2018年9月30日日曜日

 今夜また台風が通り過ぎるようだ。どうか被害が出ませんように。
 それでは「一泊り」の巻の続き、挙句まで。

 二裏、三十一句目。

   そろそろ寒き秋の炭焼
 谷越しに新酒のめと呼る也    蘭夕

 今の清酒に近い日本酒は室町時代には広まっていたが、それと平行してどぶろくも広く飲まれていた。
 芭蕉の天和三年の、

 花にうき世我が酒白く飯黒し   芭蕉

は玄米とどぶろくの質素な生活を詠んだものだろう。
 芭蕉の時代は清酒の方も四季醸造から寒造りへの移行期で、それまでは一年中酒が造られていたが、気温によって発酵の仕方が変化するため、品質が一定しなかった。
 ウィキペディアによれば、

 「日本では、古来より江戸時代初期に至るまで、真夏の盛りを除いて一年を通じて以下のように酒を醸していた。
 新酒(しんしゅ)
 旧暦八月(今の新暦では九月ごろに相当)に前年に収穫した古米で造る。
 間酒(あいしゅ)
 初秋に造る酒。今でいえば九月下旬で、残暑厳しい折ではあるが、そのために乳酸菌の発酵が容易だったなどのメリットもあった。たいへんな臭気をはなったという。
 寒前酒(かんまえさけ)
 晩秋に造る酒
 寒酒(かんしゅ)
 冬場に造る酒。のちに寒造りとして残っていく。
 春酒(はるざけ)
 春先に造る酒。冬に比べて気候が暖かくなっているので、浸漬(しんせき)の時間も日を追って短くすることが留意された。また蒸米は冷ましきってから弱く仕掛けるなど、発酵が進みすぎないようにいろいろな工夫がなされた。」

とある。
 ただ、芭蕉の時代にはこの新酒ではなく、寒造りの酒の早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える際に生じる「あらばしり」だったと思われる。
 江戸後期の曲亭馬琴編『増補 俳諧歳時記栞草』にはこうある。

 「新酒[本朝食鑑]新酒は、凡(およそ)、新択(しんえり)の新米一斗を用てこれを醸し、須加利(酒を濾布嚢也)に填(つつ)みて舟に入、其酒の水、半滴(なかばしたた)る、復(また)、布嚢に入て圧(おす)ときは、酒おのづから滴り出づ。酒滴り尽て後、汁を取、滓(かす)を去。これを新酒といふ。」

 このあらばしりの頃に新しい緑の杉玉を吊るし、新酒ができたのを知らせるようになるのはもう少し後で、一茶の時代になる。
 『阿羅野』の、

 我もらじ新酒は人の醒やすき   嵐雪

の発句は、あらばしりがあっさりした味でアルコール度数も低いため、嵐雪のような大酒飲みには向かなかったということなのだろう。
 秋も終わりに近づき寒くなってくると、谷の向こうを歩く炭焼きに向って「新酒飲んでかんかえ」と酒屋の声が聞こえる。
 三十二句目。

   谷越しに新酒のめと呼る也
 はや辻堂のかろき棟上げ     路通

 辻堂というと今では湘南のイメージだが、元は東海道と鎌倉街道の交差する辻にお堂があったという。
 本来辻堂は旅人のために立てられた休息所で、江戸時代初期に福山藩の初代藩主水野勝成が作らせた四本の柱と屋根からなる簡単な東屋風の建物で、四つ堂とも憩亭とも言われている。
 柱を立てたらすぐに棟上であっという間に出来上がる。
 新しい辻堂ができたから、早くこっち来て新酒でも飲んでゆけと、村人が谷の向こうにいる旅人に声をかけたのだろう。
 路通は芭蕉と出会う前には筑紫を旅していると言うので、途中で福山の辻堂のお世話にもなったのだろう。
 三十三句目。

   はや辻堂のかろき棟上げ
 打むれてゑやみを送る朝ぼらけ  白之

 この場合は旅人の休息所ではない。福山のローカルなネタだったので、よくわからなかったか。
 「ゑやみ」は疫病神のことで、京都が発祥でのちに地方でも行われるようになった、疫病神を追い払うための道饗祭(みちあえのまつり)のための臨時のお堂のこととしたか。
 三十四句目。

   打むれてゑやみを送る朝ぼらけ
 麦もかじけて春本ノママ     芭蕉

 「かじける」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」
 ②  生気を失う。しおれる。やつれる。 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」

とある。麦が旱魃で萎れてしまい、春だというのに植えないのと同じことになってしまった。これは飢饉だ。疫病神を追い払う儀式が行われる。
 花の定座の前で飢饉とは、芭蕉も難しい注文をしたものだ。
 三十五句目。

   麦もかじけて春本ノママ
 鷹すへて近ふめさるる花造り   蘭夕

 「鷹すへて」というのは鷹を手の上に座らせること。「めさるる」と言う敬語が使われているところから、殿様が鷹狩りに来られたということか。
 おそらく鷹狩りにかこつけて領内の飢饉の状況を視察に来たのだろう。 ただ、村人の方は見苦しいものを見せたくないと見栄を張って、造花を作っていかにも春が来ているように見せかける。
 挙句。

   鷹すへて近ふめさるる花造り
 小蝶みだるるさかづきの陰    執筆

 執筆は主筆に同じ。
 打越の飢饉を離れ、「花造り」を花見の席をこしらえるという意味にして、最後は殿様の来席のもとに胡蝶の乱れ飛ぶ中、目出度く盃を交わして終わることになる。

2018年9月28日金曜日

 今日は久しぶりに晴れて、有明の月が綺麗だった。
 それでは「一泊り」の巻の続き。

 二十三句目。

   此ごろ室に身を売れたる
 文書てたのむ便りの鏡とぎ    芭蕉

 室津に売られていった遊女には愛しい人がいた。手紙を書く自由すらない世界で密かに誰かに手紙を託すとすれば、それは諸国を旅する「鏡とぎ」であろう。
 「かがみとぎ」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「鏡を磨ぐことを仕事とした旅職のこと。鏡は材質にガラスが用いられる以前は,長い間銅または青銅であったから,たえずその曇りを磨ぐ必要があった。その技術を江戸時代の《人倫訓蒙図彙》(1690)に〈鏡磨にはすゝかねのしやりといふに,水銀を合て砥(と)の粉をましへ梅酢にてとくなり〉と記すが,それ以前,室町時代はザクロ,平安・鎌倉時代はカタバミが使われていたらしい。江戸時代はとくに越中(富山県)氷見(ひみ)の者が中心で,毎年夏から翌年春にかけ西は摂津から東は関東一帯へ出稼ぎし,全国の大半はこの仲間が占めた。」

とある。
 二十四句目。

   文書てたのむ便りの鏡とぎ
 旅からたびへおもひ立ぬる    白之

 恋から旅体へ転じる。恋離れの句。
 ただ、「旅から旅」は鏡とぎの属性なので、展開としては具体性もなく鈍い。
 二十五句目。

   旅からたびへおもひ立ぬる
 たふとさは熊野参りの咄して   残夜

 旅といえば熊野参り。熊野古道は今でも大人気だ。
 熊野詣の功徳を人に語りながら、自分もまた旅から旅へ、また新たな旅に出る。
 そういえば、芭蕉さんは熊野詣はしていない。
 二十六句目。

   たふとさは熊野参りの咄して
 薬手づから人にほどこす     路通

 前句の「たふとさ」を熊野の尊さではなく、薬を自分で処方して人々の病気を治してゆく人の尊さとする。熊野で修行して、薬の知識を身につけた人だろう。
 二十七句目。

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと) 芭蕉

 薬を只でみんなに配れるような人は、昔も今もお金のある人だ。えらい慈善家になるにはうんとお金が必要だと、昔読んだスヌーピーのネタにもあった。確かライナスはそう言われて「人のお金で慈善家になるんだ」と答えたっけ。当時はまだクラウドファンディングはなかったが。
 世捨て人とはいっても、お寺は寺領を所有し、経済的基礎があって初めて慈善事業もできる。
 世の中とはそういうもんだよ路通君、というところかもしれない。乞食坊主では人を救う前に、先ず自分を救わなくてはならない。
 路通の生き方はロマンチックで惹かれるところはあるものの、芭蕉はやはりリアリストだ。
 二十八句目。

   田を買ふて侘しうもなき桑門
 犬ほへかかる森の入リ口     蘭夕

 立派なお寺には優秀な番犬もいるもんだ。
 二十九句目。

   犬ほへかかる森の入リ口
 夕月夜笈をうしろにつきはりて  曾良

 「笈」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。箱笈と板笈の2種がある。箱笈は内部が上下2段に仕切られ,上段に五仏を安置し,下段に念珠,香合,法具を納めている。扉には鍍金した金具を打ったり,木彫で花や鳥を表わし,彩漆 (いろうるし) で彩色した鎌倉彫の装飾を施したものもある。」

とある。
 芭蕉や曾良が旅に用いた「笈」は蓋のついた竹籠に背負い紐のついた簡単なもので、諏訪市・正願寺所蔵に曾良が「おくのほそ道」の旅で用いた笈というのがあり、画像も「おくのほそ道文学館」というサイトにある。
 同じ笈でも豪華なものから質素なものまでいろいろあったようだ。
 「つきはりて」は今なら「突っぱって」で、夕月に照らされて大きな笈が後ろに大きく突き出ているさまが、シルエットになっているという感じか。
 曾良自身の旅姿の自画像と言えるかもしれない。森の入口では野犬に吠えられたこともあったのだろう。生類憐みの令で当時は野犬が増えたともいう。
 三十句目。

   夕月夜笈をうしろにつきはりて
 そろそろ寒き秋の炭焼      残夜

 『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本三郎注に、「山伏に炭焼を対せしめた付。」とある。いわゆる「向え付け」で、中世連歌では「相対付け」と言った。漢詩の対句を作るように、二つのものを並列する付け方をいう。

2018年9月27日木曜日

 昨日の朝早く、神奈川は雨だったが足柄を越えると雲も切れ、富士山が見えた。山頂付近の北側が薄っすらと白くなっていて、もしや初冠雪と思っていたが、今日のニュースで富士山の初冠雪が発表されていた。今年は早い。
 それでは「一泊り」の巻の続き。
 二表、十九句目。

   鳥の巣もりと住あらす庵
 きさらぎや落行甲おもたくて   蘭夕

 二月は一ノ谷の戦いや屋島の戦いのあった月で、ここで落ち行く武者は平家の落人だろうか。重たい兜も今は脱ぎ捨て、山奥でひっそりと暮らす。
 二十句目。

   きさらぎや落行甲おもたくて
 あらしに光る宵の明星      曾良

 京都には大将軍を祭った大将軍八神社がある。かつては大将軍堂と呼ばれていた。
 この大将軍について、ウィキペディアにはこうある。

 「大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
 古代中国では明けの明星を啓明、宵の明星を長庚または太白(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。」

 神道家の曾良のことだから、落武者から軍神を連想し、金星を付けたのかもしれない。
 「あらし」は合戦を象徴し、沈みゆく宵の明星に落ち武者を喩えたとも取れる。
 二十一句目。

   あらしに光る宵の明星
 苫まくり舟に米つむかしましく  残夜

 夕暮れで嵐が来るというので、急いで米を船に積み込む。出荷するためではなく、洪水で米が水をかぶらないようにということか。
 二十二句目。

   苫まくり舟に米つむかしましく
 此ごろ室に身を売れたる     路通

 「室」は室津のことで、古代からある港町。ウィキペディアによると、

 「江戸時代になると、参勤交代の西国大名の殆どが海路で室津港に上陸して陸路を進んだため、港の周辺は日本最大級の宿場となった。」

とのこと。
 もちろん人だけでなく、米を積んだ廻船も盛んに出入りしていた。
 室津は謡曲『室君』の舞台でもあり、室津の遊女は有名だった。
 ただ、ここでは中世の自由に移動する遊女ではなく、江戸時代の身売りされた遊女で、宿場町の華やかさの裏での過酷な現実を思い知らされる。
 こういう下層階級のリアルな世界を描くというのが路通の持ち味なのかもしれない。芭蕉もそういうところを評価していたのだろう。
 『夫木和歌抄』に、

 浅ましや室津のうきとききしかど
    沈みぬる身の泊りなりけり
               源俊頼

の歌もあり、古典の不易の情にもかなう。

2018年9月26日水曜日

 今日も雨。十五夜が見えたのはやはり運がよかったか。
 「一泊り」の巻の続き。
 十五句目。

   地獄絵をかく様のあはれさ
 きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん  木因

 前句の「地獄絵をかく」を比喩ということにして、別れ際の男女の修羅場とする。鐘が鳴ったのをこれ幸いに男は逃げ去ったか。
 十六句目。

   きぬぎぬのしり目に鐘を恨らん
 賤が垣ねになやむおもかげ    残夜

 身分の低い田舎の女のところに通った時のきぬぎぬか。身分違いの恋に悩む女のことを思う。
 十七句目。

   賤が垣ねになやむおもかげ
 豆腐ひく音さへきかぬ里の花   白之

 「豆腐ひく音」は豆腐の原料となる大豆を石臼で挽く時の音。
 日本豆腐協会のサイトによると、

 「三代将軍・家光のときに出された「慶安御触書」には豆腐はぜいたく品として、農民に製造することをハッキリと禁じています。 その家光の朝食には、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳にも擬似豆腐(豆腐をいったんくずして加工したもの)などが出されていたのが、資料からもうかがえます。
 この豆腐がようやく庶民の食卓に普段の日でものぼるようになったのは、江戸時代の中ごろから。それも江戸や京都、大阪などの大都市に限られていたのが実情でした。」

