とあった、その富山に行く。大仰寺は観音堂の近くにある。高泉和尚の額があったという。松島の島々が一望できる。

 麥喰て嶋々見つゝ富の山     桃隣

 「貧乏人は麦を食え」といった政治家が、確か高度成長の頃にいたが、麦を食っていても松島の絶景を眺めたならリッチな気分になれる。

 「行々て石の巻、仙臺領也。諸國の廻船を請て大湊、人家富たり。石の巻といへる事、川の州に立石有、行水巴に成て是を巻く。昔より今に替らず、されば石の巻とはいひめる。所ハ邊土ながら詩歌・連誹の達人籠れり。
    〇茂る藤やいかさま深き石の巻」(舞都遲登理)

 JRの石巻駅の東側の旧北上川河畔に住吉公園があり、そこの川の中に巻石という岩があり、それがここでいう立石であろう。
 北上川は江戸時代初期に大規模な河川改修が行われた。登米のあたりで北上川はこの旧北上川と北東へ曲がる追波川とに分かれ、湿地が広がっていたが、登米城主伊達相模宗直が新田開発のために北上川を柳津から豊里の方に迂回させルルートを新たに切り開いた。
 そのあと伊達政宗の家臣川村孫兵衛が豊里から和渕で江合川に合流させ、鹿又へと迂回させるルートを切り開いた。これによって、登米の辺りで北上川は三つのルートで流れることになった。
 この時は旧北上川が北上川だったが、明治になると北上川から鹿又へと流れる一番最初のルートを断って、水をすべて北東へ曲がる追波川に逃がし、こっちの方を北上川としたため、石巻市街を流れるのは旧北上川になった。そういうわけで、桃隣の時代は巻石のある方が北上川だった。おそらく当時の方が水量が多く、岩を巻く波の姿が見られたのだろう。今は東日本大震災による地盤沈下で干潮時にしか姿を現さないという。
 石巻は「詩歌・連誹の達人籠れり」とあるが、具体的に誰が滞在したのかはよくわからない。

 茂る藤やいかさま深き石の巻   桃隣

 藤の蔓の石を巻くに掛けた句であろう。巻石のあたりの北上川は深く渦を巻き、あたかも茂る藤のようだ。

 「牧山の道、船渡し、此あたりを袖の渡。こふちのみまき・まのゝかやはらは、牧山のうらに有。石の巻より一里行て、牧山、法華不退の道場、奥ハ千手観音。湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ。
 金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」(舞都遲登理)

 牧山は旧北上川を渡った向こう側にある山で、巻石のある住吉公園に袖の渡りの碑があるという。曾良の『旅日記』には、牧山を廻った後、「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」と記している。住吉公園は住吉神社があるから住吉公園なので、この位置に間違いないようだ。「住吉ノ社」は今は大島神社になっている。おそらく明治になってかつて式内社の大島神社に比定され、名前が変わったのであろう。
 袖の渡りは、

   実方の君の、みちのくにへ下るに
 とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川
     そでのわたりはあらじとぞ思ふ
               清少納言(新後拾遺集)

など、歌に詠まれている。
 「こふちのみまき」は曾良の『旅日記』には「尾駮ノ牧山」とあり「おふちのまきやま」ともいう。牧山に比定されていたのだろう。『奥の細道』にも、「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて」とある。
 曾良の『旅日記』には、「日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。」とある。日向山は旧北上川河口の今の日向山公園であろう。眺めが良く、万石海(奥ノ海)、牡鹿半島の山々(遠嶋)、牧山を見渡し、真野萱原も少し見えたという。遠嶋は牡鹿半島全体が流刑地だったことからそう呼ばれていたらしい。
 「すさまじきもの~「歌枕」ゆかりの地★探訪~」というサイトによると、仙台藩四代藩主伊達綱村も磐城平の内藤家二代忠興三代義概と同様、みちのくの有名な歌枕を自分の領内に置き換えて作っていたようで、おそらくほかの藩でも競うようにこういうことをやっていたのではないか。どうりで緒絶の橋がたくさんあるわけだ。その意味では尾駮ノ牧山も真野萱原も本当にここなのかは怪しい。
 牧山には零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)があるが、ここは古代の式内社零羊崎神社があった所で、その本地として魔鬼山寺があった。その後神社の方は廃れ、魔鬼山寺も後に牧山寺、長禅寺と名前を変え、桃隣が来た頃は「法華不退の道場、奥ハ千手観音」だったのだろう。明治の廃仏毀釈で零羊崎神社に戻ったようだ。
 それにしても「魔鬼山寺」とは何か漫画やラノベに登場しそうな名前で、牧山もこの表記に戻した方が人気が出るのではないか。
 「湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ」とある。日向山は芭蕉と曾良も登った日向山公園で、愛宕山は旧北上川を少し登った所にある曽波神社のある愛宕山であろう。
 「金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」とあるのは金華山で牡鹿半島の裏側になる。距離があるので天候の悪い日は避けた方がいいという忠告を受けたのだろう。
 芭蕉が金華山に行かずにそのまま平泉へ向かったのは、曾良がこの季節は無理しない方がいいと判断したからかもしれない。その芭蕉の見残しを桃隣が訪ねることになる。

2020年9月26日土曜日

 今日も一日雨が降った。
 BLMだが、日本語に訳すなら「黒人の死活」がいいのではないか。死活問題の問題の省略だが、ここにマターが含まれている。
 人種差別に限らず、あらゆる差別の根底には「わからないものへの恐怖」があると思う。この恐怖は原始的には一種の神とみなされ、鬼神と同様「敬して遠ざける」の対象となった。折口信夫のいう「マレビト歓待」もこうした一種の神としての対応だったと思う。もちろん現実的には異民族をひどい目に合わせると後、で仲間を引き連れて攻めてきて、最悪の場合村が焼き払われ殲滅させられる危険もあっただろう。
 恐怖が薄れてくると、遠ざけるという行動だけが残る。そこでいわゆる「いじり」というのが始まる。いじりは相手の反応を試すというのが基本にあり、一種の探索行動だと思う。つまり、あれを言えば笑って流すだけで済むし、それを言えばかなりムッとする、これを言えば激怒するというのを確認して、どこまでが大丈夫かを見極める作業が根本にある。
 いじりで済んでいるうちは、差別はそれほど深刻なものにはならない。最初はわからないからやっているから、限度を越えることもあるが、ここまでするとヤバイというのがわかれば、自ずと冗談で済む範囲に落ち着く。人権派の人たちはこのレベルでも差別として問題視し、法規制が必要だと考えているようだが、これを禁ずると、そもそも相手がどういう人なのか確認する手段がなくなってしまうから、相手への正確な認識や理解が困難になる。仲が良いほど喧嘩するというのは、この段階が人間の相互理解に必要だからだ。
 いじりといじめとの間には一つ大きな飛躍がある。いじめは集団に溶け込ませるための理解を促すものではなく、むしろ排除の開始となる。
 排除は基本的に人間が生存競争にさらされている限りなくならないもので、有限な大地の有限な生産力に対し人口が増え続ければ、必ず誰かを排除しなくてはならない。多くの動物は一対一での力関係で弱い者から排除される。これを順位制社会と呼ぶ。人間は弱くても力を合わせればどんな強い者にも勝てるということを知ってしまったから、生存競争が順位の争いではなく多数派工作の戦いになってしまった。ここから仲間を思いやる気持ちが進化すると同時に、仲間でない者に対しては(仲間を守るという名目で)どんな残虐な仕打ちもできるようになった。
 差別が過酷になり死活になるには、単に未知な相手への恐れというだけでは不十分で、それに生存競争による排除の原理が働いたとき人は異質なものに対し残虐になる。ここの一線は重要だ。
 日本で黒人が差別されているといっても、その多くはいじりのレベルで留まっている。
 差別は排除の原理が働く限り、個人の問題ではなく集団の問題になる。人間が生存戦略として多数派工作を行ったさい、その多数派集団から排除されたものが差別の対象になる。それは集団のルールの問題であり、個人の良心を越えたものになる。
 つまり、いくら個人的には友人で差別をしてはいけないと分かっていても、集団の圧力には抗しがたいという事態が生じる。内戦の状況下ではたとえ古くからの親友であっても過激派組織に引き渡さなければならないという悲惨な事態も生じる。引き渡せば殺されると分かっていても、それをしなかったら自分のみならず自分の家族も命の危険にさらされるという究極の選択だからだ。
 かつての南アフリカでのアパルトヘイトの問題は集団の問題であることがわかりやすかった。だが、今のアメリカの人種差別は違う。白人の多くがBLMデモに参加することで、どの集団が排除を行っているかを見えにくくしている。
 個人としてはデモに参加してアリバイ作りはできても、普段の生活に戻った時に彼らはどういう集団に所属しているのだろうか。個人としては差別に反対でデモをやって声も上げているが、実際日常生活の中で彼らはそれを貫いているのだろうか。彼らが二重の生活をしているとするなら、差別の根っこはそこにある。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「長老坂手前に、西行戻。をしまの内に、坐禪堂・石灯籠 南村宗仙寄進。
  骨堂ニ地蔵、奥院是也。見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。此石鎌倉より下ル、高一丈一尺・横三尺五寸・厚一尺。松嶋海而殺生禁斷。」(舞都遲登理)

 「長老坂」は利府から松島に入る今日の県道144号線の辺りの坂道で、その途中に西行戻しの松公園がある。
 西行戻しというのは、おそらく西行に松島を詠んだ歌がなかったことで、後から生まれた伝承であろう。
 聖護院門跡准后道興の長享元年 (一四八七年) 成立の『廻国雑記』に、既に「西行がへり」と呼ばれる場所があったことが記されている。
 今日に知られている伝承は、西行が「あこぎ」の意味を知らなくて恥じて帰ったというものと、もう一つは西行戻しの松のところの松島町教育委員会の説明板にある説で、

 「歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきをはらむは誰(た)が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。」

とのことだ。
 西行が詠んだと言っている、

 月にそふ桂男のかよひ来て
     すすきをはらむは誰が子なるらん

の歌は月には巨大な桂の木があって、それを刈る桂男がいるという伝承に掛けて、月の日に通ってくる男が薄の中でひっそりと暮らす女をはらませた、そいつは誰なんだという歌で、おそらく民間に伝わる春歌のようなものだろう。まあ、はらませたのは自分ではないという言い訳の歌だろう。
 それに対する童子の歌は、

 雨もふり霞もかかり霧も降りて
     はらむすすきは誰れが子なるらん

だが、雨や霞や霧で月のない夜もあったというのに誰の子をはらんだんだ、おまえだろ、というもので、そんなに機知に富んだ返しとも思えない。それにここは「だれが子なるらん」ではなく「たがこなるらん」と雅語で応じてほしい。
 それに「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としているといるという謎々も別にちょ~難問というわけではない。本物の西行法師なら瞬殺だろう。
 雄島の座禅堂は『奥の細道』に、

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出いでたる嶋也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石など有。」

とある。曾良の『旅日記』には、

 「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」

とある。「一山ノ碑」は「見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。」のことだろう。島の南の方にあり、今は奥州御島頼賢碑と呼ばれ、六角形の鞘堂で囲って保存されている。
 宮城県のホームページには、

 「この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。
 また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の問には双竜の陽刻を配している。
 碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。」

とある。頼賢は見仏上人の再来といわれた僧らしい。
 さて、その碑の寸法だが、松島町のホームページに「高さ3.5m、が下部1.1m、中央部1.05m、厚さは約20cm。」とある。
 桃隣の「舞都遲登理」の「高一丈一尺」は約3.4メートル、横三尺五寸は約1メートル、厚一尺は約30センチ。まあ、大体あっている。扇での採寸にしては正確といったところか。
 「松嶋海而殺生禁斷」というのはここが伊勢の阿漕が浦と一緒だということで、西行戻しの「阿漕が浦」の方の話はそこから生まれたのもかもしれない。
 あと、さっきの謎々だが、冬に芽が出て夏に収穫するのだから答えは麦作農家。

 「瑞巌圓福禪寺、妙心寺末寺 紫衣、改て瑞岩寺、仙臺城主菩提所。
 右ニ陽德院、左に天麟院、何も紫衣。
 瑞岩寺仲ニ松嶋根深の松とて、古キ松一本有。庭ニ雙梅。額、虎關の筆、方丈の記也。
 松嶋眺望 五十七嶋、四十八濱、二十二浦、三十一崎、外ニ金花山・富ノ山。」(舞都遲登理)

 瑞巌寺はウィキペディアに「山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。」とある。「右ニ陽德院、左に天麟院」今もその位置にある。陽徳院は慶安三年(一六五〇年)に開創され、現在は非公開。天麟院は万治元年(一六五八年)の創建といわれている。
 紫衣はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紫色の袈裟(けさ)および法衣の総称。古くは勅許によって着用した。紫甲。しい。」

とある。
 根深の松は不明。
 雙梅は臥龍梅のことか。瑞巌寺のホームページに、

 「政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰り、慶長14年(1609)3月26日、瑞巌寺の上棟祝いにお手植えしたと伝わる紅白の梅です。」

とある。
 「額、虎關の筆」も不明。虎關は虎関師錬(こかんしれん)のことだろう。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧だが、瑞巌寺との関連はよくわからない。
 松嶋眺望 五十七嶋とあるが今では二百六十余の島があるとされている。金華山は松島湾の外側にあり、石巻の先の突き出たところにある。富山は瑞巌寺の辺りから北東の方角にある山で富山観音堂がある。

   「松嶋辨    芭蕉翁
 抑松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を耻ず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。
島々の數を盡して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に疊みて、左にわかれ、右につらなる。屓るあり、抱くあり、兒孫愛するがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、窟曲をのづからためたるがごとし。其氣色、窅然として美人の顔を粧ふ。千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を盡ん。予は口を閉て、窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。
    〇松嶋や鶴に身をかれ郭公  曾良
    〇松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣
    〇松嶋や嶋をならべて夏の海 助叟
    〇橘や籬が嶋は這入口    桃隣
    〇橋二ッ滿汐凉し五大堂   仝
    〇月一ッ影は八百八嶋哉   仙化」(舞都遲登理)

 この松島弁は素龍本の『奥の細道』にくらべると「抑(そもそも)」のあとの「ことふりにたれど」が欠落しているが、芭蕉自筆本にも同様の欠落がある。桃隣は初期の稿本を読んでいたのだろう。それ以外は「筆をふるひ、詞を盡ん。」まではほぼ一致する。「抱るあり」が「抱くあり」になっているが、これは桃隣の書き間違いだろう。
 そのあとの部分の「予は口を閉て」は『奥の細道』の曾良の句の後に「予は口を閉て眠らんとしていねられず」から取ったもので、「窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。」は「二階を作りて」が欠落しているが、曾良の句の直前にある。「雄島が磯」の辺りを大幅にカットして、うまいこと切りつないで短縮バージョンになっている。ひょっとしたら『奥の細道』に先立つ「松島弁」が存在していたのかもしれない。
 さて、発句だが、

