日本で起きている人種差別の例としてよく上げられるのは、よそよそしくて避けられているような感じがするというものだ。
もともと日本人はハイタッチだとかハグだとかいった接触を求める習慣はないし、日本人同士でもそれほど親しくなければ形だけの会話で終わることは多い。もちろんそれだけでなく、言語や習慣の異なる人たちに対する警戒心が一番問題なのだろう。
外国語もちょっと間違えると全く別の意味になって、とんでもないことになるのではないかという不安があるし、しぐさや態度も日本ではあたりまえでもよその国では侮辱の意味になるのではないかとか、不用意な発言は人権問題になるかもしれないとか、とにかくよくわからない、相手を怒らせたり傷つけたりする可能性があると思うとしり込みしてしまうものだ。
こうした恐れから、何となく関わり合いになりたくないという意識が生まれる。外国人を馬鹿にしてたり低く見たりしているわけではないが、とにかくわからないし失敗が怖いから遠巻きにする。これは「敬遠」という言葉が一番しっくりくる。敬意を払いはするが遠ざける。この言葉は本来鬼神に対して用いられていた言葉だが、野球では強打者にフォアボールを与える時にも用いる。
基本的にはトラブルを避けようとする防衛反応なのだが、罪がないとは言えない。おそらくあらゆる差別の根底には、よくわからないものに対する恐れがあるのだろう。たとえば腕の一本ない人に出会ったとき、その腕のことに触れていいのかどうか、下手にそのことを口にすると怒りやしないだろうか、不安になるものだ。それが障害者差別の一番原始的な感情なのではないかと思う。
外国語に対する不安は外国語を学べば解消できる。外国人の習慣に対する不安も学べば解消できる。身障者の気持ちも、LGBTの気持ちも多分そうなのだろう。ただ、残念ながら人間の頭は有限だ。何もかも学ぼうとしたら頭が破裂してしまう。そういうところがなかなか差別を根絶できない理由なのだろう。
それでは本題の俳諧の方に入る。「しほらしき」の巻の続き。
十七句目。
そろ盤ならふ末の世となる
泪にさす月まで豊の光して 志格
「泪にさす」というのはよくわからない。「泪(なみだ)さす」だと涙ぐむという意味になる。あるいは「泪(なだ)にさす」と読むのか。宮本注は「洞にさす」の誤記としているが、それでも意味がよくわからない。
泪を「なだ」と読むのはweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、
「なみだ。近世、奴(やつこ)などが用いた語。 「心中が嬉しくて、うら、-がこぼるると/浄瑠璃・加増曽我」
とある。「なみだ」が訛って「なんだ」になって、それが「なだ」になったのであろう。沖縄方言でも「なだ」というらしい。
句は後ろ付け。誰もがそろばんを習うような商業の盛んな世になり、国は栄え、月までがその繁栄を祝うかのように光り輝いていて涙があふれてくる。
十八句目。
泪にさす月まで豊の光して
皮むく栗を焚て味ふ 夕市
そのままだと栗御飯のことだが、宮本注には「『金(金蘭集)』は「栗」か「粟」か曖昧な字体。或は「粟」がよいか。」とある。
粟だとかなり貧しい印象になる。豊の光なのだから栗でいいのではないかと思う。八月十五夜が芋名月なのに対し、旧暦九月十三夜の月を栗名月という。
滋味なるは栗名月の光かな 貞徳
の句がある。
十九句目。
皮むく栗を焚て味ふ
朝露も狸の床やかはくらむ 致益
「狸の床」は狸寝入りの床か。寝たふりをして後で起き出し、栗御飯を食べている。「皮むく」に「かはく」を掛ける。
二十句目。
朝露も狸の床やかはくらむ
帯解かけてはしる馬追 塵生
狸に化けた女に誘惑されたのだろう。その気になって帯を解こうとしたが、すぐに気が付いて逃げ出す。「馬追」は馬子の意味もあれば、虫のウマオイもいる。この場合は馬子の方か。
虫の方は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にもあり、江戸中期には秋の季語になっていた。
二十一句目。
帯解かけてはしる馬追
梺より花に菴をむすびかへ 曾良
花を愛する風流の徒で、花を追って麓から中腹へ、そして山頂へと庵を移して行くが、それに従う馬子は落ち着く暇もなくたまったものではない。
二十二句目。
梺より花に菴をむすびかへ
ぬるむ清水に洗う黒米 志格
西行のとくとくの清水の俤だろうか。吉野の西行庵の近くにあるとくとくの清水は、芭蕉も『野ざらし紀行』の旅で訪れて、
露とくとく心みに浮世すすがばや 芭蕉
の句を残している。
西行さんもそこで生活していたなら、この水で米を研いだりもしたのだろう。黒米は古代米の方ではなく玄米の方だろう。こころみに米もすすがばや。
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