だという。
 芭蕉の時代でも豆腐は都市部のもので、田舎に行くと豆腐を挽く音は聞こえなかったのだろう。
 田舎に来て、せっかく桜が咲いたのに豆腐田楽が食えなくて悩んでいたのか。
 十八句目。

   豆腐ひく音さへきかぬ里の花
 鳥の巣もりと住あらす庵     芭蕉

 巣もり(巣守/毈)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 孵化(ふか)しないで巣の中に残っている卵。すもりご。
 「―になりはじむるかりのこ、御覧ぜよとて奉れば」〈宇津保・藤原の君〉
 2 あとに取り残されること。また、その人。るすばん。
 「ただ一人島の―となり果てて」〈盛衰記・一〇〉
 3 夫の不在の間、妻が留守を守っていること。
 「二年といふもの―にして」〈浄・天の網島〉

とある。
 鳥の巣に取り残された卵のように、片田舎の庵に一人取り残されているが、そこには花が咲いている。

 もろともにあはれと思へ山ざくら
   花よりほかに知る人もなし      
               僧正行尊

の心か。

2018年9月25日火曜日

 今日が一応満月だが、一日雨が降った。
 それでは「一泊り」の巻の続き。
 十一句目。

   ほそき声してぬき菜呼入レ
 蕣にすずめのさむく成にけり   残夜

 前句の「ほそき声」を雀の声とする。蕣(あさがお)が咲いてスズメも寒そうに細い声で鳴く季節となり、とここまでを気候とし、ぬき菜売りを呼び入れるとする。
 十二句目。

   蕣にすずめのさむく成にけり
 月見ありきし旅の装束      白之

 「蕣にすずめ」を装束の柄としたか。女性の装束であろう。
 十三句目。

   月見ありきし旅の装束
 さまざまの貝ひろふたる布袋   芭蕉

 『奥の細道』の旅での敦賀の記憶だろう。

 潮染むるますほの小貝拾ふとて
   色の浜とは言ふにはあるらん
               西行法師

の歌で知られていて、芭蕉もここで、

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋  芭蕉
 波の間や小貝にまじる萩の塵   同

の句を詠んでいる。
 十四句目。

   さまざまの貝ひろふたる布袋
 地獄絵をかく様のあはれさ    路通

 貝は胡粉の原料となる。
 白絵具を作るために袋一杯に貝をたくさん集めてきて、その姿が「布袋」という文字からお目出度くふくよかな布袋さんを連想させるが、その姿で地獄絵を描いているとミスマッチでなんとも哀れだ。

2018年9月24日月曜日

 天気予報が外れて雨はまだ降っていない。雲の切れ間から一時オレンジ色の月が見えたが、今は雲に隠れている。
 昔だったらきっと雲の切れ間から月が見えたら、あたりがはっと明るくなってすぐわかったんだろうな。
 それでは「一泊り」の巻の続き。
 四句目。

   帋子もむ夕阝ながらに月澄て
 あらしにたはむ笹のこまかさ   残夜

 この作者もよくわからない。
 軽く景色を付けて流す。
 五句目。

   あらしにたはむ笹のこまかさ
 植木屋はうへ木に軒を隠すらん  芭蕉

 ようやく芭蕉さんの登場。
 笹のこまかさに、きちんと手入れされた庭の情景を見たか、笹や竹をはじめ、たくさんのよく手入れされた植木に囲まれて、肝心の植木屋の建物がどこにあるのか一瞬迷う。
 六句目。

   植木屋はうへ木に軒を隠すらん
 食のすすまぬ事は覚えず     曾良

 繁昌している植木屋なら、今日も飯が旨い。別に他人の不幸がということではなく、しっかり働いてしっかり稼いで、という意味で。
 初裏、七句目。

   食のすすまぬ事は覚えず
 肌ぬぎて人に見せたる夕間暮   蘭夕

 「肌ぬぎ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「和服の袖から腕を抜き、上半身の肌をあらわすこと。片肌脱ぎと両もろ肌脱ぎがある。 [季] 夏。」

とある。近代では夏の季語だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』にはなく、元禄の頃にいたってはよくわからない。
 ただ、夏でも食欲が落ちずに元気なのを、この通りとばかりに片肌脱いで見せる情景が浮かぶから、夏の句としてもいい。
 肌脱ぎすると腕が動かしやすくなるので、肉体労働などをする時も片肌もろ肌脱いだりする。そこから比喩として人助けをするときにも「一肌脱ぐ」という。

 八句目。

   肌ぬぎて人に見せたる夕間暮
 児(ちご)そそのかす時のおかしさ 路通

 八句目で待ってましたとばかりに恋を出すのは、蕉風確立期では芭蕉もしばしばやっていた。しかも稚児ネタで芭蕉さんも喜びそうだ。
 「稚児」はウィキペディアによれば、

 「○本来の意味の稚児で乳児、幼児のこと。「ちのみご」という言葉が縮んだものと考えられる。後に、6歳くらいまでの幼児(袴着・ひもとき前)に拡大される。袴着・ひもとき~元服・裳着の間の少年少女は「童」(わらは・わらべ)と呼ばれた。
 ○大規模寺院における稚児 → 下記 大規模寺院における稚児 参照
  ○転じて、男色の対象とされる若年の男性の意。
 ○祭りにおける稚児 → 下記 祭りにおける稚児 参照」

といくつかの意味があり、ここでは「男色の対象とされる若年の男性」を指すと思われる。当時の元服の前後の年齢を考えるなら、年齢的には子供ではなく立派な若者だったと思われる。
 今日の祭などで見られる稚児行列の稚児は大体は小学生以下の男女だが、それと混同してはいけない。寺院などでの男色の対象とされた稚児は幼児ではない。カトリック教会の性的虐待事件と同列に扱うべきものではない。
 百歩譲って昔の寺院で年長の僧が年少の稚児に性交を強要することがあったとしても、今日の稚児行列とは何の関係もない。(まあ、こんなことを言うのは呉智英一人で、日本の人権団体もこんなのを真に受けるほど馬鹿ではないと思うが、ただ日本の事情をよく知らない外国人が本気すると困る。)
 この路通の句でも、大人の僧が片肌脱いだかもろ肌脱いだかは知らないが、わざとらしく肉体を見せ付けて稚児を誘惑するのだが、当の稚児の方はその気がないのか、ギャグにしかならない。実際はこんなものだろう。
 九句目。

   児そそのかす時のおかしさ
 薫ものの煙リに染し破れ御簾   曾良

 これはホモネタではない。児(ちご)を本来の幼児の意味に取り成し、王朝時代の宮廷の恋の情景に転じている。
 薫物の煙の染み付いた御簾に破れ目があるので、小さい児をけしかけて誰が来ているのか覗いて来い、というもの。『源氏物語』の空蝉の弟君の俤か。
 十句目。

   薫ものの煙リに染し破れ御簾
 ほそき声してぬき菜呼入レ    木因

 ここで大垣の木因さんの登場。
 九月十五日の芭蕉の木因宛書簡に、

 「此度さまざま御馳走、誠以痛入辱奉存候。爰元へ御参詣被成候にやと心待に存候處、いかゞ被成候哉、御沙汰も無御座、御残多。拙者も寛々遷宮奉拝、大悦に存候。
 此状御届被成可被下候。方々かけまはり申候はゞ、又々美濃筋へ出可申候間、其節万々可得二御意一候。
 此地、江戸才丸・京信徳・拙者門人共十人計参詣、おびただしき連衆出合ながら、さはがしき折節に而、会もしまり不申、神楽拝に一日寄合、さのみ笑ひて散り散りに成申候。以上
 九月十五日             はせを」

とある。この元禄二年は伊勢遷宮の年で、芭蕉、曾良、路通は大垣の木因に引率されて新しくなった伊勢神宮を参拝するさい、途中立ち寄った伊勢長島でこの興行が行われたと思われる。『奥の細道』のエンディング、

 「旅の物うさも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮お(を)がまんと、又舟にのりて、

  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

もこの時のことをいう。
 句の方は、前句の「破れ御簾」を荒れ果てた田舎の住まいとし、病気療養中なのかか細い声で、ぬき菜(間引き菜)を売る行商のおばちゃんを呼び入れる。

2018年9月23日日曜日

 今日は幸手の権現堂堤へ彼岸花を見に行った。去年行った巾着田に負けないくらい、たくさんの彼岸花が咲いていた。
 幸手は2011年に「奥の細道」を歩いた時以来で、あの頃は「らき☆すた」の街だったが、今はすっかり普通の街に戻っていた。熊野権現社が何か荒れ果てた感じで、絵馬堂がなくなっていた。熊野権現あっての権現堤なのに。
 権現堂堤には目立たないけど藤袴も咲いていた。藤袴というと、

 何と世を捨も果ずや藤ばかま  路通

の句がある。
 藤袴は昔は干して香料として用いられていたため、女性の匂いを連想させる。

 藤袴ねざめの床にかをりけり
     夢路ばかりと思ひつれども
           登蓮法師(『夫木和歌抄』)

のように、世を捨てようと思ってもまだ俗世の夢から醒め切れぬことを藤袴の香りに託している。
 明日は十五夜。天気は今ひとつのような予報だが。今日は雲間に月が見えた。
 『俳諧問答』は八月二十四日から一ヶ月近く読んできたが、この辺で一休みしようと思う。
 何か読んでて悲しくなってくる。芭蕉が去って三年後の元禄十年はまだ『続猿蓑』の勢いが継続していて、蕉門のいわば頂点の頃だったのかもしれないが、それは同時に衰退へ向う入口でもあった。
 一つのジャンルが成長してゆく時は、誰もが次ぎの作品を楽しみにしていて、今度はどうなるのだろう、何をやらかしてくれるのだろうとわくわくした気分で待っていたに違いない。
 ひとたび衰退が始まり、新しいものが出てこなくなると、人は別の新しいものを求め始める。
 戦後急速に進化してきたロックや漫画アニメや漫才も、既に大分パターンが出尽くした感があり、ひょっとしたらもう衰退期が始まっているのかもしれない。若者の関心はネットの方に移りつつある。ここから何か新しいジャンルがまた急速に進化するのだろうか。
 そういうわけでちょっと気分を変えて、また俳諧を読んでいこうと思う。
 やはり問題になっている路通の俳諧というのを読んでみたい。
 選んでみたのは元禄二年九月、『奥の細道』の旅を終えた後の伊勢長島での興行。路通が発句を務めている。

 一泊り見かはる萩の枕かな    路通

 萩の咲く野で野宿すると、昨日の夕暮れの萩と朝の萩の二つが楽しめる。特に朝は露がきらめいて幻想的な美しさとなる。
 脇。

   一泊り見かはる萩の枕かな
 むしの侘音を薄縁の下      蘭夕

 蘭夕はどういう人かはよくわからないが、ゲストが発句を詠みホストが脇を付ける慣習からすると、伊勢長島の人か。
 「侘音(わびね)」は侘寝に掛けている。前句の「一泊り」から「旅寝」、「萩」に「虫の音」と四つ手に付ける。
 「薄縁(うすべり)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「藺草(いぐさ)で織った筵(むしろ)に布の縁をつけた敷物。」

とある。旅寝の情景を付けている。
 第三。

   むしの侘音を薄縁の下
 帋子もむ夕阝ながらに月澄て   白之

 この作者もよくわからない。
 「帋子(かみこ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「紙衣(かみこ)は紙を糊で張り合わせ、その上に渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすい。これを柔らかくするには、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げるのである。」

とある。
 『奥の細道』の「草加」のところに「只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ」とあるように、旅に用いられた夜着だが、普通に防寒服としても用いられたという。
 「夕阝(ゆふべ)」は「夕べ」のこと。
 前句を旅の情景から出発前の旅の準備で紙子を作る段階とし、時刻も朝から夕方に転じる。

2018年9月21日金曜日

 今日は一日雨が降った。
 高速道路は至る所渋滞していて、疲れる一日だった。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「又我が旗下のものにのぞまれ、二ッを分て案ずる事もあらん。又吟友の会、遊興に乗じ、流行の句をして見せん、不易の句をして聞せんといふ事あり。此ハただ時に取ての放言なり。
 句の秀拙ト成不成ハ賢愚ト時日ニよるといへども、此をおもふ事なしといはんハ、却て誤ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 まあ、結局は不易の句と流行の句の作り分けはやっていたということか。

 「退ておもふに、阿兄の俳に遊び給ふ事久し。必旧染有らん。句案にいたりて、その穢或ハ出来らん。此を掃ヒ、此をのぞきて、新風をおもひ給はずといふ事有べからず。心におもふと、口にいふのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53~54)

 許六が芭蕉に入門したのは元禄五年だったが、それ以前にも俳に遊んでいた。ウィキペディアには、

 「延宝の始め(1670年代前半)に和歌や俳諧は初め北村季吟・田中常矩などに学んだとし、談林派の俳諧に属していた。元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

とある。俳歴は去来より長いのかもしれない。
 貞門や談林の時代を知っていたなら、去来が言うように、芭蕉と出会い「軽み」の風を学んだときから、古い俳諧のスタイルを一掃しようと頑張ったのかもしれない。

 「若阿兄此をおもハずとのたまハバ、阿兄ハ本ト旧染なき人か。有といへども、一度捨て、再びそのけがれの来らざる人か。かくのごとき人も又なしとせず。然レ共、此ハただ賢慮壹人の上にて、衆人と一口にいひがたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.54)

 不易と流行に惑うのは、確かに猿蓑調の旧幣だが、そういう許六さんにもそれがないといえるのか、とやや開き直ってきている。
 結局みんな新風を起こしたくても、芭蕉のような才能がない。誰かやらないか、誰かやらないかと思っていても、結局誰もやらない、そんなイライラが去来の其角への手紙になり、許六の去来への手紙になっていたのだろう。
 そして惟然がそれをやろうとすると、こんどは出る句を打つ。衰退期というのはそういうものか。
 どんなジャンルの芸術でも、ひとたび繁栄を極めると、その成功体験が足を引っ張り、結局保存の時代に入ってしまうのだろう。