 松嶋や鶴に身をかれ郭公     曾良

 この句は有名すぎるから別にいいだろう。

 松嶋や五月に來ても秋の暮    桃隣

 これは曾良の句の影響を受けて、あえて松島にふさわしい季節外れの景物を持ってきたのだが、秋の暮‥‥うーん。

 松嶋や嶋をならべて夏の海    助叟

 これはそのまんまだが、

 島々や千々にくだけて夏の海   芭蕉

の句に比べると今一歩。

 橘や籬が嶋は這入口       桃隣

 確かに仙台側から来ると最初に見るのは籬が嶋だ。

 橋二ッ滿汐凉し五大堂      桃隣

 今は橋を三つ渡るが、昔は二つだったか。五大堂には橋を渡ってゆくというネタに滿汐凉しを放り込んだといえばそれまでの句。

 月一ッ影は八百八嶋哉      仙化

 仙化は貞享の頃からの芭蕉の江戸の門人で、『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。
 たくさんの島があってもそれを照らす月は一つだけ。この句だけ秋の句で、この旅に同行していたわけでもないから、別の時に作った句だろう。

2020年9月25日金曜日

  今日は一日小雨が降り、夜にはわずかな雲の切れ目に薄月が見えた。秋の長雨が続き、今年は名月が見えるだろうか。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「鹽竈宿、門前より小舟にて松嶋へ渡る。内海三里、左右色々の嶋、姿をあらそふ。風景物として殘らず。左を見右を見るにいとまなし。舟子に酒をくれてしづかに棹をささせ、一ツ一ツ問ば、あらゆる嶋の名也。さしかかりは籬が嶋、高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所、經が嶋は見佛上人讀誦の閑居、ふくら嶋は田畑有て辨慶守本尊不動有。五大堂ハ五智の如来、松嶋町より橋二ツ越て渡ル。
 雄嶋、是も橋有。船よりも陸よりもわたる。」(舞都遲登理)

 「月涼し」の句は船出の時の句だったのだろう。五月に入り二十日も病気で寝込んだ後だから、二十日過ぎの月で明け方に出発し、有明の月が見えたのだろう。
 左右に様々な島があって、あちこちきょろきょろしているうちに次から次へと通り過ぎて行き、とてもではないが覚えきれない。
 舟子に酒をやってというのは飲ませるのではなく付け届けということだろう。サービス料ということか。気を良くした舟子は聞けばいろいろと説明してくれる。
 籬(まがき)が島は今は堤防で囲われた港の中にあり、橋が架かっていて、曲木神社がある。

 わが背子をみやこにやりて塩釜の
     まがきの島の松ぞ恋しき
            よみ人知らず(古今集)

など、歌に詠まれている。
 「高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所」というのは扇谷の金翅堂のことであろう。元禄八年(一六九五年)に瑞巌寺第101世鵬雲東博禅師が造営したというから、桃隣が行ったときはできたばかりだった。当初は慈光院や海無量寺の大伽藍があったらしいが、今は金翅堂だけがひっそりと残っている。
 経が島は瑞巌寺の近く、福浦島の隣にある小さな島で、「ふくら嶋」とあるのが福浦島であろう。今は公園になっていて田畑はない。多分多目的広場の所に畑があったのだろう。福浦橋という赤い長い橋が架かっている。「辨慶守本尊不動」も今はなく弁天堂がある。瑞巌寺の126世・盤龍和尚がここに移したというから近代に入ってからであろう。
 五大堂は瑞巌寺の方にある。伊達政宗が慶長九年(一六〇四年)に創建したもので、松島町の海岸のすぐそばに小さな三つの嶋があり、それぞれ短い橋でつながっていて、五大堂は一番奥の島にある。五大明王を祀ったものだが、五大明王はそれぞれ如来に対応しているので「五智の如来」も間違いではない。不動明王─大日如来、降三世明王─阿閦如来、軍荼利明王─宝生如来、大威徳明王─阿弥陀如来、金剛夜叉明王─不空成就如来がそれぞれ対応する。
 雄島は五大堂、経島、福浦島の西側の海岸近くにあり、今も橋が架かっている。仙石線の松島海岸駅に近い。見仏上人が法華経六万巻を読誦したという見仏堂は雄島にあった。

2020年9月23日水曜日

  「舞都遲登理」の続き。

 「仙臺より今市村へかかり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十苻の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。兩所ながら垣結廻し、菅は彼百姓が守となん。
    〇刈比に刈れぬ菅や一掃」(舞都遲登理)

 仙台から北東へ、今の東北本線の線路に沿って行くと、七北田川の手前に仙台市宮城野区岩切今市という地名がある。この地域が直線的な道路に沿って存在しているところから、ここが旧街道だったのだろう。七北田川を渡ると東光寺がある。七北田川には冠川という別名もあり、ここにかつて冠川土橋があったのだろう。近くに八坂神社があるが、ここにはかつて式内社の志波彦神社があった。
 古代道路を捜し歩いていると、何回かこの東光寺という名の寺の前を通ったりする。ウィキペディアには、

 「関東では白山権現(白山社)とセットであった例がみられる(多くの小祠の白山社は神社合祀の際に廃されており、また改称したところも多い。東光寺も廃寺となっている例がある)。また、関東ではハンセン病などでの行路行き倒れ人や遊女、罪人、動物などの供養を行ってきた来歴を持つ寺が多い。」

とあるところから、やはり街道の寺という意味合いがあったのかもしれない。
 東光寺から脇の三丁は三百メートルくらいなのですぐだ。東北本線岩切駅の北西側の地域が岩切新田だったのだろう。今はすっかり街になっている。
 「十苻の菅」は『奥の細道』の壺の碑のところに、

 「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々十苻の管菰を調て国守に献ずと云り。」

とある。ここで「おくの細道の山際」とあるのは、仙台道から先の多賀城を経て塩釜の方へ行く塩釜街道のことを当時「奥の細道」と呼んでいたからだという。「山際」は高森山の麓ということだろう。岩切城跡がある。おそらく古代の道は東光寺の前で東に折れて直線的に多賀城・塩釜を結んでいたのだろう。
 国分寺・国分尼寺のある仙台と国府のある多賀城を結び、さらに塩釜で海路に出る古代の主要道路だったから、そんなに細い道だったとは思えないが、幅十二メートルの駅路に比べれば細かったのだろう。
 十苻の菅菰はこの街道沿いではなく、北に三丁入った所だったと思われる。それを図画に書いてもらったのだろう。今は住宅地になっているが、高森山と羽黒前遺跡のある小さな丘に挟まれた地域がそれだったのではなかったか。
 十苻の菅菰は『夫木抄』に、

 みちのくの十符の菅薦七符には
     君を寝させて三符に我が寝む
             よみ人知らず、
 陸奥の野田の菅ごもかた敷きて
     仮寐さびしき十苻の浦風
              道因法師

の歌がある。貞享三年正月の「日の春を」の巻九十九句目には、

   をなごにまじる松の白鷺
 寝筵の七府に契る花匂へ     不卜

の句もある。また、元禄七年春の「五人ぶち」の巻十七句目にも、

   近い仏へ朝のともし火
 咲花に十府の菅菰あみならべ   野坡

の句がある。
 その十苻の菅はこのあたりの百姓が田んぼの脇で育てていて、「垣結廻し」守っていた。大きな菅田で育てているのではなかったようだ。

 刈比に刈れぬ菅や一掃      桃隣

 菅は十分成長した夏の土用の頃に刈るという。今ある菅もみんな刈り取られてしまい、残るのは箒になった一束だけ、ということか。

 「此所より又本の道へ戻り、土橋より一丁行、右の方に小橋三つ有。中を緒絶ノ橋と云。所の者は轟の橋と荅ゆ。是より市川村入口、橋を渡り右の方小山へ三丁行て、
 壺の碑 多賀城鎮守府將軍古舘也。
    神龜ヨリ元禄マデ千歳ニ近。
      右大將頼朝
   みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ
   かきつくしてよつぼのいしぶみ

      西

       去京一千五百里
       去蝦夷國界一百廿里
       去常陸國界四百十二里
       去下野國界二百七十四里
       去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守府將軍從
 四位上勳四等大野朝臣東人之處里也天平寶字
 六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁
 部省卿兼按察使鎭守府將軍藤原惠美朝臣朝獦
 修造也
     天平寶字六年十二月一日

            高 六尺三寸
       碑之圖  横 三尺一寸
            厚 一尺  」(舞都遲登理)

 桃隣のここに記した文字には三か所誤りがある。「鎭守府將軍」の「府」の文字は碑の方にはない。これが二か所。「東人之處里也」は「東人之處置也」であること、計三か所。なお、『奥の細道』本文にも同じ間違いがある。この当時はまだ判読が難しく、碑文の文字が確定してなかったのだろう。
 さて、東光寺の前の冠川土橋に戻り、そこから東へと向かう。「緒絶(おだえ)ノ橋」は宮城県大崎市にあったとされているが、ここにも同名の橋があったのだろう。前にもどこかで聞いたような、だが。『奥の細道』には、松島から石の巻に行くところで「十二日、平和泉と心ざし、あはねの松・緒だえの橋など聞伝て」とある。
 場所も土橋より一丁ではなく半里くらい行った砂押川の橋ではなかったか。ここが市川との境になる。
 「右の方小山へ三丁」とあるから、奥の細道は国府のあった多賀城跡より北の小高い丘を通っていたのだろう。仙台市内で一番古いと言われる多賀神社や、国府に付随する陸奥総社宮がある。南の方へ三百三十メートルほど行って、当時壺の碑ではないかと言われていた多賀城碑を見ることになる。
 なお、江戸時代の仙台道は広瀬橋で広瀬川を渡るが、ここと東光寺前の土橋を直線で結ぶと、ちょうど国分寺の西を通り、榴ヶ岡の脇や宮城野を通ることになる。土橋から先も、川で向きを変えながら一直線に塩釜に向かうため、国府多賀城の北側を通ったのであろう。
 多賀城碑はかつて国府のあった多賀城の南側にある。
 壺の碑(いしぶみ)は『袖中抄』に

 「陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但、田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、石文と云と云り。」

とある。のちに、

 みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる
     つぼのいしぶみそとの浜風
              西行法師
 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ
     書きつくしてよ壺の石文
              源頼朝

など歌に詠まれた。
 ただ、この多賀城碑は坂上田村麻呂の書いた壺の碑ではない。坂上田村麻呂は天平宝字二年(七五八年)の生まれとされているが、多賀城碑は神亀元年(七二四)年に多賀城が造られた多賀城が天平宝字六年(七六二)年に改修したときのもので、坂上田村麻呂が四歳の時のものだ。

 「此所より八幡村へ一里余、細道を分入、八幡村百姓の裏に奥の井有。三間四方の岩、廻りは池也。處の者は沖の石と云。是ヨリ末の松山、むかふに海原見ゆ。千引の石此邊といへども、所の者曾て不知。一里行て松の浦嶋、是ヨリ鹽竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道續なり。緒絶橋は六社の御前有。鹽竈六社御神一社に籠、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。
    〇法樂 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂」(舞都遲登理)

 芭蕉も壺の碑を見た後末の松山に向かったが、桃隣も同じように壺の碑の南西にある末の松山に向かう。街道から外れるため、「細道を分入」だったようだ。
 ふたたび砂押川を渡ると、ここも小高い丘になっていて、今の宝国寺の辺りが末の松山だと言われている。
 「奥の井」は興井(おきのい)のことであろう。グーグルマップだと今でも「沖の石」と表示される。池の中に岩があるのは今も変わらない。グーグルストリートビューだと、この沖の石のところから北を見れば、坂道の上に大きな松があり、ここが末の松山になる。
 かつて貞観地震の大津波の時に、この末の松山の頂上が波をかぶらなかったことで、

 君をおきてあだし心をわがもたば
     末の松山波もこえなむ
            よみ人知らず(古今集)

の歌が生まれたという。それ以降ありえないことの例えとなった。
 もっとも、恋の約束はえてしてそのありえないことが起きてしまうので、

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ
     末の松山波越さじとは
            清原元輔(後拾遺集)

になってしまったが、二〇一一年の東日本大震災の大津波が末の松山を越えなかったことで、伝説が本当だったことが証明された。宝国寺には大勢の人が避難してきたという。
 今は住宅地だが、昔はここから海が見えたのだろう。
 八幡村の由来になっている多賀城八幡神社の方は津波が来て、最も被害の大きかった地域の一つだったが、八百本の鎮守の森の木に守られて、本殿だけがかろうじて残ったという。
 桃隣の見つけられなかった「千引の石」は志引石とも呼ばれ多賀城跡から見ると砂押川の手前の東田中というところにある。通り過ぎてしまったようだ。
 志引石は多賀城観光協会サイトに、

 「田中村の『書出』に、縦横6尺と4尺の二つの石があって『千引石』と記している。昔、岩切村の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷(たすき)と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛けると、石は飛び上がって東田中のデンジョウ山の山裾に落ち二つに割れた――現在あるのはその一つで、他は土中にあると―― 。この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。当家ではこの田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。」

とある。岩切村は東光寺のあった方で今の岩切分台か。かなり距離がある。古代道路を建設したときの話であろう。土橋と陸奥総社宮を直線で結べば岩切分台を通る。

 君が代は千びきの石をくだきつつ
     よろづ世ごとにとれどつきせじ
            源顕仲(堀河院百首聞書)

の歌にも詠まれ、歌枕になっている。
 末の松山を出て一旦壺の碑の方へ引き返したのだろう。壺の碑のやや東に浮島という地名がある。その東、東北本線塩釜駅の手前に野田玉川の碑がある。紅葉の橋は「おもはくの橋」のことで、野田玉川の碑のからはやや下ったところにある。そのあと塩釜神社を経てその先の海に出れば松の浦嶋(松島)が見える。ここまで一里とそう遠くない。
 『奥の細道』には、

 「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。」

とある。かなりおおざっぱなので、曾良の『旅日記』を見ると、

 「一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」

とあり、先に塩釜まで行って昼食をとってから末の松山の辺りを見て回っている。沖の石は末の松山とセットなので省略されている。桃隣の見つけられなかった興井にも寄っている。
 浮嶋は壺の碑(多賀城碑)のそばで小さな塚のような山に小さな社がある。

 塩釜の前に浮きたる浮島の
     憂いて思ひのある世なりけり
             山口女王(古今集)

 この歌を聞くと塩釜の海の上に浮かぶ島のようだが実際は内陸にある。
 野田玉川は今では両岸が固められたり地下にもぐったりしている町中の川だが、かつてはきれいな小川だったのだろう。

 ゆふされば汐風こして陸奥の
     野田の玉川千鳥なくなり
             能因法師(新古今集)

などの歌で知られていた。
 紅葉の橋(おもはくの橋)は、

 踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて
     人も通はぬおもわくの橋
              西行(山家集)

の歌があり、ここから「紅葉の橋」とも呼ばれていたのだろう。本当にこの場所だったのだろうか。
 古代の道はおそらく陸奥総社宮の方から真っすぐ塩釜神社の方へ向かっていたのだろう。
 ただ、平安末や中世になると、多賀城碑や浮嶋の方を廻るようになっていたとは考えられる。ただ、今の「おもわくの橋」はそれよりかなり南にある。
 さて、塩釜神社だが、「鹽竈六社御神一社」と桃隣が記しているように、塩釜神社は長いこと祭神が定まらなかった。ウィキペディアには、

