2018年9月10日月曜日

 西洋の言語だと「男」という言葉で同時に「人間」をあらわしたりするが、日本語の「おとこ」にそういう用法はない。日本人にとって「人間」というのは男でもなく女でもなくその中間にある。過度な男らしさは荒くれで抑制されなければならない。
 日本の男性アイドルを見ればいい。西洋や韓国と違い、見た目華奢で背も低く「可愛い」を売りにしている。
 男=人間ではないという考え方はLGBTの権利を考える時でも有効だと思う。「人間」はそのすべての中間にある。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「来書曰、近年湖南京師の門弟、不易・流行の二ッに迷ひ、さび・しほりにくらまされて、真の俳諧ヲ取うしなひたるといはんか。
 七、去来曰、此語、阿兄の奥旨左ニ有。其処に於て是ヲ弁。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 これについては、次のところでまとめて論じる、と。

 「来書曰、予たまたま同門に対して句を論ずるに、詞の続き、さびを付ざれバ、よしといはず。一句のふり、しほりめかねば、会て句とせず。是船を刻ミ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)する類ならんか。
 八、去来曰、此論阿兄の言のごとくんバ、其対したまふ人の過論なり。凡さび・しほりハ風雅の大切にして、わするべからざるもの也。然ども、随分の作者も句々さび・しほりを得がたからん。ただ先師のミ此あり。
 今日の我等の作者、なんぞさび・しほりのなき句をいとひすてんや。此をつねにねがふといはんハ、むべなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.46)

 去来が言うには、それはたまたま論じたその人に行き過ぎがあっただけで、さびしほりは大事だけど先師でない我々にはそれを判定することが難しいから、さびしほりがなくてもいいことにしている、ということ。
 先送りしておいて、うまいこと不易流行の方はスルーし、さびしほりにだけ答えている。
 さびしほりについても、結局よくわからないから、あれは先師にしかできない技で、我々にはあくまで目標にすぎないというわけだ。

 「又有ハなきにましたりといはんハよし。此をいとひすてんハ、過たるならん。かくのごとく論ぜば、我等ただ口をつぐまんにハしかじ。又壮年の人の句ハ、さび・しほり見えざるも、却て又よしといはんか。又初心の作者ハ、さび・しほりを容易にとくべからず。却て其吟口閉て、新味にうつりがたし。此先師の教なり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 『去来抄』「修行教」には一応、「さび」について説明している箇所が有る。

 「野明曰、句のさびはいかなるものにや。去来曰、さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし。賑かなる句にも、静なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。
  花守や白き頭をつき合せ    去来
先師曰、寂色よく顕はれ、悦べると也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77~78)

 さびは色だという。実際に「さびいろ」という色は存在する。漢字だと錆色で、その名のとおり赤錆の色、酸化鉄の色だ。「日本の伝統色 和色大辞典」というサイトによれば#6c3524になる。
 鉄が古くなるとさびてゆくように、人も古くなるとあちこちに老化の色が現れる。
 「たとへば老人の甲冑を帯し、戦場にはたらき、錦繍をかざり御宴に侍りても老の姿有がごとし」という例も、「花守や白き頭をつき合せ」の例も老いた様子をさび色としている。
 「さび」は「神さぶ」から来たという説がある。weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」にも「神(かみ)さぶ」は、

 ①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。
 ②古めかしくなる。古びる。
 ③年を取る。

とある。
 大体雰囲気としては「さび」は、長い時の経過によって変わってしまった姿で、何となく無常感を感じさせるようなものとみていいのだろう。ただ、それは心ではなく、あくまでも具体的な「もの」として現れることが大事なようだ。花守の句では「白き頭」がそれになる。
 芭蕉の代表作で言えば、

 古池や蛙飛び込む水の音    芭蕉

では「古池」がそれか。あとは、

 夏草や兵どもが夢の跡     芭蕉

の「夏草」がそれだろうか。
 「しほり」については、

 「野明曰、句のしほり、細みとは、とはいかなるものにや。去来曰、句のしほりは憐なる句にあらず。細みは便(たより)なき句に非ず。そのしほりは句の姿に有。細みは句意に有。是又證句をあげて弁ず。
  鳥どもも寐入て居るか余吾の海   路通
先師曰、此句細み有と評し給ひし也。
  十団子も小粒になりぬ秋の風   許六
先師曰、此句しほり有と評し給ひしと也。惣じて句の寂ビ・位・細み・しほりの事は、言語筆頭に応(しる)しがたし。只先師の評有句を上て語り侍るのみ。他はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

とまあ、はやり去来も明確には説明できなかったようだ。
 おそらく路通の句は鳥が寝ている姿は詠まれていないが、見えない鳥のことを気遣うあたりが「細み」なのだろう。
 芭蕉でいえば、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

の句だろうか。蓑笠着た猿を見たわけではないが、蓑笠があったらいいだろうなと猿のことを気遣うのは、細みなのかもしれない。
 「しほり」は姿だという。「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させるが、哀れさという心ではなく、その姿を描くことにある。

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

でいえば、「小粒の十団子」が「しほり」であり、秋風の哀れな情と違い、具体的な形を持っている。

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六

にしても、年を越す訴訟人の姿に、また一年空しく終ってゆくかといった哀れさが感じられる。
 失われてゆくことへの哀れさ、悲しさを、どういう姿で表現するかが問題で、情そのものは常だが、それが思いもかけぬもので現れるところに意味があったのではないかと思う。
 芭蕉の句で言えば、

 道のべの木槿は馬に食はれけり  芭蕉

だろうか。
 これらは芭蕉が発見した名句の法則だったのかもしれないが、もちろん断片的なもので、体系をなすものではない。それだけに、なかなか狙ってできるものでもない。
 なお、世間ではよく「わびさび」というが、芭蕉は「わび」については語っていない。

 「又八、又曰、しほり・さびハ、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句ハ異也。しほりハ、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句ハ別也。ただ内に根ざして、外にあらハるるもの也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.47)

 さび・しほりは情を情として述べるのではなく、一つの姿、形、外形にするところに生ずる。これは虚において実をおこなうということにも通じる。

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