2018年9月20日木曜日

 昨日の冒頭のところで、「性的嗜好」「趣味」という言葉はわざと使った。精神分析では患者と同じ言葉を使えというが、右翼を批判するなら右翼が使いそうな言葉を使って逆の主張をするというのは基本だと思う。
 元々言葉には意味はない。人が喋ればそこに意味ができる。というわけで、大事なのは言葉狩りではない。文脈を変えることだ。文脈を変えれば同じ言葉でも意味が変わる。
 芭蕉の「俗語を正す」というのもそういうこと。俗語は汚い言葉だから雅語を使いなさいというのは和歌連歌の発想。俗語も風流の文脈に置くことで綺麗な言葉にできる。それが俳諧だ。
 なお、同性愛に関して「趣味」という言葉は日常ではよく使われるもので、例えばふざけてホモの真似して迫ったりすると、たいていの人は「よせ、その趣味はない」って言うのではないかと思う。多分人権派の人でも一度は使ったことがあるのではないかと思う。

2018年9月19日水曜日

 新潮45は読んでないが、性的多様性の議論と性犯罪の議論を一緒くたにすべきではない。
 たとえば痴漢や強姦や公然猥褻や、あるいは性的動機による窃盗や暴力や殺害は異性愛だろうが同性愛だろうが関係ないし、LGBTQIAだろうがPZNだろうが悪いことは悪い。
 昔のヨーロッパでは同性愛自体を犯罪としていたというが、これも愚かなことで、性的嗜好自体には何の罪もない。それが暴力的な形で社会の安全を脅かした時に罪となる。
 性的嗜好の多様性がなぜ生じるかについては、結局今の科学ではまだ十分な説明は出来ない以上、それは陰陽不測であり、神であり天だ。
 性的嗜好の多様性が人間一人一人の個性として受け入れられるべきなのは言うまでもない。趣味は個人の自由だ。
 これに対し、性犯罪はあくまで社会の安全に関わるもので、いかなる性的嗜好を持とうが平等に適用されなくてはならない。
 この時一番問題になるのはP(ペド)だろう。まあ、Pには気の毒だが、社会の安全が優先されるのはやむをえない。合法的な手段で発散してくれることを願う。

 それでは『俳諧問答』の続き。
 「しかれども、湖東の正秀ハ、先師遷化の日、予に語て曰、此より後流行たのしみなし。行末は不易の句をたのしまんといへり。此等ハ皆故ありていふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 正秀も芭蕉の臨終に立ち会った一人だった。十月八日の住吉四所神社詣ででは、

 初雪にやがて手引ん佐太の宮   正秀

の句を詠み、十一日の夜には、

 おもひ寄夜伽もしたし冬ごもリ  正秀

の句を詠む。このとき丈草の「薬の下の寒さ哉」の句が生まれる。去来は、

 病中のあまりすするや冬ごもり  去来

の句を詠んでいる。「冬ごもり」は去来とかぶっている。
 そして翌十二日の申の刻、芭蕉は亡くなった。
 その夜には亡骸を長櫃に入れて、船に乗せ運び去る。その時の会話だろうか。「此より後流行たのしみなし。行末は不易の句をたのしまんといへり」というのは。
 『去来抄』「修行教」にも同様の記述がある。

 「先師遷化の時、正秀曰、是より定て変風あらん。その風好みなし。只ただ不易の句をたのしまん。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,65)

 おそらくこの時正秀が言った「不易」というのは猿蓑調のことであろう。蕉風の完成形としてこれを続けていくだけで、芭蕉亡き後、誰かが新風を起したとしても、これを越えられないだろうと確信していたのだろう。
 同じ『去来抄』「修行教」に、

 「先師遷化のとし、深川を出給ふ時、野坡問曰、俳諧やはり今の如く作し侍らんや。
 先師曰、しばらく今の風なるべし。五七年も過侍らば、又一変あらんと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,79)

とある。
 確かに八年後だが惟然が『二葉集』の新風を起す。ただ、湖南の門人と播磨の人たちが応じただけで、それほど大きなムーブメントにはならなかった。去来もこのときはそっぽ向いてた。『去来抄』「同門評」に、

 「梅の花あかいハあかいハあかいハな   惟然
 去来曰、惟然坊が今の風大かた是類也。是等ハ句とハ見えず。先師遷化の年の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、其秀でたる口質の処よりすすめて、磯際にざぶりざぶりと浪うちて、或あるいは杉の木にすうすうと風の吹わたりなどといふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先を以て無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風体かろからんなど、の給ひける事を聞まどひ、我が得手にひきかけ、自らの集の歌仙に侍る、妻呼雉子、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,46~47)

 芭蕉は元禄七年江戸での、

 むめがかにのつと日の出る山路かな  芭蕉

をはじめとして、擬音を入れるのを新風として広めようとしていたようだ。
 その夏、京に上ったとき去来にも惟然にもそうした指導をしていたのだろう。
 芭蕉、去来、浪化の三人で巻いた「鶯に」の巻の後半でも、

   参宮といへば盗もゆるしけり
 にっと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

という句を付けている。ただ、その次の句で去来が、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 すっぺりと花見の客をしまいけり

とやって、危うく三十棒だったことも『去来抄』「先師評」に記されている。最終的には、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 蒼みたる松より花の咲こぼれ   去来

で落ち着いた。擬音の面白さも時と場合を考えろ、ということだった。
 「俳諧ハ季先を以て無分別に作すべし」もこの頃しきりに芭蕉が教えていたことだったのだろう。去来はこれをずっと律儀に守っている。季題を本意本情に繋いでおいて、あとは新味あるネタで展開するというのが、去来の基本パターンだった。
 結局新風は広がらず、俳諧は保存の時代に入って行き、明治入ると近代俳句が登場した時には旧派と呼ばれるようになっていった。そして、明治を最後に旧派も幕を閉じていった。
 その近代俳句も、最近ではすっかり保存の時代に入っている。近代俳句も様々な実験を繰り返して発展してきたが、その幕もあといくばくか。

2018年9月18日火曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「平生の句案ハ、只旧染と、新風と、秀句あらん事をおもふ。不易と流行を用捨するにいとまあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52)

 まあ、実際の所不易の句と流行の句を詠み分けるほど器用ではないというところだろう。
 古歌・漢詩などの古典を念頭に置きながら句を作っても、結局ちょっと変えただけになって、本説による付け句ならそれでもいいが、発句にはふさわしくない。
 大体は句がほぼ定まる頃に、かつて談林時代に證歌を取ったように、そういえば古典にこういうフレーズがあったと気付いて、後付に不易の情を持たせることはできるだろう。
 芭蕉の「閑さや」の句も、最後の段階ではそうだったのではないかと思う。芭蕉だから隠しておくけど、其角なら「蝉噪林逾静」なんて前書きをわざわざ付けて、屋上屋を重ねたかもしれない。
 去来の場合も、「応々と」の句に「いかにひさしきものとかはしる」、「時雨るるや」の句に「紅葉吹きおろす山おろしの風」を引き合いに出したのは、談林時代の證歌を取るという発想に近かったのかもしれない。言葉は引き継いだが情を引き継いでいない。

 「又不易・流行を分て案ずる事、故ありていふなるべしトいふハ、或(あるひは)奉納・賀・追悼・賢人・義士の類の賛のときハ、必不易を以て句案ずるを要とす。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52~53)

 去来さんはアドリブが利かない人だったようで、元禄三年の秋、正秀亭での失敗のことが『去来抄』「先師評」に記されている。
 芭蕉と去来が正秀亭を訪れるのだが、芭蕉は自分は何度も来ているが、去来君、君は初めてなので発句をと言われたが、頭が真っ白になって何も出てこない。

 「珍客なれバほ句ハ我なるべしと、兼而覚悟すべき事也。其上ほ句と乞ハバ、秀拙を撰ばず早ク出すべき事也。一夜のほど幾ばくかある。汝がほ句に時をうつさバ、今宵の会むなしからん。無風雅の至也。余り無興に侍る故、我ほ句をいたせり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,27)

と叱られて、結局芭蕉が発句を詠むことになる。残念ながらこのときの発句は記されてない。
 正秀の脇は、「二ツにわれし雲の秋風」で、これに去来は、

   二ツにわれし雲の秋風
 竹格子陰もまばらに月澄て   去来

と第三を付ける。ここで芭蕉が、

 「二ツにわるると、はげしき空の気色成を、かくのびやか成第三付ル事、前句の心をしらず、未練の事なり」

とふたたび三十棒。これが去来の「膳所の恥」だ。
 アドリブの苦手な去来さんだから、奉納・賀・追悼・賢人・義士の類の賛といった予期せぬ場面で急に発句を求められた時、古句の雛形を頼ったのだろうか。
 ただ、この種の句は実例に乏しくて、実際の所はよくわからない。
 『続猿蓑』に、

   洛東の真如堂にして、善光寺如来開帳の時
 涼しくも野山にみつる念仏哉   去来

という句があるが、『去来抄』「先師評」には、初案の上五は「ひいやりと」だったという。それを、

 「先師曰く、かゝる句は全体おとなしく仕立るもの也。又五文字しかるべからずとて、風薫ルと改め給ふ。後猿蓑の撰の時、ふたたび今の冠に直して入句ましましけり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)

と先師に直されて、「涼しくも」に落ち着いたという。
 普通の作り方なら「野山にみつる念仏哉」が先にできて季語を後付けで放り込むところで、芭蕉もそう考えて「風薫る」としたのだろう。
 だが、去来はおそらく「ひいやりと」から作り始めたのではなかったか。だから「ひいやりと」にこだわって「涼しくも」にしたのではないか。
 ただ、「ひいやりと」の言葉に不易を意識した様子はない。

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

は弟の魯町との離別の句だが、「朧月」までは泪で月が霞むみたいな、やや月並な風を念頭に置いたのかも知れないが、「手をはなつ中におちけり」は一瞬何かと思わせて、「ああ、月が落ちるまで手が離せなかったのか」と後からわかるような考え落ちになってしまっている。
 『去来抄』「先師評」では、芭蕉は、

 「此句悪きといふにはあらず。巧者にてただ謂ひまぎらされたる也。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,21)

と評している。悲しみの情がストレートに伝わらず、ただ何か上手いことを言ったという印象の方が立ってしまう。

 「又着題・風吟、或ハ他門の人に対して、当流をほのめかし、或ハ新風にをしうつらんとけいこのごとき、皆流行の句を以て専に案ず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.53)

 まあ着題は大喜利のようなものだから、新味を競うのはわかる。
 他門に当流をほのめかしというのは、季吟門の浪化を引き抜く際に、

 鶯に朝日さす也竹閣子      浪化

を発句とする両吟で、

   ひろい處を丸口にかる
 旅人に銭をかはるる田舎道    去来

といった経済ネタや、

   小屋敷並ぶ城の裏町
 謂分のちょっちょっと起る衆道事 去来

といった衆道ネタをやってみせたことがそれなのか。

2018年9月17日月曜日

 フィリピンも香港も台風で大変だし、アメリカ東部もハリケーンが来ている。そういえば去年もテキサスの水害があったか。
 天災はまだしょうがないが、今朝の新聞にウイグル自治区の強制収容所のことが載っていた。マスコミはあまり報じないが、随分前から問題になっていたことのようだ。ナチスの悪夢が蘇ってなければいいが。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、只一句の姿に俳諧あらバ、捨つるものハ有まじ。
 十三、去来曰、此論阿兄おもハざるの甚き也。
 宗鑑・貞徳よりこのかた数人の名客、其風いづれか俳諧の姿なしとせん。
 然ども宗因用ひられて貞徳すたり、先師の次韻起て信徳が七百いんおとろふ。
 先師の変風におけるも、ミなし栗生じて次韻かれ、冬の日出てミなし栗落、冬の日ハさるミのにおほはれ、さるミのは炭俵に破られたり。
 その用捨時に有。此を以て先師、一時流行の名をはじめ、用捨時にかかハらざる句有を取て、千歳不易の号を起せり。
 しかれども、共ニ俳諧の姿にもれず。なんぞ此を捨る人なしとせん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.50~51)

 一句の姿はあっても捨てるべき句があると去来は考える。
 それは宗鑑・貞徳以来、貞室、季吟など、いずれの句も俳諧の姿を具えていた。
 宗因によって談林の流行が巻き起こり、そのあと延宝九年に信徳、春澄らが『七百五十韻』を刊行し、それに芭蕉、其角、才丸、揚水の四人が千句になるようにと二百五十韻を追加したものを『俳諧次韻』として刊行し、それが談林を離れた蕉風の出発点になった。
 そのあと、『虚栗』『冬の日』『猿蓑』『炭俵』と蕉風も変化してきた。
 この蕉風の発展過程で、捨てられて句があったが、捨てられたとしても俳諧の姿がないわけではなかった。それゆえに姿はあっても捨てるべき句があると結論する。
 ここでようやく不易流行説が登場する。つまり、捨てるべきものは一時流行であり、残ったものは千歳不易だとする。
 どんなジャンルの芸術でも、それが進化発展してゆく過程では、たくさんの作品が生み出される中から、良いものは積極的に真似し、つまらないものは忘却されてい行く。だからここで捨て去られるものがあったとしても、それは俳諧の姿はあっても結局そんなに面白い句ではなかったということになる。
 ならば、面白い句であれば、捨て去られることなく残る。許六が言いたかったのはそのことであろう。
 ただ、その捨てる捨てないを誰が判断するかが問題で、選者の独断で決めたのでは俳諧の姿があって十分面白い句が誤って捨てられてしまうことがあるし、本来捨てられるべきつまらない句が拾われてしまうこともある。選者の独断でなく、広く大衆の判断にゆだねることが重要になる。
 だが、頭でっかちの去来さんが果たしてそう考えたかどうか、そこが問題だ。