 「歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。」

とある。曾良は『旅日記』のなかで「塩竈明神」と記し、『奥の細道』も「塩がまの明神」としている。おそらく吉田兼連によって今の祭神である鹽土老翁神(しおつちのをぢ)に定まったのだろう。
 「緒絶橋」はここにもあったようで、鹽竈六社御神一社の前だという。緒絶橋はこれで三度目で小名浜でも「緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也」と書いている。
 「神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有」というこの灯篭は『奥の細道』にも記されている。この灯篭は今もある。林塔は輪塔のことで五輪塔ともいう。
 「右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。」というのはウィキペディアに「元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し」とあるそのことで、桃隣の来た元禄九年五月の段階では石搗つまり地固めが半ば終わった状態だった。

 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂   桃隣

 宮城県のホームページの薬莱神社三輪流神楽のところを見ると、

 「法印系の神楽で大崎氏以来社人たちで舞っていたが、現在は氏子の有志の手で行われ、宮司大宮家が管理している。天和3年(1683)4代藩主綱村が、伊達氏の氏神亀岡八幡神社造営の時、藩命によって召し出され神楽を伝授し、亀岡八幡付属神楽を派生し、監竈神社にも奉納を命じられた。薬莱神社蔵、天保2年書改めの『神楽秘抄』によれば、所伝は26番とあるが、現在は12番を伝えている。」

とある。
 三輪流の法印系の神楽だとしたら、禰宜さんも参加する。日没まで神楽をやっているので、禰宜さんを呼びに行っても夜まで待たなくてはならない、多分そういう意味だろう。
 夏神樂はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「夏祭りまたは夏越(なご)しの祓(はらえ)のときに行う神楽。《季 夏》「若禰宜(ねぎ)のすがすがしさよ―/蕪村」

とある。

 「麓は町家、町の中に鹽竈四ツ有。三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分、一ツは四尺・高六寸五分・厚貳寸五分。往昔六ツ有けるを盗出し、海中へ落したると也。此所隣ニ牛神とて、牛に似たる石有。明神の鹽を運し牛化して、かくは成ぬと云。今は鹽不焼   芭蕉翁
    〇月涼し千賀の出汐は分の物」(舞都遲登理)

 これは御釜神社の「四口(よんく)の神竈(しんかま)」で、東北本線本塩釜駅と鹽竈神社の中間あたりの本町通り沿いにある。ウィキペディアには昭和に書かれた『塩竈町方留書』に記された寸法が載っている。

 1、御臺の竈 - 深さ1寸6分(48.5mm)、廻り1丈4尺6寸(4,423.8mm)、差渡4尺(1,212mm)、厚1寸3分(39.4mm)。
 2、西の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm) 。
 3、北の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺6寸(4,726.8mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。
 4、東の方 御宮脇 - 深さ5分(15.1mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。

 三つ(西、北、東)は差渡四尺七寸五分、深さ六寸(東だけ五分)、厚二寸で、桃隣の「三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分」とそれほどは違わない。差し渡し(直径)は五分の差で、深さと高さは底の厚さの分差が出るから、深さ六寸プラス厚さ二寸で高さ八寸になるからピタリ賞。東の方については見た目同じようだから省略したか。
 御臺の竈は差渡四尺、深さ一寸六分、厚一寸三分で、桃隣の「四尺・高六寸五分・厚貳寸五分」は直径はあっているが、高さが合わない。底が五寸くらいあるならわかる。
 ウィキペディアにはさらに、

 「『別当法蓮寺記』では、往古は7口の竈が存在したと伝える。それによれば、「赤眉」という者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠くに持ち去ることができなかった。そのため3口は、当地の野田、松島湾の海中、加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたという。」

とあるが、桃隣の説だと「六ツ有けるを盗出し、海中へ落したる」とあって若干の違いがある。「『奥羽観蹟聞老志』では6口あったとする説がある」というので、この辺は諸説あったのだろう。
 この塩釜の水の色は異変があると変化するという言い伝えがあり、東日本大震災の直前にも色が変わり、津波は神社の前まで来て止まったという。
 牛石に関しても、ウィキペディアに、

 「境内には牛石藤鞭社の脇の池中に「牛石」と称される霊石がある。『別当法蓮寺記』および『鹽社由来追考』によれば、鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた際、塩を運ばせた牛が石と化したという。」

とある。
 「今は鹽不焼」と、当時は既に藻塩を焼くのには用いられてなかった。その下の離れたところに「芭蕉翁」という文字があるが、何を意味するのかは不明。

 月涼し千賀の出汐は分の物    桃隣

 塩釜の辺りの海を千賀の浦という。謡曲『高砂』の、

 高砂やこの浦船に帆をあげて
 この浦船に帆をあげて
 月諸共に出で汐の(宝生流のページより)

を踏まえたものであろう。「分の物」は「分(ぶ)のあるもの」つまり、儲けものということか。

2020年9月22日火曜日

 今回の連休はお盆休みと打って変わって、みんな遊びに出たようだね。観光地は満員、高速道路は大渋滞でお疲れ様。さあ、十月が怖い。おもしろうてやがて悲しきGo To travel、にならなければいいが。
 昨日の人権思想の問題点を求めておくと、差別をなくすだとか経済格差をなくすだとか、その志がいくら立派でも、それが結局法整備による権力の介入を強化し、人々の自由を奪ってゆく。そして極端な場合は自助努力の禁止にまでつながりかねない。
 本来一人一人の努力によってなくさなくてはいけないものを、独裁的な権力にゆだねることになればディストピアに陥る。何でもかんでも法で規制するという発想には注意しなくてはならない。

 それでは今日は久しぶりに「舞都遲登理」の続きを。確か前回八月十六日で伊達の大木戸を越えたので、今回は仙台へ。

 「是ヨリ白石城下、此所と刈田との間、西の方にわすれずの山アリ。所にては不忘山といふ。金が瀬ヨリ岩沼へかかり、橋の際左へ二丁入て、竹駒明神アリ。社ヨリ乾の方へ一丁行テ、武隈の松アリ。松は二本にして枝打垂、名木とは見えたり。西行の詠に、松は二度跡もなしとあれば、幾度か植繼たるなるべし。
    〇武隈の松誰殿の下凉」(舞都遲登理)

 白石(しろいし)は白石城のある城下町で、そこを出ると今の蔵王町のあたりは今も刈田郡になっている。西に蔵王連峰の南端の御前山(不忘山)が見える。

 みちのくにあふくま川のあなたにや
     人忘れずの山はさかしき
              喜撰法師(古今和歌六帖)

の歌がある。
 白石川に沿って下ると東北本線北白川と大河原の間辺りに金ケ瀬という地名がある。岩沼はさらに先で白石川と阿武隈川が合流するさらに先の方に今も岩沼市がある。阿武隈川はここで南東へ大きく曲がり太平洋にそそぐ。
 この岩沼市に日本三大稲荷の一つといわれる竹駒神社がある。(もっとも、日本三大稲荷は伏見稲荷大社以外は特に決まったのもがなく、豊川稲荷、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社辺りから二つ選ばれるのが普通だが、竹駒神社が含まれる場合もある。)
 かつては武隈明神だったが、「武隈」と「竹駒」は音が似ているので、竹駒明神とも呼ばれていたのだろう。ウィキペディアには、

 「社伝では、承和9年(842年)6月に小野篁が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。後冷泉天皇の治世(1045年 - 1068年)に陸奥国を歴遊中の能因が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、当社に隣接した寶窟山に庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となり山号の由来となった。戦国時代には衰微していた当社に伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。文化4年(1807年)には正一位の神階を受けた。」

とある。稲荷神社というと今でも「正一位稲荷大明神」の幟が立ってるように、かつては稲荷神社は明神を名乗っていたが、明治の神仏分離で神社の名前から「明神」「権現」が外されることとなった。
 この武隈明神から乾(北西)の方へ一丁(約110メートル)行ったところに武隈の松がある。今の地図で見ると武隈神社の位置が変わったのか、ほぼ真北に二木の松史跡公園がある。
 初代の松は貞観地震の時の大津波に流され、『奥の細道』に、

 「先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此のたび跡もなしとは詠みたり。」

という松は四代目だという。その後五代目の松が植えられ、芭蕉が見たのも桃隣が見たのもこの松になる。今ある松は七代目だという。
 その能因法師の歌は、

 武隈の松はこのたび跡もなし
     千歳経てやわれ来つらむ
            能因法師(後拾遺和歌集)

 さて桃隣の句だが、

 武隈の松誰殿の下凉       桃隣

 今ある松が昔和歌に詠まれた松ではないと知っているから、「誰殿の下凉」ととぼけている。
 曾良の『旅日記』には、

 「岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。」

とあるが、別に誰殿が古市源七殿というわけでもないだろう。

 「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。
  西行 朽もせぬをの名ばかりをとどめ置て
     かれののすすきかたみにぞ見る
    〇言の葉や茂りを分ケて塚二ッ」(舞都遲登理)

 岩沼を出て東北本線なら一駅、館腰の辺りから北西に行き、今の東北新幹線の線路を越えたあたりに佐倍乃神社(笠島道祖神社)がある。ウィキペディアによると、

 「享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。」

とあるから、芭蕉や桃隣の時代は道祖神社だった。
 芭蕉が「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」とした社に桃隣は無事にたどり着いた。
 曾良の『旅日記』には、

 「笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不見 。」

とある。下調べはしていたが、通り過ぎてしまったようだ。仙台道の岩沼宿の次は増田宿で、その間のどこかから左の方に一里というのはわかっていた。今は住宅地になっている名取が丘、愛島(めでしま)を通る愛島丘陵(めでしまきゅうりょう)の山道だったか。
 古代道路は白河から来る東山道が仙台道に近いルートを取っていたが、名取駅から西へ出羽路が分岐していたらしく、おそらく道祖神の社は出羽路の脇にあったのだろう。仙台高専名取キャンパスのある突き出した野田山丘陵を通っていたのではないかと思う。
 「舞都遲登理」には「近郷の者、旅人参詣不絶」とあるから、天気がよければ結構通う人も多くにぎわうところだったのだろう。今では塚はなく墓石が立っているようだ。

 言の葉や茂りを分ケて塚二ッ   桃隣

 道はやはり草の生い茂る山道だったのだろう。

 言の葉のさかふる御代に夏草の
     深くもいかで道をたづねむ
              頓阿法師(草庵集)

の歌が思い浮かぶ。

 「是ヨリ増田の町中へ出る。行先は名取川、橋を越れば仙臺、大町南村千調亭に宿。
    〇落つくや明日の五月にけふの雨
      雨天といひ所はいまだ寒し
    〇奥州の火燵を褒よ五月雨  千調
      端午
    〇菖蒲葺代や陸奥の情ぶり」(舞都遲登理)

 増田宿は東北本線の名取駅のすぐ南辺りにある。次に中田宿があり、その先で名取川を越える。長町宿があり、その次が仙台だ。
 大町南村がどの辺なのかはよくわからない。仙台市青葉区大町は仙台の中心部で青葉城にも近いが、その南側ということなのだろうか。
 千調は巻二「むつちとり」の「仙臺杉山氏興行、山川の富を祝す」の世吉(四十四句)興行に参加し、四句目の、

   並べたる木具に羅打かけて
 五段の舞は皆眠るなり      千調

をはじめとして三句を付けている。能の舞は正式には五段で演奏されるが、三段四段に省略されることも多く、五段で演奏されると長すぎて眠ってしまう客が多かったようだ。
 また、夏の部には、

 朝湿り紫陽草轉て水の隈     千調
 唐芝や四人目よりは簟(たかむしろ) 同
 若竹や喰気はなれて風の音    同

の発句もある。

 落つくや明日の五月にけふの雨  桃隣

 仙台到着は四月の晦日だったか。まだ五月ではないが雨が降っている。

   雨天といひ所はいまだ寒し
 奥州の火燵を褒よ五月雨     千調

 これは千調の返事であろう。雨が降って五月雨の季節なのに、ここ仙台の地はいまだに寒い。まだ火燵を仕舞わないで残しておいたことを誉めてくれ、と返す。

   端午
 菖蒲葺代や陸奥の情ぶり     桃隣

 「菖蒲葺(あやめぶき)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「端午の節句の前夜、邪気払いのため軒にショウブをさすこと。」

とある。ここにみちのくの人の心を感じられる、ということであろう。

 「青葉山ハ仙臺城山、本丸・二ノ丸ノ間をさして云。此者、清輔抄には當國といへり。勅撰名所集には若狭、宗祇抄には近江とあり。
 山榴岡・釋迦堂・天神宮・木の下藥師堂。宮城野、玉田横野 何も城下ヨリ一里に近し。

     みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
     とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
     さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
    ○もとあらの若葉や花の一位」(舞都遲登理)

 仙台青葉城のあるところは青葉山だが、「あおばやま」という地名は古来和歌に詠まれて歌枕になっている。これがどこなのかは諸説あってよくわからない。

 常葉なる青葉の山も秋来れば
     色こそ変へねさびしかりけり
            大僧正覚忠(千載集)
 立ち寄れば涼しかりけり水鳥の
     青羽の山の松の夕風
            式部大輔光範(新古今集)

などだが、藤原清輔の『和歌初学抄』には陸奥とあり、『勅撰名所和歌抄』には若狭とある。「甘藷岳山荘」というホームページの「歌枕の青葉山」には、

 「天和2(1682)年版の八代集抄には式部大輔光範の歌に「宗祇国分に近江云々。若狭陸奥等に同名あり。然共(しかれども)大嘗会悠紀の国なれば此集の青羽山可為近江(おうみとなすべし)」と頭注があった。近江生まれの八代集抄作者北村季吟にも、歌枕としてはともかく、若狭の青葉山が知られていたことが読み取れる。また、近江生まれの教養人をして青羽山が近江にある根拠が500年近く前の宮中の儀式の和歌の詞書しかなかったようにも読める。」

とある。『宗祇抄』はこの宗祇国分ではないかと思われる。季吟の『八代集抄』なら、桃隣も読んでいたのではないかと思われる。
 若狭の青葉山は若狭富士とも呼ばれ、若狭高浜の辺りにある。近江の青葉山はよくわからない。
 山榴岡(つつじがおか)は今の榴ヶ岡で、仙台駅の東側に榴岡公園がある。ウィキペディアによれば、

 みちのくのつつじが岡のくまつづら
     辛しと妹をけふぞ知りぬる
            藤原仲平(古今和歌六帖)
 みちのくの千賀の浦にて見ましかば
     いかにつつじのをかしからまし
            右大将道綱の母
 東路やつつじが岡に来て見れば
     赤裳の裾に色ぞかよへる
            二条大后宮肥後(夫木和歌集)
 名にし負ふつつじが岡の下わらび
     共に折り知る春の暮れか
            道興准后

などの歌に詠まれている。
 今の榴岡公園のすぐ南にある孝勝寺に釈迦堂がある。元からここにあったわけではないが、山榴岡に伊達綱村によって元禄八年に建立された。桃隣が来たのはその翌年の元禄九年だった。
 天神宮は榴岡天満宮のことであろう。
 木の下藥師堂は仙台市若林区木下にある陸奥国分寺の薬師堂のことで、榴岡の南東にある。
 宮城野はウィキペディアに、

