午前中は雨が降ったが、午後からは晴れた。台風は明日来るらしい。
それでは、『俳諧問答』の続き。
「アア諸門弟の中に、秀逸の句なき事をかなしむのみ。
翁滅後門弟のなかに挟る俳諧の賊あり。茶の湯・酒盛の一座に加はり、流浪漂白のとき、一夜の頭陀をやすむたまふはたご屋など(に)出て、門弟のかずにつらならんとするあぶれものども、みだりニ集作る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.37~38)
この賊は路通のことか。許六選の『風俗文選』の作者列伝には、
「路通者不知何許者。不詳其姓名。 一見蕉翁聽風雅。其性不實輕薄而長遠師命。飄泊之中著俳諧之書。」
とある。
一度は芭蕉に破門されたものの最終的には許されたというし、いろいろ素行が悪いという噂はあっても、一体何をしでかしたのかというと、確実な資料はない。
ウィキペディアには、
「芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出、また『芭蕉翁行状記』を撰び師の一代記と17日以降77日までの追善句を収め元禄8年(1695年)に出版した。」
とある。これが「みだりニ集作る」ということなのか。
「一流はんじゃうにはよろしといへども、却て一派の恥辱・他門の嘲り、かたがたかた腹いたく侍らんか。高弟眉をしかめ、唇を閉給ふと見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)
『芭蕉翁行状記』の前半は「行状記」で、後半に追善の俳諧などが収められている。
木がらしや通して拾ふ塚の塵 路通
を発句とする世吉(四十四句)には、木節、土芳、智月、如行、乙州といった名前が見られる。発句の所には惟然、嵐雪、桃隣、北枝、牧童などの名もある。木節の「冬の月」の巻には去来も参加している。
何が悪いかよくわからないが、許六が参加してない所を見ると、よほど許六は路通が嫌いだったと見える。
「集作りて、善悪の沙汰におよぶは、当時撰集の手柄なり。頃日の集は、あて字・手爾於葉の相違・かなづかひのあやまり、かぞふるにいとまなし。しらぬ他門より論ぜば、高弟去来公のあやまりと沙汰し申侍らん、むべならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.38)
校正の不備ということか。一般的にこの時代は古い時代の「は」と「わ」、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の区別などが曖昧になっていた。芭蕉も自筆稿には誤字脱字が見られる。人間だもの。
0 件のコメント:
コメントを投稿