「舞都遲登理」の続き。
「仙臺より今市村へかかり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十苻の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。兩所ながら垣結廻し、菅は彼百姓が守となん。
〇刈比に刈れぬ菅や一掃」(舞都遲登理)
仙台から北東へ、今の東北本線の線路に沿って行くと、七北田川の手前に仙台市宮城野区岩切今市という地名がある。この地域が直線的な道路に沿って存在しているところから、ここが旧街道だったのだろう。七北田川を渡ると東光寺がある。七北田川には冠川という別名もあり、ここにかつて冠川土橋があったのだろう。近くに八坂神社があるが、ここにはかつて式内社の志波彦神社があった。
古代道路を捜し歩いていると、何回かこの東光寺という名の寺の前を通ったりする。ウィキペディアには、
「関東では白山権現(白山社)とセットであった例がみられる(多くの小祠の白山社は神社合祀の際に廃されており、また改称したところも多い。東光寺も廃寺となっている例がある)。また、関東ではハンセン病などでの行路行き倒れ人や遊女、罪人、動物などの供養を行ってきた来歴を持つ寺が多い。」
とあるところから、やはり街道の寺という意味合いがあったのかもしれない。
東光寺から脇の三丁は三百メートルくらいなのですぐだ。東北本線岩切駅の北西側の地域が岩切新田だったのだろう。今はすっかり街になっている。
「十苻の菅」は『奥の細道』の壺の碑のところに、
「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々十苻の管菰を調て国守に献ずと云り。」
とある。ここで「おくの細道の山際」とあるのは、仙台道から先の多賀城を経て塩釜の方へ行く塩釜街道のことを当時「奥の細道」と呼んでいたからだという。「山際」は高森山の麓ということだろう。岩切城跡がある。おそらく古代の道は東光寺の前で東に折れて直線的に多賀城・塩釜を結んでいたのだろう。
国分寺・国分尼寺のある仙台と国府のある多賀城を結び、さらに塩釜で海路に出る古代の主要道路だったから、そんなに細い道だったとは思えないが、幅十二メートルの駅路に比べれば細かったのだろう。
十苻の菅菰はこの街道沿いではなく、北に三丁入った所だったと思われる。それを図画に書いてもらったのだろう。今は住宅地になっているが、高森山と羽黒前遺跡のある小さな丘に挟まれた地域がそれだったのではなかったか。
十苻の菅菰は『夫木抄』に、
みちのくの十符の菅薦七符には
君を寝させて三符に我が寝む
よみ人知らず、
陸奥の野田の菅ごもかた敷きて
仮寐さびしき十苻の浦風
道因法師
の歌がある。貞享三年正月の「日の春を」の巻九十九句目には、
をなごにまじる松の白鷺
寝筵の七府に契る花匂へ 不卜
の句もある。また、元禄七年春の「五人ぶち」の巻十七句目にも、
近い仏へ朝のともし火
咲花に十府の菅菰あみならべ 野坡
の句がある。
その十苻の菅はこのあたりの百姓が田んぼの脇で育てていて、「垣結廻し」守っていた。大きな菅田で育てているのではなかったようだ。
刈比に刈れぬ菅や一掃 桃隣
菅は十分成長した夏の土用の頃に刈るという。今ある菅もみんな刈り取られてしまい、残るのは箒になった一束だけ、ということか。
「此所より又本の道へ戻り、土橋より一丁行、右の方に小橋三つ有。中を緒絶ノ橋と云。所の者は轟の橋と荅ゆ。是より市川村入口、橋を渡り右の方小山へ三丁行て、
壺の碑 多賀城鎮守府將軍古舘也。
神龜ヨリ元禄マデ千歳ニ近。
右大將頼朝
みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ
かきつくしてよつぼのいしぶみ
西
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守府將軍從
四位上勳四等大野朝臣東人之處里也天平寶字
六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁
部省卿兼按察使鎭守府將軍藤原惠美朝臣朝獦
修造也
天平寶字六年十二月一日
高 六尺三寸
碑之圖 横 三尺一寸
厚 一尺 」(舞都遲登理)
桃隣のここに記した文字には三か所誤りがある。「鎭守府將軍」の「府」の文字は碑の方にはない。これが二か所。「東人之處里也」は「東人之處置也」であること、計三か所。なお、『奥の細道』本文にも同じ間違いがある。この当時はまだ判読が難しく、碑文の文字が確定してなかったのだろう。