 「江戸時代に入って、仙台城とその城下町の建設や田畑の開墾が行われる中で、城下町の東側、陸奥国分寺の北側の区域は、藩主の狩場として野原のまま残された。そのため「生巣原(いけすはら)」とも呼ばれた。野守がここに置かれ、人々がこの野原にみだりに入ることは禁じられた。仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』によれば、この頃の宮城野原は、ハギやオミナエシ、ワレモコウ、フジバカマ、キキョウなどの草花が茂り、ヒバリやウズラが生息する野原だった。仙台藩第4代藩主伊達綱村は、宮城野の萩が絶えることがないよう、これを他の5箇所に植えさせた。また、宮城野原の東側には鈴虫壇と称されるところがあり、仙台城の奥方や姫君がここにスズムシの音を聞きに来たという。仙台藩では、藩主の伊達家が徳川将軍家にスズムシを献上する習わしがあった。」

とある。
 玉田横野は仙台駅の北側、地下鉄南北線の北仙台駅の近くにある光明寺、鹿島香取神社から榴岡の北側にかけての広い範囲だと言われている。

 とりつなげ玉田横野のはなれ駒
     つつじの岡にあせみ咲くなり
            源俊頼(散木奇歌集)

の歌に詠まれている。
 なお、このあたりの歌枕は、『奥の細道』には、

 「宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。」

とある。この頃はまだ釈迦堂はなかった。
 曾良の『旅日記』には、

 「一 六日 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
  一 七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。」

とある。
 亀岡八幡宮は広瀬川を渡った仙台青葉城にあり、大手門から入る。
 翌日、今の北仙台駅の東に東照宮駅があり、そこに東照大権現を祀る仙台東照宮がある。そこから南へ行くと玉田・横野があり、榴岡天満宮に出る。さらに南東に行くと木の下薬師堂に着く。国分尼寺とあるのは曾良の勘違いだろう。国分尼寺跡は国分寺の東の白萩町にある今の国分尼寺にある。木の下薬師堂は国分寺跡にある。

 みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
 とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
 さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
 もとあらの若葉や花の一位    桃隣

 珍しく和歌が三首記されている。仙台の歌枕が詠み込まれている。
 そのあとの発句の「もとあら」は「本荒の萩」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「根元がまばらに生えている萩。一説に、下葉が散ってまばらに見える萩とも、枯れ残った古枝に咲く萩ともいう。《季・秋》
  ※古今(905‐914)恋四・六九四「宮木野のもとあらのこはぎ露を重み風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」
  ※拾遺愚草(1216‐33頃)下「宮きのはもとあらのはきのしげければたまぬきとめぬ秋風ぞふく」

とある。季節が夏なので「もとあらの萩の若葉」だが、萩を省略している。宮城野のもとあらの萩の若葉は花にも劣らぬもので、官位で言えば一位に相当する。

 「芭蕉が辻 大町札の辻也。
    神社仏閣等所々多テ略ス
 南村に廿日滞留、いまだ松嶋をかゝえて、たよりなき病苦、明日もしらず、然どもあるじ心づくしによりて蘇生、旅立時の嬉しさ、いつか忘んと袖をしぼりぬ。
    ○陵霄の木をはなれてはどこ這ん
    ○一息は親に増たる清水哉
       賀行旅
    ○くつきりと朝若竹や枝配り 千調」(舞都遲登理)

 「芭蕉が辻」は今は「芭蕉の辻」と言うが、仙台市青葉区大町、地下鉄東西線青葉通一番町駅の近くにある。
 ウィキペディアには、

 「仙台城の城下町は、大手門からの大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道(国分町の街路)を基準に町割がなされた。この十字路が芭蕉の辻であり、この沿道の大町、国分町の両町は城下の中心地、いわゆる目抜き通りだった。」

とある。
 この中心地にも神社や仏閣がいくつもあったのだろう。ここでは省略されている。
 南村は大町南村千調亭のことだろう。病気のため結局二十日間滞在することになったか。着いたのが四月晦日だったから五月十九日までいたということか。
 「あるじ心づくしによりて蘇生」と千調さんも大変だったようだ。

 陵霄の木をはなれてはどこ這ん  桃隣

 「陵霄(りょうそう)」は「霄(そら)を陵(しの)ぐ」で高く飛ぶことをいう。病気も全快してさながら木の上から空に向かって飛び立ってゆくようなものだから、もう病で這うことはないだろう。

 一息は親に増たる清水哉     桃隣

 実の親にも勝るような手厚い看護を受けて、清水で一息ついたような心地です。
 これに対し千調は餞別として、

   賀行旅
 くつきりと朝若竹や枝配り    千調

の句を返す。今朝見る若竹の枝ぶりは大変しっかりしたものです。

2020年9月21日月曜日

  仇討というのは自助から来る発想なのだろう。凶悪犯罪の検挙率が低く、人殺した奴が大手を振って歩いているような世の中だと、人々は自分で自分の身を守らなくてはならない。
 アメリカだとみんな銃で武装するが、刀狩の行われた日本では、庶民はせいぜい脇差くらいしか身に着けることができない。
 帯刀を許された武士の場合は仇討が許されていた。ウィキペディアにはこうある。

 「江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた。
 武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた。」

 元禄十四年に起きた赤穂四十七士による大規模な仇討は、合法的な敵討と認められず、本来なら死罪になる所を、武士の体面を重んじるということで切腹という結末になった。
 忠臣蔵の物語が今日に至るまで庶民の共感を得ている背景には、公権力による処罰がいつの時代でも不完全なことがあって、自助を認めてほしいという声が常にあるからだと思う。
 アメリカのBLMにしても、素朴な庶民感情としては、警官にひどい目にあった黒人たちが暴動を起こすことに、それほど否定的ではないと思うが、人権派の人たちはあくまで自助を禁止し公権力による解決を絶対視するため、暴動を起こす黒人は非難され、平和的なデモを行った白人の方が賛美される。そして、日本人が被害者意識で黒人に感情移入することを恐れ、過度に加害者意識を植え付けてきた。まあ、所詮人権思想自体が白人の考えたものだし、西洋崇拝の日本の知識人は差別と戦う人権派の白人に共鳴しているにすぎない。
 極端な社会主義ににあっては自分の生活に必要なものを自分で稼ぐことを禁じ、すべては公的分配によらなくてはならないとする。飢饉が起きたら、通常なら野草を食べたり、庭に短期間で育つ作物を植えたりして自己防衛するものだが、それまで禁じられるということになると、多くの餓死者が出るのは必然だ。
 菅政権が誕生した時に、左翼の方から「自助、共助、公助」の順番が逆だという声が上がったが、本来人は自助と、親族・姻戚などの共助によって生活していて、やがて文明が発達するにつれて公助の度合いが強まっていったのだから、この順番は自然だし、「公助、共助、自助」という順位を付けるなら、むしろ危険な感じがする。
 極端な社会主義は最高指導者による絶対的権力にすべてをゆだねることを主張するが、公助のみの生活になり自助が禁じられるとなると、すべての生殺与奪権を権力が握ることになる。
 今日でも仇討の復活を望む声があるのは、権力への不信があるからで、ただ今の日本では凶悪犯罪の検挙率はかなり高く、死刑制度も存在するため、それほど大きな声になる心配はない。しかし、再び殺人鬼が大手を振って歩くような時代になれば、自助を真剣に考えなくてはならなくなるだろう。ただ、日本の場合は銃保持へ向かう心配はないのではないかと思う。そのかわりにいつの時代でも出てくるのが「仇討制度復活」だった。
 不当な差別はいつの時代にもあるものだが、人はその都度自分の力で戦い、たとえ敗北に終わったとしても、その戦いは多くの人の共感を呼んだ。人権思想はもともとそんな中から生まれたはずだったのだが、時代が下るにつれていつの間にか人権思想の方が公権力と結びついて、自助に対して否定的になっていった。そこから差別を受けた者は、哀れな被害者として矮小化され、かえって尊厳を奪われていったのではないかと思う。
 アメリカのBLMも結局は暴動を起こした初期衝動が否定され、ただ民主党への投票へと誘導する勢力に乗っ取られているのではないかと思う。
 人権思想は人間関係のあらゆる問題を法に支配下に置き、公権力による公助の中に組み込もうとし、自助の範囲を極力狭めようとしている。一見良さそうに見えるが、実のところ人間関係のあらゆる場目に権力の介入を許すことになる。
 マイノリティーにかかわることは、いかなる場合でも訴訟を起こされる可能性がある。なぜなら傷ついたかどうかは被害者が一方的に決めることができるからだ。
 恋愛は禁止されることはない。しかし愛を語るどの言葉もどの行為も常に相手の同意を得られているか確認しなくてはならなくなり、しかもひとたびその行き違いで訴訟になれば、無実を証明するのは困難になる。なぜなら、性交の同意に書面を交わすなんてことは無理だ。そんな証明書はリベンジポルノなどにいくらでも悪用できてしまう。かといって書面なしの同意は一体どうやって証明すればいいのか。
 恋愛は禁止されなくても、人権の高度に発達した社会ではやがて恋愛は困難になる。それはやはりディストピアといっていいだろう。
 話が長くなったが、「あなむざんやな」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   討ぬ敵の絵図はうき秋
 良寒く行ば筑紫の船に酔      芭蕉

 「良」は「やや」と読む。仇を討つために筑紫の船で旅をするのだが、船酔いして情けない。
 筑紫船「めづらしや」の巻二十三句目にも、

   寝まきながらのけはひ美し
 遥けさは目を泣腫す筑紫船     露丸

というふうに登場している。
 三十二句目。

   良寒く行ば筑紫の船に酔
 守の館にて簫かりて籟       亨子

 「籟」は「ふく」と読む。王朝時代の話にして国守の館で「あそぶ」。
 三十三句目。

   守の館にて簫かりて籟
 十重二十重花のかげ有午時の庭   皷蟾

 「十重二十重」は幾重にもという程度の慣用句で、本当に二十重の花があるということではない。

 七重八重花は咲けども山吹の
     実のひとつだになきぞあやしき
              兼明親王(後拾遺和歌集)

の七重八重と同様、あくまで例えだ。なお、この七重八重の歌を太田道灌に結びつけて有名になったのは『常山紀談』や『雨中問答』といった江戸中期の書によるものらしい。(レファレンス事例詳細による)
 まあ、とにかくたくさんの花が咲いている正午の庭で、簫を演奏したくなったのだろう。
 三十四句目。

   十重二十重花のかげ有午時の庭
 杉菜一荷をわける里人       芭蕉

 「一荷」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 天秤棒(てんびんぼう)の両端にかけて、一人で肩に担えるだけの荷物。」

とある。
 「杉菜」は同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 シダ植物トクサ科の多年草。各地の平地や山地の日当たりのよい草地や裸地に生える。地上茎には胞子茎と栄養茎の別があり、一般に前者を「つくし」、後者を「すぎな」と呼ぶ。胞子茎は早春地表に出て、先端に肉色または淡褐色で太い長楕円形の胞子嚢穂を単生するが、胞子散布後すぐ枯れる。栄養茎は胞子茎より遅れて地表に現われ、鮮緑色で茎の上部の節に線形の枝を輪生する。節には葉が互いに密着して鞘状となった長さ五ミリメートルくらいの葉鞘があり、節間には多数の隆条と溝がある。若い胞子茎はゆでて食用とし、また、全草を利尿薬に用いる。漢名、問荊。《季・春》 〔文明本節用集(室町中)〕
  ※寒山落木〈正岡子規〉明治二六年(1893)「すさましや杉菜ばかりの岡一つ」

とある。
 土筆が食用なのに対して、杉菜は問荊(もんけい)と呼ばれ、薬用に用いられていた。また、杉菜の若いものは食用にもされていた。
 三十五句目。

   杉菜一荷をわける里人
 鳩の来て天窓にとまる世の長閑   亨子

 鳩が平和のシンボルだというのは旧約聖書に基づくもので、日本に特にそういう考え方はなかった。ただ、別に鳩でなくても、鳥は一斉に飛び立ったりしなければ長閑なものだ。
 天窓の辺りはおそらく鳩が巣を作ることが多く、里人は健康で鳥もまた安心して暮らせるという長閑な春をもってこの一巻の締めくくりになっているのではないかと思う。
 挙句。

   鳩の来て天窓にとまる世の長閑
 馳走の雑煮はこぶ神垣       皷蟾

 最後は正月の目出度さに神祇を加え、天下泰平を喜び、この一巻は終わる。

2020年9月20日日曜日

  今日は曇りで小雨も降った。急に涼しくなった。
 昨日の渋滞はひどかった。コロナの新規感染者が底打って上昇に転じる兆しがあるのに、緩んでいる。
 マスクは感染を防げなくても重症化を防ぐ効果があるらしい。これから涼しくなるし、マスクはちゃんとしよう。
 コロナは「おもてなし」の質を考え直すきっかけにもなるのではないかと思う。金の力で王様気分になるというゆがんだ優越意識を与えるのではなく、対等な人と人とのおもてなしを考えていかなくてはいけないと思う。サービス業全体が今後再編されてゆくことになる今がそのチャンスだ。
 それでは「あなむざんやな」の巻の続き。

 二十三句目。

   つづけてかちし囲碁の仕合
 暮かけて年の餅搗いそがしき    亨子

 前句の「仕合(しあはせ)」を試合のことではなく「幸せ」に取り成す。
 囲碁の試合に勝ち続けて大金を手にしたのだろう。大勢の人に餅をふるまおうと人を集めて、忙しい年の暮となった。
 二十四句目。

   暮かけて年の餅搗いそがしき
 蕪ひくなる志賀の古里       皷蟾

 滋賀県も蕪の産地だが、この場合は石川県志賀町の方だろうか。金沢では正月にかぶら寿司を食べる。
 二十五句目。

   蕪ひくなる志賀の古里
 しらじらと明る夜明の犬の聲    芭蕉

 ひなびた里に犬の声を添える。陶淵明の『歸園田居五首(其一)』の「狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓」によるものか。
 二十六句目。

   しらじらと明る夜明の犬の聲
 舎利を唱ふる陵の坊        亨子

 謡曲『舎利』によるものか。
 舎利は仏様の遺骨のことで、旅の僧が都の泉涌寺の仏舎利を拝んでいると、足疾鬼という外道が舎利を奪ってゆく。僧が祈ると韋駄天が現れてそれを取り返す。
 東山の麓にある泉涌寺のホームページには、

 「仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。」

とある。ここでは旧暦九月八日に舎利会が行われていた。謡曲も舎利会をモチーフにしたものであろう。
 「陵(みささぎ)」といえば、「ぬれて行や」の巻の二十句目にも

   夜もすがら虫には声のかれめなき
 むかしを恋る月のみささぎ     斧卜

の句があった。
 二十七句目。

   舎利を唱ふる陵の坊
 竹ひねて割し筧の岩根水      皷蟾

 泉涌寺は東山の麓だから、竹で作った筧で山から水を引いていたとしてもおかしくない。名前からして泉が涌く寺だし。
 二十八句目。

   竹ひねて割し筧の岩根水
 本家の早苗もらふ百姓       芭蕉

 前句を苗代水としたか。苗は本家の敷地でまとめて作られていて、分家がそれをもらいに来るというのはよくあることだったか。芭蕉も農人の出だから、幼少期の経験なのかもしれない。
 二十九句目。

