2020年3月31日火曜日

 コロナが五月くらいには終息するなら、これまで被害を受けてきた観光業、畜産業(特に和牛)、イベント関連、ライブハウス、ミュージシャンなどに個別の補償をするという考え方は正しい。
 ただ、これが一年二年、あるいは数年に及ぶかもしれないとなれば、今後被害はあらゆる業種に及ぶことになる。声の大きい特定の業種だけに補償を行えば、不満も出てくるだろう。かといって、すべての業種を補償するとそれだけで国家が破綻しかねない。
 五月終息なら、景気回復のための商品券でもいいかもしれないが、終息しないなら国内に多くの失業者があふれ、まず必要なのは現金ということになる。
 基本的には一律にお金を配るのが一番いい。なぜなら、社会が混乱する時に細かい事務手続きや審査に人手を廻すわけにはいかないからだ。これから起こる数々の不幸の前には、過去の年収なんてのもあまり意味はない。
 長期化すれば定期的に行う必要が出てくるから、ほぼなし崩し的にベーシックインカムになってゆくのではないかと思う。
 その間に産業の方でAIとロボットによる無人化と商取引のオンライン化を推し進め、経済を再生していかなくてはならない。教育もオンライン化が急務だ。
 何のことない。これまで想定された未来社会を前倒しに実行して行けば良いだけだ。今は崖っぷち、明日は奈落の底かもしれないが、それでも明日を信じる。昔から人類はそうして来た。氣志團ではないが、行こうぜ、コロナの向こうへ。

   台風の尋常でない夕月夜
 ブルーシートの脇は芭蕉葉

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 四十三句目。

   徒然そうにも文をこそよめ
 ふりよくする憂身の上に恋をして  兼載

 「ふりよく」がわからない。おそらく「ふりょく」か「ぶりょく」で、憂身に掛かるからあまり良いことではないのだろう。とすると「無力(ぶりょく)」ではないか。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① (形動) 力がないこと。また、そのさま。むりょく。
  ② (形動) 資力のないこと。貧しいこと。乏しいこと。また、そのさま。貧困。むりょく。〔文明本節用集(室町中)〕
  ③ (━する) 財産を失うこと。貧乏すること。
  ※ロザリオの経(1623)四「ツイニワ buriocu(ブリョク) シケルユエニ」

とあり、③に「無力する」という言い回しがあることが記されている。
 つまりこの句は「財産を失った憂身の上に恋をして」となる。
 前句の「徒然」にはしんみりと物思いに沈むという意味もある。
 四十四句目。

   ふりよくする憂身の上に恋をして
 涙にぬるる紙きぬの袖       兼載

 「紙きぬ」は紙子のことであろう。
 前に「守武独吟俳諧百韻」のところで、「近世になると紙が安価になったため、貧乏人の衣裳となったようだが、守武の時代はどうだったかはわからない。紙が貴重だった時代はそれなりに高価だっただろう。」と書いたが、それでも布よりは安かったか。
 紙子をぼろぼろになるまで着ればいかにも乞食という感じがする。そのことは二月四日の俳話にも書いた。ただ、そこまでいかなくても貧しいというイメージはあったのだろう。
 兼載の時代で紙子が「無力する」のイメージだったなら、考えを改めなくてはいけない。
 四十五句目。

   涙にぬるる紙きぬの袖
 哀にも時守は尼におくれつつ    兼載

 「時守(ときもり)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「宮中で、漏刻を守り時刻を報ずることをつかさどった役人。陰陽寮おんようりように属した。守辰丁しゆしんちよう。」

とある。
 ただ、それが尼に先立たれるというのは意味がよくわからない。「時守」には別の意味があったか。あるいは時宗の僧の意味での「時衆(じしゅう)」か。
 四十六句目。

   哀にも時守は尼におくれつつ
 西にむかひておどりはねけり    兼載

 時守が時衆なら、念仏踊りのことで意味が通じる。この場合、前句の「おくれつつ」は尼の後ろに付いて踊るという意味になる。
 四十七句目。

   西にむかひておどりはねけり
 東より都にのぼるおくの駒     兼載

 陸奥(みちのく)の駒は元気がいいのか、都に上る道すがら踊り跳ねている。
 四十八句目。

   東より都にのぼるおくの駒
 あふさかやまをはひこへぞする   兼載

 逢坂山はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「相坂山とも書く。滋賀県大津市西部と京都市山科区を境する山。標高325m。古来,畿内の北東を限る交通の要衝に位置するため逢坂関が置かれた。山の南北に峠道が通じ,北側は小関越(古代の北陸道),南側は旧東海道をほぼ踏襲して国道1号線,名神高速道路,京阪電鉄京津線が通過する。山の下を東海道本線と湖西線がトンネルで抜けている。近世,大津から京都へ北国米を運搬するため,峠の急坂に花コウ岩を並べた舗装道路がつくられた。」

とある。室町時代までは馬が這うようにして登るほどの急坂があったか。
 四十九句目。

   あふさかやまをはひこへぞする
 蝉丸の杖をば人にうばはれて    兼載

 逢坂山といえば、

 これやこの行くも帰るも別れては
     知るも知らぬも逢坂の関
              蝉丸(後撰集)

が有名だが、謡曲『蝉丸』では盲目のため帝の命により逢坂山に捨てられるときに、蓑と笠と杖をもらう。
 その杖を奪われたなら、目の不自由な蝉丸は逢坂山を這って登らなくてはならない。
 五十句目。

   蝉丸の杖をば人にうばはれて
 手もちわるくも独ただぬる     兼載

 「手もちわるく」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「〔中世・近世の語〕
  ①手持ち無沙汰で、恰好(かつこう)がつかない。 「聞き入るる耳がないと愛想なければ-・く/浄瑠璃・平家女護島」
  ②人との折り合いが悪い。 「アノ人ワ-・イ/日葡」

とある。
 杖がなければ恰好がつかないし、奪われたとなれば疑い深くもなり、人を避けるようにもなる。ゆえに独り唯寝る。

2020年3月30日月曜日

 また日常が戻ってきた。ただ、年度末の月曜日にしては静かな方か。
 今日はあちこちでトイレットペーパーが積んであるのを見た。もうオワコンなのかな。そういえばカップ焼きそばが山のように積んであるコンビにもあった。
 コロナが蔓延するよりもずっと前から、ユーチューバーがたくさんいたり、宅録系のミュージシャンが活躍していたりしたが、コロナを一つの契機に、これからの芸術は自宅から自宅へというのがキーワードになるのかもしれない。「自宅から自宅へ」ではダサいから、何かかっこいい英語の言い回しがあればいいんだが。
 従来の大勢の人を一箇所に集める劇場型の芸術ではなく、ネットを媒介とした新しい芸術の波は既に起きている。コロナはそれを加速させ、芸術そのものを変えてゆく可能性を持っている。
 かつての黒死病が中世を終らせルネッサンスへの扉を開いたように、コロナも文明を新たな段階へと導くのかもしれない。
 人が死んでゆくのはどうしようもなく悲しいけど、何かやはりポジティブに考えたいね。

   見れば真っ赤に燃え上がる空
 台風の尋常でない夕月夜

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 二裏。
 三十七句目。
   留守におかるる身こそつらけれ
 猿楽の笛と太鼓を聞計       兼載

 室町時代では能と狂言をひっくるめて「猿楽」と言った。庶民から貴族に至るまで国民的な娯楽だった。
 見に行きたいのに自宅で留守番を命ぜられ、遠い笛や太鼓の音だけを聞くのは寂しい。
 三十八句目。

   猿楽の笛と太鼓を聞計
 うたへどさらに声ぞしいける    兼載

 「しふ」はこの場合は「癈ふ」で、weblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「目や耳などの感覚がまひする。身体の器官がだめになる。老いぼれる。」

とある。
 声が衰えて歌が聞こえず笛と太鼓だけが聞こえる。なんだかボーカルの弱いロックバンドみたいだ。
 三十九句目。

   うたへどさらに声ぞしいける
 庭鳥の尾もなき程に年ふりて    兼載

 鶏も年取れば声が衰える。
 四十句目。

   庭鳥の尾もなき程に年ふりて
 尻のまはりはみられざりけり    兼載

 鶏には立派な尾があるが、それがないとなりゃ確かにみすぼらしい。見れたもんではない。
 四十一句目。

   尻のまはりはみられざりけり
 小児達窓より顔をさし出し     兼載

 「小児達」は「ちごら」か。
 窓から顔を出しているのだから顔だけで、肝心の尻は見えない。ホモネタ。
 四十二句目。

   小児達窓より顔をさし出し
 徒然そうにも文をこそよめ     兼載

 字数からしてこの場合は「つれづれ」ではなく「とぜん」か。「退屈そうに」という意味だが、この場合は相手がいないならというニュアンスか。

2020年3月29日日曜日

 今日は明け方までは雨だったが朝になって雪に変わった。昼過ぎまで降って、ほんの少し積もり雪景色になった。
 子供の頃のおぼろげな記憶では四月に雪が降ったこともあった。多分1969年4月17日の雪だろう。このときの雪は高田渡が「春まっさい中」という歌で唄っている。
 一日お籠りするにはちょうどいい雪だった。街も静かだっただろう。明日はまたあの人混みと渋滞が戻って来るのかな。
 コロナ退散祈願俳諧(仮)、六句目。

   ドアに立つおやじ動こうともしない
 見れば真っ赤に燃え上がる空

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 二十九句目。

   鋤持人はおほはらの里
 秋は只よろづの物をくばはれて   兼載

 旧暦八月一日の八朔は室町時代に既に公式行事になっていたという。大原の里でも鋤が配られたたか。
 三十句目。

   秋は只よろづの物をくばはれて
 さるのかしらは紅葉しにけり    兼載

 秋から紅葉の景色に逃げるが、そこは俳諧なので猿の顔を紅葉に喩える。
 三十一句目。

   さるのかしらは紅葉しにけり
 露時雨ひつじの時や晴ぬ覧     兼載

 時雨は冬だが「露時雨」だと秋になる。未の刻は午後二時頃。
 なぜ未かというと、前句の「さるのかしら」を申の刻の頭に取り成しているからだ。
 未の刻までは晴れていたのに、申の刻には時雨となって紅葉が雨露に色鮮やかに染められてゆく。
 なお、会津の「さんさ時雨」はこれより後の時代、伊達政宗の頃に始まる。
 三十二句目。

   露時雨ひつじの時や晴ぬ覧
 いそぐあゆみに捨るみのかさ    兼載

 未の刻までは晴れていたが、突然の時雨にどこかの家に駆け込み、やれやれと蓑笠を脱ぐ。
 三十三句目。

   いそぐあゆみに捨るみのかさ
 鬼だにも仏をみれば逃ぞする    兼載

 大江山の酒呑童子は元々比叡山に住んでいたが、最澄が延暦寺を建てたことで逃げ出して、大江山に移り住んだという。
 三十四句目。

   鬼だにも仏をみれば逃ぞする
 おがみてとをれ堂寺の前      兼載

 「堂寺(どうてら)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 堂や寺。〔日葡辞書(1603‐04)〕」

とあり、特にどこの寺というわけではないようだ。鬼にあいたくなければ、堂寺で拝みなさい、という釈教の句になる。
 ちなみに会津のさざえ堂は寛政八年(一七九六年)の建立で、三百年くらい後になる。
 三十五句目。

   おがみてとをれ堂寺の前
 旅の道さはり有なと祈念して    兼載

 その昔、和歌で名高い藤中将実方が陸奥の守に左遷になったとき、現在の宮城県名取市の笠島で道祖神の社を無視して通過しようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて転がり落ちて死んだという。
 西行は、

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
     枯野のすすき形見にぞ見る
                 西行法師

と詠み、後に芭蕉も、
 
 笠嶋はいづこさ月のぬかり道    芭蕉

とこの藤中将実方を追悼している。
 堂寺の前では必ず拝んで通るようにしよう。

 三十六句目。
   旅の道さはり有なと祈念して
 留守におかるる身こそつらけれ   兼載

 旅人からそれを見送る人へと転じる。
 『伊勢物語』二十三段筒井筒の、

 風吹けば沖つ白浪龍田山
     夜半にや君がひとり越ゆらむ

の歌も思い浮かぶ。

2020年3月28日土曜日

 今日も曇ってたが暖かかった。夕方から雨が降り出した。
 さすがに都が外出の自粛を呼びかけただけあって、今日は人も車も少なかった。桜は散り始めていた。
 コロナ退散祈願俳諧(仮)、五句目。