 「来書曰、不易・流行の二ツにくらまさるると云ハ、予きく、会て趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、不易の句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさた也。
 十四、去来曰、此事さだめて、湖南の人々故有ていふなるべし。
 今愚をかへり見て此をおもふに、その当時の風をねがふ事ハ、平生心にあれバ、趣向・句作と前後を論ずべからず。
 句にのぞむに至てハ、感偶するものハ、趣向おのづから、苦案するものハ、先趣向を案ず。趣向漸(やうやく)いたりて、句づくりをおもふ。
 句ならんとする時、或新古の風出来る。その古風なる物ハ、幾度も掃ひすてて、ただ新風にかなハんとす。新風漸いたりて、句さだまる。しかれば流行をおもふ事ハ、趣向の後、句の前といはんか。是平生の案姿也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.51~52)

 去来が自分自身の句を作る時を振り返るなら、最初に不易の句をしようとか、流行の句をしようとか考えているわけではない。
 先ず最初にあるのは趣向で、テーマが定まってから具体的な句作りに入る。
 具体的に句を作ってゆく過程で、新しそうなものができたり古臭いものができたりする。古臭いものはこの時点で捨てて、新しそうなものだけを残す。これが新風だと確信できたときに句が定まる。流行は趣向の後、句が出来上がる前ということになる。
 前に、去来の句の作り方について触れたが、

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

の場合、「冬ごもり」が趣向になり、この場合芭蕉の病床の前での吟だから病中の冬ごもりであり、そこでいろいろな景を案じた末、「あまりをすする」というのが新しいと判断し、句が完成する。この場合「病中の冬ごもり」の趣向の後に流行を意識し、句を仕上げることになる。
 元禄九年刊の『韻塞』の、

 行かかり客に成けりゑびす講  去来
 行年に畳の跡や尻の形     同
 芳野山又ちる方に花めぐり   同
 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付ける過程で流行が意識されていると思われる。

 応々といへどたたくや雪のかど   去来
 時雨るるや紅粉の小袖を吹かへし  去来

の場合も同様、「雪のかど」という趣向から何か新しいものをということで「応々といへどたたくや」が導かれ、「時雨」の趣向から「紅粉の小袖を吹かへし」が新味として導き出されたと思われる。
 この作り方は大喜利に近いかもしれない。与えられた題で以下に面白く作るかが勝負になる。
 おそらく多くの人は逆なのではないかと思う。何か面白いネタを思いついて、それを句に仕上げる段階で、時にはかなり無理矢理季語を放り込んだりしていたのではないかと思う。つまり流行が先にあって、後付けで趣向を練ることがしばしばあったのではないかと思う。
 芭蕉はその両方ができたと思う。いずれにしても仕上げてゆく段階でさび・しほりを隠しこむ技術があったのが凡庸な作者との違いだったと思う。
 たとえば、

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句の場合、推敲課程が辿れるのでそれがよくわかる。
 初案は曾良の『俳諧書留』にある、

 山寺や石にしみつく蝉の聲    芭蕉

で、これだと山寺で聞いた蝉の声というテーマが先ずあって、「石にしみつく」という表現で新味というか面白みを出そうとしたと思われる。この場合の「しみつく」はまだ静寂を意識したものではなく、岩全体が墓石でもある山寺の石には、長年にわたる夥しい数の人々の蝉の声のような儚い命がしみついている、というものだった。
 ここまでだと去来の句の作り方に近い。人の命に思いをはせているあたりに既に細みの句ではあるが、それが明確に句の表に出ていない。

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声   芭蕉
 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ 同

といった中間の形になったとき、「さびしさ」の「岩にしみ込む」という、人の命の儚さを暗示させる「しほり」を具えることになる。
 そして、

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

の句に至った時、王籍の『入若耶渓』の、「蝉は騒がしく鳴いて林はいよいよ静けさを増し」の句を踏まえて、古典の情に結び付けられる。
 古典の不易の情を借りながらも、長年にわたる儚い蝉の声が岩に染みている、という原案の新味の情が裏に隠されることになる。
 この二重の意味が込められることで、「閑さや」は単なる静寂ではなく、同時に死の静寂をも意味し、この句の「さび」となる。
 表面的には静寂の句だが、裏に人の命の儚さを暗示させる。これが芭蕉の最高のテクニックだった。さすがに門人にここまでできる者はいなかった。

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

の場合は「蛙飛び込む水の音」の下五が成立した時点で、新味はあるが何を言おうとしているかよくわからない、ただ心に浮かんだ一つのネタにすぎなかった。
 これが、

 山吹や蛙飛び込む水の音    芭蕉

となった時には、井手の玉川の蛙の不易に結び付けられる。ネタから入って、趣向を後付けする作り方になっている。
 この上五を「古池や」に変えたとき、最初の蛙の水音のネタがより身近なあるあるネタとして生きてくると同時に、「古池」が時を経て荒れ果てた情景となり、句の「さび」となる。そこには自ずと在原業平の「月やあらぬ」の情が喚起され、不易の情を具えることになる。

 「又不易ハ一度心に得て、変ずる事なし。故に流行のごと、切におもひ、切にすてず。平生に離れざるもの也。流行の句を案ずるうち、或ハ不易の姿うかみ来れバ、則取て以て句とす。此を旧染の風のごとく、去嫌ふ物にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.52)

 不易は古典や芭蕉の成功した句から学んだら、それはもう変わることがないのだから、趣向の段階から常に意識しているもので、それを流行の句に仕上げようとしているうちに、新味に乏しくても不易だと思うなら、それは句として仕上げる。これは単なる時代遅れの句ではない。
 『去来抄』「先師評」に、

 「猪のねに行かたや明の月   去来
 此句を窺ふ時、先師暫(しばらく)吟じて兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤るハ、先師といへども帰り待よご引(ひき)ころの気色しり給はずやと、しかじかのよしを申す。先師曰、そのおもしろき処ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿の跡吹おくる荻の上風とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

とある。これよりは多少の新味がなければ、「則取て以て句とす」というわけにはいかなかったようだ。
 これに対し、

 岩鼻やここにもひとり月の客  去来

の句は芭蕉も褒めていて、岩頭の騒客には新味を認めていた。

2018年9月16日日曜日

 今日は旧暦の八月七日で、十五夜まであと一週間となった。
 おもえば、近代で唯一旧暦の行事が残ったとすれば、この十五夜であろう。新暦八月十五日でも、月遅れの九月十五日でも満月にはならない。こればっかしは旧暦八月十五日でなくてはならない。
 今日の天文学では旧暦の八月十六日が満月になるが、それでは十六夜であって十五夜にはならない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、然ども、老の来るにしたがひ、さび・しほりたる句、おのづから求ずして出べし。
 十一、去来曰、阿兄の言感涙すべし。然ども求ずして至ルものハ生得の人也。阿兄の心ロ風騒ありて、しかも道をはげむ事切也。猶さる事あらん。
 其次ハおもはざればいたらず。其次ハおもへどもいたらず。
 蕉門の諸生千万人、老を以て論ずる時ハ、先師にこえたるものも多し。いまださび・しほりを得たるもの壹人をきかず。おほくは此おもハざる人也。
 阿兄、世を以て考へ給へ。生得の人此を願バ、猶名人にいたるべし。聖ハ願バ天にいたるべしと、古人の格言ならずや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.49~50)

 「感涙すべし」までは社交儀礼の続きで、「然ども」からが本題になる。
 去来はさび・いほりに関して、『去来抄』「修行教」で、

 「惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応しがたし。只先師の評有句を上げて語り侍るのみ。他はおしてしらるべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

と述べているように、結局は自分では判断できるものではなく、先師がそういうならそうだと言う。
 去来は自分では結局理解できなかったさび・しほりを、凡人には理解できない高度なものとして、かなり高いハードルを設定している。
 そのため、「さび・しほりたる句、おのづから求ずして出べし」というのは生得のひとであり、生得の人に次ぐ人なら求めれば得られるが求めなくては得られないとし、凡人は求めても得られないとする。
 蕉門の門人たくさんいる中で、老境の句は先師を越える者もあるが、さび・しほりに関しては「得たるもの壹人をきかず」という。
 その前に先師に関しては「さび・しほり有ラざる句ハまれ也」と言っているから、生得の人は芭蕉一人で別格だということになる。
 つまりさび・しほりは老境になれば自然に具わるような簡単なものではない。もし許六がそうだというなら、そりゃ感涙物だ、という皮肉になる。
 これは洋の東西を問わず、偉大なる先人の言葉を議論する時、「あんたは天才の言葉を何かわかったように議論しているが、所詮我々凡人に天才の言葉など分かるわけ無いし、分かったと思うのは思い上がりで、天才の言葉は議論すべきものではなくただ従うべきものだ」という種のもので、有りがちなパターンだ。
 要するに、自分がわからないのをごまかすのに、わかるわけないんだからお前だけわかったようなこと言うなと言って、自分と同次元に引きずりおろすやり方だ。こうして先人の有り難い言葉も、敬遠すべき言葉に変えて、結局は先人の教えを骨抜きにしてしまうのである。

 「来書曰、詞をかざり、さび・しほりを作たらんハ、真の俳諧にハ有まじ。
 十二、去来曰、阿兄の言的中せり。詞をかざりて此を得バ、誰か此をかたしとせん。強て詞を以て此をなさば、路通がほ句のごとくならん。詞をかざり作ると、心を用ひ願と、又同日の論にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.50)

 さび・しほりが単なる技法上の問題なら、さび・しほりは誰でもできる。さび・しほりが説明できないのは、それが技術ではなく精神だからだとなれば、完全に精神論だ。
 去来はここで路通の発句を槍玉に挙げるが、路通の句は先師も評価しているから、『去来抄』「修行教」と矛盾する。

 鳥共も寝入てゐるか余呉の海  路通

の句は「ほそみ」だから「さびしほり」ではないという言い逃れはできるかもしれないが。

2018年9月15日土曜日

 昨日の恋のところで上手く説明ができなかったのでちょっと補足。
 人が恋をするのは子孫を残すためではない。この「ため」という考え方はラマルキズムであってダーウィニズムではない。
 恋はおそらく偶発的に生じた行動にすぎず、それが結果的に恋をした者の方がしない者よりも多くの子孫を残したとしても、あくまで結果であって、それが目的だったわけではない。これがダーウィニズムの考え方だ。
 だから、LGBTやQIAやPZNのように様々な恋が存在したとしても、それは何ら自然の摂理に反するものではない。自然はただランダムに多様な恋のあり方を生み出すだけで、結果的にはその中の子孫を残した遺伝子が残るのだが、異性愛でも子孫を残さなかった人、残せなかった人はいるし、そうでなくても子孫を残すこともある。
 多様性は自然の摂理であり、淘汰(子孫を残さなかったこと)も自然の摂理だ。そこに何一つ目的はない。
 野に咲く花が何の目的もなく美しいように、自然には本来目的はない。ある種の花の形が生殖の効率を高めたとしても、それはランダムに起きた突然変異の結果であり、何らかの目的があってその形になったのではない。つまり花は生殖のためにあるのではない。ただ、たまたま生殖に有利に働いたからそうなっただけで、何一つ目的があったわけではない。
 人間の恋もまた、子孫を残すためにあるのではない。
 恋する者はただ己の衝動に従い、最善を尽くすのみ。
 そうこうしているうちに、意図せざる子孫ができてしまうのもまた世の常だ。