   本家の早苗もらふ百姓
 朝の月囲車に赤子をゆすり捨    亨子

 「囲車」は宮本注に「不詳」とあり、読み方も書いてない。
 一つの推測だが、これは「ねこ」ではないか。
 手押しの一輪車に箱を乗せた、運搬用のいわゆる猫車なら、意味は通じる。
 三十句目。

   朝の月囲車に赤子をゆすり捨
 討ぬ敵の絵図はうき秋       皷蟾

 ひょっとして「子連れ狼」は実在した?
 猫車に赤子を乗せて、人相書きを見ながら仇討の旅を続ける武士という発想自体は、当時もあり得たということか。

2020年9月18日金曜日

  いつの間にか旧暦では八月になっていた。今日は八月二日。
 「あなむざんやな」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   去年の軍の骨は白暴
 やぶ入の嫁や送らむけふの雨    芭蕉

 藪入りは奉公人だけでなく、嫁も実家に帰ることができた。夫が同伴する地域もあったという。
 江戸時代には奉公人の帰省の日になったが、本来は嫁が実家に帰る日だったという説もあり、前句を戦国時代として、藪入りの古い形を付けたのかもしれない。
 二十句目。

   やぶ入の嫁や送らむけふの雨
 霞にほひの髪洗ふころ       亨子

 親元に帰るというので、当時はめったに洗わなかった髪を洗う。
 二十一句目。

   霞にほひの髪洗ふころ
 うつくしき佛を御所に賜て     皷蟾

 思いがけぬところで仏像が発見されると、吉祥ということで御所に献上されることもあったのだろう。前句の「髪洗ふころ」を正月として、目出度いものに目出度いものを重ねたか。
 二十二句目。

   うつくしき佛を御所に賜て
 つづけてかちし囲碁の仕合     芭蕉

 御所を碁所に取り成したか。「碁所」は一般的には「ごどころ」だが、「ごしょ」と読むこともあったのだろう。

2020年9月16日水曜日

 「あなむざんやな」の巻の続き。

 十三句目。

   玉子貰ふて戻る山もと
 柴の戸は納豆たたく頃静也     芭蕉

 納豆は秋から冬にかけて仕込むもので、2020年7月5日の俳話の、「早苗舟」の巻三十句目、

   切蜣の喰倒したる植たばこ
 くばり納豆を仕込広庭       孤屋

の時にも触れた。肉を食べないお坊さんには貴重な蛋白源だった。
 納豆をたたくというのは、ひきわり納豆のことだろう。それに卵があれば完璧だ。
 十四句目。

   柴の戸は納豆たたく頃静也
 朝露ながら竹輪きる藪       亨子

 竹輪はここでは「ちくわ」ではなく「たけわ」のようだ。藪で切るのだから本物の竹のわっかなのだろう。竹輪は紋に描かれるときには細い竹を輪にしたものが描かれているから、竹の輪切りではなく、切った細い竹を輪にしたものなのだろう。何に用いるかはよくわからない。茅の輪のように神事に用いるのだろうか。
 十五句目。

   朝露ながら竹輪きる藪
 鵙落す人は二十にみたぬ㒵     皷蟾

 2020年7月13日の俳話で「早苗舟」に巻六十五句目に、

   なめすすきとる裏の塀あはひ
 めを縫て無理に鳴する鵙の声    孤屋

の句があったが、そのときの曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[紀事]山林の間、囮に鵙の目を縫ひ、架頭に居(すゑ)、傍に黐竿を設て鵙鳥を執る。是を鵙を落(おとす)と云。」

とある。囮を使った鵙猟を「鵙を落す」という。
 どんな人がやっているのかと見たら、まだ元服したての若者だった。
 十六句目。

   鵙落す人は二十にみたぬ㒵
 よせて舟かす月の川端       芭蕉

 猟師は殺生を生業とするため、身分的には何らかの差別を受けていたのだろう。ウィキペディアには

 「各村の「村明細帳」などに「殺生人」と記される「漁師」・「猟師」などの曖昧な存在もあり、士農工商以外を単純に賤民とすることはできない。」

とあり、いわゆる穢多・非人ではないが、何らかの区別はあったようだ。
 漠然と被差別民とみなすなら、河原に縁があったのかもしれない。
 十七句目。

   よせて舟かす月の川端
 鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり    亨子

 「月夜に釜を抜かれる」という諺があり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「明るい月夜に釜を盗まれる。はなはだしい油断のたとえ。月夜に釜。
  ※浮世草子・好色床談義(1689)三「男はらたつれども、かねわたしてのち壱物もかへされず、月夜にかまぬかれたる如く也」

とある。釜や鍋といった鋳物製品は当時大変高価で、泥棒が真っ先に狙うものだった。
 川べりの貧しい芦の家には、花もなければ鍋もない。
 本歌はもちろん、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫屋の秋の夕暮
             藤原定家(新古今集)

になる。紅葉のところを鍋にするのが俳諧だ。
 十八句目。

   鍋持ぬ芦屋は花もなかりけり
 去年の軍の骨は白暴        皷蟾

 「こぞのいくさ」の骨は「のざらし」と読む。
 芦屋の貧しさを続く戦乱が原因とした。

2020年9月15日火曜日

  急に黒い雲が出てきてざーっと降ったかと思うとすぐに止んだ。そのあとの秋の夕暮れがきれいだった。
 秋の夕暮れは街や車の明かりもどこか暖かい感じがする。これが冬だともっと尖った光になる。
 それでは「あなむざんやな」の巻の続き。

 四句目。

   渡し守綱よる丘の月かげに
 しばし住べき屋しき見立る     芭蕉

 「見立てる」には見定めるという意味となぞらえるという意味があり、俳諧でよく使うのは後者だが、ここでは前者になる。『源氏物語』の須磨巻で、源氏の君が須磨に到着した時のことをイメージしているのだろう。
 五句目。

   しばし住べき屋しき見立る
 酒肴片手に雪の傘さして      亨子

 これは雪の傘を屋敷に見立てた風流になる。

 市人よ此笠うらふ雪の傘      芭蕉

の句を思わせる。
 六句目。

   酒肴片手に雪の傘さして
 ひそかにひらく大年の梅      皷蟾

 これは普通に雪の日に傘さして、ひっそりと一輪開いた完売を肴に酒を飲む。

 梅一輪いちりんほどの暖かさ    嵐雪

の句は嵐雪一周忌追善集『遠のく』に収められていたもので、もう少し後のものだろう。
 初裏。
 七句目。

   ひそかにひらく大年の梅
 遣水や二日ながるる煤のいろ    芭蕉

 「遣水に二日ながるる煤のいろはひそかにひらく大年の梅や」の倒置。
 遣水は庭園に流れる外から引き入れた水で、正月二日には去年の暮れに咲いた梅の花が散って塵となって流れてくる。
 八句目。

   遣水や二日ながるる煤のいろ
 音問る油隣はづかし        亨子

 「音問る」は「おとづる」。「油」は油売りのこと。
 遣水に煤が流れているところから、煤の出る安物の油を使っていることがばれてしまって恥ずかしい。
 九句目。

   音問る油隣はづかし
 初恋に文書すべもたどたどし    皷蟾

 この時代にすでに「初恋」という言葉はあったようだ。手紙など書いていることを隣に来ている油売りにでも知られたら、そこら中に言いふらされそうだ。
 十句目。

   初恋に文書すべもたどたどし
 世につかはれて僧のなまめく    芭蕉

 初恋にたどたどしい手紙を書いたら、手紙を届ける役の僧の方がときめいてしまったか。
 十一句目。

   世につかはれて僧のなまめく
 提灯を湯女にあづけるむつましさ  亨子

 関西の方の風呂屋は湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。僧もひそかに通っていたのだろう。戦後のある国の名前の付いた風呂屋が思い浮かぶが。
 十二句目。

   提灯を湯女にあづけるむつましさ
 玉子貰ふて戻る山もと       皷蟾

 温泉玉子だろうか。

2020年9月14日月曜日

  昨日の大坂なおみさんに続いて、国枝慎吾さんも優勝ということで、日本凄い、日本人である俺も凄いって、誰も突っ込まないね。でも、そう思うって悪いことじゃないと思う。みんなに希望を与えるのがスポーツなのだから。大坂なおみさん凄い、国枝慎吾さん凄い、お前はクズ、じゃ救いようないもんね。ひょっとしたら凄くなれるかもしれないくらいには思わせてくれなくちゃ。
 この二人はそのうち国民栄誉賞をもらったりするのかな。その時の首相が誰かは知らないが。
 まあ冗談はこれくらいにして、俳諧の方に移ろう。
 芭蕉の旅はまだ続くということで、このあと芭蕉と曾良と北枝は実盛の甲を見た後、山中温泉に向かう。ここで曾良は二人と別れ、伊勢長島に向かう。山中三吟「馬かりて」の巻はその時の曾良への餞別だった。鈴呂屋書庫にかなり前に書いた「馬かりて」の巻の解説があるのでよろしく。
 ここから先の芭蕉の動向は当然ながら曾良の『旅日記』や『俳諧書留』にはない。ふたたび小松に戻り、実盛の甲のところで詠んだ発句で、皷蟾、亨子との三吟興行を行っている。
 それでは発句。

 あなむざんやな冑の下のきりぎりす 芭蕉

 後に『奥の細道』に収録されるときには「あな」の二字を抜いて普通の五七五の形にしている。これについては『去来抄』に、

 「魯町曰、先師も基より不出風侍るにや。去来曰、奥羽行脚の前にはまま有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと云ふ句あり。後にあなの二字を捨てられたり。」

とある。
 「あなむざんやな」は謡曲『実盛』の「あな無残やな。斎藤別当にて候いけるぞや。」からとったもので、謡曲の言葉をそのまま用いている。延宝五年の、

 あら何共なやきのふは過ぎて河豚汁 芭蕉

のような用法で、この「あら何共(なんとも)なや」も謡曲『芦刈』の一節を拝借している。
 俳諧は雅語で作る連歌に俗語を取り入れてできたものだが、談林時代には雅語の文芸である和歌や連歌に即した体だけでなく、謡曲調や漢文書き下し文調や様々な文体を試している。
 寛文五年伊賀での貞徳十三回忌追善俳諧の三十三句目も、

   未だ夜深きにひとり旅人
 よろつかぬほどにささおものましませ 蝉吟

の句がある所から、こうした試みは談林の流行前から少しづつ行われていたのであろう。
 芭蕉の蕉風確立期でも、こうした異体は試みられていたが、猿蓑調以降は影を潜めてゆく。
 小松で斉藤別当実盛の冑を見ての想像であろう。加賀篠原の合戦で木曾義仲の軍と戦い戦死した時の情景を思い起こし、倒れ伏した実盛の顔の所にコオロギが這っては鳴く様を思い描いたのだろう。
 一応前にも書いたが、キリギリス→コオロギ、コオロギ→カマドウマとなる。カマドウマ→コオロギになる。
 脇は「ぬれて行や」の巻で脇を詠んだ亨子が付ける。

   あなむざんやな冑の下のきりぎりす
 ちからも枯し霜の秋草       亨子

 きりぎりすに霜枯れの秋草を添え、「ちからも」とすることで、枯れるのは秋草だけでなく実盛もまた力の枯れてゆくとする。
 第三は「しほらしき」の巻で脇を務めた皷蟾(こせん)が詠む。

   ちからも枯し霜の秋草
 渡し守綱よる丘の月かげに     皷蟾

 渡し船の船頭は丘の梺の家で月明かりを頼りに綱を縒る。この船頭も老いて頭に霜を戴いているのだろう。その手つきもどこか力ない。霜枯れの秋草のようだ。寂び色がよく表れている。
 やはり「ぬれて行や」の後半部分とは違う、これが蕉門だという句だ。

2020年9月13日日曜日

  大坂なおみさんの全米OP2度目の優勝は良いニュースだったが、マスコミはテニスそっちのけだ。
 あのマスクは被害者の名前を記してだけで、それをどう受け止めるかは見る人にゆだねられている。一定の政治的主張に誘導するものではないので、そこは間違えない方がいい。それが公式試合の場でできるぎりぎりの線だったのだろう。
 差別はいけないというのは普遍的な主張で、それ自体は一定の政治的立場に立つものではない。ただ、誰が悪いだとか、何をどうすればということになると、その方法を廻って結局分断されてしまう。平和に賛成というのも同じだ。戦争反対も核のない世界をもわかる。ただそれが、誰が悪いだとかどこの国が悪いとかそういうことになると分断されてしまう。
 各自それぞれの主張はあるだろう。ただ、スポーツ競技の場ではそれを押し付けてはいけないし、報道する場合も気をつけてほしい。
 それでは「ぬれて行や」の巻の続き。挙句まで。

 四十五句目。

   汗は手透に残る朝風
 問丸の門より不二のうつくしく  塵生

 「問丸」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「鎌倉から戦国時代,港町や主要都市で,年貢運送管理や中継ぎ取引に従事した業者。平安時代末期の頃から淀,木津,坂本,敦賀など荘園領主の旅行にあたって船などを準備する問丸がみられた。鎌倉時代になると荘園の年貢米の運送,陸揚げ,管理にあたる問丸が出現し,荘園領主から得分 (問給,問田) を与えられていたが,次第に商業的機能を帯び,やがて独立の業者となった。貢納物の販売にあたって手数料として問料 (といりょう) を取り,さらに貢納物から商品の取引を専門とするようになった。戦国時代の問丸には,港町の自治を指導し,外国貿易に参加する豪商が出たり,ついには運送などの機能を捨て,純粋な卸売業となり,配給機構の中核を構成するようになった。 (→問屋 )  」

とあり、「問屋(とんや)」だと、

 「「といや」ともいう。江戸時代の卸売業者。鎌倉,室町時代には問,問丸 (といまる) といわれた。江戸時代,運送や宿泊については専業者ができたので,問屋の営業内容はもっぱら商品の取扱いだけとなった。問屋の種類もいろいろあり,荷主の委託を受け,一定の口銭を取って貨物を仲買人に売りさばく荷受問屋,特定の商品を取扱う専業問屋などがあった。さらに仕切込問屋と称する専業問屋もあって,荷主から商品を買取り,損益は自己負担で仲買に売渡すものであった。これらは,多く株仲間を組織し,共通の利害のもとに団結した。大坂の二十四組問屋,江戸の十組問屋 (とくみどんや) などが有名である。天保の改革後,廃止され,のち復活したが,明治になって卸売商人一般の呼称となった。なお江戸時代に問屋場の業務を司った宿場役人も問屋 (または問屋役) と呼ばれた。」

 今日では「卸売商人一般の呼称」だが、時代によって変遷がある。芭蕉の時代だと「問屋」だろうけど、あえて古い「問丸」という言葉を用いている。句を古く見せるためか。
 前句の「手透」を問屋の従業員の姿としたか。富士の景を付ける。
 四十六句目。

   問丸の門より不二のうつくしく
 鰤呼頃も都しづけき       芭蕉

 ブリは関西では正月の魚になっている。昔のことだから生ではなく塩漬けにして運んだのだろう。関東では鮭が主流だった。
 ただ、京都からは富士山は見えないし、師走なのに何で都が静かなのかよくわからない。
 四十七句目。