さて、東光寺の前の冠川土橋に戻り、そこから東へと向かう。「緒絶(おだえ)ノ橋」は宮城県大崎市にあったとされているが、ここにも同名の橋があったのだろう。前にもどこかで聞いたような、だが。『奥の細道』には、松島から石の巻に行くところで「十二日、平和泉と心ざし、あはねの松・緒だえの橋など聞伝て」とある。
場所も土橋より一丁ではなく半里くらい行った砂押川の橋ではなかったか。ここが市川との境になる。
「右の方小山へ三丁」とあるから、奥の細道は国府のあった多賀城跡より北の小高い丘を通っていたのだろう。仙台市内で一番古いと言われる多賀神社や、国府に付随する陸奥総社宮がある。南の方へ三百三十メートルほど行って、当時壺の碑ではないかと言われていた多賀城碑を見ることになる。
なお、江戸時代の仙台道は広瀬橋で広瀬川を渡るが、ここと東光寺前の土橋を直線で結ぶと、ちょうど国分寺の西を通り、榴ヶ岡の脇や宮城野を通ることになる。土橋から先も、川で向きを変えながら一直線に塩釜に向かうため、国府多賀城の北側を通ったのであろう。
多賀城碑はかつて国府のあった多賀城の南側にある。
壺の碑(いしぶみ)は『袖中抄』に
「陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但、田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、石文と云と云り。」
とある。のちに、
みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる
つぼのいしぶみそとの浜風
西行法師
陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ
書きつくしてよ壺の石文
源頼朝
など歌に詠まれた。
ただ、この多賀城碑は坂上田村麻呂の書いた壺の碑ではない。坂上田村麻呂は天平宝字二年(七五八年)の生まれとされているが、多賀城碑は神亀元年(七二四)年に多賀城が造られた多賀城が天平宝字六年(七六二)年に改修したときのもので、坂上田村麻呂が四歳の時のものだ。
「此所より八幡村へ一里余、細道を分入、八幡村百姓の裏に奥の井有。三間四方の岩、廻りは池也。處の者は沖の石と云。是ヨリ末の松山、むかふに海原見ゆ。千引の石此邊といへども、所の者曾て不知。一里行て松の浦嶋、是ヨリ鹽竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道續なり。緒絶橋は六社の御前有。鹽竈六社御神一社に籠、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。
〇法樂 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂」(舞都遲登理)
芭蕉も壺の碑を見た後末の松山に向かったが、桃隣も同じように壺の碑の南西にある末の松山に向かう。街道から外れるため、「細道を分入」だったようだ。
ふたたび砂押川を渡ると、ここも小高い丘になっていて、今の宝国寺の辺りが末の松山だと言われている。
「奥の井」は興井(おきのい)のことであろう。グーグルマップだと今でも「沖の石」と表示される。池の中に岩があるのは今も変わらない。グーグルストリートビューだと、この沖の石のところから北を見れば、坂道の上に大きな松があり、ここが末の松山になる。
かつて貞観地震の大津波の時に、この末の松山の頂上が波をかぶらなかったことで、
君をおきてあだし心をわがもたば
末の松山波もこえなむ
よみ人知らず(古今集)
の歌が生まれたという。それ以降ありえないことの例えとなった。
もっとも、恋の約束はえてしてそのありえないことが起きてしまうので、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ
末の松山波越さじとは
清原元輔(後拾遺集)
になってしまったが、二〇一一年の東日本大震災の大津波が末の松山を越えなかったことで、伝説が本当だったことが証明された。宝国寺には大勢の人が避難してきたという。
今は住宅地だが、昔はここから海が見えたのだろう。
八幡村の由来になっている多賀城八幡神社の方は津波が来て、最も被害の大きかった地域の一つだったが、八百本の鎮守の森の木に守られて、本殿だけがかろうじて残ったという。
桃隣の見つけられなかった「千引の石」は志引石とも呼ばれ多賀城跡から見ると砂押川の手前の東田中というところにある。通り過ぎてしまったようだ。
志引石は多賀城観光協会サイトに、
