2020年3月12日木曜日

 今日も暖かかった。花桃やコブシの花が咲いている。染井吉野はやや遅れるとか。コブシ咲く春なのに。
 それでは「口まねや」の巻の続き。

 名残表。
 七十九句目。

   物の師匠となるはかしこき
 行は三人の道ことにして    宗因

 「行は」は「おこなへば」と読むようだ。「おこなひは」とも読めそうだが。
 中村注は『論語』「述而編」の、

 「子曰ハク、三人行フトキハ必ズ我ガ師有リ、其ノ善ナル者ヲ択ンデ之ニ従ヒ、不善ナル者ニハ之ヲ改ム」

を引用している。師と三人との付け合いはこれでわかる。
 ただ、意味としては三人それぞれの道を究め、お互いに師匠とするという意味であろう。
 八十句目。

   行は三人の道ことにして
 死罪流刑に又は閉門      宗因

 「閉門」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「江戸時代~明治初年の刑罰の一つ。武士や僧侶に科せられ,『公事方御定書』には,「門を閉し,窓をふさぐが,釘〆 (くぎじめ) にする必要はない」とあるだけで不明確であるが,同条但書およびこれより刑の軽い逼塞,遠慮の規定よりみて,出入りは昼夜とも禁止されていたことがわかる。ただし,病気のとき夜間に医師を呼び入れたり,火事のとき屋敷内の防火にあたったりすることはもちろん,焼失の危険ありと判断すれば退去して,その旨を届け出ればよいとされていた。明治政府も,『新律綱領』において,士族,官吏,僧徒の閏刑 (じゅんけい) の一つとしてこれを採用していたが,1873年4月閏刑五等はすべて禁錮と改称され,これに伴って消滅した。」

とある。死罪流刑に較べるとかなり軽い。
 まあ、主犯は死刑で、共犯者は流罪になり、ただの使い走りは閉門でくらいで済むというのは、いかにもありそうなことだ。
 八十一句目。

   死罪流刑に又は閉門
 いさかひは扱ひすとも心あれな 宗因

 喧嘩は仲裁に入っても罪に問われることがあるから注意せよ、ということ。
 よく知った間柄なら、お互いに不問にしようで済むこともあるが、赤の他人ならこれ幸いと罪を擦り付けられたりもする。
 八十二句目。

   いさかひは扱ひすとも心あれな
 女夫の人の身をおもふかな   宗因

 「女夫」は「めをと」と読む。
 夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、夫婦喧嘩の仲裁に部外者がしゃしゃり出ると、かえってこじれることになりかねない。
 「人の身」は「我が身」に対しての言葉だが、自分達だけの問題も他人が介入すると世間体だとかいろいろと気遣わなくてはならなくなる。そうなると、「あんたのせいで私がこう思われてしまったじゃないか」ということにもなる。
 「かな」は推量を含んだ緩やかな治定で、人に身を思うこともあるではないか、というニュアンスか。関西弁の「思うがな」に近い。
 八十三句目。

   女夫の人の身をおもふかな
 そだてぬる中にかはゆき真の子 宗因

 「かはゆき」には可哀相という意味もあるが、ここでは「可愛い」の意味だろう。
 継子苛めというのはいつの世でもあるもので、誰だってやはり自分の子供が可愛い。「ハリーポッター」シリーズのダーズリー夫妻にしてもそうだ。
 この場合、前句の「かな」は疑問の「かな」になる。
 八十四句目。

   そだてぬる中にかはゆき真の子
 うぐひすもりとなるほととぎす 宗因

 ホトトギスは鶯に托卵する。「うぐいすもり」は鶯に守りをさせるという意味だろう。
 鶯は他人の子をせっせと育て、真の子を捨ててしまうので、この場合は「かはゆき」は可哀相なという意味になる。

 盲より唖のかはゆき月見哉   去來

の「かはゆき」と同じ。

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