2018年9月14日金曜日

 さび、しほり、ほそみの根底には結局「死」の暗示があるのだと思う。
 さびは時間の経過によって変化した事物によって、この世は無常で。命あるものは必ず死に形あるものは必ず崩れることを思い起こさせる。そして最終的には自分自身の人生にも終わりがあることに行き着く。
 しほりは花の萎れる哀れさや悲しみの情を、それに似た情を想起させる具体的なもので提示するが、こうした喪失の悲しみはやはり死の悲しみに結びつく。
 他人の死を痛むのは、それを自分の死であるかのように共感できるからであり、他者の喪失を鏡として自分の死を想起する。
 ほそみは共感から来る細やかな気遣いで、共感の根底には同じように生きていて、やがて死んでいく、自分と同じものであるという共鳴がある。
 ハイデッガーの現存在分析に習うなら、さび・しほりは「死への存在」であり、ほそみは「die Sorge」に近い。
 自分自身の死は他の誰の死にも代えることができないという点では、完全なる「個」に行き着く。
 そして、死が誰にも避けられないものであるという点で、すべての「個」を平等にする。
 そして自らの死を受け入れることで、恐怖によって支配されない自由を垣間見る。
 そして死すべき者同士の共感に広く普遍的な博愛が生まれる。
 死を思うことは自由で平等な個と個の結びつきをもたらし、そこに近代的な人権思想の根底を見ることもできる。
 ただ、我々の文化はそれを理性として立法の支配下に置くのではなく、朱子学的な性理として、心の誠として表現してきた。それはメンタルなものを多く含み、人権ではなく人情の文化を創ってきた。
 人は様々な集団に帰属してはいても、それは生きてゆくための生存の取引であって(社会契約はそれを理性と法で明確化したものと考えていい)、人間のいわゆる広松渉の関係主義でいうような役割存在は本当の自分ではなく、あくまで生きるための仮の姿にすぎない。
 自分を抑え、自分を殺し、世間に合わせて自分の役回りを背負うのが、現実の人間の姿だ。だが、それによって捨ててきた自分は完全に消えたのではない。そこには静かに風が吹いている。
 生存の取引は別に一回限りでもなければ一生もんでもない。生きてゆくためにそのつど繰り返してゆくものだ。
 人は転職したり改宗したり国籍離脱したりするし、家族といえども縁を切ることもある。集団への帰属は絶えず更改される。それができるから、世界は日々刻々と変化する。
 その変化して止まぬ世界の中で不易なものがあるとすれば、それは死への存在とそこから派生する諸々の感情だ。
 もちろん、すべての人間がその帰属する集団に拘束されない自由な存在だとしても、個の多様性は遺伝子の多様性で、生存競争から開放されているわけではない。
 ただ、生物学的な意味での生存競争は子孫を残すための戦いであり、社会的ないかなる成功とも関係なく、子孫を残したものが勝者となる。つまりそれは恋の勝負に他ならない。故に恋も不易の情となる。
 すべての人間が個に立ち返ったとき、生存競争は集団間の戦争ではなく、恋の争いになる。
 この子孫を残すための争いは、必ずしも現実に子孫を作れるかどうかとは関係なく、そんな事情などかまわず遺伝子は恋を命ずるから、同性愛でも恋は同じだ。
 子孫を残す戦いには前提としてその間生き続けなくてはならないから、そのため人は取引をして集団に帰属するが、しばしば手段と目的は一緒くたになる。それゆえ生活のための戦いが生存競争と同一視されることが多い。
 逆に純粋な個と個の恋は、生活からも集団への帰属からも自由になるため、却って生存を困難にする場合がある。心中物が感動を誘うのはそこに理由がある。
 芭蕉の俳諧は死への存在の暗示を隠し味として鳴り響かせながらも、あくまで乾いた笑いが中心にあった。むしろ大坂談林のほうが、それがもたらす自由(かまわぬ)や純粋な恋へと展開する湿った笑いの風土をもたらし、浄瑠璃の心中物もそこから発達したのではないかと思われる。
 ともあれ、人生は結局生まれてから死ぬまでの限られた時間であり、生まれる前と死んだ後の世界はただいかなる想像をも絶する。何も思い描けない世界は虚無と言っていい。
 人生は強大な虚無の海に浮かぶ小島にすぎない。
 せめてそれが絶海の孤島ではなく、他者と共有することができたなら、それが風雅の誠だと言ってもいいだろう。
 死を暗示する夜のしじまの中で、湖の方でかすかに眠っている鳥の命の気配を感じることができたなら。

 鳥共も寝入てゐるか余呉の海  路通

 路通の風流は本物だ。

2018年9月12日水曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、一句ふつつかなりとミゆれども、さび・しほり自備て、あはれなる句もあり。
 九、去来曰、雅兄の言たがはず。凡俳諧ハ、ふつつかなる句もいとふべからず。ただ拙き句・古き句をいとへり。
 師の句をうかがふに、厳なるものあり、やさしき物あり、狂賢なる物有、実体なるもの有、深遠なる有、平為なる者、健なる有、あハれなるもの有、ふつつかなる物有、うるハしき物あり。猶千姿万体ありといへども、さび・しほり有ラざる句ハまれ也。
 阿兄、先師の句を以てかんがミたまへ。此趣向・詞・器のさびしきと憐によらざる証なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.48)

 「ふつつか」というのは本来「太束」から来た言葉で、太くて丈夫という意味があった。その意味では「細み」の反対なのかもしれない。
 今日では「ふつつか」は細かな配慮を欠いた、気が利かないというような意味だが、「ふつつかなる句」はむしろ朴訥な句という意味ではないかと思う。それだったら芭蕉の句にもあるかもしれない。ただ、芭蕉は高度な技術が意識せずとも自然に出てしまうため、本当に朴訥な句というのはないかもしれない。
 まあ、子供が詠んだような素朴な句は別に排除すべきものではない。下手な句や古い句はあるが、とは言っても、後に惟然が、

 梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

といった句を詠むようになると、去来は『去来抄』「同門評」に、

 「去来曰、惟然坊が今の風大かた是類也。是等ハ句とハ見えず。」(岩

波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,46~47)

と書くことになる。
 この句は一見無造作なようで、梅の花に見る春の訪れの喜びを見事に表現していて、本意本情を踏み外すものではない。もっとも「基」からははずれるが。梅の花の喜びの裏に厳しい冬の寒さが隠されているとすれば、さび・しほりもないとは言えない。
 芭蕉の句に「狂賢なる物有」の「狂賢」は、『去来抄』「同門評」の、「玉祭うまれぬ先の父こひし 甘泉」の句のところにある「凡ほ句を吟ずるに、意(こころ)は無常狂狷(きゃうけん)境にも遊ぶべし。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,40)の「狂狷」のことか。
 これは『論語』「子路」の、「子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。」から来た言葉だという。ただ、これは狂と狷を対比した言葉で、いずれにせよ中庸ではない、極端な人のことをいう。無常狂狷は世間の道を逸脱した風狂の僧ということか。
 「実体」はこの場合「じってい」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 [名・形動]まじめで正直なこと。また、そのさま。実直。
「見たところ―な感心な青年(わかもの)であった」〈独歩・正直者〉

とある。
 「猶千姿万体ありといへども、さび・しほり有ラざる句ハまれ也。」というのは、少なからず時間の経過による衰え、風化、死といったものを暗示させる言葉が多いことによるものであろう。
 芭蕉の句はどこか「死(タナトス)」が隠し味になっている。これは蕪村の「性(エロス)」と対比される。

 「来書曰、又予が年漸(やうやう)四十二、血気いまだおとろへず。尤句のふり、花やかに見ゆらん。
 十、去来曰、阿兄の言愛すべし。然ども、阿兄漸く老の名を得たまへり。その句にさび・しほり有らんに、人応ぜずといふべからず。雅兄の作、已に蕉門に秀たり。句、さび・しほりをおもハんに、人すぎたりとせじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.48)

 この部分は、許六の謙遜に対し、そんなことはありませんという社交辞令の部分。

2018年9月11日火曜日

 少し前から『乞食路通』(正津勉、二〇一六、作品社)を読んでいる。まだ途中までだ。
 基本的には謎の多く確かな資料に乏しい人物だけに、大胆な仮説で脚色して盛り上げようという本のようだ。それがこの本の「路通捨て子説」なわけだが、まあ、話としてどうつじつまを合わせてゆくか、という所だろう。どうせなら「路通サンカ説」くらい突拍子もない設定の方が面白かったかな。芭蕉忍者説のように小説家なんかにできそうだ。
 私自身の印象では、路通は意外に身分の高い出で、それを恥じて隠しているのではないかと思った。八十村(やそむら)は俗姓だが、「斎部(いんべ)」の方は本来の意味での「姓」で、この姓を持つなら由緒ある家柄だ。和歌や漢文の素養も頷ける。
 乞食の形(なり)をしながらも気位が高いのが、嫌われる原因だったのかもしれない。本当の出自を誰も知らないから「何様だ」と思ったのだろう。芭蕉と曾良はそのあたりの本質を見抜いたのではなかったかと思う。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「言語・筆頭を以て、わかちがたからん。強て此をいはば、さびハ句のいろに有。しほりは句の余勢に有。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 さびは時の経過、肉体の老化などの色に出すことで、しほりは花の萎れるような失われる悲しみを余勢とする事象をいう。

 「しかれども、趣向も詞・器も又撰ずんバ有べからず。詞・器よしといふとも、趣向拙からバ、無塩の面に西施が鼻を添たるがごとならん。趣向よしといふとも、詞・器よろしからずんバ、又梅花上に糞をぬりたるに同じからん。豈此をかほよし、かうばしといはんに、人信ぜんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47~48)

 このあたりは晩年の芭蕉の「軽み」に対し、一定の歯止めをかけようという去来の思惑で、必ずしも芭蕉の意思ではなかっただろう。
 『去来抄』には「句の位(くらゐ)」について述べた文が「さび」と「しほり」の間にあるが、その原型といえる議論かもしれない。

 「野明曰、句の位(くらゐ)とはいかなる物にや。去来曰、一句をあぐ。
  卯の花のたえ間たたかん闇の門ド    去来
先師曰、句位(くゐ)よのつねならずと也。去来曰、此句只位尋常ならざるのみ也。高意の句とはいひがたし。必竟格の高き所有。扨(さて)、句中に理屈を言ひ或はあたり合たる発句は、大おほかた位くだれる物也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78)

 釈迦の生誕に結び付けられることの多い卯の花を中を行き、真っ暗な中で友の家の戸を叩くというのは、いかにも高士同士の交わりを連想させる。それゆえ芭蕉は「句位(くゐ)よのつねならず」と賞したのであろう。
 これを根拠に、句を詠むには高士の心が大事で、卑俗な題材に走るのを戒めようとする。
 言葉や使われている物がどれほど綺麗でも、下卑た心で詠んだのなら、確かに「無塩の面に西施が鼻を添たるがごと」であろう。「無塩」は、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「4 《中国、戦国時代斉の宣王の夫人鍾離春が、山東省無塩の出身でたいへん醜かったところから》醜い女。無塩君。
「押し売りに―の后斉(せい)へ来る」〈柳多留・二〉」

とある。
 ただ、それはあくまで心の醜さが問題なのであって、容貌の醜さとは関係ない。
 逆に趣向がよくても、言葉や登場する物が醜いなら、というが、心に風雅の誠があるなら、卑俗な言葉や卑俗な事象を嫌わないのが芭蕉の目指した俳諧ではなかったかと思う。
 梅の花に糞を塗ってはいないが、

 鶯や餅に糞する縁の先     芭蕉

は俳諧ではないか。
 時代は下るが、

 杜若べたりと鳶のたれてける  蕪村

の句もある。
 おそらく去来は「十団子」の句を芭蕉が「しほり」があると言ったことに、どうにも納得ができなかったのではないか。
 後の『去来抄』では「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。」と、まあ先師が言うのだからそうなのだろう、という所で収めている。

2018年9月10日月曜日

 西洋の言語だと「男」という言葉で同時に「人間」をあらわしたりするが、日本語の「おとこ」にそういう用法はない。日本人にとって「人間」というのは男でもなく女でもなくその中間にある。過度な男らしさは荒くれで抑制されなければならない。
 日本の男性アイドルを見ればいい。西洋や韓国と違い、見た目華奢で背も低く「可愛い」を売りにしている。
 男=人間ではないという考え方はLGBTの権利を考える時でも有効だと思う。「人間」はそのすべての中間にある。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、近年湖南京師の門弟、不易・流行の二ッに迷ひ、さび・しほりにくらまされて、真の俳諧ヲ取うしなひたるといはんか。
 七、去来曰、此語、阿兄の奥旨左ニ有。其処に於て是ヲ弁。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 これについては、次のところでまとめて論じる、と。

 「来書曰、予たまたま同門に対して句を論ずるに、詞の続き、さびを付ざれバ、よしといはず。一句のふり、しほりめかねば、会て句とせず。是船を刻ミ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)する類ならんか。
 八、去来曰、此論阿兄の言のごとくんバ、其対したまふ人の過論なり。凡さび・しほりハ風雅の大切にして、わするべからざるもの也。然ども、随分の作者も句々さび・しほりを得がたからん。ただ先師のミ此あり。
 今日の我等の作者、なんぞさび・しほりのなき句をいとひすてんや。此をつねにねがふといはんハ、むべなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 去来が言うには、それはたまたま論じたその人に行き過ぎがあっただけで、さびしほりは大事だけど先師でない我々にはそれを判定することが難しいから、さびしほりがなくてもいいことにしている、ということ。
 先送りしておいて、うまいこと不易流行の方はスルーし、さびしほりにだけ答えている。
 さびしほりについても、結局よくわからないから、あれは先師にしかできない技で、我々にはあくまで目標にすぎないというわけだ。

 「又有ハなきにましたりといはんハよし。此をいとひすてんハ、過たるならん。かくのごとく論ぜば、我等ただ口をつぐまんにハしかじ。又壮年の人の句ハ、さび・しほり見えざるも、却て又よしといはんか。又初心の作者ハ、さび・しほりを容易にとくべからず。却て其吟口閉て、新味にうつりがたし。此先師の教なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 『去来抄』「修行教」には一応、「さび」について説明している箇所が有る。

 「野明曰、句のさびはいかなるものにや。去来曰、さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし。賑かなる句にも、静なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。
  花守や白き頭をつき合せ    去来
先師曰、寂色よく顕はれ、悦べると也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77~78)

 さびは色だという。実際に「さびいろ」という色は存在する。漢字だと錆色で、その名のとおり赤錆の色、酸化鉄の色だ。「日本の伝統色 和色大辞典」というサイトによれば#6c3524になる。
 鉄が古くなるとさびてゆくように、人も古くなるとあちこちに老化の色が現れる。
 「たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし」という例も、「花守や白き頭をつき合せ」の例も老いた様子をさび色としている。
 「さび」は「神さぶ」から来たという説がある。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」にも「神(かみ)さぶ」は、

 ①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。
 ②古めかしくなる。古びる。
 ③年を取る。

とある。
 大体雰囲気としては「さび」は、長い時の経過によって変わってしまった姿で、何となく無常感を感じさせるようなものとみていいのだろう。ただ、それは心ではなく、あくまでも具体的な「もの」として現れることが大事なようだ。花守の句では「白き頭」がそれになる。
 芭蕉の代表作で言えば、