「田中村の『書出』に、縦横6尺と4尺の二つの石があって『千引石』と記している。昔、岩切村の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷(たすき)と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛けると、石は飛び上がって東田中のデンジョウ山の山裾に落ち二つに割れた――現在あるのはその一つで、他は土中にあると―― 。この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。当家ではこの田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。」
とある。岩切村は東光寺のあった方で今の岩切分台か。かなり距離がある。古代道路を建設したときの話であろう。土橋と陸奥総社宮を直線で結べば岩切分台を通る。
君が代は千びきの石をくだきつつ
よろづ世ごとにとれどつきせじ
源顕仲(堀河院百首聞書)
の歌にも詠まれ、歌枕になっている。
末の松山を出て一旦壺の碑の方へ引き返したのだろう。壺の碑のやや東に浮島という地名がある。その東、東北本線塩釜駅の手前に野田玉川の碑がある。紅葉の橋は「おもはくの橋」のことで、野田玉川の碑のからはやや下ったところにある。そのあと塩釜神社を経てその先の海に出れば松の浦嶋(松島)が見える。ここまで一里とそう遠くない。
『奥の細道』には、
「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。」
とある。かなりおおざっぱなので、曾良の『旅日記』を見ると、
「一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」
とあり、先に塩釜まで行って昼食をとってから末の松山の辺りを見て回っている。沖の石は末の松山とセットなので省略されている。桃隣の見つけられなかった興井にも寄っている。
浮嶋は壺の碑(多賀城碑)のそばで小さな塚のような山に小さな社がある。
塩釜の前に浮きたる浮島の
憂いて思ひのある世なりけり
山口女王(古今集)
この歌を聞くと塩釜の海の上に浮かぶ島のようだが実際は内陸にある。
野田玉川は今では両岸が固められたり地下にもぐったりしている町中の川だが、かつてはきれいな小川だったのだろう。
ゆふされば汐風こして陸奥の
野田の玉川千鳥なくなり
能因法師(新古今集)
などの歌で知られていた。
紅葉の橋(おもはくの橋)は、
踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて
人も通はぬおもわくの橋
西行(山家集)
の歌があり、ここから「紅葉の橋」とも呼ばれていたのだろう。本当にこの場所だったのだろうか。
古代の道はおそらく陸奥総社宮の方から真っすぐ塩釜神社の方へ向かっていたのだろう。
ただ、平安末や中世になると、多賀城碑や浮嶋の方を廻るようになっていたとは考えられる。ただ、今の「おもわくの橋」はそれよりかなり南にある。
さて、塩釜神社だが、「鹽竈六社御神一社」と桃隣が記しているように、塩釜神社は長いこと祭神が定まらなかった。ウィキペディアには、
「歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。」
とある。曾良は『旅日記』のなかで「塩竈明神」と記し、『奥の細道』も「塩がまの明神」としている。おそらく吉田兼連によって今の祭神である鹽土老翁神(しおつちのをぢ)に定まったのだろう。
「緒絶橋」はここにもあったようで、鹽竈六社御神一社の前だという。緒絶橋はこれで三度目で小名浜でも「緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也」と書いている。
「神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有」というこの灯篭は『奥の細道』にも記されている。この灯篭は今もある。林塔は輪塔のことで五輪塔ともいう。
「右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。」というのはウィキペディアに「元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し」とあるそのことで、桃隣の来た元禄九年五月の段階では石搗つまり地固めが半ば終わった状態だった。
禰宜呼にゆけば日の入夏神樂 桃隣
宮城県のホームページの薬莱神社三輪流神楽のところを見ると、