   言葉少なに駅の押し合い
 ドアに立つおやじ動こうともしない

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 二表。
 二十三句目。

   銭をばもたぬ道の悲しさ
 傾城はあれども宿に独寝て     兼載

 ウィキペディアに、

 「室町時代には、足利将軍家が京都の傾城屋から税金を徴収していた。1528年、傾城局が設置され、遊女は、制度のもとに営業するようになった。」

とある。ここでいう傾城は遊女ではなく遊郭のこと。まあ、先立つものがなければ。
 二十四句目。

   傾城はあれども宿に独寝て
 唯恋しさは古さとのつま      兼載

 律義な男で、遊郭があってもそこに行かずにひたすら故郷の妻のことを思う。
 二十五句目。

   唯恋しさは古さとのつま
 世の中をぶせうながらも捨てにけり 兼載

 「ぶせう」は無精か。世俗のことがいろいろと面倒くさくなって世捨て人になったが、別れた妻が恋しくなる。
 二十六句目。

   世の中をぶせうながらも捨てにけり
 法師とみれば在家入道       兼載

 無精だからお寺に入って修行など真っ平ということか。
 二十七句目。

   法師とみれば在家入道
 畑をうつ身は墨染によごれつつ   兼載

 百姓の在家だから墨染めの衣で坊主頭で畑を耕す。僧衣には泥がついている。
 二十八句目。

   畑をうつ身は墨染によごれつつ
 鋤持人はおほはらの里       兼載

 京都の大原は炭の産地で、大原女は炭を売っていた。
 炭の産地だから農夫も片手間に炭を作っていたのだろう。前句の「墨染によごれつつ」を「炭」で汚れたと取り成す。

2020年3月27日金曜日

 今日は一日どんより曇り、時折ぱらぱらと雨が降った。仕事でいろいろなところを走るから、満開の桜は花見をしなくても見れる。
 コンビニは今日も特に変わったことはなかった。二日間家に籠るからというので、生鮮品を買いだめする人が多かったからではなかったか。
 日本は災害時でも治安が良いし、食料がなくても必ず誰かが炊き出しに来てくれるから、非常時でもそれほど食料の確保に血眼にはならない。
 多分日本では強制的な移動制限による都市の封鎖はないだろう。第一そのような法律はどこにもない。非常事態条項を憲法で定めてないから、基本的に移動の自由など人権を制限することはできない。非常事態宣言をしてもただ自粛を要請するだけだ。違反しても罰則はない。
 それでも強権的な措置を取った国が大変なことになっているのに、日本は未だに混乱もなく、今までどおりの日常が続いている。
 結局強制すれば人は逃げ出すだけだし、あの手この手で法をかいくぐろうとするだけだ。それよりも一人一人の臣民としての自覚ある行動を促す日本のやり方の方が今のところうまくいっているのではないか。
 まあ、でも先のことはわからない。どのみち早かれ遅かれ同じ結果になるのかもしれない。ただ、不信と恐怖の中で死ぬよりは笑って死ぬことを選ぶのが我々の道だ。
 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。と、その前にアマビエ、

   タワマンの霞の中に夜は明けて
 言葉少なに駅の押し合い

 あらためて十七句目。

   しのびしのびにつまをたづぬる
 さひを手に取ながらへるも口惜や  兼載

 「さひ」はサイコロのことであろう。博打に身をやつし、放浪の身になってしまったが、それでもひそかに昔の妻を訪ねる、といったところか。
 十八句目。

   さひを手に取ながらへるも口惜や
 はだかにならばさていかにせむ   兼載

 東京国立博物館蔵の「東北院職人歌合絵巻」の博徒は烏帽子だけ被った全裸の姿で描かれる。文字通り身ぐるみをはがされた姿だ。
 十九句目。

   はだかにならばさていかにせむ
 人の物我ふところにぬすみ入    兼載

 スリか万引きか、とにかく盗んだものは取り合えず懐に入れるが、見つかって裸になれと言われたら、もちろんばれてしまう。
 二十句目。

   人の物我ふところにぬすみ入
 しらず顔なるつらのにくさよ    兼載

 明らかに盗んだというのに、居直って「何のことかな」なんて言われれば、そりゃあむかつく。鉄面皮というやつだ。
 二十一句目。

   しらず顔なるつらのにくさよ
 急をも動せぬ船のわたし守     兼載

 「いそぎをもどうぜぬ」と読むのだろう。
 船では船頭さんの言うことは絶対で、今日は川が増水していて危険だ、船は出せねえ、と言われれば、いくら急いでいても黙るほかない。
 二十二句目。

   急をも動せぬ船のわたし守
 銭をばもたぬ道の悲しさ      兼載

 「銭をばもたぬ道」というのは乞食僧のことか。
 『西行物語』に、出家して東国へ下る西行が天竜川を渡る時、武士がたくさん乗った舟に同乗したが、定員オーバーで危ないというので「あの法師、下りよ下りよ」と言われ、よくあることだと思ってシカトしてたら鞭で打たれたというエピソードが記されている。
 まあ、実話ではなくおそらく作りだろうけど、こういうことは当時よくあることだったのだろう。

2020年3月26日木曜日

 今日も晴れて夕暮れの空には細い幽かな三日月が見えた。
 ネット上でスーパーから食料品が消えたと言っていたが、今朝都内のコンビニに行ってもいつもどおり物はあった。
 東日本大震災の時はパンもおにぎりも弁当もなく、仕方なく昼食にポテチを食べたことがあったが、今日はそんなことはなかった。
 夕方にやまやへビールを買いに行ったが、ここもいつものとおりでパスタもたくさんあった。
 夜のテレビではスーパーの空っぽの棚を映していたりしたが、いつもながら大袈裟に煽っている。
 「アマビエ」の巻、一日一句づつ付けていこうかな。

 アマビエもつれるといいな糸桜
   春がいくまで二十八日
 タワマンの霞の中に夜は明けて

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 初裏。
 九句目。

   門のまはりに立まはりけり
 たび人の宿をも終にこずかれて   兼載

 「こずかれて」は「来ず離れて」か。
 旅人は門の所をうろうろするだけで終にやって来なかったということか


 十句目。

   たび人の宿をも終にこずかれて
 あぢきなげなるゆふくれの空    兼載

 旅人は来ず、つまらない夕暮れの空だった。
 十一句目。

   あぢきなげなるゆふくれの空
 こしをれの祖父に似たる三日の月  兼載

 「祖父」は「おほぢ」か。三日月が腰の曲がった祖父さんのように見え

る。
 十二句目。

   こしをれの祖父に似たる三日の月
 秋やはつらんわかきかたがた    兼載

 「祖父」に「わかきかたがた」と違え付けで付ける。
 秋はもう終わってしまったのかい、若き方々よ、と三日月が言っている

かのようだ。
 十三句目。

   秋やはつらんわかきかたがた
 露ほとも用られぬかまひごと    兼載

 「用ゐられぬ」「かまひごと」だと65で字足らずになる。
 よくわからないが、計画に用いてもらえないということか。
 十四句目。

   露ほとも用られぬかまひごと
 後には中をたがわれぞする     兼載

 前句の構ってもらえないとして、仲違いする。恋に転じる。
 十五句目。

   後には中をたがわれぞする
 若僧のはしめのほどは思ひあひ   兼載

 これは若僧同士のホモネタか。
 十六句目。

   若僧のはしめのほどは思ひあひ
 しのびしのびにつまをたづぬる   兼載

 これは妻帯の僧侶に転じるか。

2020年3月25日水曜日

 今日も穏やかに晴れた一日だった。旧暦二日だが月はまだ見えなかった。二日の月の吹き散るか。
 都内で感染者が急増し、今日は新たな感染者が四十人だという。志村けんの感染・重篤化がニュースになっていた。
 今更という感じで会社からは手洗いやうがいをするようにだとか、人が大勢集まるところには行かぬようにだとかいう紙が配布された。
 日本では相変わらず自粛要請ばかりで強制力はないから、海外の人からすれば何て緩いんだというところだろう。緩くてもそれなりに節度を持つのが日本人だ。強制ではないからといって、あまり好き勝手すると叩かれるのは当然だが。
 アマビエもつれるといいな糸桜、春がいくまで二十八日。

 それでは「兼載独吟俳諧百韻」の続き。

 四句目。

   永日の暮ぬる里に鞠をけて
 ほころびがちにみゆるかみしも   兼載

 かみしも(裃)は江戸時代には武家の礼服となったが、室町時代では庶民のものだった。
 かみしもには肩衣袴の裃と素襖長袴の長裃があった。素襖長袴の素襖(すおう)はウィキペディアによれば、

 「鎌倉時代以降礼服化していった直垂の中でも、簡素で古様なものが室町時代になると素襖と呼ばれるようになった。初めは下級武士の普段着だったが、室町時代末期に至り大紋に次ぐ礼装となる。」

だという。
 ただ、長袴で蹴鞠は無理があるので、ここでは長裃ではなく肩衣袴の普通の裃であろう。ウィキペディアによれば、

 「肩衣には袖が無いが、袖無しの衣服は近世以前より用いられていた。ただしそれらは袖をなくす事で動きやすくする庶民の普段着または作業着であった。また本来は狩衣や水干、直垂、 素襖など、これらの上衣と同色同質の生地で袴も仕立てることを「上下」(かみしも)と称した。
 肩衣と袴の組合せによる裃の起源は明らかではないが、江戸時代の故実書『青標紙』には、室町幕府将軍足利義満の頃、内野合戦で素襖の袖と裾を括って用いたことに始まるという伝承を記している。松永久秀または近衛前久が用いたのを始まりとする話もあるが確かではない。文献での使用例を辿ると、天文の頃には肩衣に袴の姿がすでに一般化していたと見られる。その後江戸時代に至り、肩衣と袴の「上下」が平時の略礼服として用いられるようになった。」

だという。
 兼載の時代は天文より前なので、ここは鄙びた里で庶民が蹴鞠をする姿を詠んだのではないかと思う。
 五句目。

   ほころびがちにみゆるかみしも
 主殿と狂言ながらむしりあひ    兼載

 肩衣・袴の裃は狂言では太郎冠者などの庶民の役に用いられ、長裃は主殿の役に用いられる。
 前句の「かみしも」を狂言の衣装として、互いに毟りあう芝居をする。
 六句目。

   主殿と狂言ながらむしりあひ
 いそひで鳥をくはんとぞする    兼載

 「狂言」にはweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」によれば、

 「④道理にはずれた言葉や行為。たわごと。 「孔明が臥竜の勢をききをじしてかかる-をば云ふ/太平記 20」

という意味もある。
 ここでは急いで鳥を食おうとして、狂ったように羽をむしる様に取り成す。
 七句目。

   いそひで鳥をくはんとぞする
 鷹犬の鷹よりさきに走出      兼載

 「鷹犬(ようけん)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 鷹狩に用いる犬。
  ※隆祐集(1241頃)「かへさの道より鷹犬をこひ侍るとて」
  〘名〙
  ① 鷹(たか)と犬。ともに狩猟に用いる。
  ※令義解(718)職員「正一人。〈掌下調二習鷹犬一事上〉」 〔宋史‐楊業伝〕
  ② 他人に使役されること。他人の手先となって働くこと。また、そのもの。
  ※太平記(14C後)一七「雖レ非二鷹犬(ヨウケン)之才一、屡忝二爪牙之任一」 〔宋史‐唐坰伝〕」

