さび、しほり、ほそみの根底には結局「死」の暗示があるのだと思う。
さびは時間の経過によって変化した事物によって、この世は無常で。命あるものは必ず死に形あるものは必ず崩れることを思い起こさせる。そして最終的には自分自身の人生にも終わりがあることに行き着く。
しほりは花の萎れる哀れさや悲しみの情を、それに似た情を想起させる具体的なもので提示するが、こうした喪失の悲しみはやはり死の悲しみに結びつく。
他人の死を痛むのは、それを自分の死であるかのように共感できるからであり、他者の喪失を鏡として自分の死を想起する。
ほそみは共感から来る細やかな気遣いで、共感の根底には同じように生きていて、やがて死んでいく、自分と同じものであるという共鳴がある。
ハイデッガーの現存在分析に習うなら、さび・しほりは「死への存在」であり、ほそみは「die Sorge」に近い。
自分自身の死は他の誰の死にも代えることができないという点では、完全なる「個」に行き着く。
そして、死が誰にも避けられないものであるという点で、すべての「個」を平等にする。
そして自らの死を受け入れることで、恐怖によって支配されない自由を垣間見る。
そして死すべき者同士の共感に広く普遍的な博愛が生まれる。
死を思うことは自由で平等な個と個の結びつきをもたらし、そこに近代的な人権思想の根底を見ることもできる。
ただ、我々の文化はそれを理性として立法の支配下に置くのではなく、朱子学的な性理として、心の誠として表現してきた。それはメンタルなものを多く含み、人権ではなく人情の文化を創ってきた。
人は様々な集団に帰属してはいても、それは生きてゆくための生存の取引であって(社会契約はそれを理性と法で明確化したものと考えていい)、人間のいわゆる広松渉の関係主義でいうような役割存在は本当の自分ではなく、あくまで生きるための仮の姿にすぎない。
自分を抑え、自分を殺し、世間に合わせて自分の役回りを背負うのが、現実の人間の姿だ。だが、それによって捨ててきた自分は完全に消えたのではない。そこには静かに風が吹いている。
生存の取引は別に一回限りでもなければ一生もんでもない。生きてゆくためにそのつど繰り返してゆくものだ。
人は転職したり改宗したり国籍離脱したりするし、家族といえども縁を切ることもある。集団への帰属は絶えず更改される。それができるから、世界は日々刻々と変化する。
その変化して止まぬ世界の中で不易なものがあるとすれば、それは死への存在とそこから派生する諸々の感情だ。
もちろん、すべての人間がその帰属する集団に拘束されない自由な存在だとしても、個の多様性は遺伝子の多様性で、生存競争から開放されているわけではない。
ただ、生物学的な意味での生存競争は子孫を残すための戦いであり、社会的ないかなる成功とも関係なく、子孫を残したものが勝者となる。つまりそれは恋の勝負に他ならない。故に恋も不易の情となる。
すべての人間が個に立ち返ったとき、生存競争は集団間の戦争ではなく、恋の争いになる。
この子孫を残すための争いは、必ずしも現実に子孫を作れるかどうかとは関係なく、そんな事情などかまわず遺伝子は恋を命ずるから、同性愛でも恋は同じだ。
子孫を残す戦いには前提としてその間生き続けなくてはならないから、そのため人は取引をして集団に帰属するが、しばしば手段と目的は一緒くたになる。それゆえ生活のための戦いが生存競争と同一視されることが多い。
逆に純粋な個と個の恋は、生活からも集団への帰属からも自由になるため、却って生存を困難にする場合がある。心中物が感動を誘うのはそこに理由がある。
芭蕉の俳諧は死への存在の暗示を隠し味として鳴り響かせながらも、あくまで乾いた笑いが中心にあった。むしろ大坂談林のほうが、それがもたらす自由(かまわぬ)や純粋な恋へと展開する湿った笑いの風土をもたらし、浄瑠璃の心中物もそこから発達したのではないかと思われる。
ともあれ、人生は結局生まれてから死ぬまでの限られた時間であり、生まれる前と死んだ後の世界はただいかなる想像をも絶する。何も思い描けない世界は虚無と言っていい。
人生は強大な虚無の海に浮かぶ小島にすぎない。
せめてそれが絶海の孤島ではなく、他者と共有することができたなら、それが風雅の誠だと言ってもいいだろう。
死を暗示する夜のしじまの中で、湖の方でかすかに眠っている鳥の命の気配を感じることができたなら。
鳥共も寝入てゐるか余呉の海 路通
路通の風流は本物だ。
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