   鰤呼頃も都しづけき
 長生は殊更君の恩深き      北枝

 都だから君は天皇のことだろう。こうして長生きできるのも皇朝の御威光というところか。
 この辺りから早々としめに入ったか、お目出度い題材を出す。
 四十八句目。

   長生は殊更君の恩深き
 賤が袴はやれるともなき     曾良

 皇朝の御威光は賤民にまで及び、豊かな民は破れた袴をはくこともない。
 四十九句目。

   賤が袴はやれるともなき
 はつ花は万才帰る時なれや    芭蕉

 これは、

 山里は万歳遅し梅の花      芭蕉

であろう。とはいえ、これは元禄四年の句。前句の賤を門付け芸人とする。
 挙句。

   はつ花は万才帰る時なれや
 酒にいさめる宿の山吹      塵生

 万才の門付け芸人に酒をふるまい元気づけて帰してやる。

2020年9月12日土曜日

 武漢と日本の違いはいったい何だったのかと思うと、まず後発の強みで、ある程度の情報が最初からあったことと、ダイヤモンドプリンセス号(二月三日に横浜沖に停泊した)でシミュレーションができたという幸運に恵まれたことだろう。
 初期の医療崩壊を防げたのも、国民にある程度の心構えをさせる余裕があったからではないかと思う。
 日本には軍医がいないため、PCR検査を行う人材が決定的に不足していて、最初から極端に検査数を絞らざるを得なかった。この検査を絞り、疑わしくても自宅で待機するということに多くの国民が納得した。検査が簡単ではないことはダイヤモンドプリンセス号のおかげで、誰もが知ることとなった。
 あの時何で乗客全員すぐに検査しないんだろうと疑問を持った人も多かったが、それができないと分かった時点で検査能力のなさは周知された。そして感染が疑われるからといって安易に病院に行ってはいけないことも理解された。
 最初のパニックと医療崩壊がなかったため、春節に大勢の中国人が来日したにもかかわらず、感染はさして拡大せずに収束に向かった。これは今では第一波にカウントされてない。方方の『武漢日記』にも「娘は日本へ遊びに行って、二二日に帰ってきた」と書いてある。来てたんかーっ。
 その後イタリアで感染爆発が起こり、ヨーロッパ全体に広がっていったとき、日本でも帰国者を中心にいわゆる第一波が始まった。マスク不足が起こり食品の買いだめなども始まった。そして武漢やヨーロッパのようなロックダウンを求める声が上がったが、そこで日本の法律では無理だということがわかってしまった。とりあえず自粛を呼びかけ、何ら強制力はなかったが、多くの国民がそれに従った。
 これも怪我の功名だったかもしれない。ロックダウンは必ずしもベストな方法ではなかった。まずロックダウンが始まる間際に多くの住人が逃げ出して、それがよその地方に感染を広めてしまう。そして強制によるものだから、一人一人のストレスも多く、隙を見てはそれを破ろうとする者も後を絶たない。
 それと方方の『武漢日記』でわかったのだが、ロックダウンは警備に多くの警察官が動員される。そこでクラスターが発生したら、逆に感染を広めることになる。
 日本ではロックダウンは法的に無理ということで見送られたが、多分ヨーロッパでロックダウンを回避するには「集団免疫」という大義名分が必要だったのだろう。
 人は誰だって死にたくないし、恐ろしい伝染病が流行すれば、自然に行動を抑制する。その自然に任せている限りはストレスは少ない。みんな一律ではなく危機感の度合いによって各自が調整できるからだ。前近代の無知蒙昧な群衆がいた時代ならともかく、ある程度の教育制度の整った国なら、強制しなくても自粛で何とかなるのではないかと思う。
 もちろん、日本の左翼系の文化人は基本的に西洋崇拝だから、西洋を見習え、PCR検査をもっと増やせという声はあった。例の十五パーセントの人々だ。検査検査とうるさいから「ケンサーズ」なる言葉も生まれた。その一方で日頃から風邪くらいで会社を休むなと言っているような人たちだろうけど、コロナはただの風邪だから自粛は不要で、そのまま経済回せ(要するに「働け」)という人たちがいた。どちらも少数派なので、ネット上を散々賑わしはしたが、大半の国民は動揺しなかった。
 この自粛というやり方で、結果的に第一波だけでなく、夏場の第二波も乗り切れたから、多分第三波もそれほど心配はないのだろう。コロナとインフルとのダブル感染の不安も、自粛が緩めば両方とも流行するが、自粛がある程度うまくいけば両方とも抑えることができる。むしろインフルの死者が激減する可能性もある。
 あと、日本には自粛警察がいるだとか、感染者が責められるだとか世界に言いふらしている左翼やマスコミの連中がいるが、愚かなことだ。
 コロナの前からどこの町にもゴミの出し方だとか猫の餌やりだとかに異常なまでの正義ぶった行動をとってストレスを発散している連中がいる。それがコロナにかこつけているだけで、数としてはごく少数で、私は外で仕事をしているが、まだ一度も自粛警察を見たことがない。
 また感染者が責められているのではなく、安易に感染を広めるような行動をした人間が道義的に追及されているだけだ。法的責任がない分道義的責任を負うのは当然のことだ。
 日本の左翼だとかリベラルだとか人権派だとか称する人は、基本的に方方さんを弾圧しているあっちの側の人間だから、日本のコロナ対策がいかにひどい失敗だったかを世界に広めようとしている。中国政府に責任を求めるのではなく、あくまで日本の政府というよりも日本国民を含めた日本という国自体を批判するための材料を探している。集団でBANさせる手法も一緒だ。
 今日の東京の新規感染者数は226人で、底を打ち再び上昇に転じる気配が見られる。第三派の始まりになるかもしれない。奴らに屈せずに今まで通りの自粛を続ければ必ず勝てると思う。
 それでは「ぬれて行や」の巻の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   霜に淋しき猿の足跡
 岩にただ粥たき捨し鍋一ツ    塵生

 去来の、

 岩鼻やここにもひとり月の客   去来

の句を思わせる。猿だと思ったら、髪も髭も茫々に伸びた風狂人だったということか。
 三十八句目。

   岩にただ粥たき捨し鍋一ツ
 甲は笹の中にかくれて      芭蕉

 落ち武者に転じる。
 三十九句目。

   甲は笹の中にかくれて
 追剥の砧をならす秋のくれ    北枝

 宮本注に謡曲『山姥』とある。

 「宝生流謡曲」のページから引用しておこう。

地謡  「隔つる雲の身を変へ。仮に自性を変化して  
     一念化性の鬼女となつて目前に来れども
     邪正一如と見る時は。色即是空そのままに 
     仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり、
     仏あれば衆生あり。衆生あれば山姥もあり    
     柳は緑  花は紅の色々        
地謡  「さて人間に遊ぶこと。ある時は山賎の。樵路に通ふ花の蔭 
     休む重荷に肩を貸し。月もろともに山を出で。
     里まで送る折もあり。またある時は織姫の    
     五百機立つる窓に入つて。枝の鶯糸繰り          
     紡績の宿に身を置き。人を助くる業をのみ、賎の目に見えぬ 
     鬼とや人の言ふらん       
シテ  「世を空蝉の唐衣         
地謡  「払はぬ袖に置く霜は夜寒の月に埋もれ、
     打ちすさむ人の絶間にも。千声万声の。
     砧に声のしで打つは。ただ山姥が業なれや 

 四十句目。

   追剥の砧をならす秋のくれ
 月に起臥乞食の樂        曾良

 乞食なら追剥が出ても盗られるものはなく、気楽だ。
 四十一句目。

   月に起臥乞食の樂
 長き夜に碁をつづり居るなつかしさ 芭蕉

 碁は打つものだが、碁を綴るというのはいったい何なのだろうか。乞食は元棋士で、過去の対戦を思い出して棋譜や戦記を綴っているのだろうか。
 四十二句目。

   長き夜に碁をつづり居るなつかしさ
 翠簾に二人がかはる物ごし    塵生

 『源氏物語』空蝉巻の空蝉と軒端荻との対局の本説付けだが、「綴る」が無視されて碁を打つの意味になっているほかはそのまんまだ。
 四十三句目。

   翠簾に二人がかはる物ごし
 祈られてあら怖しとうち倒れ   曾良

 前句を怨霊と憑りつかれている人の二人としての展開する怪異ネタ。
 四十四句目。

   祈られてあら怖しとうち倒れ
 汗は手透に残る朝風       北枝

 宮本注にもある通り、「手透」は「襷(たすき)」のことか。修験者などのする結袈裟のことであろう。

2020年9月11日金曜日

 昨日は方方の『武漢日記─封鎖下60日の魂の記録』が届いたので、旧暦一月の終わりまで読んだ。
 日本ではロックダウンがなかったというか法的にできなかったし、初期の頃の感染を疑う市民が病院に殺到して医療崩壊を起こすということも幸いなことになかった。
 何となくぬるま湯で過ごしてしまった第一波、第二波を思うと、あらためて武漢がどんなに悲惨なことになっていたか、考えざるを得ない。
 読んでいけば、そのころ日本に伝わってきたいろいろな情報が思い起こされる。思った以上に日本には正確な情報が入っていたのだろう。驚くような新事実は書かれてなかった。
 まあ、中国語のできる人は日本でもリアルタイムで読めただろうし、その後英訳もネットで公開されていたというから、不思議なことではない。
 この本は確か初夏には日本語訳が出るはずだったが、いつのまにか河出書房新社のページが消えていて、さては何か圧力がと思っていたが、今頃になってひっそりと出版された。
 相変わらずコロナはただの風邪だという人はいるが、それならばこの本に描かれた幾多の悲しみはいったい何だったのだろうか。いつか日本人にもわかる日は来るかもしれないが、来ないことを願いたい。
 それでは「ぬれて行や」の巻の続き。

 三十一句目。

   病の癒て歩行はつ雪
 一度は報ひ返さん扶持の礼    北枝

 扶持(ふち)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「封建時代の武士が主君から与えられた俸禄。鎌倉~室町時代には土地と百姓を与えるのが原則であったが,戦国時代,米を給与する方法が起り,江戸時代になると,武家の離村が進んで城下町に居住するようになり,所領を米に換算する方法が一般化した。特に蔵米取 (→蔵米 ) の者に対して行われた給与方法をさすようになった。1人1日5合の食糧を標準 (一人扶持と呼ぶ) に1年間分を米や金で与える方法が普通で,下級の旗本,御家人,諸藩では下級武士に,身分に応じて何人扶持と定めて,広く行われた。また武士だけでなく,特殊な技能者なども何人扶持でかかえるという方法が行われたり,幕府,諸藩に尽力した商人,百姓にも与えられた。」

とある。
 前に読んだ元禄七年春の「五人ぶち」の巻の発句、

 五人ぶち取てしだるる柳かな   野坡

のところでは、「一人一日五合の米を一年分というのが一人扶持だった。五人扶持は家族が何とか生活していけるだけの最低賃金といったところか。」と書いた。
 その扶持に報いようと雪の中を歩み出る。いざ鎌倉のようなことか。
 三十二句目。

   一度は報ひ返さん扶持の礼
 あなかま鼠夜の戸障子      曾良

 「あなかま」は『源氏物語』帚木巻で、雨夜の品定めのあと家に戻ってくつろいでいるときに、「あなかまとて、けふそくによりおはす。」というふうに出てくる。「あな、かしまし」の略で「あー、うるさっ」あるいは「あー、うざっ」といったニュアンスだろうか。
 ここでは扶持の礼に報わなくてはと思うものの、たいした扶持はもらってないのだろう。戸や障子では鼠が走り回っている。
 三十三句目。

   あなかま鼠夜の戸障子
 侘しさに心も狭き蚊帳釣て    芭蕉

 二十五句目の「心角折て」とかぶるような「心」の使い方だ。蚊帳が物理的に狭いだけでなく、貧しさに心も狭くなる。
 物理的なものに「心」を付けて精神性を付け加えるやり方は、

 義朝の心に似たり秋の風     芭蕉

に倣ったものか。
 三十四句目。

   侘しさに心も狭き蚊帳釣て
 かみ切る所を夫はおさゆる    塵生

 七十年代くらいだと「髪を切る」というのが失恋の意味で用いられたが、この時代は出家して縁切寺に駆け込もうということだろう。夫(つま)の心の貧しさに耐えかねてということか。
 三十五句目。

   かみ切る所を夫はおさゆる
 入山のいばらに落しうき泪    曾良

 髪を切るから当然山号のあるお寺に入るわけだが、そこはいばらの道でもある。
 三十六句目。

   入山のいばらに落しうき泪
 霜に淋しき猿の足跡       北枝

 仏道に入る身もつらいが、霜枯れで食うものも少ない猿もさぞかしつらかろう。
 とまあ、やはり単純な道徳とわかりやすい人情の句が続き、蕉門らしい乾いた笑いは見当たらない。

2020年9月9日水曜日

 さて「ぬれて行や」の巻の二表だが、一の懐紙は青雲斎湫喧編『しるしの竿』(宝永二年刊)によるもので、宮本注にも「この地の人々の手に成るので、信ずべきものか」とあり、今まで読んできてもいかにも芭蕉の『奥の細道』の頃の風で違和感がない。
 それに対し二の懐紙の方は万子、甘井編『金蘭集』(文化三年刊)によるもので、北枝、曾良、芭蕉、塵生の四吟になっている。それ以上に、意味のよくわからない句が多く、真偽を疑いたくなる。
 「しほらしき」の巻の三十八句目以降も『金蘭集』だが、三十八句目の展開がやや急な感じがする。
 とりあえず、この先も読んでみるが、意味が取りにくいのは筆者の至らなさによるものなのか、読者に判断を任せる。
 二十三句目。

   雛うる翁道たづねけり
 蝶の羽や赤き袂に狂ふらん    北枝

 雛売る翁は赤い着物を着ていたのだろうか。そこに狂ったように蝶が舞う。

 二十四句目。

   蝶の羽や赤き袂に狂ふらん
 はしの上より投るさかづき    曾良

 かわらけ投げのことだろうか。たいていは山の上から投げる。桃隣の「舞都遲登理」には、

 五月女に土器投ん淺香山     桃隣

の句があった。
 二十五句目。

   はしの上より投るさかづき
 響来る木魚に心角折て      芭蕉

 盃を投げるのが厄除けだとすれば、木魚の響きも怪異を追い払うためのものであろう。「心角折て」は心の(鬼の)角も折れてということだろうか。
 二十六句目。

   響来る木魚に心角折て
 目鏡して見て澄渡る月      塵生

 眼鏡はウィキペディアによればザビエルが日本に伝えたもので、周防国の守護大名・大内義隆に献上したという。また、徳川家康が使用したという眼鏡も久能山東照宮にあるという。
 芭蕉の時代に眼鏡がなかったわけではないが、眼鏡の値段は曲亭馬琴の時代でも一両一分だったというから、目が飛び出るくらい高価だったに違いない。
 木魚に改心した鬼が、眼鏡で澄み渡る月を見るというのだが、高価な眼鏡をどうやって手に入れたかが謎だ。それも、月を見るのだから遠眼鏡だろうか。
 二十七句目。