とあるが、ここでは「鷹狩に用いる犬」をいう。鷹が獲物を取る前に犬が走り出し、鷹に取られる前に真っ先に鳥を食おうとする。
 八句目。

   鷹犬の鷹よりさきに走出
 門のまはりに立まはりけり     兼載

 狩から戻った時であろうか、犬が先に門のほうへ走り、早く開けろとばかりにあたりをうろうろする。

2020年3月24日火曜日

 天気は良いが花冷えの一日となって、これで染井吉野も週末まで持つかな。週末の天気は今一つのようだが。
 COVIT-19の足音もそろそろすぐ後にまで迫ってきたようで、ひょっとしたらこの自分も100日後には死んでいるのかもしれない。今のヨーロッパやアメリカを見ていると冗談とも言えない。
 日本の人口は1億2595万人。この6割が感染したなら7557万人になる。致死率が1パーセントとしても75万人は死ぬことになる。イタリアのように医療崩壊で8パーセントということになったら、6百万人が死ぬことになる。
 第二次世界大戦での日本人の死者が310万人と言われているから、これをコロナとの戦争と呼ぶのは大袈裟でもなんでもない。
 まあ、とにかく一日一日を大切に生きよう。

 旧暦の方では弥生に入り、また俳諧を読んでいこうと思う。
 今回取り上げるのは上野白浜子著『猪苗代兼載伝』(二〇〇七年、歴史春秋社)に掲載されている『兼載独吟俳諧百韻』で、あえて注釈のないこれに挑戦してみようと思う。
 この独吟は文亀二年(一五〇二年)春の作と見られている。前に読んだ『宗祇独吟何人百韻』の三年後だ。
 兼載はこのとき会津の黒川(今の会津若松市)の自在院に籠っていたという。
 まずは発句。

 花よりも実こそほしけれ桜鯛    兼載

 「花」といえば桜だが、「実の方が欲しい」と言って何のことかと思ったら「桜鯛」で落ちになる。さすがに室町時代で素朴な句だが、基本的な語順を間違えたりはしない。
 桜鯛はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 桜の花が盛りのころ、産卵のため内湾の浅瀬に群集するタイ。瀬戸内海沿岸で特にいう。花見鯛。《季 春》「俎板(まないた)に鱗(うろこ)ちりしく―/子規」
  2 スズキ目ハタ科の海水魚。全長約20センチ。体は卵形で側扁し、雄は鮮紅色。桜の咲くころが産卵期で、内湾の浅瀬に群集する。本州中部以南に産し、食用。」

とある。この場合は1の意味。
 曲亭馬琴の『俳諧歳時記栞草』には、

 「[本朝食鑑]歌書に云、春三月、さくらの花ひらきて、漁人多くこれをとる。故に桜鯛と云。〇ゆく春のさかひの浦のさくらだひあかぬかたみにけふや引らん 為家」

とある。
 桜鯛は江戸時代の俳諧でも詠まれている。
 常矩編の『俳諧雑巾』には、

   桜鯛
 生桜科は陽吹ぞうらみなる     尒木
 遅桜夷の手風もれけりや      常二

の二句が記されている。
 「陽吹(やうす)」は春風のこと。桜鯛も温かい春風に吹かれると傷みやすいということか。
 遅桜の句は、散る桜を夷様の手から漏れた桜鯛に喩えたものか。
 言水編の『江戸蛇之酢』にも、

 陸づけや見れば旅宿の桜鯛     泰清
 もりかたの箸やかざしの桜鯛    口拙

の二句が見られる。
 「陸づけ」は船の着岸のこと。漁船から旅宿へ、たくさんの桜鯛が水揚げされる。
 「もりかたの箸」は盛り箸(真菜箸)のことであろう。盛り付けのときに使う鉄の箸をいう。これが桜鯛の簪(かんざし)のように見える。
 同じく言水編の『東日記』には、桜鯛の句が七句も載っている。そのなかには、

 墨染めに鯛彼桜いつかこちけん   其角

の句がある。お坊さんが鯛などを食べて、桜だと言い訳しているのだろうか、という意味か。
 それでは『兼載独吟俳諧百韻』にもどり、脇。

   花よりも実こそほしけれ桜鯛
 霞のあみを春のひたるさ      兼載

 「ひたるさ」は空腹のこと。
 「霞網」は小鳥を取るための網だが、ここでは霞を網に喩えているだけ。桜鯛が食べたいが、あるのは春の霞の網だけで魚網はなく、腹が減った、となる。
 第三。

   霞のあみを春のひたるさ
 永日の暮ぬる里に鞠をけて     兼載

 霞の網のたなびく春の永日(ながきひ)も暮れるまで蹴鞠に没頭し、腹が減ったとする。

2020年3月22日日曜日

 今日は溝の口の二ケ領用水沿いの枝垂桜を見に行った。電車でも生ける所だが車を使った。
 枝垂桜は満開のもあればまだ咲いてないのもあった。同じように用水路沿いを散歩する人もちらほらいた。
 川上の方に行くと久地円筒分水という水路のロータリーのようなものがあった。ここの染井吉野の大きな木もほぼ満開だった。ここでも花見する人がちらほらいた。
 近所でも木によっては染井吉野がほぼ満開になり、シートを広げたりレジャーテントを置いたりして花見を楽しみ人がいて、子供達もたくさん遊んでいた。例年よりはやや人数が少ないかなという程度で、賑わっていた。
 来年もまたみんな生きて花見をしようね。
 言水編の『東日記』に、

 山川に人魚つるらん糸ざくら    丸尺

という句があったが、アマビエもつれるといいな糸桜。

2020年3月20日金曜日

 今日も晴れて暖かい一日だった。花見にはまだ早い。
 それでは「水音や」の巻、挙句まで。

 十三句目。

   古き簾にころ鮫をつる
 小さうて砂場をありく原の馬    利牛

 海辺の放牧地であろう。宮崎の都井岬のような所が、かつてはいたるところにあったのか。都井岬も高鍋藩の放牧地だった。
 十四句目。

   小さうて砂場をありく原の馬
 螽を焼て誰が飡ぞめ        桃隣

 「喰い初め」は赤ちゃんの百日祝いで、食べる真似をする儀式だが、普通はお目出度いものをそろえる。
 イナゴは今でも一部で佃煮にして食う文化が残っているが、ウィキペディアには、

 「日本では昆虫食は信州(長野県)など一部地域を除き一般的ではないが、イナゴに限ってはイネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、全国的に食用に供する風習があった。調理法としては、串刺しにして炭火で焼く、鍋で炒る、醤油や砂糖を加えて甘辛く煮付けるイナゴの佃煮とするなど、さまざまなものがある。」

とある。
 農村では鯛などは手に入りにくいし高価だから、イナゴで喰い初めをすることもあったのか。
 十五句目。

   螽を焼て誰が飡ぞめ
 月影の臼も仏の台座也       芭蕉

 仏様はきらびやかな寺院にしかいないものではない。貧しい家の臼の上にも、姿は見えなくても存在している。
 古代ギリシャでもヘラクレイトスがパン焼窯で暖を取りながら「ここにも神はおわします」と言ったという。どこか通じるものがある。
 十六句目。

   月影の臼も仏の台座也
 盗人かへる蔦の朝しも       沾蓬

 月影の臼に仏の姿を見たのか、盗人も改心して何も取らずに帰ってゆく。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の中村注に、

 「『袖』は「朝しも」として脇に「細道」と書き添える。『金蘭』は「細道」として「朝霜」と脇に書き添える。」

とあり、下七が「蔦の細道」、つまり東海道の宇津ノ谷峠越えの道だった可能性もある。ここも昔は山賊が出ることがあったので、それだと山賊の頭領が今までの罪を思い、発心する句とも取れる。
 ただ、次に「沓掛の峠」が付くことから、芭蕉が「蔦の細道」は重いとして、朝霜に改めたのではないかと思う。
 十七句目。

   盗人かへる蔦の朝しも
 沓掛の峠ほのかに花の雲      曾良

 「沓掛峠」は福島中通りから会津に行く途中にもあるが、ここでは茨城県大子町のほうの、山桜の名所になっている沓掛峠であろう。大子町文化遺産のホームページには、

 「沓掛峠という呼称は、平安時代の終わりごろ八幡太郎義家が奥州征伐に行く途中、この地で馬の轡(くつわ)の手綱を松の木にかけて休息したところから「沓掛峠」と呼ばれるようになったと伝えられています(地元の伝承)。」

とある。このあたりは『奥の細道』の旅の事前調査の範囲だったのかもしれない。
 中村注は長野県小県郡の沓掛としている。中山道の碓氷峠の近くの沓掛宿もあるが、そこでもない。
 挙句。

   沓掛の峠ほのかに花の雲
 けふも野あひに燕うつ網      湖風

 燕に限定したものかは知らないが、農作業が始まれば鳥除けの網は張られていただろう。今年も豊作を祈り、目出度く半歌仙は終了する。

2020年3月19日木曜日

 今朝は月の右上に木星と火星、左上に土星と、惑星が珍しく集まっていた。
 染井吉野の方も一部では二分咲き三分咲きになっていた。暖かい一日だった。
 名古屋では近くドライブスルー方式での検体採取を行うという。まあ、一部で試してみて、それで問題がなければ徐々に広めてゆくといいのではないかと思う。
 取りあえず、軽症患者や無症状の感染者までもが病院に押しかけて医療崩壊を起すような事態さえなければ、COVIT-19の死亡率はそう高くない。
 中国も途中から無症状の感染者をカウントしなくなったというが、今の日本に近いやり方に変えたのかもしれない。ただ、この方法は、潜在的な感染者に目が届かなくなるため、それが後々どうなるかという不安はある。
 それでは「水音や」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   昼寝て遊ぶ盆の友達
 小構えに家は木槿の取廻し     桃隣

 小さな家は槿の垣根で囲われている。
 昼間寝ていると、せっかくの槿も、起きた頃には萎んでいたりする。
 八句目。

   小構えに家は木槿の取廻し
 銭一文に下駄をかる道       利牛

 下駄は雨の日に履くことが多かった。急な雨で下駄を借りたか。前句は道の脇の景色とする。
 九句目。

   銭一文に下駄をかる道
 菎蒻の色の黒きもめづらしく    沾蓬

 当時の蒟蒻は生芋から作るため、芋の皮が混じって黒かった。今の黒蒟蒻は乾燥させた芋の粉で作るため本来は白いのだが、ヒジキなどを細かく刻んで入れて黒くしているという。
 芋の粉で作る白蒟蒻が広まるのは江戸後期で、この頃は蒟蒻は黒いのが普通だったはずだが、そのなかでもおそらく安い蒟蒻は不純物が多く、より黒かったのだろう。
 銭一文で下駄を借りるような人なら、蒟蒻にもそんなにお金をかけなかったに違いない。黒い蒟蒻でも愛づべきものだった。
 十句目。

   菎蒻の色の黒きもめづらしく
 祭のすゑは殿の数鑓        曾良

 「数鑓(かずやり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 下卒に持たせるため作られた揃いの槍。
  ※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)二「勢子(せこ)の者がさいたる剣・狩鉾(かりぼこ)・数鑓(カズヤリ)、手に当るを幸になげ付なげ付」

とある。
 王子の槍祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「陰暦七月一三日(現在は八月一三日)、王子神社の祭礼に、同社別当の金輪寺で、太刀三振りを帯びた法師武者と、それに従って槍を持つ多くの法師が出て行なわれる拍板田楽(ささらでんがく)の称。当日、神前に長さ八寸(二四センチメートル)ばかりの竹の槍を奉納し、社内に他人の供えたものを請い受けて帰り、火災・盗賊よけのまじないとした。王子祭。」

とある。数鑓はこの拍板田楽のための槍か。
 田楽といえば蒟蒻。祭で売られていたのであろう。
 十一句目。

   祭のすゑは殿の数鑓
 見るほどの子供にことし疱瘡の跡  芭蕉

 ネットの「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)」によると、寛文二年に長崎で乳幼児を中心に天然痘が大流行したという。芭蕉が伊賀の藤堂家に仕えるようになった年だが、その頃に噂を聞くこともあったのかもしれない。
 疱瘡が流行した後には、祭に集まる子供達にも疱瘡(いも)の跡がある。
 十二句目。

   見るほどの子供にことし疱瘡の跡
 古き簾にころ鮫をつる       湖風

 ころ鮫(胡盧鮫)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① カスザメ科の海産魚。全長約二メートルに達する。体形は、胸びれが左右に広がり、サメとエイの中間形。体色は背部が青褐色で、黒点と白点が散在する。腹部は白い。カスザメと混同されるが、カスザメに比べて胸びれが丸みを帯び、背中線上に棘がない点で区別できる。東北地方以南、台湾までの水深一〇〇~三〇〇メートルの砂泥底に多い。肉はかまぼこの材料、皮は研磨用のやすりにされる。〔俳諧・毛吹草(1638)〕
  ② 魚「かすざめ(糟鮫)」の異名。」

