今朝は月の右上に木星と火星、左上に土星と、惑星が珍しく集まっていた。
染井吉野の方も一部では二分咲き三分咲きになっていた。暖かい一日だった。
名古屋では近くドライブスルー方式での検体採取を行うという。まあ、一部で試してみて、それで問題がなければ徐々に広めてゆくといいのではないかと思う。
取りあえず、軽症患者や無症状の感染者までもが病院に押しかけて医療崩壊を起すような事態さえなければ、COVIT-19の死亡率はそう高くない。
中国も途中から無症状の感染者をカウントしなくなったというが、今の日本に近いやり方に変えたのかもしれない。ただ、この方法は、潜在的な感染者に目が届かなくなるため、それが後々どうなるかという不安はある。
それでは「水音や」の巻の続き。
初裏。
七句目。
昼寝て遊ぶ盆の友達
小構えに家は木槿の取廻し 桃隣
小さな家は槿の垣根で囲われている。
昼間寝ていると、せっかくの槿も、起きた頃には萎んでいたりする。
八句目。
小構えに家は木槿の取廻し
銭一文に下駄をかる道 利牛
下駄は雨の日に履くことが多かった。急な雨で下駄を借りたか。前句は道の脇の景色とする。
九句目。
銭一文に下駄をかる道
菎蒻の色の黒きもめづらしく 沾蓬
当時の蒟蒻は生芋から作るため、芋の皮が混じって黒かった。今の黒蒟蒻は乾燥させた芋の粉で作るため本来は白いのだが、ヒジキなどを細かく刻んで入れて黒くしているという。
芋の粉で作る白蒟蒻が広まるのは江戸後期で、この頃は蒟蒻は黒いのが普通だったはずだが、そのなかでもおそらく安い蒟蒻は不純物が多く、より黒かったのだろう。
銭一文で下駄を借りるような人なら、蒟蒻にもそんなにお金をかけなかったに違いない。黒い蒟蒻でも愛づべきものだった。
十句目。
菎蒻の色の黒きもめづらしく
祭のすゑは殿の数鑓 曾良
「数鑓(かずやり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 下卒に持たせるため作られた揃いの槍。
※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)二「勢子(せこ)の者がさいたる剣・狩鉾(かりぼこ)・数鑓(カズヤリ)、手に当るを幸になげ付なげ付」
とある。
王子の槍祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「陰暦七月一三日(現在は八月一三日)、王子神社の祭礼に、同社別当の金輪寺で、太刀三振りを帯びた法師武者と、それに従って槍を持つ多くの法師が出て行なわれる拍板田楽(ささらでんがく)の称。当日、神前に長さ八寸(二四センチメートル)ばかりの竹の槍を奉納し、社内に他人の供えたものを請い受けて帰り、火災・盗賊よけのまじないとした。王子祭。」
とある。数鑓はこの拍板田楽のための槍か。
田楽といえば蒟蒻。祭で売られていたのであろう。
十一句目。
祭のすゑは殿の数鑓
見るほどの子供にことし疱瘡の跡 芭蕉
ネットの「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)」によると、寛文二年に長崎で乳幼児を中心に天然痘が大流行したという。芭蕉が伊賀の藤堂家に仕えるようになった年だが、その頃に噂を聞くこともあったのかもしれない。
疱瘡が流行した後には、祭に集まる子供達にも疱瘡(いも)の跡がある。
十二句目。
見るほどの子供にことし疱瘡の跡
古き簾にころ鮫をつる 湖風
ころ鮫(胡盧鮫)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① カスザメ科の海産魚。全長約二メートルに達する。体形は、胸びれが左右に広がり、サメとエイの中間形。体色は背部が青褐色で、黒点と白点が散在する。腹部は白い。カスザメと混同されるが、カスザメに比べて胸びれが丸みを帯び、背中線上に棘がない点で区別できる。東北地方以南、台湾までの水深一〇〇~三〇〇メートルの砂泥底に多い。肉はかまぼこの材料、皮は研磨用のやすりにされる。〔俳諧・毛吹草(1638)〕
② 魚「かすざめ(糟鮫)」の異名。」
とある。簾に吊ってあるのはやすりにするための皮だろうか。
疱瘡の跡に鮫肌の連想による付けであろう。
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