「法印系の神楽で大崎氏以来社人たちで舞っていたが、現在は氏子の有志の手で行われ、宮司大宮家が管理している。天和3年(1683)4代藩主綱村が、伊達氏の氏神亀岡八幡神社造営の時、藩命によって召し出され神楽を伝授し、亀岡八幡付属神楽を派生し、監竈神社にも奉納を命じられた。薬莱神社蔵、天保2年書改めの『神楽秘抄』によれば、所伝は26番とあるが、現在は12番を伝えている。」
とある。
三輪流の法印系の神楽だとしたら、禰宜さんも参加する。日没まで神楽をやっているので、禰宜さんを呼びに行っても夜まで待たなくてはならない、多分そういう意味だろう。
夏神樂はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「夏祭りまたは夏越(なご)しの祓(はらえ)のときに行う神楽。《季 夏》「若禰宜(ねぎ)のすがすがしさよ―/蕪村」
とある。
「麓は町家、町の中に鹽竈四ツ有。三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分、一ツは四尺・高六寸五分・厚貳寸五分。往昔六ツ有けるを盗出し、海中へ落したると也。此所隣ニ牛神とて、牛に似たる石有。明神の鹽を運し牛化して、かくは成ぬと云。今は鹽不焼 芭蕉翁
〇月涼し千賀の出汐は分の物」(舞都遲登理)
これは御釜神社の「四口(よんく)の神竈(しんかま)」で、東北本線本塩釜駅と鹽竈神社の中間あたりの本町通り沿いにある。ウィキペディアには昭和に書かれた『塩竈町方留書』に記された寸法が載っている。
1、御臺の竈 - 深さ1寸6分(48.5mm)、廻り1丈4尺6寸(4,423.8mm)、差渡4尺(1,212mm)、厚1寸3分(39.4mm)。
2、西の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm) 。
3、北の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺6寸(4,726.8mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。
4、東の方 御宮脇 - 深さ5分(15.1mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。
三つ(西、北、東)は差渡四尺七寸五分、深さ六寸(東だけ五分)、厚二寸で、桃隣の「三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分」とそれほどは違わない。差し渡し(直径)は五分の差で、深さと高さは底の厚さの分差が出るから、深さ六寸プラス厚さ二寸で高さ八寸になるからピタリ賞。東の方については見た目同じようだから省略したか。
御臺の竈は差渡四尺、深さ一寸六分、厚一寸三分で、桃隣の「四尺・高六寸五分・厚貳寸五分」は直径はあっているが、高さが合わない。底が五寸くらいあるならわかる。
ウィキペディアにはさらに、
「『別当法蓮寺記』では、往古は7口の竈が存在したと伝える。それによれば、「赤眉」という者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠くに持ち去ることができなかった。そのため3口は、当地の野田、松島湾の海中、加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたという。」
とあるが、桃隣の説だと「六ツ有けるを盗出し、海中へ落したる」とあって若干の違いがある。「『奥羽観蹟聞老志』では6口あったとする説がある」というので、この辺は諸説あったのだろう。
この塩釜の水の色は異変があると変化するという言い伝えがあり、東日本大震災の直前にも色が変わり、津波は神社の前まで来て止まったという。
牛石に関しても、ウィキペディアに、
「境内には牛石藤鞭社の脇の池中に「牛石」と称される霊石がある。『別当法蓮寺記』および『鹽社由来追考』によれば、鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた際、塩を運ばせた牛が石と化したという。」
とある。
「今は鹽不焼」と、当時は既に藻塩を焼くのには用いられてなかった。その下の離れたところに「芭蕉翁」という文字があるが、何を意味するのかは不明。
月涼し千賀の出汐は分の物 桃隣
塩釜の辺りの海を千賀の浦という。謡曲『高砂』の、
高砂やこの浦船に帆をあげて
この浦船に帆をあげて
月諸共に出で汐の(宝生流のページより)
を踏まえたものであろう。「分の物」は「分(ぶ)のあるもの」つまり、儲けものということか。
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