とある。簾に吊ってあるのはやすりにするための皮だろうか。
 疱瘡の跡に鮫肌の連想による付けであろう。

2020年3月18日水曜日

 昨日は以前「芭蕉脇集」で取り上げた、

   水音や小鮎のいさむ二俣瀬   湖風
 柳もすさる岸の刈株        芭蕉

の続き(半歌仙)でも読んでみようかと思って、次の句が、

   柳もすさる岸の刈株
 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

なので、以前乙切草のことを書いたかなと思って、古いファイルを探していた。
 結局「鈴呂屋書庫」の中にもある「鈴呂屋歳時記」の八月二十二日のところにあった。

 「弟切草
 今日は旧暦7月22日。涼しい一日だった。
 今日のテーマは、もっと涼しくなるようにというわけではないが、「弟切草(おとぎりさう)」。

 弟切草:薬師草 青くすり ‥‥略‥‥薬に用ふ。相伝ふ、花山院の朝に鷹飼(たかがひ)あり、晴頼(はるより)と名づく。其業(げふ)に精(くは)しきこと神に入(いる)。鷹、傷を被(かう)ぶることある時は、葉を按(も)みてこれに傅(つく)るときは癒(い)ゆ。人、草の名を乞ひ問ども秘して言ず。然るに家弟(おとゝ)、密にこれを露洩(もらす)。晴頼、大に怒てこれを刃傷(にんじゃう)す。これより鷹の良薬をしる。弟切草と名づく。(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.78~79)

 葉に黒い点々があるのが、その時の返り血だとも言われている。  今日、この草の名は、1992年にスーファミソフトとして発売されたゲーム「弟切草」のタイトルとなったことでよく知られている。これはゲームの世界にサウンドノベルという新しいジャンルを確立したといわれ、その後のアドベンチャーゲームに多くの影響を与えたという。「弟切草」がなかったら「ひぐらし」もなかったかもしれない。
 「青くすり」という別名については、慈鎮和尚の歌が引用されている。

 秋の野にまた枯れ残る青くすり
     飼ふてふ鷹やさし羽なるらん
               慈鎮和尚」

 発句は鮎の縄張り争いを詠んだ句で、脇はそれに柳もドン引きでどこかへいってしまったのか、切り株だけがあると応じる。
 特に挨拶の寓意はない。芭蕉の晩年の「軽み」の頃にはこういう脇も出てくる。
 第三はそのドン引き(「すさる」)から「弟切草」を登場させる。
 四句目。

   見しりたる乙切草の萌出て
 刀の柄にくくる状箱

 井原西鶴の『好色五人女』のお夏清十郎の物語の中に、

 「備前よりの飛脚横手をうつて扨も忘たり刀にくくりながら状箱を宿に置て來た男磯のかたを見てそれ/\持佛堂の脇にもたし掛て置ましたと慟きける」

とある。飛脚が刀に状箱を括り付けることはよくあったのだろう。
 乙切草から刀に展開して、「すわっ、刃傷沙汰か」と思わせて、実は飛脚だったという落ちになる。
 五句目。

   刀の柄にくくる状箱
 食傷の腹をほしけり朝の月     湖風

 「食傷(しょくしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 食中毒。しょくあたり。
  ※医学天正記(1607)坤「食傷 一、今上皇帝、御食傷、瀉利吐逆」
  ② 同じ食べ物がつづいて食べ飽きること。また比喩的に、同じような物事に接することが多くて、飽きていやになること。
  ※雑俳・柳多留‐九六(1827)「邯鄲の里にすむ獏喰しょふし」
  ※青年と死と(1914)〈芥川龍之介〉「一年前までは唯一実在だの最高善だのと云ふ語に食傷(ショクシャウ)してゐたのだから」

とある。②の意味は多分食べすぎでも下痢や嘔吐が起こるところから、食べすぎ気味、おなかいっぱいという所で、この意味が派生したのではないかと思う。
 「腹をほしけり」は「腹を日に干す」という項目でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 飲食をひかえる。腹のすくようにする。
  ※雑俳・歌羅衣(1834‐44)二「腹を干す日は畳にも酒染みて」
  ② 中国、晉の郝隆(かくりゅう)が腹中の書を曝すと言って、腹を日に干したという「世説新語‐排調」に見える故事。腹中の書を曝す。
  ※雑俳・柳多留‐八四(1825)「書をはむ虫も腹をほす土用干」

とある。「食傷」を食い過ぎの意味に取るなら、①の意味でうまくつながる。
 ただ、ここでは日に干すのではなく朝の月に干している。昨日の夜食い過ぎて腹を空かしてから飛脚は走り出す。
 六句目。

   食傷の腹をほしけり朝の月
 昼寝て遊ぶ盆の友達        芭蕉

 お盆は親戚一同集まるのでご馳走がふるまわれたりする。それを当てにして、昼は寝て夜になると誰それの友達だといって押しかける輩もいたのだろう。明け方には満腹の腹を減らそうとする。当時の「お盆あるある」か。

2020年3月17日火曜日

 日本は今も平穏無事で、今日も変わらない日常が続いているが、その油断というのがやはり気になる。
 政府の方では自粛や休校を解除する動きがあるようだし、感染者は千人に迫るというのに、マスコミは国内の感染をあまり取り上げず、海外から帰ってきた感染者のことばかり言っている。ここは中国か。
 「世界が結束してウイルスに打ち勝った証しとしての五輪を開催しようではありませんか」なんて言われても、それは勝ってから言ってほしい。G7だって株価の大暴落でオリンピックどころでないだろうに。
 感染者は確実に増えているし、潜在的な感染者についてはまったく未知数だ。それがいつどんな形で噴出するのか、心配だ。

 それはそうと話は変わるが、古いファイルを見ていたら、二〇〇七年に作った偽三吟歌仙が出てきた。
 遊びというか、現代連句のパロディーのつもりで作ったもので、やたらに難解な言葉を使用し、とにかく形式美にこだわるというコンセプトで、形式美にちなんで荊尚、識斎、薇蘭という三人のキャラクターを作って、あとはネットから適当に難解な語句を拾って組み合わせて作っていったというもの。
 一応、荊尚は日本の古典、識斎は西洋文学と哲学、薇蘭は漢文に造詣が深いという設定。今読んでも‥‥読めない。
 発句から順番に付けてゆくのではなく、先にここに春、ここに秋という枠を決めてバラバラに句を当てはめていったもので、これも現代連句ではしばしば行われる。

   三吟歌仙もどき「あしかび」の巻
              雪々亭古楊捌き

初表
 葦牙にまろかれ偲ぶ軒端かな     荊尚
   大道廃れ鎮む霾風        薇蘭
 遊牧の民蜃気楼虚ろにて       識斎
   侘び佇むは瀛真人や       荊尚
 晩涼に紈綺動かす月の影       薇蘭
   忘却されたパラソルの閾     識斎

初裏
 朝鳥にたなびく雲のたち別れ     荊尚
   光陰待たず老いぞ情なき     薇蘭
 タントラの忘我に荼枳尼天を見む   識斎
   なめしともへどいめに纏き寝し  荊尚
 傾城の妖姫蘭麝の芳しく       薇蘭
   二胡の嘆息身に沁みる頃     識斎
 石の火や秋の螢は群れ飛びて     荊尚
   晨月染むる紫の庭        薇蘭
 雪道の果てや掟の冷ややかに     識斎
   あとはわたつみ遠つ島影     荊尚
 寂々と漂ふ虚舟花の塵        薇蘭
   里は散種の森の明るみ      識斎

二表
 飛ぶ鳥の春闌くけふや帰るらん    荊尚
   旅は無窮のアジールの夢     識斎
 破瓜時は朗のかひなに抱かれて    薇蘭
   頼む片身の駒錦紐        荊尚
 弔いの鐘に裂かれた「馬」と「句」よ 識斎 
   断髪分身太伯が跡        薇蘭
 神代より常世にませば秋津島     荊尚
   虹のたもとはニライカナイか   識斎
 刺桐咲き雲樹に象の悠々と      薇蘭
   をちかた人を迎ふ暮れ方     荊尚
 明月にリリスは歌を始むらん     識斎
   裳裾に露を散らす金風      薇蘭

二裏
 棲みなれぬ里はうなゐの鳩吹きて   荊尚
   雄鶏一羽返す道すぢ       識斎
 凍雲に野は漠々と天に逝き      薇蘭
   虚無は静かに穴を穿ちぬ     識斎
 花山に満ち照り曜えぬ夕陰に     荊尚
   流觴の宴水潺湲と        薇蘭

2020年3月15日日曜日

 今日は南足柄へ春めき桜を見に行った。朝起きて晴れていたからと思ったのだが、秦野の手前辺りから雨が降り出した。
 富士フイルムの工場のあたりの狩川沿いは満開だった。雨は歩いているうちに止んだ。
 今年は車での移動で一の堰ハラネ春めき桜の方へ向かったが、去年はほとんど人がいなかったのに今年は車が列を作って駐車場待ちをしていた。有名になったものだ。
 このあと秦野の戸川公園へ行った。途中、水無瀬川沿いのおかめ桜も見た。戸川公園では白木蓮が咲いていた。
 公園の駐車場もほぼ満車で、家族連れがたくさん来ていた。
 このまま来週には染井吉野の花見もできるといいな。
 感染症の流行というと、『冬の日』の四番目の「炭賣のをのがつまこそ黒からめ 重五」を発句とする歌仙の二十七句目、

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ
 はやり来て撫子かざる正月に    杜國

の句が知られている。
 この句は近代に柳田國男が『木綿以前の事』の中で、

 「大体に突飛な空想はその場の人にはおかしくても、時がたつとすぐに不明になってしまう。」

とし、その例としてこの句を挙げ、

 「撫子を正月に飾るというのも驚くが、これは流行正月と称して何か悪い年に、一般にもう一度年を取り直し、それから後を翌年にする習俗がしばしばくり返され、その日が多くは六月朔日であったことを知れば、六月だから瞿麦でも飾るだろうという空想の、やや自然であったこともうなずかれる。」

としている。
 ところで、ネットで「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)を見ていたら、

 「謎の感染症、麻疹(はしか)か?長崎で7000人死亡。西国から東海、江戸へ侵入?
 1684年6月~(貞享元年4月~)」

というのがあった。まさに『冬の日』の興行が行われた年の夏ごろに麻疹の流行があったなら、案外撫子を飾る正月は本当だったのかもしれない。
 伝染病の蔓延で不安な時は、せめては花を見ることで気分を心を落ち着けることも必要ではないかと思う。

2020年3月14日土曜日

 今日は午前中から雨が降り出し、やがて霙になり、午後には雪になった。
 「花なき里も花ぞ散りける」の歌を思い出したが、公園の横を通ったとき染井吉野が咲き始めているのが目に留まった。雪にもまけずに開花となった。
 このパンデミックの中でも世界に新しい春が訪れるのだろうか。
 それでは「口まねや」の巻の続き。挙句まで。

 名残裏。
 九十三句目。

   見せ申つる名所旧跡
 京のぼり旅の日記をかくのごと 宗因

 これも特にひねりはない。「日記を書く」と「かくの如く」を掛詞にして、「かくの如見せ申つる」と繋げる技法は連歌的だ。
 このあたりは笑いを取るというよりは、基本的な付け筋を解説してくれているかのようだ。
 九十四句目。

   京のぼり旅の日記をかくのごと
 いく駄賃をかまかなひのもの  宗因

 「まかなひ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「①(任務として)食事や宴などの準備をすること。また、その係の人。
 出典 宇津保物語 初秋
 「かの御息所(みやすどころ)、内宴のまかなひにあたり給(たま)ひて」
 [訳] あの御息所は、宮中での内々の宴の準備係にお当たりになって。
  ②食事の支度や給仕をすること。また、その人。
 出典 源氏物語 夕霧
 「御粥(かゆ)など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず」
 [訳] お粥などを急いで差し上げたけれど、取り次ぐお給仕が間に合わず。
  ③身のまわりの世話。
 出典 宇津保物語 蔵開上
 「その御まかなひは典侍(ないしのすけ)と乳母(めのと)仕うまつる」
 [訳] そのお世話は典侍と乳母がして差し上げる。」