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

では「古池」がそれか。あとは、

 夏草や兵どもが夢の跡     芭蕉

の「夏草」がそれだろうか。
 「しほり」については、

 「野明曰、句のしほり、細みとは、とはいかなるものにや。去来曰、句のしほりは憐なる句にあらず。細みは便(たより)なき句に非ず。そのしほりは句の姿に有。細みは句意に有。是又證句をあげて弁ず。
  鳥どもも寐入て居るか余吾の海   路通
先師曰、此句細み有と評し給ひし也。
  十団子も小粒になりぬ秋の風   許六
先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。他はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

とまあ、はやり去来も明確には説明できなかったようだ。
 おそらく路通の句は鳥が寝ている姿は詠まれていないが、見えない鳥のことを気遣うあたりが「細み」なのだろう。
 芭蕉でいえば、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

の句だろうか。蓑笠着た猿を見たわけではないが、蓑笠があったらいいだろうなと猿のことを気遣うのは、細みなのかもしれない。
 「しほり」は姿だという。「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させるが、哀れさという心ではなく、その姿を描くことにある。

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

でいえば、「小粒の十団子」が「しほり」であり、秋風の哀れな情と違い、具体的な形を持っている。

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

にしても、年を越す訴訟人の姿に、また一年空しく終ってゆくかといった哀れさが感じられる。
 失われてゆくことへの哀れさ、悲しさを、どういう姿で表現するかが問題で、情そのものは常だが、それが思いもかけぬもので現れるところに意味があったのではないかと思う。
 芭蕉の句で言えば、

 道のべの木槿は馬に食はれけり  芭蕉

だろうか。
 これらは芭蕉が発見した名句の法則だったのかもしれないが、もちろん断片的なもので、体系をなすものではない。それだけに、なかなか狙ってできるものでもない。
 なお、世間ではよく「わびさび」というが、芭蕉は「わび」については語っていない。

 「又八、又曰、しほり・さびハ、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句ハ異也。しほりハ、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句ハ別也。ただ内に根ざして、外にあらハるるもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 さび・しほりは情を情として述べるのではなく、一つの姿、形、外形にするところに生ずる。これは虚において実をおこなうということにも通じる。

2018年9月9日日曜日

 全米オープンで大坂なおみが日本人で始めて優勝した。正確には日本とアメリカの二重国籍だが、日本の代表として出ている以上は日本人だった。
 当然の事ながらアメリカ人はセリーナ・ウィリアムズを応援し、最後は大ブーイングになった。
 これを見てスポーツが国と国の威信を賭けた戦いだとしても、人種だとか民族だとか血筋だとかには何の関係もないということがよくわかった。
 サッカーでもラモス瑠偉はアマチュア時代から日本のサッカーを育ててくれた恩人だし、卓球の張本も中国系だがそんなの関係ない。
 きっとベルリンオリンピックの時のマラソンランナー、孫基禎(ソン・ギジョン)と南昇竜(ナム・スンニョン)もそうだったのだと思う。日本の代表として金メダルと銅メダルを取って、国民はみんな大喜びだったはずだ。
 一瞬でも人種や民族や血筋を忘れる瞬間がスポーツにはある。それはすばらしいことだと思う。
 あと、日本ではアメリカのCNNの報道に違和感を感じる人は多いだろう。日本の過度な武士道精神は、男子にすらラケットを壊したり暴言を吐いたりする行動に寛容ではないし、まして女子がそれをすることを男子と平等の権利を主張しているとして評価することはない。男の悪い所を見習うべきではないということだ。
 おそらくアメリカは男子の暴力的な言動に寛容すぎるのだろう。むしろアメリカ男子こそが大坂なおみを見習った方がいい。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、かれに及ぶ又門弟も見へず。
 四、去来曰、是おそらくハ阿兄の過論ならんか。角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいただかん。角が句のひききを以て論ぜバ、我かれを脚下に見ん。況や俊哲の人をや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.42~43)

 其角は才能はあるが句は卑近ということか。まあ、「卑近」というのは庶民の俳諧にとって悪いことではない。高い志、深い誠の情を卑近な言葉で語るのが本来の俳諧なのだから。「我かれを頭上にいただかん」は当然としても、「脚下に見ん」は過論だろう。軽んじるというか。
 文庫版は「反本」にはない次の文章を小さな文字で記している。

 「予、亢て此をいふにあらず。同門の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄もその一人なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)

 自分の思い上がりを正当化するために許六をも巻き込もうという作戦か。さすがに版本には記せない。

 「来書曰、なんぞや、亡師の句に対して斉しからんと論ぜらるるハ却て高弟の誤といはんや。
 五、去来曰、此阿兄の論精密ならず。予が角に贈る文に、却て師の吟跡と斉からずと書せり。阿兄跡の字に力を加へ給へ。
 たとへバ、一日に二十里を東行する者有。又十里を東行する者有。及ばずといへども、共に跡を斉うす。角ハその東行する者に非ず。
 昔日去来曰、いにしへより名人多しといへども、はじめて俳諧の神に入たる人ハ我が翁也。角此を聞て曰、吾子が言しかり。はじめて俳諧を神に入る人ハ我翁なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.43)

 其角の句が亡き師芭蕉の句にも匹敵するものがあるのは確かだろう。ただ、方向性が違うと去来は指摘する。特に芭蕉の晩年、点取り俳諧に走った其角との確執は大きかったようだ。
 元禄七年二月二十五日の許六宛書簡に、

 「江戸た家之事は、評判無益と筆をとどめ候。其角・嵐雪が義は、年々古狸よろしく鼓打はやし候半。」

とある。
 許六宛書簡だけに、こうした反目があったことは許六も重々承知していたし、また、だからこそ江戸滞在の時に許六に眼を掛けてくれたわけだから、そんなに悪い気はしなかったのだろう。
 其角・嵐雪は俳諧の多様化の役割を果たしたのであって、別に句そのものが劣化したわけではない。去来の最初の書にあった才麿・一晶についても許六は何も触れていない。許六にとって我慢ならないのは路通・惟然のような乞食風情のほうだった。
 「俳諧の神」という言葉を最初に言ったのは去来だったにしても、「神」というのは人智を超えているが故に「神」なのであり、単なる基や本意本情の不易を超えている。それ故に俳諧の路線の違いを超えている。東へ行こうが西へ行こうが「俳諧の神」はあらゆる場所にある。自分の行く方向にしか「俳諧の神」はないと思ったなら、それは驕慢というべきであろう。

 「又ノ五、去来曰、吾子が言も亦、一理あり。二言意味やや異リといへども、共に先師を以て古人にまされりとす。予なんぞ角が師とひとしからざる事うれへんや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 一理ありとしながらも、要するに先師芭蕉を敬う点では斉しいとうだけのこと。

 「来書曰、予不審あり。師遷化の後、諸門弟の句に秀逸出ざる事ハいかん。
 六、去来曰、此論強て工夫をつくすべからず。師教月々に遠く、我意日々に生ず。ただ秀逸の出ざるのミに非ず。却てその血脈をうしなふ者あらん。ひとり此道のミにかぎらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 秀逸はもとより簡単に出る物ではない。だから秀逸が出ないからといって、誰か裏切り者がいるだとか言って犯人探しをするなどはもってのほかだ。それゆえ「工夫をつくすべからず」。
 ただ、去来も師の教えから離れて我意を通そうとし、血脈を失うものがいるとしている。ただそれは俳諧にかぎらず、世間では普通のことだとする。
 「血脈」は単なる血筋、血統を意味するのではなく、日本では特に擬制としての血筋、つまり師弟関係において継承されてゆくものを意味する。特に仏教の方でよく用いられる。
 ただ、芭蕉のように、弟子によって教え方が違っていたりすると、何が本当の血脈なのかはそれぞれ勝手に解釈することになり、結果的に「我意日々に生ず」になってしまったのだろう。本当の血脈は「風雅の誠」、あるいは「俳諧の神」の他にないと思う。
 この時代に「血脈」という言葉を重要な場面で用いてた人に、儒教の古学者、伊藤仁斎がいる。伊藤仁斎は儒教を学ぶ時に朱子学の理論の体系よりも、『論語』『孟子』に記された古人の言葉からその血脈を読み取ることを重視していた。いわば孔子・孟子の直弟子たれということか。
 これに対し荻生徂徠は、孔子・孟子も先王の道を求めていたのだから、学ぶべきなのは孔子・孟子ではなく、先王の道だとした。
 俳諧の血脈も芭蕉の言葉ではなく、あくまで芭蕉が求めたものにある。

 「又六、又曰、秀逸の事ハ、先師在世の内といふとも稀ならん。また、遷化の後もなしといひがらからんか。然レども今の世に当て、其秀逸をさだむべき人誰ぞや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 秀逸を定めるのは学者や評論家ではなく大衆であるのは言うまでもない。一人の人の価値観や判断はどうしたって偏るもので、たくさんの人が判断することで偏りは中和され、公正な判断となる。民主主義はそれゆえ哲人独裁に勝る。
 俳諧の秀逸も、たくさんの名もなき江戸庶民がこの句は後世に残さなくてはいけないと考え、語り伝えられてきたものに他ならない。
 古池の句はもとより、芭蕉の句は誰よりも多く人口に膾炙している。近代に入っても、庶民はもとよりたくさんの学者、文化人たちも芭蕉の句を無視できなかった。中には厳しく批判し糾弾する者もいたが、それでも幾多の批判に耐えて生き残ったことが秀逸の証しと言っていい。いまや芭蕉の句は世界の人々にも愛されている。
 芭蕉亡き後「秀逸出ざる」というのは、いわゆるヒット作が出ないということだ。
 ただ、これはヒットするとある程度予測できる人はいる。芭蕉は秀逸を定む人ではなかったが、秀逸を予測する人ではあった。

 「むかし先師凡兆に告て曰、一世の内秀逸の句三・五あらん人ハ、作者也。十句に及ん人ハ名人也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44)

 今、特に俳句に興味のない人に、どんな俳句を知っているかと尋ねれば、おそらくその多くは芭蕉の句であろう。教科書には蕪村や一茶もあれば近代俳句もあり、受験で覚えさせられたりするが、そうした影響を考慮に入れても、受験が終ってなお残っている句はたいてい芭蕉の句だ。
 学校教育の影響が少なかった時代は、かえって江戸時代の芭蕉以外の作者の句をたくさん知っていたかもしれない。ただ、作者の名前がうろ覚えのせいか他の作者の句を芭蕉の句と勘違いしている人も多かった。
 私も以前いた運送屋で、

 行水の捨てどころなし虫の声   鬼貫

の句を芭蕉の句だと教えられた。
 いろいろ批判はあっても、

 朝顔に釣瓶とられてもらい水   千代女

の句などは今でも生き残っている。

 目には青葉山ほととぎす初がつを 素堂

の句も、作者の名は忘れられていても、毎年夏になると引用される。
 このあたりの作者は一句思い出せればいいほうだが(千代女は「とんぼ釣り」の句もある)、三句、五句、十句思い出せるような作者は数えるほどで、それを思うと芭蕉がいかに神だったかがわかる。現代俳句のそうそうたる連中も、名前は知ってるけど代表作が浮かばない。

 「又先師、人々の句の奥意に叶ふものを集めて、集を撰んとし給ふ。此を笈の小文と号すとつたへたり。故有て予が名月の句を入集すと語り給へり。予曰、我句、撰に入べき句いくばく有や。先師ノ曰、汝過分の事をいへり。都(すべ)て我がこの度の集に選び入ん句、五つ持たる者ハまれならん。此を以ておもふに、実に秀逸といはんハ、世に稀なるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.44~45)

 今日知られている『笈の小文』は、芭蕉の遺稿の中から、貞享四年から翌五年にかけての関西方面の旅の草稿をまとめたもので、乙州によって命名されたという。
 それとは別に『笈の小文』という撰集を芭蕉が企画してたようだが、定かではない。ただ、『去来抄』「先師評」に、

 「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半なかばにて遷化せんげましましけり。此時このとき予申まうしけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺うかがふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝なんぢ過分の事をいへりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)

とある。
 これは、

 岩鼻やここにもひとり月の客  去来

という句に対し、洒堂が「猿」の方が良いというのだけど、自分は「客」の方がいいと芭蕉に尋ねたところ、「猿とハ何事ぞ」と洒堂の案を切り捨て、「ここにもひとり月の客ト、己と名乗出たらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。此句ハ我も珍重して、笈の小文に書入ける」と言ったというエピソードだった。
 洒堂が猿と言ったのはそれほど的外れでもない。後に長澤芦雪が『巌上白猿・水辺群猿図屏風』を描き、岩鼻に座る白猿を書いている。
 正岡子規の『飯待つ間』の「句合の月」というエッセイの中で、月の句を詠む際に、

 「判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから、先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。」

と書いているが、この「人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居た」というのは去来の「岩鼻や」の句のイメージだろう。

 「凡先師の門人の句を賞し給ふや、相当の賞美有、過分の賞美あり。門人是におゐて、或ハ迷ひをとり、自亢(みずからたかぶ)りて、終に己が位をしらざる人も多し。又半途より自かへり見て、つつしむ人も是有。予が不敏といへども、或ハ秀逸・名句、或ハ此句我も不及、或ハ我が風雅汝等一両士にとどむ、是等の賞詞感文すくなしとせず。然レ共、退て此を師の句に正すときハ、雲泥のたがひ有。此を同門の句に合するときハ、群を離れず。猶其賞の身ニ応ぜざる事をしれり。又秀逸のまれなる事をしれり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.45~46)