   目鏡して見て澄渡る月
 道の名と盗人の名は残る露    曾良

 有名な盗人が出没した道なのだろうか。道と盗人は今でも知られていて、そこで眼鏡して月を見る。
 二十八句目。

   道の名と盗人の名は残る露
 しかふみくづす石の唐櫃     北枝

 唐櫃は脚付きの櫃のこと。普通は木でできている。石の頑丈そうな唐櫃を鹿が踏んで壊すというのだが、話を盛ってないか。それに、前句との関係も不明。
 二十九句目。

   しかふみくづす石の唐櫃
 野社は樫の実生の幾かかへ    塵生

 野社(のやしろ)は野で荒れ果てた社ということか。植えたわけではない自然に生えてきた樫が幾抱えもある巨木になっている。そんなところでは巨大な鹿が出てもおかしくはないか。
 三十句目。

   野社は樫の実生の幾かかへ
 病の癒て歩行はつ雪       芭蕉

 これは貞享四年の、

 いざさらば雪見にころぶ所まで  芭蕉

の心か。「歩行」は「ありく」と読む。
 ここまでざっと見ても、何となく蕪村の時代の匂いを感じるのは私だけだろうか。

2020年9月8日火曜日

 麻は日本では古くから栽培され、麻布や麻縄などに利用されてきた。
 芥子は桃山時代から江戸時代に渡来し、さまざまな園芸品種が作られ、昭和二十九年のあへん法施行まではたくさんの芥子園があり花見る人に溢れていた。
 麻も芥子も日本人にとって身近なものであったにもかかわらず、それを吸引してトリップしようとする者はなかったし、そういう薬物文化は日本では無縁だった。あやまって麻を焼く煙を吸い込むことはあっただろうけど、とにかくそういう文化は生まれなかった。
 日本人にとって薬物は戦後に急速に広まったヒロポンからで、あとは六十年代のドラッグカルチャーの影響が大きい。
 日本人が薬物に厳しいのはヒロポンの怖さが一番最初にあったことと、それ以前にそもそもドラッグの習慣がなかったことだ。あるのは煙草くらいだった。
 まあ、作品には罪はないし、薬物をやったアーチストの作品を自粛するようになったのはごく最近のことで、多分スポンサーサイドの過剰反応だろう。ただでさえ映画業界はコロナで興行延期されたり、入場が制限されたりして苦しいところだ。「経済を回せ」というなら、なおさら上映した方がいい。
 それでは「ぬれて行や」の巻の続き。

 十七句目。

   雷あがる塔のふすぼり
 世に住ば竹のはしらも只四本   亨子

 竹柱はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 枝をはらった竹の幹を用いた家の柱。
  ※池田家文庫本唯心房集(12C後)「よをいとふくさのいほりのたけはしらたてたるすぢのむつましきかな」

とある。
 十八句目。

   世に住ば竹のはしらも只四本
 朝露きゆる鉢のあさがほ     李邑

 朝顔の鉢に四本の竹の柱を立てる。これが朝顔の世の棲家。
 十九句目。

   朝露きゆる鉢のあさがほ
 夜もすがら虫には声のかれめなき 夕市

 朝露は消えても虫は鳴き続ける。
 二十句目。

   夜もすがら虫には声のかれめなき
 むかしを恋る月のみささぎ    斧卜

 「みささぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《古くは「みさざき」》天皇・皇后などの墓所。御陵(ごりょう)。みはか」

とある。ただ、和歌の言葉ではないようだ。
 月夜の御陵に昔を偲ぶ。
 二十一句目。

   むかしを恋る月のみささぎ
 ちりかかる花に米搗里ちかき   塵生

 米は玄米で保存し、食べる時に精米するのが良いとされている。そのため米搗きに特に季節はない。
 米搗く里というのは、白米を食べる裕福な里という意味もあるのだろう。御陵に眠っている人の恩恵でということか。
 二十二句目。

   ちりかかる花に米搗里ちかき
 雛うる翁道たづねけり      視三

 当時のひな人形は紙製や布製の立ち雛飾りが主流で、かさばらないので振り売りで売りに来た。都会だけでなく、田舎の方にも売りに来る人がいたのだろう。

2020年9月7日月曜日

 コロナの方は今のところ新規感染者は減る方向で、第三波の気配はない。今のレベルの自粛で感染が収束するなら、とにかくこのまま行ってほしい。
 政府の無策というよりは、日本にはそもそもこうした非常時に私権を制限する法律がなく、いろいろな国で行われたようなロックダウンはできない。そのため国民が自発的に自らの行動を制限しなくてはならない。
 公助が不十分なら、自助で補わなくてはならない。
 アメリカの銃社会もきっとそういうものなのだろう。凶悪犯罪の検挙率が低く、警察だけでは自分を守ることができないという不安が、銃を手放せない理由なのかもしれない。
 警察が信用できないから自衛のために銃を持ち、その銃を持っていることで警察に撃たれる。ますます警察は信用できないという悪循環になる。
 アメリカの映画だと黒人のかっこいい警官が活躍してたりするが、現実は違うんだろうな。
 日本には穢多非人と呼ばれる人がいて、江戸時代後期には通婚を禁じるなど人種隔離政策が取られていた。ただ、彼らは警官から不当な暴力を受けることはなかった。なぜなら彼らが警官だったからだ。
 いっそのことアメリカの警官を全部黒人にすれば治安は良くなるのではないか。
 それでは「ぬれて行や」の巻の続き。

 初裏。
 九句目。

   下戸にもたせておもき酒樽
 むらさめの古き錣もちぎれたり  李邑

 錣(しころ)はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①兜かぶと・頭巾ずきんの左右・後方に下げて首筋をおおう部分。 → 兜
  ② 「錏庇しころびさし」に同じ。」

とある。今だと消防士のヘルメットの横についているものを想像すればいいだろう。
 雨を防ぐ役割もあるので、村雨が降っているというのに錣が古くなって千切れて役に立たない、という意味だろう。
 落ち武者か、それとも熊坂のような盗賊か、特に誰ということもないので俤とは言えないだろう。落ちぶれても酒樽は手放さないが、それを持たされる人はたまったものではない。
 十句目。

   むらさめの古き錣もちぎれたり
 道の地蔵に枕からばや      視三

 落ちぶれた雰囲気から、道端の小さな地蔵堂で夜を明かす。「しほらしき」の巻の十句目、

   鳥居立松よりおくに火は遠く
 乞食おこして物くはせける    曾良

を思い出す。
 十一句目。

   道の地蔵に枕からばや
 入相の鴉の声も啼まじり     夕市

 夕市は「しほらしき」の巻にも参加している。
 枕を借りる頃というので、夕暮れの入相の鐘とねぐらに帰るカラスの声を付ける。
 十二句目。

   入相の鴉の声も啼まじり
 歌をすすむる牢輿の船      芭蕉

 「牢輿(ろうごし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 囚人を護送するために用いる輿。
  ※金刀比羅本保元(1220頃か)下「さしもきびしく打付たる籠輿(ロウゴシ)の」

とある。牢輿の船は護送船だろう。処刑の時も近く、辞世を勧める。
 船ではないが、『懐風藻』の大津皇子に仮託された、

 金烏臨西舎 鼓声催短命
 泉路無賓主 此夕誰家向
 黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
 日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
 黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
 この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

の詩も思い浮かぶ。(この詩については以前『野ざらし紀行─異界への旅』の「十四、僧朝顔」でも触れているのでよろしく。)
 十三句目。

   歌をすすむる牢輿の船
 肌の衣女のかほりとまりける   志格

 「牢輿の船」を売られてゆく遊女の舟としたか。遊女も歌をたしなむ。
 十四句目。

   肌の衣女のかほりとまりける
 ふみ盗まれて我うつつなき    コ蟾

 脱いだ服から女の匂いがするというので、女房が気付いて何か浮気の証拠がないかと探したのだろう。手紙が見つかってしまっては万事休す。生きた心地もしない。
 十五句目。

   ふみ盗まれて我うつつなき
 より懸る木よりふり出す蝉の声  北枝

 「うつつなき」から「空蝉」の連想であろう。
 呆然として木に寄りかかれば蝉の声が雨のように降り出し、それにつられて蝉の脱げからのような我もまた泣く。
 ちなみに蝉時雨という言葉があるが、2018年7月8日の俳話で触れたことだが、越人撰の『庭竈集』(享保十三年刊)の、

   川音・松風の時雨は涼しきに
 冬の名の時雨に似ぬか蝉の声   簔笠
   時雨といへば雨の字あれども
 蝉の声時雨るる松に露もなし   飛泉
 時雨だけいよいよ暑し蝉の声   嘉吟

あたりが最初か。
 十六句目。

   より懸る木よりふり出す蝉の声
 雷あがる塔のふすぼり      曾良

 「ふすぼる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①くすぶる。けぶる。
  出典反魂香 浄瑠・近松
  「お寝間(ねま)の内は抹香でふすぼりますと言ひければ」
  [訳] ご寝室の中はお香でくすぶりますと言ったところ。
  ②すすける。黒ずむ。
  出典平家物語 三・頼豪
  「もってのほかにふすぼったる持仏堂にたてごもって」
  [訳] (護摩をたく煙で)予想外にすすけている持仏堂にたてこもって。◇「ふすぼっ」は促音便。」

とある。雷が落ちたのだろうか。
 夕立の後、再びセミが鳴きだす。

2020年9月6日日曜日

 さて、鈴呂屋は特定発句だけを分断して論ずることなしに、立て句だろうが(この言葉は当時の人は使っていない)付け句だろうが全部読む。これ、信念。
 まあ、多分外人を相手にするときには、当時の文化習慣に深く根差した「あるあるネタ」や、日本語を知らないと分かりにくい言葉遊びなどどうせわからないだろうってので、わかりやすい写生説で押し切るつもりなのだろう。俳句の国際化には最大公約数的な解釈が必要というのは、まあ、わからないではない。でも世界の人は本当にそれで満足しているのかな。
 さて、芭蕉の『奥の細道』の旅の途中の小松滞在で、二十五日には「しほらしき」の世吉が興行された。そして翌二十六日の曾良の『旅日記』にはこうある。

 「廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生方へ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終テ帰ル。庚申也。」

 庚申(かのえさる)の夜には人の体の中にいる三尸の虫が寝ている間に抜け出して、天帝にその人間の罪を報告するというので、それを防ぐために大勢で集まり談笑しながら夜を徹する。これを庚申待という。
 この五十韻興行も、庚申待ということで夜を徹して行われたのであろう。
 発句。

 ぬれて行や人もおかしき雨の萩  芭蕉

 「おかしき」は古語で用いられる「面白い、趣がある」という意味。
 雨の中で濡れていても、周りに萩の花が咲いていれば楽しい気分になる。
 この日は昼間は激しい雨が降り、夕方には止んだが、昼間の雨を引き合いに出して、雨の中をたくさんの人が集まり、さながら萩の原を行くようです、という挨拶の意味が込められている。
 脇。

   ぬれて行や人もおかしき雨の萩
 すすき隠に薄葺家        亨子

 亨子は曾良の『旅日記』にあった歓生のこと。
 雨の萩の原にススキの家で雨宿りできれば、濡れて行く人もじっくりと萩の花を観賞できる。
 ススキに囲まれた中のススキで葺いた家と、ススキ尽くしで語呂がいい。
 脇句の挨拶としては、いかにも粗末な家ですと謙遜しているが、実際大勢集まっているところを見ると、結構立派な家だったのだろう。
 第三。

   すすき隠に薄葺家
 月見とて猟にも出ず船あげて   曾良

 ススキで葺いた粗末な漁師の家でも、今日は月見ということで猟を休む。
 昔から水産資源を保護するために、いろいろな名目で禁漁の日もあったのだろう。それを破ると「阿漕が浦」つまり阿漕な奴ということになる。
 四句目。

   月見とて猟にも出ず船あげて
 干ぬかたびらを待かぬるなり   北枝

 月明かりで辺りを遊び歩きたい気分だが、干した帷子がなかなか乾かない。
 五句目。

   干ぬかたびらを待かぬるなり
 松の風昼寝の夢のかいさめぬ   コ蟾

 コ蟾は「しほらしき」の巻に登場した山王神主藤井(村)伊豆、皷蟾のこと。
 松風の寂しげな音に夢を破られ、目を覚ますが、帷子はまだ乾いていない。
 六句目。

   松の風昼寝の夢のかいさめぬ
 轡ならべて馬のひと連      志格

 志格も「しほらしき」の巻に参加している。
 松の木の下で一休みしていたのは馬を曳いてやってきた一団だった。当時の物流を支えてきた馬子たちを労っての一句だろう。今で言えば道の駅で休む長距離トラックの一団か。
 七句目。

   轡ならべて馬のひと連
 日を経たる湯本の峯も幽なる   斧卜

 斧卜も「しほらしき」の巻の参加者。
 馬の列を温泉街の景色とする。
 八句目。

   日を経たる湯本の峯も幽なる
 下戸にもたせておもき酒樽    塵生

 塵生も「しほらしき」の巻の参加者。
 飲めないのに酒樽を持たされて、そりゃあ災難だ。飲める人はみんな出来上がっちゃったかな。

2020年9月5日土曜日

 ネットで見つけた井本農一の文章で「芭蕉の発句について」というのを見つけた。
 井本さんは一応近代俳句的芭蕉研究の第一人者とも言われる人で、ざっと読んでみたが、なるほど、俳諧興行の発句をあえて「立て句」と呼んで、近代俳句に通じる単独で詠む「発句」とを分断しようという作戦に出たか、という感じだ。
 これだと、

 木のもと汁も膾もさくらかな    芭蕉
 むめがかにのつと日の出る山路かな 同

といった句は立て句ということになる。まあ、立て句の中にも文学的な句はあると一応予防線は引いてある。
 ただ、島崎藤村を引き合いに出して、

 秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

を例に挙げたのは失敗だろう。この句は元禄七年九月二十九日の芝柏(しはく)亭での興行の発句としてつくられたもので、たまたま病状の悪化によって中止になっただけのものだ。
 まあ、とにかく立て句が文学的でない何てことはないし、興行に用いられてないものがことごとく名句というわけでもないだろう。そんなにまでして「文学」と連句を切り離したいのかという執念以外の何も感じられない。はい論破。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。挙句まで。

 四十一句目。

   なげの情に罰やあたらん
 しどろにもかたしく琴をかきならし 致益

 「しどろ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (形動) 秩序がなく乱れていること。乱雑であるさま。
  ※後拾遺(1086)恋一・六五九「あさねがみみだれて恋ぞしどろなるあふ由もがな元結にせん〈良暹〉」
  ※太平記(14C後)二一「騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞えて」

とある。
 「かたしく」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[動カ四]《昔、男女が共寝をするときには、互いの衣服を敷き交わして寝たことに対していう》自分の衣服だけを敷いて、独り寂しく寝る。
 「狭筵(さむしろ)に衣―・き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」〈古今・恋四〉」

とある。一人寂しく感情にまかせて乱雑に琴を掻き鳴らし、何の罰(ばち)にあたるのか、となる。
 『源氏物語』の須磨巻の、

 「御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。
 琴(きん)をすこしかきならし給へるが、我ながらいとすごうきこゆれば、ひきさし給ひて、