とある。この場合は③か。
 「いく駄賃をかまかなふ」から「まかなひのもの」と繋げる。
 九十五句目。

   いく駄賃をかまかなひのもの
 大名の跡にさがつて一日路   宗因

 「一日路(いちにちぢ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 一日で行きつくことのできる道のり。一日の行程。ひとひじ。一日程(いつじつてい)。
 ※天草本平家(1592)四「ホウジャウモ ychinichigi(イチニチヂ) ナリトモ、ヲクリマラショウズレドモ」

とある。昔の人の足だと四十キロくらいか。
 大名行列の道中にかかる費用負担は、一日後にくる賄の者が処理したのだろうか。
 時代劇では「御跡小払役」というのが登場するが、大名行列の費用はかなり高額だし、現金を持って跡から付いていったとは思えない。どういう仕方で決済していたか気になる。
 九十六句目。

   大名の跡にさがつて一日路
 よはりもてゆく此肴町     宗因

 「肴町」はウィキペディアに「日本の各地にある地名で、魚屋がまとまって住んだことに由来する。」とある。
 前句の「さがつて」を鮮度が落ちるという意味に取り成したか。
 大名行列の通り過ぎた後、余った魚を肴町に持って行く。
 九十七句目。

   よはりもてゆく此肴町
 見わたせば花の錦の棚さびて  宗因

 花の錦といえばやはり、

 見わたせば柳桜をこきまぜて
     都ぞ春の錦なりける
             素性法師(古今集)

だろう。
 みんな花見に行ってしまうと、市場の方はからっぽ、ということか。困った時は肴町。
 九十八句目。

   見わたせば花の錦の棚さびて
 藤咲戸口くれてかけかね    宗因

 前句の棚を藤棚とする。錦のように美しい藤棚の藤も夕暮れになると夕闇にまみれて色を失ってゆく。
 今日一日も終わり、戸口に掛金を掛ける。
 後に芭蕉が詠む、
 
 草臥て宿かる比や藤の花    芭蕉

の句も思い浮かぶ。
 九十九句目。

   藤咲戸口くれてかけかね
 おとがひもいたむる春の物思ひ 宗因

 「掛金」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 「①戸・障子などが開かないようにかける金具。
  ②あごの関節。 〔日葡〕」

とある。②の意味だと「おとがい」に縁がある。顎が外れたか。
 挙句。

   おとがひもいたむる春の物思ひ
 かむ事かたき魚鳥のほね    宗因

 昔の人は顎が強く、魚や鳥の骨もばりばり食ったのだろう。
 『猿蓑』の「市中は」の巻の、

   能登の七尾の冬は住うき
 魚の骨しはぶる迄の老を見て  芭蕉

の句のように、骨が噛めなくなったらかなりの老人というのが当時のイメージだったようだ。
 宗因ももはやそんな歳になったと、発句の「老の鶯」の呼応してこの一巻は終了する。目出度く終わらせないのも、宗祇最晩年の「宗祇独吟何人百韻」の挙句、

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に
 わが影なれや更くる灯     宗祇

に似ている。
 やはりこの「口まねや」の巻は宗因の遺言を兼ねたものだったのか。

2020年3月13日金曜日

 コンビニに行ったらティッシュの箱が棚に並んでいた。トイレットペーパーはまだだが、ティッシュはもう一通り買いだめが終ったのだろう。
 この種の騒動は各家庭にこれ以上置く場所がなくなれば自然と終息する。ウィルスの方はそうはいかない。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 八十五句目。

   うぐひすもりとなるほととぎす
 春雨の布留の杉枝伐すかし   宗因

 前句のホトトギスの托卵に、その季節をつけた遣り句であろう。
 古代石上布留(いそのかみ)布留には神杉の森があったという。杉の剪定は晩春から初夏にかけて行われる。
 八十六句目。

   春雨の布留の杉枝伐すかし
 うへけん時のさくら最中   宗因

 布留は杉だけでなく桜も和歌に詠まれている。中村注が『後撰集』の僧正遍昭の歌と『新古今集』の源通具の歌を引用している。

 いそのかみふるの山辺のさくら花
     うへけむ時をしる人ぞなき
           僧正遍昭(後撰集)
 石の上ふる野の桜たれ植ゑて
     春は忘れぬ形見なるらむ
           源通具(新古今集)

 枝を剪定したことで桜の花が透けて見える。
 八十七句目。

   うへけん時のさくら最中
 むかし誰かかる栄耀の下屋敷 宗因

 「下屋敷(しもやしき)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「大名屋敷の一つ。本邸である上(かみ)屋敷に対し、別荘として用いられた。江戸近郊(四谷(よつや)、駒込(こまごめ)、下谷(したや)、本所(ほんじょ)など)に多く与えられた。[編集部]」

とある。
 まあ、宗因の時代も改易が多く、荒れ果てた下屋敷もあったのであろう。「月やあらぬ」の心情か。
 下屋敷は俳諧だが、桜は和歌の趣向を脱し切れていない。芭蕉の古池の句を以て、このテーマは完全な俳諧となる。
 八十八句目。

   むかし誰かかる栄耀の下屋敷
 川原の隠居焼塩もなし    宗因

 海辺の隠居なら塩を焼く煙の風情もあるが、川原だと川原乞食のイメージになってしまう。
 八十九句目。

   川原の隠居焼塩もなし
 月にしも穂蓼斗の精進事   宗因

 穂蓼は蓼の花で、昔は食用にされた。蓼穂ともいい、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「たでほ」とも) 蓼の穂。特有の辛味があり塩漬にして食用にする。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)六「海月桶(くらげをけ)のすたるにも蓼穂(タデホ)を植ゑ」

とある。

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉   其角

の句もある。
 塩漬けの蓼は酒の肴にもなるが、蓼に塩気がないうえに精進となれば酒もない。わびしい。
 九十句目。

   月にしも穂蓼斗の精進事
 松茸さそよこなたへこなたへ 宗因

 中村注によれば「さそよ」は「ざうよ」の間違いで、「松茸ぞうよ」端松茸売りの呼び声だったという。
 蓼ばかりでは味気ないから、松茸売りが来たら呼び止めよう。
 九十一句目。

   松茸さそよこなたへこなたへ
 北山や秋の遊びの御供して  宗因

 中村注は謡曲『盛久』だという。

 「如何に盛久。盛久は平家譜代の侍武略の達者。殊には乱舞堪能の由聞し召し及ばれたり。一年小松殿。北山にて茸狩の遊路の御酒宴に於て。主馬の盛久一曲一奏の事。関東までもかくれなし。殊更これは悦のをりなれば。たゞ一指との御所望なり急いで仕り候へ。」

のように北山の茸狩りが登場する。
 ここはまあ別に平盛久とは関係なく、秋の北山といえば松茸狩りだったのだろう。
 九十二句目。

   北山や秋の遊びの御供して
 見せ申つる名所旧跡     宗因

 北山辺りには名所旧跡も多い。一巻も終わりに近いので、さらっと流した感じだ。

2020年3月12日木曜日

 今日も暖かかった。花桃やコブシの花が咲いている。染井吉野はやや遅れるとか。コブシ咲く春なのに。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   物の師匠となるはかしこき
 行は三人の道ことにして    宗因

 「行は」は「おこなへば」と読むようだ。「おこなひは」とも読めそうだが。
 中村注は『論語』「述而編」の、

 「子曰ハク、三人行フトキハ必ズ我ガ師有リ、其ノ善ナル者ヲ択ンデ之ニ従ヒ、不善ナル者ニハ之ヲ改ム」

を引用している。師と三人との付け合いはこれでわかる。
 ただ、意味としては三人それぞれの道を究め、お互いに師匠とするという意味であろう。
 八十句目。

   行は三人の道ことにして
 死罪流刑に又は閉門      宗因

 「閉門」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代~明治初年の刑罰の一つ。武士や僧侶に科せられ,『公事方御定書』には,「門を閉し,窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが,同条但書およびこれより刑の軽い逼塞,遠慮の規定よりみて,出入りは昼夜とも禁止されていたことがわかる。ただし,病気のとき夜間に医師を呼び入れたり,火事のとき屋敷内の防火にあたったりすることはもちろん,焼失の危険ありと判断すれば退去して,その旨を届け出ればよいとされていた。明治政府も,『新律綱領』において,士族,官吏,僧徒の閏刑 (じゅんけい) の一つとしてこれを採用していたが,1873年4月閏刑五等はすべて禁錮と改称され,これに伴って消滅した。」

とある。死罪流刑に較べるとかなり軽い。
 まあ、主犯は死刑で、共犯者は流罪になり、ただの使い走りは閉門でくらいで済むというのは、いかにもありそうなことだ。
 八十一句目。

   死罪流刑に又は閉門
 いさかひは扱ひすとも心あれな 宗因

 喧嘩は仲裁に入っても罪に問われることがあるから注意せよ、ということ。
 よく知った間柄なら、お互いに不問にしようで済むこともあるが、赤の他人ならこれ幸いと罪を擦り付けられたりもする。
 八十二句目。

   いさかひは扱ひすとも心あれな
 女夫の人の身をおもふかな   宗因

 「女夫」は「めをと」と読む。
 夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、夫婦喧嘩の仲裁に部外者がしゃしゃり出ると、かえってこじれることになりかねない。
 「人の身」は「我が身」に対しての言葉だが、自分達だけの問題も他人が介入すると世間体だとかいろいろと気遣わなくてはならなくなる。そうなると、「あんたのせいで私がこう思われてしまったじゃないか」ということにもなる。
 「かな」は推量を含んだ緩やかな治定で、人に身を思うこともあるではないか、というニュアンスか。関西弁の「思うがな」に近い。
 八十三句目。

   女夫の人の身をおもふかな
 そだてぬる中にかはゆき真の子 宗因

 「かはゆき」には可哀相という意味もあるが、ここでは「可愛い」の意味だろう。
 継子苛めというのはいつの世でもあるもので、誰だってやはり自分の子供が可愛い。「ハリーポッター」シリーズのダーズリー夫妻にしてもそうだ。
 この場合、前句の「かな」は疑問の「かな」になる。
 八十四句目。

   そだてぬる中にかはゆき真の子
 うぐひすもりとなるほととぎす 宗因

 ホトトギスは鶯に托卵する。「うぐいすもり」は鶯に守りをさせるという意味だろう。
 鶯は他人の子をせっせと育て、真の子を捨ててしまうので、この場合は「かはゆき」は可哀相なという意味になる。

 盲より唖のかはゆき月見哉   去來

の「かはゆき」と同じ。

2020年3月11日水曜日

 今日は東日本大震災の日。昨日は東京大空襲の日。どちらも忘れてはいけない日だが、今年は大きな災害が現在進行中なため、自粛ムードもやむをえないか。
 津波はあっという間にすべてを流していったが、感染症の流行はゆっくりとじわじわと来て、いつ終息するのか見当もつかない。
 あまりにゆっくりで、今日も昨日や一昨日と変わらない平穏な一日だもんだから、ついつい災害が起きていることすら忘れがちになる。
 ふと思ったのだが、感染が拡大したライブハウスやスポーツジムに共通しているのは呼吸数が増えるということはないか。
 エアロゾル感染だと、急激に吸ったり吐いたりを繰り返すことでウィルスを吸う確立が増えるのではないか。
 室内で運動したり歌ったり、継続的に声を出し続けるような場所は感染リスクが高いのではないか。
 まあ、これはあくまで素人考えだし、デマをひろめたなんてことになっても困るので拡散はしないで欲しい。
 それはそうと今日も「口まねや」の巻の続き。

 七十三句目。

   娌子のかへる里はるかなれ
 さげさせて人目堤を跡先に   宗因

 「人目堤」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「人の見る目をはばかって隠れること。和歌では、「包み」を「堤(つつみ)」に掛けて用いることが多い。
「思へども―の高ければ河とみながらえこそ渡らね」〈古今・恋三〉」