 まあ、弟子を育てる時には褒めることも必要だが、芭蕉の書簡とかを見る限りではそれほど過分に褒めてはいないと思う。ただ、芭蕉とて人間だから、芭蕉が良いと思った句がすべてヒットするわけではない。良いと思って褒めたけど後になって忘れ去られてしまった句があれば、結果的には過分な褒め言葉だったということになるにすぎない。
 この去来の詞は、おそらく暗に芭蕉が許六の「十団子」の句を褒めたことが過分で、許六が亢ってると言おうとしたのだろう。
 実際、芭蕉は許六が初心者でそれでいて身分が高くお金持ちだからといって、過分に褒めたというようなことはなかったと思う。
 猿蓑調を脱却して次なる新風を探していた時、芭蕉は古典にこだわらず、より卑近でリアルなネタを探していたと思う。連句でも芭蕉は『猿蓑』の頃から少しずつ経済ネタを試みている。

    灰うちたたくうるめ一枚
 此筋は銀も見しらず不自由さよ  芭蕉

    でつちが荷ふ水こぼしたり
 戸障子もむしろがこひの売屋敷  芭蕉

 そんな時に出会った、

 十団子も小粒になりぬ秋の風    許六

の句は、思わず「これだ!」と思ったのではなかったかと思う。連句で試みていた経済ネタを発句でもできる、という驚きがそこにあったのではないかと思う。
 それに続く、

 行年や多賀造宮の訴詔人      許六

も同様、当時の芭蕉としては、これが来るべき俳諧だいう確信があったの

ではないかと思う。
 そこから芭蕉は『炭俵』の風を江戸で試すことになる。そこでは、

   好物の餅を絶やさぬあきの風
 割木の安き国の露霜      芭蕉

   塩出す鴨の苞ほどくなり
 算用に浮世を立る京ずまひ   芭蕉

   家普請を春のてすきにとり付て
 上のたよりにあがる米の値   芭蕉

   千どり啼一夜一夜に寒うなり
 未進の高のはてぬ算用     芭蕉

   今のまに雪の厚さを指てみる
 年貢すんだとほめられにけり  芭蕉

という句が詠まれることになる。
 ただこの実験は、『猿蓑』の成功体験からなかなか脱却できない京都・湖南の門人に、十分浸透させることが出来なかったようだ。『続猿蓑』という撰集のタイトルがそれを象徴している。
 『虚栗』の余韻の覚めやらぬ其角は『続虚栗』を編み、『阿羅野』の栄光を捨てられなかった荷兮は『曠野後集』を編纂した。『続猿蓑』にもそれと同じ響きが感じられる。
 そうこうしているうちに芭蕉の寿命が尽きてしまった。

2018年9月7日金曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、慥ニ眼を破て見るに、近年諸集のうちめだつ句あれば、大方晋子也。
 三、去来曰、阿兄の言感信せず。いづれの書にか角が好句多しとするや。予近年俳書ニうとし。たまたま見る処の書、角が句十にして、賞すべき物一・二、笑べき物一・二、その余は世間平々の句也。浪化集に角が撰集たる句を並べ書す。そのうち、阿兄の句のほか、独角が句のみすぐれり。其余ハ我いまだ此を見ず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.42)

 この「たまたま見る処の書」が何なのかはわからない。あるいは許六・李由撰の『韻塞』(元禄九年刊)か。この撰集で「賞すべき物一・二、笑べき物一・二、その余は世間平々の句也」だとしたら、それは選者許六の責任だというあてつけになる。
 賞すべき物というと、やはり、

 饅頭で人を尋ねよ山ざくら   其角
 月影やここ住吉の佃島     同

あたりか。
 『浪化集』は『有磯海』と『となみ山』の二冊からなり、『有磯海』は発句中心で、『となみ山』は連句が中心となる。この集は芭蕉の存命中から企画されていたもので、元禄七年五月十四日の芭蕉宛去来書簡に、「此度浪化集に拝領仕度候」とある。『浪化集』はその翌年元禄八年に刊行された。
 浪化編ではあるが、去来も編纂に関わっているため、ここには其角のすぐれた句しかないと言いたいのだろう。
 その『浪化集』には、

   奈良の旅二句 木辻より返りて
 門立のたもとくはゆる小鹿かな  其角 「有磯海」

   なが月の末大井川をわたりて
 いつしかに稲を干瀬や大井川   其角「有磯海」

 河豚洗ふ水のにごりや下川原   其角「有磯海」

   東叡山
 八ツ過の山のさくらや一しつみ  其角「有磯海」

 八雲立つ此嶮漠を雲の峰     其角「有磯海」

 千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき   其角「となみ山」
 こがらしや沖よりさむき山のきれ 其角「となみ山」

といった句が収められている。「こがらしや」の句は『炭俵』に既に発表されているが、それを発句とした表六句が収められている。

2018年9月6日木曜日

 台風が去ったと思ったら、今度は北海道の地震で天は無慈悲だ。
 天は人間の思いとはまったく無関係に独自の原理で動き、その妙は人智では計り難い。故に「神」という。
 我々にできるのは、ただ謙虚に事実を受け入れ、いたずらに我を張らずに(我ん張らずに)、ただできることを積み重ねるだけだ。
 ただ、災害より恐ろしいのは人が人を信じられなくなることだ。
 芭蕉亡き後の俳諧の衰退は、外的には江戸に歌舞伎が、上方には浄瑠璃が台頭し、娯楽が多様化したというのも一因だろう。
 ただ、こうした流行に対して、浄瑠璃などもってのほか、なんて狭い感覚で対応を怠った側にも責任はあっただろう。
 社会主義国家では理論に反して生産性が落ち込むと、アメリカの陰謀を疑ったり、誰か裏切り者がいて革命の妨害をしているだの疑心暗鬼になり、結局は密告・誣告が横行し、粛清の嵐が吹き荒れ自滅した所もあった。
 許六の対応もそれに近い。芭蕉の教えが正しいのだから俳諧が衰退するはずはない。衰退するのは路通のような泥棒が連衆に加わったり、惟然のような乞食坊主を野放しにしているからだなんて、とんでもない論理に走ってしまった。
 それに去来がどう答えたのか、これから見てゆくことにしよう。去来は「贈落柿舎去来書」に答える形で「答許子問難弁」を書くことになる。

 「湖東の許六雅兄、予其角に贈る文を読て、疑難を書、頃日予に与へらる。信(まこと)に風騒の人なり。其論高し。
 予が不才当ルべからず。然共微意を述て是を弁ず。是非のごときは阿兄

正したまへ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 「許六雅兄」とあるが、去来は一六五一年生まれ、許六は一六五六年生まれで、去来の方が年上になる。
 「風騒」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 〔「風」は「詩経」の国風、「騒」は「楚辞」の離騒の意。ともに詩文の模範とされたことから〕詩歌をつくること。また、自然や詩歌に親しむ風流。 「此の関は三関の一にして、-の人、心をとどむ/奥の細道」

とある。
 似たようなものに「騒人」という言葉もある。『去来抄』「同門評」に、「凡秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有あり。」とある。
 「予が不才当ルべからず」と一応謙遜してはいるものの、言うべきことは言わなくてはならない。「微意」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 ささやかな志。寸志。自分の意志・気持ちを謙遜(けんそん)していう語。「微意を表す」

とある。

 「来書曰、千歳不易・一時流行の二ッをもつて、晋子が本性を論ぜらるる、兼て其角ガ器をくはしく知りたまはざる故也。生得物に苦める志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく、返て辞を色どり、若葉集の序とす。是はづかしめをしらぬゆへ也。
 一、去来曰、此難、阿兄の言しかり。予亦おもふ処ありて是を贈る。此

を弁じて俳道に益なし。暫筆をさしおくのミ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41)

 其角の性格から反論しなかったという点では許六の説を「しかり」とする。知っててあえてあの手紙を送ったのだが、俳道に益がなかったので此れについては語らない、とする。まあ、体よく逃げた形だ。

 「来書曰、然りといへ共、予三神を懸て相撲を晋子が方に立ず。又諸門弟の句をあなどらず。
 二、去来曰、阿兄の言信ずべし。予亦是に同じ。文中過分なる物、罪し

たまふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.41~42)

 手紙の文章が多少違うのは、今日残っている文章とオリジナルとの間に違いがあったか、よくわからない。許六の言うとおりだといいつつも、「罪したまふ事なかれ」と屈しない態度を取っている。

2018年9月5日水曜日

 今年は関西の方にいろいろな災難が重なっている。天というのは不公平なものだ。まあ、だからといって関東にも来てくれとは思わないが。
 今日は久しぶりに晴れた。暑いけど秋晴れだ。
 では『俳諧問答』の続き。

 「口すぎ・世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門・他門ともに本性を見とどけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 「口すぎ」は生計のこと。「世わたり」も同じような意味。俳諧師だって生活がかかってるから、大法螺も吹けば集を編纂して名を上げるもの当然のこと。それは一応許六も認めている。
 許六の路通や惟然への不快感というのも、階級によるものが大きかったかもしれない。彦根藩の重臣で三百石取りの許六には理解できない世界もあるのだろう。
 浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
 貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。ただ、許六には庶民の低俗な芸能でしかなかったのかもしれない。
 「金山談合の席」はよくわからないが、「金山」は御伽草子「あきみち」の盗賊金山八郎左衛門のことか。貞享三年の「日の春を」の巻の五十句目に、

   人あまた年とる物をかつぎ行
 さかもりいさむ金山がほら  朱絃

の句がある。
 盗賊の集会で名月の句を案じて改心するなら、それはそれで風流の効用ではないかと思うが、「例の昼狐」というのはやはり路通を泥棒扱いしていて、それを同門も他門も許すなということか。路通がたとえ泥棒だったとしても、俳諧を奪ったらそれこそただの泥棒になってしまう。

 「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 まあ、「猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」の心に程遠い。どちらかというと、

 何事ぞ花みる人の長刀      去来

という感じだ。そんなことよりも世俗をあっと言わせるような句を詠んでくれよ、と言いたい所だ。

 「故に同門のそねみあざけりをかへりみず、筆をつつまずしてこれをおこす。この雑談隠密の事、さたにおよばず、諸門の眼にさらし、向後をつつしむたより(と)ならば、大幸ならん。願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。
   右       許六稿」
(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39~40)

 何か話がとんでもない方向に行ってしまった。まるで共産圏の論理で、飢饉が起こると、いつの間にか誰か裏切り者がいるせいだという話になり、粛清の嵐が吹き荒れるみたいな恐ろしさすら感じられる。そうじゃないでしょ。俳諧を盛り上げるには良い句を作る、それだけでしょ。
 これで許六の手紙は終る。去来もこれは止めなくてはいけない所だ。

2018年9月4日火曜日

 台風が通り過ぎてゆく。こちらでは雨は降らず、風だけだ。
 では『俳諧問答』の続き。

 「北狄・西戎のゑびす時を得て吹をうかがひ、次たいにみだりに集をつくらん事、尤悲しむに堪へたり。高弟、此そしりを防ぐ手だてありや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 横澤三郎の注釈に、「『和漢朗詠集』の春の部に、吹を「かぜ」と読むべき処があるが、ここでは更に風の意に用ゐたのであろうか。審かでない。」とある。
 これは冒頭の「立春」で、

   内宴進花賦 紀淑望
 逐吹潛開不待芳菲之候。
 迎春乍変将希雨露之恩。
 吹(かぜ)を逐(お)ひて潛かに開く芳菲(はうひ)の候(とき)を待たず。
 春を迎へて乍(たちま)ち変ず将(まさ)に雨露の恩を希(こひねが)はんとす。

を指す。変風変雅だとか風流だとかいう時の「風(かぜ)」と区別するために、あえてこの文字を用いたか。
 風流を追い求めてという意味ではなく、単に世評(風向き)を気にしてという意味であろう。
 とはいえ、許六のこの書は去来が不易体と流行体の二つに惑わされていることを指摘するはずだったのだが、話は完全にずれてしまっている。路通のようなものと通じているだとか校正が甘いだとか、そんなので監督責任を追及されてしまっても、また別の問題だ。
 結局は「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。」に尽きるのではないか。
 去来が芭蕉の古くからの高弟である其角に多くのものを求めすぎたように、許六も去来に多くのものを求めすぎているだけではないか。秀逸の句なき事をかなしむだけで、自ら秀逸の句をものにしようとするのでもなく、万事他人任せだ。
 結局芭蕉亡き後、誰も芭蕉のようにはなれないからとあきらめて、ただ芭蕉の生前の教えをそれぞれ守っているだけで、だれも新たな俳諧へ向けて冒険しようとしない。
 過去の焼き直しばかりで新味がなければ、大衆も次第に飽きて俳諧から離れてゆく。
 そんな中でただ一人新風を起そうとした人がいたとすれば、この問答の後のことであるが、惟然ではないかと思う。ひょっとしたら去来と許六がこうした不毛な論争に終始しているのを見て、一念発起したのかもしれない。
 その惟然のことをこう言う。

 「惟然坊といふもの、一派の俳諧を弘るには益ありといへども、却て衆盲を引の罪のがれがたからん。あだ口をのみ噺し出して、一生真の俳諧をいふもの一句もなし。蕉門の内に入て、世上の人を迷はす大賊なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38~39)

 惟然は元禄八年の秋に九州の旅に出る。芭蕉の見残しを見に行く旅であろう。(以下『風羅念仏にさすらう』澤木美子、一九九九、翰林書房による)

 彦山の鼻はひこひこ小春かな    惟然

の句が果たしてこの時の句なのかどうかは定かでない。
 元禄九年には奈良の吉野の花に遊ぶ。

   よしのにて
 けふといふけふこの花の暖さ    惟然

 元禄十年には奥の細道を逆回りする。別に逆回りしたから芭蕉翁が蘇る

とかそういうことではない。

 七夕やまだ越後路のはいり初    惟然
   酒田夜泊
 出て見れば雲まで月のけはしさよ  同
   象潟にて
 名月や青み過たるうすみいろ    同
 松島や月あれ星も鳥も飛ぶ     同

