今年は関西の方にいろいろな災難が重なっている。天というのは不公平なものだ。まあ、だからといって関東にも来てくれとは思わないが。
今日は久しぶりに晴れた。暑いけど秋晴れだ。
では『俳諧問答』の続き。
「口すぎ・世わたりの便りとせば、それは是非なし。惟然にかぎらず、浄瑠璃の情より俳諧を作り、金山談合の席に名月の句をあんずるやからも、稀にありといへども、これは大かた同門・他門ともに本性を見とどけ、例の昼狐はやし侍れば、罪もすくなからん。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)
「口すぎ」は生計のこと。「世わたり」も同じような意味。俳諧師だって生活がかかってるから、大法螺も吹けば集を編纂して名を上げるもの当然のこと。それは一応許六も認めている。
許六の路通や惟然への不快感というのも、階級によるものが大きかったかもしれない。彦根藩の重臣で三百石取りの許六には理解できない世界もあるのだろう。
浄瑠璃は「浄瑠璃姫十二段草紙」などを語る琵琶法師に端を発し、みちのくの奥浄瑠璃は芭蕉も『奥の細道』の旅の途中に耳にしている。
貞享のころから竹本義太夫と近松門左衛門が手を組んで大きく発展させた。ただ、許六には庶民の低俗な芸能でしかなかったのかもしれない。
「金山談合の席」はよくわからないが、「金山」は御伽草子「あきみち」の盗賊金山八郎左衛門のことか。貞享三年の「日の春を」の巻の五十句目に、
人あまた年とる物をかつぎ行
さかもりいさむ金山がほら 朱絃
の句がある。
盗賊の集会で名月の句を案じて改心するなら、それはそれで風流の効用ではないかと思うが、「例の昼狐」というのはやはり路通を泥棒扱いしていて、それを同門も他門も許すなということか。路通がたとえ泥棒だったとしても、俳諧を奪ったらそれこそただの泥棒になってしまう。
「予短才未練なりといへども、一派の俳諧におゐては大敵をうけて一方の城をかため、大軍をまつ先かけ一番にうち死せんとするこころざし、鉄石のごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39)
まあ、「猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」の心に程遠い。どちらかというと、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
という感じだ。そんなことよりも世俗をあっと言わせるような句を詠んでくれよ、と言いたい所だ。
「故に同門のそねみあざけりをかへりみず、筆をつつまずしてこれをおこす。この雑談隠密の事、さたにおよばず、諸門の眼にさらし、向後をつつしむたより(と)ならば、大幸ならん。願はくは高弟、予とともにこころざしを合せて、蕉門をかため、大敵を防ぎ給へ。
右 許六稿」
(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.39~40)
何か話がとんでもない方向に行ってしまった。まるで共産圏の論理で、飢饉が起こると、いつの間にか誰か裏切り者がいるせいだという話になり、粛清の嵐が吹き荒れるみたいな恐ろしさすら感じられる。そうじゃないでしょ。俳諧を盛り上げるには良い句を作る、それだけでしょ。
これで許六の手紙は終る。去来もこれは止めなくてはいけない所だ。
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