とある。
 古今集のこの和歌は中村注も引用している。
 前句の里帰りには何か人目を憚る事情でもあったのだろう。人目を包んで(避けて)のひそかな里帰りだった。
 「さげさせて」は人を退かせての意味に取るのが良いと思う。中村注は荷物の包みを下げさせての意味もあるというが、読みすぎではないかと思う。
 七十四句目。

   さげさせて人目堤を跡先に
 占の御用や月に恥らん     宗因

 人目を忍んでどこへ行くかと思ったら占いだった。
 ウィキペディアの「算置」のところには、

 「1700年(元禄13年)の『続狂言記』に掲載された『居杭』には、「占い算、占の御用、しかも上手」という算置の客寄せの掛け声が引用されており、これは1792年(寛政4年)の大蔵虎寛の編纂による『居杭』では、「占屋算、占の御用、しかも上手」となっている。」

とある。宗因の時代よりは少し後だが、この種の口上は宗因の時代にもあったのだろう。
 七十五句目。

   占の御用や月に恥らん
 夕露のふるきかづきを引そばめ 宗因

 「かづき」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「本来は「かづき」といい、女子が外出に頭に被(かづ)く(かぶる)衣服のこと。平安時代から鎌倉時代にかけて女子は素顔で外出しない風習があり、袿(うちき)、衣の場合を「衣(きぬ)かづき」といった。室町時代から小袖(こそで)を用いるようになると、これを「小袖かづき」といい、武家における婚礼衣装にも用いられた。桃山時代以降は一般の上流階級の婦女子もこれを用いて外出した。江戸時代中期以降は、形は同じであるが、頭にかぶりやすいように、衿(えり)肩明きを前身頃(みごろ)へ肩山より10センチメートルから15センチメートル下げてつけた。この特定の小袖を被衣(かづき)といった。町人のは町(まち)被衣といい、種々の色、模様のついたもので、女官のは御所(ごしょ)被衣といい、松皮菱(びし)など幾何学的区画による、黒地に白の熨斗目(のしめ)風の模様のついたものであった。布地はともに麻、絹で単(ひとえ)仕立て。江戸では明暦(めいれき)年間(1655~1658)には用いられなくなったが、京都では安永(あんえい)(1772~1781)のころまで用いられた。後世に至って「かつぎ」というようになった。[藤本やす]」

とある。
 夕露の降るに掛けて「古きかづき」を導き出し、引きそばめて顔を隠すしぐさを恥じらいの表現とする。当時としては可愛らしい仕草だったのかもしれない。
 七十六句目。

   夕露のふるきかづきを引そばめ
 雲井の節会高きいやしき    宗因

 『伊勢物語』九十四段に、

 「むかし、男、身はいやしくて、いとになき人を思ひかけたりけり。すこし頼みぬべきさまにやありけむ、ふして思ひ、起きて思ひ、思ひわびてよめる。

 あぶなあぶな思ひはすべしなぞへなく
     高きいやしき苦しかりけり

 むかしも、かかることは、世のことわりにやありけむ。」

とある。
 身分の低い女性が古くなったかづきで顔を隠しながら、雲井(皇居)の節会で高貴な男の姿を拝む。
 七十七句目。

   雲井の節会高きいやしき
 おふなおふなおもんするなる年の賀に 宗因

 「おふなおふな」は『伊勢物語』九十四段の和歌の「あぶなあぶな」だが、「あふなあふな」には古来いろいろな解釈があり、季吟は「懇に」の意味に解していたことを中村注は記している。
 一方、「おふなおふな」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、「精いっぱい。できるだけ」とある。これだと精いっぱい重んじてきた年賀に、雲井の節会高きいやしき、となる。
 七十八句目。

   おふなおふなおもんするなる年の賀に
 物の師匠となるはかしこき   宗因

 大事な年賀に何か芸事の師匠となるのは立派なことだ。

2020年3月10日火曜日

 今日は一日雨だったが、夜になって晴れた。如月の望月が見える。
 今日も日本は平和で、ひょっとしたらこのままCOVID-19に勝てるのではないかと思いたいところだが、勝てると思ったときが一番危ないと『りゅうおうのおしごと』にもあった。大事なことはみんなラノベに学んでいる。
 今のところ死者が少ないのは、病院にまだ余裕があって、集中治療室で十分な治療が出来ているからで、感染が拡大してゆけば、やがて医者も集中治療室も不足して、治療できない人が出てくる。そうなれば、一気に死者の数が増えることになる。
 今はまだ嵐の前の静けさなのかもしれない。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 六十九句目。

   ひとつ塩干やむはら住吉
 蛤もふんでは惜む花の浪    宗因

 「花の浪」は『応安新式』に、

 「花の浪 花の瀧 花の雲 松風雨 木葉の雨 水音雨 月雪 月の霜 桜戸 木葉衣 落葉衣(如此類は両方嫌之)」

とあり、「花の浪」の場合は植物、水辺両方を嫌う。
 「花の浪」は、

 桜花散ぬる風の名残には
     水なき空に浪ぞたちける
              紀貫之「古今集」

により、風に揺れる桜を浪に、飛び散る花びらを波しぶきに喩えたもので、植物の木類として去り嫌いの規則に従うのは勿論のこと、水辺としてもその規則に従う。
 貞徳の『俳諧御傘』には、

 「花の波 正花也。水辺に三句也。但、可依句体。波の花は非正花、白波のはなに似たるをいふなり、植物にあらず。」

とある。
 「浪の花」の方は、『応安新式』に「浪の花(水辺に可嫌 植物に不可嫌之)」とある。
 「ふんでは惜む」は中村注に、『和漢朗詠集』の白楽天の詩句、

 背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春(燭を背けては共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春)

を引用している。
 住吉の潮干狩りは春のもので、潮干狩りに来た人は花ならぬ蛤を踏んで行く春を惜しむ。
 七十句目。

   蛤もふんでは惜む花の浪
 さつとかざしの篭の山吹    宗因

 中村注は、『散木奇歌集』の藤原家綱と源俊頼との歌のやり取りを引用している。

  「家綱がもとよりはまぐりをおこすとて、
   やまぶきを上にさして書付けて侍りける
 やまぶきをかざしにさせばはまぐりを
     ゐでのわたりの物と見るかな
                 家綱
   返し
 心ざしやへの山ぶきと思ふよりは
     はまくりかへしあはれとぞ思ふ
                 俊頼」
 
 蛤を入れた籠に山吹の枝を添えて、花の浪の散るのを惜しむ。
 七十一句目。

   さつとかざしの篭の山吹
 乗物に暮春の風や送るらん   宗因

 前句の「篭」を乗物の駕籠のこととする。駕籠に山吹を添えて、暮春の風に送られて旅立つ。
 七十二句目。

   乗物に暮春の風や送るらん
 娌子のかへる里はるかなれ   宗因

 「娌子」は「よめご」と読む。
 暮春の風は通常の里帰りにしては悲しげだ。あるいは離婚で実家に帰る情景か。

2020年3月9日月曜日

 今日は暖かかった。人通りも多い。街を行く人は特にみんなマスクを付けているというわけではなく半々だ。
 暖かくなる頃にはコロナも収まるなんて言われていたけど、その兆候は見えない。専門家会議が二月二十四日に「1~2週間が感染拡大か収束に向かうかの瀬戸際」だなんていっていたけど、その二週間が過ぎた。
 専門家の予測が外れたのは、専門家ならではの過去の経験に囚われてしまったからだろう。過去に研究してきた様々なインフルエンザウィルスやコロナウィルスからの類推で、ウィルスは高温多湿に弱いから今回もそうであって欲しいという希望的観測があったのではないか。
 私などは素人だからウィルスの常識は知らない。ただ、武漢のことがネットで話題になるにつれて、何かただ事ではないとんでもないことが起こり始めているのではないのかという感じがした。その予感は的中しつつある。
 春になると収まるという説も、ネット上では東南アジアでも感染が広がっているから無理だ、というのが大方の声だった。
 日本は政府が中国人観光客や習近平国賓来日やオリンピック開催ばかりを気にして、ウィルスを専門家任せにしてみくびってしまったため、対策が後手後手に回ってしまったが、それにしては未だに感染者も少なく、死者は昨日の時点で七名。
 日本人の異様なまでの潔癖症が功を奏しているのか、それとも握手やハグの文化がないことで日常的な濃厚接触が少ないからか(「近い」というのを嫌う)。検査が少ないとしても、発病すれば何らかの形で発覚するだろう。
 いつまでこのまま平穏な日常が続くのか。桜の季節までは続いて欲しい。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 三裏。
 六十五句目。

   菜つみ水汲薪わる寺
 児達を申入ては風呂あがり   宗因

 お寺といえば児(ちご)。
 「申入(まうしいり)て」は招待するということ。アニメで言えば温泉回か。
 六十六句目。

   児達を申入ては風呂あがり
 櫛箱もてこひ伽羅筥もてこひ  宗因

 風呂上りだから髪を整えるので、「櫛箱持って来い」となる。
 同様に「伽羅箱」も持って来いというわけだが、中村注によると、ここで言う伽羅は香木ではなく伽羅の油だという。
 「伽羅の油」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた。
  ※俳諧・玉海集(1656)一「薫れるは伽羅の油かはなの露〈良俊〉」
  ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「いにしへは女の伽羅(キャラ)の油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成しを」

とある。
 六十七句目。

   櫛箱もてこひ伽羅筥もてこひ
 芦の屋の灘へ遊びに都衆    宗因

 中村注は、『伊勢物語』第八十七段を引用している。

 「むかし、男、津の国、莵原の郡、蘆屋の里に、しるよしして、行きて住みけり。むかしの歌に、

 蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみ
     黄楊の小櫛もささず来にけり

とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ、蘆屋の灘とはいひける。この男、なま宮仕へしければ、それを頼りにて、衛府の佐ども集まり来にけり。この男の兄も衛府の督なりけり。その家の前の海のほとりに遊びありきて(下略)」

 芦屋は大阪と神戸の間にあり高級住宅地として知られている。灘は芦屋に隣接する神戸市の東側で、東灘区にある灘中、灘高は名門進学校としても有名だ。
 ただ、昔は西宮市から灘区にかけての広い地域を「灘」と言っていたという。藻塩焼く長閑な里で、櫛もささずにぼさぼさの頭で来るようなところだった。
 六十八句目。

   芦の屋の灘へ遊びに都衆
 ひとつ塩干やむはら住吉    宗因

 「塩干(しほひ)」は潮干狩りのこと。「むはら住吉」は摂津国菟原郡の本住吉神社のことで、都の衆が「ここはひとつ潮干狩りに菟原住吉にでも行ってみるか」と言って遊び歩くことになる。

2020年3月8日日曜日

 今日は一日雨でまだまだ肌寒い日が続く。
 スーパーは雨のせいか人は少なかったが、米やパスタは普通に店頭に並んでいた。マスコミが大袈裟に煽っているだけなのだろう。とにかく日本では大きな混乱は起きていない。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 五十九句目。

   采女の土器つづけ三盃
 さそひ出水の月みる猿沢に    宗因

 猿沢の池は奈良興福寺の前にある。興福寺の五重塔が水に映る風景はよく知られている。
 前句の「采女の土器」で時代設定は古代なので、平城京の猿沢の池を出し、そこで月見の宴とする。猿沢の池は天平二十一年(七四九年)に造られたという。
 猿沢の池のほとりには采女神社がある。ウィキペディアによると、

 「奈良時代、天皇の寵愛が衰えたことを嘆いた天御門の女官(采女)が猿沢池に入水し(采女伝説)、この霊を慰めるために建立されたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと、一夜にして社殿が西を向き、池に背を向けたという。
 旧暦8月15日の例祭は采女祭と呼ばれ、この采女の霊を慰めるために執り行われる。」

だという。
 水の月に猿沢の「猿」の字は、水に映る月を取ろうとする猿の故事も思い起こさせる。叶わぬことのない願いは多くの人の共感を誘い、画題にもなっている。日光東照宮神神厩舎の三猿は有名だが、池を覗き込む猿と手を伸ばす猿の像もある。
 古代の大宮人も猿沢の池に酒を酌み交わし、叶わぬ夢を語り合っていたのだろう。
 六十句目。