 『俳諧問答』の「贈落柿舎去来書」が書かれたのは、まだこの頃であろう。
 「風羅念仏」を考案するのはこのあとの元禄十三年四月のことだという。あの独特な超軽みの俳諧が確立されるのは元禄十五年の春から夏、二度目の播磨を訪れた時だった。ここで千山とともに『二葉集』を編纂し、上巻を元禄十五年、下巻を元禄十六年に刊行する。

 「故に近年もつての外、集をちりばめ、世上に辱を晒すも、もつぱらこの惟然坊が罪也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)

 惟然の集というと、元禄七年五月刊の『藤の実』がある。まだ芭蕉は存命で、惟然もまだ素牛を名乗っていた。そのほかに元禄八年から九年の九州の旅の紀行『もじの関』があったらしいが現存しない。
 『俳家奇人談』(竹内玄玄一編、文化十三年)には、

 「途中彦根を過(よ)ぎる。許六に紀行を与へて曰く、吾子題すべし。許六これを諾(しやうち)し、彦山の句を巻頭にして、天狗集と名づけたり。」

とある。『俳諧問答』で言っていることとずいぶん違うし、伝説の類であろう。

2018年9月3日月曜日

 午前中は雨が降ったが、午後からは晴れた。台風は明日来るらしい。
 それでは、『俳諧問答』の続き。

 「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。
 翁滅後門弟のなかに挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加はり、流浪漂白のとき、一夜の頭陀をやすむたまふはたご屋など(に)出て、門弟のかずにつらならんとするあぶれものども、みだりニ集作る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37~38)

 この賊は路通のことか。許六選の『風俗文選』の作者列伝には、

 「路通者不知何許者。不詳其姓名。 一見蕉翁聽風雅。其性不實輕薄而長遠師命。飄泊之中著俳諧之書。」

とある。
 一度は芭蕉に破門されたものの最終的には許されたというし、いろいろ素行が悪いという噂はあっても、一体何をしでかしたのかというと、確実な資料はない。
 ウィキペディアには、

 「芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695年)に出版した。」

とある。これが「みだりニ集作る」ということなのか。

 「一流はんじゃうにはよろしといへども、却て一派の恥辱・他門の嘲り、かたがたかた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 『芭蕉翁行状記』の前半は「行状記」で、後半に追善の俳諧などが収められている。

 木がらしや通して拾ふ塚の塵  路通

を発句とする世吉(四十四句)には、木節、土芳、智月、如行、乙州といった名前が見られる。発句の所には惟然、嵐雪、桃隣、北枝、牧童などの名もある。木節の「冬の月」の巻には去来も参加している。
 何が悪いかよくわからないが、許六が参加してない所を見ると、よほど許六は路通が嫌いだったと見える。

 「集作りて、善悪の沙汰におよぶは、当時撰集の手柄なり。頃日の集は、あて字・手爾於葉の相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し申侍らん、むべならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)

 校正の不備ということか。一般的にこの時代は古い時代の「は」と「わ」、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の区別などが曖昧になっていた。芭蕉も自筆稿には誤字脱字が見られる。人間だもの。

2018年9月2日日曜日

 今日は昨日にも増して涼しかった。
 サッカーの男子は負けたが、ウイイレでは金メダル。
 では『俳諧問答』の続き。

 「不易・流行のふたつにくらまさると云は、予きく、かつて趣向もうかまず、句づくりも出ざる以前に、ふるきの句をせん、流行の句をせんといへる作者、湖南のさたなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)

 この湖南の作者が誰なのかはよくわからない。
 「ふるき句をせん」というのは、『去来抄』「修行教」に「先師遷化の時、正秀曰、是より定て変風あらん。その風好みなし。只不易の句をたのしまん。」とあるから正秀のことか。
 ただ、正秀は後に惟然の『二葉集』(元禄十五年)に参加し、

 むぎまきや脇にかゐこむうつはもの 正秀
 初雪をどろにこねたる都かな    同

の句がある。
 『二葉集』にはそのほか尚白、智月、乙州など湖南の蕉門が惟然の超軽みの俳諧に合流している。
 この集には他にもいろいろな人が参加している。

 秋の実のおのが酢をしる膾かな   洒堂
 あたたかな泥もどろどろ(虫喰)なれよ 諷竹
 松風の四十過てもさはがしい    鬼貫

 「歌に十体あり、定家・西行はじめより詠んとし給ふことを聞かず。詠みおはつてのち、十体のすがたはあらはる。ときに判者の眼あつて、一々体をわかつ。何体の歌よまんといへる歌道は、かた腹いたく侍らん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36~37)

 和歌十体(わかじってい)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「歌論用語。和歌の 十の風体 (ふうてい。歌風に基づく一首としての姿) の総称。また,十の風体を例歌によって示した歌学書をもさす。歌を 10体に分けることは早く奈良時代の『歌経標式』にみられるが,これは歌体,発想,表現技巧などさまざまな観点から分けたもので,分類の基準は一貫していない。風体のうえから分けたものとしては平安時代中期に壬生忠岑 (みぶのただみね) の『忠岑十体』 (『和歌体十種』) があり,これには中国詩学の影響が認められる。平安後期の『奥義抄』には『道済十体』 (佚書) がみえる。鎌倉時代の藤原定家の『定家十体』は最も知られ,これは「幽玄様」「長高様」「有心 (うしん) 様」「事可然 (ことしかるべき) 様」「麗様」「見様」「面白様」「濃様」「有一節 (ひとふしある) 様」「拉鬼様」の 十を設け,それぞれ例歌を掲げている。定家は『毎月抄』でも十体に言及し,「幽玄様」「事可然様」「麗様」「有心体」の四体が基本であり,なかでも「有心体」が最も中心であることを説いている。しかし『定家十体』は偽書とする説もある。『良経詩十体』というものもあったらしく,のちには連歌論,能楽論でも唱えられた。」

とある。西行・定家より前から『忠岑十体』があったようだ。歌合などが盛んに行われ、判定の際に参考とされることがあったなら、実際にはそれに合わせて歌を詠むこともあったと思われる。
 いろいろな体の歌を詠み分けられるというのは歌人にとっての一つの技術だったのであろう。ただ和歌は言葉が雅語に限られていたため、俗語を認める俳諧と違い、江戸時代の流行の風俗を詠むことができず、流行体というのは成立しなかった。
 俳諧の場合、不易体と流行体に分けるにせよ、俳諧自体が江戸時代の流行であり、厳密に不易を求めたなら連歌になってしまう。不易に行き着いて荷兮のように連歌に転じた例はある。
 もっとも。その連歌も鎌倉時代には流行だった。

 「翁在世のとき、予終に流行・不易をわけてあんじたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 許六が芭蕉に入門したのは元禄五年の八月九日とされている。十月三日には許六の滞在している彦根藩邸で「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行が行われている。許六の脇は、

   今日ばかり人も年寄れ初時雨
 野は仕付けたる麦の新土     許六

だった。
 このころから『炭俵』の新風が試されてゆく。十月二十日には「ゑびす講」の巻の興行が行われる。芭蕉もこの頃には猿蓑調からの脱却を考えていて、不易流行説も過去のものになっていたのだろう。
 芭蕉は元禄七年閏五月に京に上るものの、この新風を広めるのは時間が不足していたのだろう。彦根は新風を受け入れたが、京都や湖南は猿蓑調との折衷になって続猿蓑の風になったのではないかと思う。
 その湖南の蕉門が元禄十五年ごろになると惟然の風に靡いていって、孤立した去来があの『去来抄』を書いたのかもしれない。

 「句いでて師に呈す。よしはよし、あしきはあしきときはむる。よしと申さるる句、かつて一つの品をこころにかけずといへるとも、不易・流行おのづからあらはるるなり。滅後の今日にいたつて猶しか也。かつて流行・不易を貴しとせず。よき句をするをもつて、上手とも名人とも申まずきや。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37)

 芭蕉の元禄五年十二月八日の許六宛書簡には、

 「且又四吟之俳諧もよほどおもしろく候。前夕、嵐蘭・珍夕吟じ見申候。」と、

 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂
   綿舘双ぶ冬むきの里     許六
 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉
   春は其ままななくさも立つ  嵐蘭

の歌仙を見たことを記している。

 芭蕉の元禄五年十二月十五日の許六宛書簡には、

 「多賀の詔訴人は珍重に存候。」

と、

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

の句を評価している。句の意味は今となってはよくわからないが、湖東の多賀大社とすぐ近くにある胡宮神社との間でしばしば訴訟があり、今年も決着が付かずに年を越すというあたりに「しほり」があったということか。
 ネットで検索すると「胡宮神社文書398点-多賀町役場」というページがあり、そこには、

 「胡宮神社文書は、敏満寺が戦国時代に兵火に罹って廃絶したあと、その坊のひとつである福寿院、つまり胡宮神社の別当に、伝承していたものです。多賀大社と胡宮神社の位置づけをめぐる訴訟に関する文書がまとまって保管されています。ここには近世の胡宮神社別当福寿院が、敏満寺以来の由緒を守るため、懸命に多賀大社に抗い続けたようすが記されています。」

とある。
 同じ書簡に、「先日煤掃はぜゞ引付に入遣候」という文字もある。これは、

 煤掃や蜜柑の皮のやり所     許六

の句を評価し、膳所の歳旦帖の引付に掲載するとしている。
 年末恒例の煤払いの時に、せっかく家を綺麗にしたのに、掃除の時に集まった人たちが食べた蜜柑の皮が部屋に残ってたりするという、いわゆるあるあるネタだったか。
 一方で、芭蕉の元禄五年十月二十五日の許六宛書簡には、

 「一、池のかも、等類がましき事御座候間、御用捨可被成候。残念。」

とあり、「池のかも」の句に似たような句があることを指摘している。没になったせいか、この句は残ってないようだ。
 こういう芭蕉評には一々理屈はない。「よしはよし、あしきはあしきときはむる。」はこういうことだったのだろう。

2018年9月1日土曜日

 今日は秋雨前線の南下で雨が降り、やや涼しくなった。文月も二十二日。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)

 許六のいる彦根は湖東だから、湖南・京師の門弟に許六は含まれない。曲水、乙州、智月、正秀など大津、膳所の門人を指しているのだろう。京都は言うまでもなく去来の一派になる。とはいえ、ここは明らかに去来一人を名指しいるのではないかと思われる。
 去来は感覚的に句を作るのではなく理詰めで作るところがある。『去来抄』「先師評」の丈草の「うづくまるやくわんの下のさむさ哉」の句のところで、去来は「かかる時ハかかる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまはあらじとハ、此時こそおもひしる侍りける。」と言っている。
 このとき去来が詠んだ句は、

 病中のあまりすするや冬ごもり   去来

で、「冬ごもり」という季題の興から、「あまりをすする」という景を導き出して無難に仕上げている。季題の本意本情を念頭において、何となくそれにあった景を引き出すのは、去来の得意とするパターンだった。
 元禄九年刊の『韻塞』の、先に引用した、

 行かかり客に成けりゑびす講  去来
 行年に畳の跡や尻の形     同
 芳野山又ちる方に花めぐり   同
 見物の火にはぐれたる歩行鵜(かちう)哉 同

の句にしても、「ゑびす講」から「行かかり客に成」という景を導き、「行年」に畳の景を、「芳野山」という歌枕から「花めぐり」を、「鵜船」から「はぐれた鵜」の景を付けている。
 去来のよく知られている、

 何事ぞ花みる人の名が刀    去来
 花守や白きかしらをつき合せ  同

も基本的にはこのパターンで作られている。
 同時に人の句を評する時も、ほとんどマニュアルのように不易か流行か、さび、しおりはあるかという所を評価基準にしていたのだろう。
 これに対し、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

の句は「寒さ」の興から「やかん」の情景を導き出しているわけではない。「うづくまるやくわんの下」という自分の置かれている状況から、真っ直ぐにその情の籠る「寒さ」を導き出している。
 許六の言う「これ船をきざみ」は、「剣を落として舟を刻む」で、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《乗っている舟から剣を落とした人が、慌てて舟べりに印をつけてその下の川底を捜したという、「呂氏春秋」察今の故事から》古い物事にこだわって、状況の変化に応じることができないことのたとえ。舟に刻みて剣を求む。」

とある。
 「琴柱に膠す」も同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「《「史記」藺相如伝による。琴柱をにかわ付けにすると調子を変えることができないところから》物事にこだわって、融通がきかないことのたとえ。膠柱(こうちゅう)。」

とある。

 「一句ふつつかなりと見やれども、さび・しほりおのづからそなはりて、あはれなる句もあり。また予が年やうやう四十二、血気いまだおとろへず。尤句のふり花やかに見ゆらん。しかれども老の来るにしたがひ、さびしほりたる句、おのづからもとめずして出べし。詞をかざり、さび・しほりを作りたらんは、真のはいかいにはあるまじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.36)

 「一句ふつつかなり」は、

 十団子(とうだご)も小粒になりぬ秋の風 許六

の句のことか。『去来抄』「修行教」に、「先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。」とある。
 当時は四十で初老と呼ばれ、働いている人もそろそろ隠居を考える時期だ。芭蕉は数え三十七で持病が悪化し、深川に隠棲した。四十二で「血気いまだおとろへず」は自慢しているのか。
 まあ、年取れば自ずとさび・しほりは具わるものだから、元気なうちから無理してそれを真似る必要がないし、真似たらそれは嘘になるということを言いたいのだろう。
 連歌の時代だが『宗祇初心抄』には、

 「若人の連歌に、
 いにしへの猶しのばるる身はふりて
 夜半のね覚ぞむかし恋しき
 老ての後の身をいかにせん
 か様の句共似合候はず候、此心能々御心得あるべく候」

とある。