 恋ひわびてなくねにまがふ浦波は
     思ふかたよりかぜやふくらん

とうたひ給へるに」
 (お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。
 七絃琴をすこしばかりかき鳴らしてはみるものの、自分でもあまりに悲しげな音色なので曲を途中で止めて、

 ♪報われぬ恋に泣いてる浦波は
     都から吹く風によるのか

とうたひ給へるに)

の場面であろう。
 四十二句目。

   しどろにもかたしく琴をかきならし
 はなに暮して盞を友      觀生

 花の定座を一句繰り上げて、琴に花を付ける。盞は「さかずき」。隠士の句とする。
 四十三句目。

   はなに暮して盞を友
 うぐひすの聲も筋よき所あり  曾良

 盃を友として一人飲んでいると、芸妓が欲しいところだが、いるのは鶯だけで、その鳴き声を筋がいいと褒める。
 挙句。

   うぐひすの聲も筋よき所あり
 うららうららやちかき江の山  北枝

 「うらら」は「麗(うらら)か」から来たもので、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘形動〙 (「か」は接尾語)
  ① 空が晴れて、太陽が明るくのどかに照っているようす。春の日をいう場合が多い。うらうら。うらら。《季・春》
  ※宇津保(970‐999頃)俊蔭「いみじうたかくふる雪、たちまちにふりやみて、日いとうららかにてりて」
  ② 声が明るくほがらかなさま。
  ※源氏(1001‐14頃)胡蝶「うぐひすのうららかなる音(ね)に、鳥の楽はなやかにききわたされて」
  ③ (心中に隠すところがなく) さっぱりとしたさま。のどやかにはればれしたさま。さわやか。
  ※浜松中納言(11C中)四「隔てなう、うららかにうち解け給へれど」

 入り江に山もほのかに霞み、鶯もなく長閑な景色をもって一巻は終了する。

2020年9月4日金曜日

 「しほらしき」の巻の続き。

 三十五句目。

   聲さまざまのほどのせはしき
 大かたは持たるかねにつかはるる 芭蕉

 町は活気に溢れているが、その大半は賃金労働者だ。金を持っている奴に使われている。
 宮本注は「なまじっか金を持っているばかりに、かえって人間が金のために使われて忙しい思をしている」としているが、当時の大方の人はそのなまじっかの金を持っていない。裕福な現代社会の発想だと思う。
 三十六句目。

   大かたは持たるかねにつかはるる
 菴より見ゆる町の白壁     致益

 草庵に暮らす人は金で使われているわけではない。高みの見物といったところか。庵は山の上にあって街を見下ろすところにあったりする。
 二裏。
 三十七句目。

   菴より見ゆる町の白壁
 風送る太鼓きこへて涼しやな  芭蕉

 遠くの雷の音だろうか。
 三十八句目。

   風送る太鼓きこへて涼しやな
 若衆ともいふ女ともいふ    斧卜

 遊郭の太鼓女郎だろうか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸前期の上方遊郭で、三味線・琴・胡弓などをひいたり舞を舞ったりして、宴席の取り持ちをした女郎。位は囲(かこい)職で、揚代は九匁。
  ※俳諧・西鶴五百韻(1679)早何「かこゐをたつる木の丸の関〈西鶴〉 たいこ女郎名をなのるまで候はず〈西花〉」

とある。
 女に限らず若衆が務めることもあったのだろう。
 三十九句目。

   若衆ともいふ女ともいふ
 古き文筆のたてども愛らしき  夕市

 昔の恋文なので書いた人が女か若衆かはわからない。
 四十句目。

   古き文筆のたてども愛らしき
 なげの情に罰やあたらん    皷蟾

 「なげ」は接尾語だが、ここでは「それっぽく装った」ということか。ハニートラップは昔からあったのだろう。でも法的には立証が難しく、せめて天罰でもあたってくれということか。

2020年9月3日木曜日

 今日も昨日と同じように晴れたり雨が降ったりだった。蒸し暑い。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 二十九句目。

   恋によせたる虫くらべ見む
 わすれ草しのぶのみだれうへまぜに 觀生

 「忍草(しのぶぐさ)」については2019年6月9日のところでも触れたが、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①しだ類の一種。のきしのぶ。古い木の幹や岩石の表面、古い家の軒端などに生える。[季語] 秋。
  ②「忘れ草」の別名。
  ③思い出のよすが。▽「偲(しの)ぶ種(ぐさ)」の意をかけていう。
 出典源氏物語 宿木
「しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし」
[訳] 思い出のよすがとして摘んでおいた(=産んでおいた)のであったのだろう。」

とある。
 「忘れ草」は、ノカンゾウ、ヤブカンゾウなどを指し、「連歌新式永禄十二年注」には、

 「忘草は、順和名には、絵を書て、ひとつばの様にてちひさく、うらに星のあるを、忘草と云り。したの葉のちいさき様なるを、忍草なり、と云り。但、是を忍草共、忘草共いふと也。」(『連歌新式古注集』木藤才蔵編、一九八八、古典文庫p.99)

とある。
 『伊勢物語』百段に、

 忘れ草おふる野辺とは見るらめど
     こはしのぶなりのちも頼まむ

の歌がある。
 『菟玖波集』の、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

の句も、心敬の『筆のすさび』に、

   草の名も所によりてかはるなり
 軒のしのぶは人のわすれか

という別解がある。
 觀生の句では、忘れ草が「しのぶ」とも言うのを「みちのくのしのぶもぢずり」を掛けて、忘れようにも忍ぶ恋心に思い乱れ、忘れ草としのぶ草がまぜこぜに植えたような状態だ、と作る。そして、忘れ草に鳴く虫としのぶ草に鳴く虫の鳴き比べと前句につながる。なかなか手の込んだ句だ。
 三十句目。

   わすれ草しのぶのみだれうへまぜに
 畳かさねし御所の板鋪     芭蕉

 これは、

 百敷や古き軒端のしのぶにも
     なほあまりある昔なりけり
             順徳院(続後撰集)

からの発想だろう。
 元歌は軒端をしのぶだが、忘れ草しのぶも植え混ぜだから、御所に重ねられた畳に昔を忘れたり忍んだりするとする。
 三十一句目。

   畳かさねし御所の板鋪
 頭陀よりも歌とり出して奉   北枝

 宮本注に「御所に召された西行などの俤か」とある。多分それでいいと思う。
 後の『猿蓑』「市中は」の巻の三十句目、

    草庵に暫く居ては打やぶり
 いのち嬉しき撰集のさた    去来

の句を彷彿させる。実際は直接宮中で歌を差し出したのではなく、『後拾遺集』に、

   高野山に侍りける頃、皇太后宮大夫俊成千載集
   えらび侍るよし聞きて、歌をおくり侍るとて、
   かきそへ侍りける
 花ならぬ言の葉なれどおのづから
     色もやあると君拾はなむ
             西行法師

とあるように手紙で送ったのだろう。
 ただ、去来の句は「いのち嬉しき」がいかにも西行の「いのちなりけり」を彷彿させるのと、特に出典となる物語がないということで、本説ではなく俤付けになるが、北枝の場合、必ずしも西行に限定されるわけでもない。蝉丸かもしれない。その意味ではまだ明瞭に俤付けとは意識されてなかったのではないかと思う。

 世の中はとてもかくても同じこと
     宮もわら屋もはてしなければ
             蝉丸(新古今集)

の心とも取れる。
 三十二句目。

   頭陀よりも歌とり出して奉
 最後のさまのしかたゆゆしき  曾良

 落ち武者の辞世の歌とする。
 三十三句目。

   最後のさまのしかたゆゆしき
 やみ明て互の顔はしれにけり  皷蟾

 宮本注に「前句の仕形を、実際の合戦の振舞と見て夜明けを付けたか」とある。互いの顔を見合わせたら昔の主君だったとか、生き別れた兄弟だったなんて落ちがありそうだ。
 三十四句目。

   やみ明て互の顔はしれにけり
 聲さまざまのほどのせはしき  觀生

 明け方の市場や船着き場の雑踏か。

2020年9月2日水曜日

 台風が来るせいか、晴れたと思ったらザーッと雨の降る安定しない天気だった。夜も雨が降ったが、上がると雲の合間にかすかに旧盆の月が見えた。
 それでは「しほらしき」の巻の続き。

 二表。
 二十三句目

   ぬるむ清水に洗う黒米
 春霞鑓捨橋に人たちて     北枝

 「鑓捨橋」は宮本注にも「不詳」とあり、一応ググってみたがヒットしなかったので、ありそうでない名前の橋ということなのだろう。
 二十四句目。

   春霞鑓捨橋に人たちて
 かたちばかりに蛙聲なき    夕市

 川はあっても蛙の声がしなければ、まだ春も形だけということか。
 二十五句目。

   かたちばかりに蛙聲なき
 一棒にうたれて拝む三日の月  芭蕉

 これは座禅のときの三十棒だろう。
 江戸後期の人だが仙厓義梵の「蛙」という絵には「座禅して人が佛になるならば」と書き添えてある。「座禅して人が佛になるなら、蛙だっていつも座っているからとっくに佛になっている、という意味なのだろう。蓮の葉の上に座る所から、鳥獣戯画でも蛙は仏様の姿で描かれている。
 三十棒を受けても悟りに程遠い自分を、形ばかり座っている蛙に喩え、「喝!」と言われても声もなくお辞儀する。
 二十六句目。

   一棒にうたれて拝む三日の月
 秋の霜おく我眉の色      皷蟾

 三日月はよく女性の眉毛に喩えられるが、ここでは爺さんの白髪になった眉毛。年とってもなかなか悟りに遠いわが身は、宗祇独吟何人百韻、四十三句目の、

   きけども法に遠き我が身よ
 齢のみ仏にちかくはや成りて  宗祇

の句を思わせる。
 二十七句目。

   秋の霜おく我眉の色
 嶋ながらくつはる袖のやや寒  塵生

 宮本注は「くつはる」は「くつはが」の誤記ではないかとしている。「くつは」は京都島原の下級遊女、轡女郎のことだろう。そうなると「嶋」は島原のことか。島原には太夫のような高級遊女もいるが、下級遊女の袖はさすがに寒い。ましておいて白髪になった遊女ならなおさらだ。
 二十八句目。

   嶋ながらくつはる袖のやや寒
 恋によせたる虫くらべ見む   斧卜

 前句の「くつは」をクツワムシとする。メスを誘うために競って鳴くクツワムシを見物するような見世物があったのか。

2020年9月1日火曜日

 日本で起きている人種差別の例としてよく上げられるのは、よそよそしくて避けられているような感じがするというものだ。
 もともと日本人はハイタッチだとかハグだとかいった接触を求める習慣はないし、日本人同士でもそれほど親しくなければ形だけの会話で終わることは多い。もちろんそれだけでなく、言語や習慣の異なる人たちに対する警戒心が一番問題なのだろう。
 外国語もちょっと間違えると全く別の意味になって、とんでもないことになるのではないかという不安があるし、しぐさや態度も日本ではあたりまえでもよその国では侮辱の意味になるのではないかとか、不用意な発言は人権問題になるかもしれないとか、とにかくよくわからない、相手を怒らせたり傷つけたりする可能性があると思うとしり込みしてしまうものだ。
 こうした恐れから、何となく関わり合いになりたくないという意識が生まれる。外国人を馬鹿にしてたり低く見たりしているわけではないが、とにかくわからないし失敗が怖いから遠巻きにする。これは「敬遠」という言葉が一番しっくりくる。敬意を払いはするが遠ざける。この言葉は本来鬼神に対して用いられていた言葉だが、野球では強打者にフォアボールを与える時にも用いる。
 基本的にはトラブルを避けようとする防衛反応なのだが、罪がないとは言えない。おそらくあらゆる差別の根底には、よくわからないものに対する恐れがあるのだろう。たとえば腕の一本ない人に出会ったとき、その腕のことに触れていいのかどうか、下手にそのことを口にすると怒りやしないだろうか、不安になるものだ。それが障害者差別の一番原始的な感情なのではないかと思う。
 外国語に対する不安は外国語を学べば解消できる。外国人の習慣に対する不安も学べば解消できる。身障者の気持ちも、LGBTの気持ちも多分そうなのだろう。ただ、残念ながら人間の頭は有限だ。何もかも学ぼうとしたら頭が破裂してしまう。そういうところがなかなか差別を根絶できない理由なのだろう。
 それでは本題の俳諧の方に入る。「しほらしき」の巻の続き。

 十七句目。

   そろ盤ならふ末の世となる
 泪にさす月まで豊の光して   志格

 「泪にさす」というのはよくわからない。「泪(なみだ)さす」だと涙ぐむという意味になる。あるいは「泪(なだ)にさす」と読むのか。宮本注は「洞にさす」の誤記としているが、それでも意味がよくわからない。
 泪を「なだ」と読むのはweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「なみだ。近世、奴(やつこ)などが用いた語。 「心中が嬉しくて、うら、-がこぼるると/浄瑠璃・加増曽我」

とある。「なみだ」が訛って「なんだ」になって、それが「なだ」になったのであろう。沖縄方言でも「なだ」というらしい。
 句は後ろ付け。誰もがそろばんを習うような商業の盛んな世になり、国は栄え、月までがその繁栄を祝うかのように光り輝いていて涙があふれてくる。
 十八句目。

   泪にさす月まで豊の光して
 皮むく栗を焚て味ふ      夕市

 そのままだと栗御飯のことだが、宮本注には「『金(金蘭集)』は「栗」か「粟」か曖昧な字体。或は「粟」がよいか。」とある。
 粟だとかなり貧しい印象になる。豊の光なのだから栗でいいのではないかと思う。八月十五夜が芋名月なのに対し、旧暦九月十三夜の月を栗名月という。

 滋味なるは栗名月の光かな   貞徳

の句がある。
 十九句目。

   皮むく栗を焚て味ふ
 朝露も狸の床やかはくらむ   致益

 「狸の床」は狸寝入りの床か。寝たふりをして後で起き出し、栗御飯を食べている。「皮むく」に「かはく」を掛ける。
 二十句目。

   朝露も狸の床やかはくらむ
 帯解かけてはしる馬追     塵生

 狸に化けた女に誘惑されたのだろう。その気になって帯を解こうとしたが、すぐに気が付いて逃げ出す。「馬追」は馬子の意味もあれば、虫のウマオイもいる。この場合は馬子の方か。
 虫の方は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にもあり、江戸中期には秋の季語になっていた。
 二十一句目。

   帯解かけてはしる馬追
 梺より花に菴をむすびかへ   曾良

 花を愛する風流の徒で、花を追って麓から中腹へ、そして山頂へと庵を移して行くが、それに従う馬子は落ち着く暇もなくたまったものではない。
 二十二句目。

   梺より花に菴をむすびかへ
 ぬるむ清水に洗う黒米     志格

 西行のとくとくの清水の俤だろうか。吉野の西行庵の近くにあるとくとくの清水は、芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で訪れて、

 露とくとく心みに浮世すすがばや 芭蕉

の句を残している。
 西行さんもそこで生活していたなら、この水で米を研いだりもしたのだろう。黒米は古代米の方ではなく玄米の方だろう。こころみに米もすすがばや。