   さそひ出水の月みる猿沢に
 おもひやらるる明州の秋     宗因

 明州は中国の寧波(ニンポー)の古名だという。上海・杭州・紹興(昔の会稽)に近い。
 阿倍仲麻呂が帰国をしようとして明州を訪れ、そこで詠んだ歌はあまりにも有名だ。

   もろこしにて月を見てよみける
 あまの原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
             阿倍仲麻呂(古今集)

これには、

 「この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。」

という左注がある。
 三笠の山を望む猿沢の池では、明州で同じ月を見ていた阿倍仲麻呂のことが思いやられる。
 六十一句目。

   おもひやらるる明州の秋
 牛飼のかいなくいきて露涙    宗因

 中村注は謡曲『唐船』を引いている。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「謡曲。四番目物。外山吉広(とびよしひろ)作という。捕虜の唐人祖慶官人を慕い、二人の子供が唐から迎えに来る。日本でもうけた二人の子供が帰国を引き留め、官人は困って死のうとするが、日本の子供も同行を許される。」

とある。
 明州に棲んでいた祖慶官人が捕虜となって日本の箱崎で牛飼いとなって十三年の時を過ごす。
 六十二句目。

   牛飼のかいなくいきて露涙
 いつか乗べき塞翁が馬     宗因

 「塞翁が馬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「人間の禍福は変転し定まりないものだというたとえ。人間万事塞翁が馬。 〔「淮南子人間訓」から。昔、塞翁の馬が隣国に逃げてしまったが、名馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬に乗っていて落馬し足を折ったが、おかげで隣国との戦乱の際に兵役をまぬがれて無事であったという話から〕」

とある。
 ただ、いつか逃げた馬が駿馬を率いて帰ってくる事を期待してしまうと、それこそ「株を守る」になってしまう。
 六十三句目。

   いつか乗べき塞翁が馬
 御旦那にざうり取より仕来て  宗因

 これは豊臣の秀吉。わかりやすい。
 六十四句目。

   御旦那にざうり取より仕来て
 菜つみ水汲薪わる寺      宗因

 中村注は「拾遺集」の、

   大僧正行基よみ給ひける
 法華経を我がえしことは薪こり
     菜つみ水くみつかへてぞえし

を引用し、これに基ネタがあったことも記している。『法華経』の「提婆達多品」に「即随仙人供給所須。採果汲水拾薪設食。」という一節があるという。
 行基は行基菩薩とも呼ばれ、ウィキペディアによれば、

 「道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。」

だという。こういう立派な人にも下積み時代はあった。

2020年3月7日土曜日

 街は相変わらず人がたくさんいて賑わっている。この中の何人かが来年はいないなんてことは想像したくない。平和な日々がいつまでも続いて欲しいものだ。
 日常は時に鬱陶しく、生活はそんなに楽なものではない。嫌な奴もいるし、理不尽なことも多い。
 そんな糞ったれな世界でも、やはり愛おしいものだ。みんなこの世界を守るために戦っている。大事なのは敵を間違えないことだと、『ムシウタ』の薬屋大助も言っていた。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   何かは露をお玉こがるる
 おもふをば鬼一口に冷しや    宗因

 「鬼一口」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 「伊勢物語」第六段の、雷雨の激しい夜、女を連れて逃げる途中で、女が鬼に一口で食われてしまったという説話。転じて、はなはだしい危難に会うこと。また、その危難。鰐(わに)の口。虎口(ここう)。
  ※謡曲・通小町(1384頃)「さて雨の夜は目に見えぬ、鬼ひと口も恐ろしや」
  ② 鬼が人を一口で飲み込むように、激しい勢いであること。物事をてっとり早く、極めて容易に処理してしまうこと。
  ※浄瑠璃・栬狩剣本地(1714)五「惟茂殺すは己(おのれ)を頼まず、鬼一口にかんでやる」

とある。
 ここでは①の意味と思われる。
 ②の意味については、中村注は、

 「物のついでに述べれば、『和漢故事要言』(宝永二年)に、

 鬼一口 ト云ハ余ナル小事ニテ為ニ足ズト云ノ心、又心ヤスク為ヤスキ事ニテ取カカリサヘスレバ、瞬ノ間ニモ出来ル抔ト云心ニ云也(以下『伊勢物語』の本分を引く)

とある。」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.109)

と記している。英語で言うa piece of cakeのようなものか。「鬼滅の刃」の鬼というよりは、「進撃の巨人」の巨人のように人を平らげたのだろうか。まあ、いずれにせよ凄まじい。
 『伊勢物語』第六段には、

 「はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
  白玉かなにぞと人の問ひし時
     つゆとこたへて消えなましものを」

とあるものの、これには落ちがあって、

 「御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。」

というのが真相だった。
 五十二句目。

   おもふをば鬼一口に冷しや
 地獄の月はくらき道にぞ     宗因

 「露」「冷(すさま)し」と来て秋の三句目で月を出す。それも地獄の月。現世の月のように明るくはないようだ。月食の時のあの赤銅色の月(ブラッドムーン)だろうか。
 地獄には当然恐い鬼がいる。何度も何度も食べられたりするのだろう。
 五十三句目。

   地獄の月はくらき道にぞ
 此山の一寸さきは谷ふかみ    宗因

 これはまさに「一寸先は闇」だ。
 前句は「地獄の月は、暗き道にぞ(明るく照らして欲しいものだ)」と読み替えてもいいかもしれない。それならばまさに地獄に仏だ。
 五十四句目。

   此山の一寸さきは谷ふかみ
 瀧をのぞめば五分のたましい   宗因

 「五分のたましい」というと、「一寸の虫にも五分の魂」という諺が浮かんでくる。
 ただ、この場合はあくまで前句の「一寸」に「五分」を縁で付けてだけで、深い谷の瀧を見れば魂が半分に削られる思いだという意味だろう。
 これが虫だったら魂が縮むこともあるまい。

 桟やあぶなげもなし蝉の声    許六

はだいぶ後の句だが。
 五十五句目。

   瀧をのぞめば五分のたましい
 晩かたに思ひがみだれて飛蛍   宗因

 前句の「五分のたましい」から虫である蛍を登場させる。
 蛍は女の恋心で、中村注も、

   男に忘られて侍ける頃、貴船にまゐりて、
   みたらし河に蛍の飛侍りけるを見てよめる
 物思へば沢の蛍も我身より
     あくがれいづる玉かとぞ見る
              和泉式部(後拾遺集)

の歌を引用している。
 五十六句目。

   晩かたに思ひがみだれて飛蛍
 天が下地はすきもののわざ    宗因

 「下地」は古語では本性の意味もある。
 前句の飛ぶ蛍は比喩で、夜に思い乱れ飛んでいるのは天下の好き物ばかりだ。遊郭の風景だろう。『虚栗』の、

 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉     其角

の句が思い浮かぶ。
 五十七句目。

   天が下地はすきもののわざ
 大君の御意はをもしと打なげき  宗因

 「下地」のは本心という意味もあり、ここでは前句は「天が求めているのは好きもののわざだ」ということで、御門がまた女のことで無理難題を吹っかけたのだろう。
 御門でなくても、無理難題を吹っかける上司というのは困ったものだ。「梅が香に」の巻の八句目、

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉

の御頭も困ったもんだが。
 五十八句目。

   大君の御意はをもしと打なげき
 采女の土器つづけ三盃      宗因

 「采女(うねめ)」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「女官の一つ。天皇に近侍(きんじ)して寝食に奉仕する。大和朝廷時代や律令時代には,全国の国造(くにのみやつこ)や郡司が未婚の姉妹・子女を差し出し,祭祀(さいし)に奉仕させるなど宗教的な意味や人質としての政治的な意味もあった。やがて形式化し人数も減り,中・近世には諸大夫(しょだいぶ)の娘がこれを務めた。」

とある。「土器」は「かはらけ」と読む。
 これはいわゆる「駆けつけ三杯」であろう。まあ、遅刻はしない方がいい。

2020年3月6日金曜日

 フラチナリズムって知らなかったけど、結構凄いバンドだったのかな。こんなに全国からファンを集め、追っかけを産むなんて、半端ではない。今回はお騒がせになってしまったが。
 ボーカルで物真似芸人のモリナオフミは高知出身とのこと。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 四十五句目。

   霞の衣尻からげして
 春の月山の端にけてとちへやら  宗因

 「にけてとちへやら」は「逃げてどちへやら」。
 逃げる時には、そのままだと着物の裾が邪魔でうまく走れないため、尻からげにする。
 中村注は『古今集』の在原業平の歌を引用している。

   これたかのみこのかりしける
   ともにまかりて、やとりにかへりて
   夜ひとよさけをのみ物かたりをしけるに、
   十一日の月もかくれなむとしけるをりに、
   みこ、ゑひてうちへいりなむとしけれは
   よみ侍りける
 あかなくにまたきも月のかくるるか
     山のはにけていれすもあらなむ
               在原業平(古今集)

 明け方になってまだ月に飽いていないのに隠れてしまったか、山の端に逃げて、という歌だ。
 霞みを纏った朧月が、その裾をからげてスタコラサッサと逃げてゆく様子は確かに笑える。
 四十六句目。

   春の月山の端にけてとちへやら
 かりの行衛も先丹波越      宗因

 山の端に逃げた月はどこへ行ったという上句を受けて、帰る雁と一緒に丹波を越えて行ったとする。
 丹波越えは山陰街道で丹波路とも言う。京都から見ると西側の山を越え、亀岡、福知山を経て鳥取へと抜けてゆく。
 四十七句目。

   かりの行衛も先丹波越
 借銭の数はたらでぞつばめ算   宗因

 江戸時代の商人の間では帳簿の技術が発達し、複式簿記に近いものまであったという。
 複式簿記は資産と負債を左右に分けて表記し、資産-負債=純資産になるので、これを資産(左:借方)と負債+純資産(右:貸方)というふうに左右に分けて表記する。
 「つばめ算」は合算のことだが、帳尻合せのこともつばめ算と言った。借方(資産)の方が不足しているとすれば、借りた金がどこかへ消えてしまっているので、資産の一部を誰かが横領している疑いがある。それを誤魔化すためにつばめ算をする。
 中村注が引用している『犬子集』(寛永十年刊)の、

   春はただ帰る雁かね追々に
 本利そろゆる燕さん用

に似ている。これは前句の「雁かね」を「借り金」に取り成して、拝借していた金を追々返すことで、帳尻を元に戻すという句だったが、宗因の句だとどうやって帳尻を合わせたのか、より高度な誤魔化しのテクニックが期待される。
 四十八句目。

   借銭の数はたらでぞつばめ算
 問屋の軒のわらや出すらん    宗因

 「藁を出す」は中村注によれば、小学館の『日本国語大辞典』に、「かくしている短所・欠点をさらけ出す。失敗をしでかす。ぼろを出す」の説明があるという。
 軒にしても「軒が傾く」という言葉があるように、横領を繰り返し、そのつど姑息な帳尻合せを続けてゆけば、問屋の軒も傾き、ぼろが出てしまうことになる。
 四十九句目。

   問屋の軒のわらや出すらん
 はすは女が濁りにしまぬ心せよ  宗因

 「はすは女(め)」は蓮っ葉な女のこと。
 「濁りにしまぬ」は「濁りに染まぬ」という字を当てる。中村注は『古今集』の、

 蓮葉の濁りにしまぬ心もて
     なにかは露を玉とあざむく
               僧正遍照

の歌を引用している。
 これを蓮っ葉女にたぶらかされないように心せよ、軒も傾く、と咎めてにはにする。
 五十句目。

   はすは女が濁りにしまぬ心せよ
 何かは露をお玉こがるる     宗因

 先に引用した僧正遍照の歌から歌てにはで「何かは露を」を導き出す。そして露の玉を「お玉さん」という蓮葉女の名前にして、何でお玉のように蓮葉女に恋焦がれるものぞ、とする。
 このあたりは連歌師としての宗因のテクニックが冴える。

2020年3月5日木曜日

 今年の花見は自粛するようにとのお触れも出ているようだけど、まあ人の群がる所は避けて、親しい間だけで少人数で、という方向へ行くのかな。ベンチを封鎖された所は、歩きながらビール片手にというのもありかな。
 戦争でも震災でも途絶えなかった日本の伝統だし、何とかしたいものだね。
 それでは「口まねや」の続き。少しづつ、ゆっくりと。

 四十一句目。

   やれ追剥といふもいはれず
 軍みてこしらゆる間に矢の使   宗因

 「矢の使」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「頻繁(ひんぱん)な催促の使い。また、至急を告げる使者。〔俳諧・毛吹草(1638)〕
 ※仮名草子・是楽物語(1655‐58)上「此事をききて、やのつかひをたてたりけるこそ難義なれ」

とある。
 中村注では「こしらゆる」は腹ごしらえのことだという。単純に敵軍が見えて我軍も戦いの準備にとも取れる。
 とにかく至急を告げる使者がやってきたものの、敵軍が迫ってるのに追剥の報告なんて小さすぎて、そりゃあ言えないよな。
 四十二句目。

   軍みてこしらゆる間に矢の使
 舟に扇をもつてひらいた     宗因

 これは那須与一の物語。わかりやすい。「使(つかひ)」を「番(つがひ)」と読み替えたか。
 四十三句目。

   舟に扇をもつてひらいた
 花にふくこちへまかせとすくひ網 宗因

 「すくひ網」は袋状の網で、これを用いて小型の船で小魚や小海老などを掬い取る。
 花に東風(こち)の吹く頃はイカナゴ漁の季節で、「こちにまかせろ」とばかりに掬い網を投げる。この掬い網が二本の棒の間に網を張った扇のような形をしていた。
 四十四句目。

   花にふくこちへまかせとすくひ網
 霞の衣尻からげして       宗因

 「尻からげ」は尻端折りのことで、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟むこと。しりっぱしょり。しりからげ。」

とある。
 『新撰犬筑波集』の、

   霞の衣すそは濡れけり
 佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして

を髣髴させるが、ここではシモネタではなく尻からげして裾に東風で散った桜の花びらを集めている、ちょっと可愛い仕草で、それで足が見えてエロチックな趣向に変えている。

2020年3月4日水曜日

 おかめ桜というと前に秦野に見に行ったし、最近は根府川のも随分と宣伝されているが、環状二号線の方でも咲いていた。今年は染井吉野の開花も早いという。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 二裏。
 三十七句目。

   立市町は長き夜すがら
 引出るうしの時より肌寒み    宗因

 牛車は既に守武の頃には廃れていたが、荷物の運搬には用いられていた。そのばあいは「ぎっしゃ」ではなく「うしぐるま」という。
 前句の「市」を牛市のこととし、「引出るうし」は市場に出す牛で、丑の刻と掛けている。
 牛市は大阪の四天王寺の牛市がよく知られている。秀吉の時代からあったという。
 市場の日には夜中のうちから牛が運び込まれたりしたのだろう。
 三十八句目。

   引出るうしの時より肌寒み
 いのる貴布禰の川風くつさめ   宗因

 前句を丑の刻参りのこととし、場面を京都の貴船神社に転じる。
 ウィキペディアには、

 「また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルで賑わっている。その一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名である。ただし『丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻』に貴船明神が貴船山に降臨したとの由緒から、丑の刻に参拝して願いを掛けることは心願成就の方法であり、呪咀が本来の意味では無い。平安時代には、丑の刻であるかは不明だが貴船神社に夜に参拝することが行われていた。時代の変遷と共に、本来の意味が変質したものと思われる。」

とある。
 ただ、丑の刻というと肌寒く、川風にくしゃみをする。
 三十九句目。

   いのる貴布禰の川風くつさめ
 うき涙袖に玉散胡椒の粉     宗因

 胡椒でくしゃみするというのは宗因の時代からの古典的なネタだったようだ。
 中村注は『和漢三才図会』の著者の「按」の、

 「胡椒、辛気、鼻ニ入レバ則チ嚔(ハナヒ)ル、故ニ誤リテ物ノ鼻孔ニ入リ出デザル者ハ、傍ニ胡椒ノ末ヲ撒キテ嚔ヒラシムレバ随ツテ出ヅ。」

を引用している。
 三十八句目のところで引用したウィキペディアに貴船神社が縁結びの神とあったように、恋に悩む女性が貴船を詣でたものの、袖に胡椒の粉がついていてくしゃみをする。
 胡椒は消化器系の臓器を暖め、食あたり水あたりなどの効くということで、旅のときに持ち歩くことも多かったという。それがたまたま袖にかかってしまったのだろう。
 四十句目。

   うき涙袖に玉散胡椒の粉
 やれ追剥といふもいはれず    宗因

 胡椒を振りかけてくしゃみしている間に物を奪ってゆくという追剥がいたのだろうか。「追剥だーっ!」と叫びたくてもくしゃみが止まらない。

2020年3月3日火曜日

 昨日はコルピクラーニのことを「道化師?」と書いたが「大道芸人」の方が近いかな。
 いろいろなものが自粛になって行くが、日本ではあくまで自粛で禁止ではない。臣民は主君である「人様(世間様)」に忖度して判断せよということだ。
 ただ、気持ち的にはアウトブレイクを防ぐためには行動を自粛した方がいいと思いつつも、どうせアウトブレイクを防ぎきれないなら今のうちに人生楽しんだ方がいいのかという思いもある。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 三十三句目。

   古き内裏のつゐひちの下
 人しれず我行かたに番の者    宗因

 中村注にある通り、『伊勢物語』第五段の、

 「むかし、をとこ有けり。ひむがしの五条わたりに、いと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝつけて、その通ひ路に、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、いけどえ逢はで帰りけり。さてよめる。

 人知れぬわが通ひ路の関守は
     よひよひごどにうちも寝なゝむ

とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条の后にしのびてまゐりけるを、世の聞えありければ、兄人たちのまもらせ給ひけるとぞ。」

の本説による付け。関守を「番の者」とした所が江戸時代風になる。
 この段を猫の恋にしたものが、

 猫の妻竃(へっつい)の崩れより通ひけり  芭蕉

 この句も延宝五年だから時期的には近い。
 三十四句目。

   人しれず我行かたに番の者
 誰におもひをつくぼうさすまた  宗因

 「思ひつく」は古語では「好きになる」という意味になる。
 前句の「人しれず我行」をこっそり恋人に逢いに行く意味にして、一体誰を好きになったか、となるわけだが、その「思ひをつく」の「つく」から番人の持っている突棒(つくぼう)、刺股(さすまた)を導き出す。突棒はT字型の棒で、刺股は先がU字型になっている。
 突棒・刺股は犯罪者を生け捕りにするのに用いるが、ウィキペディアによれば、「『和漢三才図会』には、関人(せきもり)・門番が用いるものとしての記述がみられる。」とある。
 三十五句目。

   誰におもひをつくぼうさすまた
 哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき  宗因

 「哥舞妃」は歌舞伎のこと。「鼠戸」は鼠木戸のことで、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「江戸の劇場の正面入口の称。見物人が穴へ入る鼠のように体を曲げて入ったためこの名がついたといわれる。江戸三座では,中村座は竪子,市村座は菱形,森田座は真四角と,木戸格子の組み様が違い,ここに端番 (はなばん) がいた。」

とある。
 中村注によれば、「早くお国歌舞伎などの頃には、小屋の鼠戸の辺に後々にまで続いた毛槍や梵天(劇場の櫓の上などに立てる御幣)と共に、突棒、刺股が飾ってあった」(『宗因独吟 俳諧百韻評釈』中村幸彦著、一九八九、富士見書房、p.83)という。
 お国歌舞伎は出雲のお国の頃の歌舞伎で慶長の頃になる。当時は女歌舞伎で「哥舞妃」という表記もその名残であろう。ただ、その女歌舞伎は寛永六年(一六二九)に禁止され、若衆歌舞伎となり、やがて野郎歌舞伎となる。
 この独吟の頃はまだ市川團十郎 (初代)がようやくデビューした頃で、今の歌舞伎の草創期といえよう。この時代ならまだ鼠戸に突棒・刺股があったのかもしれない。
 夜の鼠戸は月が照らし、「さしのぞき」は月の光が差し覗くのと役者目当てに来た人が鼠戸を覗くのとを掛けている。
 三十六句目。

   哥舞妃する月の鼠戸さしのぞき
 立市町は長き夜すがら      宗因

 「立市町」は「いちたつまち」と読む。市の立つような大きな町は夜も眠らない。

2020年3月2日月曜日

 学校が休みになるせいか、家族連れが買いだめに走ってるのか、街はいつもよりも賑わっている。
 トイレットペーパーもなければ困るもので、一部の人の買占めで店から消えても探さないわけにはいかない。悪いのは最初に買い占めた人で、後から並んでいる人を笑ってはいけない。
 渋谷へKorpiklaani Japan Tour 2020を見に行った。コンサートの自粛が報じられる中で、フィンランドからKorpiklaani、イングランドからSkyclad、地球の裏側アルゼンチンからSkiltron、埼玉からAllegiance Reignがはるばる来てくれた。コロナを恐れぬ君たちの勇姿は忘れない。
 Allegiance Reignは侍姿で、日本語で「えい、えい、おー」と歌っていた。Skiltronは戦士姿で勇ましく、Skycladは村人の姿でこれがイギリスのセレブレーションかとばかりに盛り上がった。
 Korpiklaaniは戦士でも村人でもなく、道化師?ボーカルはなんだか妙なデジャブ感があったが‥‥わかった、ムッシュかまやつだ。あと、ドワーフがいた。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 二十七句目。

   あかり窓より手をもしめつつ
 此人の此病をばみまはれて    宗因

 中村注は『論語』「雍也」を本説とする。

 「伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也、而有斯疾也、斯人也、而有斯疾也。」

の「自扁孰其手(牖よりその手を執り)」が前句になる。「牖」は漢字ペディアに「まど。れんじまど。格子をはめた窓。」とある。それに「斯人也、而有斯疾也(この人にしてこの病あるや)」を付ける。
 二十八句目。

   此人の此病をばみまはれて
 有馬の状は書つくしてよ     宗因

 前句の病を恋の病として有馬の湯を付ける。

 あい思わぬ人を思うぞ病なる
     なにか有馬の湯へも行くべき
              よみ人しらず(古今和歌六帖)

の歌もある。
 後に草津節で、「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」と唄われる。草津温泉は戦国時代以降なので、古代には知られてなかった。
 二十九句目。

   有馬の状は書つくしてよ
 うちとけぬ王子のゑぞしらぬ   宗因

 有馬といえば有間皇子(ありまのみこ)。とはいえ、ここでは単に言葉の縁で登場するだけで、打ち解けぬ王子への恋文を有馬の状と洒落てみただけのもの。
 三十句目。

   うちとけぬ王子のゑぞしらぬ
 伯父甥とても油断なさるな    宗因

 この場合の王子は大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子(おおとものみこ)のことか。
 天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子とが争い、大友皇子を滅ぼした。世に壬申の乱という。
 三十一句目。

   伯父甥とても油断なさるな
 帰るさの道にかけ置狐わな    宗因

 狂言の『釣狐(つりぎつね)』の本説に転じる。
 『釣狐』のあらすじは、ウィキペディアには、

 「猟師に一族をみな釣り取られた老狐が、猟師の伯父の白蔵主という僧に化けて猟師のもとへ行く。白蔵主は妖狐玉藻の前の伝説を用いて狐の祟りの恐ろしさを説き、猟師に狐釣りをやめさせる。その帰路、猟師が捨てた狐釣りの罠の餌である鼠の油揚げを見つけ、遂にその誘惑に負けてしまい、化け衣装を脱ぎ身軽になって出直そうとする。それに気付いた猟師は罠を仕掛けて待ち受ける。本性を現して戻って来た狐が罠にかかるが‥‥」

とある。
 三十二句目。

   帰るさの道にかけ置狐わな
 古き内裏のつゐひちの下     宗因

 「つゐひち」は築地(ついじ)のことだという。築地はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「泥土を築き固めた土手のような垣の上部を、瓦(かわら)や板で葺(ふ)いた土塀。築垣(ついがき)ともいう。古代から宮城、寺院、邸宅などの周囲につくられた。寄柱(よせばしら)を立て、筋違(すじかい)、貫(ぬき)を入れたものと、柱などのないものがある。現存する最古の築地としては、法隆寺に鎌倉中期のものと思われる西院(さいいん)大垣などがあり、国の重要文化財に指定されている。[吉田早苗]」

とある。
 古都も荒れ果てて、今では狐の棲む里になっている。